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アーサー・ウェイリーおよび井筒俊彦について

2024 JAN 21 8:08:04 am by 西 牟呂雄

 アーサー・ウェイリーは明治に生まれ昭和40年代まで存命だったユダヤ系英国人、源氏物語の英訳をした語学の天才である。パブリック・スクールの名門ラグビー校からケンブリッジに学んだエリートで、ケンブリッジは中退し大英博物館に就職する。そして日本語並びに中国語を独学で学び、源氏物語や老子を英訳した。
 驚くべきことに、当時の印刷技術からして英国に渡っていた源氏物語はおそらくは現代語訳でないどころか書体も毛筆草体だったであろうし、老子に至っては簡略されていない白文(ピリオドも何もない)かつ難解な旧字体だったろう。それを見事に翻訳できたとは余程の読み込みと並外れた想像力があったに違いない。しかも、日本語も中国語も喋れなかったというから凄い。八木アンテナの発明者として有名な八木秀次と交流して多少の発音は分かったらしいが流暢に喋るレベルにはなっていない。こういう人は語学というより文献解釈の天才とでも言うしかない。
 ケンブリッジ時代にギリシャ・ローマの古典からラテン語を学び十数か国語に通じていたそうだから、他言語の意味することを掬い取るコツのようなものを体得していたのではないか。
 ただ、謎があってドナルド・キーンはウェイリー訳の源氏物語で日本文学に目覚めたが、ウェイリーに初めて会った時はアイヌ語の講義していたという。本人の言にも『アイヌ語とモンゴル語はある程度知っており、ヘブライ語とシリア語も多少知っている』とあるがアイヌ語に文字はない。ローマ字表記されたものか、一部ロシア語のキリル文字に起こされたものから翻訳したのだろうか。
 光源氏はShining Prince に、帝はEmperorと訳し、扉には『王子様、ずいぶんお待ちしました』と眠れる森の美女のセリフをあしらった『The Tale of Genji』は、その優れた心理描写でベスト・セラーとなった。特に900年も前に書かれた長編小説ということに賞賛の声が上がった。ただベスト・セラーといっても初年度に7千部くらい、というのもウェイリーはとても格調高い翻訳を試みているので当時の労働者階級にはピンとこない、いわゆるオックスブリッジ出の読書階級といった教養人がマーケットだったろう。とすれば大変な数字ということだ。
 日本のことなどほとんど知らない英国人にフィットするように(本人も日本に行ったことはない)萩のことはライラックとするなど工夫を凝らしているらしい。筆者はその訳文を読んではいないが、他にも『あはれ』などは前後の文脈から sympathy、melancholy、sorrow、beautiful、facination と使い分けるというからもはや日本人より読みこなしているのである。
 そしてこういう天才は見ているだけで訳語が湧いてくるようだから、中国語は(しゃべれなくても)もっと簡単に対応できたのではないか。白楽天を訳し西遊記を訳し論語を訳し、その勢いで The Way and Its Power: A Study of the Tao Te Ching and its Place in Chinese Thought として老子を翻訳した。
 まったくの余談であるがビートルズのレディ・マドンナのB面であるジ・インナー・ライトの歌詞 『Without going out of your door / You can know all things on earth / Without looking out of your window / You can know the ways of heaven』はウェイりー訳の老子の一節『戸を出でずして、天下を知り、牖まどより闚うかがわずして、天道を見る』から採られた。当時ヒンドウーの行者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの瞑想の教えを受けたジョージ・ハリスンに、サンスクリット研究者のジュリアン・マスカロが薦めジョージがインド音楽風に曲をつけた作品である。

井筒俊彦

 この天才のことを書いていて、我が国にも同じようなウルトラ級の天才がいたことを思い出した。コーランを原典から翻訳した井筒俊彦。西脇順三郎にあこがれて慶應に学んだ、筆者の敬愛する池田弥三郎の親友である。伝説によれば一度に10ケ国語を学び全て数か月でマスターした(一説にはひと月に一ケ国語)。曰く、英独仏といったヨーロッパ語は言語的に簡単過ぎる、したがってそれらを難しいという人の気持ちが分からない、ロシア語がやや歯応えがあった、だそうだ。更にペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ギリシャ語とマスターし、ヘブライ語、ラテン語までこなし、全て自在に喋れたと言うから天才どころか大魔神である。ウェイリーとはまた違った意味での才能かもしれない。
 その大魔神は戦前、革命を嫌って来日していたタタール人と知り合ってアラビア語との運命的な邂逅をしイスラム研究にのめり込んだ。本人の言によると、アラビア語は文化語のうちで最も学習困難な言語なのだそうだ(ただ、始めて一月でコーランを読み通すことはできた)。
 この下りは大変興味深い。そのタタール人達もまたは大変なイスラム学者で、伝統に従って一人はコーランの全文、もう一人に至っては質問する全ての文献が頭に入っており、井筒の蔵書をみて『こんな本を持ち歩かなけりゃならんとは情けない学者だ』と笑ったとか。
 ただし井筒も、サンスクリット語の大家である辻直四郎(この人は一高で川端康成の同級生)に文献を借りに行き、辻はどうせ読めないだろうと思いつつ貸した。すると一月経って返しにきたので『ははあ、読めなかったな』と思い質問してみると全部暗記していた、という逸話がある。
 尚、井筒の知名度がイマイチなのは著作のほとんどが英文で書かれているため、日本国内よりも海外での評価の方が高く、研究活動も慶應義塾だけではなくロックフェラー財団フェローとしてイラン、エジプト、シリアおよびヨーロッパでの研究生活が長かったためである。

 どうもこういった天才達はどんどん古典の方にのめり込んで精神世界に行ってしまう傾向があるのではないか。ウェイリーは論語や老子道徳経を解釈して『中国古典哲学の解釈書”Three Ways of Thought in Ancient China”』に至り、井筒はイスラーム・東洋思想を通じて神秘主義哲学者となった。筆者はインチキな英語でビジネスをしながらキリル文字やヒンディー文字であるデーヴァナーガリーを眺めてみることはあってもロシア語・ヒンディー語・タミル語はさっぱりだ。つくづく才の無さを悲しむばかりである。

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Categories:言葉

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