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新撰組外伝 十津川の刺客 

2019 AUG 10 6:06:12 am by 西 牟呂雄

 大和の国、十津川は神武東征の際、長髄彦に一旦敗れ紀伊半島の南に廻り、熊野・吉野を経て大和に北上したルートと言われている。その時に八咫烏が道案内に現れた伝説があり、土地の人々は未だにそれを信じ誇りに思っている。秘境と言っていいほどの山岳地帯なのだが、日本史にはしばしば登場する。
 天武天皇が吉野に隠棲した後に壬申の乱を起こすが、その際に十津川から兵が出ている。保元の乱でも崇徳上皇について戦い、南北朝の騒乱では無論後醍醐天皇につく。時代が下るとなぜか家康に従って大坂夏の陣にも参戦。いずれも千人程度の壮丁が山を下りてはせ参じている。
 徳川時代を通じて天領なのだが、幕末に至っては尊王の志を抱いた輩が御所の門の守りを固める。言わば尊王専門の傭兵部隊である。京より弾け飛んできた天誅組の騒乱の際には初めはこれに従い、後に離反した。
 そして壬申の乱の昔より年貢御赦免、無税なのだ。もともと水田開拓が不可能なせいもあり、普段は狩猟生活でもしていたのだろう。剽悍な戦士であったに違いない。
 幕末の御所警護に際しては、”菱に十字”の紋を掲げた“藩邸”のような家屋を京に構えていた。文久3年(1863年)、中井庄五郎が御所警衛にあたるため二度目の上京をする。床五郎は十津川で見よう見まねの居合を身に着けていた。
 十津川は藩でもないただの山間の地名に過ぎないエリアだが、その人となりは大小を挿した武士モドキの郷士である。そして自分たちは都の帝と直結していると思い込んでおり、底抜けに明るかった。
 時に、幕府が横浜他を開港し、大方の世論は公武合体だった。しかしながら京には、攘夷派・倒幕派・その他がうじゃうじゃしており、とりわけ御所周辺では有象無象の脱藩浪人が多い。ちなみにこの年は薩英戦争が起きている。
 ある晩、床五郎は那須盛馬と酒を飲み、したたかに酔った。那須盛馬というのは脱藩した土佐の郷士で、大坂において焼き討ち事件を起こしかけ、十津川で身を隠していた旧知の人物だ。
「那須さん。ほら、肩を貸しますよ。そんなに酔って大丈夫ですか」
「おまんの方がかえってワシによりかかってるがじゃ」
 四条を笑いながらヨタヨタ歩いていると、向こうからも大声が聞こえ、同じように泥酔している三人組がやって来る。体格のいい男が肩をそびやかして歩いているのだが、高瀬川の橋上ですれ違いざまに床五郎達がよろけて肩が触れた。那須が勢いよく喚いた。
「無礼者!ぶつかっておいて挨拶ないがか」
「なにー、どこの田舎者だ」
 関東言葉である。那須は那須でお尋ね者の分際で酒の勢いが止まらない。
「そっちこそどこのもんじゃ」
 まずい展開に床五郎が思わず割って入った。
「御免、別に悪気はありません」
 言った途端に相対した男の凄まじい殺気を感じ、床五郎も思わず身を正した。度胸は座っている、実は1年程前にさる事情から人を切ったことがあった。しかし目の前の男はその時に感じた雰囲気とは比べ物にならない気配が漂っていた。
「テメーは猿(ましら)か」
 床五郎は体毛の多い体質で、もみ上げから顎にかけて髭が密集していた。そのことをなじられたかと顔色を変え、腰を落として居合いの構えを取った。
 まずいことに血の気の多い那須は既に刀を抜いている。すると残り二人のうちの一人がスラリと抜くと下段に刀を落とし、一歩踏み出るとアッという間に那須の刀を跳ね上げ小手先を切った。更に踏み込んで上腕、脛と明らかに急所を外して遊んでいるように捌いた。
 一方、その様を横目にしながら抜刀の機会を計っていた床五郎は、相手に気圧されながらジリジリと後退し、堪らず抜いた。瞬時に払われ、後ろに後ずさりしたところ、もんどりうって川原に転がり落ちた。まるで腕が違う。庄五郎は生まれて初めて恐怖した。
「斉藤さん。その辺でいいでしょう。止めを刺すとただの喧嘩じゃすまなくなって、下手するとまた歳さんの『切腹しろー』が始まりますよ、ハハ」
 一番若い男のバカみたいに明るい声が聞こえた。斎藤と呼ばれた男は、
「まったく、沖田君にかかっちゃ副長も『歳さん』か」
 と薄気味悪くつぶやいて刀をパチリと納め、もう一人に呼びかけた。
「永倉さん、酔いが醒めた。飲み直しましょう」
 三人は庄五郎達をほったらかしにして、何事もなかったように闇に消えて行った。
「那須さん・・・那須さん!大丈夫ですか」
 庄五郎は泥だらけになりながら這い上がって、倒れている那須を助け起こした。
「やられた。・・・・ウッ、なんじゃあいつ等。そろいの羽織りで」
「凄い出血ですよ。きつく縛らなきゃ」
 やっとの思いで知り合いの家にもぐりこんで手当を受けた。
 急を聞いて十津川屋敷の者が飛んでくる。
「一体誰にやられた」
「そろいの羽織りを纏った三人組です。それが強いの強くないのって、那須さんも歯が立たない。拙者ははねとばされました」
「そろいの羽織りとは」
「浅葱色(あさぎいろ 薄い藍色)で袖の先が白抜きのだんだら模様でした」
「なにい・・・・それは新撰組だ!まずいぞ那須、お前は大坂の焼き討ち未遂で手配されているんだぞ。庄五郎、新選組の誰だったかわかるか」
「私に向かって来たのは斎藤と呼ばれていたと思います。そいつが那須さんを切った男を永倉さんと呼んでいました。もう一人の若いのは、確か・・・沖田かと」
「アホ!そいつ等は特に腕の立つ人切りだ。今度出くわしたら命はないぞ。那須、お主は薩摩にでも匿ってもらえ、名前も変えろ」
「イテー、イテテ焼酎がしみるー」
 結局那須は薩摩藩士に紛れ込み片岡という変名を使った。

 暫くは新撰組の目をかいくぐる様にしていたものの、床五郎は天性の明るさと朴訥な性格から他藩の連中に愛された。とりわけ土佐弁丸出しで熱心に語りかける青年が可愛がり、床五郎も彼の話には惹かれた。
 大ボラだか本当か良く分からない話をしては人を驚かせていたが、内容は幕臣の勝海舟からの受け売りで、海軍伝習所で聞いた話である。
「おまんら十津川郷士ゆうちょるのは土佐の郷士とはちくとちごうとるぜよ。土佐にゃその上に上士ちゅうのがおってえばっとるがじゃ。十津川っちゅーのは殿様もおらんとええとこじゃの」
 分かりやすい例え話を引き、諸藩の事情から世界の様子を聞くと、床五郎は目を輝かせた。青年とは坂本龍馬のことである。
「坂本先生、それでは日本はどうしていけばいいのでしょうか」
「幕府も攘夷もないがぜよ。みーんなでワシら日本人じゃっちゅーて世界に繰り出すきに」
「わたしのような山猿も連れて行っていただけますか!」
「何も関係ないがじゃ。十津川は藩でもないからかえって自由気儘に行けるかわからん。ただ船酔いには慣れてもらわんとの、ワハハハハハ」
 不思議なことに十津川には関西のイントネーションがなく(それぐらい隔絶されていたということなのだが)イデオロギーは尊王以外に攘夷も倒幕もない。砂が水を吸うように吸収し、龍馬の率いる陸援隊に傾倒していった。
「何でもやります。何卒ご教授下さい」
 龍馬は目を輝かせて言うこの青年を気に入り、所蔵の佩刀を一振り譲っている。

 ところがその龍馬が何者かによって暗殺された(近江屋事件)。11月15日だった。

 龍馬の暗殺を聞いた海援隊の陸奥陽之助(後の外務大臣。宗光)は怒り狂った。
「やったのは新撰組だろう。この日本の大転換を台無しにするのかぁ」
 陸奥は紀州西条の脱藩で、神戸海軍操練所以来の龍馬の盟友である。
「手引きをしたのは伊呂波丸事件で賠償金をブン取られた紀州藩公用人の三浦休太郎に間違いあるまい」
「陸奥さん、下手人は十津川郷士を名乗って坂本先生を訪ねたという噂は本当ですか」
「本当だ。中岡慎太郎が今際の際にそう言って死んだそうだ。十津川を名乗ったのは坂本さんを安心させる為だろう」
 床五郎は怒りに震えた。名誉ある十津川の名をかたった卑怯な振る舞いに吐き気がする。
 後にカミソリ大臣とまで言われた怜悧な陸奥も、この時ばかりは自分を見失い、海援隊・陸援隊を率いて三浦を討つ決心を固めた。床五郎はすがるように志願した。
 三浦の居場所は直ぐに知れた。七条油小路の旅宿天満屋である。
 12月7日、十数名の襲撃部隊が天満屋に寄せると、驚いたことにそこでは酒宴が開かれており、笑い声が2階から聞こえる。
 有無を言わせずに乗り込んだ床五郎はそのまま階上に駆け上がり襖を開け放った。宴席の騒がしさが一瞬消えると三浦と思しき武士に、腰を落として『三浦氏は其許か』と言うなり斬りつけた。「グワッ」と叫んで三浦が横倒しになると、後から陸援隊・海援隊の有志が雪崩れ込んで来て大混乱となった。
 その中で素早く配膳を蹴飛ばして抜刀した男の顔を見て、床五郎は目を見張った。あの四条の橋上で見た新撰組隊士、斉藤と呼ばれた男が不敵な笑みを浮かべている。宴会をしていたのは三浦の護衛に当たっていた新撰組だったのだ。遮二無二切りかかって手ごたえを感じた。と思った刹那に複数の太刀が振り下ろされ、床五郎は瞬時に絶命、世に雄飛する夢も又、都の漆黒の空に溶けた。
 庄五郎の一撃は新撰組最強の斎藤一をかすめはしたが、斎藤はビクともしない。喧騒の中で剛剣を奮ったが、背中から切り付けられる。斎藤が声も出さずに振り返ると隊士の梅戸勝之進が傷を負いながらその男を仕留めていた。
 格闘小半時、知らせを聞いた紀州藩士等が駆け付けた時には陸奥以下は庄五郎を含め4人の死体を残して逃げおおせた後だった。新撰組にも二人の死亡者が出ている。斉藤は用心深く宴席にも鎖帷子を着込んでいたため、かすり傷も負わなかった。

 陸奥の維新後の栄達は良くご案内の通りだが、三浦もまた貴族院議員を務め、第13代東京府知事にまで出世した。ただし疑獄事件により失脚する。
 片岡源馬と名を変えた那須盛馬は明治天皇の侍従となり、その命により千島列島を探検、北端の占守島に日本人として初めて上陸した。
 斎藤一は会津藩と合流し斗南移封まで共に行動後、西南戦争に抜刀隊で参加し大正四年に死んだ。
 中井庄五郎が21才で命を落とさなかったらどれ程の人材になったのか、それは分からない。そして時代に踏み潰された佐幕派にもまた確かな人材はいたはずである。
 十津川郷士は維新後全住民が士族に遇される栄誉に浴する。
 後に有名な明治22年の大水害で壊滅的な被害を被り、約3千人が北海道に移住した。空知地方の新十津川村であるが、中井家は北海道には行かず今もその血筋は十津川に脈々と続いている。

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