Sonar Members Club No.36

Since July 2013

新春架空座談会 (文豪編)

2014 JAN 7 12:12:21 pm by 西 牟呂雄

西室「皆様、明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い致します。さて、皆様が他界されてから長い短い御座いますが、諸先輩から現在の日本の世相を大いに談じて頂きたいとの企画ですが、初めに漱石先生、いかがでしょうか。作品の中で日本はこれから、と問われた人物に『滅びるね。』と語らせておられますが。」

夏目漱石「僕からかね、参るじゃないか(笑)。切り出すのは敗戦後に活躍した三島君の方がいいのじゃないか。」

三島由紀夫「いやいや、先生お願いします。」

漱石「まぁ、ここにいる程度の人ならお分かりだろうが、あれは別に日本人が全滅するとかじゃあない。多少の戦争に勝つには勝って、西欧に追いついたの五大国だのと浮かれるのは少し危ない、と言う意味で警鐘を鳴らしたつもりだ。何しろ僕が『我が輩は猫である』を書き出した時はまだ日露戦争をやっていたんだからね。なあ、司馬君。」

司馬遼太郎「はい。そのあたり私は『坂の上の雲』を書いたことで良く分るつもりです。ただ、私自身はコテンパンにやられた最後の陸軍戦車隊でしたから、正に滅びかけている実感はありましたですね。漱石先生のおっしゃる日本的なるもの、あるいは文化的なものが『滅びる』という意味では、戦前戦後を通じて常に変わりゆくことのアンチ・テーゼとして文学的にも思想的にも現れます。三島さん、そうですよね。」

三島「その通り。僕は戦後の混乱期を肌で感じていたから尚更だ。GHQがいなくなった後の日本を日本人同士がアッチだコッチだとがなりあっているのを見て本当に恐怖した。今となっては単に立ち位置が違うだけと思えるのだが、当時はそれどころじゃない。ああいう終わり方をしたから三島は極右の権化みたいに思われているけど、デヴューの頃は型破りのキワモノ扱いをされもしたんだからね。」

芥川龍之介「今の世の中で言われるような『ネトウヨ』みたいなやつ、あれは三島君の思想的後継者なのかい?」

三島「とんでもない。彼等の心境は分らないでも無いんだが、匿名で騒ぎ立てるのは行動者としての私とは全く違う。まぁ市ヶ谷に至る魂の道程は一言では語り尽くせないのだが、私は思想家でもないし後継者などは残さなかった。」

西室「三島先生の行動に至る前にも、国民としては安保条約とその改定、そしてその後の大学紛争と大変なうねりが起こっていました。」

三島「西室君、それは違うんだ。安保から学生運動への流れには思想的な対立そのものは無いんだ。なにしろ右も左も反対なんだから。あの頃のような凝縮された社会には内輪モメがつきものなんだよ。当時でいえば優れてアメリカに対する反発なんだ。」

西室「それは今日も続いているのではないでしょうか。」

三島「全然違う。まず冷戦構造があってその対立軸の線上に日本が危うく浮かんでいる状態だった。東アジアでは韓国は反日でもなんでもなかったし中国だって大したことはなかったから日本人が感じる外圧はアメリカのみだった。それに迎合しているように見えるものは何でも気に入らない、くらいの話だ。ソヴィエトの工作だってあったがね。」

西室「先生や石原慎太郎さんは一方で時代の最先端の風俗をむしろ広める側としてガンガン走っておられたようにも見えましたが。また『憂国』みたいな映画を撮ったりもされてます。」

三島「不愉快な質問だな。遊ぶときは遊ぶんだ。ついでに言っておくがオレが一言でも『戦争万歳』なんて言ったことがあるか!」

夏目「まぁまぁ、外圧といったって僕がロンドンに行った時なんかに比べれば彼我の距離はずいぶん違うよ。まあ敗けたんだから致し方ないが、僕なんかはロンドンのメシが口に合わなくてビスケットばかり食べて胃を悪くしたくらいだ。しかし三島君が活躍した頃は聞くところの高度経済成長期だったのだろう?司馬君じゃないけど坂の上の雲を目指して必死にセッセとやっていたんじゃないのかね。」

司馬「夏目先生、社会の構造そのものが敗戦で一度崩れています。その後自分で考える間もなく農地解放だ財閥解体だ挙句に憲法はこうしろ、ですからかないまへんですわ。」

芥川「その間に西欧的なるもの、或いは近代的なものへの反動は起こらなかったのですか。」

司馬「もちろんあります。ただ芥川先生の頃とはいわゆる国民の見方そのものが二重も三重も歪められた後ですし、単純には言えませんが左派というものが一種のステータスを持ちましたですからね。」

三島「芥川先生、自虐史観という言葉があります。何でもかんでも日本が悪いと言っているのがメシの種になるくらい論壇の裾野が広がっているんです。今ではその反省期にもさしかかったかと思えます。」

芥川「それは僕のような書生気質には居心地のいい社会とは言えないかい。僕も周りの仲間も、まあ菊池寛は少し違うが、今でいうニートとかオタクみたいな奴ばかりだったよ。」

西室「先生の頃とエリートの有り様が違うんですよ。エリートは何もしなくてもメシが食えたんですよ。」

芥川「何もしないとはなんだ、海軍機関学校の英語教官をやったこともあるんだぞ。」

西室「もっ申し訳ありません。エート本日のテーマに戻りまして、芥川先生の作品の中で『ぼんやりとした不安』と表現されたことの今日的考察なのですが。いかがでしょう。」

芥川「当時の世相と大きく違うのは、今では格差格差と言うそうだが日本全体がこれほど豊じゃなかったからねェ。それこそ当時普通の人がニートなんかやってたらルンペンになって飢え死にするのが関の山だった。」

西室「実はその後の研究で、先生の場合体調を崩され毎日なにもしないでいるうちにご母堂様の死因が精神異常によるものであることを知り、発狂するのじゃないかという『不安』とする説はいかがですか。あッいや、それはともかくぼんやりとしたとは」

芥川「いーかげんにしろ、コノヤロー。もう少し作品読み込んでから来やがれ、このトーヘンボク!」

夏目「芥川君、だけど確か2~3年だったじゃないか、教官やったって言っても。あのねえ、当時は今から考えると原稿料がずっと高かったんだよ。それに新聞社の社員になるという手もあった。僕は朝日、芥川君も大阪毎日だったかな。司馬君は本当に記者だったからプロと言えるな(笑)。僕はそれで帝大の教師を辞められたんだからな。」

西室「夏目先生の一高時代の生徒、藤村操が日光華厳滝で墨痕鮮やかに『巌頭の辞』を残して身を投げたのは、藤村を先生が「君の英文学の考え方は間違っている」と叱りつけた直後だそうですね。」

夏目「ムッ、キミ!いやなことを言うな。そんなこといちいち覚えてないよ。教師が生徒を叱りつけるのは当たりめーだろー。」

西室「失礼しました(長い間白ける)。みなさん江戸っ子なのでお言葉が・・。ところで司馬先生、長く文藝春秋の巻頭随筆で『この国のかたち』を連載されて国家の在り方を論じておられます。その国家を考えてみたいのですが。終戦間際に関東に配置され米軍上陸に備えた際の話ですが。」

司馬「あんたなー、さっきからなんやらケチばかりつけはるけど、座談会の趣旨はどないなっとんねん。」

西室「エッいえ、ちょっと聞いて下さい。先生の部隊に大本営から中佐参謀が来た時の逸話ですが、『敵上陸の際に避難してくる民衆にはどう対処すべきか』の質問に『ひき殺して進め』と答えがあったことになっていて、先生は自国民を犠牲にしてまで守る国というものは何か、と思ったとお書きです。」

司馬「それがどないしたんや。」

西室「しかし、その種の発言をした中佐参謀はいないのですよ。確かに戦車部隊を訪れた参謀は確認できましたが、そんなことを聞いた者は実在しませんが。」

司馬「だからなんやねん。ワレ!えーかげんにさらせ。ワイは歴史家やないで!小説家や。」

三島「一体どういうつもりの司会者だ。なっとらん。僕は帰る。キミ!歴史というのは当事者以外は容易に解釈しちゃいかんよ。」夏目「我が輩も帰る。下らん。」芥川「そうですね、帰りましょう。」司馬「あほクサ。帰るわ。」

西室「・・・・やってしまった・・・・。どうしよう。」

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三島由紀夫の幻影

ノー・ウーマン  ノー・クライ (No Woman, No Cry)

2014 JAN 3 10:10:04 am by 西 牟呂雄

 ボブ・マーレイのレゲェの名曲であるが、この歌詞を和訳するとしたら一体どういう言葉が適切なのか。実は昔から(仲間内で)意見が分かれている。それに沿って、ある出鱈目な話をでっち上げてみたことがある。

『泣かない女はいない。』

 ジャマイカから密入国してフロリダに一家で落ち着いた時、オレは15歳だった。誰も英語は話せないから貧乏どころの騒ぎじゃない。一年もしないうちにオヤジは若い女とどこかへ消えちまって、お袋はもう働きづめに働いたが、オレと二人の弟は学校にも行けなかった。何しろ不法移民なんだから。毎日クタクタになってパンを買って帰るお袋には本当に頭が下がるが、オレのせいじゃない。当然ワルになっちまうわけだし廻りもロクな奴らは一人としていなかった。差しさわりがあるから詳しく言えないが、後ろ暗い金をお袋に渡した時には涙を浮かべていた。長いこと泣いてから搾り出すように言った言葉が忘れられない。「泣かない女はいない(No  woman ,  No Cry)。」

『だめだ、女!泣くな!』

 フロリダはタンパの街の中でショッピング・モールを歩いていた。するとおもちゃ売り場で一人の白人の女の子が泣いている。あまり周りに人がいない、親はどこに行ったんだ。何か話しかけてやりたいのだがオレはまだロクに英語が喋れない。かわいそうに。エート女の子は・・・、ウーマンしか思い浮かばない。思わず口を突いて出たのは「だめだ、女、泣くな!(No!  Woman!  No  Cry!)。」

『おんながいない?泣くこたーないぜ。』

 弟のカルロスはオレ以上のワルになっちまった。ガンも持ち歩くしクスリも捌く。おまけに女癖も悪い。オレより小さい年からアメリカだから英語の上達も早かった。最近のお気に入りはサリーというどうやらインド系の女だ。ついに警察に厄介になってしまった。オレが迎えに行った時、オフィサーは憎しみに燃えた目で言った。「そのうちムショにぶち込んで日の目を見られなくしてやる。」オレは震え上がったがカルロスは平気だった。ウチに帰ってまた泣いていたお袋に事のあらましを話したら、例によって大泣きになって訴えた。「カルロス!お前がムショに入るなんて!ママはまた泣くだろうし、お前もサリーに会えなくなるんだよ!」だがカルロスは全く応えない。ヘラヘラしながらせせら笑った。「女がいない?泣くこたーないぜ(No woman?   No  Cry!).」

 念のために申し添えるが、歌詞の内容からこの歌では『だめだ、女!泣くな!』が正しいことは言うまでもない。三つの台詞は初めが『, 』次が『!』最後は『?』でつないで訳の連想を引き出したつもりなのだが、あれ?本歌はなんだったっけ。新年そうそうバカなことを書いてしまった。

  追伸 この歌の本歌取りで最高傑作はネーネーズのもので、そのユニゾンには脱帽であることを明記しておきます。

ノー・ウーマン ノー・クライ Joan Baez(ジョーン・バエズ)

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶー翻訳の味ー


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中国はどこへ行くか (5本の柱)

2014 JAN 2 18:18:46 pm by 西 牟呂雄

 前回ブログ以降多くの意見が寄せられたが、その時点ではまだ分裂論を捨てきれなかった。しかし、SMCのバーチャル視点に立ってみると、ひょっとしたらすでに分裂してしまっているのではないか、と思い当たった。私も書いていたが、例えば一国二制度で中国になった香港、遙か南でチャイナであり続けるシンガポール、そして東 大兄の詳述を読むにつけその感を強くした。そもそも『日本からの目』でも私自身が、チャイナというのはそのありようが普遍的概念であると記しており、そうであるならば単純な分裂という形は取りようがないのだ。元々柵封体制にせよ朝貢体制にせよ、そこには明確なボーダーはなかった。現代に於いてはポリティカルに、社会的に国境として引かれている区分であるが、民族的、文化的には概念の交じり合うドロドロとしたせめぎ合いの接点である。この辺陸続きの国境を経験したことのない我々はピンとこないのではなかろうか。

 しかし、一端グローバル化が進んでしまうとそれを飛び越えて(あくまで平和的に)マネーにしろマテリアルにしろ凄まじいスピードで行き交ってしまい、本来食い扶持を稼ぐという意味での『領土』は(エネルギーと国家としての正当性といったものを除き)意味を成さなくなるはずである。その点から言えば、エリアとしての分裂ではなく社会構造が層別化することは避けられない。少数の超富裕層と圧倒的な貧困層、これは中国とアメリカの姿が重なって見えないか。違いは前者は構造的な汚職のケタが違っていて、後者はアメリカン・ドリームの資産の桁が違う。前者は都市戸籍の者が農民戸籍の者を虐める、異民族から搾り取る。後者は富裕層が後から後からやってくる移民をコキ使う、ウォール街は新興国から巻き上げる・・・・。

 中国は共産党ヒエラルキーをベースに、いくつかの柱があると筆者は考える。まずは共産党。大きな柱ではあるが中身には巷間言われる共青団・太子党・上海閥、さらには地方組織と色々ある。次に人民解放軍。各軍区ごとに別れていて、はじめの頃は自活可能なそれぞれ巨大なコングロマリットを形成している。嘗ては人民公社と呼ばれていた国営企業群。これも規模の大きな所では社員10万人を越えるものもある大集団で、例えて言えば分割民営化前の日本国有鉄道がいくつもあるような物だ。それから忘れてならないのは在外華僑。どうやら一つにまとまるというものではなさそうだが、北京オリンピックの聖火リレーで世界中で国旗を振ったチャイニーズ集団は、私の見たところ一大勢力だった。最後に実態については良くわからないが伝統的なアンダー・グラウンドな社会も複数存在していることが確認されている。以上5本の柱が人民の海にそそり立っているのが今日のチャイナと仮説を立ててみた。この仮説では政府は共産党が担っているが、エリアを分割して統治するのではなく、それぞれの利権を互いに侵さないで並列して住み分けられる。事実いささか旧聞に属するが、林彪直系の第四野戦軍が江青夫人の言うことを全く聞かなかったことは良く知られている。行政上の分裂といった巨大なエネルギーを使わずに、即ちソ連崩壊の道をたどらずにチャイナでありつづけられることになる。旧ソ連崩壊の際には莫大な国家資産のブン取り合戦が繰り広げられたことは有名な話だが、チャイナではとっくに5本の柱に分けられているのだ。もっとも何れにせよムシり採られるばかりの人民ピープルの方は救われないのだが。

 これを書いている時にSMCメンバーの神山道元先生から、周恩来没後30年にあたり周恩来夫人の日記が公開されたと聞いた。これは実に第一級資料で内容の分析が待たれる。察するに人気のあった周恩来に対し、毛沢東が様々な手を使っていじめをしていたことが明らかになるのではないか。すると実際は醜い権力闘争による混乱でしかなかった文化大革命を否定するものになりかねない。共産党内の権力闘争が激しくなる前兆ではないか。

 大気、水を中心にかなりの汚染が現に進行し、尚且つ衛生観念の欠如による食材が国中に出回るどころか、毒餃子、毒ペット・フードのように世界中に輸出される。先日上海で豚の死骸が大量に流れ着いて問題になったが、あれは豚の肉を赤く見せるためにヒ素を使うのが、飲ませすぎて死んだために処理に困って川に投棄したそうだ。ところが共産党トップが使うことで知られる釣魚台国賓館で出される食材などは作っているところからして、一般からは隔絶されている。どんなに汚染が進んでも幹部が食べるものだけは確保する。異形の大国の現実は深い闇に覆われている。

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ヴェトナムに行ってきた

2013 DEC 28 22:22:28 pm by 西 牟呂雄

年末の最中、ヴェトナムを訪問して来ました。とある外資が投資しているプラントに一口乗ろうという魂胆でかなり辺鄙な所にまで足を伸したのですが。どれくらい辺鄙かというとハノイに飛んで国内便で1時間のりつぎ、そこから車で2~3時間の海に近いところです。年末ではありますが台湾より南、フイリピンの横の熱帯かと思いきや、冬場は雨季だそうで寒かった。雨は着いた日から3日間ずっと降っていて、気温は18度くらいでした。新興国と言われだしていますが車で2~3時間の陸路は凄いものでした。私は昭和30年代の日本の道路事情を記憶していますが、あのデコボコぶりによく似ている。所々穴のあいた舗装、雨の為にビチャビチャになった道路わき、マナー無視の運転とかすかに既視感が。それがまた荒っぽいの何の、行きは私の乗った車が危うくバイクの二人乗りを引っ掛けかけたし、帰りはトラックがこれまたバイクをペシャンコにした直後の現場を見ました。どいつもこいつもクラクションを鳴らしながらチキン・レースのようにアクセルを踏み合う。風景は右も左も水田で、今年はもう刈り取られていましたが、時々鍬を担いで例の三角麦藁帽を被った農夫が歩いていたりします。そして群れを成して闊歩する牛。バカなのか堂々と道を横切ったりして車を止める。のどかと言えばのどかだがあれは家畜なのでしょうが、どうやって管理しているのか。そして極めつけは日本では全く見なくなった牛に引かせての農作業もあります。盛んに撮られたヴェトナムものの映画で見た農民の姿そのものでした。

ときおり集落があって、正にアジアの町並みなのですが、特徴的なのは他の国のこういう街には必ず派手な漢字看板の華僑の店があるのが、全く見なかった。フランス統治時代にその手先となっていた華僑(これはスペイン時代のフイリピンも同じ)はヴェトナム戦争後の混乱でかなり駆逐されてしまったようです。怒った中国が戦争をしかけたものの、実戦経験に勝るヴェトナム軍に一蹴されています。

そうしてやっとたどり着いたハ・ティンの街はこれがまた何も無い。夜は真っ暗に近い。ホテルはそれなりの体裁だが、メシはまずかった。プラントを建設しているのは台湾資本ですが、どうやらそこで建設に携わっていそうなフイリピン系の人がヘルメットを被ったまま食事をしている。部屋は寒く暖房が必要でした。この緯度で暖房!そういえばフロントでも実に英語は通じなかった。戦争映画の刷り込みで英語が通じるかと思いきや、この地は当時は北ヴェトナムだったのでアメリカ兵なんか居なかったのだから全然だめでした。

ヴェトナムという国は長らく公文書は漢文でした。それに加えて独自の漢字というかヴェトナム語に対応した象形文字「チェノム」(これは恐ろしく画数が多い)が併用されていましたが、現在ではアルフアベットになっています。フランス時代があったため、フランス語の綴りによく似たクオック・グーが使われています。クオック・グーとは驚いた事に『國語』即ちコクゴと表記されていました。

さて、肝心のプラントの方はと言うと、本件一時はマスコミでヴェトナムの経済躍進の象徴的に報道されたこともあるものですが、実は遅れに遅れています。台湾資本側の若干のリセッションで投入できる資源が限られ、当初計画は大幅に縮小しそうなのです。行ってみると広大な敷地にポツリポツリと建屋が建設されていましたが、他は雨期のせいもあり例の赤土に水溜まりが広がるばかりです。この某業界は中国の膨大な供給過剰によって短期的にはギャップが埋まらないとされているので、正直竣工後の採算は苦しいのでは、と心配にはなりました。台湾スタッフも一部は縮小されるようですし、日本勢も進出を検討した形跡がありましたが、実は結ばなかった。

事務棟のすみっこでタバコを吸っていると(こんなところでも室内禁煙!)「コンニチハ。」と日本語で話しかけられました。振り返ると若いヴェトナム青年がニコニコしていて「ニホンジンデスカ。」と聞くではないですか。こんなところにはまだ日本人など来たことはないと思っていたので面食らいました。何故日本語を喋れるのか聞くとの大学時代に勉強したとのこと。そして目を輝かせて言いました。

「ワタシノユメハ、ニホンデハタラクコトデス。」

このエリアの出身かどうかは知らないが、一生懸命勉強したのでしょう。私も彼の夢がかなうことを祈らずにはいられませんでしたが、同時にずいぶん先の話にはなるだろうと思いましたね。この事業が発展し彼も十分な給料をもらい、キャリアアップしてから次のチャンスを探す。少なくとも10年はかかるでしょう。

「それではいつか日本で会いましょう。」

と言って握手をし、別れ際にお互いのタバコを取り替えっこしたのですが、物凄くきつい味でした。

出資元の台湾勢は数百人が滞在していて、寮を建設してそこに居住しています。全員単身赴任のオッサンばかりで、日常は全て中国語(ときどきマンダリンではなくミンナン語が混じる)で過ごしているようで、その光景はさながら東インド会社の英国人を思わせました。ただヴェトナム社会主義共和国ですから外資の土地所有は認められていません。佐藤優氏のいう新帝国主義の時代がどのような形を取るのか、金融業界のようなグローバル化が基幹産業でも起こるのか、そのあたりは嘗てアジアで工場建設を手掛けてきた者としては、第二ラウンドを迎えたような気がします。

帰りのフライトに乗り遅れては一大事とばかりに、早めに空港に行ったのですが、3時間前に着いてみると、何と誰もいない。人っ子一人いないのです。客待ちタクシーの運転手が昼寝をしているだけ。売店も航空会社スタッフも、警備員さえ影も形もないのです。これは・・・っと思っていると1時間後くらいからワラワラと集まり出して結局は満席の飛行機で帰りました。この国での仕事、当面の事業者の経営はキツイでしょうが悪くはない。あのヴェトナム青年と日本で会えるのはいつになるでしょうか。

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フィリピン侵攻作戦 上 

フィリピン侵攻作戦 下 

通り過ぎた国 

えらいこっちゃ

2013 DEC 26 15:15:05 pm by 西 牟呂雄

82才になる母親が転倒して腕を折った。上腕骨頭下部粉砕骨折と診断され、元々足が弱っていたこともあり立ち上がれなくなった。地元の整形外科では手に負えなくなり、結果は某大学病院への入院となったが、3日間実家で介護をした。骨折が金曜日でその日行けるのが私だけだったため、とりあえず駆けつけ車椅子に乗せてレントゲンを撮りに行ったが、骨密度が極端に低いこともあり立派な骨折。腕はダランと下がり動かせば痛い。こちらも素人だから、起こす際には前から支えるように動く右手でしがみつかせて引っ張るのだが、折った方の肘が当たったりすると痛がる。体重40kg以下の老婆なのに無理な体制でやるものだからこちらも無駄な力が入って物凄く重く感じた。入院させてから分ったが、あれは後ろから支えるのが正しいようだ。夜に父親が帰ってきたので引き継いで家で寝たのだが、こちらも85になる翁である。一晩で腰を痛めた。翌日から月曜の入院までまる3日つきあう事になった訳だ。痛いのは本人だし、思い通りにならないもどかしさから、勢い口を突いて出る台詞は激しいものとなる。明け方起こされたときはこちらも辛く、さすがに売り言葉に買い言葉にはならなかったものの、何と言えばいいのか『カッ』となったのは事実だ。

この『カッ』となった感情というもの、表現する言葉がない。双方悪意がないことは勿論、申し訳ないとさえ思っているのは間違いないのだが、行き所の無いドロドロとした感情のマグマが噴出する寸前の気分なのか。この気持ちは入院させる時にも湧いた。大学病院も稼働率が高いため病床のやり繰りがつかず(本人がどうしても個室、と言い張ったため)特別病室に入ることになり、その料金が一泊◎万円だった。それを聞いた時に、そうも言ってられないと思いつつ又『カッ』となった。大体この年でもう元に戻ることは無いのに・・・・。今では最後の贅沢か、と折り合いをつけてはいるが。

母は戦前のお嬢さん育ちで大変マジメな質なのだが、気象の激しい人。フランス文学にかぶれて日常会話くらいはこなして見せた。躾は厳しかったがずいぶんと無駄になっているのは、できあがったのが私と愚妹なので御案内の通り。昭和ヒトケタのど真ん中で時代と共に軍国少女→疎開→敗戦→大挫折→没落→左傾→高度成長の道をたどった。標準的な昭和ヒトケタ世代と括るのは簡単だがその響きは限りなく深い。恐らく百人百色・千人千色の人生があり、様々な事象の上に今日があるであろう。小さくなってしまった母親を抱えた時の以外な重さがこれなのではなかろうか(実際には中腰なのと痛がるので無理な姿勢をとったに過ぎないだろうが)。

骨折程度の怪我は現代医学ではカスリ傷程度、とばかりに最新の手術でめでたくチタンのバーを入れてもらい、病院はそれ以上治療することはない。後はリハビリなのだが、2週間ベットにいたので我儘も手伝い一向にやろうともしない。その顔を見て3度目になる『カッ』が又来た。ガンでもエイズでもないくせに、死にそうな声をだしやがって、といったところか。どうにか歩けるようになってもらわなけりゃ帰って来られても暮らせない。85才になるオヤジは元気だが、放っておいたら二次災害になってしまう。

そうこうしている内にあまりに痛がるので腰から足のレントゲンと精密検査をしたところ、当初かすかなヒビがあったのが骨の弱さも相まって亀裂が生じ、再手術となってしまった。さすがに病院側もあわてて発見後翌日には執刀される予定だったのだが。本人のストレスは物凄く、腑抜けたようになってしまいこちらも見ていて辛い。そして当日麻酔をかけた段階で異変が起こった。その場にいた訳ではないが一時心臓が止まった。手術は中断しICUに担ぎ込まれ口から鼻からチュ~ヴを突っ込まれてしまった。家族は呼ばれ夕方ベッドの横に行ったのだが、その段階ではチュ~ヴは抜かれていたが錯乱したのだろう、怒り狂っていた。『何でこんな所にいるのか。』『誰がこんなことを承諾した。』と目つきも凄まじく、鬼気迫る形相に驚いた。更に点滴を引き抜こうとするので腕を拘束されている。本人も大変なのだろうが僕はむしろにこやかに対応している先生方や看護師さん達に心底同情し感謝した。この日実際には夜も少しおかしくなり、駅周辺で飲んでいた僕達はもう一度ICUに行くことになった。例の『カッ』となることはなかった。それよりも何故か若い頃に読んで読後感が不気味だった深沢七郎の『楢山節考』の一説が思い出されたり、戦場で散った若い特攻隊員の命に比べればずいぶんコストがかかる、医学が発達し過ぎてこうまでしなけりゃ死ねないのか、等という不謹慎なことを考えたりした。なにしろ心臓が弱っているため、血流が滞るのを防ぐように足に空気マットでマッサージをし続ける機器までついているのだ。

今から考えると、表現が難しいのだがこの心臓停止時点で逝くのも、本人にとっては楽だったのかと思う。翌日執刀医がわざわざ詫びに見えた時、言葉を選びつつ本人も家族も無理な延命は望まないと伝えたが。

こういう時西洋人や中東では宗教に行くのだろうが、『神様の・・・』という概念は露ほども浮かばなかった。菩提寺は浄土真宗だし、母の実家は神道なので、思し召しもなにも無い。耄碌も進むだろうと覚悟を決めつつあるとき、実家のかたずけに行った妹がベッドの脇から大量のメモを発見した。それは何と消えつつある記憶を必死に残そうとしたのか、自分が好きだったものを書き綴っていたのだ。クラシック音楽(フルトヴェングラーにつぃての記述、マリア・カラスの印象、カラヤンの悪口)、文学(フランス文学の泰斗故辰野隆博士の記憶、ヴェリエ・ド・リラダン、アルチュール・ランボウ)、華やかだった少女時代の印象の記述があった。妹は「さすがに切ない。」と表現したが、その内いくつかは子供のころから聞かされていた話で、SMCの趣旨に則りそのうちに記録として残してやりたい衝動にかられる。

意識が戻った段階で、ICUでの記憶は、むしろ幸いなことに全て飛んでいた。そしてまともな話ができるくらいには回復したのだが、この先歩くのは難しいだろう。こういうことを書くのは勇気がいるが、日本中どこでも誰でも経験することであり、また遅かれ早かれ通る道でもある。耄碌が進んでしまえば何億年もかけて進化してきた『人間』とは違った道に行ってしまうのだ。その時も安らかであることを心から願う。そしてそれでも生きようとする命というものに改めて敬意を表する。最後に全力を尽くしてくれた某大学病院のスタッフに深く感謝したい。

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えらいこっちゃⅡ

えらいこっちゃ Ⅲ

えらいこっちゃ Ⅳ

菩提寺のニワトリ

タイム・イズ・オン・マイ・サイド 歌詞取り

2013 DEC 22 23:23:40 pm by 西 牟呂雄

文芸春秋の新年号をパラパラ読んでいて心底驚いた。村上春樹が書き下ろしの小説を書いていて、そのモチーフに魂消たのだ。登場する人物がビートルズのイエスタデイを大阪弁の翻訳で歌うのである。その人は大阪弁が好きで、東京から大阪にわざわざホーム・ステイまでして覚え、イエスタデイを大阪の歌にした。小説の中身はひとまず読んでいただくとして僕がギョッとしたのは「何だ、オレのパクリじゃないか。」と思ったからだ。拙文『埼玉水滸伝(埼玉のHonky Tonk Women)』を読まれた読者はご存知だが、作中でローリング・ストーンズのホンキィトンク・ウイメンに出鱈目な歌詞をつけている。そのテをビートルズにしやがってアイデア料よこせ、となった次第。しかし考えて見れば天下のノーベル文学賞の候補に挙がる大作家が相手をしてくれるはずも無く、むしろ僕の方がそれを読んでビートルズをストーンズに変えて受けを狙ったと思われる心配をしなければならないのではないか、という恐怖感にかられた。読者諸兄諸姉にはそのところ宜しくご理解を頂きたい。僕が『本気のネェちゃん』をほぼアドリブで歌ったのは今から5年近く前のことだ。それにしても大作家とチンピラブロガーが似たようなタイミングで同じようなモチーフを書いたということは何たる偶然にしても事象の不可思議な同時進行には何か法則はないのか。

関係ない話だが、村上春樹は英語でも小説を書くが、そのときザッと目を通したりアドバイスする某大学文学部のS教授は高校時代にバンドを組んだり麻雀に狂ったりした遊び仲間だった。今でも時々会って飲んだりしているが、村上春樹とは『翻訳夜話』なる対談本なんかも出してる翻訳業界では大物で、万が一ブログにイチャモンがついたら何とか丸め込んでもらおう。もう一人、本年夏に東大準教授が業者にタカリ問題になった事件の際、記者会見でペコペコしていたコンプライアンス担当のY副学長もその一派だった。お盆の期間中連日検察に呼び出された彼は、実際のタカリの額があまりにチャチな金額だったことにしきりに気にしていて、励ます会の席上で『オレが取調べを受けるには、あまりに小額だ。』と怒っていたものだ。こいつにはあのテレビでも映されたペコペコする方法を教わろう。同級生もいろんなことをやらかしてくれて僕はうれしい。

パクリではない、とご理解が進んだのであれば、自信満々でもう一つ。初期のローリング・ストーンズの名曲に『Time is on my side』というのがあるがそれをひねり回してみた。曲はバラードで「た~~いむ イズ オン マイ サイド」と始まり、途中にミックのセリフが長く入る曲だ。これをですな、アンコール用・メンバー紹介用に使う。

と~き~は カネなり~  Yes  it is

と~き~は カネなり~  Yes it is

過ぎし日々よ  恋し人よ

か~せ~げない か~せ~げない  か~せ~げない ろーくーにー

(これを二回やって、ミックの長セリフのところは メンバー紹介でも)

と・き・は・かねなりー  と・き・は・かねなりー

で盛り上げて終わり。僕の数少ない読者の皆様、この手の本歌取りは僕のオリジナルですぞ。ご記憶を!

春夏秋冬不思議譚 (もう一人いた)

春夏秋冬不思議譚 (月曜日の夜)

 
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『職業としての小説家』 読後感

中国はどこへ行くか (日本からの目 )

2013 DEC 19 17:17:33 pm by 西 牟呂雄

些か重いテーマであるが、東 大兄のブログに刺激されてのものである。ここでは目下の『航空識別圏』『尖閣列島』といった問題とは別の視点から考えてみたい。無論国家主権を引っ込めるつもりは全く無いが、それでは話が終わってしまう。実際少し前のブログ『オリンピックへの道』の中で、2020年に中国分裂と書いたところが、ブログの冗談にせよ中国サーバーからのヒットが激減した。それはそれで構わないが、だからどうだとなるとSMCの趣旨に鑑みテーマには上げられなくなってしまう。

中国という言い方そのものが実は非常に新しく、国民党が中華民国を名乗る前は清であり支那だった。一方中華という呼称は北宗時代からの歴史だが、思想としての『中華』はそれこそ四千年前からと考えられる。即ちチャイナは存在そのものが宇宙であり文明でありという訳で、我等倭人は”にんべん”が付いているからまだいいが、”にんげん”だと思っていたかどうか。漢字に代表されるチャイナ・カルチャーは半島経由で輸入されたというが、私は海路入ったルートも見逃せないとい考えている。呉音読みが入ったルートのことである。国語学者の大野晋の説は、日本語の起源は従来のウラルーアルタイ語系統ではなく南インドのタミル語だと主張している。それはともかく、海のシルク・ロードがあるとすれば、上海と九州なんかは誤差の範囲であろうから、両者の交流は古代と雖も十分考えられる。

一方自身宇宙である、と思っているチャイナと我国は上記半島ルート・海路ルートを通じ交流が当然あった訳だが、その時々の政治情勢によって様々に形を変えてきた歴史がある。魏志倭人伝でやっと登場し、その後半島経由でこちらから行ったのが数回(但し長城の内側には一度も及ばず)、向こうから来たのが元寇。他は専ら海路で交流した。その動きはさながらグローバル化と鎖国が交互に現れるように距離を取ってきた様に思える。一端切れるのが遣唐使の終了。それから二度に渡る元寇をはさんで暫くは交流は細り、我国は独自の文化を育む。足利義満が高らかに「日本国王」と称して明国と大っぴらに貿易し、終いには豊臣秀吉が明国に攻め入るという妄想を抱くまでに至る。この間、こちらの方の中央の統制が緩かったことも含め、盛んに倭寇が出没した時期と重なっていて、特に後期倭寇ともなるとチャイナ南岸が活動の場となっていく。大陸の方で清が代わって出てくると物凄い人口移動が起きて、一般に東南アジアに行ったチャイニーズは華僑として現地に溶け込まず独自文化を保っているが日本にも大勢来た。九州は言うに及ばず関西圏にまで流入は及んでおり、土地を持たない人口の流入は当時のGDPを考えると食い扶持が危ない状況にまでなり、それやこれやで徳川の鎖国になり200年程続く。キリシタン禁教などは鎖国の理屈の一つにしか過ぎないと考える。明治以降はこちらから出張っていって結果はご承知の通り。この繰り返しを考えると、あと何年かで又つきあわなくなるかもしれないが、グローバル時代の鎖国とはさすがにイメージが湧かない。ひょっとして現在の安倍政権のスタンスからして、半島・大陸とは既に鎖国モードに入っているとは言えないか。個人的には相互不干渉の原則で首脳会談など暫くなくても困るのは出番を失って出世しない外務官僚くらいかも知れないと思っているが。

我国からはそうした距離感があるのだが、一方中国自体はというと、これが未来永劫チャイナでは有り続けるだろう。異民族が来ようが官僚が腐敗しようがお構いなしで存在し続けるだろう。異民族でもマルクス・レーニン主義でも底なし沼のように飲み込んで、中央集権・汚職・腐敗を繰り返す。チャイナという概念の普遍性はここにあるのでは。遠く離れたシンガポールでも、人民行動党のほぼ一党独裁は変らない。もっとも小豆島くらいの大きさだから政治的効率と言う面では理想に近いのか。因みにシンガポール島の土地は2/3が私有地で、オーナーはタイガー・バームで有名なタン一族である(陳を広東読みにしてタン)。もう一つ加えるならば、考え方として個人主義・拝金主義が抜きがたくあり、その部分は日本とは極端に違っていてむしろアメリカに近い。アメリカにはかなり力を持ったチャイナ・ロビィもあり両者は意外とウマが合う。もっとも戦前の両者の付き合いは日本を挟んでとは言え、国民党への大幅な持ち出しだったと言えなくもないが(我国ほどではないにせよ)。

大体選挙システムは全くチャイナには似合わず、仮にやったとすれば買収の温床が生み出されて機能しないと思われる。だがあれだけ大々的に選挙をやったアメリカの大統領と、熾烈な権力闘争を勝ち抜いたチャイナの主席は結果として同程度の人材と考えても差し支えないのではないか。洗練された選挙のはずが我国のしばしばバカみたいな当選者の顔をみれば大したことはない。アメリカだって民主党の下院議員クラスになれば相当なタマもいる。ネット時代に、いくら統制の効く一党独裁情報と言えどもどうしても民意の圧力は感じざるを得ないので結果は同じだ。筆者は12億人の国家が一つに納まることは相当のコストになり結果として分裂する、という仮説を立てたが、それもチャイナ風のアッと驚くような形態が出現するのではないだろうか。一国二制度という離れ業をやったくらいだ。そしてその鍵は人民解放軍の動きだろうと思っている。この辺の考察は次回に続ける。

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ホンキー・トンク・ウィメン 歌詞取り 埼玉にて

2013 DEC 11 15:15:33 pm by 西 牟呂雄

埼玉北辺の工場の周りは人口密度は極めて低く、みんな広い庭のある家に住んでいる。どこでも犬を飼っており、ダン、ミルク、シナモン、ライガ、ジョンといった立派な名前が付いていて犬地図ができるくらいだった。しかし、あまりに犬が多いので依怙贔屓するわけにもいかず、普段は犬派の僕だがその頃は住処にしていたプチ高原ホテルにウロついていたノラ猫をかわいがっていた。ウララちゃんの牧場の先だ。黒ブチに白い口元のブサイクな猫だったが、勝手に「シナシナ」と名前を付けていた。恐らくどこかの飼い猫だったのだろう、人には慣れているようで、時々酒のつまみのチーズをやったりしていたが、暫くしていなくなってしまった。

社員には近所の大地主の息子とか、歩いて通ってくる奥さんとかいう人がいた。近所といっても名字が同じ家が何軒もあったりして、伝統的な集落が形成されていたことが分る。そして何故かこういう田舎の家には物が物凄く散らかしてあるのだ。機械だったり、部品だったり、何かの壊れた家具も積んである。捨てるのも面倒だからかも知れないが、ちょっと油断するとゴミ屋敷に成りかねない。田舎の人はモノを捨てないのだろうか。近所づきあいではないが、会社の悪口を言い触らされてはかなわないので、挨拶をしたりして何人かとは仲良くするようになった。タクシー屋のおっさんとその弟とは地域の相談をしたりするので、メシを食いましょうや、となったのだが。この兄弟ガタイも恰幅よく、ガラは悪く、なかなか楽しかった。食事をした後フラフラと街(といっても暗い田舎町)をうろついていると、車がスーッと寄ってきて中から「なんとかチャーン。」と声が掛かり、見るとオバハンがこっちを見ている。要するに兄貴の方の知り合いの飲み屋のオバハンで、これから開けるから店に来い、という成り行きになったようだ。それから3人で行ったのだが、しかし飲み屋に出勤するのに車って・・・。そして着いたところは人の家のような所で、ガラガラガラっと玄関を開け電気を付けたらゴキヅリがガサガサ逃げるのが見えた。コッチは十分酒が入っている、ガラも悪い(僕も)。それからの会話は「オイ、ババア焼酎よこせ。」「ババアとは何よ。そこにまだあるだろー。」「バカヤロー、そっちの奴にしろってんだ。」という会話がズーッと飛び交う地獄のような飲み会になっていった。途中地元の常連らしいカップルが来たが、直ぐ帰ってしまった。少し後からヘルプというかバイトというかもう一人化け物みたいなネエちゃんがカウンターに入る。カラオケを振られたので、ヤケになってローリング・ストーンズの替え歌をやったら受けた。あのドラム・イントロのホンキー・トンク・ウィメンだが、妙に覚えている。

I met a gin soaked, bar-room queen in Memphis

ここは埼玉 秩父の麓
She tried to take me upstairs for a ride

田圃の中の 工場勤め
I had to heave her right across to my shoulder

流~れ着いて 半年 経った
I could not seem to drink you off my mind

しけ~たホテルが オイラの寝ぐらさ

It’s the honky tonk, honky tonk women

ほ~~ん気の ネェちゃん
Gimme, gimme, gimme the honky tonk blues

くれ~ くれ~ くれ~焼酎オン・ザ・ロック

Strollin’ on the boulevards of Paris

夜に なれば 怪しい 店が開く
As naked as the day that I will die

バケモン みてえな ババアが はべる
The sailors they’re so charming there in Paris

下手に 構えば 地獄に 一直線
But they just don’t seem to sail you off my mind
こわーいもんだよ ババアの深情け
It’s the honky tonk, honky tonk women

ほ~~ん気の ネェちゃん
Gimme, gimme, gimme the honky tonk blues
くれ~ くれ~ くれ~焼酎オン・ザ・ロック

 画像はレアなハンブル・パイ。聞きながらどうぞ。

恥ずかしい話だがもう一曲、以前ブログで書いたが、工場に蛇が出たことに掛けてディープパープルの名曲スモーク・オン・ザ・ウオーターの替え歌、スネーク・イン・ザ・フアクトリーもやったのだが、あまりにバカらしくてここに記すことはできない。

それはさておき、この製造所の運営は今日の縮図のようなところがあり、『製造現場血風録 (火災勃発)』以降は同様の製造設備を東南アジア某国に設置し直しており、又、需要家も既に大半がそちらの方への移転が済んでいた。即ち日常的に国際競争に晒されているため、常にプロセスの開発、新品種の開発を続けざるを得ない。僕が所長として年柄年中モノを除却し無駄な仕掛かりを捨てていたのも、イザというときにスペースを確保したいからだった。更に、何かあったらまた使おう、という構えでいると急の場合に除却損が大きく出ることも避けたかったからだ。円が安くなって少しは楽になっているといいが。

一方、従業員も社員以外にパート・タイマー(タイム・スタッフと言うそうだが)派遣社員、シニアのおじいちゃんと多彩であった。新しいプロセスに移行する際には、時には職場を変ってもらう、もっとあからさまには辞めて頂かなければ廻らない。『また忙しくなったら来てもらうから。』と言い、実際事情が変った時には優先的な声掛けもしたのだが、実は当時のリピート率はあまり高くなかった、特に若い女性はダメだった。増産のための休日出勤から低稼働による生産休止まで、ドタバタしながら新米製造所長は二年で風と共に去って行った。

僕は仕事が変った後は前職に一切関わらないのを信条にしている。一つは後輩達に迷惑をかけたくないから。もう一つは『昔はこうだった。』といった感想が自分の中に沸き上がるのがいやだからだ。まだまだ老け込んでたまるか。でも懐かしいなぁ。

空っ風 一望駆ける武蔵野の

巻き上げる 埃 てのひらに当たる

埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

埼玉水滸伝 (埼玉のウララちゃん)

春夏秋冬不思議譚 (同時進行の不可思議)

一人ぼっちの世界とライク・ア・ローリング・ストーン 


 
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春夏秋冬不思議譚 (どうしても思い出せない)

2013 DEC 5 9:09:56 am by 西 牟呂雄

 この40年以上(計算しないで欲しい)直近を除いてほぼ毎日酒を飲み、毎朝二日酔いになる。直近を除くのは、ついに色々な数値が管理限界を越えてしまい、命の危険を感じたからだ。何を大げさなと言うなかれ。還暦近くなると医者の脅かし方も尋常でなくなるのだ。4年程前に医者がキレて「どうしても酒が止められないのならもうウチでみることはできません。勝手に死なれて医療の問題とか言われても責任持てませんから。」と宣言された。勿論上辺では「お願いですから薬を処方して下さい。」とペコペコした。大体そうでなくても命がけなんだから、こっちは。独身時代に六本木の路地裏で電柱に頭突きをしていたところも目撃されているし、荻窪駅の路上で転がっているのを家族が助けに来たこともある。カンが働いたのか、駅前の交番に恐る恐る「あのー、この界隈で・・・・。」と家族が聞きに行き、その最中に偶然警察無線が入り「現在北口に行き倒れがいる模様。」となったのだそうだ。結果はご想像の通りでお巡りさんとカミさんに連行された。見知らぬ駅で目覚めたことは数知れず、悪運強く生き延びたと思う。タクシーで「吉祥寺!」とだけ叫んで寝込み、吉祥寺らしいところで下ろされて(その前散々手こずらせた運転手さん、ごめんなさい)、全く分らなくなりこっそりと息子に携帯して車で迎えにこさせたこともあった。この時はガードレールに眉間を打ち付けて血まみれになり這っているところを確保されて病院送りされた。後日息子が言うには、「あー面白かった。『一度死んだことにしてカアさんには黙っててくれ。』とか言い出すし、医者に連れてったら先生に『裏口じゃないでしょうね。』とか聞くし。」だそうである。あの、酔っ払って足がもつれる時の感覚というのは、突然グルリと世の中が回転し地面がダーッと突進してくるという誠に恐ろしいものだ。しかし、ここまで書いてきたことはかすかに記憶があるだけまだマシと言える。全く覚えていない時間が存在する。「存在と時間」等と言えば哲学のように聞こえるがそれどころではない。

 見たことも無い飲み屋で知らない人達がこっちを見ている。僕は何かを喋っているのだが、どうも江戸時代のことを講義していて、時々聞いている人達が一斉に笑うのだ。僕はこのことを悪い夢だと思っていた。それがですな、多額の請求書がある日送られて来て全く覚えが無い。放っておいたら怪しげなメールが来る。ということは名詞をバラまいたに違いない。仕方なく払ったのだが、一体どこなのか全然覚えていない。覚えていないから再訪して言い訳することもできない。

 以前東南アジアをウロついていた頃、ある朝シンガポールのホテルの廊下に寝転がっていて目が覚めて、一瞬どこにいるのか分らなくて途方に暮れた。前日はマニラにいて・・・・、そうかフライト中に飲み過ぎたのだ。手に部屋の鍵があったのでチェックインしたことは確かなのだが運良く部屋があったもんだ。どうやって(どうせタクシーに乗ったのだろうが)たどり着いたのか全く記憶にない。それでも治安のいいシンガポールで良かった。これがマニラだったら危なかった。東京で言えば大手町のようなマカティでもホールド・アップが起こる所だ。

 又、ある時は社内の飲み会で他部門の連中とガバガバ飲んで二軒目に行き、更にでまたしこたま泡盛をやり、機嫌良く電車に乗った。次に目覚めたのは何と山梨県の某駅、あまりの寒さに目が覚めた。どうやって行ったのか。改札に行けばそこは無人駅なので誰もいない。タクシーなんぞ影も形もない。あまりに寒いので駅員室に入ろうとしたらガッチリ鍵がかかっていてどうにもならない。震えながらジーッと電車を待って、来た電車に飛び乗った。暫くして気が付くとその電車は反対方向に進行しているではないか。翌日何とか出勤すれば、前の晩一緒に飲んだ奴等は顔に大怪我をしていたり手首に傷を負っていたり千葉で目覚めたりしていた。全員記憶を失っていた。会社に申し訳ない。

 またあるときは・・・もうやめた。しかし二日酔いも年と共にひどくなる一方で、翌日一回もメシが喉を通らないこともある。不思議なことに酔い方はひどくなったような気もするが(正確に言えば昔から酒癖は悪かった)、飲む量は一向に減らない。それどころか最近は焼酎もウイスキィもオン・ザ・ロックで、益々強いものを好むようになってきている。時間さえかければボトル一本も軽い。実は若い頃に急性膵臓炎をやって、20代の臨床例が少なかったらしく、毎日偉い先生が回診に来て医者の卵達に解説していた。聞いていると「こんなに胃が持つものなんでしょうか。」とか「肝臓は人一倍丈夫ですか。」といった会話が飛び交っていた。そのころは丈夫でも今となっては冒頭書いた通りの体たらく。そろそろビール一杯くらいで十分酔えないものか。

 しかし何となくフラフラ寄って行きたい店というのは誰でもあるだろう。僕のフランチャイズはギロッポン六本木のピアノ・バーに昔から通っている。静かで一人で行ってもカウンターでジャズ・ボーカルを聞いたりして過ごすことができるのがいい。が、しかしである。以前のブログで書いた、李鴻章の曾孫やら怪しい外人が出入りしていてこれがかなり危ない。経営者はミッキーという奴で六本木の寄生虫みたいな存在。これの兄貴分にマイクというのがいて、これも近くで店をやっているが二人で最強のナンパ・ブラザーズを気取っていた(但し四半世紀前)。こういう輩は情報通で、エビゾーさんの事件の話とか、『今どこそこの界隈はヤバイらしいですよ。』といった話を教えてくれてありがたい。マイクは少し年上で、元横浜界隈のチンピラだったらしい。今では貫禄十分のワルオヤジだが、話を聞いていると結構な修羅場をくぐっている。なにやら地元の暴力団に米軍放出品のインチキな武器を(無論使い物にならない)捌いて大変なことになり、長いことハワイに逃げていたそうだ。知り合った頃はもうそんなヤクザなことはしていなかったが、バブル真っ最中のバブルまみれの店でVIP席に屯して、全く金を払わなかったのを目撃した(一緒に居た)。こういう人はしぶといくもクタバラずに健在なのがあの街のしゃれたところなのだろうか。

 でもってそろそろ酒も覚めてきたから今日も一杯行きますかね。

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埼玉水滸伝 (埼玉のウララちゃん)

2013 NOV 25 15:15:48 pm by 西 牟呂雄

 前回書いた埼玉事業所の話の続き。秩父の麓は交通の便はイマイチで、東京の吉祥寺から毎日電車通勤することはできない。車だと関越自動車道なのだが、毎日ともなれば通勤費がベラボウになってしまう。近くにアパートを借りている単身赴任者もいたが、僕の場合必ずしも毎日住むわけではないし(会議とか出張)、土日は家に戻るので、色々と安いところを工夫した。まず住んだのは、バブルホテルのような自称ビジネスホテルで、なかなか快適だった。なにしろガラガラでおまけに大浴場まで付いている。そこにほぼ毎日一人で入っていたのだが、しばらくして気付いた。面倒だからかコスト削減かは知らないが、滅多にお湯を代えないのだ。それが分かってからは、負けるものかとばかりに一人で十人分くらいのお湯を消費して循環に努めたものだった。まずいことにそこにはスナックが併設されていて、そこの従業員と仲良くなったもんだから連日カラオケを歌いまくって金がかかってしょうがない。しかしフィリピンや中国の研修生を何人も一月くらい泊めていたこともあって、僕は重要な顧客NO2だったらしい。何かの地方イベントがあって珍しく満室になった時は、一人で20畳敷の宴会場で寝かしてくれたりと便宜を図ってくれた。NO1は誰かと言うと謎のお婆さんだった。この人とは何度もすれ違ったが一度も挨拶はおろか目も合わせない。フロントのオネエチャンに聞いたら、月に一回だけ現金で30万持ってきて「これで今月もお願いします。」と言うだけだそうで、値切りも何もせず、昼間は隣のフアミレスに一日中いるらしい。ネット予約でその三分の一以下の支払いしかしない僕は恐れ入るしかなかったが、きっと大金持ちの未亡人で息子の嫁と折り合いが悪いから生きている間にできるだけ金を使ってやろうとしていたのじゃないだろうか。それなら僕に言ってくれればいくらでもお手伝いできたのだが、口も利かないのじゃどうにもならない。しかし周りに観光資源が何も無いのだからホテルの経営は苦しいに決まっていて、支配人はペットと泊まれるように中庭のスペースを改造したり、夏にはバーベキューの場所にしてみたり、と色々悪戦苦闘するのだが、武運拙く潰れてしまった。

 次に根城にしたのは近隣のゴルフ場のロッジ。これまたバブルの後遺症から抜け出せないような、ゴルフ客、併設するテニス・コートの客を当て込んだプチ・高原ホテルの体裁だが、やはり気の毒なくらい客がいない。もっとも客室も五部屋くらいしかなかった。テニスのコーチも兼ねている支配人はヒマそうにしていて、しまいには業務用の冷蔵庫も自由に使わせてくれたので、山のようにビールを持ち込んで一緒に飲んだりしていた。同時に先程の潰れたビジネスホテルの道路沿いに、こちらは工事の長期宿泊者等が泊まるアト・ホームなビジネス・ホテルも見つけた。そこはサウナが付いていて、汗を流すのに快適だった。かわるがわる泊まってみたり、週別に住み分けたりして暮らしていた。

ロッジの方はゴルフ場の中なので、街から反対側に10分程車で行く。その辺は水利が悪く田圃はできない。昔であればお蚕のための桑畑だったと思われる。現在では造園業・ゴルフ場に変わり、そして牧場があって肉牛乳牛を育てていた。これはやはり匂いがきついので、人家が無い所が絶対条件だが、隣にはなぜかヤマギシ会の農場が広がっていた。ヤマギシなんかまだあったのか。毎日通っているうちに牛舎の脇にポニーが繋がれているのに気がついた。オスのほうは良くいなないて暴れたりするが、メスの方はトボケた顔してジッとこっちを見るので、車を降りてしばらくにらめっこをしたりして遊ぶのが日課になった。そのメスはひたすら雑草を食べているか、ジーッと何かを見ているかのどちらかで、時間が止まっている風情。ある日農作業の帰りの牧場の人(家族経営らしく揃いのツナギを着ていた)が「あら良かったわね、遊んでもらってるの。」と言って通りすぎて行った。一瞬僕に向かって言ったのかと思い憮然としたが、考えて見ればあれはポニーに言ったのだ。ポニーのメスはウララちゃんという名前だと教えてくれた。

草を食むウララちゃん

草を食むウララちゃん

 全く手の掛からない家畜のようで、牧場周りの雑草刈りに、この辺で一週間、あっちの方で一週間、といったローテーションで繋がれているようだった。しかしこの子、生まれてから雑草しか食べていないらしく一度コンビニで買った人参をやったのだが、全く興味を示さない。翌朝見に行ったら蹴飛ばして遊んだようで、端っこで踏みつぶされていた。馬の目の前にニンジンをぶら下げて、という表現があるが、ニンジンが食べられるということを知らなければ何の役にも立たないことが分った。面白いことにすぐ側で暮らしていながら、大勢の乳牛・肉牛とウララちゃんはお互い全然干渉しない。まだ牛達の方は、僕なんかが歩いて寄っていくと珍しそうに興味を示すのだが、ウララちゃんはウンでもなければスンでもない。同じ馬でもサラブレッドに比べるとはるかに頭は悪いようだった。それでも毎日会っているうちに僕の顔ぐらいは覚えたらしい。「ウララちゃん。」と声を掛けると、パカポコと歩いて来るようになったので頭を撫でてやった。少しは嬉しいのか目を細めていた。時間の止まっているウララちゃんと夕日を眺めていると昼間の仕事上の会話がつくづくアホらしい。というのも僕が普段業務で使う言葉は、80%が相手に理解させることに費やされていて、20%ぐらいが自分が分らないことを質問しているのではなかろうか。前者が指示を出す時で後者が報告を受けている時だ。そこにはあまり楽しみとか喜びの入る余地はない。人間同士が仕事を通じてつきあう、ということはどうもそういうことで成り立っているようで、僕とウララちゃんの関係のように、お互いを理解し合う必要が全くないと会話は不要になる。これだけメールだスカイプだと通信手段が発達しているのに会議の数は減っていないではないか。人間同士の付き合いとは愚かでイヤなものだな、とウララちゃんにテレパシーで伝えてみたら、思った通り、そうそう、と返事をしてくれた。

ポニーの目に 何映るかと 我問えば

答えパカポコ 時は流れぬ

埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

ホンキー・トンク・ウィメン 歌詞取り 埼玉にて


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