Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 遠い光景

わが友 中村順一君の命日

2020 OCT 18 11:11:50 am by 西 牟呂雄

 今年も彼の命日は当たり前のようにやってきた。毎年、少人数で偲ぶ会をやっていたが、このコロナ禍では集まることもできずにいる。
 我々の友情というのはどうも第三者に分かりにくいものに進化して行った。仲間内で飲んでいて、例によって二人で罵り合っていたところ、ポツリと一人が言った言葉を噛みしめている。
『お前らどっちか死んだら寂しいぞ』
 けだし名言である。その時は気にもとめなかったが、その通りで、今では寂しいどころかやり場のない怒りにも似た感じがする、先に逝きやがって。
 
「あれからオレも大腸がんを切った」
「それがどうした。切れば治るに決まっておる」
「切りゃ痛いんだぞ。おまけにせん妄が出て精神科にもかかるハメになった。転移の恐怖にも耐えなきゃならん。貴様に分かるか」
「ふんっ、精神の虚弱がバレただけだろう。タルんでおる証拠だ」
「オレは繊細なんだよ。キサマと違う。そっちは腕が千切れても平気だろう。兵隊の位でいえば万年二等兵とか雑兵のたぐいだ」
「ヤヒコー(二人の間では最高の侮辱の意)!そんなもんではない。両足失っても突撃できる」
「アッ、言ったな。どうやって突撃するんだ。まさか手で歩けるとでも言うのか。やってみせろ」
「今はその時ではない。しかしイザというときは可能である」
 これは今思いついて書いたものだが、実際にもほぼこのような会話に明け暮れていた。
 そう、僕は今でも奴と会話しているのである。
 ところが、相談したいことや悩みを訴えるといった事になると想像もつかない。そんな話はしたことがなかったからだ。万が一そういう場合だったらどんなものだったろうか。

「実は大変困ったことになった」
「ほう、それはまたどうした」
「◎◎の作戦を失敗して✖✖が全くうまくいかない。おかげで四面楚歌だ」
「なんだ、その程度か。オレなんか▽▽が尾を引いて四面どころか百面楚歌だぞ」
「なにが百面だ。▽▽をいまだに根に持った人間が百人もいるはずがない」
「そんなことはない。少なく見ても200人だな」

 やはり全然相談にならない。
 我々は環境が似ていたせいか思考回路はよく似ていたが、表に出すパフォーマンスはまるで逆だった。奴は山の手・オーソドックス・クラシック・運動部だったのに対し、僕は下町・チンピラ・ロック・サークル気質だった。従って何も張り合う部分が重ならないので、ライバルとか同志という関係になり得なかった。それがどうして半世紀を超えてズルズルと付き合ったのか謎としか言いようがない。
 北方領土についてもモメた。僕は当時から前安倍総理の進めていた二島返還論に近かったが『そんなことを言ったらナメられる。樺太の南もよこせと言って四島の面積等分方式に持ち込み、択捉に国境線を引かなければ日本人の甘っちょろい国境感覚が直らん』と一蹴された。
 国土防衛の証として住民票を竹島か尖閣に移す、ということを提案してきたことがあった。この時はどっちが尖閣にするかでバカバカしいことにじゃんけんまでして奴が勝った。少しでも暖かい方がいい、という理由で二人とも尖閣を希望したからだ。もう還暦近くにもかかわらず、じゃんけんまでしたとはさすがに恥ずかしい行為と言えよう。
 去年、大腸癌の手術を受けたが、手術日が奴の命日に近かった。奴に呼ばれている気がして、それもいいかなと思った。しかしそうなったらエラそうな顔で先輩面をする顔が思い浮かんで参った。
 実は奴との最後の約束がいまだに果たせないでいることがある。
 現在の年齢までにはとっくに仕事を辞めて好きな事をして暮らし、月に一度は会ってどちらが好きな事をやり続けたかを比べるはずだった。その満足度を点数にするルールまできめたのだ。
「お前本当にちゃんと仕事辞められるんだろうな。イザという時に金が無くなったとか理屈をつけて逃げるなよ」
「そっちこそ、会社から頼まれた、みたいな嘘を言うなよ。絶対にズルするな」
「笑わせるな。意外とケチなのは長い付き合いで知ってるぞ」
「ケチとは何だ。無駄が嫌いなだけである。旅に誘って忙しいなんて言い訳は通用しないぞ」
 これも想像上の会話だが、ただただ懐かしい。合掌。

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ヒグチのリスト

2020 AUG 9 10:10:48 am by 西 牟呂雄

先の大戦末期、ヨーロッパでの戦闘を終えたソ連軍は満洲・北方領土を侵すべく虎視眈々と南下しようと兵力を集中させた。満州における守備は関東軍であるが、戦力をかなり本土・南方に割かれており、尚且つ不思議なことに危機的状況にも係らず関東軍は楽観論が主流でソ連の対日参戦後は一たまりもない。しかも8月15日のポツダム宣言受領の前後はドンパチの真っ最中で即時停戦とはならなかった。
 戦車部隊の侵攻に対し、関東軍航空隊には敵戦車に対して特攻をかけて対抗。国境線の第107師団は山岳地帯でのゲリラ戦で29日まで戦い続けた。
 一方、アリューシャン列島では米軍と対峙したもののアッツ玉砕・キスカ撤退の後に対ソ防衛戦の備えとして南樺太の守備も兼ねた大本営直属の第5方面軍が編成された。
 8月18日、千島列島最北の占守島にソ連軍が上陸する。それに対し方面軍樋口季一郎中将は、有名な「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」との命令を出し、旺盛な砲撃と第11戦車隊の猛烈な突撃で食い止めた。浅田次郎の『終わらざる夏』に詳しい。この樋口中将の果敢な決断なかりせば北海道がロシア領にされたかもしれなかったのだ。
 樺太においても15日以降もソ連の侵攻は止まず、16日には新たな部隊が上陸し出し歩兵第25連隊は23日まで交戦した。
 その間、電話交換女子達が集団自決、停戦協定後の白旗が掲げられた赤十字テントへの空爆、引揚げ船への潜水艦に攻撃といった火事場泥棒的なソ連軍の振る舞いは、現在ロシア人と親しく付き合い好感を持っている私ですら不快感を感じる。
 それもこれもヤルタ会談でソ連の参戦をそそのかし領土の取引まで勝手にしたルーズベルトが悪いのだが。そして調子に乗って北海道の半分をよこせ、とまでほざいたスターリンの野望を打ち砕いた樋口中将の迅速・果敢な決断に敬意を表する。

 話は変わるが、多くのユダヤ人を救った『シンドラーのリスト』が映画によって人々の記憶に残り、『東洋のシンドラー』日本人外交官杉原千畝のリトアニアでのビザ発給が人口に膾炙する。かの樋口中将もユダヤ人から厚く尊敬されていることは御存知だろうか。
 話は大戦前に遡る。直接の引き金はヒトラーのユダヤ人迫害なのだが、ヨーロッパ全域及びソ連でもひどい目に合ったユダヤ人の一部はシベリア鉄道で遠く満州のハルピンにまで大勢きていた。これは計画倒れとなった満州国へのユダヤ人入植計画(通商フグ計画)による影響もあったためである。 
 計画そのものは頓挫し、紆余曲折があったものの昭和12年に第1回極東ユダヤ人大会が開かれるに至った。その際「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と祝辞をのべたハルピン特務機関長こそ樋口少将なのである。日独防共協定を締結した同盟国に対する激しい非難にユダヤ人達は喝采し、中には泣きだす人もいたという。
 その後もドイツからのユダヤ難民が満州を経由して米国上海租界に亡命する入国・移動の手配に尽力し、数百人のユダヤ人が難を逃れた。ユダヤ・ネットワークでは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたらしい。
 この件はドイツのリッベントロップ外相から抗議文書が届くなど外交問題となったが、かの東条英機が理解を示し「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と問題にならなかった。
 尚、樋口少将がハルピン特務機関への移動となった直接の原因は、ロシア語に堪能だったこともさることながら歩兵第41連隊長時代の部下だった相沢中佐が軍務局長永田鉄山少将を惨殺した相沢事件を起こしたため進退伺いを出したからと言われている。

 ユダヤは記憶する。あの旧約聖書を今に伝え信仰を絶やさない民である。
 1970年頃、異端の人智学者である高橋巌はスイスでヘブライ大學名誉教授のゲルショム・ショーレルから「樋口季一郎という人がいることで日本人を尊敬している」と言われた。
 2018年時点でも、樋口の孫である隆一氏がイスラエルを初訪問した際に「ヒグチ・ルート」で難を逃れたカール・フリードマン氏の息子さんから謝意を受けてもいる。 
 翻って日本人はユダヤ人を差別する感覚を持っていない。単に実利的な意味でなく、イスラエル・ユダヤとの関係を構築できれば世界史的な、安倍総理の言う地球儀を俯瞰した外交が展開できるのではないだろうか。

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少年に読ませたくない本

2020 MAR 14 10:10:27 am by 西 牟呂雄

 別に子供に見せたくないアダルト本の話ではない。
 僕は死んだ母親の影響が大きかったのか、読書に関しては早熟だった(他の事はいつまでもガキだった)。
 その中で実に後味の悪かったという意味で忘れられない作品がある。胸糞悪い思い出をこのまま墓場までもっていくのも癪に障るので、敢てブログに書き付けて憂さを晴らしておきたい。

1.『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ
 何でこんな本がウチにあったのか。何かの推薦図書だったのではなかろうか、読書感想文を書いた覚えがある。6年生だった。
 真面目な秀才がプレッシャーに負けて落ちこぼれる話なのだが、何でこんなモンが推薦されたのか。おそらく『こうなってはいけない』と言う意味なのだろうが、全く面白くなかった。
 主人公ハンスのイジイジした性格より彼を堕落させるヘルマンに感情移入した。今から考えるとこれがきっかけになって僕の精神放浪が始まったと考えるべきかもしれない。
 絶対に子供には読ませたくない一冊だ。
 どうもヘッセの体験が下敷きになっているようで、精神的にもかなりアブない人らしい。
 ノーベル文学賞を取ったドイツの代表的作家だから、僕の浅読みでは読み込めない深い世界が内臓されているかもしれないが、なぜドイツ人はこんな作品を好んで読むのか不明。

2.『赤と黒』スタンダール
 母親が持っていたナントカ全集から読んだ。中学に入った頃だったと思う。
 恋愛感情の筆致は興味深かったが、ジュリアン・ソレルという野心丸出しの主人公は何たる田舎モンか、とあきれた。
 別に地方出身者を貶めているのではない。上記『車輪の下』で既に不貞腐れたガキになってしまっていたので、ジュリアンの根性が実に醜く感じられた。
 不思議なことにジュリアンよりも、マチルドの取り巻きである堕落した貴族のドラ息子達の方に魅力を感じたのは僕自身の生来の怠け気質が表れたのではないか。

3.『ジョセフ・フーシェ』ツヴァイク
 ツヴァイクの作品では徹底的にいやな奴に描かれてしまい、読後感も悪い。これは図書館で読んだから、少なくとも15才以前の中学生だった。
 しかしフーシェその人は実は大変魅力的な人物で、一種のピカレスク・ロマンの味がある。ツヴァイクは余程フランスが嫌いだったのだろうか。筆致に悪意さえ感じられる。
 これを読んだ為にフーシェについての偏見に取り付かれ、ついでにフランス革命も胡散臭いものと刷り込まれて、科目としての世界史を全く勉強しなくなった。せめて高校卒業後に読めば良かった。

4.『友情』武者小路実篤
 これは喜寿庵の本棚にあった。小学六年ではなかったか。背伸び気分で無理やり感はあったし、思えば不幸な出会いと言えよう。
 主人公の野島の恋心がうっとうしい。長い独白も現実離れしており、いっぺんにこんなにしゃべる人間なんかいない、と思ったものだ。
 おまけに終わり方も爽快感に欠けること著しく何が面白いのか・・・。

 こういった作品にうんざりした私は高校時代は殆んど読書をしなくなる。例外は三島由紀夫の文庫本くらいだが、今から考えると失敗作も多い。その後庄司薫や柴田翔に出会うのだがこれも直ぐに飽きて、その後は小説には見向きもしなくなった。村上春樹もダメだった(オッサンになって読んだ)。
 その代わり名作の一部だけを口ずさみ、全部読んだふりをすることに熱中した(なんとバカだったのだろう)。
「神がいなければ、全てが許される」
「人間にたいする運命の攻撃によって支配されている世界のなかで、価値ある登場人物といえば、それに抵抗する人々のみだ」
「きょう、ママンが死んだ」
 全部分かる人は相当な読書人でしょう。
『僕はチボー家で言えばジャックなんだ』
 これはオリジナルの呟きだ。

 今頃になってブログを書いてみて、いかに小説の素養がないか良く分かったが今からではもう遅い。やはり小中学生にはあんまり名作は読ませない方がいい、せめて高校進学後、できれば旧制高校生の年齢にすべきだ。できあがったのがこんな有様と考えれば自明だろう。

漫画ばかり読んでいた

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そーっと滑ったスノボ

2020 FEB 14 6:06:22 am by 西 牟呂雄

 大腸癌の手術後、どのくらい体力が回復しているか。
 それまで普通にあった部位を切除しているので、体・意識がそれに慣れるまで様々な不自由は確かにあって、回復を実感できたのは酒くらいだ。これだけは自信があるものの、知力・体力は老化現象を伴っているためどうもイカン。
 特に不便なのは入院中に起こした「せん妄」が引き金となった睡眠障害で悪化する一方だ。具体的に知能を劣化させている大きな要因と言えよう。まぁ知力は元々知れたものだからいいとして、体力の方はどうか。
 実際に計ることができるのは、例えば走る速さとか持てる重さとかのデータなのだが、僕はそういったスポーツはほとんどやっていない。ゴルフはスコアがこれ以上悪くなることはないくらいの腕前だから体力の測定基準になりえない。
 スノボは・・・これはできるかどうかが問題だ。

リフトから

 某日、1年振りにゲレンデに挑んだ。65才、病み上がり。おそらくここで最高齢のボーダだろう(スキーヤーならいるだろうが)。
 まずブーツを締める段階で異変を感じた、やりにくい、体が硬くなったのか。
 たっ立てない。よっこらしょ。
 滑り出しの緩斜面はどうってことはない、スーッと滑る。ターンする。何だできるじゃないか。
 ところでここにはダウンヒルが二つあって緩斜面を滑ったのだが、こちらは初心者が多く、あちこちで人が転んでいたりボーゲンでゆっくり滑っている集団がいたりする。今までは気にならなかったのだが、どうも目障りでしょうがない。子供スキースクールの一団に突っ込みそうになった。
 滑り降りると息が上がっている、やはり変だ。脚力が相当落ちている。
 今度は急斜面を降りてみると最初のピークで転倒。オイオイ、こんなところでコケたことなんかないぞ。
 僕の理論では技量はスピードの上限が決まっており、それを越えた速さではボードのコントロールができずに転倒に至る。するとこの程度のスピードでは倒れることなどあり得ないのだが。
 立ち上がって気が付いた、視線が低かったのだ。基本はなるべく斜面の先、谷側に向けて麓の方を見なければならないのに、ターンする場所を見ていた。ボードのちょっと先を覗き込むようになっていたのだ。

 その後は多少マシにはなったが、太腿に疲れが溜まっているのが露骨にわかったので止めた。翌日には上半身までが痛い。久しぶりなのと脚力の無い分バランスを保とうと腕にまで力が入ったからだ。
 この調子で以前のように頭を打ったり、ましてや病み上がりで骨折でもした日にはバカでは済まされない。
 しかし、まだまだ本調子ではないことは確認できた。これから多少はマシになるとは思うが、この年齢では完全には戻らないだろう。こうして年寄りになっていくということか、やだな。

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不思議な子供の目線 Ⅱ

2020 FEB 8 1:01:32 am by 西 牟呂雄

 ヨッコラショッ、と言った感じで喜寿庵にやってきてみれば、裏木戸が開いていて何やら声がする。子供の声だ。何事かと庭へ廻ると何と7~8人のガキが遊んでいるではないか。
「コラーッ、勝手に入ってきちゃダメじゃないか。帰んなさい」
 ガキは一斉にこちらを見てビックリしている。そしてその中にピッコロ君とマリリンちゃんがいた。この子がつれて来たのか。私が教えて少し日本語の会話ができるようにはなったが、いきなりこんな仲間ができたことにこちらも戸惑った。ガキ等は口々に
「何だよ。自分ちだっていうからついて来たのに」
「せっかく遊んでやってるのに怒られちゃったじゃないか」
等と言いながらゾロゾロ出て行こうとした。
 私はそれを聞いて少し慌てた。ひょっとして友達になろうとしてガキ共を呼び込んだのじゃなかろうか、自分のウチと言って。とっさに
「いや、この子達の家も同然だけどオレがいない間に人を連れてきてはいけないんだ」
と取り繕って追い払った。そしてピッコロ君とマリリンちゃんに
「ほら、こっちにおいで」
と手招きして家に上げた。
 火の気のない屋内はシンッと冷えていて急いで暖房を入れ、雨戸を開けた。二人は黙って座っているのでチョコレートを開けて紅茶を入れてあげた。その後の指導で紅茶に砂糖を入れてかき回して飲む、というところまではできるようになった。何しろ国籍不明・言語不明瞭・住所不定の子供だ。私の私設寺子屋で行儀を教えているくらいだから、まさか地元の子供とコミニュケートできるとは思ってもみなかった。ただ、私設寺子屋を始めて、かろうじてたどたどしく喋れるのだとは分かってきた。それから色々テレビを見せたり歌を聞かせてボキャブラリーを増やしている。
「なんで自分のウチだなんて言ったの」
 返事はない、下を向いているのでマズいとは思っているようだ。
「何して遊んでたの」
 これも無言。こういう時に怒ってはいけない。
 仕方がない、早速私設寺子屋を開いて『嘘をついてはいけない』を教えることにした。
 ところが、まず『嘘』はなにかわかるか、ときいても覚束ない。
「本当じゃないことをわざと言うことだよ」
「ホントウ・ジャ・ナイ」
 うーむ。ピッコロ君はお兄ちゃん、マリリンちゃんは妹。これがホントウで、ピッコロ君が妹とかマリリンちゃんがお兄ちゃんは嘘。このバージョンを男・女とか大人・子供で教えてみた。カードも作った。初等教育とはなんと難しく手間のかかるものだろう。小学校の先生の苦労が今頃わかった。
 子供たちも面白がって暫くやっていて、ヤレヤレ先が思いやられるな、と庭に目をやった。

ハマユウのピラミッド

 毎年ハマユウを藁で冬囲いしているのだが、今年は時間がなくてできなかったな、と思っていたら、そのハマユウのある所に枯葉のピラミッドがあるではないか。なんじゃこりゃ。
 そういえば去年落ち葉を掃いていたと時に、この子達は正四面体のピラミッドを作って遊んでいたのを思い出した。
「あれはあなたたちがつくったの?」
 と聞くと、また何か怒られると思ったのか怯えたような目つきで見上げている。そしてポツリと言った。
「ハマユウ、サムイ」
 えっ、はまゆう?浜木綿が寒い?これは浜木綿だと教えたことはあったかな。そうだ、暖かい所から来た植物だから寒さに弱いことを言ったかもしれない。それでこの子達なりに落ち葉を摘んでハマユウを囲ったのか。
「寒いから葉っぱを被せてあげたの?やさしいね」
 と言ってもキョトンとしている。それから、これは怒ってるのじゃなくてほめてるんだ、優しい気持ちとはそういうことを言うのだ、と説明するのに又1時間を費やした。二人は最後にニッコリ笑ってくれてホッとした。我が寺子屋も多少の効果があるのだろうか、今まではいつの間にか消えていたのが『さようなら』と言って帰っていった。

ワッ

 するとどうだ。果たせるかな夜中から雪が降って、朝にはこんなに埋もれてしまった。あの子達ひょっとして・・・・。

不思議な子供の目線

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車は大事に乗りましょう

2019 DEC 19 7:07:24 am by 西 牟呂雄

 今の若い人は車にあまり興味が無いとか。若い人のみならず、特に東京は車を持たない世帯が増えていて、某マンションでは駐車場が埋まらないと聞く。だが我々の世代は違う。車が無ければ生活が成り立たないのではなかろうか。
 江崎さんがGOLFのマニュアルを手に入れたことをブログに書かれた。前のオーナーがいかにその車を愛しんでいたか、というくだりがあって、僕は自分を恥じた。このところ次々に車を変えてきたのだ。
 無論、各車ともそれなりに愛着のある車だったが、変えざるを得なかった理由は全て廃車になったから。まずいことに同じディーラー(外車の中古専門)なので、そこでは『廃車王』と呼ばれているらしい、お得意さんだ。
 ケチのつき始めは友達から譲り受けたシトロエンのイグザンチア。まだオイル・サスペンションで、江崎さんが言うところの国別・メーカー別の個性が際立っていた車だ。
 しかし致命的な欠陥があって、やたらと故障した。その際に助けてもらった上記ディーラーのあんちゃんは腕のいいメカニックで、在庫の無い部品は自分で間に合わせた。しかし、これはカモネギだと思ったか「シトロエンは石畳を疾走するようにつくられたので」とか「ヨーロッパの車は日本の夏に弱い」と僕を煽り、終いには「故障して喜ぶくらいじゃなきゃシトロエン乗りとは言えません」とまで断言した。
 そのため取得価格以上に修理代と車検がかかり、そのたびに借りていた代車は軽自動車なのはいいとしても、奴がいじりまわしたおかげでバカみたいに加速が良くてまるで弾丸のようだった。そしてシトロエンはついにオイル漏れが手が付けられなくなって廃車となった。
 次に浮気して(そのディーラーと縁を切りたくて)グロリアに乗る(中古ですがね)。これはターボ・チャージャーでメチャクチャ速い。時効だから白状するが、大手町から知多半島のつけ根まで2時間45分!ただあまりに速いので恐くなって売る。
 そして何故か例のディーラーからアウディA4を買ってしまう。部品取りにしかならないシトロエンを引き取ってもらった借りもあったので恩返しのつもりだ。乗り心地は格段に悪くなったがこいつもさすがに速い、おかげで高速で捕まった(グロリアの時でなくて良かったが)。それでも車重1.5トンでドアも重く、絶対に当たり負けしない安心感があった。
 ところがしかしある男に貸した際に(そいつは悪くないのだが)サイドにブチ当てられてあえなく廃車の運命を辿る。廃車になる程の事故でもその男はカスリ傷一つなかったから鉄板も厚かったのだろう。
 次は(同じディーラーで)目を付けていたプジョー407。エンブレムのスタンディング・ライオンが光っていた。僕は嬉しくて「やっぱ乗り心地はフランス車に限る」等とうそぶき、車は「中央道のダンディ・ライオン」と名付けていた。
 ところが前オーナーが長いことほったらかしたようで足回りが異常に悪く、結果的にディーラーを潤わせることになる。
 しかもさる複雑な事情により、一発免停で府中行きのオマケまでついた。

夏至の日に府中にて


 そして最後は煙を吐いてオジャン。いつもの中央道を帰って来る途中、調布のインターを降りてコンビニに寄ったところ、やけに焦げ臭いと思ったらボンネットから湯気のような白煙が。慌てて開けて見てもエンジンは何とも無い。右のタイヤのあたりから上がっていた。これはまずいと恐るおそる動かすと今度はギアが入らないような感じで、いくら踏み込んでも30km位しか出ない。あきらめてハザードを付けながらやっとの思いでかのディーラーまで辿り付いた。ベアリングが焼けていた。今日の車はそういう事態になると(詳しくはわからないが)制御がかかって、昔だったら火を吹くところだったのがその程度で済んだという話だが・・・。
 にいちゃんは親切そうに寄ってきて「シトロエン好きでしたよねぇ。いい出物があるんですが」と囁く。その顔には『このカモ』と書いてある。「あのオイル・サスにはこりごりだよ」と逃げようとしたが、「今のシトロはオイルなんかじゃないですよ」と食い下がる。
 ということで、現在はシトロエンCー5を大事に大事に転がしている。

 思えば僕に乗られた車はほとんど下取りされることなくタダで人手に渡ったり廃車になる運命をたどっている。実に申し訳ないことをした気がしてならない。特にもっとも愛したセリカ・ダブルⅩは(廃車にこそならなかったが)あのような事故に巻き込んだことを懺悔したい。

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不思議な子供の目線

2019 NOV 19 0:00:05 am by 西 牟呂雄

 随分見ていなかった喜寿庵の近所に住んでいる謎の友人ピッコロ君とマリリンちゃんにバッタリ会った。大分背も伸びて、恐らく学齢に達しているはずだが、保護者であるらしいヒョッコリ先生の奇怪な子育てでチャンと学校に通っているのかどうかもあやしい。今日はウィーク・デイで今は午前中だ。しかも僕は未だにこの子達が喋ったのを聞いたことが無い。日本語ができないのかもしれない。
「ひさしぶりだねぇ。元気かい」
 一応声をかけてみた。こっちを大きな目で見ているが表情はない。
 この子達と同じくらいの野生動物(まだほんの子供と言える時期のこと)は警戒心と好奇心の塊だ。警戒心を持ちつつ好奇心でオジサンの顔を見上げているのだろう。以前に僕が遊ぼうとしても、土足で家に上がってきたり手づかみでモノを食べたりと、存分に野生ぶりを発揮した。ひょっとしたら言葉の問題で廻りとコミニュケートできず、遊ぶこともできないのだろうか。

 ニューギニアの未開民族デアルベーリング族には全く文化が存在しない、という研究がある。その退屈さはフィールド・ワークに行った人類学者が二人もうつ病になったことでも知られる。そこでは子供は遊ぶことを禁じられ大人と一緒にひたすら働く。神話も宗教も思想もない。しかも全くの平等な社会なのだと言われている。
 一見理想郷のようで、遊んでいるオトナ(支配階級)もコドモ(次の世代)もいないという社会は、かくのごとく殺伐とする。
 そして私はフト考えた。目の前の日本語も怪しいために閉鎖されたような幼年時代を過ごしたこの子等も、そのうち一足飛びにいきなりスマホを手にしたらどうなる。今の世の中でしきりに言われる、SNSでの安直な繋がりが人々のコミニュケーション能力を下げているとしたら・・・。思うに高校卒業くらいまではスマホは持たせてはいけないのではないか。残念ながら手元にそれなりのことを言える統計的数字がない。

 話は戻って、相変わらず一言も喋らないピッコロ君とマリリンちゃんを芝生の庭に連れて来た。色々言っても理解しているかどうかも確認できないので(全くコミニュケートできない)特に何も言わずほったらかして、落ち葉を掃いていた。
 黄金色の夕日が射しこんで来て紅葉が美しい。
 二人は、と見るとしゃがみこんでいる。何してるんだと覗き込むと、カラカラになった落ち葉で遊んでいた。
 そして二人の足元にはケッタイなモニュメントというか何というか、枯葉のピラミッドのようなものを丁寧に積み上げている。それも一枚一枚丁寧に拾ってはソーッと乗せていて、何か目的があるようでもなくひたすら重ねている。

落ち葉のピラミッド接写

 面白いので接写したら御覧のようなただのゴミの塊にしか映らなかった。
 しかし、どうもこの子たちの中には何かのルールのようなものがあって、自分達の中には規則性のある積み上げ方があるようだ。
 掃き集めた枯葉をネイチャー・ファームに埋めて(天然リサイクルのつもり)戻ってくると、例によって二人は姿を消していた。
 後には枯葉のピラミッドが残されていた。
 それも、良くみると正確には正四面体を作ろうとしたらしく、底辺が正三角形にしてあり、各辺が同じになるように一枚一枚重ねていった物なのだ。
 これは面白いと写メに納めようとした瞬間、残酷な木枯らしがサーーッッと吹いてきて飛び散ってしまった。あ~あ。
 凄く惜しい気がしたが、チョット考えるとあの子達はデキがいい・悪いに関係なく、楽しく遊んで飽きて帰ったのだ。そしてもう一度やってきたところで惜しんだり悲しんだりはせず、また新たに全然違う落ち葉の遊びをするだろう。
 こういう子供たちをいい方向に伸ばす教育は、一体いかなるシステムがいいのだろうか。ただ、ほったらかしにしておけばいいという物ではなかろう。そのうち飽きて後には何も残らない。
 こういう童心を忘れずに体系立てて行ければそれはいずれ文化になると思える。上記デアルベーリング族のような事にはならない。ひょっとして大昔、こういうマインドのまま大人になったヒマ人が宗教とかを思いついたのかもしれないぞ。

 よし、この子等に僕がプログラムを組んで、独自の文化を情勢できるように教育してあげよう。ええっと、まず言葉からおしえるのかな・・・・。

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J・D・サリンジャー先生の謎かけ

2019 NOV 9 1:01:40 am by 西 牟呂雄

 大変人気のあるアメリカ人作家J・D・サリンジャーがしばしば目に入るこの頃だ。名作『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はいまだに良く売れているし。
 さる所でサリンジャーについて、英文学者が考察を加えながら自身の翻訳を朗読するイベントがあったので聞きに行った。
 サリンジャーは1919年生まれで、1940年に作家デビュー。この時期世界は大変な事になっていて、先の大戦に巻き込まれ陸軍に志願入隊した。そして史上最大の作戦、ノルマンディー上陸に参加している。
 終戦後に作家活動を再開。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表する。
 グチャグチャに焼け野原にされた東京と違って、全く無傷で戦勝国のニューヨークではこういった青春の葛藤がベスト・セラーになっていた。東京エリアでそういった波が盛り上がるのは更に5年ほど経った(作風は違うが)『太陽の季節』まで待たなければならなかった。
 イベントでは、僕が未読の短編が紹介され翻訳が朗読された。
 サリンジャーにおいて顕著なのは、無垢なるものへの愛情と憧憬という、ある意味アメリカ文学の主流の流れである、と言った解説があった。ストーリーはともかく、若い人たちの会話の描写が見事である、と。
 これはイベントの参加者がほとんど原文で読んだことのある人達の集まりだから、スムースに受け入れられたようだ。しかし僕程度の読み手ではこのニュアンスは解説抜きにはわからない。いやむしろイノセンスを映し出しているはずの若者も10代後半の学生なのが引っ掛かる。アメリカ人の10代後半と言えば肉体的には既に成熟してしまい、もはや無垢でも何でもなくなっている。となると・・・。

 突然話がかわるが、先日病気療養中に近所の公園に散歩に行ってベンチに座っていた。そこへ保育園の先生が、10人くらいの園児を引率して来た。あれは3~4歳だろうか、チビ供がピヨピヨといった感じで一列に歩いて来てこれから遊ぶところ。
 揃いの上っ張りと帽子で他の親に連れられた子供よりも目立つようにしてあった。チビ達は勝手に走ったりどこに行くか分からないので、先生は3人かかりだ。
 しばらくして鬼ごっこか何かをするのだろうか、二人一組になり始めたが、中に一人なかなか相手が決まらない子がいた。男の子だ。困って行ったり来たりしている。それでも決まらないでいると、先生が気付いて相手を選んで組ませた。
 わかった。その子は新参者だろう。引越しかなんかで最近この保育園に入ったのでまだ仲良しの仲間がいないのだ。どうもぎこちないのはそうに違いない。
 チビでも集団の中にはヒエラルキーと相性があって、どうしても初めて見る顔には警戒感がある。新参者の方も今までと違うということは瞬時に分かって、その集団に戸惑ってしまう。昔であればすぐケンカだ。
 その二人一組のお遊びが終わって自由時間にでもなったのか、三々五々と固まりになって隅っこに行くなり鳩を追いかけるなりと、3つのグループに分かれた。すると案の定例の子はどこにも属せず一人で走って行ったりこっちのグループを遠くから眺めてみたりとウロウロしている。チョット佇んでは走って移動する。表情はどうかとジッと目で追いかけて見ていると、何とニコニコとしていた。
 しかし、あれは楽しいんじゃない。泣き出したいくらいだろう。あの子はあの子なりに、自分もみんなと同じに遊んでいる、というアピールをしているのだ。一人でポツンとしていれば目立ってしまう。なるべく風景の中に溶け込もうとしているのに違いない。変に先生から構われたくないという思いが伝わってくる。『ボクも入れて』の一言がすぐに言える程コミニュケーション能力がまだ備わっていない。周りに知っている顔がいない恐怖感。心細いのを笑って誤魔化すような気持ちは想像に難くない。
 このチビのいじらしい振る舞いは、はたしてイノセントなのだろうか。うがった見方をすれば、無い知恵を振り絞って必死に世間との折り合いを探っている、いやな言い方をすれば打算・媚が無いとは言えないのではないか。

 関係ない話を長々としたが、サリンジャーは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で主人公に語らせた守る対象も、あるいはそう語る主人公ですら、実はインオセントな存在ではない、ということに気が付いてしまった、という仮説はどうだろう。
 サリンジャーが一生懸命に、『ほら、そっちは崖だろ』『こっちでは道に迷う』と助けようとする者達が、既にっ助ける対象でなくなっていて、そんな行為そのものがバカバカしい事に過ぎないとすれば(1940年代で既に)、自分の作品が真実ではないことの上に成り立っている、という疑問に耐えられなくなって隠遁生活に逃げ出した。有り得ないか?イベントで聞いていると、サリンジャーという人は直ぐに激怒するような激しい気質、今でいうプッツン・オヤジだったらしい。すなわち、自分のプッツンして引っ込んでしまった、とかね。
 隠遁と言っても街の人とは結構いい付き合いをしていたようで、知り合った若い女性と暮らしたりしていた。
 洋の東西を問わず、あまりに『青春』を追求し過ぎる作家は他のテーマに乗り移れないで、所謂『文豪』という終わり方にならないようだ。酸いも甘いもかみ分ける、とはいかず、つまらない女や男に引っかかって自殺するケースも多い。

 ところでもう一つ。
 今更であるが、なぜ『ライ麦畑でつかまえて』なのだろう。より正確には『ライ麦畑で捕まえる』とか『ライ麦畑で守る人』だと思うので、質問コーナーで聞いてみたかったが、他の人達があまりに面倒な質問をしていたのでやめた。
 時代は変わる、と良く言われるが、それどころじゃない、自分も年を取って変わっていくのだ。すると同じ音楽・文学に対しても、自ずと昔とは違った感想を持つことになる。特に青春小説を読み返したという評論を寡聞にして知らない。これは一つ村上春樹訳でももう一度読んでみようか。

ブログ・スペースを借りました キャッチャー・イン・ザ・ライ

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魂が宇宙を漂う話

2019 JUL 16 6:06:16 am by 西 牟呂雄

 私は既に死んでから450年程経っている。無論死んでいるから視覚も聴覚もない。だが、知らなかったが、死んでからも意識だけは連続して途切れることが無い。
 もちろん生前のように明確に判断を迫られるようなことが無くなっているので、かつての思考能力と同じかどうかは分からない、おそらくは相当落ちたと言わざるを得まい。
 何しろ新たな経験をすることはもうないので、自分が経験した思い出の中をさまよっているのだが、時として生きていた頃の感覚で言えば夢をみているようだ。自由に水中を移動している、とか知らない人と親しげに語りあっているとか。もちろん死んでいるから現実も夢もないのだが、五感もないのにそのような感じがするのも不思議なものだ。
 それで私が生きていた頃というのはトヨトミとかいう天下人が世の中を治めていて、おとう達はようやく戦がなくなりそうだと噂していたっけ。
 ただその頃はイクサと言っても武士達は血道を上げて勝っただの負けただの騒いだが、私等はワクワクしながら遠目に見物に行ったりしていた。死体から金目の物をはぎとったこともあったくらいだ。春から収穫まで休み無く働き通しで秋祭りをやってしまったら冬支度、何もすることが出来ないうちに正月を祝うと、もう次の春。楽しみなんか何もないのだからイクサがたまにあるとそりゃー面白かった。
 ウチは百姓をしていたけど食えないもんだから兄弟は大坂に行ったり那古屋に行ったりして、残った私も長男ではなかったから食い扶持はあてがわれたものの、嫁取りできるわけじゃない、六男だから。イクサも足軽が足りなくなると現地調達で銭をもらって数合わせみたいに槍なんか持たされる役回りもあって、ワシも行ったことがある。
トクガワの武将に雇われて銭を貰ったのはいいけど、なんだか『天下分け目の戦いだ』とか大げさな話になっているので参った。しょうがないから関が原の近所まで行ったが、いつ逃げ出そうかと思っているうちに戦は始まって逃げそこなった。
 始まったら始まったでウキタとかいう西国の武将にずいぶん押されて危なくなったので、こりゃまずいと思った途端にコバヤカワとかいうのが突如寝返りをしたらしくて形勢が逆転した。そのままトクガワにくっついて足軽家業をしていたんだが・・・。

 さっきまで夢の中にいたような気がしたが、オイラが死んで既に150年は経ったのではないか。死んでいるのだから記憶もクソもないが、とにかく時間の概念がないから150年というのも、多分春夏秋冬が150回くらいあった、と思っただけだ。お江戸は神田で生まれたが長屋暮らしの棒手振(ぼてふり)の息子だからゴチャゴチャとした暮らしぶりで楽しい事なんかありゃしねえ。
 まァ、先々どこかに奉公でもさせようと思ったんだろうが、ガキの時分から近所の筆学所(寺子屋のこと)に行かされて、読み書きが出来るようになった頃にゃ世の中がうるさくなってきた。おいらが生まれた頃に黒船が来て、その後色々あったらしいが将軍様は上方に行っちまった。慶應に変わったその三年に幕府が伝習隊を募集したので、三番町の第三大隊にノコノコ入ったって訳だ。
 その頃にゃ異人がどんなものかも知ってたし、何だか天下は丸いんだって知識だけはあったね。で、伝習隊に入ってみたらタダで鉄砲も持たせてくれるし飯も食わせる。だけど訓練は重い鉄砲を担いで走り回るのが中心で辛いの何の。
 たまげたのはお侍がおいら達を指導するんじゃなくて仏蘭西とかいうところから来た異人だ。桃色というか白い肌のバカでかいのが異人言葉で号令をかけるんだけど何言ってんだかわかりゃしねえ。そのうち何となく分かったけどね。
 こっちは江戸詰めだから上方のことはよくわかんねえけど噂だけはすぐ伝わった。やれ将軍様が逝去されてあの一橋様が将軍になられたとか。ところがその将軍様がどういう風の吹き回しか幕府を返上したとか、挙句の果てに朝敵にされていくさに負けた、とか怪しげな話が聞こえてきた。伝習隊が上方に行ってたから負ける訳なんかないと思ってのんびりしてたからびっくりだ。実はオレ達第三大隊だけ江戸に残されていた。上方だけじゃなくてお膝元の江戸だって薩摩や長州の回し者みたいなやつらがガサガサしていて、先だっても頭にきた新徴組が薩摩屋敷を焼き打ちにして大騒ぎよ。
 そうしたらいつの間にか将軍様は帰ってきちまって上野で謹慎されたってんだからどうにもならねえ。こりゃ戦が始まるな、と思ったらなぜか総攻撃はなくなりお江戸は無血開城だと。
 おさまらねえ大鳥様は一番大隊・二番大隊をつれて北上していった。それがどういう風邪の吹きまわしかオレ達第三大隊長の平岡様は新政府に恭順だってんだからもう訳わからん。元々オイラなんざ幕府だろうが新政府だろうがどっちでもいいもんだから上のほうの言うとおりにゾロゾロ付いて行くと名前もいつの間にか帰正隊になっていて下総や奥州を抜けて挙句の果てに箱館にまで行っちまった。するとそこには昔の仲間もいるはずで、そっちの大将は大島様ってこった。やりあっているうちに弾が当たって・・・。

 うっ、意識は戻ったみたいだな。オレもう死んでどれくらいかな。50年は過ぎたと思うけど。戦争はもう負けて進駐軍がデカい面してやがって、オレ達は行き場を失ったも同然だ。誰もかれもが混乱の中にいたが、それでも悲壮感はあんまりなかった。元軍人なんかはあんなに偉そうだったのにすっかりしょげ返って見られたもんじゃない、そこいらのガキにまで「戦犯」「戦犯」とか指さされてな。
 アメ公は終いには手あたり次第に爆撃してきて大勢が死んだ。沖縄はもっと酷かったそうだ。だけど『死』そのものもああ目の当たりでそこら中に転がっていると人間は麻痺してきて、亡くなった方には失礼だが自分のことで精一杯でせいぜい気の毒に、と思うくらいになってしまった。そして結局負けでした、でガックリはしたが、こりゃあ死なないで済んだか、となって後は物凄い生存本能を発揮している有様なのだ。
 情けなかったのは上から下まで軍放出品の横流しやら闇市での偽物の売買だのありとあらゆる悪がはびこってしまい、進駐軍が来て少しまともになった感じすらした。三国人の暴れぶりも凄いもんだった。戦勝国・敗戦国・第三国という意味で、日本の法律が適用されないってんだからやりたい放題なんだが、そりゃ無理もない。
 もっとも三国人全部がアコギな稼ぎをやっているわけでもなく、等しく貧しかったのは日本人も同じ。アンダーグラウンドでは日本人の愚連隊も入り混じって任侠も何もなくなったヤクザが気の毒なくらいだった。
 それから高度経済成長とか言ってオリンピックじゃこれからはレジャーだモーレツだ何だかんだ、とにかく忙しかったんだよ。不況だって何回も来たしアメ公は朝鮮でもベトナムでも戦争はやりっぱなしにやって、冷戦がどうしたかは良く知らないけど昭和ってのはとにかく「戦い」の時代だった。平和な時代と言ったって、安保闘争とか賃上げ闘争とか何かと「闘争」「戦い」が強調されてヤレヤレと思ったものだ。その頃からやたらと交通事故が多くなっていくんだけど、そうなると交通戦争だ。年間の事故による死者が1万人にもなる有様で、そりゃこの前の戦争に比べりゃどうってことはないんだけど、日清戦争での戦死者が一万人くらいだから戦争と言えなくはないね。
 オレはその頃にはトラックの運転免許を取ってダンプ・カーで稼ぎ出して結婚もできた。ナニ近所の幼馴染なんだけどね。子供も生まれた。安定した生活になりつつあったんだが、実は酒が止められない。
 一方でダンプの現場は、例えば土砂搬出なんかは何回運んだかでその日の取り分が決まる過酷な仕事だ。だから凄い奴なんか一升瓶を助手席に置いてガバガバ飲みながらやってることがあった。オレもヤバいなと思いつつまァ適当には飲んだ。
 そうしたらあるダムの工事現場に回されて、取り締まりもないような山奥だからおおっぴらにやってたのさ。夜中になって、もうこれで上がろうかという時に、やっぱり酔いが廻って崖からダンプごと転落したのさ。

 おわかりだろうか。これは一つの魂が、普段は宇宙空間に漂っていて、繰り返し人間として地球に生まれては、同じような人生を送ってまた死ぬのである。そして漂っていつつも、どうやら別の天体で転生して、そこの寿命が尽きると又漂い、何百年か後に再び地球で人間になるということがわかってきた。この愚かな魂は千年後にも『令和って時代があったんだがね』とやっていることだろう。

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私の平成

2019 MAY 17 7:07:01 am by 西 牟呂雄

 昭和64年。昭和天皇崩御に際して自粛となった晩に、私は試みに盛り場の様子を車で巡回した。新宿も渋谷も確かに真っ暗だった。派手なネオンは消されており『街は悲しみに』沈んでいたように見えなくもない。車は少なく、しかし人通りは多かった。
 そして歌舞伎町をすり抜けようとした時、異様な物音に気が付いた。パチンコである。ギラギラ・ネオンは落とされていたものの、店の中ではジャラジャラと励んでいたのだ。
 渋谷の道玄坂では渋滞した。その時に隣の車がジェームス・ブラウンを大音量でかけてユッサユッサとリズムを取っていた。ギアをドライブにいれてプレーキをポンピングさせている、早速真似してみた。
 私の平成はこうして始まった。天安門事件があり、竹下内閣が潰れ、宇野総理が辞任して海部内閣になった年である。
 元号があるのは世界でただ1国、日本だけだ。色々と解釈はあるだろうが、日本人はこれによってを支配する超自然的な力を感じるのではないだろうか。

 バブルの最後あたりを、六本木のビルの名前が刻々と変わることで実感した。
 私はメーカーの末端管理職だったが、少しのタイムラグを経て風に晒された。その過程は既に詳述されている。当時、財テクといった言葉も使われ、製造業といえどもバブルに踊った。弾けてからは多角化とグローバル化で乗り切ろうとどこも同じことを始める。当時の製造業のグローバル化とは、優れて東南アジアに製造拠点を移す事だった。いわゆる”軽い”工程を移管するのだが、最も流行ったのはシンガポール・マレーシアで、SQ便に乗れば必ずと言っていいほど同業他社の知り合いに会った。甚だしきは日本語のカラオケに全く不自由を感じないで過ごせるようになっていった。
 その動きは紆余曲折を経て、10年後には中国に変わり、私達は地図を眺めながら、Vターン効果などと言っていた。中国の辺鄙な(といっても大都市だが)ところで日本人単身赴任者千人につきワン・ブロックの割合で日本式カラオケ屋が密集する、というのが実感だ。おまけに日本でリストラを繰り返すため、流れた技術者がノウハウをペラペラ喋っているのは何度も見た。
 一方バブルの後遺症は10年でカタがつくはずもなく、企業の大型合併が進む。おそらく当初はどの金融機関も不良債権全体を見積もる事ができずに、10年後には増えていた。そして国際会計基準というアメリカン・スタンダードが進み、良く言えば経営効率が良くなったことになっている。それはそれで良いのだが、経営に落ち着きがなくなったと言えなくも無い。
 なんとか不良債権が言われなくなったのは次のリーマン・ショックで麻生内閣が潰れ、その後に小泉内閣が熱狂的な人気で誕生した更に後だったと記憶する。
 私はその間、シリコン・バレーと東南アジアを根無し草的にウロウロして過ごした。その結果、多角化の勢いでスピン・オフをし、その勢いが止まらずに色々あって九州に流れた。
 平成最後の10年は、かつての我々以上の勢いの中国勢の台頭を目の当たりにしていながらなす術がなかったかの感、無きにしも非ず。黒田総裁の異次元緩和で足元は好景気だということになっているが、日本の製造業の収益力は世界の中で(トヨタを除いて)確実に落ちてきた。逆に言えば緩和がなければとんでもないことになったはずだ。復活安倍内閣の直前は1$=80円である。
 更には目下の稼ぎ頭は金融ではなく、ネット関連である。それも世界中で、である。
 そして私のフィールドはアメリカ・東南アジアからロシア・インドに変わって令和に至る。

 いつの時代でもそうだが、平成も生々しい災害・事件はあった。神戸の地震は丁度マニラに飛んだ日で、着いてBS・NHKの中継を見た。
 地下鉄サリン事件の時は富士山の麓のスキー場にいて、今から考えるとそのすぐ近くにサティアンがあったのだ。
 サカキバラセイトは本まで執筆し、今も社会生活をしている。
 9・11では知り合いが何人もニューヨークにいてハラハラした。帰宅するとテレビに釘付けになり、2機目か3機目か忘れたが、突っ込んだのをナマで見る。
 中越地震において原発は安全に運転を止め、私はその技術レベルの高さに関心したが、東日本大震災の福島は・・、このときは東京にいなかった。
 私はどうも大惨事には合わないようになっているのか、と被災者に申し訳なく思った。津波の惨状に呆然としたが、事態が深刻だったという情報が把握できたのは2日程してからではなかったか。当初の犠牲者は数百人としか伝わらず、いかなる機関も全貌が分からなかったのである。
 どの災害でも私ごときができることはなく、僅かに水素爆発した後の計画停電への協力ぐらいだった。ところが打ちひしがれ、不自由な暮らしを強いられる被災者の方々が、天皇陛下の慰問を境にガラッと癒される、それを見る色々と気を揉んでいる国民全体がホッとするのを見た。まさにその瞬間・瞬間に平成が(私には)刷り込まれた。 

 平成が始まって暫くして宮澤内閣を最後に自民党の単独政権が成り立たなくなったが、合従連合が繰り返されるのを眺めながら「日本が政治的に安定するのは2010年頃ではないだろうか」と言ったことがある。それは別に自民党単独政権に戻るという意味ではなく、保守・革新といった単純な対立構造のイデオロギー的神学論争などにエネルギーをすり減らさない世の中になっていくと考えたのだ。
 だが、投票行動は全くアテにならない。チルドレンだのガールズだのが大量当選するのは健全だと思えない。
 小泉総理は靖国に参拝したりして、一見ゴリゴリの保守に思われたがそうではない。歴史小説は好きなようだが伝統と言ったものに対しては破壊的だ。そしてその後、民主党政権が成立して予言は当たったと喜んだのだが、結果はご案内の通り。野田総理を高く評価していたが、分裂体質を孕む民主党体制がどうしようもなかった。
 その後が現安倍政権だ。小泉~安倍の清和会の系列はタカ派と言われるが、私には現実的な対応に見える。隣国の無理難題を無視するところが誠に結構(ただし清和会には福田康夫もいる)。

 一世一元であると、現代人は多くても3つの元号しか生きられない。従って昭和生まれの我々は令和の次はない。もっと言えば昭和に青春を浪費した世代はオジサン・オバサンとして平成を迎え、おじいさん・おばあさんになって令和を過ごす。
 平成の初めには移動電話や電子メールだったのがスマホになる。元々機械・システムに弱いオジサンはその時代の変化に最後尾からノコノコ付いて行った。
 平成で冷戦を制したアメリカの一人勝ちが始まった。30年後の今なら分かるが、要はカネの問題だったのだ。アメリカのカネに負けてソ連は無くなった。
 アメリカは日本にもイチャモンをつけていたが(細川内閣に、とか)、お次はGDPで日本の倍になったチャイナが目障りだ、潰せ。最終的にアメリカにマネーが還流するインペリアル・マネー・サイクル(私の造語)に触るな。
 きっとそのうちGAFAも気に入らなくなる、それがトランプなのではないか。そのトランプが令和最初の国賓として来日する。
 
 私の平成はいつも切羽詰っていた。酔っ払っていた。出たとこ勝負ばかりだった。目まぐるしかった。途方に暮れていた。幸い病気には罹らなかった。大怪我もしなかった。笑った。ブログを書き始めた。スノボができるようになった。
 大切な出会いもあったが、多くのことを捨ててきた。今や新しい出会いなど必要はないと考えるに至っている。
 令和天皇は私よりもお若い。昭和9年から昭和35年の生まれは、自分よりお若い陛下を初めて見るわけだが、即位後の天皇皇后両陛下の表情は充分に安心感を与えてくれた。皇后陛下も回復され、令和流を作っていかれるに違いない。
 この30年という平成を通じて、音楽の趣味・読書傾向変わらず。何とか令和を迎えられた。平成は30年もあったのだが、マッやっとこさっとこ生きてきたわけだ。
 

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