Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 列伝

百済王・高麗王・新羅三郎 (今月のテーマ 列伝)

2016 APR 18 0:00:43 am by 西牟呂 憲

 全部人の名前です、半島南下論者が泣いて喜びそうな。
 百済王はご期待の百済の亡命王族ですが、「くだらのおおきみ」と詠みます。旧百済からの渡来人は大勢いたので”言葉”としてのクダラはポピュラーな響きだったでしょう。現代で言えば名前の付けるのは「テリー伊藤」とか「ジェット・ニシムロ」のようなしゃれた感じかと想像します(ジェット・ニシムロはさておき)。
 
 高麗王は”こまおう”でも”こまのおおきみ”でもありません。「こまの こにきし」と読みます。
 高麗若光という人物が、唐・新羅連合軍に敗れた後に日本へ組織的に逃げて来て”コニキシ”の姓(カバネ)を与えられ武蔵国高麗郡に入植します。埼玉県日高市の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在60代目の名家です。この高麗神社は格式が高そうな立派な造りになっていて江戸期の住居跡もあり、何度か行きました。高麗王というお酒もあるんですな。こちらも由緒正しい半島出身。
 又、何度か韓国人ビジネスマンとこの近くのゴルフ場に行った時にお参りに誘うと大変喜ばれました。中にはもう一度観光に行った人も。半島全体に高麗王朝があったので、その流れが来たものだと思っているらしく『ここはコリョじゃない。コ・グ・リョの人達だ(即ち”北”の方の子孫)』と言うと益々受けました。
 三鷹の連雀町に住んでいた時、近所に墓地があり「高麗」という墓石が沢山ありました。このお墓はきっと高麗氏一族の系統かと想像します。殆どが暗渠になっていますが調布には入間川も流れていて読み方も埼玉の”いるまがわ”と同じ。
 三鷹近辺から埼玉西部へのルートは古くからあったと想像できます。犯罪マニア(猟奇・変質・怨恨等の殺人ではない)の間では「三億円強奪事件」の現金輸送ルートとしても知られています。事件当時このエリアには米軍基地がまだあって、そこを抜けたとされる仮説ですが。

 新羅三郎とは本名源義光。源氏の棟梁源義家の弟で、”しらぎ”ではなく”しんら”と音読みします。この源氏の嫡流兄弟はそれぞれ八幡太郎(義家)・加茂次郎(義綱)・新羅三郎(義光)と元服した神社の名前を頂いて名乗ったので半島とは関係ありませんね。新羅神社は現在の三井寺のことです。
 余談ですがこのうち次男坊は一族の内乱を煽動した咎で佐渡に流されるのです。そして息子六人が、長男・次男投身自殺、三男戦死、四男焼身自殺、五男切腹、六男自害と一斉に死に絶える凄まじさで家系は絶えます。
 そして三郎義光は兄義家を助けて後三年の役などで活躍し、その家系からは佐竹・武田といった戦国武将が。中に一系統、戦に負けてばかりいて止めの一撃に武田信玄の初陣で追っ払われた家がありますが、三回忌を迎える死んだおふくろ様の実家であります。

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同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

怨霊 (今月のテーマ 列伝)

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

2016 APR 11 5:05:42 am by 西牟呂 憲

 西行は見上げるような大男で、武道も強かったそうだ。
 平新皇将門征伐に功があった藤原秀郷(別名 大百足退治の俵藤太)の家柄で北面の武士だった。それが時代は平安末期の源平合戦の最中に僧形になってあっちへ行ったりこっちに住んでみたり。
 朝廷でも後鳥羽院を中心に和歌の格式を買われて顔が利いていた風狂なオッサン。要するに不良のオッサンだったと。
 例えばですねぇ、伊勢神宮で詠んだとされるこれはふざけてるんじゃないか。
 
 何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる

 いくらなんでもベタ過ぎる。これは高校時代に授業を怠けていた時に「何事を お教えなさるか分からねど かたじけなさに涙こぼるる」と(確か古文だったぞ)本歌取りされてクラスで流行った。
 
 願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

 これだってこの歌を詠んで本当にその時期に死んだから評価が高いが、真夏にでも死んだらどうするつもりだったのだろうか。
 幕府を開いた源頼朝と会っているが何しに行ったのか不明。銀でできた猫を貰ったものの、門を出た途端にそこらの子供にやってしまったと言う。きっと重くて面倒になったのだろう。

 法力房蓮生。誰の事か分からないのでは。
 それではこちらの台詞はどうか。
「やあやあ、我こそは武蔵の国の住人熊谷次郎直実、伝えても聞くらん、今は目にも見よや。日本第一の豪の者ぞ。我と思わん人々は、楯の面へかけ出でよ」
 一の谷で先陣を争い平敦盛を討ち取って無常観に取り付かれていた所、地元の土地争いの評定で源頼朝の目の前でプッツンして席を立つ。直情怪行型のオッサンそのもの。その後事もあろうに法然上人に弟子入りしたあの熊谷次郎直実の法名が蓮生なのだ。
 こう単純では仏法修行の方は知れたものだろうが、その分体でご奉公とばかりにアチコチにお寺を建立している。
 幸若舞の演目『敦盛』で出家した法力房蓮生が世をはかなむ「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」の一節が信長に好まれて有名になるが、絶対にこんなことを言えるタマじゃない。
 西行と同じようにわざわざ高札を立て、来春に極楽往生すると言いふらしたがそうはならなかった。翌年再び予告してどうなったのかは知らない。

 鴨長明。こちらの御仁は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」の方丈記。
 下賀茂神社の禰宜の家に生まれたものの派閥争いでなりそこなって神職の道を断たれる。すると、これまた出家して和歌の道を進む。 琴や琵琶などの名手でもある。
 察するにクソ真面目な人なのだが出世しそこなってフテ腐れたのだろう。グチグチ文句ばかり言ってるくせに和歌が褒められると舞い上がるような。
 そしてここで西行のところで出てきた後鳥羽院が噛んで来る。後鳥羽天皇は壇ノ浦で安徳天皇が三種神器とともに入水してしまったため4歳でドサクサと天皇になってしまうが、鎌倉に幕府はできてしまうし全く気の毒なフテ腐れ人生だ。終いには承久の乱でメチャクチャに負けて隠岐島行き、そこで崩御。ついでに息子の順徳上皇は佐渡島。二人とも怨霊になったことになっている。
 鴨長明は推挙されて和歌を教えにノコノコ鎌倉まで行くが、歌人将軍・源実朝とは作風が違いすぎて断られたらしい。
 一丈四方の庵で書いたので方丈記。無論隠棲文学の名作で、乱世を生きる無常観の高みではある。

 それでこの三人、平安末期から鎌倉前期と源平合戦の時代の空気を吸っている。西行が一番年上で20年後に直実、その15年後に長明。西行は80歳くらいまで生きたので一番後の鴨長明とも30年以上ラップしている。近くお互い名前くらいは聞いていたのじゃないかと思うのだが、記録はないようだ(あったら教えて下さい)。
 ふざけた不良オヤジと単純プッツンオヤジにクソ真面目不貞腐れオヤジが会っていたら面白いのに。

 しかし不良もプッツンも不貞腐れも出家してしまえば何とかなるのも羨ましい。源平合戦の真っ最中ですぞ! 

わかったぞ 白隠禅師

怨霊 (今月のテーマ 列伝)

 

百済王・高麗王・新羅三郎 (今月のテーマ 列伝)


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怪僧列伝メチャクチャ編(今月のテーマ 列伝)

2016 MAR 1 0:00:55 am by 西牟呂 憲

 坊さん列伝をやってみたら止められなくなった。

弓削道鏡
 太政大臣禅師に任ぜられた翌年には法皇という誰もなったことのないポストに就く(無論その後もいない)。ここでは伝聞には触れないが、時の天皇の寵愛を受けて出世する。
 この時代背景は実に複雑で、天皇家も天智・天武の両系統があり、周りも藤原仲麻呂やら橘奈良麻呂、大伴古麻呂といった大物がゴチャゴチャしていて”乱”が起きたり暗殺があったり。この状況の元、
阿倍内親王は天皇・上皇・また天皇と大変な道を歩む。即ち重祚した孝謙(46代)・称徳(48代)天皇である。道鏡に皇位につかれると、現在も議論されている女系天皇が実現したかもしれないのだ。
 ここは結構重要なところで、孝謙・称徳天皇は壬申の乱の勝ち組、天武天皇系だ。そしてここで絶えて次の光仁天皇から天智天皇の系統に戻る。
 道鏡自身は大変な学僧であったのは間違いないと思う。しかしこの辺り今でいうK・Y過ぎたのじゃなかろうか、本人の逸話は消されてしまった。何も悪いことはしていなかった?むしろ本人が言い出したのではなく天智・天武の争いに巻き込まれたのかも知れない。崩御後は淡々と下野の国に赴任している。
 SMCの観桜会で皇室縁の京都泉湧寺(せんにゅうじ)にお参りした際、天智天皇に次いで光仁天皇の位牌があり、途中天武天皇から称徳天皇までの天武系九代の位牌はなかったことが確認されている。

文観  
 真言密教立川流の中興の祖で、怪人同士気が合ったのか後醍醐天皇に重用された。立川流は武蔵の国立川にて(今の立川市)起こった奇怪な教義で邪教として弾圧され今は残っていない。それを極めた。
 相当にアブナい坊さんで、鎌倉幕府の調伏をやったのがバレて流罪。これ鹿児島のナントカ島まで流された。
 ところが運よく建武の新政になって京都に戻ってくるが、あまりに危険なセックス教団だったので高野山と対立して甲斐国へ。すると都合よく南北朝でモメが始まり後醍醐天皇について吉野に現れ大僧正となる。
 立川流のご本尊は人間の頭蓋骨を加工して昼夜八年祀り養い『髑髏本尊』とする。
 本人達が大真面目だったのか分からないがこんなもん真言密教もクソもなかろうに。一体どこから調達したのだろうか。ただ民間には有徳の僧の髑髏を供養すれば呪いやらお告げが聞けるという恐ろしい信仰はあったようだ。キモイ。

果心居士
 坊さんかどうか疑わしいが記録には残っている。それも面談したのは織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀と大物揃い。慶長年間に名前を変えて駿府の家康に目通りした怪しげな因心居士というのがいるが、同一人物だろう。
 そのころは怨霊・物の怪何でもありだ。現代の簡単な手品みたいなもので人はコロッと騙されていたろう。恐らく口も上手く演技力十分の詐欺師。
 そしてそう言った輩は大勢いたものと思われる。そのテの目くらましとオベンチャラで召し抱えられようと戦国大名に近寄った。
 信長にもを安土でテキトーな術をやっていた無辺というのが寄って来て、一発で見抜かれてポイ。”飛び加藤”こと加藤段蔵は上杉謙信に謁見するもあまりの怪しさに殺されかけ、逃げ出して武田信玄に会うものの今度は本当に惨殺される。
 果心居士も秀吉にあったまではいいが、磔にされたとか鼠に姿を変えて逃げたとか。
 幻術こそ使わないが今の世の中にもいるよな、嘘ばかりつく奴。オレオレ詐欺なんかこういったのが源流か、病的な詐話をいくらでも喋っている。

隆光僧正
 これまた真言系新義真言宗大僧正。本山根来寺といえば一大鉄砲僧兵団を擁した言ってみれば傭兵の卸元。教義がどうだか知らないがそれだけで何やらヤバい。
 5代将軍綱吉に子がいないことを悩んでいた生母の桂昌院に天下の悪法『生類憐みの令』を吹き込んだ。桂昌院は京都の「西陣織屋の」「八百屋の」「大根売りの」娘と言われていた三代家光の側室で、迷信深い体質だったのだろう。息子の将軍の方も思い込んだら前のめりに夢中になるところは良く似た体質だったと思われる。
 それでその親子に目を据えられて『跡継ぎ生まれぬのは前世の祟りか、今生の不養生か』などとせまられて隆光僧正も『そんなことお前のせいだ』とは言えない。苦し紛れに『生き物をいたわるようにすれば』と出まかせをいったところ「殺生を慎め」という御触れになってしまった、くらいだろう。
 将軍は大真面目だが効果なんかあるわけない.『隆光坊、余は未だに子宝に恵まれぬ』『ヘッヘー。上様は丙戌年のお生まれ。特にお犬様をお大切に』と言った具合にエスカレートしただろう。
 そもそもこんなもの後生大事に遵守するわけない。取り締まる方だってばかばかしい。10年位やってお咎めは百件もない。魚鳥類を売ることを禁止、病気の馬を遺棄して遠島、吹矢で燕を撃って死罪、冗談のような話だ。
 どうやら江戸城下や天領で運悪く見つかった者だけのようだ。

拳骨和尚 武田物外
 幕末にいた怪力無双の雲水。諸国を遍歴し永平寺の釣鐘を下ろし、加賀では力比べで召し抱えられ、江戸で碁盤を殴りつけて手形とし、茶碗を指で粉々にしたり、いやもう仏法修行はどこに行ったのやら。この殴りつけて跡の残った碁盤はいくつか現存している。
 ハイライトは京都の新撰組道場での近藤勇との対決。何故かしら近藤は槍を持ち突きかけたところ身をかわされて槍の柄の先端にある金具をつかまれる。すさまじい怪力にビクともしなくなり膠着する。たまらぬと近藤が引っ張ると頃を見て手放され後ろへ飛んでしまった。
どういう思想的背景か単なる調子乗りなのか。第一次長州征伐の調停役として、孝明天皇に直接に奏上したそうだ。

怪僧列伝戦国・江戸編(今月のテーマ 列伝)

怪僧列伝 カトリック編

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)


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怪僧列伝戦国・江戸編(今月のテーマ 列伝)

2016 FEB 23 22:22:10 pm by 西牟呂 憲

 仏教伝来の後、ありがたき教えを広めたり新たな教義を打ち立てた名僧は数々おわす。お陰で我々の生活の隅々までに染み込むように御仏の御威光が満ちている事は喜ばしい。私事だが僕は下町の仏教系の幼稚園に通っていて、四月八日のお釈迦様の誕生日には花祭りと称して小さい仏像に甘茶をかけていた(神田明神下のその幼稚園は驚いた事に今日もまだ存続している)。
 しかも日本史の節目節目に重大な役割を果たした坊さんは多い。
 ずらりと並べると大変なことになってしまうので、戦国時代~江戸時代の有名所を何人か挙げてみたい。その頃は戦国大名の側近に怪しいのも含めて結構多士済々なのだ。
 
太原雪斎(たいげんせっさい)
 今川義元の懐刀。甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。元々大変な秀才の学僧だったが、請われて今川の参謀役となる。
 時に一軍を率いて戦闘を指揮し、信長の父信秀の三河侵攻作戦を撃退もしている。織田の人質だった少年の徳川家康を取り返したことでも有名。
 この縁で逆に今川に人質となった家康の、学問・軍学の師でもあったそうだ。
 この人が死んで5年後が桶狭間だ。もう少し長生きされたら桶狭間がどうなったか分からないと考える人は多い。

顕如上人

顕如上人 コワッ

顕如光佐(けんにょこうさ)
 信長の宿敵。石山本願寺第十一世。何しろ戦国時代の重大な補助線である一向一揆の卸元だから、日本中で戦乱を起こした張本人。信長とは十年に渡って対峙した。
 越前では1万2千人以上が討ち取られ、伊勢長島では2万人が焼殺されるなど、膨大な犠牲者を出したが屈せず石山合戦となる。
 石山本願寺はテラではなく、濠・土塁で防御を固めた一大城砦都市である。50以上の支城を配し守りは固い。信長に制海権を握られた後も約1年半無補給で耐えられた。負けた後に出火するが二昼夜燃え続けたというから戦闘規模は大阪冬・夏の陣よりもデカかった。顕如の強烈なカリスマ性が偲ばれるが、その分さぞドロドロの戦いだったろう。
 その後和睦し生き残り、秀吉の下摂津中島に天満本願寺を、後に京都の七条堀川に現在の西本願寺に教団をささやかに再興する。

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
 毛利家の外交を取り仕切った臨済宗の僧。渉外能力も高いが自ら一軍を率いて戦闘もやる。
 ラッキーなことに羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた時に本能寺の変が起きた。秀吉が中国大返しのために和睦案を出し、恵瓊が対応した。その能力を買われて秀吉側近の豊臣大名にチャッカリなってみせた。これは恐らく毛利の反感をかなり掻き立てたのではないかと筆者は仮説を持っている。
 関が原の際には毛利本隊は全然やる気が無く、毛利の両川(りょうせん)と言われた吉川・小早川は寝返りまでしたのに恵瓊には全く知らされていない。捕らえられ六条河原にて斬首されてしまった。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)
 室町幕府の名門一色(いっしき)家出身で、南禅寺の住職になった大秀才。その後請われて徳川家康に仕え、当初は朱印船貿易を行う外交を一手に捌いていた。それが鎖国に振れると伴天連追放之文を起草する。この辺節操がないとも言えるが事務能力の図抜けた高さが感じられる。寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度も全てこの人の手によるものだ。
 例の方広寺の「国家安康」「君臣豊楽」にイチャモンを付けたのもこの人らしい、何か陰湿だ。
 「黒衣の宰相」と称されたが、対立側からは「天魔外道」と嫌われた。要するにイヤなやつだったと思われる。

南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
 推定100才以上生きた怪人。太閤北条攻めの頃から突如家康の側近として姿を現したことから、光秀成りすまし説がある。比叡山延暦寺で信長の焼き討ちにあった。そのせいか家康政権の下で比叡山探題執行にもなっていた。
 天海は古代中国の陰陽五行説を駆して江戸の町を設計した。鬼門鎮護に寛永寺を築き、裏鬼門にあたる増上寺を徳川家の菩提寺にする。天守閣は寛永寺・増上寺を結ぶ線と浅草寺と日枝神社を結ぶ線が交差する位置に決めた。何だか風水師か詐欺師の趣がある。
 ハイライトは家康の神号について、突如あまり馴染みのない山王一実神道の「権現」とすると言い出して、「明神」と祭るつもりだった前出の崇伝と激しく対立する。『怪しげな風水師』VS『イヤな奴秀才』の対決になるが、結果はご承知の通り権現様になった。
 驚くべき長寿で三代家光にまで仕えて百八才で死んだことになっているが煩悩の数の年で死んだとは益々アヤシい。

建僧都室西(たけるそうずしっさい)
 正体不明の怪僧。研究者の間で最近にわかに名前が挙がった謎の人物。一説には妖術使いとも言われている。『小山田文書』『西願寺文書』等で名前が確認されたが、鎖国時代に呂宋・越南・暹羅(シャム)・満刺加(マラッカ)・咬吧(ジャガタラ)と東南アジアをウロウロしたと考えられている。近年現地での文書に「シー・スー・チェン」という名でたびたび登場する倭寇崩れと、西願寺文書の建僧都室西が同一人物だということが分かり、時代考証的に注目された。
 ただこの人物は記録上では二百歳くらい生きた事になってしまい、学者間では『複数説』や『単なる嘘吐き説』の論争がある。或いはなにかの秘密結社で受け継がれた名前なのかもしれない。どこで没したかもわかっていない。
 実際現代でも”建室西(たける・しっさい)”をさかさまにした名前でブログに嘘っ八を書き散らしている人物がいるらしい。

怪僧列伝メチャクチャ編(今月のテーマ 列伝)

怪僧列伝 カトリック編

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十五代目の蹉跌(今月のテーマ 列伝)

2016 FEB 18 4:04:37 am by 西牟呂 憲

 徳川将軍を記述していて気が付いたことがある。武家政権というのは十五代やると制度疲労が限界に達するようだ。
 鎌倉幕府は源氏がすぐにコケてしまうが、皇族から将軍を連れてきては北条家が世襲で執権を継ぐ。これが十六代だ。しかし十五代北条貞顕の時には新田義貞が挙兵しているのでガタは来ている。
 続く室町幕府はこれまた十五代足利義昭が織田信長に放り出されてオシマイ。この義昭のダメさ加減は散々ネタにされ小説になったりドラマになったりしているからご案内の通り。

 戦後の自由民主党総裁の十五代目は宮沢喜一で、この時に選挙で負けて始めて野党に転落。その後自民党が単独で政権を取ることはなくなり、常に公明党その他と連立するようになった。どうも節目というか縁起が悪いのか。

 アメリカ合衆国十五代大統領はジェームズ・ブキャナンという大して実績の無い人だが、この人の在任期間中(それも最後の最後)に南部諸州が連邦を離脱してアメリカ連合になってしまった。そして次にかのリンカーン大統領になった途端に南北戦争が始まった。

 フランス・ブルボン王朝の第四代国王はあのルイ15世だ。15世ですぞ!ポンパドゥール夫人に入れあげ、戦争で負まくり新大陸の全ての権益を失い(ケベック、ルイジアナ、西インド諸島)ケチをつけ、孫夫婦(ルイ16世とマリー・アントアネット)が断頭台の露となった。
 15代は苦労する。

 そういうオマエの15代前はどうだったのかと言われると、これが父方も母方も実にどうってことのない輩だったようで、そういう意味では僕の代でオジャンになるようなものは持ち合わせてもいない。15代といえば450年くらい前だろうか。おそらく父方も母方も武田勢にケチョンケチョンにやられて追い回されたりペコペコしていた頃のはずだ(特に母方は信玄の初陣でやられる)。幸運なことに根絶やしにならなかったからワタシがいる訳だ。その時点で既に負け組ということだから気楽なもんだ。
 
 畏れ多いことであるが天皇家第十五代は応神天皇。三韓征伐の神功皇后が帰って来た時に九州でお生まれになった。仁徳天皇陵についで二番目に大きい誉田御廟山古墳が御陵とされている。応神天皇は没後十代を経て突然光り輝く3歳の童子となって現れ八幡大神として祀られる、八幡様だ。
 八幡総本社は大分の宇佐神宮で、ここは例の弓削道鏡が危うく天皇になってしまうところをギリギリの所でダメ出しをしてくれた霊験あらたかな神様。道鏡を皇位に就かせるか否かを和気清麻呂がノコノコ聞きに行くと身の丈9mというウルトラマンのような僧形の神様が現れてこれを一蹴してくれた。畏れ多いことである。

徳川 奇人伝(今月のテーマ 列伝)

怨霊 (今月のテーマ 列伝)

百済王・高麗王・新羅三郎 (今月のテーマ 列伝)


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徳川 奇人伝(今月のテーマ 列伝)

2016 FEB 12 1:01:49 am by 西牟呂 憲

 徳川将軍十五代。紆余曲折を経ながらも、270年の平和のお蔭で江戸庶民は殆ど無税で暮らした。これは本当の話で、商家も職人も浪人も御維新まで税金を知らなかった。僕は下町で育ったから納税に対するチャランポランな気質を肌で知っている。さすがに今ではそんなことはないだろうが、母親が嫁いできた時点で舅・姑のあまりの無関心に『納税は国民の義務では』と苦言を呈したところバカ扱いされた、との伝説が残っている(本人から聞いた)。恐らく江戸に比べて武士の比率がはるかに低かった大阪はもっと面白い話があると思う。
 一方、喜寿庵のある某県某所は天領で殿さまがいない。するとお裁き・徴税をするのは代官で、これは2~3年で次の任地に転勤してしまうサラリーマンのようなものだった。任地では大過なく過ごそうという官僚マインド丸出しで、下手に酷いことをして一揆でもやられれば経歴に傷がつくとばかり、あまりドラマに出て来るような悪代官は少ない。迎え入れる方も心得たもので、あのあたりの有力者はいきなり接待をしたりはしなかった。じっと見ていて今度のお代官様は『酒』『金』『女』のどれが好きかを見極め、相手の好みに付け込んでズブズブにしたと言われている。
「おぬしも好きじゃのう。」
「いえいえ、お代官様ほどでは。」
 とやったに違いない。

 しかし江戸時代もそれなりに長いから、殿様の中には多少ヤバいのはどうしても出る。ご存知の方も多いだろうが中には凄いのもいて感心する。隅々まで網羅できないので『徳川』を名乗る人だけでクレージーな人物を上げてみたい。

徳川忠長 駿河大納言
 三代将軍家光公の実弟。春日の局が大騒ぎしなければ将軍になっていたかもしれない、聡明で眉目秀麗だった。家光が家督を相続した頃は駿河・東遠江・甲斐55万石と御三家に次ぐ大大名に。余談であるが、この際の家臣、甲州谷村代官を務めた鳥居土佐守成次は元慶應義塾塾長鳥居先生の御先祖。喜寿庵のあたりのことだ。『おぬしも好きじゃのう』をやってたクチらしい。
 ところが実母お江のエコヒイキのせいか、将軍家光一派に疎まれる。忠長も忠長で将軍に対しエラソーに振舞って対立したのが命取りになって上野国高崎に飛ばされ自刃に追い込まれた。鳥居先生の先祖もついでに改易。
 将軍家光のイビリも相当だと思われるが、憤懣やるかたなく狂って家臣を手打ちにしたり、殺生禁断の静岡浅間神社で猿狩りをしたのはマズかった。1240匹も猿狩りをするなどチョッとクレージー過ぎ。

徳川 光圀 第二代水戸藩主
 ご存知、水戸の黄門様。だが「天下の副将軍」は当時の役職にも文献でも確認できないし、諸国漫遊はまるっきりの作り話。江戸詰めの頃は吉原通いはおろか、ヤクザそのもので本当に辻斬りをやったという噂さえある。
 本人、十八才で改心したと言っているが怪しいもんだ。確かに有名な『大日本史』の編纂等、文化事業に取り組んで、そのお陰で水戸家は後の尊皇攘夷の卸元になった感はある。亡命儒学者の朱舜水を水戸に招聘したことも事実。
 家臣にどこの誰かは知らないが黒人を召抱えたという話を覚えているが出典を思い出せない。ほんとうだろうか。
 そして隠居後にやってしまう。小石川水戸藩邸での能舞興行の折に、光圀が自ら舞ったあとの楽屋で、気に入らない重臣の藤井紋太夫を突然刺し殺したという衝撃的な事件を起こしている。
 後述『生類哀れみの』を無視して犬の毛皮を将軍綱吉に送りつけたとも。相当ヤバい人だった。

徳川綱吉 第五代征夷大将軍(犬公方)
 『生類哀れみの』でイカレポンチの烙印を押されてしまったが。四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど文化保護者の面を持ち合わせている。しかし集められて講義を聞かされた方は大迷惑だったに違いない。
 何にでも夢中になる人らしく、能には相当のめり込んでいる、多分女も。そして時々プッツンした。
 在任期間中に松の廊下の刃傷沙汰が起きて、浅野内匠頭の単独切腹を即断して”片手落ち”といわれてしまう。その後『忠臣蔵』物語があんなにバカ受けするとは思っても見なかったろう。
 位牌の高さから、身長124cmだったという説があってこれでは小学生くらいだ。元々江戸時代は日本人の身長が今より低かったのだが、そのせいかどうか極端に走る面が散見される。
 それにしても『生類哀れみの』は20年以上も施行されたが天領以外では誰もまともに守らなかったようだ。たまたま目くじらを立てられて遠島・切腹になった気の毒な人もいるが、全部でも20件くらいらしい。野良犬を中野のあたりで何万匹も面倒見たのはやりすぎだが、ペット先進国だとシーシェパードあたりに教えたらどうかな。

徳川宗春 第七代尾張藩主
 暴れん坊将軍吉宗が江戸で質素倹約の改革に勤しんでいたのを尻目に、名古屋では芝居小屋や遊郭をむしろ奨励して今で言う規制緩和をやっていた変わり者。服装はもっとヒドくて、歌舞伎・能の派手な衣装どころか朝鮮通信使の真似をして出歩く。白い牛に乗ってウロウロしたこともあった。ここまで来るともうイッテる。いっそ戦国時代にでも生まれた方が本人のためにも良かったろう。
 よせばいいのに参勤交代でやってきた江戸でも、現在の防衛省市谷駐屯地にあった尾張藩上屋敷を新築お披露目で町民に開放するという、言ってみればドンチャン騒ぎをやってのけ将軍吉宗を激怒させる。しかし市谷上屋敷も外堀の外にあって見附の木戸門の外側だからそんなに町民がいたとも思えないが。江戸っ子の感覚で言えば”町”は飯田橋・本郷がギリギリ。
 最後はお家がゴタゴタして蟄居謹慎(あたりまえだ)。

徳川家重 なんかカワイイ

徳川家重 なんかカワイイ

徳川家重 第九代征夷大将軍
 偉大な親父、吉宗公の長男。
 言語不明瞭。何を言っているのか分かったのは側近の大岡忠光のみで、本当は利口だったのかバカだったのか誰もしらない。元々虚弱だったのが酒色に溺れて益々悪くなった。又、この人も能を好んだ。
 子供も二人いるのに”女性説”がある。吉宗が紀州家から将軍になれたのは他の御三家の候補者にはいない嫡男がいたからだ、と言われていた。逆に言えば娘だったのを嫡男だと偽ってしまえば将軍になれた。それで生涯”男”で押し通さざるを得ず、声を隠すためにレロレロの振りをしていたとか。確かに尋常でない頻尿で町方にも聞こえたくらいだ。更に増上寺の改修の際に歴代将軍遺骨の調査・撮影が行なわれたが、骨盤の写真が女性型だったことは本当。そして残された骨盤写真は家重だけは正面から撮影されなかったのも事実であるが。誰かが黙ってしまった。

徳川家定 第十三代征夷大将軍
 個人的な仮説だが、この将軍のあたりで時代としての江戸時代は終わり。即ち鎖国はガタガタ、身分制度もグチャグチャとなり歴史で教える封建制度が終焉を迎える助走期間になる。
 この大変な時に将軍になるのも気の毒みたいなものだ。病弱であり、人見知りであり、一説には脳性麻痺であったと言われている(しばしば癇を起こした)。ハリスを引見した時には『頭を反らし六方を踏んだ』そうである。つまりジタバタした(脳性麻痺の症状に酷似)。ハリスはビックリしたのか、或いは日本の高貴な人の習慣だと思ったのか。
 上記九代将軍といい、要するに誰でも良かったというか。世間はそれどころではなくなっていくのに。
 少し前の大河ドラマの”篤姫”で堺正人さんが、本当はウツケの振りをしていたという斬新な演技をしていたが、そりゃちょっと・・・。

番外編 徳川慶喜
 ラスト・ショーグンは実に型破りではあった。何しろ頭は切れるし何でも上手い。そもそも『会議』という概念のあまりない時代に、一人で議題を発案し雄弁に語り反論も想定して自分で答えた御仁だ。その態度は帝の前でも変わらなく、スネるはオドすはやりたい放題。「良きにはからえ」と言ってる訳にもいかなくなったのだろうが、ショーグンとしては実に変わった存在ではある。
 筆者は大政奉還の離れ業は起死回生の妙手だと高く評価する者であるが、如何せんその後の鳥羽・伏見のあまりの根性の無さは頂けない。尊王攘夷思想の本家のような水戸の出身だったので、賊軍になりたくないとの想いが強すぎた。
 因みにこの方のお孫さんが海軍の宮様と言われた高松宮妃喜久子妃殿下だが、慶喜公の気質を良く受け継いでいるとのこと。妃殿下は聡明で粋な感じのお方だったと。

 徳川様でザットこんなもんだから「松平」まで入れると相当凄いのがいそうだ。まっこんなもんでしょうか、上に変なのがいても何とかなるうちは『良い』統治システムだったのでは。

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