Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 遠い光景

末期の海軍航空隊 神雷部隊・剣(つるぎ)部隊・芙蓉部隊 

2021 NOV 24 0:00:58 am by 西 牟呂雄

「一機2トンもする『桜花』を吊った一式陸攻が敵まで到達できると思うか。援護戦闘機がわれわれを守りきると思うか。そんな糞の役にも立たない自殺行為に多数の部下を道づれにすることなど真っ平だ」
「桜花を投下したら陸攻は速やかに帰り、再び出撃せよ、と言っているが、今日まで起居をともにした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを見ながら自分たちだけが帰れると思うか。そんなことは出来ない、桜花投下と同時に自分も目標に体当たりする」
「オレじゃなきゃ務まらないというから仕方なくやってはいる」
 特攻兵器『桜花』は海軍の一式陸攻爆撃機に抱えられて敵機動部隊に接近し発射されるロケット推進機だ。防御不能の秘密兵器として米軍を恐怖に陥れはしたが、クリスチャンの米軍は自殺を忌み嫌ってコード・ネームは「BAKA」とした。
 特攻について、筆者は無論否定する。切なく悲しい歴史として軽々には論じられない。冒頭の言葉も特攻を否定した海軍神雷部隊長、野中五郎少佐のものである。神雷部隊とは桜花攻撃専門に編成された一式陸攻部隊のことである。
 野中少佐は、2・26を主導し首相官邸でピストル自殺した野中四郎大尉の実弟に当たる。兄弟そろってスパルタ教育で有名な府立四中から陸士・海兵に進んだ。兵学校時代は居眠りばかりして成績こそ奮わなかったが、艦上攻撃機搭乗員に配属されてからはメキメキと頭角を現し、終戦直前は上記神雷部隊長となる。独特の感性の持ち主で、部隊を『野中一家』と呼び、司令部には南無妙法蓮華経の大旗と陣太鼓が据え付けられていた。一方で茶の湯を好み、茶道具一式をいつも携行していたそうである。
 常に桜花特攻には反対であったが、やむにやまれず九州沖航空戦で指揮を執って出撃しようとした上官の岡村大佐をさえぎり、3月21日出陣し全滅する。神雷部隊はその後6月まで戦闘を続けるが、戦果は著しく低下した。以下は3月21日の訓示である。
「まっすぐに猛撃を加えよ。空戦になったら遠慮はいらぬ。片端から叩き落せ。戦場は快晴。戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海たらしめよ」
 常々、 車懸り戦法と称して『敵部隊を見つけたらグルグル回れ。オレが突っ込んだら続け』と言っていたようなので、覚悟の突入だったと思われる。

「私が先頭で行きます。兵学校出は全て出しましょう。予備士官は出してはいけません。源田司令は最後に行ってください。ただし条件として、命令してきた上級司令部参謀が最初に私と来るというなら343空はやります」
 名機紫電改を集中配備し、かろうじて1945年4月まで迫る来る米艦載機から九州の制空権を確保できていた、『剣部隊』こと343海軍航空隊の飛行長であった志賀義男氏の言葉。剣部隊に特攻要請があった時に発したという。
「指揮官として絶対やっちゃいけない、自分が行かずにお前ら死んでこいというのは命令の域じゃない、行くなら長官や司令が自ら行くべきだ」
 とも常々言っていた。
 志賀氏は海兵62期の『赤鬼』と呼ばれた猛者で、真珠湾攻撃から終戦まで飛び続けた。大戦初めからのパイロットの生存率は2割以下。志賀氏の指揮の元、編隊撃破の戦術で剣部隊を統率。「海軍航空隊にはエース・パイロットは存在しない」とし、良く統率されたチーム・プレイに徹して戦果を挙げた。以前のような、我こそは、といった攻撃がなくなり米軍パイロットも慌てたようだ。また、一時フィリピンで特攻を指揮した者が副指令になった時は、源田司令に働きかけて転出させもした。
 最後まで健闘したものの、稼働が20機ほどに落ちた時点で原爆を2発落され、源田司令が「我が剣部隊も既に組織的な攻撃に対する機能は乏しくなった。もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら、俺が体当たり(特攻)をしてでも阻止してみせる」とまで言ったが、結局特攻はなされなかった。

「ここに居合わす方々は指揮官、幕僚であって、自ら突入する人がいません。必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです。失礼ながら私は回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。今の戦局に、あなた方指揮官自らが死を賭しておいでなのか」
「劣速の練習機が昼間に何千機進撃しようと、グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます。2千機の練習機を特攻に駆り出す前に、赤トンボまで出して勝算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私がゼロ戦一機で全部、撃ち落としてみせます」
 この気迫のこもった言葉は、艦上爆撃機『彗星』に乗り夜間攻撃に徹した芙蓉部隊を率いる美濃部正少佐が、特攻止む無しとする海軍上層部に対して放ったものだ。
 特攻の生みの親、大西瀧治郎中将から特攻を示唆された時も
「特攻以外の方法で長官の意図に副えるならば、その方がすぐれているわけです。私は、それに全力を尽くすべきと思います。だいいち、特攻には指揮官は要りません、私は指揮官として自分の方法を持っています。私の部隊の兵の使い方は長官のご指示を受けません」
 と反論した。ただし、この口論は他の証言者のいない二人きりの際のものとされ、本人の一方的証言ではある。
 美濃部はフィリピンで海軍第一五三航空隊戦闘901飛行隊長として、月光隊による夜間爆撃を考案した。その月光隊にはBー29ハンターとして有名になる遠藤幸男大尉もいた。
 もっとも戦闘901飛行隊は、Bー29の前身B-24爆撃機の夜間迎撃以外、米機動部隊への夜襲は失敗している。
 この信念は、沖縄に上陸された後に本土防衛のため再編された芙蓉部隊による夜間の飛行場爆撃に生かされた。数次にわたり沖縄の米軍基地を叩くことができたのは終いには芙蓉部隊のみになっていた。しかし残念ながら、米軍飛行場は強力な対空砲火により、彗星による三式一番二八号ロケット爆弾による爆撃も高度4千mで接近後緩降下し投弾せざるを得ず、命中率は格段に落ちた。もともと夜間攻撃はその成果の確認ができないことが多く、多少盛られたものだとの指摘はある。
 さしもの美濃部少佐も硫黄島への出撃の際には一度、「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と口走り、別れの盃(別盃)を交わしている。最後の本土決戦の作戦でも、自身を先頭にしての特攻作戦を立て、玉音放送後も徹底抗戦を部下に訓示するなど混乱はした。

 筆者は前期高齢者である。この年になっても負け戦のヒステリー状況で冷静でいられたか逡巡することがある。
 無論、特攻を肯定する者ではないのだが、破れかぶれになった挙句に相手を道連れにしてやる、とならないか、そして(特攻は志願制とはいうものの)オレがやるからお前らも続け、とならないで済むほど胆力を練ってきたか。
 ただ、あくまで反対を貫いた合理的な指揮官(志賀・美濃部少佐のような)により救われた命があったのなら、自分もそういった冷静さを持っていたいとは思う。
 美濃部少佐は戦後航空自衛隊で空将になり、平成の航空幕僚長を務めた。

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我が友 中村順一君との約束

2021 NOV 13 19:19:49 pm by 西 牟呂雄

 早いもので彼が他界してもう5年が経つ。
 先日、故人の親しかった者4人でご家族を囲んだ。既に思い出・エピソードの類は語りつくしているのだが、生前に約束していたこと等が話題に登り、未達の事案については忸怩たるものがあった。
 彼と僕は子供の頃から右っぱねしていたのだが、微妙なところでズレがあった。
 ロシア人と仕事をしていた時に、彼らの領土問題に対する認識の無さに呆れたことがあった。無論仕事上の付き合いなので、露骨に返せと言ったわけではない。係争していると表現したのだが、相手はこう言った。
『そんな小さな島で揉めることはない。この辺り(ウラル地方)に役に立たない土地がいくらでもあるんだからお前が買えばいいじゃないか』
 この話を披露した際、彼は烈火のごとくまくし立てた。
「それをヘラヘラ聞いていただけか。だからお前はダメなんだ。そういう時は南樺太も返せとなぜ言わん」
 それもどうかと思う主張だった。
 その後話の流れで、仮に領土問題がある程度の妥協が成立したとして、国防の任に当たるため住民票を移そうぜということになった。その際、択捉島と尖閣列島のどっちがいいかでジャンケンまでした。どちらも暖かそうな尖閣を望んだからだ。バカバカしいことに真剣になって3回戦をやって彼が尖閣になったのだが、その直後に石原都知事が買い上げると言い出してスッタモンダが始まり国有地となった。『国有地なら住民票を移せるだろ。ジャンケンまでやったんだから早くしろ』と迫るとツベコベ理屈を並べ立てた挙句『インフラを整備するのに5千万はかかる。お前がそれを負担するなら移す。その点、択捉なら今でも人が住んでいるんだからお前こそ自慢のヨットで上陸して見せろ』とか言い出してウヤムヤにされた。

 実は彼とは還暦になった時にある約束をした。それは〇〇才になったらお互いに仕事をしないで旅に明け暮れたり酒を飲んだりして遊ぼうという計画だった。彼はその年齢になる前に逝ってしまい、取り残された僕はズルズルとテキトーに稼ぎ日々を過ごしている。
 因みにアグリ・デヴューしてから数年になるが、このコロナ禍にセッセと畑で作業する姿を見たら何と言っただろう。しかも最も収穫が上がるのは彼が生前大嫌いだったピーマンなのだ。自分はアグリに興味はないくせにあれこれイチャモンを言って我がグリーン・ハート・ピーマンをけなしたに違いない。
 席上、記憶から抜け落ちかけていたことも思い出として蘇った。彼の妹さんがアメリカ人のペン・フレンドができた、と喜んでいたのを二人で寄ってたかった『ブスに決まってる』『おそらく友達もいないような暗い子だろう』などと苛めて遊んだら妹さんが泣き出してしまったこと。スキーに行って僕が頭から突っ込んで顔中血まみれになった時の彼の仰天した表情が面白かったこと。みんなでモノポリーに興じていて二人とも破産しそうになり、条約を結んで(条約文書まで作った)共同戦線を張り何とか復活したものの、最後はいつ裏切るか疑心暗鬼になり結局どっちが卑怯な手を繰り出すか知恵を絞ったこと(これは最後に僕たち以外が全員破産してしまい引き分けにした)。どうでもいい話ばかりだ。

 もう五年も経ち、ひとりでは約束は果たせないなとこうしてブログを書いている。
 今年はお前が子供のころから好きだった阪急のオリックスが四半世紀ぶりにリーグ優勝したんだそ。我が東映フライヤーズはファイターズになって5位だった。

    ー合掌ー

わが友 中村順一君の命日

我が友 中村順一君との会話

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門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

2021 SEP 20 10:10:16 am by 西 牟呂雄

 このゴロのよい軽快な響きは前から知っていたが、庶民のざれ歌と思っていた。ところがれっきとした高僧の作だと最近知って無知を恥じた。狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)、いずれもその人物の号、後小松天皇の落胤と伝わる一休宗純、一休さんのものだ。斜に構え、世の中をしゃれのめす姿勢があってワサビが効いている。
 ところが大変な秀才で、以下の少年時代の漢詩を読んで三嘆した。

 秋荒長信美人吟  秋荒(しゅうこう)の長信(ちょうしん) 美人吟ず       
 経路無媒上苑陰  経路 媒無くして上苑陰たり    
 栄辱悲歓目前事  栄辱(えいじょく) 悲歓 目前の事 
 君恩浅処草方深  君恩 浅き処 草 方(まさに)深し
  
 これ、漢の王将君を題材にした13才で吟じた七言絶句だが、韻の踏み方など13才とは思えない。そしで古典を自在に読みこなしていたことにも舌を巻く。
 どうやら母親が南朝方(一説によると楠木正成の孫)だったため足利義満・義持の時代では親王にはなれずに6才から安国寺で育ったという。次は15の年の七言絶句。

 吟行客袖幾詩情  吟行の客袖(かくしゅう) 幾ばくの詩情
 開落百花天地清  百花 開落(かいらく)して天地清し
 枕上春風寝耶寤  枕上の春風 寝いたるか 寤めたるか 
 一場春夢不分明  一場の春夢 分明(ぶんめい)ならず 

 うーん、唸らせる。早熟の鮮やかな切れ味を感じる。『寤(さめる)』という漢字はこの詩を読むまで知らなかった。
 二十歳を過ぎた頃。師匠の死にあたり石山観音に籠ってみるが、悟りを得られずに川に身を投げようとする。早熟型にありがちな死への衝動だろう。
 22才頃、ある公案(仏僧からの問)にこう答えた。
「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
 煩悩から悟りへのプロセスを何気なく答えて、お見事の一言に尽きる。これによって一休さんになった。
 そして30才になる前に大徳寺での修行中、夜中にカラスの声を聴いて悟ったとか。このあたりからおかしくなる。そもそも夜にカラスが鳴くか?まあいいや、

54才だったとか

 イカレポンチな恰好をしたり奇怪な言動で世間をおちょくり出した。
 この絵で傍らにあるのは朱鞘の大太刀だが中身は木刀だったとか。
 本願寺中興の人である蓮如上人とは親しかったようで、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をする。あるいは正月、竹にドクロを括りつけて「ご用心、ご用心」と練り歩いたり、やりたい放題。頭蓋骨なんてどこから調達してきたのか。
 一応、大徳寺や京田辺で荒れ果てた妙勝寺の再興をするといった仕事はしている。おそらく当時の人達は皇胤であることを知っていて、好きにさせていたのだろう。
 時代もよかったはずだ。ちょっと前だったら後醍醐天皇とバサラの化け物達がウジャウジャと戦乱に明け暮れて、都もしばしば戦乱に巻き込まれていた。坊主稼業で奇行を繰り返すことなど不可能だ。義満時代に世の中が少し安定してきたので大目に見られたのだろう。但し、晩年には応仁の乱が起きて、足利幕府も相次ぐ内紛により安定しなくなるが。
 飲酒・肉食・女犯と何でもござれで遊びまくった後、80才近くなって森侍者(しんじしゃ)という正体不明の盲目の旅芸人を愛人にしている。
 いずれにせよ、時の帝とも庶民とも親しく付き合い愛されたため、江戸時代に『一休頓智話』が創られた(内容はほとんど創作にせよ)。

 その後も日本史では平和が続くとコノテのイカレポンチがしばしば現れる。激しい混乱の時代がある程度安定してくる・有産階級が十分に形成される、するとかつての上流からスネたりヒネたりした者が、歌舞音曲・詩文などの才をもって社会を笑いのめしたり驚かせたり。
 お江戸の傾奇者とか明治の旧幕臣などにその痕跡が感じられるが、戦後はどうか。
 かなり飛躍するかもしれないが、安藤組の安藤昇とか加納貢と言った愚連隊にその系譜を感じたりもする。
 フーテンや全学連の闘士とかのその後はどうか。。
 しかし圧倒的な才能とイカレ趣味で言えば三島由紀夫だろう、最期が最期だけに。
 翻って令和の今日ではどうか。数多いたIT長者やホリエモンにもっとやって欲しかったが、欲が深すぎて別の方に行ってしまった。
 落合陽一あたりが弾けてくれないかな。
 僕がやると、どうもねぇ。一休語録をパロってはみたが。

『冥土への 旅の足しにと野良仕事 ナスとキュウリに ポテトじゃだめか』
『こりゃ仏 アラー キリスト 八幡に 如来 菩薩 も みなおなじだろ』
『酒に酔い 歌い 笑って 食って 寝て 遊び疲れて 書にも親しむ』
『膵臓炎 高脂血症 大腸癌 もっとキツいは 二日酔い也』

 うーん。まだだな。

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忘れ得ぬことども

2021 MAR 16 0:00:52 am by 西 牟呂雄

 大変人気のあるアメリカの作家、スチュアート・ダイベックに翻訳家の柴田元幸がインタヴューしているが、その中でダイベックが『日本の作家で興味のある人はいますか』という問いに対し、迷わず川端と谷崎を上げたので驚いた。曰く『僕が谷崎の英訳をすべて読んでいるのも、一つにはこのエロティシズムというテーマと取り組む、その取り組み方のせいだと思うんだ。彼は間違いなく、何か大事なものを捉えていると思う。多分僕はその点、彼を師と仰いでいるようなところがある気がする』
 明治生まれの日本の作家を師と仰ぐとは恐れ入った.細雪のような繊細というか微妙な色気がアメリカ人にわかるのだろうか。
 谷崎は日本橋蛎殻町の裕福な家に生まれた。ところが小学生の時に家運が傾き、高等小学校に進んで苦学することになり、一中に進学した際には同級生より3才ほど年を食っていた。その後あまりの秀才ぶりに1年から3年に飛び級して、そこでもトップを取った。
 実は谷崎は戦後早い時期に英訳が出されていて、1958年から1964年までノーベル文学賞の候補に上がるほど評価も高かった。1942年生まれのダイベックがマセた少年だったら、むしろ新しい文学として読者となったこともあるだろう。シカゴの下町で少年時代を過ごし、大都市の風をたっぷり浴びている。江戸っ子の谷崎が紡ぎだす文章が(英訳にもよるだろうが)琴線に触れたこともあるのかもしれない。
 谷崎が飛び級してトップを取った頃、常に殿(しんがり)を守って落第におびえていたのがフランス文学の泰斗で小林秀雄の師匠筋にあたる辰野隆(ゆたか)である。その後一高・東大と共に進み生涯交流が続いた。ともすればスキャンダラスに取られ兼ねない谷崎作品の良き理解者であり、また軽妙なエッセイの名手としても知られる。
 二人の交流は洗練されたものだったようで、谷崎は辰野を引き合いに出した文章を残している。辰野が「歯並びは悪いがニキビ並びは見事だ」と毒舌を言った、一高の入試に石鹸の作り方という問題が出たが辰野はうどん粉を固めると回答した、幸田露伴を囲んだ際に酔った露伴先生が色紙を書いてくれたが、頼まれもしない辰野が出しゃばって差配をふるい自分にはどうでもよい色紙を割り当て、欲しかった物は辰野が持って行った、等々。辰野はこれに谷崎の記憶違い(或いは面白くするためにわざと辰野の名前を出した)であるといちいち文章で反論している。誠に都会っ子の面目躍如のやり取りである。

 その二人が対談している。喜寿庵の本棚でボロボロに黄ばんだ本を捨てようとしたところ、辰野隆の対談集でタイトルが提題の「忘れえぬことども」に収録されていた。
 戦後2~3年の頃に朝日新聞から出版された本で、当時の週刊朝日の対談を一冊にまとめたらしいが、奥付きもない。一体誰が買ったのだろう。蔵書は爺様が集めたものだがそっちはドイツ語屋だからおよそ守備範囲とは言えない。
 亡母はフランス語に凝り実際に喋れたが、その修練の過程で辰野と面識があったそうだ。それだけではなく同じく仏文の権威である鈴木信太郎の授業も聴講していた。鈴木は辰野と共訳したシラノ・ド・ベルジュラックで名高いが、名調子のところになると互いに「ここは僕の訳だ」と言い合っていたのを聞いている。辰野の随筆に亡母と思しき女学生が出て来る下りがあったのだが出典は忘れてしまった。小生意気な女学生が気の利いたことをいうので「不良少女」とあだ名をつけた、といった内容だと記憶している。「『文芸評論家って人が書いたものにあれこれ言うのが職業ですから寄生虫みたいなものでしょう』と言ったら先生はボソッと『小林(秀雄のこと)に言っておこう』と仰った」と筆者は聞かされたことがある。
 従って母が持っていた本がまぎれこんだものと思われる。

二人の対談のページ

 話がだいぶズレたが、その対談の内容が秀逸だ。といっても固い話は全然出てこない。のっけから猥談スレスレの話になり、同級生の悪口を懐かしがる、細雪のモデルをおちょくる、辰野が酒を飲んで酔っぱらってしまうと谷崎は泊っていけと勧める。しまいには歌舞伎役者の講釈と続く。しかし全く品が落ちないところが両者の教養の高さと江戸っ子の嗜みなのだろう。
 僕はこれを読んで真っ先に今は亡き親友との会話を思い出した。

 ところで他の対談もめっぽう面白い。
 全て引用するのは不可能なので拾ってみると。
里見弴(辰野と1学期だけ小学校で一緒。白樺派の逸話)、野村胡堂(銭形平次の作者だが、東大同期なるも野村が学費滞納で退学する話)、今井登志喜(全編人の悪口。美濃部達吉は褒めている)、荒畑寒村(桂太郎暗殺未遂の秘話)、長谷川如是閑(英語の発音が下手だという雑談)、武林無想庵(パリの話)、大佛次郎(二人で京都を練り歩くだけ)、その他杉村春子、仁科芳雄、サトウ・ハチロー、いずれも殆どの場合辰野は飲んでいて抱腹絶倒の対談である。
 どこかに復刻版があるかもしれないが見たことはない。興味のある方にはお見せすることはできるが、貸すのは憚られる。ボロボロの本は帰ってきたためしがないから。
 本書と同時期に出た「忘れえぬ人々と谷崎潤一郎」は中公文庫で復刻しているが、谷崎に関しては凡そ似たような話が披露されているのでそちらを参照されたい。
 しかしたまにこういう本を見つけるので、あまり一心不乱に断捨離するのもいかがなものか。

 上記谷崎のコメントの中にある幸田露伴を囲んだ座談会での出来事について、その座談会がいかなるものだったか気になっていたが、最近分かった。1935年の経済往来という雑誌の企画で谷崎・辰野・露伴の他には和辻哲郎・末弘巌太郎(民法学者・東大教授)・徳田秋声といった一流所が集まっている。ところが露伴先生は途中から明らかに酔っ払い、文芸談義もあるにはあるがほとんどが釣りだの歌舞伎だのの江戸趣味の話ばかり。偶然手に取った中公文庫『和辻哲郎座談』の中で見つけた。興味のある方はどうぞ。

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半藤一利さん

2021 MAR 1 0:00:51 am by 西 牟呂雄

 僕はこの人の書いたものに先導されて昭和史に凝った。大変に綿密な取材と考証で当時の世相を学んだのである。海軍関係は特に造詣が深く、ご自身も海軍贔屓を公言していた。身内に海軍関係者が多かった身としては耳障りのいい語り口だった。
 向島の生まれで、戦中に長岡に疎開、戦後は銀座に本社のあった文芸春秋社に長く勤める。好きな人物が勝海舟・夏目漱石・山本五十六・司馬遼太郎だろうか。海舟(向島)・五十六(長岡)あたりに地縁を感じて面白い。
 勝海舟という偉人は毀誉褒貶の激しい人で、ゴリゴリの佐幕派からは嫌われることも多く、確かにしゃべりすぎるところが無きにしも非ず。頭も切れて腹も座っているのだが会ってみたとしたら案外鼻持ちならないところがあったような。西郷や龍馬のような田舎者を煙に巻いたと言ったら言い過ぎなんだろうが、いや、偉人ですよ大変な。
 余談であるが、維新後に福沢諭吉が勝海舟を『痩せ我慢の説』で攻撃したせいか、慶應義塾出身者が勝を軽んじる風潮があり、某塾長と半藤氏が大ゲンカしたことがある。
 ついでにあれだけのインテリにして惜しいのは、先の大戦に対する評価。日本の自衛という所には全く光を当ててくれなかった。陸軍悪玉説に傾きすぎて、中国の国内事情の複雑さ(性悪さ)を甘く見ている。まぁ実際に大空襲に会った方なので、筆者の及びもつかない思考遍歴を重ねられてのことであろう。氏の業績を尊敬して止むことはない。
 『歴史探偵忘れ残りの記』を読了した。
 氏は昭和5年の生まれ、下町の悪ガキを自称されている。書きっぷりの端切れのよさが神田生まれの筆者にはなじみがいい。著書の中に『わが銀座おぼろげ史』という章があり、文芸春秋社が銀座にあった時代の描写が秀逸である。
 その書き出しを読んでニヤリとさせられた。子供の頃はせいぜい浅草止まりで戦前に銀座に行ったのは小学校3年生の時だったという。
 ところで下町というと一般的には義理人情のはびこる落語の八ッつあん熊さんの世界という印象かもしれないが、実は縄張り意識がものすごく強い。ほとんどが職人だった昔は、住んでいる所と働く所と遊ぶ所が同じため、ヨソ者が入ってくるのを警戒するのだ。マンション暮らしの勤め人ばかりである今は違うだろうが、大人から子供までそういう気質だから筆者のチビの頃は喧嘩が絶えなかった。その縄張りはおおざっぱにいうと区立中学校の学区くらいの規模だ。そして他所のことをクソミソに悪く言う。
 神田あたりの連中の意識はせいぜい銀座までが守備範囲で墨田川の向こう側なんかは狸が出るような所だという感覚だ。『粋な深川いなせな神田、人が悪いは飯田橋』という言い方があった。
 その認識から言えば『だから大川(墨田川の言い方)の川向こうはいやだぜ。ザギンに来たこともねえカッペばかりだ』ということになる(現在の住人の方ごめんなさい。いまではそんなこと思ってもいません)。すると半藤さんならこう言うだろう。『神田なんざ花街もねえような野暮な所じゃねえか。祭りが無きゃただのヤッチャバ(市場のこと)だろ』
 

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マクシミリアン・ロベスピエールの最期

2021 FEB 21 11:11:41 am by 西 牟呂雄

 かのフランス革命のヒーロー。ジャコバンの総帥となり多くの政敵を断頭台に送った公安委員長。テルミドールの反動によって処刑された。秀才で極々まじめな理想主義者だったと思う。どうして分かってくれないのか、とかつての盟友を次々に処刑した心境はいかばかりか。
 あまり柔軟性のない人の言うことを聞かない人だと思うと、筆者としては付き合いたくないタイプかもしれない。だが近しい人には愛情を注ぎ冗談も飛ばしたと言われている。とにかく抜群の秀才だったらしい。
 フランス革命は複雑な経緯をたどり、国王を殺しナポレオンの登場を招くのだが、このブログは世界史の授業ではないから割愛する。
 ロベスピエールの最期をたどっていくと、革命の終焉に見られる倦怠・退廃といったものがヒシヒシと伝わってきて大変に興味深い。このテの革命騒ぎは必ず大騒ぎの後に権力闘争が始まり独裁に至る。筆者の知る限りではアメリカ独立戦争と天皇制が続いた明治維新が例外ではないか。ただしアメリカは黒人奴隷制度と先住民の虐殺を内包しており、日本においても後に軍部の独走があるにはあった。
 この点、目下のコロナ禍をひとつの革命と見立ててみると・・・。仮に中国の発表が真実だとすれば(違うとは思うが)独裁体制の方が効率的に体制立て直しに成功し、民主主義はいったん後退、その後に徐々に回復するにつれ復活するといった経緯をたどるのではないか。
 さて、ロベスピエール率いる公安委員会はテロの語源となったテルール(恐怖政治の意)を1年も続けているうちに深刻な内部分裂をきたしていた。そしてここが問題なのだが、くたびれ果てたロベスピエールは約一ケ月もの間姿を現さなかった。その間に反対派の工作が進んでしまったのだ。
 7月26日(革命歴テルミドール9日)に国民公会に出席したロベスピエールに対し猛烈なヤジが飛び、大混乱の中ロベスピエール一派のプロスクリプティオが全会一致で採決された。
 このプロスクリプティオとは何故か古代ローマの共和制で2回執行された、司法の手続きを経ずに追放・死刑執行ができる制度で、この革命の混乱のさなかに誰が持ち出してきたのかよくわからない。ドサクサに紛れて知恵のあるものがあたかも自然法のように呪文を唱えたのか。こうなるとまるで学生運動のノリだ。それもそのはずでロベスピエールが36歳、死の天使サン・ジェスト26歳、パリの国民衛兵司令官アンリオが29歳という青年の革命である。 
 更にこのコップの中の嵐に対して一部のパリ市民は訳が分からず国民衛兵200人と市民3500人がロベスピエールと共にパリ市庁舎に立てこもり、反対派はチェイルリー宮に陣取り一触即発の状態だった(この時点でアンリオ司令官は泥酔していた)。
 だが、ロベスピエールはこの先頭に立って武装蜂起を促すでもなくグズグズするばかりで頗る振るわない。とうとう国民衛兵は夜になると帰ってしまうのだ。側近はロベスピエールに武装蜂起の議定書へサインさせようと迫ったところ、ロベスピエールは考え込んでしまう。やっと筆を執ってR・Oと書き始めたそこへ国民公会が派遣した憲兵隊が雪崩れ込んできた。
 一般的な史実ではここでロベスピエールが拳銃を引き抜いて自殺しようとし、失敗して左の顎の下を打ち抜いた、とされている。
 実はこれに別の説があって、踏み込んできた憲兵のメルダがいきなり発砲したと後に語っているのである。この議定書は今でもパリの革命博物館に複製があり、ロベスピエールの血痕が点々と付いている。見た人によるとそのR・Oは誠に小さいサインで、気力も何も感じられない字という。一方でロベスピエールの所持した拳銃も残っており、発射した痕跡はないとされる。
 こうなると幕末の龍馬暗殺のように本当のところは良く分からない。メルダは後にフランス陸軍の准将になるが、出世してから発砲したことを話している点、少し怪しい。

 しかしながらその時点では死んではいない。後日ギロチンにかけられたジャコバン一派の処刑図があるが、拡大してみるとギロチン台の向って左側に処刑待ちの男が何人も立っていて、その中に顎をハンカチで抑えている情けない姿で描写されているのがロベスピエールだ。理想を掲げた秀才が、内部闘争の議論に明け暮れ消耗し、あまりに凄惨な処刑をやりすごて神経が焼き切れたのかビビったのか。拳銃を持っていたならば踏み込んできた憲兵の何人かを道連れにでもする気迫がなければ革命を成就することはできないだろう。夜になったからといって国民衛兵が帰宅してしまうとは革命遂行中とも思えないユルさである。
 ロベスピエールがその後の歴史を知っていれば、陰湿な議論に明け暮れずにもっと早い段階で迷わず武力によって反対派を抑え込んだだろう。世界史のハイライトとして学ばされたフランス革命そのものやロベスピエールに対し、筆者が好感を寄せられない所以である。結果としてナポレオンの独裁を招いて終わり、革命の歴史そのものをたどってしまった。

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令和三年 滋養神社お告げ

2021 JAN 7 0:00:17 am by 西 牟呂雄

 昨年のお告げでコロナ禍を全く予言できなかった。今年は遠慮しようかとまで思った。しかし元日の厳かな日の出に向かって祈りを捧げていると聞こえて来るではないか、更に見えて来るではないか。それこそ我が滋養神が私に訴え広めよと告げる令和3年の未来。以下伝えずにはいられない。

1.日本オリジナルのコロナ対策
 テレビの前に現れたのはあの小保方氏である。コロナの対処法を開発したというベンチャー企業『STAP』の社長として復活したのだ。コロナに罹った患者の細胞にストレスを与え抗体を人工的に作り出すことに成功した、と発表したのだった。しかしこの方式だと各人ごとに対処せざるを得ず、そのための装置は量産する目処は立たない。しかも患者本人にしか効かないため国民全体に抗体を与えるのに何年もかかる。一人一回百万円という高額のため政府が実施するのか全く分からないと言うオチでした。

2.英国TPP加入
 EUを離脱した英国は積極的に日本に接近する。実は香港でメンツを潰された腹いせに原子力空母クィーン・エリザベスを極東に回航させ中国に圧力をかける狙いもあった。EUとは喧嘩別れになって経済的にお先真っ暗の現状を打破するため、何が何でもTPP入りしようと日本に貸しを作る国策でもある。水面下では核
搭載の原子力潜水艦バンガードが極秘に来る計画があるとか。その際の母港が函館と佐世保ではないかと噂に上がっている。

3.衆議院解散
 諸説あったものの、菅総理はオリンピック前の都議会議員選挙の時期に衆議院を解散する。公明党は嫌がったが、菅政権はスキャンダルのある自民党の議員の立候補を取り下げ、公明党の候補を与党統一候補とするエサで何とか説得した。
 結果は与党の大勝利。おまけに都議会選挙も都民ファーストが惨敗して小池知事は与党を失う。自民党は単独過半数を獲得し、ほかに維新の会も躍進。憲法改正の世論が盛り上がる。
一体公明党はどうするのか、学会内でも議論が起こり騒然とする中で〇田〇作の訃報が伝えられる。

4.東京オリンピック・パラリンピック大成功
 規模を縮小したとはいえ、満を持した開催に世界は称賛の嵐だ。
 特に世界が目を見張ったのは、無観客で行われた開・閉会式の厳かさ且つ鮮やかな演出。開会式ではブルー・インパルスの描く五輪の下で大相撲の力士100人による四股踏みから横綱土俵入り。閉会式は歌舞伎役者100人の連獅子による毛振りが大反響となった。
 日本は連日メダル・ラッシュ。水泳・陸上・体操・柔道・空手・バレーボール・ゴルフと大活躍。オリンピック・バンザーイ!

5.朝鮮半島新体制
 全く国民の支持を失った文大統領はもはや統治能力を失った。例によって逮捕されるのは時間の問題(何の罪か知らないが)。北は北でコロナによる千万単位の死者を出し、国家の体裁も何も、軍の反乱の兆しが見えだした。
 一方で年初から、かのキム・ハンソルによる『統一朝鮮』というビデオメッセージがネットで流されていた。若きキム・ハンソルは「朝鮮人民である私は38度線を越えて同胞と握手する」と言い切った。どうやら韓国国内で撮影されたようなのだが詳細は不明。
 ついに38度線が崩壊するのか、だがそれは今年ではなさそうだ。

6.某内親王殿下結婚
 日本中がいぶかしがる中、某内親王殿下は婚姻届けを出してアメリカに旅立った。結婚式も何も無しにである。この大胆な行動に世論は概ね『公務をほったらかして何だ』と非難の嵐。お相手はすっかり悪者にされて日本に帰れなくなる。するとさらにマズいことにお相手の母親も渡米して同居を始める。途端に周りに怪しげなタカリ目当ての取り巻きが集まってきて、たまらず元内親王殿下は帰国してしまう。さて、どうなるのか。

7.バイデン大統領暗殺未遂
 いまだに『実はトランプが勝ったのだ』という一派がいる。実はオバマ大統領が誕生した後も、随分長い間『オバマはアメリカ生まれではない』という都市伝説を言い立てて無効を主張した『バーサーズ』というグループがあった。今度は『選挙は無効だ』と主張しているプラウド・ボーイズで、連中は武装している。
 秋口、ついにバイデン大統領の演説中に一発の銃弾が空を切り裂いた。西海岸と南部でBLMとプラウド・ボーイズが銃撃戦を繰り広げる。

8、矢沢永吉 二日連続武道館コンサート
 ミスター武道館。スーパー・スターYAZAWAが新機軸を打ち出す。さる大物とのジョイント・コンサートを打つ、という発表があった。武道館で2晩連続やるというのだが、ジョイントの相手は極秘ということでだれも分からない。関係者の口も固い。

架空ライヴ 矢沢永吉 VS 謎の大物

架空ライヴ 矢沢永吉 VS 謎の大物 Ⅱ

9.石破新党発足
 派閥会長を退いたのはいかにもあざとい。誰が見てもサバイブするには竹下派に潜り込むことしかないのに、この御仁は肝心の所でいつも間違える。
 実は国民民主の前原とは『鉄っちゃん』仲間で気脈を通じていたのだ。衆議院選挙後、頃合いを見て派閥ごと国民民主党に合流しようとしたが、ついてきたのは一人だけというお寒い話。これで総理のメは完全になくなった。
 水面下で小沢一郎が暗躍したらしいが、もはや誰も相手にしなかったらしい。

10.北方領土2島返還
 ロシア全体ではコロナの被害は日本の10倍だった。しかしあまり気が付いていない人が多いが人口は日本と大して変わらないのだ。日本1億2千万人、ロシア1億4千万人である。極秘情報であるが、医療体制の十分でない歯舞・色丹で爆発的に感染が広まり人口が激減していた。もはや無用の無人島となった両島を、国後・択捉2島への巨額投資を条件に日本に返還するとプーチンが言い出した。色丹島からの国後・択捉への自由往来というエサが付いた。
 ところがその直後、プーチン大統領は変異型コロナに罹ってしまい意識不明に陥る。

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深まる秋の憂国忌

2020 NOV 24 0:00:59 am by 西 牟呂雄

 コロナ第三波。おっかなびっくりが続きます。
 先日、癌の手術後1年が経過したところで検査をしましたが幸いにも異常なし。思えばコロナによる医療パニックの前に退院までこぎつけていたわけで、その後の手術待ちの患者さん達に申し訳ないような・・・。今年も秋が迎えられたことに感謝のみです。
 時系列で経緯を俯瞰すると、2年前の身体検査の結果を聞きに行くのを3か月もサボったのでポリープ除去・癌発見が遅れました。1年後に手術。術後せん妄発症。その後コロナ禍という流れでした。

自己流

 今年は喜寿庵でも秋祭りやお茶壷道中は無かったのですが、庭に野生の百合も咲きました。ススキをあしらって自己流で生け花です。
 梅雨が長引いてジャガイモは不作、ナスも小さいのしか採れなかった代わりにピーマンは大豊作。キュウリも初めてまともに収穫できました。
 そして3年前に飢えた栗の木に大きな実が。まだ私の胸の高さにしかならないのですが『桃栗三年』は本当でした。ただ、同時に植えたほかの2本は何も。栗ご飯にして食べました。特においしくもありませんが、冷えた後に海苔を巻いたお結びにしたらおいしかった。

 三島由紀夫が半世紀前の11月25日に割腹しました。彼のことですから50年目の今年に何かの仕掛けをしていて、新しい事実が発掘されるのかと期待しましたがありませんでしたね。
 あの衝撃的な死は僕にとって『強烈なイデオロギーは虚構である』というメッセージとして心に刻まれ、その後の思考形態を決定づけました。
 50年前に今日を予測することは不可能です。グローバル化の進展も中国の強烈な台頭もインターネットの普及も三島は知るよしもありませんが、自死の直前にこう言っています。
『日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう』
 『日本』とは何か。
 当時の世相は70年安保闘争があり、学生は過激になって街頭では激しい投石や火炎瓶までが飛びました。社会党が第2党で国会で一定の勢力はありましたが、自民党の単独政権が続きます。そして何よりも経済成長がまだ続いていたのです。冷戦構造はこのまま永久に続くのではないか、それどころかヴェトナムでは熱い戦いになってドンパチが続いていた。時の総理は佐藤栄作。
 三島の目には敗戦から復興したとはいえ、自らの立ち位置を模索している国家が頼りないものに見えたのでしょう。では上記の『日本』とは何か。まさか戦前に回帰することもできません。そこで固有名詞としての『天皇』を中心概念に持ってきました。
 50年後の今日まで、何が変わったのかそうでないのか。
 政治的には自民党の単独政権は続かなくなり、野党に転落したこともありました。その後は多党連立が続きます。私は政権交代が起こることは日本の民主主義の進展のためにいいことだと喜びました。ところが稚拙な政権運営と策士策に溺れた小沢一郎の暗躍でこの方向は迷走します。ガラクタのような野党ができて政治的な緊張感はなくなりました。平成の終わりになってポピュリズムの波に乗ったからっぽな状況から長期安部政権で一応の安定にたどりついたのではないでしょうか。自公連立です。
 三島が危惧した保守単独政権VSイデオロギー政党の弛緩した対立から革命による体制変換などどこにもなかった、むしろ保守単独の堕落は(現在の評価は別にしても)避けてこられたのかもしれません。
 経済は外的要因に左右されながら平成時代を通じて停滞し、富裕になるでもなく格差が広がったのです。グローバル化の行き過ぎと見ています。特にこの数年は三島の想像をはるかに超えています。人口問題など当時は兆しもなかった。
 文化的にはどうでしょうか。次々とベスト・セラーを出し続けられる力量の作家は村上春樹くらいしか思い当たりません。福田和也は言っています。現代の日本の作家は村上春樹とその他という分け方で語れると。
 昭和から二度の御代替わりを経て、今は令和の時代です。三島の言説から類推すると天皇の生前譲位など絶対に認めなかったでしょう。しばしば発言が物議を醸す次男坊殿下のおっしゃりようや内親王殿下の婚約問題などは一刀両断に違いありません。
 しかし一方で、日本の国際的なポジションはむしろ上がったとも言えます。国民を弾圧してまで遮二無二GDPを上げてきた強権国家と対峙できる国として、1億人以上の人口を持つ先進国はアメリカを除けば日本だけです。アメリカも組む相手は日本しかないのが現実です。
 三島が危惧したことは当たったとも言える部分は多い。ですが日本がその独自性を失うまでには至っていない。前安倍政権の支持は若い世代の方が高かったのです。

 三島の上記発言は事件の4カ月前ですが、すでに常軌を逸していたのでしょう。実は最後の作品である『天人五衰』の終わりはもう少し後になるはずだったと三島は語っていたのです。創作ノートのエンディングは本作とは違っていたことが分かっています。あの事件を決行するために執筆を早め、それがゆえに筆が鈍った結末にせざるを得なかったとは言えないでしょうか。
 実は事件直前、三島を介錯し共に割腹自決した森田必勝が残した言葉が残されています。元文芸春秋編集長の堤堯が酒の席で「僕は三島先生を絶対に逃がしません」と口走ったのを聞いています。
 森田は盾の会の学生長でありながら祖国防衛隊と称したグループで強烈にテロを志向していきます。それが三島の美の追求や死への憧憬と結びつき、根回しも可能性もないまま異様な事件に昇華してしまった。
 新右翼の論客であり森田と学生時代から付き合いのあった鈴木邦夫は『三島事件は森田事件だ』と喝破しました。

 あの緻密で美しい文章は後に継く後継作家を生み出すことはなく、50年が過ぎました。
 自身を振り返るのは苦手ですが、プチ右翼キッドだった私はその頃から思想の進化が止まっています。『お前のような怠け者に三島の葛藤が分かるものか』の声が聞こえます。
 ひょっとして、三島の予言は「自分が自死することによって、日本の将来はこうなっていくだろう」といった宣言だったのではないのか。巷間言われている政治的・文化的なやや右よりに安定した日本を揶揄する象徴として、50年も前にあの奇怪な行動を起こしたのではないか。だとすればあの行為は永遠に日本人への警鐘になりかねない。いや、そうでもなかろうと思いたいのですが。

昭和45年11月25日

三島由紀夫の幻影


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私のコレクション 今井俊満

2020 NOV 9 9:09:52 am by 西 牟呂雄

 どうです!このコレクション。アンフォルメルの大家、故今井俊満画伯の作品です。
 左の塗りたくった躍動する赤、右の流れるような青。
 残念ながら私は強度の赤緑色弱ですので、普通の方の見えている印象とは違うでしょう。子供の頃の御絵描きで太陽を黄色く塗り、赤いボールペンでノートを取っても赤で書いていると気が付かなかったくらいですから。それでもこの色彩が弾けるような感覚は分かります。
 左の絵は昔から家にあった物で、筆遣いが右の青のような線に変わる直前の作品です。左側のいわゆる肉太のシリーズは他に青と黒があり、そのうちの青はさる個人の所有で私は見せてもらったことがあります。黒は残念ながらどこにあるのか分かりません。どなたかご存知の方、ご連絡いただければ是非見たいと思いますのでご一報下さい。
 左の赤を眺めてはニヤニヤしていたある日、右の青がオークションに掛かっていることを知りがぜん血が騒ぎました。画風が変わった前後の色違いを二つ並べてみたい、という思いが抑えられなくなって入札する気になったのです。このオークションは一発入札方式ですからセリにはなりません。さあいくらの札を入れたものか。相場を鑑み、手持ちの金を考慮し、まだ見ぬ競争者の思惑を推測し、私の心は千々に乱れました。この心境に最も近いと思われるのは、麻雀のオーラスで一発逆転の役満をテンパった途端に親のリーチがかかり、次のツモが激ヤバの筋牌だった時でしょうか。
 結果、今さら後に引けるかの気迫で入れた金額が一番札でこうして並べることができました。めでたしめでたし。
 但し二枚横並びにしてみるとチョットいけない。二枚が互いをけなしあっているような、遠慮しているような。左右入れ替えてもそうでした。どうも片方を部屋の反対側に架けて向かい合わせにした方がいいようです、相互が睨みあっている感じが。しかし如何せん我家はマンション暮らしで反対側は窓。仕方なく絵に向かって『どうかケンカしないで仲良くしていてください』とお願いしました。
 ところで、そろそろネタバラシですが、今井画伯は昭和3年の生まれで我がオヤジと旧制高校の同級生なのです。赤の絵はその昔に(要するにまだ安かった頃)同期の仲間と買い付けた一枚でした。今井画伯は卒業後に第12回新制作派協会展で入賞しフランスに留学しますが、当時の仲間内では行方不明になったとされていて、絵の修行をしていたことは誰も知らず、帰国後に個展を開いた時点で初めて絵描きになったことを知ったそうです。同期会にゴリラの毛皮のコートで現れて仰天した、とも。
 落札したことをさぞ喜んでくれるかと思いきや、第一声は『お前アイツの絵にそんな大金を払ったのか』という怒声でした。ゲージツがわからん人には困ったものです。

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わが友 中村順一君の命日

2020 OCT 18 11:11:50 am by 西 牟呂雄

 今年も彼の命日は当たり前のようにやってきた。毎年、少人数で偲ぶ会をやっていたが、このコロナ禍では集まることもできずにいる。
 我々の友情というのはどうも第三者に分かりにくいものに進化して行った。仲間内で飲んでいて、例によって二人で罵り合っていたところ、ポツリと一人が言った言葉を噛みしめている。
『お前らどっちか死んだら寂しいぞ』
 けだし名言である。その時は気にもとめなかったが、その通りで、今では寂しいどころかやり場のない怒りにも似た感じがする、先に逝きやがって。
 
「あれからオレも大腸がんを切った」
「それがどうした。切れば治るに決まっておる」
「切りゃ痛いんだぞ。おまけにせん妄が出て精神科にもかかるハメになった。転移の恐怖にも耐えなきゃならん。貴様に分かるか」
「ふんっ、精神の虚弱がバレただけだろう。タルんでおる証拠だ」
「オレは繊細なんだよ。キサマと違う。そっちは腕が千切れても平気だろう。兵隊の位でいえば万年二等兵とか雑兵のたぐいだ」
「ヤヒコー(二人の間では最高の侮辱の意)!そんなもんではない。両足失っても突撃できる」
「アッ、言ったな。どうやって突撃するんだ。まさか手で歩けるとでも言うのか。やってみせろ」
「今はその時ではない。しかしイザというときは可能である」
 これは今思いついて書いたものだが、実際にもほぼこのような会話に明け暮れていた。
 そう、僕は今でも奴と会話しているのである。
 ところが、相談したいことや悩みを訴えるといった事になると想像もつかない。そんな話はしたことがなかったからだ。万が一そういう場合だったらどんなものだったろうか。

「実は大変困ったことになった」
「ほう、それはまたどうした」
「◎◎の作戦を失敗して✖✖が全くうまくいかない。おかげで四面楚歌だ」
「なんだ、その程度か。オレなんか▽▽が尾を引いて四面どころか百面楚歌だぞ」
「なにが百面だ。▽▽をいまだに根に持った人間が百人もいるはずがない」
「そんなことはない。少なく見ても200人だな」

 やはり全然相談にならない。
 我々は環境が似ていたせいか思考回路はよく似ていたが、表に出すパフォーマンスはまるで逆だった。奴は山の手・オーソドックス・クラシック・運動部だったのに対し、僕は下町・チンピラ・ロック・サークル気質だった。従って何も張り合う部分が重ならないので、ライバルとか同志という関係になり得なかった。それがどうして半世紀を超えてズルズルと付き合ったのか謎としか言いようがない。
 北方領土についてもモメた。僕は当時から前安倍総理の進めていた二島返還論に近かったが『そんなことを言ったらナメられる。樺太の南もよこせと言って四島の面積等分方式に持ち込み、択捉に国境線を引かなければ日本人の甘っちょろい国境感覚が直らん』と一蹴された。
 国土防衛の証として住民票を竹島か尖閣に移す、ということを提案してきたことがあった。この時はどっちが尖閣にするかでバカバカしいことにじゃんけんまでして奴が勝った。少しでも暖かい方がいい、という理由で二人とも尖閣を希望したからだ。もう還暦近くにもかかわらず、じゃんけんまでしたとはさすがに恥ずかしい行為と言えよう。
 去年、大腸癌の手術を受けたが、手術日が奴の命日に近かった。奴に呼ばれている気がして、それもいいかなと思った。しかしそうなったらエラそうな顔で先輩面をする顔が思い浮かんで参った。
 実は奴との最後の約束がいまだに果たせないでいることがある。
 現在の年齢までにはとっくに仕事を辞めて好きな事をして暮らし、月に一度は会ってどちらが好きな事をやり続けたかを比べるはずだった。その満足度を点数にするルールまできめたのだ。
「お前本当にちゃんと仕事辞められるんだろうな。イザという時に金が無くなったとか理屈をつけて逃げるなよ」
「そっちこそ、会社から頼まれた、みたいな嘘を言うなよ。絶対にズルするな」
「笑わせるな。意外とケチなのは長い付き合いで知ってるぞ」
「ケチとは何だ。無駄が嫌いなだけである。旅に誘って忙しいなんて言い訳は通用しないぞ」
 これも想像上の会話だが、ただただ懐かしい。合掌。

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