異説『死のう団事件』Ⅱ
2023 DEC 3 16:16:25 pm by 西 牟呂雄
一時は千人ほどに膨れ上がった教団だったが、騒ぎのためにその後は50人程にまで減ってしまった。だが、残ったメンバーは桜堂に強く心酔する若い者で、その結束は強くなった。無論丈太郎もその一人である。
そしの丈太郎達から、より強力に布教を推進するにはどうすればいいかという議論が沸き起こって来た。青年が中心になって桜堂の親衛隊ともいえるグループは今後の布教に邁進するというのである。そして例の『死のう!死のう!死のう!』を唱えているうちに頭に血が上り結盟書に血判を押した。
時はテロが横行する不穏な風が一部には流れていた。前年2月、血盟団事件で大蔵大臣井上準之助と三井の團琢磨が暗殺される。5月には海軍将校による5・15事件が起きていた。
血盟団事件の中心人物である井上日召はやはり日蓮宗の信者であった。日蓮宗系では創価学会が立ち上がり、後に不敬罪並びに治安維持法で特高警察から弾圧される。大本教の出口王仁三郎が二度目に投獄されるのもこのころの出来事である。
左派運動に対する締め付けも厳しくなっていたが、同時に宗教系右派への取り締まりも強化されていたのである。
特に労働者の多い京浜工業地帯が広がる神奈川県の特高警察、通称『鬼のカナトク』の取り組みは勇名をはせていた。
桜堂は当初青年党の動きをやや引き気味に見ていたが、丈太郎達に突き上げられるように『殉教千里行』を実行することになった。青年党員28人(内数名は女性)は白い羽織に黒袴、鉢巻きを締めるという異様ないで立ちで、まずは鶴岡八幡宮を目指して旅立つ。家族を捨て仕事も捨て生還も期さない、という覚悟だったが、計画は未熟そのものである。
異様な風袋は丈太郎の発案で、さらに太鼓を叩きながら『我が祖国にために、死のう!』をやるのだから、目立つを通り越して不気味なのだ。警察に通報された。
そして葉山のあたりで野宿をしようとしていたところを一網打尽にされたのだった。更に『カナトク』は過剰反応し、非常呼集をかけて数十か所にガサ入れをかけた。
鶴岡八幡宮で落ち合おうとしていた桜堂は翌日蒲田署に出頭したが、事態が呑み込めておらず、いつもの説法をして帰ってしまった。『カナトク』の思惑を図りかねていた。
カナトクはこの騒ぎを事件とし、読み筋をテロの企てと見立てた。既に起こってしまったテロ、特に血盟団事件のような凶悪なテロを未然に防いだという手柄を立てたい意思が働いたのである。
そして、当然のことながら何も知らない青年部の連中を残虐な拷問にかけた。それは文字にするのもはばかられるすさまじいもので、既に小林多喜二は特高の拷問により死に至っている。中でも数人いた女性信者へは性的嫌がらせも執拗に行われ、ある女子医専に通っていた娘とその妹は精神に異常をきたした。
しかし、本当に何も知らないのであるから白状しようもない。耐えかねた2~3人が、その通りです、と肯定して信仰を捨てただけで、桜堂ほか5人以外は釈放された。ただその5人の中に何故か丈太郎は入っていなかった。
焦ったカナトクはリークを始める。新聞各紙に煽動的な記事が出だす。『西園寺公暗殺を計画』『増上寺を焼き討か』『好色漢の盟主桜堂』このうち、実際に計画になりかけたのは増上寺焼き討ちであるが、事前に桜堂の知るところとなり中止させられていた。この一連のリーク記事で、マスコミは彼らのお題目から教団を『死のう団』と呼ぶようになった。
事件は不思議な方向に進んでいく。人数激減により壊滅されそうになった教団は、何とカナトクの課長以下十数人を人権蹂躙・不法監禁・暴行障害で横浜検事局に告訴したのである。告訴したのは盟主桜堂と精神錯乱に陥った女子医専生徒今井千代の名前もあった。丈太郎の入知恵だった。
丈太郎は相変わらず教団に留まっていたが、なぜかほかの信者のような生々しい拷問の跡がない。例の割腹のパフォーマンスのミミズ腫れが醜く盛り上がり、気味悪がった特高が早めに放り出したと言うのだが。
特高警察を告訴するなど前代未聞、これもまた耳目を集めることとなった。それも今度は新聞の論調が変わって来た。
『裸女に火の拷問 姉は狂い妹も青春空し』
見出しからしておどろおどろしい。
1930年代の世界大恐慌の煽りを食ってダメージを受けた日本経済は、さらにタイミングの悪かった金解禁により落ち込み、巷に失業者の溢れる世相と相まって民衆の怒りがマグマのようにせりあがって来ていた時期である。高橋是清のインフレ政策で多少持ち直してきたとはいえ、格差は今日の比ではない。民衆の怒りがテロの形を採ると、治安当局も苛烈な弾圧をエスカレートさせたのだった。
告訴を受けた横浜検事局の検事正が実態を知り『警察の恥』と言い、それを知った新聞記者も大いに憤慨していった。すると今度は告訴を取り下げろ、と怪しげな男が教団を恫喝する、特高の尾行がつく、会員への嫌がらせが続く。それでも屈しないと、世論におもねったのか、今度は懐柔しようとした。
ついに神奈川県警察部長の相川は、賠償金・慰謝料を負担し、日蓮会を今後は支援する、とまで申し入れてきた。『死のう団は何等国法に触れることなき熱烈なる革新的宗教団体なりと認む』という自筆文書を携えて、である。桜堂はこれに、県警から報道機関へ出された文書に署名・押印することを加えるよう要望した。ところがこの交渉に期間に告訴を受け調査していた地検の検事正は更迭され、告訴は事実上店晒しにされていたのである。
3月24日付けで作成された文書が取り交わされる日に、県警側が用意した席にはビールが持ち込まれいざ手打ち、となるはずだったが、丈太郎の叫び声がブチ壊した。
『筆跡が違ってるじゃないか!』
桜堂は青ざめた。相川部長は作り笑いを浮かべとりなそうとしたものの、座は凍りつきビールは無駄になった。
半年後に衝撃的な事態となる。取り調べに当たったカナトクの主任が鎌倉山中にて割腹自殺を遂げた。遺書には自分の退職金を、拷問を受けた女子医専の学生に渡すようしたためられていた。白い羽織に黒袴、教団が逮捕されたときの装束である。新聞各紙は拷問の責任を執ったものと報じた。実はこの主任はひそかに教団を訪ね、自身が上司からテロリストであるという報告を書かされ梯子を外された、おまけに責任を執って退職を勧告されている、と自白していた。
その頃から示談金は千円から二千円に上がったものの交渉は進まない。相川部長は内務省保安課長に栄転する。そして横浜地検は特高課員の不起訴を決める。桜堂はツテを辿って政友会の久山知之を頼り、帝国議会で特高の拷問につき質問させるに至った。
今度は警察サイドが態度を硬化させ、残ったわずかな信者を徹底した行動監視下に置く。背後に重大事件である2・26の暴発があったためである。治安当局は本気になったともいえる。このような草の根の運動が大きな力を持ってしまえばどうなるのか、計りかねるとともにともすれば血気に同情的な世論を気にしたためであろう。逼塞状況を打破するという大きなうねりが世相を暗くし、その後冷静な判断を失うのは後世の我々だから知りうるのであり、この時点では上も下も右も左も不安にかられたヒステリーだったのである。
ついに警視庁は全信者の動向を監視しはじめ、各自宅にガサ入れを行い会館には警官が常駐するようにエスカレートした。、
教団は壊滅寸前で桜堂の体調も悪化する中、「餓死殉教の行」に突入する。会館に一歩でも外部者が入れば即刻集団自決する、と籠城した。食料もなくわずかな飴玉と塩のみでひたすら『死のう、死のう、死のう』を唱え、万が一に備え8千人の致死量の青酸カリまで調達した異常さである。発案はまたしても丈太郎だった。
結局「餓死殉教の行」は遺体引き取り予定者の死亡により中断せざるを得なかった。
昭和12年2月某日。宮城前広場・国会議事堂正面・外務次官邸玄関脇・警視庁正面玄関ホール・内務省3階にてほぼ同時に『死のう、死のう、死のう』と叫びながらビラをまいた男が短刀で腹を掻き切り血まみれになった。
ただし、短刀には丈太郎が考案した鋏木の細工がしてあったため、全員絶命することはなかった。桜堂が死に至るのを禁じたからである。ところが最側近の丈太郎は日蓮会館には姿を見せなくなって、この割腹騒ぎには加わっていなかった。
その一月後には桜堂が結核をこじらせて死亡するともはや教団は体をなさなくなって消滅する。最後まで残った信者は後追い自殺を始めた。女性信者は一人が青酸カリを飲み、別の二人は猫いらずを飲んで自殺。警視庁で腹を切った男も青酸カリで死に、宮城前広場で切腹した男は東京湾横断の船から「死のう」と叫びながら海に飛び込んだ。
内務省特高課長の手島龍蔵は料亭の一室で一組の男女と対していた。
『原部(ばらべ)君、お疲れであった。首尾よくやってくれた』
『課長、恐れ入ります。ただ奴ら本当に何も企ててはいませんでした。後味は悪いですな』
『ウム。だがああいうのは一旦弾みがつくとどう転ぶかわからん。血盟団の連中だってまじめな帝大生だったし5・15の海軍や2・26の連中だって初めから要人暗殺を考えていた訳ではなかった』
『軍人さん達がやったのはそれを煽ったお偉いさんがいたんでしょう。奴らは民間もいいところでしたよ』
『原部君。だが君の煽りに乗りかかったことも事実だろう』
『それは・・・。私らこれからどうしたらいいのですか』
『心配するな。君には大陸で働いてもらう。満鉄調査部のポストを用意した』
『ほう。いよいよ満州工作ですか』
『狭い日本は飽きたろう。向こうでは甘粕さんの指示を仰げ』
『特高さんの次は憲兵さんですか。まあいいや。今後とも宜しく』
顔を上げると男は丈太郎。女は立花須磨子であった。
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