Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 列伝

わかったぞ 白隠禅師

2017 MAY 10 19:19:04 pm by 西室 建

 達磨大師の禅画で有名な臨済宗の高僧、白隠慧鶴(はくいん えかく)禅師は江戸時代・五代将軍の頃の名僧だ。それまでの禅の考案を体系化させて臨済宗の理論的流れを組み立てた。
 大変頭のいい人だったようで出家して諸国を行脚するが、誰と論争しても負けなかったらしい。しまいには『まあ、この五百年というもの我ほどの秀才はおるまい』と自信過剰になって慢心する。
 なにしろ『鐘の音を開いて悟りを開いた』、托鉢(たくはつ)に出て婆さんに竹ぼうきで追い払われて悟る、コオロギの音を聞いてまた悟る。生涯に三六回の悟りを開いたと言うほどで、ここまでくると『悟りオタク』だが、論理的思考の確かな人だったのだろう。
 ところが正受老人こと道鏡慧端という名僧の噂を聞き、信州にこれを訪ねるとボコボコにされてしまう。なにするものぞとまくしたてたところ「這󠄀箇(しゃこ)は是汝の学得底(それはおまえがまなんだもの)。那箇(なこ)か是見性底(なにがお前の本質か)。」とやり込められて絶句する。それからというもの廊下から蹴落されたりしながら修行を積む。増長を叩き潰された。
 道鏡慧端はこれまた大変な人で、一説によれば真田の長男信之の落とし種とされる。禅僧に「自分の心の中に観音を見つけよ」と告げられてわずか16歳で悟りを得たとか。滅多に喋らなかった人で「終日咳喇不聞」とまで弟子に言われていた。そこへ自信満々の若造が乗り込んだのだからたまらない。
 白隠はハタと覚醒し、今まで本を読んで得た知識はいらんとばかりに蔵書を全部焼いたというから凄まじいというか勿体無いというか。
 白隠はその後修行のやり過ぎで禅病となってしまう。禅病とは座禅を組んで瞑想していると頭痛がしたり手足が冷たくなり具合が悪くなる。或いは今でいう鬱病のようになることを指していると思われる。面壁九年、禅宗の創始者である達磨大師のように手足が萎えるのかもしれない。
 ここから話は一気に怪しげになるが、京都洛外の山中に暮らす白幽子という仙人を訪ね禅病治療の「内観の秘法」を伝授されたと記している。
 白幽子は年齢200歳以上ということはともかく、墓碑も残っているのだが。
 白隠禅師がその秘法で修行僧を治療したのは事実で、一種の気功である。ただしそれを書き残したのは会ったとされる時から40年も経った後だ。髪は膝に届くほど伸び『中庸』『老子』『金剛般若経』の三冊を置いて端坐していたと。『中庸』『老子』『金剛経』を選んであったのが絶妙で、儒教・道教・仏教からそれぞれ最高の経典を持って来ている。”三冊”とかいうあたり実に怪しい。

 わかったぞ!若き頃に、オレほど頭のいいやつはいないと思うような人だ。いくら徳を積んだってチャメッ気まで無くなるはずはない。自分の考えた治療法に箔をつけるためにテキトーな仙人をでっち上げたに違いない。頭のいい人の考えそうなことだ。
(「内観の秘法」が書かれた更に50年後に『近世畸人伝』という書物が出され、白幽子自筆の文章の写しと墓碑を元に実在を記しているが案外白隠禅師自身の作り物じゃないか)

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

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怪僧列伝 カトリック編

2017 MAR 2 20:20:32 pm by 西室 建

 以前日本史に現れた怪僧を『列伝』にしてみたが、キリスト教にもバケモノじみた人物がいる(トム市原さんに指摘された)。ちょっとやってみたくなったのでサワリを書いた。

文化を破壊したドミニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラ
 フィレンツェでの情熱的な説教が次第に人を呼ぶ。勢いがついてルネサンス全盛時代を迎えたロレンツォ・ディ・メディチの独裁政治を厳しく批判しだしておかしくなる。極々真面目な人だったのだろうが、こういうのが危ない。
 堕落した享楽生活に怒ってフィレンツエの厄災を予言したところ、本当にフランス軍が攻め込んできてイタリア戦争になってしまう。
 その際に市民の代表に選ばれてから更に狂って神政政治を始める。贅沢を戒め、堕落の元凶として絵画や楽器を「虚飾の焚刑」として焼き払う。かの「ヴィーナスの誕生」の作者ボッティチェッリはビビッて華美な絵を描くのを止めている。
 しかし享楽的なイタリア人がそんなに我慢できるはずもなく、やりすぎ感から後述するデタラメ教皇アレクサンデル6世に破門される。
 そうなると手のひら返しでサン・マルコ修道院に押し寄せた市民はサヴォナローラを有罪・焚刑にしてしまった。頭に血が上らなければ結構マトモな人だったかもしれない。

同時代で最も堕落した教皇アレクサンドル6世
 そのサヴォナローラを破門したのが、本名ロドリゴ・ボルジア。スペイン人だ。名前の通りボルジア家の人である。
 当時のスペインはイスラム教やユダヤ教から改宗した人々に対する異端尋問が盛んで、王族が先頭に立ってやった。しかしひどいもので、実態は財産の没収目当て。
 しばしば異端でも何でもないと人を告発したり報奨金目当てが多く、裕福な改宗ユダヤ教徒の告発は王室が行っていた。
 これに尽力したのがスペイン枢機卿だったロドリゴ・ボルジアで、その後奸計と買収で教皇の座につく。ちなみに異端尋問所長官のトマス・デ・トルケマダは告発と拷問で2千人とも8千人ともいわれる人々を処刑した。
 その男アレクサンドル6世は教皇になった時点で数人の子供を愛人に生ませており、初めはおとなしくしていたが次第に馬脚を現す。
 「マキャベリスト」の塊のような長男チェーザレ・ボルジアが右腕となって陰謀・毒殺・戦闘を繰り返し教皇の地位を支える。こいつは宿敵フランスとも同盟するのである(ご存知だろうがマキャベリの君主論はチェーザレをモデルに書かれた)。
 まぁ当時の聖職者は多かれ少なかれ堕落しきっていたが、ローマでは強盗殺人が横行し貴族も一緒になって町をメチャクチャにしていた。教皇自らダンスや宴会に浸りきって、更にロドリゴ・チェーザレ親子で美貌の娘ルクレチアと近親相姦を繰り返した挙句に政略結婚をさせる。
 この因果な二人はほぼ同時にマラリアにかかりあっけなく死亡するが、当時から毒殺の噂があった。

出ましたラスプーチン
 シベリアの農夫の子として満足な教育も受けずに育ったが、突然神がかりになって自分で熱心に勉強したようだ。カトリック修行僧として良いかどうか迷う所だが、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたことは確かだ。
 僕はこの辺りの一種”一生懸命さ”が好きで、気持ちは純粋だったと確信している。
 そして不思議な力を身に着ける。今で言えばヒーリングとかその手の超能力、気功の達人と言ったところだろう。
 サンクトペテルブルグで人々の病気を治したりして一気に名声があがり、そこから先はご案内の通り。
 ただ、シベリアの寒村での暮らしぶりは生涯抜けなかったようで、想像するに風呂なぞ入らず手づかみで食べ強い訛りで喋ったに違いない。しかしその能力で多くの女性信者に囲まれ、性的放埓さは直しようもない。
 誤解を招くと申し訳ないがこの手の気質は一部のロシア人に共通してあって、あのエリツィンも酔っ払うとウラルの田舎を思い出すらしく太目のオバサンに抱きつくようなことをしていた。

この視線

 コンスタンティノープル、パトモス島、ロードス島、キプロス、聖墳墓教会と巡礼の旅に出ているが、正確な教義の東方正教会の信仰だったのか。
 ニコライ二世の信頼も厚く揺るぎない。
 宮廷に巻き上がる嫉妬と憎悪の眼差し。
 帰省した時の暗殺未遂。
 第一次世界大戦の大混乱。
 無教養なラスプーチンに複雑な国際関係や混乱する内政への適切な指導など望むべくもない。しかしどうしてもそういったヒトに頼りたくなるのは、今日でも隣の国で女大統領がアヤシげな友達に寄り添った事を見ても有り得るだろう、ましてや100年前だ。
 彼は戦争には反対したせいもあってドイツの回し者と言われる。
 金銭にははなはだ無頓着であった。使い方も贅沢も知らなかったのではないかとも思う。入った金は皆やってしまったりレストランで支払ったりして残さない。残す、とう感覚がわからないのだ。
 そして暗殺。
 これが驚異的なことに青酸カリ入りの紅茶と食事を食べても全く効かない。銃弾を3発喰っても死ななかった。なにがしかの驚異的能力があったことは確かだったと思われる。
 最後は額を撃ち抜かれ凍った川に投げ込まれたが、その時点まで生きていたという伝説が残った。
 僕はラスプーチンがそんなに悪人だったとどうしても思えない。余計な能力が身に付いた為に結果として悪評のみ残り暗殺された気の毒な田舎の念仏オヤジに見えてしかたがない。

怪僧列伝戦国・江戸編(今月のテーマ 列伝)

怪僧列伝メチャクチャ編(今月のテーマ 列伝)


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島津征伐

2017 FEB 27 19:19:27 pm by 西室 建

 総勢20万ともいわれる大軍勢を率いて九州に上陸した秀吉軍は、精強を持って九州統一の意気盛んだった島津勢を次々に攻略する。いかに勇猛果敢な薩摩隼人と雖も多勢に無勢、歴戦の戦上手の秀吉軍は大友・龍造寺といった田舎大名とはわけが違う。肥後口・日向口から攻め立てるとさすがに総大将島津義久も降伏・和議の腹を固めざるを得なかった。
 しかし、頭の痛いことが二つあった。一つは剛直を持って聞こえた実弟の歳久である。秀吉が九州に赴くと聞いて合議の中、全体が秀吉何するものぞと沸き立つようになった時に唯一人秀吉恐るべしと和議を唱えていた。義久にはその意見具申を一蹴した負い目があった。
 もう一人やっかいなのは、薩摩・大隅統一に抜群の功績を残した島津一門の庶流、新納(にいろ)武蔵野守忠元。胸に届くほどの美髯を垂らして奮戦し、今回も長宗我部勢を打ち破る働きをした猛将である。
 歳久は『だからあれ程やめろと申し上げた。そもそも和議にはその時勢というものが有り申す。旗色が悪くなったから降伏するでは後世憂いを残す事必定』と言い放てば、忠元は更に吼える。『オイ達ァまだ負けちょいもはん。これッしきのこっで和議とは薩摩ン武士の意気地はどこい捨てもした』と。
 しかし義久は薩摩人の気質を知り抜いている。突貫突撃では無類の強さを発揮するが、一端引き始めると誠に粘りのない。もはや止め時なのである。義久は剃髪した。
 新納武蔵守忠元、鬼武蔵とも親指武蔵とも言われている。数を勘定する際に一つ目は親指を折ることから、武功第一を称える故についた通り名である。
 いよいよ義久の次弟義弘まで和議を結ぶに当たり忠元も覚悟を決め、降伏の儀式に秀吉に謁見することとなった。
 剃髪し居並ぶ諸将の中を進み、深く頭を下げた。小柄であった為一層小さく見えたが、ただならぬ殺気を発していた。人たらしとも言われる秀吉はおもむろに尋ねる。
「よう参られた、武蔵守。まだワシと戦うつもりか」
 さすがにいきなりの言葉に周囲は息を飲んだ。
「如何に逆らいましょうや。しかし我が主人義久の命あればいかにも」
「あっぱれじゃ。音に聞こえた薩摩武士。どうか、我が配下にて10万石とらせるとしたらいかに」
「主人義久からであればありがたし。愚直者にて二君にまみえず。義久もまた秀吉様の主従の約を交わしておりもす」
 一同このやりとりに唖然としたが、秀吉が笑みを浮かべると座はなごやかになった。
 儀式の酒宴が張られ、秀吉は上機嫌で一献をつかわすと、忠元は長く伸ばした白髭を左手で持ち上げて飲み干す。
 細川幽斎はかねてより忠元が和歌の道に通じている事を知っていた為、その姿にこう声をかけた。
「鼻の下にて鈴虫ぞなく」
 受けた大杯を飲み干した忠元は、暫く視線を落としていたがグッと細川幽斎を見据えると通る声で上の句を発した。
「上髭をちんちろりんとひねりあげ」  
一同ドッと湧いたあと先ず秀吉が笑い転げ、忠元もニコリとして見せたのだった。

捨てがまり戦法

戦国奇譚 風雲小田原攻め 

黄金の茶室(見果てぬ夢) 


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海軍名パイロットの系譜 (今月のテーマ 空)

2017 FEB 1 23:23:44 pm by 西室 建

 安倍総理が真珠湾で名前を出した飯田房太中佐(戦死後二階級特進。戦死時は大尉)のことを調べてみた。『The Brave respect the brave』がいたく心に残ったからだ。
 映画「トラトラトラ」で被弾した零戦が帰投を諦め米軍格納庫に自爆攻撃をするシーンはこの飯田大尉がモデルとも言われている。
 海軍兵学校62期で巡洋艦に任官した直後に飛行学生としてパイロットの道を進む。
 奇しくもゼロ戦のデビューとなった中国戦線で重慶・成都の空戦を経験した生粋のゼロ・ファイターである。そして真珠湾に行く。

飯田大尉を埋葬する米軍

飯田大尉を埋葬する米軍

 安倍総理のスピーチにあった通り、攻撃中に燃料タンクを打たれたため僚機に手信号で自爆の意思を伝えると引き返す。
 飯田大尉の突撃を目撃した米兵によれば実際には格納庫ではなかったが、最後までフル・スロットルのスピードで機銃を撃ち続けての激突だった。 
 ためらいのない戦意旺盛な突撃に米軍は戦死した米軍人とともに丁重に埋葬したのだ。
 飯田大尉が中国初戦の成果に浮かれる中、漏らした言葉が残っている。
『重慶に60キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗など諸経費を計算すると約千円かかる。相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦力(クーリー)の労賃は五十銭ですむ。実に二千対一の消耗戦なのだ。こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる』
 こういう合理的な考えの人だったので、実は真珠湾攻撃の前日に敗戦を示唆し自爆を仄めかしたという説がある。燃料タンクに被弾したというのも全て伝聞であり、激突の際にも発煙はなかったので覚悟の自爆だというのだ。

 同じくゼロ戦のパイロットで、戦後は警察装備の開発を手掛ける会社を経営していた志賀淑雄という方がいた。安田講堂騒乱の際に屋上から投げられる投石の雨に機動隊が苦戦している時、徹夜で食パン型の安全坑道を作って寄付したことが佐々淳之の本に出ている。
 この人の言によれば、初期のゼロ戦の成果に報道が過熱し『エース』とか『撃墜王』と持て囃す事に対し、海軍では編隊共同空戦を旨とし「海軍戦闘機隊にエースはいない」という方針を決定していたそうだ。この辺はベスト・セラー『大空のサムライ』を発表しエースと言われた坂井三郎氏と微妙に肌合いが違う。
 その志賀氏(旧姓四元)は飯田大尉と同郷かつ兵学校同期で、開戦直前に一緒に帰郷した際の会話を覚えていた。この時志賀氏は長女が生まれたばかりだった。その会話は
『早く結婚して子供をつくれよ』
『うん、じゃ、この子をもらうよ。貴様の娘なら美人だろ』
『そうか、じゃあ20年待たなきゃいかんぞ』
 その時期になんと悲しくも明るい会話であることか。つくづくやるべき戦争ではなかった。
 余談であるがこの二人の海兵62期というクラスは実にワイルドだったことで有名だ。因みに伏見宮・朝香宮と二人の皇族がいたが、直接鍛えられた65期によれば『宮様が先頭に立ってオレ達を殴って鍛えた』らしい。海兵は最上級生の一号生徒が新入生である三号生徒を指導するため、獰猛な(即ち殴ってばかりの)クラスは3年ごとに現れると言われている。
 志賀氏は下級生から『青鬼』と呼ばれていた。『青鬼』がいるのなら『赤鬼』はどうかというと、これがいた。やはりゼロ戦乗りになった周防元成氏だ。
 志賀氏の言に習って『エース』を並べるつもりは毛頭ないが、この周防氏の操縦技術は図抜けており、戦中を戦い抜いて敗戦後は航空自衛隊に所属した際にその技能の高さに米人教官が舌を巻いた。

 このような名パイロット(エースではないとして)の系譜に連なるのが、初めはゼロ戦、敗戦時は紫電改、航空自衛隊でF86FからF104まで飛び続けた山田良一氏である。海兵71期だから先程の順番で行くとワイルド・クラスを卒業。源田実率いる第三四三海軍航空隊に所属していた。
 ブルー・インパルスの初代飛行長で、我々以上の年代なら忘れない東京オリンピックの開会式で鮮やかに五色のオリンピック・マークを大空に描いた際、地上指揮官だった人だ。あの田母神閣下の先輩にあたる航空幕僚長も務めた。
 もう一人戦後のパイロットを紹介したい。アクロバット飛行の名手、通称ロック岩崎。自衛隊入隊後F86F、F104,F15を乗りこなして民間のエア・ショー・パイロットとなったが、惜しくも2005年に事故死した。
 この人は日米合同の模擬空中戦で旧式F104に乗り最新鋭F15を、後にF15で同じくその後継機F16を「撃墜」し、その業界ウォッチャーの間では有名だった。
 真珠湾から国土防衛まで戦い抜くと生存率2割を切るという極限状況を、卓抜したテクニックと強靭な精神プラス・アルファで生き抜いた人々の後輩が平和な時代に事故死する。
 戦場での悲劇は、特攻は言うに及ばず全ての英霊に等しく無惨なものだ。

 しかしいつの時代でも空に生きるものは命がけなのだと思う。

 トムさんより富永さんの写真が送られましたので載せました。(2月7日)

前列が富永少尉

前列が富永少尉

隼は征く 雲の果て 

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最後の将軍と尾張藩主 Ⅰ

2017 JAN 14 15:15:16 pm by 西室 建

 前者は徳川慶喜(よしのぶ)、後者は尾張徳川慶勝(よしかつ)主。二人は母方の従兄弟同士でもあった。 

 尾張徳川家は御三家筆頭で藩祖は家康の九男徳川義直である。この人物は実に真面目なゴリゴリオヤジで、将軍職を継いだ三代家光にとっては何かとうるさい存在だった。尾張柳生の新陰流を継承するような武闘派で、家光三十歳の時に病に臥せった際には大軍を率いて上京するという事をしでかし家光を慌てさせる。
 以降尾張家は何かと将軍家と同格であるという家風になり、また義直の強烈な尊王の気質を継承していく。これは幕末の重要なファクターとなる。
 八代目将軍吉宗と七代藩主宗春は同時代だが、将軍が享保の改革で質素・倹約をしている時に名古屋では大っぴらに規制緩和を奨励する(後に少し改めはしたが)。折りしも水戸藩の大日本史出版問題で幕府と朝廷が対立を深める中で尊王が藩是の宗春はとうとう蟄居謹慎させられる。宗春はわざと朝鮮通信使の格好を真似したり、白い牛に跨ってウロウロしてみせたり、兎角目障りだったのだろう。面白い人なんだが。
 その後、いやがらせのように将軍家から養子を押し付けられたりしていたが、幕末の時代に名古屋系の高須松平家から慶勝が藩主となる。悪い時に藩主になったとしか言いようがない。
 時代が時代だけに藩祖伝来の尊皇攘夷主義者として開国を指導した井伊直弼と対立し直ぐに蟄居謹慎。ところが井伊が暗殺されると復活する。
 ここから長州の大暴れが始まり目まぐるしく情勢が二転三転するのはご案内の通り。何と慶勝は第一次長州征伐の征長総督になるが、征長軍全権を委任された参謀格はあの西郷吉之助である(この時点で長州は朝敵)。その後スッタモンダの挙句に第二次長州征伐の途中将軍・家茂が大坂城で薨去、従兄弟の一橋慶喜が十五代将軍になるという巡りあわせだ。

 最後の将軍は図抜けて頭が切れたことで知られる。朝廷に対し怒る・拗ねる・開き直る、といった腹芸をしてみせ、ついに大政奉還の大博打を打つような胆力も備わっていた。既に開国に舵は切られており攘夷もクソもない。現に貿易を通じて幕府は大儲けしていた。
 ところがこの将軍、頭が切れすぎて感情の起伏が制御できなかったと思われる。極めて饒舌だったとされるが、相手を見下して追い詰めるように論破してしまうのだろう。
 更に酒癖は悪い。中川宮邸に夜半泥酔・帯刀して殴りこみをかけるような振る舞いに及ぶ。筆者も酒乱のケがあるので良く分かるが、酔っ払うと物凄く早口になって喋りまくり翌日記憶を失っていたりすると胸クソが悪くなる。あの酔った感じは脳が考えているのじゃなくて舌が考えているのじゃないかと思えるほどだ。
 第二次長州征伐に行こうと言い出した時は兵隊用の排膿を背負ってはしゃぎまくっている姿が目撃されているが、鳥羽伏見のしょっぱなで押されるとドーンと落ち込む。挙句にコッソリ江戸に逃げ出すのだが、その時に無理矢理連れていかれた会津の松平容保と桑名の松平定敬は何と徳川慶勝の実弟達なのだ。
 更にバカバカしいことに幕軍がいなくなって開城された大阪城の城受け取りに行かされたのは慶勝という皮肉なことに。その段階で京都にいた慶勝は既に討幕の腹を固めたのか、この間の慶勝の心の葛藤たるや凄まじいものがあっただろう、藩是の尊王か宗家への忠誠か。
 実は第一次長州征伐の際にほぼ話し合いで納めた長州の措置が寛大すぎるとして慶喜に非難されたようで、慶喜に含む所があったのではないかと推測している。
 官軍は尾張藩を素通りどころか江戸まで全く戦闘なしに通過するが、その際慶勝が街道諸藩・寺社に『抵抗せずに通すように』という趣旨の所感を数百通も出していたからだと言われている(現物が残っている)。
 江戸は無血開城され、その腹いせのように弟の容保・定敬はとんでもない目に会う。更に慶喜が将軍になった後の一ツ橋家を継いだのはこれまた慶勝の弟、徳川茂徳というオマケもついている(この人は異母弟だから慶喜の従兄弟ではない。慶勝が安政の大獄で謹慎だったときには尾張藩主になっていた)。

 慶喜と慶勝のなんとも言えない運命の皮肉である。
 慶喜は若い頃にヒマに任せて絵画に勤しむような趣味人のところもあり、維新後駿府に行ってからは狩猟・写真に油絵やサイクリング等も楽しみ興味の赴くままに暮らした。地元の人々からも慕われていたそうである。その後貴族院議員にもなるが、政治的には何もしなかった。
 実は手裏剣の達人でもあった。
 一方の慶勝も写真には一家言あるほど熱中した。撮影から現像まで様々な薬品の調合なども一人でやり、今日そのメモが残されている。いわゆる理系の真面目な人だったと推察する。
 大雑把にいうと、共に凝り性なのだが慶喜は今で言う文系、慶勝は理系の頭脳だったのかと思う。次回は二人を対談させて心の奥を覗いてみたい。
 それでなくとも徳川は多士済々だ 徳川奇人伝
 尾張徳川は前述の通り、御三家筆頭ながら遂に一人も将軍を出せなかった。

最後の将軍と尾張藩主 Ⅱ

慶喜の手裏剣

徳川 奇人伝(今月のテーマ 列伝)


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怨霊 (今月のテーマ 列伝)

2016 APR 29 1:01:33 am by 西室 建

 怨霊というおどろおどろしいモノが文献に現れるのは平安時代からだそうだ。その前にも不遇をかこったり裏切りにあって怒りのままに死を遂げた人はいただろうが、飛鳥・奈良時代は概して明るい印象で、例えば大国主命は祟ったりしない。聖徳太子の長男、山背大兄王も蘇我氏に厄災をもたらしたことになっていない。

 どうも露骨に祟ったのは早良親王あたりからではないか。桓武天皇の異母弟だ。長岡京遷都阻止のため藤原種継を暗殺しようとしたと(冤罪説あり)疑われ、淡路島に流される途中に絶食・憤死したらしい。するとその後、皇族の病死に洪水などが相次ぎ、早良親王の祟りと言われた。ビビッた朝廷は鎮魂の儀式を執り行う。
 これから魂鎮めというものが行われるようになったという仮説を立てている。

 祟りといえばの菅原道真公は外せない。藤原時平と対立して大宰府に左遷され、2年ほどで死んでしまう。たちまち時平はおろか皇族までもが次々に病死する。クライマックスは朝議中の御所清涼殿に雷が落ちて醍醐天皇の目の前で死傷者が出る。帝はショックのあまり直後に崩御。これは効いただろう。
 天神様に祭り上げて敬った。

 一方平将門なんかは賊軍中の賊軍。さぞや、と思われるが討ち取られた後には直ぐに祟っていない。早々と祭られてしまったからだろう。
 しかし、敗戦後にやってきた進駐軍には腹を据えかねたと見える。無礼にもGHQが区画整理をしようとした際、夷狄を次々に成敗してみせた。それに先立つ関東大震災後にも、大蔵省の仮庁舎を建てようとした不埒者に祟ってみせた。やはり江戸庶民の目線を持った怨霊と言えよう。

 確信犯的に自ら怨霊化したのが崇徳上皇。保元の乱で讃岐に流されると言う辱めを受ける。これは淳仁天皇以来四百年ぶりの恥辱である。院は自分が書いたお経を京に送るが、破り返されて怒り狂う。何しろ舌先を噛んだ血で「日本国の大魔王となり皇を取って民とし民を皇となさん」と書いたというから凄まじい。これ程の怨念が祟らぬはずは無く、やはり皇族がバタバタ亡くなった。
 どうも皇族側は遥か後世まで気に懸けたらしく、明治天皇は即位の際に、昭和天皇は八百年祭(神道における法事)に勅使を讃岐に遣わしている。

 僕が何度か怨霊界のスーパースターとしてブログに書いた後醍醐天皇は、実際には祟らなかった。この頃はハナから危ないケースはさっさと祭り上げてしまうことになったと思われる。崩御後、後村上天皇は荘厳浄土寺において大法要を行い、足利尊氏もまた南朝ゆかりの京都嵯峨に天竜寺を造って鎮めてしまった。

 磯部浅一と言われて直ぐにピンと来る人は少ないだろう。この人は2・26の首謀者の一人だが、とんでもないことに戦後になって祟った。銃殺刑に処されるが、その直前の語録が何とも言えない。
「余は死にたくない。もう一度出てやり直したい。三宅坂の台上を三十分自由にさしてくれたら、軍幕僚を皆殺しにしてみせる、死にたくない、仇がうちたい、全幕僚を虐殺して復讐したい。」
「天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ。」
「成仏するつもりなどさらさならない、悪鬼となりて所信を貫徹するのだ。」
 狂っている。
 それがどういう訳か三島由紀夫に取り付いて祟った。
 三島は自宅で度々お気に入りを集めて凝ったパーティーを催していたが、ある時霊能者とも言われる美輪明宏が『三島さんの背中のところに変な人影が見える、二・二六事件の関係者らしい」と言った。三島は笑いながらそれは誰それかと尋ねると、違う。それではこの男か、と次々に名前を挙げると、磯部浅一と言った所で「それだ!」となった。三島は青ざめた、と石原慎太郎が書いている。その辺りから三島の行動がおかしくなって行き市ヶ谷の事件に至ったとか・・。

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同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

三島由紀夫の幻影

百済王・高麗王・新羅三郎 (今月のテーマ 列伝)

2016 APR 18 0:00:43 am by 西室 建

 全部人の名前です、半島南下論者が泣いて喜びそうな。
 ところが百済王はご期待の百済の亡命王族ではなく、歴とした皇族で「くだらのおおきみ」であります。残念ながら半島とは何の関係もありません。旧百済からの渡来人は大勢いたので”言葉”としてのクダラはポピュラーな響きだったでしょう。現代で言えば名前の付けるのは「テリー伊藤」とか「ジェット・ニシムロ」のようなしゃれた感じかと想像します(ジェット・ニシムロはさておき)。
 
 高麗王は”こまおう”でも”こまのおおきみ”でもありません。「こまの こにきし」と読みます。
 高麗若光という人物が、唐・新羅連合軍に敗れた後に日本へ組織的に逃げて来て”コニキシ”の姓(カバネ)を与えられ武蔵国高麗郡に入植します。埼玉県日高市の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在60代目の名家です。この高麗神社は格式が高そうな立派な造りになっていて江戸期の住居跡もあり、何度か行きました。高麗王というお酒もあるんですな。こちらは由緒正しい半島出身。
 又、何度か韓国人ビジネスマンとこの近くのゴルフ場に行った時にお参りに誘うと大変喜ばれました。中にはもう一度観光に行った人も。半島全体に高麗王朝があったので、その流れが来たものだと思っているらしく『ここはコリョじゃない。コ・グ・リョの人達だ(即ち”北”の方の子孫)』と言うと益々受けました。
 三鷹の連雀町に住んでいた時、近所に墓地があり「高麗」という墓石が沢山ありました。このお墓はきっと高麗氏一族の系統かと想像します。殆どが暗渠になっていますが調布には入間川も流れていて読み方も埼玉の”いるまがわ”と同じ。
 三鷹近辺から埼玉西部へのルートは古くからあったと想像できます。犯罪マニア(猟奇・変質・怨恨等の殺人ではない)の間では「三億円強奪事件」の現金輸送ルートとしても知られています。事件当時このエリアには米軍基地がまだあって、そこを抜けたとされる仮説ですが。

 新羅三郎とは本名源義光。源氏の棟梁源義家の弟で、”しらぎ”ではなく”しんら”と音読みします。この源氏の嫡流兄弟はそれぞれ八幡太郎(義家)・加茂次郎(義綱)・新羅三郎(義光)と元服した神社の名前を頂いて名乗ったので半島とは関係ありませんね。新羅神社は現在の三井寺のことです。
 余談ですがこのうち次男坊は一族の内乱を煽動した咎で佐渡に流されるのです。そして息子六人が、長男・次男投身自殺、三男戦死、四男焼身自殺、五男切腹、六男自害と一斉に死に絶える凄まじさで家系は絶えます。
 そして三郎義光は兄義家を助けて後三年の役などで活躍し、その家系からは佐竹・武田といった戦国武将が。中に一系統、戦に負けてばかりいて止めの一撃に武田信玄の初陣で追っ払われた家がありますが、三回忌を迎える死んだおふくろ様の実家であります。

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同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

怨霊 (今月のテーマ 列伝)

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

2016 APR 11 5:05:42 am by 西室 建

 西行は見上げるような大男で、武道も強かったそうだ。
 平新皇将門征伐に功があった藤原秀郷(別名 大百足退治の俵藤太)の家柄で北面の武士だった。それが時代は平安末期の源平合戦の最中に僧形になってあっちへ行ったりこっちに住んでみたり。
 朝廷でも後鳥羽院を中心に和歌の格式を買われて顔が利いていた風狂なオッサン。要するに不良のオッサンだったと。
 例えばですねぇ、伊勢神宮で詠んだとされるこれはふざけてるんじゃないか。
 
 何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる

 いくらなんでもベタ過ぎる。これは高校時代に授業を怠けていた時に「何事を お教えなさるか分からねど かたじけなさに涙こぼるる」と(確か古文だったぞ)本歌取りされてクラスで流行った。
 
 願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

 これだってこの歌を詠んで本当にその時期に死んだから評価が高いが、真夏にでも死んだらどうするつもりだったのだろうか。
 幕府を開いた源頼朝と会っているが何しに行ったのか不明。銀でできた猫を貰ったものの、門を出た途端にそこらの子供にやってしまったと言う。きっと重くて面倒になったのだろう。

 法力房蓮生。誰の事か分からないのでは。
 それではこちらの台詞はどうか。
「やあやあ、我こそは武蔵の国の住人熊谷次郎直実、伝えても聞くらん、今は目にも見よや。日本第一の豪の者ぞ。我と思わん人々は、楯の面へかけ出でよ」
 一の谷で先陣を争い平敦盛を討ち取って無常観に取り付かれていた所、地元の土地争いの評定で源頼朝の目の前でプッツンして席を立つ。直情怪行型のオッサンそのもの。その後事もあろうに法然上人に弟子入りしたあの熊谷次郎直実の法名が蓮生なのだ。
 こう単純では仏法修行の方は知れたものだろうが、その分体でご奉公とばかりにアチコチにお寺を建立している。
 幸若舞の演目『敦盛』で出家した法力房蓮生が世をはかなむ「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」の一節が信長に好まれて有名になるが、絶対にこんなことを言えるタマじゃない。
 西行と同じようにわざわざ高札を立て、来春に極楽往生すると言いふらしたがそうはならなかった。翌年再び予告してどうなったのかは知らない。

 鴨長明。こちらの御仁は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」の方丈記。
 下賀茂神社の禰宜の家に生まれたものの派閥争いでなりそこなって神職の道を断たれる。すると、これまた出家して和歌の道を進む。 琴や琵琶などの名手でもある。
 察するにクソ真面目な人なのだが出世しそこなってフテ腐れたのだろう。グチグチ文句ばかり言ってるくせに和歌が褒められると舞い上がるような。
 そしてここで西行のところで出てきた後鳥羽院が噛んで来る。後鳥羽天皇は壇ノ浦で安徳天皇が三種神器とともに入水してしまったため4歳でドサクサと天皇になってしまうが、鎌倉に幕府はできてしまうし全く気の毒なフテ腐れ人生だ。終いには承久の乱でメチャクチャに負けて隠岐島行き、そこで崩御。ついでに息子の順徳上皇は佐渡島。二人とも怨霊になったことになっている。
 鴨長明は推挙されて和歌を教えにノコノコ鎌倉まで行くが、歌人将軍・源実朝とは作風が違いすぎて断られたらしい。
 一丈四方の庵で書いたので方丈記。無論隠棲文学の名作で、乱世を生きる無常観の高みではある。

 それでこの三人、平安末期から鎌倉前期と源平合戦の時代の空気を吸っている。西行が一番年上で20年後に直実、その15年後に長明。西行は80歳くらいまで生きたので一番後の鴨長明とも30年以上ラップしている。近くお互い名前くらいは聞いていたのじゃないかと思うのだが、記録はないようだ(あったら教えて下さい)。
 ふざけた不良オヤジと単純プッツンオヤジにクソ真面目不貞腐れオヤジが会っていたら面白いのに。

 しかし不良もプッツンも不貞腐れも出家してしまえば何とかなるのも羨ましい。源平合戦の真っ最中ですぞ! 

わかったぞ 白隠禅師

怨霊 (今月のテーマ 列伝)

 

百済王・高麗王・新羅三郎 (今月のテーマ 列伝)


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怪僧列伝メチャクチャ編(今月のテーマ 列伝)

2016 MAR 1 0:00:55 am by 西室 建

 坊さん列伝をやってみたら止められなくなった。

弓削道鏡
 太政大臣禅師に任ぜられた翌年には法皇という誰もなったことのないポストに就く(無論その後もいない)。ここでは伝聞には触れないが、時の天皇の寵愛を受けて出世する。
 この時代背景は実に複雑で、天皇家も天智・天武の両系統があり、周りも藤原仲麻呂やら橘奈良麻呂、大伴古麻呂といった大物がゴチャゴチャしていて”乱”が起きたり暗殺があったり。この状況の元、
阿倍内親王は天皇・上皇・また天皇と大変な道を歩む。即ち重祚した孝謙(46代)・称徳(48代)天皇である。道鏡に皇位につかれると、現在も議論されている女系天皇が実現したかもしれないのだ。
 ここは結構重要なところで、孝謙・称徳天皇は壬申の乱の勝ち組、天武天皇系だ。そしてここで絶えて次の光仁天皇から天智天皇の系統に戻る。
 道鏡自身は大変な学僧であったのは間違いないと思う。しかしこの辺り今でいうK・Y過ぎたのじゃなかろうか、本人の逸話は消されてしまった。何も悪いことはしていなかった?むしろ本人が言い出したのではなく天智・天武の争いに巻き込まれたのかも知れない。崩御後は淡々と下野の国に赴任している。
 SMCの観桜会で皇室縁の京都泉湧寺(せんにゅうじ)にお参りした際、天智天皇に次いで光仁天皇の位牌があり、途中天武天皇から称徳天皇までの天武系九代の位牌はなかったことが確認されている。

文観  
 真言密教立川流の中興の祖で、怪人同士気が合ったのか後醍醐天皇に重用された。立川流は武蔵の国立川にて(今の立川市)起こった奇怪な教義で邪教として弾圧され今は残っていない。それを極めた。
 相当にアブナい坊さんで、鎌倉幕府の調伏をやったのがバレて流罪。これ鹿児島のナントカ島まで流された。
 ところが運よく建武の新政になって京都に戻ってくるが、あまりに危険なセックス教団だったので高野山と対立して甲斐国へ。すると都合よく南北朝でモメが始まり後醍醐天皇について吉野に現れ大僧正となる。
 立川流のご本尊は人間の頭蓋骨を加工して昼夜八年祀り養い『髑髏本尊』とする。
 本人達が大真面目だったのか分からないがこんなもん真言密教もクソもなかろうに。一体どこから調達したのだろうか。ただ民間には有徳の僧の髑髏を供養すれば呪いやらお告げが聞けるという恐ろしい信仰はあったようだ。キモイ。

果心居士
 坊さんかどうか疑わしいが記録には残っている。それも面談したのは織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀と大物揃い。慶長年間に名前を変えて駿府の家康に目通りした怪しげな因心居士というのがいるが、同一人物だろう。
 そのころは怨霊・物の怪何でもありだ。現代の簡単な手品みたいなもので人はコロッと騙されていたろう。恐らく口も上手く演技力十分の詐欺師。
 そしてそう言った輩は大勢いたものと思われる。そのテの目くらましとオベンチャラで召し抱えられようと戦国大名に近寄った。
 信長にもを安土でテキトーな術をやっていた無辺というのが寄って来て、一発で見抜かれてポイ。”飛び加藤”こと加藤段蔵は上杉謙信に謁見するもあまりの怪しさに殺されかけ、逃げ出して武田信玄に会うものの今度は本当に惨殺される。
 果心居士も秀吉にあったまではいいが、磔にされたとか鼠に姿を変えて逃げたとか。
 幻術こそ使わないが今の世の中にもいるよな、嘘ばかりつく奴。オレオレ詐欺なんかこういったのが源流か、病的な詐話をいくらでも喋っている。

隆光僧正
 これまた真言系新義真言宗大僧正。本山根来寺といえば一大鉄砲僧兵団を擁した言ってみれば傭兵の卸元。教義がどうだか知らないがそれだけで何やらヤバい。
 5代将軍綱吉に子がいないことを悩んでいた生母の桂昌院に天下の悪法『生類憐みの令』を吹き込んだ。桂昌院は京都の「西陣織屋の」「八百屋の」「大根売りの」娘と言われていた三代家光の側室で、迷信深い体質だったのだろう。息子の将軍の方も思い込んだら前のめりに夢中になるところは良く似た体質だったと思われる。
 それでその親子に目を据えられて『跡継ぎ生まれぬのは前世の祟りか、今生の不養生か』などとせまられて隆光僧正も『そんなことお前のせいだ』とは言えない。苦し紛れに『生き物をいたわるようにすれば』と出まかせをいったところ「殺生を慎め」という御触れになってしまった、くらいだろう。
 将軍は大真面目だが効果なんかあるわけない.『隆光坊、余は未だに子宝に恵まれぬ』『ヘッヘー。上様は丙戌年のお生まれ。特にお犬様をお大切に』と言った具合にエスカレートしただろう。
 そもそもこんなもの後生大事に遵守するわけない。取り締まる方だってばかばかしい。10年位やってお咎めは百件もない。魚鳥類を売ることを禁止、病気の馬を遺棄して遠島、吹矢で燕を撃って死罪、冗談のような話だ。
 どうやら江戸城下や天領で運悪く見つかった者だけのようだ。

拳骨和尚 武田物外
 幕末にいた怪力無双の雲水。諸国を遍歴し永平寺の釣鐘を下ろし、加賀では力比べで召し抱えられ、江戸で碁盤を殴りつけて手形とし、茶碗を指で粉々にしたり、いやもう仏法修行はどこに行ったのやら。この殴りつけて跡の残った碁盤はいくつか現存している。
 ハイライトは京都の新撰組道場での近藤勇との対決。何故かしら近藤は槍を持ち突きかけたところ身をかわされて槍の柄の先端にある金具をつかまれる。すさまじい怪力にビクともしなくなり膠着する。たまらぬと近藤が引っ張ると頃を見て手放され後ろへ飛んでしまった。
どういう思想的背景か単なる調子乗りなのか。第一次長州征伐の調停役として、孝明天皇に直接に奏上したそうだ。

怪僧列伝戦国・江戸編(今月のテーマ 列伝)

怪僧列伝 カトリック編

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怪僧列伝戦国・江戸編(今月のテーマ 列伝)

2016 FEB 23 22:22:10 pm by 西室 建

 仏教伝来の後、ありがたき教えを広めたり新たな教義を打ち立てた名僧は数々おわす。お陰で我々の生活の隅々までに染み込むように御仏の御威光が満ちている事は喜ばしい。私事だが僕は下町の仏教系の幼稚園に通っていて、四月八日のお釈迦様の誕生日には花祭りと称して小さい仏像に甘茶をかけていた(神田明神下のその幼稚園は驚いた事に今日もまだ存続している)。
 しかも日本史の節目節目に重大な役割を果たした坊さんは多い。
 ずらりと並べると大変なことになってしまうので、戦国時代~江戸時代の有名所を何人か挙げてみたい。その頃は戦国大名の側近に怪しいのも含めて結構多士済々なのだ。
 
太原雪斎(たいげんせっさい)
 今川義元の懐刀。甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。元々大変な秀才の学僧だったが、請われて今川の参謀役となる。
 時に一軍を率いて戦闘を指揮し、信長の父信秀の三河侵攻作戦を撃退もしている。織田の人質だった少年の徳川家康を取り返したことでも有名。
 この縁で逆に今川に人質となった家康の、学問・軍学の師でもあったそうだ。
 この人が死んで5年後が桶狭間だ。もう少し長生きされたら桶狭間がどうなったか分からないと考える人は多い。

顕如上人

顕如上人 コワッ

顕如光佐(けんにょこうさ)
 信長の宿敵。石山本願寺第十一世。何しろ戦国時代の重大な補助線である一向一揆の卸元だから、日本中で戦乱を起こした張本人。信長とは十年に渡って対峙した。
 越前では1万2千人以上が討ち取られ、伊勢長島では2万人が焼殺されるなど、膨大な犠牲者を出したが屈せず石山合戦となる。
 石山本願寺はテラではなく、濠・土塁で防御を固めた一大城砦都市である。50以上の支城を配し守りは固い。信長に制海権を握られた後も約1年半無補給で耐えられた。負けた後に出火するが二昼夜燃え続けたというから戦闘規模は大阪冬・夏の陣よりもデカかった。顕如の強烈なカリスマ性が偲ばれるが、その分さぞドロドロの戦いだったろう。
 その後和睦し生き残り、秀吉の下摂津中島に天満本願寺を、後に京都の七条堀川に現在の西本願寺に教団をささやかに再興する。

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
 毛利家の外交を取り仕切った臨済宗の僧。渉外能力も高いが自ら一軍を率いて戦闘もやる。
 ラッキーなことに羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた時に本能寺の変が起きた。秀吉が中国大返しのために和睦案を出し、恵瓊が対応した。その能力を買われて秀吉側近の豊臣大名にチャッカリなってみせた。これは恐らく毛利の反感をかなり掻き立てたのではないかと筆者は仮説を持っている。
 関が原の際には毛利本隊は全然やる気が無く、毛利の両川(りょうせん)と言われた吉川・小早川は寝返りまでしたのに恵瓊には全く知らされていない。捕らえられ六条河原にて斬首されてしまった。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)
 室町幕府の名門一色(いっしき)家出身で、南禅寺の住職になった大秀才。その後請われて徳川家康に仕え、当初は朱印船貿易を行う外交を一手に捌いていた。それが鎖国に振れると伴天連追放之文を起草する。この辺節操がないとも言えるが事務能力の図抜けた高さが感じられる。寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度も全てこの人の手によるものだ。
 例の方広寺の「国家安康」「君臣豊楽」にイチャモンを付けたのもこの人らしい、何か陰湿だ。
 「黒衣の宰相」と称されたが、対立側からは「天魔外道」と嫌われた。要するにイヤなやつだったと思われる。

南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
 推定100才以上生きた怪人。太閤北条攻めの頃から突如家康の側近として姿を現したことから、光秀成りすまし説がある。比叡山延暦寺で信長の焼き討ちにあった。そのせいか家康政権の下で比叡山探題執行にもなっていた。
 天海は古代中国の陰陽五行説を駆して江戸の町を設計した。鬼門鎮護に寛永寺を築き、裏鬼門にあたる増上寺を徳川家の菩提寺にする。天守閣は寛永寺・増上寺を結ぶ線と浅草寺と日枝神社を結ぶ線が交差する位置に決めた。何だか風水師か詐欺師の趣がある。
 ハイライトは家康の神号について、突如あまり馴染みのない山王一実神道の「権現」とすると言い出して、「明神」と祭るつもりだった前出の崇伝と激しく対立する。『怪しげな風水師』VS『イヤな奴秀才』の対決になるが、結果はご承知の通り権現様になった。
 驚くべき長寿で三代家光にまで仕えて百八才で死んだことになっているが煩悩の数の年で死んだとは益々アヤシい。

建僧都室西(たけるそうずしっさい)
 正体不明の怪僧。研究者の間で最近にわかに名前が挙がった謎の人物。一説には妖術使いとも言われている。『小山田文書』『西願寺文書』等で名前が確認されたが、鎖国時代に呂宋・越南・暹羅(シャム)・満刺加(マラッカ)・咬吧(ジャガタラ)と東南アジアをウロウロしたと考えられている。近年現地での文書に「シー・スー・チェン」という名でたびたび登場する倭寇崩れと、西願寺文書の建僧都士室西が同一人物だということが分かり、時代考証的に注目された。
 ただこの人物は記録上では二百歳くらい生きた事になってしまい、学者間では『複数説』や『単なる嘘吐き説』の論争がある。或いはなにかの秘密結社で受け継がれた名前なのかもしれない。どこで没したかもわかっていない。
 実際現代でも”建室西(たける・しっさい)”をさかさまにした名前でブログに嘘っ八を書き散らしている人物がいるらしい。

怪僧列伝メチャクチャ編(今月のテーマ 列伝)

怪僧列伝 カトリック編

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)


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