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続・街道をゆく 落人のみち

2024 FEB 5 19:19:07 pm by 西 牟呂雄

 筆者の勝手な造語に『日本三大落人』というのがある。出雲族・物部・平家である。人目を避けて山中にひそかに暮らし、時の権力者の追求をかわしながら生き延びた人々のことだ。
 筆者の知り合いにその名も『平』さんという人がいて、鹿児島と沖縄の中間あたりの島の出身者だが、筋金入りの平家の落人なのだそうだ。大っぴらに平姓を名乗ったのがいつからかは聞かなかったが、酔うと目を据えて壇ノ浦の無念を語っていた。時を経てそれほどまでに伝わった無念とはいかばかりか、筆者は仰ぎ見る思いで聞き入った。

 さて、今回の旅は多摩川の水源のあたりから始まる。中山介山の大菩薩峠が見渡せる武蔵の国の奥まった所である。これから追うのは三大落人ではないものの、平家のゆかり平将門の足跡である。藤原秀郷に追われた将門は実際には茨城県で戦死するのだが、西多摩あたりには多くの将門伝説が残っている。おそらくは抵抗を続けた弟たちや子供達が流れて来たものが伝承されたと言っていい。その一つに将門が五日市の勝峰山に立て籠もり藤原秀郷軍と対峙し、戦況利有らずと勝峰山を下り青梅に下ったと。そして金剛寺で手に持っていた鞭代わりに持っていた梅の枝を地面に突き立てると梅の枝は立派に根付き、その梅の実がいつまでたっても青いので青梅と称された、と。ご丁寧に藤原秀郷が将門の霊を鎮めるため阿蘇神社に手植えしたシイの木も残っており、樹齢1000年を超えると伝えられる。将門の長男良門が亡き父の像を刻んで祀って社号を平親王社とした社も奥多摩の棚沢にある。
 いずれにせよ、将門のゆかりの人々がこのエリアまで落ちてきたことは事実と思われる。この地は分水嶺から見ても武蔵の国なのだが、現在では甲斐の国山梨県になっている小菅村で、かつてはバスも奥多摩方面しかなかったが、ようやく道路も整備されて上野原あるいは大月へも運行されるようになった。そのことから、この村も落人にとっては安心できる所ではなかった。
 史実で確認できる将門の息子は長男が上記良門、次男将国まで確認できるが、伝承では三男に常門という者がおり、ここから峠を越えて行ったと伝わる。その峠が武蔵の国と甲斐の国の分水嶺になっていることからその険しさが知れる。筆者は峠越えの道を行きたかったが、どうやら整備されておらず通行止めになっていて断念した。代わりに通ったのは距離3066mもあるトンネルだ。一般道のトンネルとしては長く、しかも緩く勾配があって直線にもかかわらず視界は遮られている。このトンネルを通過することにより十分険しさは想像できた。その峠の名は松姫峠という。
 抜けて視界が広がると上和田集落に行きつく。

五輪塚

 将門の愛妾である芙蓉の前が落ち延びた青梅で将門の子を産み落とし、将門の幼名が相馬小次郎であることから相馬治郎丸と名付けられた。冒頭の青梅の将門伝説はこの男子誕生から派生したものかと推察される。
 治郎丸一行はここ上和田に落ち着く前は甲斐の国側の下流である駒宮・瀬戸地区にも居住したようだが、最後はこの地で没した。墳墓跡とされる場所に通称常門塚、五輪塚があった。常門には七人の男子が生まれそれぞれ相馬姓を名乗って今日に至っていて、家紋は将門ゆかりの九曜紋である。

卯月神社

 ほとんど平地のないこの集落の僅かな場所には廃校になった小学校があった。無論過疎地で相馬姓の他に卯月姓が多い。そして卯月家は常門の従者で後から追ってきたという。世を憚るように斜面の僅かな土地を切り開いて相馬神社と卯月神社があるが、両社とも御岳神社・一宮神社とその名を変えていることが落人の歴史を物語っていた。
 相馬家では各代に一人は生涯髪を切らずに修験者のような総髪にする男子がいた、或いは現代にいたっても相馬の血を引く者は成田山新勝寺には参らない、等この辺境にふさわしい話が残っている。新勝寺は将門の乱の際に朱雀天皇が高雄山神護寺の不動明尊像を寬朝上人に託し、成田山にて21日間の護摩行をすると結願の日に藤原秀郷に打ち取られた、とあるからである。

 さて、分水嶺をこえているのでこの幽谷を流れる葛野川は甲斐の国へと向かい桂川に注ぐのであるが、その流れはご覧の通りの深々とした山中にある。下って行くと先程記した瀬戸・駒宮といった集落があるにはあるが、いずれも日当たりも心細いような所に家がへばりつくように点在するばかりで、それは逆に言えば身を隠すには都合がいいに違いない。
 今日整備された道路によって大月・上野原までバスが通るが、かつては猿橋方面に細い道があるのみであった。その猿橋に近い集落は下和田としてかすかに上和田との縁を感じさせるが、交流などはなかったものと思われる。その道は一車線のみの道なので今回は通らなかった。
 途中、コンビニとかガソリン・スタンドの類は一切なく、釣り客用の鉱泉旅館があったのみである。その旅館は『松姫旅館』といい、敷地内には松姫神社がポツンとあった。峠・神社、今回の旅ではノー・マークだった松姫とは誰なのか。

 しかしその神社は社殿もなく朽ちた老木が楼の下に祀られているだけで、由来も何も表示されていない。御神体のつもりの老木は中が空洞になっていて何やら打ち捨てられた感が否めない。旅館に付随した観光施設のようだった。
 だが、松姫は実在の人物で、武田信玄の四女として生まれ、信玄西上の以前には信長の嫡男信忠の許嫁だった。信忠11才松姫7才の縁組である。
 ところがその後、信玄は死去。勝頼は織田方に滅ぼされてしまう。戦乱の最中を松姫は武蔵の国へ落ち延びていく。どうやらその際に超えて行ったのが松姫峠であり、すると今までたどって来た常門のルートを逆に登って行ったことになる。図らずも落人が行き来したみち、それほどに山深い隠れ街道と言える。
 史実によれば、松姫一行は八王子まで無事に逃れていたが、それを聞き知った織田信忠から迎えの知らせが来た。この時代に何と心温まる話か、打ち滅ぼした敵の一族ではあるが落ちて行った元許嫁を改めて迎えようとは天晴な心掛けである。松姫も旅支度にいそしんだであろう時に、無情にも本能寺の変が起きたのだった。
 この過酷な運命にもかかわらず、八王子心源院で出家し信松尼と称した。この時期の八王子は小田原北条氏の支配下にあり、ひたすら祈りの生活を送ることとなる。そのうちに寺子屋のように近在の子供たちに読み書きを教え、機織りなどを生活の糧にしていたようだが、小田原を制圧したのちに江戸入りした家康が、西の守りを固めるために旧武田の遺臣を八王子千人同心として大量に雇い入れた。やって来た彼らにしても旧主の姫は大きな心の支えとなり、松姫もようやく心静かに暮らせるようになったはずだ。険しい峠越えから八年が過ぎていた。
 そして晩年には将軍秀忠公がよそに産ませた子が正室お江の方にバレることにビビったため、異母姉である見性院(けんしょういん、武田信玄次女)とともに育てた。その子は一時八王子にも滞在したと言うが、後の会津松平家の祖となる保科正之である。

岩殿山

 この落人が行き来した道は大月市に至り、中央線の駅から必ず見える巨岩の岩殿山のふもとをかすめる。武田勝頼を最後の最後で裏切ったとされる小山田信茂の砦があったところである。小山田氏はこの大月から富士吉田に至るいわゆる『郡内』エリアの覇者で、初め北条に仕えた後信玄旗下として数々の武功を上げ武田二十四将と記録される。その足跡はまた後稿に譲りこの旅は終る。

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Categories:列伝

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