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名前はどう表記されるか

 阿倍仲麻呂は遣唐使で入唐したが科挙の試験をパスして玄宗皇帝に仕えた。
 気になっていたので唐の記録でどう表記されているか見ると『朝衡』または『晁衡』と表されていた。想像するにこれで『アベェ』とでも発音していたのだろう。
 ところで中国は同じ漢字でも地方によっては呼び方が違っているのを気にしない。『陳』姓はマンダリンでは「チェン」だが福建系では「タン」と呼び習わす。これが当たり前と感じているので鄧小平(デン・シャオ・ピン)を日本語で「とう・しょう・へい」等と読み上げても違和感は無いそうだ。  
 
 倭寇が高麗沿岸で大暴れしていた頃、その一部が鎮浦に上陸して城郭を構えたところ逆襲されて船団を失った。帰る手段を失って破れかぶれになったのか暴れ回った末に、元(モンゴル)の武官だった李成桂の総攻撃を受けて全滅する。その首領の名は阿只抜都(あきばつ)と記録されていて10代の美少年だったという。ナントカという日本名を当て字したのだろうが一体本名はどうだったのか。九州にある「赤星」とか「秋葉」という家の出身かも知れない。高麗語のアギ(子供)とモンゴル語のバートル(勇者)の合わさったニックネーム説もある。当時半島は元の属国だった。
 李成桂は女真族で後の李氏朝鮮の初代である。
 一方その高麗王朝は元の間接統治で王位を決められていて、忠烈王は元の首都である大都(現在の北京)に常駐した。その息子達の忠宣王はイジリブカ(漢字表記「益知礼普花」)、忠粛王はアラトトシリ(漢字表記「阿刺訥失里」)、忠恵王は「普塔失里(ブダシリ)」とモンゴル名を持ち、大都で育ちモンゴル風の辮髪にしていた。そして元寇の時は高麗兵が先頭に立って押し寄せてきた。お互い様なのだ。

 その後、今度は豊臣秀吉が止せばいいのに大軍を半島に上陸させる。
 どうも個別戦闘では勝つには勝つのだが、兵站は途絶えるヤル気はなくなる、中には朝鮮に寝返るのも出てくる(逆も多かった)。
 現地での表記の「沙也可」という日本人は投降し、軍が引き揚げた後に国境警備や反乱の平定、女真族との戦いなど活躍する。国王から「金」姓を賜り今日まで家系が続いている。友鹿洞(うろくどん)一帯のキム一族で、一村全てが金姓の両班だ。すぐに朝鮮語が喋れたのだろうか。
 かつて司馬遼太郎は綿密に取材し「沙也可」は日本では左衛門の朝鮮読みだろう、と推測した。他に多少の無理筋だが鉄砲集団の雑賀党の者でサイカのことだという説もある。

 明治になって政府が戸籍を管理するようになると、日本語表記がなくて困った人たちが出てきた。アイヌの人達だ。元々苗字も文字も持たなかったので多くはそのままの名前や住んでいた地名に漢字を当てて名前にした。
 話題の北方領土の色丹島にはロシア配下の千島で洗礼を受けロシア名の人々がいて、苦労して苗字を造っている。ストロージョフさんは須藤に、ノグラウウィンさんは埜倉(のぐら)に、プレチンさんは吉市(よしいち)といった具合だ。
 最近はフィンランドから帰化したツルネン・マルテイさんが「弦念 丸呈」とかラモス 瑠偉とかポピュラーになって、キラキラ・ネームの方が何系だか分からない。

 ところで僕はその昔、中華圏(香港・台湾・シンガポール・杭州・北京・上海)に行くとサインする時に西 室建と書いて「ウォー・シー・シー・スー・チェン」等と自己紹介した、すぐ日本人だとバレた。
 ソウルでチェックインする時は니시무로(ニシムロ)等と表記して「ナー・ヌン・ニシムロー」とやったが、錬達のフロント・マンに「にしむろさんですね。お待ちしておりました」と日本語で返事されてしまった。

フ(ホ)ァン・チン 名前考 黄金

春夏秋冬不思議譚(名前考)


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