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カテゴリー: 続・街道をゆく

続・街道をゆく 旧甲州街道犬目宿

2024 JUL 13 15:15:35 pm by 西 牟呂雄

 旧甲州街道は上野原あたりで現在の国道20号線よりやや北側の山間を通っていた。犬目峠を越える前後の休息のため、一村を以て宿場町をしつらえ犬目宿とした。江戸開府後に日本橋を起点とした五街道が整備され、参勤交代も定着した6代将軍徳川家宣の頃の話だ。

歌川広重

 八王子から小仏峠の関所を過ぎると街道は山間部を縫うように進むので、実はほとんど富士山は見えない。ただ一か所、富士が顔を覗かせるのがこの犬目峠である。そのせいで浮世絵師が題材にしている。
 このうち広重のものは実際の景観ではなく(こんな景色は犬目にはない)後に尋ねた『猿橋』の構図の類似が指摘されている一種のコラボと言ってよい。
 一方北斎のものは浮世絵特有の富士山をデフォルメしてはいるものの、街道の雰囲気を良く伝えている。

葛飾北斎

 
 中央高速で山梨県に入ると最初に談合坂S・Aがあるが、この談合坂の山側が犬目宿にあたる。この談合坂という地名は別に中央道建設の際に土建屋が談合したからではなく、犬目が歴史上わずかにその名を知られる事件に由来する。
 このエリアは元々米作には不適な山間部のため、コメは甲府の商人からの買い付けに頼っていたが、天保の大飢饉の際には買い占めによる米価高騰から大規模な一機が発生した。その際にリーダー格として指導したのが犬目出身の水越兵助だった。その兵助と志を同じくする現在の大月市エリアの無頼の徒を束ねていた森武七と語らったので談合坂という地名になった。
 一揆は当初、貧民救済のため米・金を五カ年賦で借り受けて貸し付けるという綱領を持って良く統率され、現在の笛吹市春日居の穀物商小河奥右衛門宅を打ち壊して帰村した。
 ところがその後、甲府盆地ではこの騒ぎに乗じた無宿人・博徒といった連中が大暴れしてメチャクチャになってしまうオチが付いている。兵助自身は騒動後家族とともに木更津に身を隠した後に戻ってきてこの地で義民として敬われている。

街道沿い

 さて、多少迷いながら犬目宿に着いた。本来の町並みは昭和期の火事により大半が失われたというが、縫うように曲がりくねった先にそこだけ真直ぐな一本道が通り、両側に民家が整然と並びいかにも宿場町だというたたずまいである。
 印象としては、大藩の長い行列がいっぺんに泊まるのには少々狭かったように見える。毛槍をかざしての『したーにー、したに』と整然とやるのは宿場に入ってから出るまでなので、この距離では長い行列には足りないのではないか。
 というのも、宿場町では殿様の安全を確保するため、本陣を中心に入りと出の道を捻じ曲げた構造になっており、特に甲州街道は江戸に向う軍勢の防衛上の理由から西から来るところには宝勝寺という防衛拠点を置いているため直線が短い。

本陣と思われる民家

 参勤交代は宿に大きな現金収入をもたらしたが、そのための役務提供は常備している人馬では足りず、近隣の民衆から助郷役を課したため民衆への負担も大きかった。
 また、各大名が宿場で鉢合わせると大混乱になるため、時期やコースを調整して宿泊が重ならないようにしたらしい。
 例えば御三家筆頭の尾張徳川家は普通に考えれば東海道を通りそうだが、しばしば中山道経由で甲州街道を使った。尾張藩は大藩であるから犬目宿のキャパをこえてしまう。その際に殿様が泊まった地元の素封家が今でも残っていたが、その理由は庭先から見えた富士山の景色が気に入ったからだ、と伝わっていた。
 葵の御紋の高張提灯が掲げられ門番が立ち、武士であろうとも下馬しなければならない格式だと言うが、こんなところに普段武士なんぞ居るはずがない。

尾張大納言宿所(民家)

 ところで以前のブログでも指摘したが、このエリアには桃太郎伝説があり、百蔵山の桃太郎が犬目の『犬』鳥沢の『雉』猿橋の『猿』を連れて岩殿山の『鬼』を退治したことになっていて、それにちなんで宝勝寺は犬の寺を称していた。近隣に犬嶋神社も3つほどあり、犬とは何かの関係がありそうだが分からない。
 歴史的には戦国時代においてこの地域は甲斐と相模の国境にあたるためしばしば戦闘が行われた。即ち関東の支配者である小田原北条と甲斐郡内の覇者小山田が干戈を交えている。
 主たる戦場は山中湖から御殿場へ抜ける都留郡や相模川沿いの厚木に加え、八王子城と対峙するこの辺りであった。古戦場の跡がある。

右に登る

 街道はそういった戦乱や天災、および利便性の改善のためにルートが変わったようで、今通っている旧甲州街道の更に前、古甲州街道ともいうべき道も残されている。この右上に上がっていく険しい道がそうである。籠や馬なら行けそうだが、馬車ともなるととても上がれない。
 明治13年、天皇陛下全国後巡幸で山梨県にお出での際には馬車を仕立て文武百官を従えての大行列である。一つには大名行列以上の華やかさを演出する必要もあったのだろう。
 そこで慌ててこしらえたの現在の旧『甲州街道』なのだ。

山梨巡幸-猿橋ー

 一行は上野原での宿泊の後、ここを通って犬目宿で小休止。大月の星野家で昼食、初狩の小林家で小休止、笹子峠手前の黒野田宿で宿泊した。
 星野家は今でも立派な屋敷が残っていて名産『桃太郎納豆』を売っている。
 小林家は筆者の祖母の実家だが、特に口伝は残っていない。当主が幼かったため小休止に於いては御尊顔を拝することはなかったと思われる。

明治天皇 休息碑

 こういった記念碑は『御小休(ごこやすみ)』として各地に残る。何しろ馬車に乗っての全国御巡幸であるから名望家・素封家・本陣などさぞ気合が入ったことだろう。筆者は都下荻窪にいたことがあるが、そこにも存在していた。
 街道は古戦場跡を縫いながら、参勤交代の大名行列のために整備され、明治天皇行幸のおかげで広げられ、眼下に鉄道が通り車時代に至って通行をしやすいように国道20号線となって遥か下に移り犬目宿は廃れた。更には大動脈としての中央道が見えている。

雲海の中

]

 尾張の殿様が愛でた富士を写メに捉えようとしたが、梅雨時だったので雲の中に埋もれてしまった。
 いずれ、秋口の晴れ渡った時に挑戦しようと思っている。
 殿様が見た時は、こんな無粋な鉄塔は無かったんだろうな。

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続・街道をゆく 宝のみち

2024 MAR 29 13:13:37 pm by 西 牟呂雄

 旧村名を『宝村』というおめでたい名前の所がある。その『たから』の語源が何に由来するかはよくわからないのだが、いかにも豊かな語感と軽いロマンを感じさせる響きで、以前から興味があった。子供の頃に読んだスティーブンソンの『宝島』を思わせる。そっちは海賊の財宝を見つける話だからこっちは山賊の話でもないかなと検索しても、そんなものはない。ただ、明治期から昭和の中頃まで鉱山があった。『宝の山』ということなのか。鉱山跡地は相当な山奥なのでふもとまででも辿って行きたいというのが今回の旅である。

富士急行線の都留市駅から桂川を渡り支流である大幡川に沿ったところによく開けた扇状地が広がり、そこから遥か先にある三つ峠に向って吸い込まれていくような道が続いている。
 この地区の人文は古く、縄文時代前期からの遺跡が数カ所確認されており、特に縄文中期と推定される牛石遺跡は東西南北方向に対応するストーン・サークルとこれらを環状に連結する全体の直径は約50mに及ぶ列石からなる大規模なものである。

山梨県 都留市提供

 このエリア全体が山に囲まれているがゆえに富士山を望むことはできないものの、わずかにこの遺跡のポインントから山頂が見える。更にここを見下ろす三つ峠山頂には春分・秋分の日に夕日がかかる。縄文中期は富士が盛んに噴煙を上げていたであろうから。あのストーン・ヘンジのごとく多分に宗教性を帯びた祭礼が行われたに違いない。筆者もそこに立った時は、秘かに古の血が騒ぐ錯覚を覚え、はなはだ愉快た。
 その後、たびたび大噴火をしているので、近くの遺跡では遥か後の奈良・平安期の遺構も発掘されている。さらに時代が下り鎌倉・室町時代、武田家が甲斐の一守護でしかなかった頃、この地を支配したのが小山田家である。坂東八平氏の流れを組む秩父一族で甲斐都留郡の覇者となった時の本拠地があった。

見事な参道

 時に武田と縁組し、時に武田の内紛に手を突っ込み、信玄の時代には臣従して武田二十四将として名を連ねるのが、勝頼を最後の最後に裏切ったのは十七代小山田信茂である。ここではその内面には踏み込まない。勝頼自刃の後、信茂は甲斐善光寺にて織田信長に拝謁しようとしたところ、信長嫡男の織田信忠により処刑された。戦国時代の様相が手に取るようにわかる顛末である。
 その小山田家の六代目から十四代目の墓所である曹洞宗の桂林寺は今日も残っていた。
 1393年に六代信澄が建長寺の格智禅師に開山を請い建立した。明治期に二度火災にあったため往時の面影は参道にのみ残されているが、その参道を下ったあたりに小山田の邸があったとされる。

広教寺の石柱 向こうの山門

 中世を通じて、また戦乱の世にあってもここからの風景は平和であったことと思う。無論、足軽として駆り出された領民はいたであろうが、ここは戦場からは常に遠かったに違いない。
 と言うのも、集落の景観こそ変わっているが、大幡川に沿って上流の方に進んで行くと水田耕作や養蚕のための桑畑がなされていた痕跡が見て取れ、昨今整備されたバイパス道路や河川護岸施設を視界から消してしまえばかつての営みが容易に想像できるからである。
 例えばかつての寺領の広大さを物語る石塔と門に続く広教寺であったり、巨木に覆われた春日神社である。
 広教寺は源頼家によって建立された古刹で、大般若経の写本がある。

春日神社から

 さて集落を通り過ぎ、道幅も狭くなって勾配がきつくなってくる。提題の『宝の山』に近づく秘境感が漂ってくる。
 突然視界に入ったのは『機神社』なる看板だった。
  こういう時に寄り道ができることが『続・街道をゆく』の醍醐味で、人っ子一人いない境内に降りた。
 『機神社』と書いて『はたじんじゃ』である。機織りの神様を祀っていた。
 この地は前述の通り養蚕が盛んで、その川下産業として撚糸、機織りから染色といった一貫工程が成り立っていた。戦前の高級ブランドのいわゆる『郡内織』は地場産業だった。

御神楽の奥のお宮

 その事業者がいつのころからここに祀ったのだろうが、由来の表記はない。
 祭神は天栲幡姫命(アメノタクハタヒメノミコト)萬幡豊秋津姫命(ヨロヅハタトヨアキツヒメノミコト)同一神でいずれも幡の字が入っており、機械や織物の神様である。転じて『機』を『ハタ』と読ませる。
 ご覧の通りの不思議な造りで、お神楽が二つのステージになってその間を抜けた先に社殿がある。
 この街道のドン詰まりに厳かに祀ってあるのが返って奥ゆかしい。
 その祭礼を見てみたいと思ったものの詳しい説明はなかった。

協和会館跡

 

 『宝のみち』も最期の胸突き八丁を登り、ますます道が狭くなった所にバス停があった。名前は『宝鉱山』である。
 明治5年、偶然地元の農民が発見した硫化鉄の大塊鉱から開発が始まり、昭和45年に閉山するまで現役の鉱山だった。経営は三菱に渡り最盛期には200人程が3交代勤務をしていた。病院・鉱夫長屋・小学校分教場を併設し、更には映画館も設置された。現在は市が運営するキャンプ場になっていて、写真はその映画館跡に建てられた管理棟である。農村部の人達も娯楽を求めてセッセと坂を登って来たことだろう。
 中に入れてもらうと、往時を偲ぶ模型を見せてくれた。

一番下が協和会館

 無論、坑廃水処理の問題等あったものの、エリアにとっては宝の山だった訳である。
 筆者は九州時代に多くの炭鉱跡・鉱山跡を訪ねているが、同じように郷愁を誘うものが感じられた。
 バス停から少し歩いて行くと、おそらくは鉱山住宅跡地をリフォームしたコテージがいくつかあった。坑口でもすぐに見られるかと思ったが、その現場はもっと山の奥のようだ。
 管理棟にいた方は廃鉱の後に生まれたそうで、往時の記憶など当然ない。
 資料によれば、掘り出された鉱石は鉄索道(つまりリフト)で一山超えた現在のJR笹子駅まで運ばれた。
 笹子駅はかつては中央本線のスイッチ・バックの駅で、その跡地を利用したJRのトレーニング・センターがある。これもある意味産業遺跡である。

銅鉱石とランタン

住宅跡のコテージ

 筆者が中学生の頃まで家族も含めると数百人が暮らした形跡がすっかり姿を変えてしまい、痕跡を見つけることも困難な有様は将に『つわもの共の夢の後』である。ヤマを離れた家族の中には地元に根付いた人もいたのであろうが、その多くは別に職を求めたはずだ。事実、前職の現場にお父さんがこの鉱山の事務職だったという人がいた。埼玉県の入間市の工場の話だ。
 一本の道を辿って『小山田』『機(はた)神社』から『鉱山跡』と時代の盛衰を見てきた訳だが、こういった動きのスピードは今後ますます早まるに違いない。世間で言われるAIの進化、デジタル社会の到来は待ったなし。今でさえ追いつけていない前期高齢者はどう振舞ったらいいのか思案に暮れるのである。
 死後50年もすれば、筆者の痕跡はただのガラクタにしか見えず、次の世代からはバカにされるだろう。ヤレヤレ。

飯場跡の住宅

 そろそろ引き上げるか、と戻ろうとした時に廃屋があった。ぐるりと周ってみると個人の表札が付いたままの空き家だ。表札は先程の管理棟で見た『飯場〇〇家』とあった家屋で、恐らく個人の家だったので閉山後も打ち捨てられたまま朽ちたのではないか。
 道はここから登山道になっていて、修験道の霊山三つ峠に行くハイカーも多いらしい。少し歩いてみると『熊に注意!』などと書いた看板があった。こんなキャンプ場の近くにまで出るのか。

 見上げれば三ツ峠は白く雪にかがやいており、沢を渡ると見事な美しい滝が落ちていた。まるでこの先には入るな、と語りかけているようで、熊にもビビったせいもあって引き返した。

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続・街道をゆく 落人のみち

2024 FEB 5 19:19:07 pm by 西 牟呂雄

 筆者の勝手な造語に『日本三大落人』というのがある。出雲族・物部・平家である。人目を避けて山中にひそかに暮らし、時の権力者の追求をかわしながら生き延びた人々のことだ。
 筆者の知り合いにその名も『平』さんという人がいて、鹿児島と沖縄の中間あたりの島の出身者だが、筋金入りの平家の落人なのだそうだ。大っぴらに平姓を名乗ったのがいつからかは聞かなかったが、酔うと目を据えて壇ノ浦の無念を語っていた。時を経てそれほどまでに伝わった無念とはいかばかりか、筆者は仰ぎ見る思いで聞き入った。

 さて、今回の旅は多摩川の水源のあたりから始まる。中山介山の大菩薩峠が見渡せる武蔵の国の奥まった所である。これから追うのは三大落人ではないものの、平家のゆかり平将門の足跡である。藤原秀郷に追われた将門は実際には茨城県で戦死するのだが、西多摩あたりには多くの将門伝説が残っている。おそらくは抵抗を続けた弟たちや子供達が流れて来たものが伝承されたと言っていい。その一つに将門が五日市の勝峰山に立て籠もり藤原秀郷軍と対峙し、戦況利有らずと勝峰山を下り青梅に下ったと。そして金剛寺で手に持っていた鞭代わりに持っていた梅の枝を地面に突き立てると梅の枝は立派に根付き、その梅の実がいつまでたっても青いので青梅と称された、と。ご丁寧に藤原秀郷が将門の霊を鎮めるため阿蘇神社に手植えしたシイの木も残っており、樹齢1000年を超えると伝えられる。将門の長男良門が亡き父の像を刻んで祀って社号を平親王社とした社も奥多摩の棚沢にある。
 いずれにせよ、将門のゆかりの人々がこのエリアまで落ちてきたことは事実と思われる。この地は分水嶺から見ても武蔵の国なのだが、現在では甲斐の国山梨県になっている小菅村で、かつてはバスも奥多摩方面しかなかったが、ようやく道路も整備されて上野原あるいは大月へも運行されるようになった。そのことから、この村も落人にとっては安心できる所ではなかった。
 史実で確認できる将門の息子は長男が上記良門、次男将国まで確認できるが、伝承では三男に常門という者がおり、ここから峠を越えて行ったと伝わる。その峠が武蔵の国と甲斐の国の分水嶺になっていることからその険しさが知れる。筆者は峠越えの道を行きたかったが、どうやら整備されておらず通行止めになっていて断念した。代わりに通ったのは距離3066mもあるトンネルだ。一般道のトンネルとしては長く、しかも緩く勾配があって直線にもかかわらず視界は遮られている。このトンネルを通過することにより十分険しさは想像できた。その峠の名は松姫峠という。
 抜けて視界が広がると上和田集落に行きつく。

五輪塚

 将門の愛妾である芙蓉の前が落ち延びた青梅で将門の子を産み落とし、将門の幼名が相馬小次郎であることから相馬治郎丸と名付けられた。冒頭の青梅の将門伝説はこの男子誕生から派生したものかと推察される。
 治郎丸一行はここ上和田に落ち着く前は甲斐の国側の下流である駒宮・瀬戸地区にも居住したようだが、最後はこの地で没した。墳墓跡とされる場所に通称常門塚、五輪塚があった。常門には七人の男子が生まれそれぞれ相馬姓を名乗って今日に至っていて、家紋は将門ゆかりの九曜紋である。

卯月神社

 ほとんど平地のないこの集落の僅かな場所には廃校になった小学校があった。無論過疎地で相馬姓の他に卯月姓が多い。そして卯月家は常門の従者で後から追ってきたという。世を憚るように斜面の僅かな土地を切り開いて相馬神社と卯月神社があるが、両社とも御岳神社・一宮神社とその名を変えていることが落人の歴史を物語っていた。
 相馬家では各代に一人は生涯髪を切らずに修験者のような総髪にする男子がいた、或いは現代にいたっても相馬の血を引く者は成田山新勝寺には参らない、等この辺境にふさわしい話が残っている。新勝寺は将門の乱の際に朱雀天皇が高雄山神護寺の不動明尊像を寬朝上人に託し、成田山にて21日間の護摩行をすると結願の日に藤原秀郷に打ち取られた、とあるからである。

 さて、分水嶺をこえているのでこの幽谷を流れる葛野川は甲斐の国へと向かい桂川に注ぐのであるが、その流れはご覧の通りの深々とした山中にある。下って行くと先程記した瀬戸・駒宮といった集落があるにはあるが、いずれも日当たりも心細いような所に家がへばりつくように点在するばかりで、それは逆に言えば身を隠すには都合がいいに違いない。
 今日整備された道路によって大月・上野原までバスが通るが、かつては猿橋方面に細い道があるのみであった。その猿橋に近い集落は下和田としてかすかに上和田との縁を感じさせるが、交流などはなかったものと思われる。その道は一車線のみの道なので今回は通らなかった。
 途中、コンビニとかガソリン・スタンドの類は一切なく、釣り客用の鉱泉旅館があったのみである。その旅館は『松姫旅館』といい、敷地内には松姫神社がポツンとあった。峠・神社、今回の旅ではノー・マークだった松姫とは誰なのか。

 しかしその神社は社殿もなく朽ちた老木が楼の下に祀られているだけで、由来も何も表示されていない。御神体のつもりの老木は中が空洞になっていて何やら打ち捨てられた感が否めない。旅館に付随した観光施設のようだった。
 だが、松姫は実在の人物で、武田信玄の四女として生まれ、信玄西上の以前には信長の嫡男信忠の許嫁だった。信忠11才松姫7才の縁組である。
 ところがその後、信玄は死去。勝頼は織田方に滅ぼされてしまう。戦乱の最中を松姫は武蔵の国へ落ち延びていく。どうやらその際に超えて行ったのが松姫峠であり、すると今までたどって来た常門のルートを逆に登って行ったことになる。図らずも落人が行き来したみち、それほどに山深い隠れ街道と言える。
 史実によれば、松姫一行は八王子まで無事に逃れていたが、それを聞き知った織田信忠から迎えの知らせが来た。この時代に何と心温まる話か、打ち滅ぼした敵の一族ではあるが落ちて行った元許嫁を改めて迎えようとは天晴な心掛けである。松姫も旅支度にいそしんだであろう時に、無情にも本能寺の変が起きたのだった。
 この過酷な運命にもかかわらず、八王子心源院で出家し信松尼と称した。この時期の八王子は小田原北条氏の支配下にあり、ひたすら祈りの生活を送ることとなる。そのうちに寺子屋のように近在の子供たちに読み書きを教え、機織りなどを生活の糧にしていたようだが、小田原を制圧したのちに江戸入りした家康が、西の守りを固めるために旧武田の遺臣を八王子千人同心として大量に雇い入れた。やって来た彼らにしても旧主の姫は大きな心の支えとなり、松姫もようやく心静かに暮らせるようになったはずだ。険しい峠越えから八年が過ぎていた。
 そして晩年には将軍秀忠公がよそに産ませた子が正室お江の方にバレることにビビったため、異母姉である見性院(けんしょういん、武田信玄次女)とともに育てた。その子は一時八王子にも滞在したと言うが、後の会津松平家の祖となる保科正之である。

岩殿山

 この落人が行き来した道は大月市に至り、中央線の駅から必ず見える巨岩の岩殿山のふもとをかすめる。武田勝頼を最後の最後で裏切ったとされる小山田信茂の砦があったところである。小山田氏はこの大月から富士吉田に至るいわゆる『郡内』エリアの覇者で、初め北条に仕えた後信玄旗下として数々の武功を上げ武田二十四将と記録される。その足跡はまた後稿に譲りこの旅は終る。

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続・街道をゆく 無生野のみち

2023 DEC 19 21:21:53 pm by 西 牟呂雄

 中央本線の駅を降りると、見事なまでの河岸段丘が眼前に広がっていた。かつては水田だったであろうそのわずかな平地に現在では家屋が整然と並ぶ。地名はその風景のままに上野原といった。中央線が山梨県に入った最初の駅だ。
 その河岸段丘の下を川が流れているが、戦後に建設されたダム湖に通じるためにすでに緩やかな流れとなり満々たる水を蓄えていた。数万年の時を経て大地を削った後が見て取れるようで、思わず覗き込まずにはいられなかった。
 近年の開発により、東京西部のベッド・タウンとして発展したのは後背地の方で、長いエスカレーターが設置されている。その奥は甲斐・相模・武蔵の国が接する山間である。従って湖の名前は相模湖でありそこからは相模川が神奈川を潤すがそこまでは桂川と呼ばれている。武蔵野の国からも甲斐の国からも峠を越えなければならず、戦国時代は武田・北条の接点としてしばしば戦場となる緊張感を孕んでいた。
 そのため、関東もしくは鎌倉から西へ下る際の隠れ道の役割を果たした、まことに心細いような街道をこれから辿ることになる。
 橋を渡りしばし山中の曲がりくねった道は、歩けばさぞ険しかろうと思えるほど山が両法から迫り、更に今日ではトンネルも整備されているがために進んでいく距離が、往時は大変な時間と体力が必要だったか想像すると絶望といった言葉がさほど大げさに響かない。先日放映された『ポツンと一軒家』に今たどっている道を山側に登ったところにある川魚を供する食堂が取り上げられたほど、山深い。

 突如、視界に巨大な観音像が現れた。
 あまりに唐突なのでそれが観音像であると気づくのに少し間が開いてしまうほどだった。但し近隣には宗教施設はない。台座には『道教観音』と彫り込まれてあるが、観音菩薩は般若心経の冒頭に出て来る菩薩の一人である。それが道教と結びついた例を筆者は知らないが、媽祖信仰と混合した新たな女神だとでもこじつけたのだろうか。付近に由来も案内もない。
 その先に温泉施設があり、その道標として建立したとすればむしろその商魂の逞しさに驚く。
 我々はこれより無生野(むしょうの)という誠に侘しい場所を目指しているが、この街道に沿うように一山超えた東側を道志道という街道が走っていて、その相模原寄りの地名が秋山である。山中湖あたりを起点とする道志川が津久井に流れており、ここは横浜市の水源となっている。行政上は山梨県であるが、むしろ隣接する相模原市や神奈川県とのつながりを思わせる地域であり、また、住民の距離感も甲斐の国府である甲府への帰属意識は少なかろう。
 明治以降の開国にあたってはこの山間で盛んであった養蚕によって基幹産業である絹の輸出は横浜港に直結していた。八王子を抜けて横浜に向かう絹の道を通じてである。冒険的な甲州商人が往来したことであろう。

 だが、今回その道をたどるのは、その遥か昔の悲劇をなぞっている。大塔宮護良親王は父帝後醍醐天皇に疎まれ鎌倉に幽閉されたが、滅亡した鎌倉執権北条高時の一子時行が信濃から旗揚げした『中先代の乱』のドサクサに暗殺される。親王の首は打ち捨てられたが、愛妾雛鶴姫(ひなづる)によって拾われる。姫はその首を洗った後、大切に携えながら京都を目指した。筆者が今進んでいるのはそのルートだ。
 北条方からも足利方からも追われる身であり、ましてや姫は懐妊していたとされるのでこの山塊の中をさまようのは心細かったに違いない。ついにかの地で宿泊を断られた挙句に産気づき母子ともに落命してしまう。そこを無生野と呼んだ。無情にかけた地名とされている。

 寂しげな祠が見えてきた。山間部ゆえに日当たりは悪くひっそりとしつらえられていた。雛鶴神社である。かの姫と亡くなった皇子を憐れんだ地元の人々が祀ったという伝承の神社だ。
 更に驚いたことにもう一つの伝承が被さっていた。大塔宮の遺児である葛城宮綴連王が後年この地に流れ着き、この伝承を聞き不思議な縁に導かれるようにとここで天寿を全うした、というのである。
 葛城宮綴連王とは地元での言い方であり、正史においては護良親王と北畠親房の妹の間に生まれた興良親王と比定される。建武の体制瓦解の後、後醍醐天皇の後の後村上天皇の元で征夷大将軍(南朝の)となり、東国で・四条畷で・山陽道で戦い抜き、消息を絶った悲劇の皇子である。ただ、墓と伝わるものが兵庫・奈良にはある。

土塚

 ここにも墓と称する土塚がある。諸説入り乱れてでさすがに興良親王とは言い難いが、無生野の人々が雛鶴姫・綴連王を供養したことは確かであり、それがゆえに伝わる無形文化財までが残っている。無生野の大念仏である。
 かつては空也上人や一遍上人が広めた念仏踊りが上記伝承と結びついて病気平癒なども込められた独特の形態をとるものとしてユネスコの無形文化遺産となった。
 白装束を纏い太刀、締太鼓、棒を振りかざしながら経典を唱える。さらに鉦・太鼓を打ち鳴らしながら踊る。広く一般で行われる盆踊りの原始的なものであり、辺境であるがゆえに残ったのではないか。山間の渓谷において、おそらくは雑穀を食し炭を焼きあるいは狩猟で生計を立てていたであろう人々がかたくなに守り伝えてきたものが文化遺産と評価されることは誠に喜ばしいが、それを機に『村興し』を展開するとなるといささか違和感を持たざるを得ない。辺境にあるがゆえに残った文化はそのままにしておいてやりたいと思うのだ。

悪路

 ところで物語はここで終わらない。この場所は行政上は上野原市になるのであるが、もう一つ峠を越えるとそこは都留市になり、不思議なことにそこにも雛鶴神社があるのだ。こちらは雛鶴姫の終焉の地という触れ込みで、舗装道路から更に600mほどの悪路を登った奥に、無生野のそれよりもなお一層人目を避けるように佇んでいた。傍らの姫の墓と称する供養塔が氏子の手で建立されていた。
 かつての峠越えはこの参道よりも険しかったに違いなく、いくつかの伝承を組み合わせるとおぼろげに浮かび上がるのは、鎌倉から落ち延びて来た高貴な血統を宿した女性が峠を越えた所で男児を生み絶命、生まれた子はしばらく養われたが不幸にも短い生涯を終える。その墓所が峠をはさみ同じ社名で秘かに祀られた、という想像が成り立ち、恐らくそうであったろう。都留市側の社伝には一緒に落ち延びてきた武士の名前が『菊地三郎武光』『馬場小太郎兼綱』『竹原八郎宗規』と記され、没後百箇日に臣下の木枯太郎並びに馬場正国等が殉死した、とある。

供養塔

 殉死した彼らの墓には墓樹を植えたとされ、2本の松が残っていたそうだが、惜しくも1985年頃松喰い虫の被害により枯れたそうだ。

 ところで、舞鶴姫が携えていた大塔宮の首はどうなったのか。無論史実は何も語っておらず、神社に伝わる伝承も記されていない。ところがその首と称するものが実際にあるというのだ。
 峠を越えて、都留市朝日馬場に出ると夕刻に近くなり西日が射して一気に視界が広がった。戦国末期は徳川の重臣鳥居元忠が納めたエリアで、江戸初期は谷村藩として秋元家の所領であった。その街道沿いに入船神社がある。社伝によれば後醍醐天皇の御代、延元二年(1337)に住吉三神と言われる水の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)を祀った。

ホントかよ

 そしてどういう経緯かは分からないが護良親王の御首級を奉っている。頭蓋骨に金箔を施し、梵字を墨書きした上から漆に木屑を混ぜたもので肉付けし複顔した首級が御神体として現在も保存されている。両眼には水晶をはめ込んでいたが片方は失われた。調査によれば作成時期は江戸初期とのことが判明しているが、ツラツラ綴って来た伝承が滴って来て氏子の信仰を集めたものだろう。こういった伝承の流れにはなにやらいじらしさと力強さが感じられ、筆者の顔は思わずほころぶのである。

石船神社全景

 尚、この神社の堂々たる大木には今でもムササビが生息しており、飛翔する姿は確認されている。
 また向かって左側には4本の柱に支えられた屋根の元、土俵がしつらえてあり、奉納相撲も行われているらしい。硬く突き固められた土俵に登ろうとしたが、靴を履いたままなのは憚られる空気が流れていた。
 この先は冨士みち、浅間神社への表参道につながる。

 この項終る 

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