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懐かしいオモチャ

2014 NOV 25 20:20:33 pm by 西 牟呂雄

 僕は子供の頃(小学校の低学年としよう)親から与えられた『熊のプーさん』の本が好きで、その縫いぐるみ人形をせがんで買ってもらって持っていた。しかし本の挿絵にあったようなモノがなかったらしく、実物の僕のプーさんは酷く不細工で周りからバカにされたことを覚えている。
 そういうモノをとっくに愛でなくなった頃にスヌーピーを見て、チビの頃にこれがあればなぁと思った。

 銀行の貯金箱人形というのもあった。コイン(主に10円玉か)を入れて一杯になると下の蓋を開けて取り出すやつ。当時は銀行の数も今より多かったから色んなバージョンがあって、最もお気に入りだったのはどこだか忘れたが桃太郎シリーズだった。桃太郎と犬・猿・雉を2セット持っていた。勿論オニもいて、これは赤鬼と青鬼がちゃんとあった。愛嬌のある顔のこいつらを整列させて将棋のような(当時将棋は知らなかったが)ゲームを考え出して一人で遊んだ。

 僕のいた下町は銭湯の文化だったからお風呂屋さんで遊ぶオモチャも一杯あったが、大体が金魚のできそこない程度のモノで壊れるのも早かった。
 話は変わるが下町の銭湯には彫り物を入れているオッチャンがいっぱいいて、日常の光景だった。別にヤクザじゃなく、とび職(建設作業員だけじゃなくていわゆる町鳶)が入れたのだ。そういう人たちは町奴だからチビだった僕は不動明王(だったかな)や鯉の滝登りなんかの背中をなぞらせてもらった。刺青がヤクザ専門になったのは昭和40年代位からかと思うが。

 ビー玉は砂場に山をこしらえて上から固め、少し水をかけて締まらせてから少し溝を掘り、たくさんの玉を転がしていると道ができる。しばらくやって玉道が広がってくると、一緒に遊んでいる子とどれが一番早く転がり落ちてくるか競争して遊んだ。しかしビー玉がどこかへ行っちゃって『なくなっちゃったよ~。』と言って泣き出すのがいたもんだった。そしてそういう砂場には少し年上の(と言っても小学校5年が上限では、要するに10歳以下)オニーチャンがいてその場を仕切っていた。今から考えればオニーチャンは多分同学年の中ではデキが悪くて仲間から相手にされなくてガキを構っていたのではなかろうか。

 子供の頃を思い出していたら、カエルの絵柄が好きだったことに思い至った。薬のマスコット(だったと思う)のカエルが気に入って自分でお絵かきする時はいつも描いていた。クレヨンの緑と青ばかり減って困った記憶がある。高学年になったころは今で言うサイン代わりに名前の下に描いた。一枚も残っていないのは少し残念だ。

 メンコはあまり主流ではなかったが一部には愛好家がいた。しかし僕は負けて取られるばかりなので夢中にはなっていない。これは後にパチンコに凝らなかった事に通ずる。
 神田明神の境内で大勢のガキが周りを取り囲んでいて、真ん中で二人のガキ大将が対決している。芳林小学校と淡路小学校の対決だ。この時僕は学童前だったが近所のイサムちゃんに誘われて明神様まで見に行った。これメンコの勝負だった。下町はどこでも遊ぶ所と働く所と住む所が同じだからよそ者が入るのをいやがる。大人がそうだからガキまで縄張り意識が強く、隣接した小学校は大体仲が悪かった。僕から見れば大男の六年生同士がメンコで戦っていたが途中で『ズルした。』『いや、してない。』のようなモメがはじまりワーッとつかみ合いになって終わった。これは双方負けたとなると引っ込みがつかなくなるため、予定調和的に収束させるためのノウハウだったんじゃないか。ガキはわざわざ大勢大人の居る前でやる。誰かが止めに入る前提だ。だから中学の番長対決は邪魔の入らないようなところを選んでやるようになる。

 不思議とプラモデルとか車のような動くオモチャは好まなかった。理由は不器用だったからだ。そのくせセッカチで思うような形ができなくなると異常な破壊衝動に駆られた。結果的にあまり高いオモチャには触れずに育った。

 忘れてはならないのは『銀玉鉄砲』で、これは一世を風靡した。今のサバイバル・ゲームで使う物より遥かにチャチなバネ式のピストルでゴーグルもしないで二手に分かれて撃ち合う。だが両方でバシバシ撃ち合うだけで勝ち負けに明確なルールが存在せず、しばらくやっていると弾切れになって皆が拾い出すのでちゃんとした競技にはならなかったように思われる。小学生低学年まで盛んにやったか。

 地球ゴマというのもまだあるのだろうか。リングの仲に回転盤が入っていて、バランスを取り易くいろいろな動きができる触れ込みだった。しかしながら僕も周りもそんなことができた奴は一人もいない。あれは大人が遊ぶもんだったのだな、きっと。

 この後引っ越しをして下町から四ッ谷の方に移動する。都会の真ん中の小学校は校庭で野球ができるような広さはない上、コンクリートだ。しょうがないからゴム・ボールを使って正方形の小コートを四つくっつけたテニスまがいのゲームが大流行し、その後はボールを使う野球遊びばかりになっていった。

 ズーッと時間が過ぎて40台になった頃。再開発されてビルだらけになった生家のあたりを歩いた。仕事の関係で秋葉原の近くまで行ったのだ。電気街ばかりが有名だが、立派な高層ビルのところはその昔神田市場で、電気街は小さいバッタ屋が軒を連ねていたもんだった。メイド喫茶なんて無論ない。青物の仲買は午前中しか仕事しないから、午後からはヒマになったアンチャン達が大勢いて、まぁあまり品のいい場所じゃなかった。僕の通った幼稚園はその側にあって、もうとっくに無いだろうとあきらめつつ行って見た。
 すると何と、まだあるではないか。こんな事務所だらけの場所で、と思ったがどうも近隣にはマンションもたくさんあり、そこの子供達が通うことで成り立っているらしい。すっかり嬉しくなって中庭を覗いていると、その姿があまりに非日常だったのか、オバサンが寄ってきて『何か御用ですか。』と聞くではないか。いや、別に怪しい者じゃありません、実は私今から30年以上前にここに通ってたんですよ、あの通称メガネ・トンネルが出来た時にいました、などと自己紹介をした。すると僕の顔を繁々とみていたオバサンが突如『あんたケンチャンなの!』と素っ頓狂な声を出した。ついでに苗字まで思い出してくれた。しかし嬉しいよりも、その頃の手の付けられないガキ振りが脳裏に浮かんでとても恥ずかしかった。

 それから20年も経ったのだからオバサンもご存命かどうか。嗚呼。

古い記憶

狼少年ケン

車というオモチャ

 

欲しかったオモチャ


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Categories:遠い光景

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