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第一次世界大戦を考える オマケⅣ 

2015 FEB 18 20:20:26 pm by 西 牟呂雄

 第一次世界大戦について、日本が青島のドイツ軍を攻撃・占領してドイツ軍捕虜が松山に収容され、国内で初めて第九の合唱が歌われたりパンを焼いたりしていたことは一度書いた。バームクーヘンの『ユーハイム』やハムの『ローマイヤ』等のルーツはこの時のドイツ人捕虜が解放後始めたものとして知られる。
 ところでその時戦場となった大陸は既に中華民国であった。中華民国は正式には中立を表明してはいたが日英独が交戦状態になってしまったため(いい迷惑ではあったろうが)交戦地域の設定やら青島関税権の帰属やらの面で散々モメることになる。
 この中華民国という国は初めから最後まで(台湾を占拠するまで)実にまとまりのない奇怪な国家で、国父孫文は健在でありながらも大統領は袁世凱で、既に軍閥も跋扈していた。誰と交渉していいやら、合意できても実施されないやらで、ついに1915年1月の二十一箇条要求になる。あまり頂けないが当時の国内の報道では『堪忍袋の緒が切れた』となっている。しかしこれがドサクサまぎれに作った感が拭えない言いたい放題の代物ではあるが、一方で世界戦争の帰結も分からない為ますます複雑な交渉になった。日中ともドイツが勝ったら誰が負担するか等の保険をかけたというわけだ。
 袁世凱は伝統的な『夷転がし』のあの手この手を使い、秘密条項をリークするなどして民意を煽り抵抗運動が起こる(起こす?)。終いには手に負えなくなって逆に最後通牒を突きつけて欲しいと言ったとか言わなかったとか。まがりなりにも戦時にも拘らず延々四ヶ月かけて十六箇条を締結する。この話が不思議なのはその時点で門戸開放を声高に主張していた米国すら「中国側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた。」(反日で有名な駐北京公使ポール・ラインシュの国務省への報告)と言っていることである。
 ともあれ1916年に袁世凱が死亡し、段祺瑞の政権ができると1917年にはアメリカにそそのかされるようにドイツに宣戦布告し、ヴェルサイユ条約を批准こそしなかったが和平会議には出ている。
 その後シベリア出兵とか満州界隈のよろしくない方向に向かってしまったのはご承知の通り。悪名高い関東軍がわずか6個大隊と1個師団で旅順に設置されたのが、大戦後の1919年のことだった。

 さーて100年前のこの状況を見るにつけ、大陸がグチャグチャになることが分かっていながら深入りするのは愚の骨頂と言えるのではないだろうか。『太平洋を分けて管理しないか』とは冗談にしても言う方も言う方だが聞き捨てならない話ではある。万が一そうにでもなったら邪魔なのは世界にただ1国。官民挙げての反日プロパガンダが大きくなってきたら、脇を締めて裏で手を結ばれる前に後ろを固めるとか、一枚上手の外交力を持つべきと思われる。又、集団的自衛権の話もその中でしっかり詰める。
 少し前の日系企業打ち壊しデモなんか明らかな官製であり、マイク・ホンダのイアンフ・キャンペーンも同様の(コリア側面サポートの)威嚇ではないか。領海侵犯なんかいつの間にか日常茶飯事にされてきている。こういうときこそ身を引き締め同盟を強化する。
 アラブの春はどっかに行き目に余るISの傍若無人振り。ヨーロッパはテロだらけ。大国の首脳が四人で合意してもウクライナの銃声は止むかどうか。一人だけ『私達は平和で後知らない』では済まされないと気を揉んでいる。
 
 友好は目的ではなく結果だ

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Categories:国境

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