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坂の上の霧

2023 OCT 1 0:00:15 am by 西 牟呂雄

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は明治日本の勃興を正岡子規と秋山兄弟を軸に描いた名作である。
 秋山兄弟は二人とも華があるので、物語を一層引き立てたのだが、明治期は二度の対外戦争があったこともあり、同じように兄弟で戦った人材は多いはずだ。
 そう思って調べてみたらやはりいた。こちらは陸軍の田村3兄弟。

田村守衛

 上記坂の上の雲で、日露戦争の激戦である黒溝台の会戦の描写がある。数万の敵中に孤立する秋山好古の元に総司令部からただ一騎でやってきた参謀がいた。様子を尋ねる騎兵中佐に好古は「見てのとおり、無事だ」と答える。この一騎の中佐参謀は騎兵科で好古の後輩に当たる田村守衛中佐であった。
 この人は陸士(新)5期、陸大は首席で卒業した秀才で、大正時代に陸大校長となった陸軍少将(没後中将)なのだが、長兄は田村怡与造というやはり陸軍中将だ。

田村 怡与造

 怡与造は学制の整う前の私塾で学び、明治の学制施行後にいきなり小学校の校長となった経歴の持ち主で、その後に陸士(旧2期)に進んだ。更に普仏戦争によって軍制がフランス式からドイツ式に変わるタイミングでドイツに留学し、帰国後参謀本部にて『野外要務令』『兵站勤務令』の策定に多大な功績を残した。クラウゼヴィッツの『戦争論』の翻訳を旧知の森鴎外に勧めたのも怡与造である。
 日清戦争でははじめは大本営の兵站参謀、後に第一軍参謀副長として指導に当たった。切れ者として有名で実務能力も高かったため、出身地の山梨にちなんで『今信玄』と称されたことが『坂の上の雲』にも記述がある。ドイツ駐在武官を経て、いよいよロシアとの関係がヤバくなってくると参謀本部次長として作戦立案に勤しむが、あまりの激務に開戦前年に死去してしまった。
 怡与造が長男で守衛は確か四男と記憶するが、その間の3男沖之甫も陸士(旧10期)陸大(13期)を卒業し砲兵科を歩んでいる。日露戦争においては火力を充実させた第四軍の砲兵参謀として従軍。戦後は陸軍砲工学校長・中将に昇進した。
 田村家は武蔵七党をルーツに持つ家で、兄弟の父義事は神職をしながら養蚕に功績があった人。更には刀工・一徳斎助則として刀剣を鍛えたとある。多彩と言うか不思議な系譜の一族と言えよう。
 思うに勃興する明治とは地方の草莽に埋もれていた宝石のような人材が、ごくごく真面目に支えた国家であり、どの辺境にもこの田村家のような物語はあるであろう。

田村義富

 そしてその行きついたところはどこかと言えば、田村家にもオチがある。兄弟のなかで唯一実業の道に進んだ次男、濤二郎の息子、田村義富は伯父・叔父達の後を追うように幼年学校・陸士・陸大と軍エリートの道を進む。陸大は恩賜組という優秀な人材だった。
 このジェネレーションは当然のように先の大戦に巻きこまれる。真珠湾前の昭和13年には 北支那方面軍参謀として大陸に派遣され、開戦直前には大佐となって悪名高き関東軍の参謀であった。最後は終戦時に南方戦線第31軍参謀長の陸軍少将であり、任地グアムの激戦中に戦死する。グアムではその作戦能力と胆力で『カミソリ参謀』と称されていた。
 即ち、田村一族は近代日本の勃興と挫折を、対外戦争の始まりから終焉に軍人として足跡を残したことになる。
 司馬遼太郎は名作『坂の上の雲』で秋山兄弟とその時代を、坂の上に見える雲を目指して登って行ったことになぞらえたが、田村一族の目には坂の上に何が見えていたのだろう。確かにスタート時点では白き雲が輝いて見えたかもしれないが、登り切った時点で、そこには濃い霧に覆われていたに違いない。
 田村家は山梨県の一之宮から、2ジェネレーションで4人の陸軍中将を出した。一族のその後を知らないが、平和な戦後には子孫が経済界で活躍したことだろう。

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Categories:列伝

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