続・街道をゆく 宝のみち
2024 MAR 29 13:13:37 pm by 西 牟呂雄
旧村名を『宝村』というおめでたい名前の所がある。その『たから』の語源が何に由来するかはよくわからないのだが、いかにも豊かな語感と軽いロマンを感じさせる響きで、以前から興味があった。子供の頃に読んだスティーブンソンの『宝島』を思わせる。そっちは海賊の財宝を見つける話だからこっちは山賊の話でもないかなと検索しても、そんなものはない。ただ、明治期から昭和の中頃まで鉱山があった。『宝の山』ということなのか。鉱山跡地は相当な山奥なのでふもとまででも辿って行きたいというのが今回の旅である。
富士急行線の都留市駅から桂川を渡り支流である大幡川に沿ったところによく開けた扇状地が広がり、そこから遥か先にある三つ峠に向って吸い込まれていくような道が続いている。
この地区の人文は古く、縄文時代前期からの遺跡が数カ所確認されており、特に縄文中期と推定される牛石遺跡は東西南北方向に対応するストーン・サークルとこれらを環状に連結する全体の直径は約50mに及ぶ列石からなる大規模なものである。
このエリア全体が山に囲まれているがゆえに富士山を望むことはできないものの、わずかにこの遺跡のポインントから山頂が見える。更にここを見下ろす三つ峠山頂には春分・秋分の日に夕日がかかる。縄文中期は富士が盛んに噴煙を上げていたであろうから。あのストーン・ヘンジのごとく多分に宗教性を帯びた祭礼が行われたに違いない。筆者もそこに立った時は、秘かに古の血が騒ぐ錯覚を覚え、はなはだ愉快た。
その後、たびたび大噴火をしているので、近くの遺跡では遥か後の奈良・平安期の遺構も発掘されている。さらに時代が下り鎌倉・室町時代、武田家が甲斐の一守護でしかなかった頃、この地を支配したのが小山田家である。坂東八平氏の流れを組む秩父一族で甲斐都留郡の覇者となった時の本拠地があった。
時に武田と縁組し、時に武田の内紛に手を突っ込み、信玄の時代には臣従して武田二十四将として名を連ねるのが、勝頼を最後の最後に裏切ったのは十七代小山田信茂である。ここではその内面には踏み込まない。勝頼自刃の後、信茂は甲斐善光寺にて織田信長に拝謁しようとしたところ、信長嫡男の織田信忠により処刑された。戦国時代の様相が手に取るようにわかる顛末である。
その小山田家の六代目から十四代目の墓所である曹洞宗の桂林寺は今日も残っていた。
1393年に六代信澄が建長寺の格智禅師に開山を請い建立した。明治期に二度火災にあったため往時の面影は参道にのみ残されているが、その参道を下ったあたりに小山田の邸があったとされる。
中世を通じて、また戦乱の世にあってもここからの風景は平和であったことと思う。無論、足軽として駆り出された領民はいたであろうが、ここは戦場からは常に遠かったに違いない。
と言うのも、集落の景観こそ変わっているが、大幡川に沿って上流の方に進んで行くと水田耕作や養蚕のための桑畑がなされていた痕跡が見て取れ、昨今整備されたバイパス道路や河川護岸施設を視界から消してしまえばかつての営みが容易に想像できるからである。
例えばかつての寺領の広大さを物語る石塔と門に続く広教寺であったり、巨木に覆われた春日神社である。
広教寺は源頼家によって建立された古刹で、大般若経の写本がある。
さて集落を通り過ぎ、道幅も狭くなって勾配がきつくなってくる。提題の『宝の山』に近づく秘境感が漂ってくる。
突然視界に入ったのは『機神社』なる看板だった。
こういう時に寄り道ができることが『続・街道をゆく』の醍醐味で、人っ子一人いない境内に降りた。
『機神社』と書いて『はたじんじゃ』である。機織りの神様を祀っていた。
この地は前述の通り養蚕が盛んで、その川下産業として撚糸、機織りから染色といった一貫工程が成り立っていた。戦前の高級ブランドのいわゆる『郡内織』は地場産業だった。
その事業者がいつのころからここに祀ったのだろうが、由来の表記はない。
祭神は天栲幡姫命(アメノタクハタヒメノミコト)萬幡豊秋津姫命(ヨロヅハタトヨアキツヒメノミコト)同一神でいずれも幡の字が入っており、機械や織物の神様である。転じて『機』を『ハタ』と読ませる。
ご覧の通りの不思議な造りで、お神楽が二つのステージになってその間を抜けた先に社殿がある。
この街道のドン詰まりに厳かに祀ってあるのが返って奥ゆかしい。
その祭礼を見てみたいと思ったものの詳しい説明はなかった。
『宝のみち』も最期の胸突き八丁を登り、ますます道が狭くなった所にバス停があった。名前は『宝鉱山』である。
明治5年、偶然地元の農民が発見した硫化鉄の大塊鉱から開発が始まり、昭和45年に閉山するまで現役の鉱山だった。経営は三菱に渡り最盛期には200人程が3交代勤務をしていた。病院・鉱夫長屋・小学校分教場を併設し、更には映画館も設置された。現在は市が運営するキャンプ場になっていて、写真はその映画館跡に建てられた管理棟である。農村部の人達も娯楽を求めてセッセと坂を登って来たことだろう。
中に入れてもらうと、往時を偲ぶ模型を見せてくれた。
無論、坑廃水処理の問題等あったものの、エリアにとっては宝の山だった訳である。
筆者は九州時代に多くの炭鉱跡・鉱山跡を訪ねているが、同じように郷愁を誘うものが感じられた。
バス停から少し歩いて行くと、おそらくは鉱山住宅跡地をリフォームしたコテージがいくつかあった。坑口でもすぐに見られるかと思ったが、その現場はもっと山の奥のようだ。
管理棟にいた方は廃鉱の後に生まれたそうで、往時の記憶など当然ない。
資料によれば、掘り出された鉱石は鉄索道(つまりリフト)で一山超えた現在のJR笹子駅まで運ばれた。
笹子駅はかつては中央本線のスイッチ・バックの駅で、その跡地を利用したJRのトレーニング・センターがある。これもある意味産業遺跡である。
筆者が中学生の頃まで家族も含めると数百人が暮らした形跡がすっかり姿を変えてしまい、痕跡を見つけることも困難な有様は将に『つわもの共の夢の後』である。ヤマを離れた家族の中には地元に根付いた人もいたのであろうが、その多くは別に職を求めたはずだ。事実、前職の現場にお父さんがこの鉱山の事務職だったという人がいた。埼玉県の入間市の工場の話だ。
一本の道を辿って『小山田』『機(はた)神社』から『鉱山跡』と時代の盛衰を見てきた訳だが、こういった動きのスピードは今後ますます早まるに違いない。世間で言われるAIの進化、デジタル社会の到来は待ったなし。今でさえ追いつけていない前期高齢者はどう振舞ったらいいのか思案に暮れるのである。
死後50年もすれば、筆者の痕跡はただのガラクタにしか見えず、次の世代からはバカにされるだろう。ヤレヤレ。
そろそろ引き上げるか、と戻ろうとした時に廃屋があった。ぐるりと周ってみると個人の表札が付いたままの空き家だ。表札は先程の管理棟で見た『飯場〇〇家』とあった家屋で、恐らく個人の家だったので閉山後も打ち捨てられたまま朽ちたのではないか。
道はここから登山道になっていて、修験道の霊山三つ峠に行くハイカーも多いらしい。少し歩いてみると『熊に注意!』などと書いた看板があった。こんなキャンプ場の近くにまで出るのか。
見上げれば三ツ峠は白く雪にかがやいており、沢を渡ると見事な美しい滝が落ちていた。まるでこの先には入るな、と語りかけているようで、熊にもビビったせいもあって引き返した。
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