春夏秋冬不思議譚(春の桜に愕然とした日)
2013 OCT 6 13:13:47 pm by 西 牟呂雄
初めて桜を見たのはいつだったろう。私は下町の人間で、あのあたりの者が行くのは上野(ノガミと言っていた)か靖国神社だが、ウチは専ら靖国の方だった。朧気な記憶の中に夜桜を見に行ったのを覚えている。ただその時の印象は、今ほどライトアップされておらず、薄暗い闇の中でゴザをしいてウジャウジャと酒を飲む花見客が百鬼夜行的に見えた気味の悪さだけが残った。あれが最初の記憶とは桜に失礼な気もするが。
ところで、あの一斉に咲くソメイヨシノは江戸期に品種改良されて以来、全て接ぎ木で増えたもので、即ち全部クローンだそうだ。だから一斉に咲いて散るのだが、あれが桜でよかった。人間だったら見られたもんじゃない、同じ顔がずらりと並んでいるのだから。私としては一人でポツンと立っているような枝垂れ桜の方が好きで、あの地面に触れるくらいに伸びた枝の先まで可憐な花がついているのはいくら見ても飽きることがない。我が家の菩提寺はY県Y町にある西願寺というが、そこに見事な枝垂れ桜があり、毎年楽しみにしている。Y町には我が山荘『喜寿庵』があり、こっちには富士桜が一本、儚げな花をつける。花びらが小さくて、芝生の上にまき散らしたように落ちたところがきれいだ。これも桜に申し訳ないか。
それがある時、愕然とするのである。人が見て感動している桜と僕が愛でる桜は、どうも色が違うらしいことが解った。赤緑色弱!それも強度の部類だったのだ。どうも僕が愛でる桜とは、他の人の目には僕が見ている桃の花のような色に見えているらしいのだ。自分の色感が違うことは知っていた。例えて言えば信号機の青、私には白色の街路灯と区別がつかない。夜など突然黄色に変られるとあわてること暫し。しかし長年の習慣で、危険ということにはならない。街路灯と信号機の高さが違うことを目が覚えているので、アリャッとはなるがそれだけだ。それで良く免許が取れるな、と思われるだろうが、色神テストというのはそうパターンがあるわけでは無く、覚えられるのだ。コツは引っかけ問題と同じで、僕には『さ』と読めるのは『き』が正解で、『は』に見えるのは『ほ』だと丸暗記してしまうのだ。実は子供の時に絵を描いていて、大抵の子供が赤く塗る太陽を黄色く塗っていてひどく母親を驚かせた。母はそれから異常を感じたらしく、色神テストを買い込んで私に特訓をしたのだ。どうもその頃児童心理学で、太陽を赤く塗らない子供は親の愛情が足りない、というもっともらしい説があったようで、ここが母親の浅はかな所だが、そんなみっともないことはあり得ないから矯正するという挙に出た。どうもそういう所のある人らしく、妹は左利きを矯正された。我等兄妹の人格に悪影響を及ぼしたことは論を待たない、見れば解る。そのせいばかりではないが、自分はこう思うのに違うことを答えなけりゃならない、という刷り込みのせいで勉強という勉強が大嫌いになってしまった。まぁ人のせいにするな、の声が聞こえるが他にも色々あるのである。
その後普段は何も不自由なく暮らしていて、気にとめることもなかった。例えば小学校の時に私のノートを見て「おい、真っ赤じゃないか。」と言われる。赤いボールペンで書いていて、自分では黒だと思っていて不都合を感じない。二色を並べると分かるのだが、赤を強く感じないようだ。だが桜の場合はチト困った。「桜が真っ白だな。」と言ったときの友人の顔が忘れられない。まるで変態でも見るような目つきで顔をしかめていた。しかし考えて見ると、今見ている世界は桜にせよ、海にせよ、山にせよ僕だけの世界で、誰とも共有できないとも言える。孤独といえばそうなんだろうが、いずれにせよ僕がくたばったらこの世界も消えてしまう。いつか沖縄から札幌まで満開の桜を追いかけて日本中の桜の色を見ておきたい。
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Categories:春夏秋冬不思議譚 四季編
西室 建
10/7/2013 | Permalink
高校教師との進路相談点描「君な、この色弱だと理系をやっても医学部はダメ。化学とかにも行けないよ。」「その方面は興味ありません。」「そうじゃなくて学部から志望する研究室にいくのに選抜されるんだよ。成績によっては行きたくなくてもそこしかない、となりかねない。例えば物理がやりたいなどと言っても工業化学にいく、とか。」「数学ならいいですか?」「そりゃ構わんけど食えないぞ。教師にはもっと向いてない。」「それはその通りです。僕に教えられたら生徒も迷惑でしょうから。」「迷惑どころか何言ってるか解らんと思うよ、君の説明。」
思い出す高校三年の1学期末。僕はすでに心朽ちたのであります。