僕の中国事始め
2014 JUL 28 23:23:51 pm by 西 牟呂雄
Y2Kという言葉をご記憶か。西暦2000年に暦が変わると、それまでコンピューター上に入力されていたデータは西暦の下二桁(’99とか)だったので、年が変わった途端に’00’となった場合認識できなくなってシステムがダウンする、という心配を世界中がしていた。お上から「年が変わるときに飛行機で移動しているような旅行日程はできるだけ避けろ。」というお達しがあったくらいである。
既に日本のバブルは弾けて久しい時期だったが、90年代に中国進出した連中は結構稼いだ所も実はあった。僕達もこれでは先が無さそうだ、更に国内の需要家がどんどん移転し出していく中で、遅ればせながら大陸進出を検討しなくてはとなる。さて場所はどうするか、東莞や上海の周辺は既に出尽されていた。外資導入のモデルは大都市近郊の農地をザーッと取り上げ、もとい整地して開発する。道路・電気・水にホテルといったインフラを整備して、モデル的なレンタル工場をいくつか並べて呼び込むといったスタイルがスタート。しかし簡単な話であるが、人気が出て進出企業が増えてくるとそこは中国、後発組はふっかけられることが多い。つくづく身に染みたのだがアノ国(人々)は取れる所からは搾り取るのが当たり前なのだ。90年代の先発組にもヒアリングしたのだが、笑うしかない話は山程聞いた。単独独資で進出できなかった頃は行政と合弁させられたりして苦労する、大企業に多かったケースがひどかった。トップが中国熱に浮かされていて強い指示が下ってしまうが、現地のフロントでは日本で考えているより交渉はタフで、板ばさみになることが多いと聞いた。一番手っ取り早いのは、トップが乗り込んで『ここまで言ってもまとまらないなら仕方が無い。もう帰ります。』とやると、相手もそれなりに譲歩するパターンだった。田中・大平の日中国交回復などはそのノリだったことが窺える。しかしごく一般の民間ではそこまでやるトップはまずいない。僕も『これで駄目なら席を蹴って帰ってきていいですか。』とやったが、返事は『そこをうまくやるのがお前の仕事だ。』と凄まれた。何回か訪問し、場所については北京・上海・東莞・大連といったあたりを微妙に避けて長江デルタの外れあたりに目を付けておいた。
次はパートナー。僕がいまさら中国語をやっても手遅れだ。申し分ない日本語ができ、共産主義者でもなく、なおかつ反日感情が薄く、英語は分かる、と条件を挙げればキリがないが、驚いたことにグループ会社の片隅にそういう人材がいた。しかも女性だったので、ハニー・トラップの恐れも無い。早速条件を吊り上げてスカウトし、僕とコンビを組んだ。実は大変な人だったが。
その頃長年一緒にやっている台湾勢が大陸進出のために購入てした工業区の視察にも行って椿事を目撃することになる。「ここがこれからの研究拠点になります。」と指差した先には掘立小屋が立てられていて、子供の下着が干してある。更になにか土を耕して変なものを収穫している形跡があって、案内の台湾人は怒りに震えていた。こっちは笑いに震えたのだが。
文革で下放された世代は、約10年分の受験生が溜まってしまったが(日本に帰化して評論をしている石平さん等の世代)、コンビを組んだ女性はその環境の中で名門清華大学の工学部に合格。卒業後、日中友好の流れで〇〇国立大学の大学院に留学し、日本が気に入って就職までしてしまった。スパイじゃないかと思う程の美人だが独身で、工場の現場技術屋(アナログ系の電気技術者)で働くうちに、海外出張をする際の手続きの面倒さに嫌気がさして帰化してしまったという変わった人。出身は北京の盛り場、かの王府井(ワン・フー・チン)で東京で言えば銀座生まれなのだ。伝統的な北京の読書階級を老北京(ラォ・ベー・ジン)と言うが、まさにそれだ。都市戸籍と農民戸籍が分かれていることは日本でも常識化しているが、この人は田舎者のことをあからさまに『あの農民』という言い方をして徹底的にバカにしていた。共産党員でもなく謎めいた経歴だが、後にその理由が判明する。
いくつかの候補地を訪ね歩き『いやならこのまま帰る。』のノリを押し通して、ある外資系の貸しビルの二階に決めた。下は金属加工会社でガリガリ騒音がしていた。チャチなクリーン・ルームを設置してまがりなりにも体裁が整った。そして日本から設備を入れる段になってもう一苦労する。現地の行政がスンナリ通してくれないのだ(普通のことらしい)。東京サイドは『何故だ。』『今になっておかしいじゃないか。』と言うばかりで大した対策が来るわけじゃない、頼りにはならなかった。半藤一利氏の『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』に詳しいが、現場に来ようともしない。指示は何とかしろ、これだけ。どうも昔からそうなんですな。若い頃から参謀的な仕事をしている人にありがちな傾向だ。そこでパートナーの彼女が絶大な能力を発揮した。『中国人に任せなさい。』『女が話した方がいいですよ。』『接待しましょう。』と、ありとあらゆる手練手管で通してしまった。終いにはほぼ不可能と思われた使用機械の第三国移転という離れ業までやりとげ、僕達を唖然とさせた。これには僕も一役買っていて、とにかく英語で喋ってくださいと言われ、それなりに丁寧な英語で説明した。彼女は隣りで僕の英語の10倍位の言葉を捲し立てる。どうも僕の説明なんか聞いていないのだ。想像するに、まともにやってもダメに決まっているから適当に英語を訳しているフリをしながら『どうしてダメなのよ。あたしは北京の××とも知り合いだからそれに言いつけてやる。』ということをがなり立てていたのではないか(実際北京にそういった知り合いが多かった)。不思議なことにいろんなことがナントカはなった。僕達は『歩く中華思想』と呼んでいたが、気に入らない従業員のリストラなんかは得意中の得意。実に頼りになった。
トコトコ始めた工場だったが一年も経たずに、妙な値上げを要求されサッサと移転する。向こうがびっくりしていたが、引きずり込まれてなるものか、と気迫の拒否で同じ街の雑居ビルに移転。この時点では、勢いで進出したものの中小企業組を中心に聞くも涙語るも涙的な撤退の話が散見されていた。家賃の理不尽な値上げもその一例であるが、取り込まれてズブズブにむしられ帰るに帰れない、結果乗っ取られるような悲惨な話も無いではない。もっと借り手の方もタチの悪いのになると、本当に夜逃げをしてしまって家賃を踏み倒したケースも近くで起こった。
そして官民問わず、何かと言えばたかりたがる拝金主義。脱税目的で現金を香港のダミー会社に支払いを要求するやら、ある女実業家は家賃をまける代わりに自分の商社を通じてモノを購買しろ、と迫る。この人のご主人は地元政府の外資誘致局長であった。これからの話は面白すぎて誇張されているのだろうが、その局長は汚職で逮捕されかけたものの、一転政治取引をし全てゲロッてこんどは取り締まる側になったというオチがついている。
元々少数民族だった『元』でも『清』でもドップリ漬かっているうちに、なんとなくチャイナ化して漢字を使い、宦官にチヤホヤされているうちにおかしなことになって、最後は北に帰っていく。アメリカだって戦前から何かと手を突っ込んでみるが、結局儲けたという話はほとんど無い。グーグルの撤退が典型的だろう。散々アヘンを売りつけてトンズラした英国だけではないか、いい思いをしたのは。
かの女性パートナーは実は、満族(女真)出身だったことが分かった。すると彼女の振る舞いは全て腑に落ちる。共産党は現在政権を握っているがその前は国民党でその又前はあたし達が・・。とはさすがに口に出さなかったが、あの上から目線の謎は案外そのあたりの気質が出たのじゃないかと思ったものだった。
風光明媚な場所だったので気に入った工場だったが、建屋のオーナーは酔っ払っては運転しているベンツを道端で止めては道にゲロを戻すような人だった。あのオーナー、今どうしているかな。太田胃酸を分けてあげたよなぁ。
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
Categories:僕の〇〇時代