そうせい侯 雑感
2016 OCT 10 16:16:39 pm by 西 牟呂雄
毛利敬親(もうり たかちか)、言わずと知れた長州藩第十三代藩主である。臣下の者の言う事を何でも『そうせい』と裁可したことから『そうせい候』などと言われ、ともすればバカ殿のごとく伝えられる。
しかし、僕は少し違う印象がある。
長州藩は「八月十八日の政変」で京から追っぱらわれた後、破れかぶれになって禁門の変という暴挙にいたる。大河ドラマで感動的に描写されるが、頭に血が上ると抑えきれない長州人の気質が丸出しになるところである。こういう所ややもすると半島の気質を連想させ、昔から交流があった傍証にならないか。
更に四ヶ国艦隊に敗北し、二度にわたる長州征伐を喰い、その都度藩論は沸騰して多くの血が流れた。要するに大変な状況だったのだ。
その間何とか藩を建て直し求心力を失わなかったのはそれなりの見識だったのだと推察している。
若き吉田松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と評したように、有能な人材を見出しては使った。自ら松陰門下となったとも伝わる。
この時期、島津斉彬が西郷を重用したり、江戸で勝海舟が台頭したように全国で同じように制度疲労を補うような人事が行われている事は興味深い。
第一次長州征伐の時、藩論は例によってモメまくり一日中議論しても結論は出ない。すると突然「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と言って席を立ったそうだ。
思うに殿様は恐ろしく無口な人だったのじゃないか。じっくり考え抜いて家臣から優れた提案があるまで黙っていた、と。そして自分の考えとも合わせて最適解と思われる発言に対して、ゆっくりと
「そうせい」
と告げた、とすればこれは類稀なる名君となる。
長州人はとかく騒がしい。いきなり抜刀して中にはテロまがいに暴れまわるのが多い(新撰組も似たようなもの、との声有り)。
殿様は臣下の者共のそういった気質を良く知っていたのだろう。
喋らせるだけ喋らせておいてタイミングを見て『そうせい』と。
版籍奉還の際も率先してこれを了承。自らの行く末が見えていて、島津久光のように『話が違う』と怒り狂うこともなかった。そして事が落ち着くと明治2年には山口に帰り隠居する。
日本の行く末も又視野の中にあったとすると、相当のマキャベリストなのかもしれない。
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