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続・街道をゆく 無生野のみち

2023 DEC 19 21:21:53 pm by 西 牟呂雄

 中央本線の駅を降りると、見事なまでの河岸段丘が眼前に広がっていた。かつては水田だったであろうそのわずかな平地に現在では家屋が整然と並ぶ。地名はその風景のままに上野原といった。中央線が山梨県に入った最初の駅だ。
 その河岸段丘の下を川が流れているが、戦後に建設されたダム湖に通じるためにすでに緩やかな流れとなり満々たる水を蓄えていた。数万年の時を経て大地を削った後が見て取れるようで、思わず覗き込まずにはいられなかった。
 近年の開発により、東京西部のベッド・タウンとして発展したのは後背地の方で、長いエスカレーターが設置されている。その奥は甲斐・相模・武蔵の国が接する山間である。従って湖の名前は相模湖でありそこからは相模川が神奈川を潤すがそこまでは桂川と呼ばれている。武蔵野の国からも甲斐の国からも峠を越えなければならず、戦国時代は武田・北条の接点としてしばしば戦場となる緊張感を孕んでいた。
 そのため、関東もしくは鎌倉から西へ下る際の隠れ道の役割を果たした、まことに心細いような街道をこれから辿ることになる。
 橋を渡りしばし山中の曲がりくねった道は、歩けばさぞ険しかろうと思えるほど山が両法から迫り、更に今日ではトンネルも整備されているがために進んでいく距離が、往時は大変な時間と体力が必要だったか想像すると絶望といった言葉がさほど大げさに響かない。先日放映された『ポツンと一軒家』に今たどっている道を山側に登ったところにある川魚を供する食堂が取り上げられたほど、山深い。

 突如、視界に巨大な観音像が現れた。
 あまりに唐突なのでそれが観音像であると気づくのに少し間が開いてしまうほどだった。但し近隣には宗教施設はない。台座には『道教観音』と彫り込まれてあるが、観音菩薩は般若心経の冒頭に出て来る菩薩の一人である。それが道教と結びついた例を筆者は知らないが、媽祖信仰と混合した新たな女神だとでもこじつけたのだろうか。付近に由来も案内もない。
 その先に温泉施設があり、その道標として建立したとすればむしろその商魂の逞しさに驚く。
 我々はこれより無生野(むしょうの)という誠に侘しい場所を目指しているが、この街道に沿うように一山超えた東側を道志道という街道が走っていて、その相模原寄りの地名が秋山である。山中湖あたりを起点とする道志川が津久井に流れており、ここは横浜市の水源となっている。行政上は山梨県であるが、むしろ隣接する相模原市や神奈川県とのつながりを思わせる地域であり、また、住民の距離感も甲斐の国府である甲府への帰属意識は少なかろう。
 明治以降の開国にあたってはこの山間で盛んであった養蚕によって基幹産業である絹の輸出は横浜港に直結していた。八王子を抜けて横浜に向かう絹の道を通じてである。冒険的な甲州商人が往来したことであろう。

 だが、今回その道をたどるのは、その遥か昔の悲劇をなぞっている。大塔宮護良親王は父帝後醍醐天皇に疎まれ鎌倉に幽閉されたが、滅亡した鎌倉執権北条高時の一子時行が信濃から旗揚げした『中先代の乱』のドサクサに暗殺される。親王の首は打ち捨てられたが、愛妾雛鶴姫(ひなづる)によって拾われる。姫はその首を洗った後、大切に携えながら京都を目指した。筆者が今進んでいるのはそのルートだ。
 北条方からも足利方からも追われる身であり、ましてや姫は懐妊していたとされるのでこの山塊の中をさまようのは心細かったに違いない。ついにかの地で宿泊を断られた挙句に産気づき母子ともに落命してしまう。そこを無生野と呼んだ。無情にかけた地名とされている。

 寂しげな祠が見えてきた。山間部ゆえに日当たりは悪くひっそりとしつらえられていた。雛鶴神社である。かの姫と亡くなった皇子を憐れんだ地元の人々が祀ったという伝承の神社だ。
 更に驚いたことにもう一つの伝承が被さっていた。大塔宮の遺児である葛城宮綴連王が後年この地に流れ着き、この伝承を聞き不思議な縁に導かれるようにとここで天寿を全うした、というのである。
 葛城宮綴連王とは地元での言い方であり、正史においては護良親王と北畠親房の妹の間に生まれた興良親王と比定される。建武の体制瓦解の後、後醍醐天皇の後の後村上天皇の元で征夷大将軍(南朝の)となり、東国で・四条畷で・山陽道で戦い抜き、消息を絶った悲劇の皇子である。ただ、墓と伝わるものが兵庫・奈良にはある。

土塚

 ここにも墓と称する土塚がある。諸説入り乱れてでさすがに興良親王とは言い難いが、無生野の人々が雛鶴姫・綴連王を供養したことは確かであり、それがゆえに伝わる無形文化財までが残っている。無生野の大念仏である。
 かつては空也上人や一遍上人が広めた念仏踊りが上記伝承と結びついて病気平癒なども込められた独特の形態をとるものとしてユネスコの無形文化遺産となった。
 白装束を纏い太刀、締太鼓、棒を振りかざしながら経典を唱える。さらに鉦・太鼓を打ち鳴らしながら踊る。広く一般で行われる盆踊りの原始的なものであり、辺境であるがゆえに残ったのではないか。山間の渓谷において、おそらくは雑穀を食し炭を焼きあるいは狩猟で生計を立てていたであろう人々がかたくなに守り伝えてきたものが文化遺産と評価されることは誠に喜ばしいが、それを機に『村興し』を展開するとなるといささか違和感を持たざるを得ない。辺境にあるがゆえに残った文化はそのままにしておいてやりたいと思うのだ。

悪路

 ところで物語はここで終わらない。この場所は行政上は上野原市になるのであるが、もう一つ峠を越えるとそこは都留市になり、不思議なことにそこにも雛鶴神社があるのだ。こちらは雛鶴姫の終焉の地という触れ込みで、舗装道路から更に600mほどの悪路を登った奥に、無生野のそれよりもなお一層人目を避けるように佇んでいた。傍らの姫の墓と称する供養塔が氏子の手で建立されていた。
 かつての峠越えはこの参道よりも険しかったに違いなく、いくつかの伝承を組み合わせるとおぼろげに浮かび上がるのは、鎌倉から落ち延びて来た高貴な血統を宿した女性が峠を越えた所で男児を生み絶命、生まれた子はしばらく養われたが不幸にも短い生涯を終える。その墓所が峠をはさみ同じ社名で秘かに祀られた、という想像が成り立ち、恐らくそうであったろう。都留市側の社伝には一緒に落ち延びてきた武士の名前が『菊地三郎武光』『馬場小太郎兼綱』『竹原八郎宗規』と記され、没後百箇日に臣下の木枯太郎並びに馬場正国等が殉死した、とある。

供養塔

 殉死した彼らの墓には墓樹を植えたとされ、2本の松が残っていたそうだが、惜しくも1985年頃松喰い虫の被害により枯れたそうだ。

 ところで、舞鶴姫が携えていた大塔宮の首はどうなったのか。無論史実は何も語っておらず、神社に伝わる伝承も記されていない。ところがその首と称するものが実際にあるというのだ。
 峠を越えて、都留市朝日馬場に出ると夕刻に近くなり西日が射して一気に視界が広がった。戦国末期は徳川の重臣鳥居元忠が納めたエリアで、江戸初期は谷村藩として秋元家の所領であった。その街道沿いに入船神社がある。社伝によれば後醍醐天皇の御代、延元二年(1337)に住吉三神と言われる水の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)を祀った。

ホントかよ

 そしてどういう経緯かは分からないが護良親王の御首級を奉っている。頭蓋骨に金箔を施し、梵字を墨書きした上から漆に木屑を混ぜたもので肉付けし複顔した首級が御神体として現在も保存されている。両眼には水晶をはめ込んでいたが片方は失われた。調査によれば作成時期は江戸初期とのことが判明しているが、ツラツラ綴って来た伝承が滴って来て氏子の信仰を集めたものだろう。こういった伝承の流れにはなにやらいじらしさと力強さが感じられ、筆者の顔は思わずほころぶのである。

石船神社全景

 尚、この神社の堂々たる大木には今でもムササビが生息しており、飛翔する姿は確認されている。
 また向かって左側には4本の柱に支えられた屋根の元、土俵がしつらえてあり、奉納相撲も行われているらしい。硬く突き固められた土俵に登ろうとしたが、靴を履いたままなのは憚られる空気が流れていた。
 この先は冨士みち、浅間神社への表参道につながる。

 この項終る 

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Categories:列伝

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