Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 列伝

痛快 脱藩大名  Ⅱ

2019 NOV 2 0:00:30 am by 西室 建

 江戸に送られた後、忠崇は唐津藩預かりで謹慎の後、特赦を受けた。しかしながら脱藩による改易処分(大名の改易処分は歴史上最後)を受けたためにまさに無一文で全てを失った。
 原部建之助もまた江戸での周旋に失敗し、失意のうちに旧居に戻って無聊を囲っていると、近隣の百姓である石渡金四郎が通りがかりにいきなり土下座した。
『原部様』
『おう、そちは』
『へえ、請西の百姓、金四郎でございます』
『む、息災か。御維新以来我が藩は改易扱いで苦労をかけておる。その方等はどうじゃ』
『いや。それが、一つお聞きください』
『いかがした』
『へえ、実は、手前共の離れにお林様が寓居されておりまして』
『ほーう、・・・なに!殿がだと。バカなことをを申すな』
『それがまことにございます』
『東京の忠弘様の所におられるのではないのか』
『突然お見えになられて、開墾する、と言い出されたのでとにかく家の離れにご案内致しました。そこでお過ごしで』
『しかし何をしておいでだ。殿に百姓ができるのか』
『とても見ちゃいられませんや。お手伝いします、と申し上げても「その方等に迷惑をかけとうない」と取り合ってもらえません。そりゃ土台無理ですよ。何も採れないからあれじゃ冬は越せません』
『何と・・・。お助けしなければ』
『お助けって、まさか一緒になって百姓をやるのは是非お止めくださいよ。私等やりづらくってかないませんや。しかも百姓の合間に何のつもりか竹竿を振り回していらっしゃいますが、近所のガキ共が面白がって真似すんですよ。お林様はたいそうお喜びで、ウチのガキを筆頭に大勢集めて一緒にやりだしたんです。こないだなんざその竹の先に鎌を括りつけてました』

宝蔵院流槍

『それは宝蔵院流の槍だ。殿はその槍の達人だ』
『えっ、ありゃ武道ですか。益々冗談じゃない。そんなもんに夢中になられてうちのガキが戦に取られたらどうしてくれるんですか』
 慌てた原部は八方手を尽くして東京府の下級役人の職を探しだし、渋る忠崇をとにかく説得した。
 ところが明治8年に東京府権知事として楠本正隆が赴任して来る。楠本は大村藩士で、後に衆議院議長・男爵にまで上り詰める切れ者だ。当時は大久保利通の腹心であった。改革派として辣腕を振るうのだが、その強引さに反発し10等級も下の忠崇は楠本と衝突して辞職する。
 周りは慌てるが、忠崇は意気軒昂であり「これからは商(あきない)も分からなければ」と何故か函館に渡り、仲栄助商店で番頭となってみせた。律儀に務めるが、仲商店は破産、忠崇も再び一文無しになる。
 しばらく神奈川県座間で水上山龍源寺に住み込んだ後、次は大坂において西区の書記に奉職した。
 このドタバタの間、華族制度が施行され旧大名は尊王・佐幕の別なくことごとく爵位を与えられる。旧勢力の懐柔が目的で、武士を潰す際の数々の内乱を二度と起こさないための方策だった。
 ところが、維新のドン詰まりの脱藩で、新政府によって改易された林家は全国でただ一藩爵位が与えられなかった。林家そのものは士族として甥に当たる忠弘が継いでいた。
 忠崇は転々としながらも嘆くでなく、後悔の念を表すでもなく、慎ましくはあるがその時その時の境遇において花鳥風月を楽しみつつ暮らした。

 明治26年にもなって原部等の奔走・嘆願で、林家当主の忠弘は華族になる。そして忠崇もまた復籍し、宮内省東宮職庶務課に勤めたり日光東照宮の神職となったりして昭和16年まで生きた。
 死に当たって辞世は、と尋ねられると「明治元年にやっている」とだけ答えた。それは仙台で降伏したときのものらしい。
『真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ』
 切腹の覚悟を持っての辞世であろう。
 墓所は港区愛宕の青松寺だが、実はこのお寺は禅宗の名刹で、忠臣蔵の赤穂浅野家の菩提寺でもある。世間を憚って浅野家の墓所は現在でも空きにされている。赤穂浪士は初め青松寺に来たが、難を怖れた寺が入れなかったため泉岳寺に行ったのが実態なのだった。
 その浅野本家筋にあたる旧広島藩主・浅野長勲が昭和12年に没したが、それにより忠崇が元大名のただ一人の生き残りとなった。
 当時の新聞は最後の大名として幾つかのインタヴュー記事を載せた。本人の言葉が残っている。
「いや浮世は夢の様なものです。私共若気の至りでやつた事も今考へて見ると夢です」
 若き日の前代未聞の藩主の脱藩についても。
「武士道、武士道と言って鍛へられた私です。そして300年俸禄を食(は)んでいる。どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった。徳川には親藩・譜代もかなりある。私が蹶起(けっき)すれば応ずる者があると思ったのが私の間違いの元です。世の中を知らなかったのです」
 志叶わず敗北したこと。
「私は私の考えで行動したいと思い、そして降参しました。降参すれば斬罪になると言ふ事は覚悟して居りましたが、自殺する気にはなれませんでした。自殺すれば誰も私の心事を弁解して呉れる人はないと覚悟して、泰然として東京に送られたのであります」
 赤心誰ぞ知るや。新体制はかくの如く清々しい武士を役立てることは出来なかったが、しかし仕掛けた側も同じように多くの血が流れなければ革命はできるものではないのだ。
 令和の平和な時代に、内なる錬磨が必要とされる所以である。

おしまい

痛快 脱藩大名  Ⅰ

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痛快 脱藩大名  Ⅰ

2019 OCT 31 23:23:56 pm by 西室 建

 房総半島の上総の国は、ちょうど江戸湾を括るように対岸の三浦と富津岬が太平洋の防波堤となり、波穏やかな土地であった。全域に渡って浅い海が隆起した場所であるため高く峻険な山はないが、山間は濃い緑の森林が深々と横たわっている。平野部もそう広々としてはおらず、江戸期を通じて旗本の領地がまばらに広がって大藩は置かれていない。
 この海峡を渡ったのは日本武尊が著名である。中央に従わなかった豪族の阿久留王(あくるおう、悪路王とも)が成敗され、現代でもその塚が祭られている。浦賀水道(走水の海)の海が荒れた際に弟橘媛(オトタチバナヒメ)が入水して鎮めると、日本武尊はショックの余り何日も立ち去れなかったので『君去らず』が『木更津』の語源とされる。隣りの地名は『君津』である。某製鉄会社がかの地に進出した際、地元全体に巨額の固定資産税が行き渡る様にと行政の合併が検討されたが、候補に挙がった地名は『君更津(きみさらづ)』だった。
 他にも、出だしでコケた源頼朝が真鶴から海路で落ち延びて来たが、上陸したのはもう少し南の鋸南町竜島である。
 江戸中期に三河譜代の旗本、林忠英が11代将軍徳川家斉の覚え目出度く加増され1万石の請西藩主となり、一文字大名と呼ばれた。
 一文字大名という呼び名は、三河時代の先祖の功により年頭の賀宴において将軍から一番に盃を受けることに由来する。
 その三代目林忠崇は幕末の荒波をモロに被る運命であった。
 倒幕の官軍が上京して来ると、当然藩論は真っ二つに割れた。三河以来の将軍家に忠誠を誓って戦おう、いや既に将軍は蟄居謹慎中であり、これを騒がすのはいかがなものか、領民を巻き込んでの戦ともなれば混乱は必定、ここは自重すべし、万が一の際はお家取り潰し・・・・。
 忠崇は長身で眉目秀麗の20才。宝蔵院流槍術を良くする英邁な文武両道の若者は迷いに迷っていた。
 江戸城の無血開城に行き場を失った主戦派の遊撃隊が近隣の大名に助力嘆願にやって来た。彰義隊が上野で壊滅する直前である。
 藩主に対座したのは、御徒町の練武館で”伊庭の小天狗”の異名を取る心形刀流の達人、伊庭八郎であった。
『殿。この難局にあたり天下をみすみすと薩長に席巻されたとあれば、武士の一分は立ちましょうや。恭順の意を示された上様に領地召し上げは何たる無礼。一文字大名の殿が誠を尽くさず何の面目が立ちましょうや』
 八郎の火を吹くような弁舌と射るような視線に若き藩主は奮い立ったものの、その後の家臣団との協議は一層揉めた。
 主戦・恭順双方譲らず。領民の安堵には人一倍気遣ってきた忠崇に腹を決めさせたのは次席家老である原部建之介(ばらべけんのすけ)の諫言だった。
『恐れながら、成程忠義を尽くすのは武士の本懐。我等命を惜しむものではありませぬ。さすれども城を持たない我が藩は真武根陣屋(まふねじんや)で敵を迎え撃つは短慮至極。みすみす官軍に蹂躙される民百姓は迷惑千万』
 古株の建之助には何かと頭が上がらない。しかし原部の話は常に長いのだ。おまけに飲み込みが悪くオッチョコチョイでもある。
 忠崇は静かに目を閉じて聞いているうちに、カッと刮目して言った。今でいう切れたのだ

『のう建之助。儂が藩主であるから戦えぬと申すか』
『滅相もない。いざとなれば無論お伴致す所存にて』
『・・・・しからば・・・・余が自ら脱藩いたす
『それはまことに・・・・はぁっ?今何と申されました』
『脱藩いたす』
 家臣団は言葉を失った。かろうじて建之助が絞り出した。
『と、殿。脱藩は天下の御法度。お家はどう』
『もうよい。脱藩するのは余一人なのだ。そこもと等、おのおの好きに致せ』
 言い放つとサッサと奥に引っ込んでしまった。
 大騒ぎになった。
『原部様、これは如何なることに』
『ワシに解る訳がない。もうこうなったらメチャクチャだ。みな勝手に致せ』
 翌日、武装した忠崇が下僕を一人連れて陣屋を出ようとすると、異様な光景に目を見張った。
 原部以下藩士70名、足軽人足100名が出陣準備をして待っていた。
『殿、お伴致しますゆえ御下知を』
『建之助、このバカ者。こんな大勢の一斉脱藩があるかぁ!』
『はて、確か好きに致せと申されましたが』
『あれは残ってまつりごとに励め、という意味じゃ』
『今更二言はありますまい。好きに致しております』
 軍資金5千両、洋式訓練のライフル400丁、二門の大砲まで引きずっていた。更には「お林様」と呼び忠崇を慕った領民がこぞって沿道で土下座して送る。忠崇は高揚し、勢い余って陣屋に火まで放ち出陣した。
 遊撃隊と合流した一行は江戸を目指さず、館山から海路にて真鶴に上陸した。ちょうど古の源頼朝の逆ルートである。
 官軍を追い詰めようと伊豆韮山で戦端を開き、彰義隊の上野戦争の折には援軍を押さえようと箱根の関所を占拠した。
 ところが突如、気脈を通じていたはずの小田原藩が寝返り敗走する破目になってしまった。
 この戦闘の際に伊庭八郎は左手首を切られた。これより隻腕となるが、得意技は精気に満ちた『突き』だったために戦闘能力が落ちることはない。
 伊庭はその後函館の五稜郭まで戦うのだが、北上中の船中において医師より失った手首の先端の骨が飛び出してくる恐れを診療されると、有無を言わずに肘から先を自ら切り落とした。
 関東における戦いに見切りを付けた忠崇も幕府海軍とともに北上した。
 ところで新政府としては藩主自らの脱藩を重く見て、廃藩置県前の最後の改易処分とし、これが維新後の困窮の原因となる。

 小名浜に上陸した遊撃隊並びに林忠崇の一行は、磐木・平、会津、米沢を経て仙台入りし、伊達藩と共に新政府軍を迎え撃つ準備にとりかかった。
 伊達藩は、乗り込んできた官軍奥羽鎮撫総督府下参謀という長い肩書きの世良修蔵(長州藩士)を暗殺した後、奥羽列藩同盟を結成して戦意はすこぶる旺盛である。世良はこういった革命時に権力を握ると必ず現れる一種のクズで、人間の業の深さはかくも醜いのかという所業により天誅を下されたのである。
 慌しく合議がなされるが、その席では見かけない黒装束の部隊が忠崇の宿舎にしている旅籠の周りに朝帰りしては解散する。屯しているのかと思うと直ぐに姿を消してしまい、誰が何をしているのか忠崇は訝った。
『建之介。あの黒装束は何者ぞ』
 と聞きにやった。方々聞き込んで戻った原部は言上した。
『どうやらあの者達は武士ではなく、無頼の徒でござる。烏(カラス)組と称して暴れ廻っておるとか』
『ほう、そのような者達に戦ができるのか』
『はっ、それが夜討ち専門で、大層な武功を挙げているようござります。率いているのは仙台藩士の細谷十太夫』
『成程。人は使いようだな』
『こんな歌まではやっております。「細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」と』
『十六ささげ、とは何じゃ』
『棚倉藩の誠心隊のことでござる』
 事実、この黒装束に一本刀の烏組は夜襲ばかりをかけ続け、散々官軍を悩ませた。ゲリラ部隊だから敵地に留まらず、ヒット・アンド・アウェイに徹したため、単純な勝敗の判定は下しにくいものの、全て成功させている。
 しかしながら、正規軍の昼間の戦闘は銃の性能の差も大きく、奥羽列藩同盟の戦況は利あらず。次々と降伏していった。
 そこに徳川家存続の沙汰が下り、伊達藩まで恭順の意を示すに至って忠崇も覚悟を決めた。転戦三月、原部等の表情にははっきりと疲れが見て取れた。

つづく

痛快 脱藩大名  Ⅱ

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私家版 日本カン違いセレクション

2019 JUL 23 0:00:10 am by 西室 建

 さんざん日本史上の人物をブログ・ネタにして思いつきを書き連ねているが、好き嫌いは別として、自分を大きくカン違いしている人がおり、そして本人が最後まで自覚できなかった人、というのが見られる。
 この機会に残しておきたくなったので、以下10人を挙げてみよう。

源義経
 この人は兄貴を怒らせて悲劇的な終わり方をした。そのため人気は高く『判官贔屓』なる言葉まで生み出した。とにかく戦闘には強かったようだ。
 しかし、一言でいって『田舎者』だったのだろう。
 相手が悪いと言えばそうなんだが、何しろ平家から木曽義仲から次々と手玉に取った大天狗、後白河法皇にコロッとやられて頼朝の反感を買う。
 法皇の曲者ぶりは論を待たないが、おそらく京女の洗練された手練手管に溶けまくったのに違いない。有名なのは静御前だが、それだけじゃないはずだ。京女というのは(実際の知り合いはいないが)相当な根性があるので、こんなクソ田舎モンが転ぶのも無理はない。カン違いだよなー。
 兄貴の不興を買った後、少人数で落ちのびていくのは人望そのものが無かったのではないか。転がり込まれた藤原秀衡・泰衡はさぞ困ったことだろう。

後醍醐天皇
 一種の誇大妄想だったと思われる。
 加えて初っ端に鎌倉が不甲斐なく負けたのが拍車をかけた。
 帝にとっては武士なぞ犬コロ程度に見えていた。
 大体あの冠からジャラジャラ下がっている飾りはナンだろう。筆者はあのような物を被っている天皇を他に知らない。
 隠岐の島から脱出しての復活はいかなる魔力を使ったのか知らないが、名和長年とか楠正成等は、会ったこともないのに天皇に操られているのは何とも不思議。
 しかし、帝の頭は平安時代のそのまた前まで飛んでいて手が付けられなかったものと推察する。みんな持て余したせいか、いい側近が見当たらない。楠正成や北畠親房らは実際の政権奪取戦略(個別戦術ではない)は描けていない。
 吉野に行ってまで『天皇』でありつづけるところはいい根性であるが、時流を見誤ったことはその後を見れば明らか。

上杉謙信
 結局ナニがしたかったのか不明。生涯ほぼ無敗だったにもかかわらず、領土を増やすでもない。
 毘沙門天の化身だと思い込むくらいだから、尋常な神経じゃない。
 謙信=女性説は、作家の矢切止夫が最初だと言われているが、あのエキセン振りはひょっとすればと思わせるものがある。
 一方で領国経営の方はどうだったのか。佐渡の西見川や鶴子で金・銀が取れたというが、江戸期の佐渡金山ほどではなかった。
 上杉憲正に泣きつかれては関東にしばしば出兵して暴れまわるが、農繁期には越後に帰ってしまう。当時の兵站の考え方でいくと雪深い時期は関東を食い荒らしていたのじゃなかろうか。その後の領土欲の無さは異常だ。特にわざわざ小田原まで行ったのは全く意味不明。武田信玄に塩を送ったのも作り話らしい。
 後世では″義”のためだったとされたが、カン違いだったとしか思えない。

明智光秀
 来年の大河ドラマではその一生をつづるのだが、あの本能寺をどう描くのか楽しみだ。諸説いまだに定まらないところが『史実を消された』感にあふれている、秀吉に。
 しかし、あの決断の時に『天下はワシの物』と思わなかったはずがないが、後処理のマズさはマヌケそのもの。秀吉やイエズス会黒幕説、朝廷糸引き説、更には光秀=天海僧正説等が取りざたされる所以である。
 白紙で考えてみると、細川あたりを巻き込んで磐石の構えを作ってからでないと成功は覚束ない。
 消極的ながらも一応様子見だった筒井順慶をどうして事前に引き込まなかったのか。
 松永久秀・荒木村重と信長に叛旗を翻した人物は多数存在したし、何よりも反信長の勢力は全国にいた。
 また、秀吉配下のそれなりの人物、或いは大勢いる信長の息子のうちの誰かを寝返らせておくべきだと考えるが、よほどのカン違いなのだろうか。

世良修三
 官軍の威光をバックに行く先々で狼藉を働いた維新史上最低最悪カン違い男。人格下劣な急進派が権力を握ると必ずこういうのが現れる。ジャコバン党でもここまでひどくはないだろう。
 醜悪なのは酒に女。このあたりが何とも情けない。異常かもしれない。おまけに当時は平気で人を殺す。
 幕末のドサクサで優秀なのが殺されてしまい、こんなカスばかりが残ったゆえにのさばった例は多い。コイツは仙台藩士に切られたからこれで済んだが、生き残った酷いのは枚挙に暇がない。

桐野利明
 最終階級は陸軍少将だった。実は維新当時の階級編成は陸軍大将の次は少将で、しかも陸軍大将は西郷隆盛ただ一人だけでスタートした。そこで自分はNO2であるという錯覚に落ちたフシがある。
 余計な事をしなければ胸のすくような薩摩隼人だったはずだが、政府高官になるだけの器量は持ち合わせていなかった。
 結局西郷が下野してしまうと何をやっていいか分からなくなって、鹿児島について行き、挙句の果てに先頭に立って西南戦争をおっぱじめる。することがなくなってもう一暴れ、のノリだ。ここまでいくとカン違いを通り越して戦争マニア。

帝国海軍
 名将綺羅星のごとくと言われる誉れ高いエリート達だが、オール海軍となると筆者の点は少し辛い。中にはヤバいのもいた。
 無論、三国同盟反対の見識は高いのだが、最後の最後で山本長官は『2年は暴れてみせます』と言ってしまった。諸藩の事情から無理もない、気の毒ではあるが、この名将にしてカン違いをしたのは何だろうか。ドイツの快進撃もあっただろう。
 真珠湾が際どかったのは第二次攻撃を発令しなかったため。ミッドウェーではモロさが露呈する。
 ゼロ戦の美しさは芸術的ですらあり、大和の圧倒的な迫力は冷静な判断力を奪う。
 いずれも高性能・高機能の最強戦闘機ならびに不沈艦なのだが、これが精一杯とも言える。
 アメリカを良く知る山本五十六でさえ、これらを見て『行ける』となってしまいあの発言になったのだろうか。

A日新聞
 GHQの御指導御鞭撻をモロに受けた後、薬が効きすぎてバカの一つ覚えみたいに今に至るまで日本を貶めることに夢中のカン違い継続中。
 ある時期まではそれなりのバランサーの役割を果たしたものの、時代が変わったのに気づかない振りをしているのか。
 先日もハンセン病被害の判決に政府が控訴する、の誤報を打ってしまった。どんな事件でも、文章の雛形ができていて『~が許しがたいのは当然である。だがしかし』と繋いで何でもかんでも安倍総理のせいにして批判する記事に仕上がるようになっているのだろう。
 そういいつつも、筆者は何年もA新聞の実物を読んでいない。ネットでまたやった、と気付くだけである。

小泉J一郎
 日本史にのこるほどの勘違いかどうか迷うところだが、この際入れざるを得ないのは、あの田中真紀子を外務大臣にしたからだ。
 そもそもYKKの時代から、Yももう一人のKも周りの見えないトンチンカンなことをやっていた。
 本来はこの人も消えたはずなのだが、対立候補の橋本龍太郎がイマイチであれよあれよと総理になった。それからは一発芸とブッシュとの関係で何とかなったのだ。オヤジがあんなに日本嫌いだったのに息子ブッシュはそうでもなかったのがポイントではないか。私自身は郵政民営化と靖国参拝は高く評価している。
 辞めてからの反原発舞い上がりなんかはカン違いの後遺症。 

旧民〇党
 これはカン違い業界のオール・スターの感がある。
 まず最初に総理になったハト。未だにみっともない言説をまきちらし、広い世界でわずかに受け入れてくれるところへ行っては土下座をくりかえす。
 ちなみにコイツの女癖も相当だが、この家系はオヤジも息子もその道はすごい。
 お次はあのカン。実際に政策立案能力はゼロだった上に、あの大危機で全く冷静さを欠いた。某JR駅前で喋っているのを聞いたことがあったが、90%が東電の悪口だった。まさにカン違い。
 これらの系譜を引く連中、期待する気にもなれない輩ばかり。また選挙で見るのもうるさい。
 そしてこいつ等を操ったつもりで墓穴を掘った〇沢。政治的には全く死に体になったが、かつての竹下派七奉行の他が全滅した現在となっては頑張った方に入る。
 筆者はこの人は本当に保守主義者なのか判断に苦しむ。
 「希望の党」で大騒ぎしたあとあっさり足抜けした小〇某知事はその点ヤバいとなった時のカンの働きはすごいが、それだけでもねぇ。

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わかったぞ 白隠禅師

2017 MAY 10 19:19:04 pm by 西室 建

 達磨大師の禅画で有名な臨済宗の高僧、白隠慧鶴(はくいん えかく)禅師は江戸時代・五代将軍の頃の名僧だ。それまでの禅の考案を体系化させて臨済宗の理論的流れを組み立てた。
 大変頭のいい人だったようで出家して諸国を行脚するが、誰と論争しても負けなかったらしい。しまいには『まあ、この五百年というもの我ほどの秀才はおるまい』と自信過剰になって慢心する。
 なにしろ『鐘の音を開いて悟りを開いた』、托鉢(たくはつ)に出て婆さんに竹ぼうきで追い払われて悟る、コオロギの音を聞いてまた悟る。生涯に三六回の悟りを開いたと言うほどで、ここまでくると『悟りオタク』だが、論理的思考の確かな人だったのだろう。
 ところが正受老人こと道鏡慧端という名僧の噂を聞き、信州にこれを訪ねるとボコボコにされてしまう。なにするものぞとまくしたてたところ「這󠄀箇(しゃこ)は是汝の学得底(それはおまえがまなんだもの)。那箇(なこ)か是見性底(なにがお前の本質か)。」とやり込められて絶句する。それからというもの廊下から蹴落されたりしながら修行を積む。増長を叩き潰された。
 道鏡慧端はこれまた大変な人で、一説によれば真田の長男信之の落とし種とされる。禅僧に「自分の心の中に観音を見つけよ」と告げられてわずか16歳で悟りを得たとか。滅多に喋らなかった人で「終日咳喇不聞」とまで弟子に言われていた。そこへ自信満々の若造が乗り込んだのだからたまらない。
 白隠はハタと覚醒し、今まで本を読んで得た知識はいらんとばかりに蔵書を全部焼いたというから凄まじいというか勿体無いというか。
 白隠はその後修行のやり過ぎで禅病となってしまう。禅病とは座禅を組んで瞑想していると頭痛がしたり手足が冷たくなり具合が悪くなる。或いは今でいう鬱病のようになることを指していると思われる。面壁九年、禅宗の創始者である達磨大師のように手足が萎えるのかもしれない。
 ここから話は一気に怪しげになるが、京都洛外の山中に暮らす白幽子という仙人を訪ね禅病治療の「内観の秘法」を伝授されたと記している。
 白幽子は年齢200歳以上ということはともかく、墓碑も残っているのだが。
 白隠禅師がその秘法で修行僧を治療したのは事実で、一種の気功である。ただしそれを書き残したのは会ったとされる時から40年も経った後だ。髪は膝に届くほど伸び『中庸』『老子』『金剛般若経』の三冊を置いて端坐していたと。『中庸』『老子』『金剛経』を選んであったのが絶妙で、儒教・道教・仏教からそれぞれ最高の経典を持って来ている。”三冊”とかいうあたり実に怪しい。

 わかったぞ!若き頃に、オレほど頭のいいやつはいないと思うような人だ。いくら徳を積んだってチャメッ気まで無くなるはずはない。自分の考えた治療法に箔をつけるためにテキトーな仙人をでっち上げたに違いない。頭のいい人の考えそうなことだ。
(「内観の秘法」が書かれた更に50年後に『近世畸人伝』という書物が出され、白幽子自筆の文章の写しと墓碑を元に実在を記しているが案外白隠禅師自身の作り物じゃないか)

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

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怪僧列伝 カトリック編

2017 MAR 2 20:20:32 pm by 西室 建

 以前日本史に現れた怪僧を『列伝』にしてみたが、キリスト教にもバケモノじみた人物がいる(トム市原さんに指摘された)。ちょっとやってみたくなったのでサワリを書いた。

文化を破壊したドミニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラ
 フィレンツェでの情熱的な説教が次第に人を呼ぶ。勢いがついてルネサンス全盛時代を迎えたロレンツォ・ディ・メディチの独裁政治を厳しく批判しだしておかしくなる。極々真面目な人だったのだろうが、こういうのが危ない。
 堕落した享楽生活に怒ってフィレンツエの厄災を予言したところ、本当にフランス軍が攻め込んできてイタリア戦争になってしまう。
 その際に市民の代表に選ばれてから更に狂って神政政治を始める。贅沢を戒め、堕落の元凶として絵画や楽器を「虚飾の焚刑」として焼き払う。かの「ヴィーナスの誕生」の作者ボッティチェッリはビビッて華美な絵を描くのを止めている。
 しかし享楽的なイタリア人がそんなに我慢できるはずもなく、やりすぎ感から後述するデタラメ教皇アレクサンデル6世に破門される。
 そうなると手のひら返しでサン・マルコ修道院に押し寄せた市民はサヴォナローラを有罪・焚刑にしてしまった。頭に血が上らなければ結構マトモな人だったかもしれない。

同時代で最も堕落した教皇アレクサンドル6世
 そのサヴォナローラを破門したのが、本名ロドリゴ・ボルジア。スペイン人だ。名前の通りボルジア家の人である。
 当時のスペインはイスラム教やユダヤ教から改宗した人々に対する異端尋問が盛んで、王族が先頭に立ってやった。しかしひどいもので、実態は財産の没収目当て。
 しばしば異端でも何でもないと人を告発したり報奨金目当てが多く、裕福な改宗ユダヤ教徒の告発は王室が行っていた。
 これに尽力したのがスペイン枢機卿だったロドリゴ・ボルジアで、その後奸計と買収で教皇の座につく。ちなみに異端尋問所長官のトマス・デ・トルケマダは告発と拷問で2千人とも8千人ともいわれる人々を処刑した。
 その男アレクサンドル6世は教皇になった時点で数人の子供を愛人に生ませており、初めはおとなしくしていたが次第に馬脚を現す。
 「マキャベリスト」の塊のような長男チェーザレ・ボルジアが右腕となって陰謀・毒殺・戦闘を繰り返し教皇の地位を支える。こいつは宿敵フランスとも同盟するのである(ご存知だろうがマキャベリの君主論はチェーザレをモデルに書かれた)。
 まぁ当時の聖職者は多かれ少なかれ堕落しきっていたが、ローマでは強盗殺人が横行し貴族も一緒になって町をメチャクチャにしていた。教皇自らダンスや宴会に浸りきって、更にロドリゴ・チェーザレ親子で美貌の娘ルクレチアと近親相姦を繰り返した挙句に政略結婚をさせる。
 この因果な二人はほぼ同時にマラリアにかかりあっけなく死亡するが、当時から毒殺の噂があった。

出ましたラスプーチン
 シベリアの農夫の子として満足な教育も受けずに育ったが、突然神がかりになって自分で熱心に勉強したようだ。カトリック修行僧として良いかどうか迷う所だが、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたことは確かだ。
 僕はこの辺りの一種”一生懸命さ”が好きで、気持ちは純粋だったと確信している。
 そして不思議な力を身に着ける。今で言えばヒーリングとかその手の超能力、気功の達人と言ったところだろう。
 サンクトペテルブルグで人々の病気を治したりして一気に名声があがり、そこから先はご案内の通り。
 ただ、シベリアの寒村での暮らしぶりは生涯抜けなかったようで、想像するに風呂なぞ入らず手づかみで食べ強い訛りで喋ったに違いない。しかしその能力で多くの女性信者に囲まれ、性的放埓さは直しようもない。
 誤解を招くと申し訳ないがこの手の気質は一部のロシア人に共通してあって、あのエリツィンも酔っ払うとウラルの田舎を思い出すらしく太目のオバサンに抱きつくようなことをしていた。

この視線

 コンスタンティノープル、パトモス島、ロードス島、キプロス、聖墳墓教会と巡礼の旅に出ているが、正確な教義の東方正教会の信仰だったのか。
 ニコライ二世の信頼も厚く揺るぎない。
 宮廷に巻き上がる嫉妬と憎悪の眼差し。
 帰省した時の暗殺未遂。
 第一次世界大戦の大混乱。
 無教養なラスプーチンに複雑な国際関係や混乱する内政への適切な指導など望むべくもない。しかしどうしてもそういったヒトに頼りたくなるのは、今日でも隣の国で女大統領がアヤシげな友達に寄り添った事を見ても有り得るだろう、ましてや100年前だ。
 彼は戦争には反対したせいもあってドイツの回し者と言われる。
 金銭にははなはだ無頓着であった。使い方も贅沢も知らなかったのではないかとも思う。入った金は皆やってしまったりレストランで支払ったりして残さない。残す、とう感覚がわからないのだ。
 そして暗殺。
 これが驚異的なことに青酸カリ入りの紅茶と食事を食べても全く効かない。銃弾を3発喰っても死ななかった。なにがしかの驚異的能力があったことは確かだったと思われる。
 最後は額を撃ち抜かれ凍った川に投げ込まれたが、その時点まで生きていたという伝説が残った。
 僕はラスプーチンがそんなに悪人だったとどうしても思えない。余計な能力が身に付いた為に結果として悪評のみ残り暗殺された気の毒な田舎の念仏オヤジに見えてしかたがない。

怪僧列伝戦国・江戸編(今月のテーマ 列伝)

怪僧列伝メチャクチャ編(今月のテーマ 列伝)


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島津征伐

2017 FEB 27 19:19:27 pm by 西室 建

 総勢20万ともいわれる大軍勢を率いて九州に上陸した秀吉軍は、精強を持って九州統一の意気盛んだった島津勢を次々に攻略する。いかに勇猛果敢な薩摩隼人と雖も多勢に無勢、歴戦の戦上手の秀吉軍は大友・龍造寺といった田舎大名とはわけが違う。肥後口・日向口から攻め立てるとさすがに総大将島津義久も降伏・和議の腹を固めざるを得なかった。
 しかし、頭の痛いことが二つあった。一つは剛直を持って聞こえた実弟の歳久である。秀吉が九州に赴くと聞いて合議の中、全体が秀吉何するものぞと沸き立つようになった時に唯一人秀吉恐るべしと和議を唱えていた。義久にはその意見具申を一蹴した負い目があった。
 もう一人やっかいなのは、薩摩・大隅統一に抜群の功績を残した島津一門の庶流、新納(にいろ)武蔵野守忠元。胸に届くほどの美髯を垂らして奮戦し、今回も長宗我部勢を打ち破る働きをした猛将である。
 歳久は『だからあれ程やめろと申し上げた。そもそも和議にはその時勢というものが有り申す。旗色が悪くなったから降伏するでは後世憂いを残す事必定』と言い放てば、忠元は更に吼える。『オイ達ァまだ負けちょいもはん。これッしきのこっで和議とは薩摩ン武士の意気地はどこい捨てもした』と。
 しかし義久は薩摩人の気質を知り抜いている。突貫突撃では無類の強さを発揮するが、一端引き始めると誠に粘りのない。もはや止め時なのである。義久は剃髪した。
 新納武蔵守忠元、鬼武蔵とも親指武蔵とも言われている。数を勘定する際に一つ目は親指を折ることから、武功第一を称える故についた通り名である。
 いよいよ義久の次弟義弘まで和議を結ぶに当たり忠元も覚悟を決め、降伏の儀式に秀吉に謁見することとなった。
 剃髪し居並ぶ諸将の中を進み、深く頭を下げた。小柄であった為一層小さく見えたが、ただならぬ殺気を発していた。人たらしとも言われる秀吉はおもむろに尋ねる。
「よう参られた、武蔵守。まだワシと戦うつもりか」
 さすがにいきなりの言葉に周囲は息を飲んだ。
「如何に逆らいましょうや。しかし我が主人義久の命あればいかにも」
「あっぱれじゃ。音に聞こえた薩摩武士。どうか、我が配下にて10万石とらせるとしたらいかに」
「主人義久からであればありがたし。愚直者にて二君にまみえず。義久もまた秀吉様の主従の約を交わしておりもす」
 一同このやりとりに唖然としたが、秀吉が笑みを浮かべると座はなごやかになった。
 儀式の酒宴が張られ、秀吉は上機嫌で一献をつかわすと、忠元は長く伸ばした白髭を左手で持ち上げて飲み干す。
 細川幽斎はかねてより忠元が和歌の道に通じている事を知っていた為、その姿にこう声をかけた。
「鼻の下にて鈴虫ぞなく」
 受けた大杯を飲み干した忠元は、暫く視線を落としていたがグッと細川幽斎を見据えると通る声で上の句を発した。
「上髭をちんちろりんとひねりあげ」  
一同呆気にとられて一瞬静寂に包まれた。そこに遠慮のない大笑いが聞こえ、秀吉が笑い転げた。それをきっかけにその場の全員がドッと湧いたのにつられ、忠元もまた渋面を初めて崩しニコリとして見せたのだった。

捨てがまり戦法

戦国奇譚 風雲小田原攻め 

黄金の茶室(見果てぬ夢) 


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海軍名パイロットの系譜 (今月のテーマ 空)

2017 FEB 1 23:23:44 pm by 西室 建

 安倍総理が真珠湾で名前を出した飯田房太中佐(戦死後二階級特進。戦死時は大尉)のことを調べてみた。『The Brave respect the brave』がいたく心に残ったからだ。
 映画「トラトラトラ」で被弾した零戦が帰投を諦め米軍格納庫に自爆攻撃をするシーンはこの飯田大尉がモデルとも言われている。
 海軍兵学校62期で巡洋艦に任官した直後に飛行学生としてパイロットの道を進む。
 奇しくもゼロ戦のデビューとなった中国戦線で重慶・成都の空戦を経験した生粋のゼロ・ファイターである。そして真珠湾に行く。

飯田大尉を埋葬する米軍

飯田大尉を埋葬する米軍

 安倍総理のスピーチにあった通り、攻撃中に燃料タンクを打たれたため僚機に手信号で自爆の意思を伝えると引き返す。
 飯田大尉の突撃を目撃した米兵によれば実際には格納庫ではなかったが、最後までフル・スロットルのスピードで機銃を撃ち続けての激突だった。 
 ためらいのない戦意旺盛な突撃に米軍は戦死した米軍人とともに丁重に埋葬したのだ。
 飯田大尉が中国初戦の成果に浮かれる中、漏らした言葉が残っている。
『重慶に60キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗など諸経費を計算すると約千円かかる。相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦力(クーリー)の労賃は五十銭ですむ。実に二千対一の消耗戦なのだ。こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる』
 こういう合理的な考えの人だったので、実は真珠湾攻撃の前日に敗戦を示唆し自爆を仄めかしたという説がある。燃料タンクに被弾したというのも全て伝聞であり、激突の際にも発煙はなかったので覚悟の自爆だというのだ。

 同じくゼロ戦のパイロットで、戦後は警察装備の開発を手掛ける会社を経営していた志賀淑雄という方がいた。安田講堂騒乱の際に屋上から投げられる投石の雨に機動隊が苦戦している時、徹夜で食パン型の安全坑道を作って寄付したことが佐々淳之の本に出ている。
 この人の言によれば、初期のゼロ戦の成果に報道が過熱し『エース』とか『撃墜王』と持て囃す事に対し、海軍では編隊共同空戦を旨とし「海軍戦闘機隊にエースはいない」という方針を決定していたそうだ。この辺はベスト・セラー『大空のサムライ』を発表しエースと言われた坂井三郎氏と微妙に肌合いが違う。
 その志賀氏(旧姓四元)は飯田大尉と同郷かつ兵学校同期で、開戦直前に一緒に帰郷した際の会話を覚えていた。この時志賀氏は長女が生まれたばかりだった。その会話は
『早く結婚して子供をつくれよ』
『うん、じゃ、この子をもらうよ。貴様の娘なら美人だろ』
『そうか、じゃあ20年待たなきゃいかんぞ』
 その時期になんと悲しくも明るい会話であることか。つくづくやるべき戦争ではなかった。
 余談であるがこの二人の海兵62期というクラスは実にワイルドだったことで有名だ。因みに伏見宮・朝香宮と二人の皇族がいたが、直接鍛えられた65期によれば『宮様が先頭に立ってオレ達を殴って鍛えた』らしい。海兵は最上級生の一号生徒が新入生である三号生徒を指導するため、獰猛な(即ち殴ってばかりの)クラスは3年ごとに現れると言われている。
 志賀氏は下級生から『青鬼』と呼ばれていた。『青鬼』がいるのなら『赤鬼』はどうかというと、これがいた。やはりゼロ戦乗りになった周防元成氏だ。
 志賀氏の言に習って『エース』を並べるつもりは毛頭ないが、この周防氏の操縦技術は図抜けており、戦中を戦い抜いて敗戦後は航空自衛隊に所属した際にその技能の高さに米人教官が舌を巻いた。

 このような名パイロット(エースではないとして)の系譜に連なるのが、初めはゼロ戦、敗戦時は紫電改、航空自衛隊でF86FからF104まで飛び続けた山田良一氏である。海兵71期だから先程の順番で行くとワイルド・クラスを卒業。源田実率いる第三四三海軍航空隊に所属していた。
 ブルー・インパルスの初代飛行長で、我々以上の年代なら忘れない東京オリンピックの開会式で鮮やかに五色のオリンピック・マークを大空に描いた際、地上指揮官だった人だ。あの田母神閣下の先輩にあたる航空幕僚長も務めた。
 もう一人戦後のパイロットを紹介したい。アクロバット飛行の名手、通称ロック岩崎。自衛隊入隊後F86F、F104,F15を乗りこなして民間のエア・ショー・パイロットとなったが、惜しくも2005年に事故死した。
 この人は日米合同の模擬空中戦で旧式F104に乗り最新鋭F15を、後にF15で同じくその後継機F16を「撃墜」し、その業界ウォッチャーの間では有名だった。
 真珠湾から国土防衛まで戦い抜くと生存率2割を切るという極限状況を、卓抜したテクニックと強靭な精神プラス・アルファで生き抜いた人々の後輩が平和な時代に事故死する。
 戦場での悲劇は、特攻は言うに及ばず全ての英霊に等しく無惨なものだ。

 しかしいつの時代でも空に生きるものは命がけなのだと思う。

 トムさんより富永さんの写真が送られましたので載せました。(2月7日)

前列が富永少尉

前列が富永少尉

隼は征く 雲の果て 

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最後の将軍と尾張藩主 Ⅰ

2017 JAN 14 15:15:16 pm by 西室 建

 前者は将軍徳川慶喜(よしのぶ)、後者は尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)。二人は母方の従兄弟同士でもあった。 

 尾張徳川家は御三家筆頭で藩祖は家康の九男徳川義直である。この人物は実に真面目なゴリゴリオヤジで、将軍職を継いだ三代家光にとっては何かとうるさい存在だった。尾張柳生の新陰流を継承するような武闘派で、家光三十歳の時に病に臥せった際には大軍を率いて上京するという事をしでかし家光を慌てさせる。
 以降尾張家は何かと将軍家と同格であるという家風になり、また義直の強烈な尊王の気質を継承していく。これは幕末の重要なファクターとなる。
 八代目将軍吉宗と七代藩主宗春は同時代だが、将軍が享保の改革で質素・倹約をしている時に名古屋では大っぴらに規制緩和を奨励する(後に少し改めはしたが)。折りしも水戸藩の大日本史出版問題で幕府と朝廷が対立を深める中で尊王が藩是の宗春はとうとう蟄居謹慎させられる。宗春はわざと朝鮮通信使の格好を真似したり、白い牛に跨ってウロウロしてみせたり、兎角目障りだったのだろう。面白い人なんだが。
 その後、いやがらせのように将軍家から養子を押し付けられたりしていたが、幕末の時代に名古屋系の高須松平家から慶勝が藩主となる。悪い時に藩主になったとしか言いようがない。
 時代が時代だけに藩祖伝来の尊皇攘夷主義者として開国を指導した井伊直弼と対立し直ぐに蟄居謹慎。ところが井伊が暗殺されると復活する。
 ここから長州の大暴れが始まり目まぐるしく情勢が二転三転するのはご案内の通り。何と慶勝は第一次長州征伐の征長総督になるが、征長軍全権を委任された参謀格はあの西郷吉之助である(この時点で長州は朝敵)。その後スッタモンダの挙句に第二次長州征伐の途中将軍・家茂が大坂城で薨去、従兄弟の一橋慶喜が十五代将軍になるという巡りあわせだ。

 最後の将軍は図抜けて頭が切れたことで知られる。朝廷に対し怒る・拗ねる・開き直る、といった腹芸をしてみせ、ついに大政奉還の大博打を打つような胆力も備わっていた。既に開国に舵は切られており攘夷もクソもない。現に貿易を通じて幕府は大儲けしていた。
 ところがこの将軍、頭が切れすぎて感情の起伏が制御できなかったと思われる。極めて饒舌だったとされるが、相手を見下して追い詰めるように論破してしまうのだろう。
 更に酒癖は悪い。中川宮邸に夜半泥酔・帯刀して殴りこみをかけるような振る舞いに及ぶ。筆者も酒乱のケがあるので良く分かるが、酔っ払うと物凄く早口になって喋りまくり翌日記憶を失っていたりすると胸クソが悪くなる。あの酔った感じは脳が考えているのじゃなくて舌が考えているのじゃないかと思えるほどだ。
 第二次長州征伐に行こうと言い出した時は兵隊用の排膿を背負ってはしゃぎまくっている姿が目撃されているが、鳥羽伏見のしょっぱなで押されるとドーンと落ち込む。挙句にコッソリ江戸に逃げ出すのだが、その時に無理矢理連れていかれた会津の松平容保と桑名の松平定敬は何と徳川慶勝の実弟達なのだ。
 更にバカバカしいことに幕軍がいなくなって開城された大阪城の城受け取りに行かされたのは慶勝という皮肉なことに。その段階で京都にいた慶勝は既に討幕の腹を固めたのか、この間の慶勝の心の葛藤たるや凄まじいものがあっただろう、藩是の尊王か宗家への忠誠か。
 実は第一次長州征伐の際にほぼ話し合いで納めた長州の措置が寛大すぎるとして慶喜に非難されたようで、慶喜に含む所があったのではないかと推測している。
 官軍は尾張藩を素通りどころか江戸まで全く戦闘なしに通過するが、その際慶勝が街道諸藩・寺社に『抵抗せずに通すように』という趣旨の所感を数百通も出していたからだと言われている(現物が残っている)。
 江戸は無血開城され、その腹いせのように弟の容保・定敬はとんでもない目に会う。更に慶喜が将軍になった後の一ツ橋家を継いだのはこれまた慶勝の弟、徳川茂徳というオマケもついている(この人は異母弟だから慶喜の従兄弟ではない。慶勝が安政の大獄で謹慎だったときには尾張藩主になっていた)。

 慶喜と慶勝のなんとも言えない運命の皮肉である。
 慶喜は若い頃にヒマに任せて絵画に勤しむような趣味人のところもあり、維新後駿府に行ってからは狩猟・写真に油絵やサイクリング等も楽しみ興味の赴くままに暮らした。地元の人々からも慕われていたそうである。その後貴族院議員にもなるが、政治的には何もしなかった。
 実は手裏剣の達人でもあった。
 一方の慶勝も写真には一家言あるほど熱中した。撮影から現像まで様々な薬品の調合なども一人でやり、今日そのメモが残されている。いわゆる理系の真面目な人だったと推察する。
 大雑把にいうと、共に凝り性なのだが慶喜は今で言う文系、慶勝は理系の頭脳だったのかと思う。次回は二人を対談させて心の奥を覗いてみたい。
 それでなくとも徳川は多士済々だ 徳川奇人伝
 尾張徳川は前述の通り、御三家筆頭ながら遂に一人も将軍を出せなかった。

最後の将軍と尾張藩主 Ⅱ

慶喜の手裏剣

徳川 奇人伝(今月のテーマ 列伝)


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怨霊 (今月のテーマ 列伝)

2016 APR 29 1:01:33 am by 西室 建

 怨霊というおどろおどろしいモノが文献に現れるのは平安時代からだそうだ。その前にも不遇をかこったり裏切りにあって怒りのままに死を遂げた人はいただろうが、飛鳥・奈良時代は概して明るい印象で、例えば大国主命は祟ったりしない。聖徳太子の長男、山背大兄王も蘇我氏に厄災をもたらしたことになっていない。

 どうも露骨に祟ったのは早良親王あたりからではないか。桓武天皇の異母弟だ。長岡京遷都阻止のため藤原種継を暗殺しようとしたと(冤罪説あり)疑われ、淡路島に流される途中に絶食・憤死したらしい。するとその後、皇族の病死に洪水などが相次ぎ、早良親王の祟りと言われた。ビビッた朝廷は鎮魂の儀式を執り行う。
 これから魂鎮めというものが行われるようになったという仮説を立てている。

 祟りといえばの菅原道真公は外せない。藤原時平と対立して大宰府に左遷され、2年ほどで死んでしまう。たちまち時平はおろか皇族までもが次々に病死する。クライマックスは朝議中の御所清涼殿に雷が落ちて醍醐天皇の目の前で死傷者が出る。帝はショックのあまり直後に崩御。これは効いただろう。
 天神様に祭り上げて敬った。

 一方平将門なんかは賊軍中の賊軍。さぞや、と思われるが討ち取られた後には直ぐに祟っていない。早々と祭られてしまったからだろう。
 しかし、敗戦後にやってきた進駐軍には腹を据えかねたと見える。無礼にもGHQが区画整理をしようとした際、夷狄を次々に成敗してみせた。それに先立つ関東大震災後にも、大蔵省の仮庁舎を建てようとした不埒者に祟ってみせた。やはり江戸庶民の目線を持った怨霊と言えよう。

 確信犯的に自ら怨霊化したのが崇徳上皇。保元の乱で讃岐に流されると言う辱めを受ける。これは淳仁天皇以来四百年ぶりの恥辱である。院は自分が書いたお経を京に送るが、破り返されて怒り狂う。何しろ舌先を噛んだ血で「日本国の大魔王となり皇を取って民とし民を皇となさん」と書いたというから凄まじい。これ程の怨念が祟らぬはずは無く、やはり皇族がバタバタ亡くなった。
 どうも皇族側は遥か後世まで気に懸けたらしく、明治天皇は即位の際に、昭和天皇は八百年祭(神道における法事)に勅使を讃岐に遣わしている。

 僕が何度か怨霊界のスーパースターとしてブログに書いた後醍醐天皇は、実際には祟らなかった。この頃はハナから危ないケースはさっさと祭り上げてしまうことになったと思われる。崩御後、後村上天皇は荘厳浄土寺において大法要を行い、足利尊氏もまた南朝ゆかりの京都嵯峨に天竜寺を造って鎮めてしまった。

 磯部浅一と言われて直ぐにピンと来る人は少ないだろう。この人は2・26の首謀者の一人だが、とんでもないことに戦後になって祟った。銃殺刑に処されるが、その直前の語録が何とも言えない。
「余は死にたくない。もう一度出てやり直したい。三宅坂の台上を三十分自由にさしてくれたら、軍幕僚を皆殺しにしてみせる、死にたくない、仇がうちたい、全幕僚を虐殺して復讐したい。」
「天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ。」
「成仏するつもりなどさらさならない、悪鬼となりて所信を貫徹するのだ。」
 狂っている。
 それがどういう訳か三島由紀夫に取り付いて祟った。
 三島は自宅で度々お気に入りを集めて凝ったパーティーを催していたが、ある時霊能者とも言われる美輪明宏が『三島さんの背中のところに変な人影が見える、二・二六事件の関係者らしい」と言った。三島は笑いながらそれは誰それかと尋ねると、違う。それではこの男か、と次々に名前を挙げると、磯部浅一と言った所で「それだ!」となった。三島は青ざめた、と石原慎太郎が書いている。その辺りから三島の行動がおかしくなって行き市ヶ谷の事件に至ったとか・・。

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同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

三島由紀夫の幻影

百済王・高麗王・新羅三郎 (今月のテーマ 列伝)

2016 APR 18 0:00:43 am by 西室 建

 全部人の名前です、半島南下論者が泣いて喜びそうな。
 ところが百済王はご期待の百済の亡命王族ではなく、歴とした皇族で「くだらのおおきみ」であります。残念ながら半島とは何の関係もありません。旧百済からの渡来人は大勢いたので”言葉”としてのクダラはポピュラーな響きだったでしょう。現代で言えば名前の付けるのは「テリー伊藤」とか「ジェット・ニシムロ」のようなしゃれた感じかと想像します(ジェット・ニシムロはさておき)。
 
 高麗王は”こまおう”でも”こまのおおきみ”でもありません。「こまの こにきし」と読みます。
 高麗若光という人物が、唐・新羅連合軍に敗れた後に日本へ組織的に逃げて来て”コニキシ”の姓(カバネ)を与えられ武蔵国高麗郡に入植します。埼玉県日高市の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在60代目の名家です。この高麗神社は格式が高そうな立派な造りになっていて江戸期の住居跡もあり、何度か行きました。高麗王というお酒もあるんですな。こちらは由緒正しい半島出身。
 又、何度か韓国人ビジネスマンとこの近くのゴルフ場に行った時にお参りに誘うと大変喜ばれました。中にはもう一度観光に行った人も。半島全体に高麗王朝があったので、その流れが来たものだと思っているらしく『ここはコリョじゃない。コ・グ・リョの人達だ(即ち”北”の方の子孫)』と言うと益々受けました。
 三鷹の連雀町に住んでいた時、近所に墓地があり「高麗」という墓石が沢山ありました。このお墓はきっと高麗氏一族の系統かと想像します。殆どが暗渠になっていますが調布には入間川も流れていて読み方も埼玉の”いるまがわ”と同じ。
 三鷹近辺から埼玉西部へのルートは古くからあったと想像できます。犯罪マニア(猟奇・変質・怨恨等の殺人ではない)の間では「三億円強奪事件」の現金輸送ルートとしても知られています。事件当時このエリアには米軍基地がまだあって、そこを抜けたとされる仮説ですが。

 新羅三郎とは本名源義光。源氏の棟梁源義家の弟で、”しらぎ”ではなく”しんら”と音読みします。この源氏の嫡流兄弟はそれぞれ八幡太郎(義家)・加茂次郎(義綱)・新羅三郎(義光)と元服した神社の名前を頂いて名乗ったので半島とは関係ありませんね。新羅神社は現在の三井寺のことです。
 余談ですがこのうち次男坊は一族の内乱を煽動した咎で佐渡に流されるのです。そして息子六人が、長男・次男投身自殺、三男戦死、四男焼身自殺、五男切腹、六男自害と一斉に死に絶える凄まじさで家系は絶えます。
 そして三郎義光は兄義家を助けて後三年の役などで活躍し、その家系からは佐竹・武田といった戦国武将が。中に一系統、戦に負けてばかりいて止めの一撃に武田信玄の初陣で追っ払われた家がありますが、三回忌を迎える死んだおふくろ様の実家であります。

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