出雲に初めて行きました Ⅱ
2014 OCT 26 15:15:06 pm by 西 牟呂雄
一泊のあわただしい旅だったので、あそこはもう少し、こっちにもアレがある、は山ほどありますが、流れ旅というかあんまり詰め込んだり人の世話にはならないのが僕の流儀です。
宍道湖のほとりをドライヴしましたが、ここ広いと言うか細長い。
湖の中に松が生えていてアレッと思いましたが、ちゃんとした島でした。岸から200m程の所にポツンといった感じで浮いています。そこまでの水深も1mチョットだそうで、本気を出せば歩いて渡れるとか。名前は嫁ヶ島といって、かわいらしいお嫁さんを想像させます。この島の右奥が出雲方面なのですが、モヤっていて対岸が見えませんでした。
朝には蜆取りの小船がたくさん出ていて、水質汚染もあるのですが蜆は今でも物凄く取れるようです。斐伊川が流れ込んで、隣の中海とも同じ水位でつながっているため、海水の半分くらいの塩濃度といった珍しい環境がいいのでしょうか。
一泊した後はフライト時間が余っていたので、松江のあたりを車で通ったら何とも言えない看板が目に留まり、これが旅の醍醐味のマイナー・スポットなのは直ぐ分かりました。黄泉比良坂(よもつひらさか)!
日本神話のスタートのイザナギ・イザナミ命の物語に登場する坂の事です。火の神を生んで亡くなったイザナミを追いかけて黄泉の国まで行ったイザナギは『見ないで。』と言われた禁を破って一目見て、腐り果てたイザナミのあまりの恐ろしさに逃げてしまいます。必死にこの世までたどり着いて千引岩で道を塞ぎ事なきを得るのです。
この場所は『古事記』に「出雲国伊賦夜坂」とあり、今日の東出雲町とされています。しかしまぁ、いくらなんでもその時代から”ここだ”と特定されてはいなかったように思いますし、あの世とこの世の境目というのも無理がある。
写真の石柱にしても立てられたのは昭和15年であり、これは恐らく皇紀二千六百年のムーヴメントに乗って造った物でしょうから、太古の昔からここであるという確たる証拠にはならないでしょう。
ところがですな、少し歩いて見ると不気味なんですよ、これが。少し登ってみましたけれど心霊スポットの趣はありましたね。そもそもこの坂に至る細い道を車で来た時点で、ドン詰まりの所なのです。何と言うか他にルートがない。そこにこのような手づく風の道案内が立っていて『この坂 伊賦夜坂』と書いてありました。更にサクサク行こうとしても、どうも気が進まないというか・・。僕自身は霊感は全く無いので、何か写らないかと同じ方向で何枚か撮ってみましたが、ご覧の通りです。
結局引き返しましたがこの感じ、やはり出雲ならではじゃないでしょうか。
一つはやたらと観光地化していない。出雲大社は確かに一大観光地ではありますが、印象に残ったのは「観光」というよりも「信仰」でした。
出雲井神社は誰一人来そうに無いのに、丁寧に掃き清められていました。
伊賀武神社は維持し続ける強い意思を感じました。
更に長い歴史に裏打ちされているせいか、どこもおざなりにせず常に手を加えています。先ほどの看板のような手作感のような感じがいいですね。
昔「ふるさと創生」の名目でバラまかれた金で俄観光の為に作られたハコモノが、その後飽きられて朽ちているのを見ると、単なる流行り物では維持し続けられないのだと分かります。もっとも時の竹下総理も出雲人でしたから、まさかそういういい加減な使い方をされるとは思っても見なかったのでは。
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出雲に初めて行きました
2014 OCT 24 9:09:51 am by 西 牟呂雄
以前特集までしたくせに大きな声では言えないが行ったことがなかったので、こっそり出雲を訪問してきた。
何しろ先日、千家の跡取りさんと内親王殿下のお目出度い話で報道されたので出雲大社は勿論、もう一つ出雲への誘惑 左白(さじろ)でも書いた左白にも足を伸ばしたかった。
10月は世間は神無月だがここはその間全国の神様が来ているので神在月。厳かな気分で大社にお参りしたところ、初めからコケた。多くの観光客にボランティアと思しき方が解説をしているのを後ろから聞いたら『神在月は旧暦でやりますから今年は12月からです。』と言っていたのでガックリ来た。しかもお賽銭を入れて二礼四拍手一礼したところは遷宮の間に神様がいる仮のところで(それでも立派だったが)、ホンモノはその後ろだった。今年は60年に一度の遷宮なので、その間はそっちにおられたそうだ。と言っても伊勢神宮のように丸ごと遷るのではなくて屋根の修理程度の事らしい。
そして、周りの建物も順番にメンテナンスするために、何年もかけて”遷宮”する。高さ24mで神社としては図抜けて高いが、近年の発掘によりかつては40m以上あったことが確認された。面白いのは大国主命は正面=南側ではなく写真の方角=西側を向いて祭られているので、そこでも拍手を打つ。
ここで気が付いたが、高い柱を立てるのは諏訪神社の御柱に通ずるのだ。出雲への誘惑 Ⅱ で考証した通りだった。
向かって左側が千家さんの社務所で重さ4トンの注連縄があった。右側に同じ千家でも北島さんのほうの施設があって、こちらは出雲教になっている。14世紀に国造家の兄弟が2家に別れ、明治の国家神道管理の方針で別の教団になった。出雲教はイマイチ新興宗教風になっている印象。
そこで佐白に行くのだがその前に出雲大社のすぐ近くにあったその名も出雲井神社を覗いてみた。出雲への誘惑 トミという謎で書いた富家が信仰していたクナト神の神社だが、本当に小さい寂れた神社だった。やはり大っぴらに信仰できない事情があって、わざと目立たないようにしているのだろうか、僕としては大国主命直系の家系に敬意を表してお賽銭を入れて来たが。
小さい社の裏手に廻るとにらんだ通り巨岩があり、成る程大昔の自然信仰の源はこれだったか、と思わせる。
例の左白にたどり着いたころは夕方になっていた。出雲大社からは結構な距離で、中国山地を縫うように奥に入っていく。そして峠の分水嶺を越えた辺りが奥出雲だった。いかにもオロチがいそうな所といった佇まい、少し寒かった。当たりを付けていたのは伊賀武神社というこれもマイナーな神社だ。何しろ山の中なので住所でナビを検索しても出ない。
一瞬、視界が開けた時に山間に続く鳥居を見たが、そこがそうだった。この神社は冒頭の『左白 (さじろ)』で紹介した〇〇家の一族が先祖を祭った所で、即ち足名椎命・手名椎命(アシナヅチ・テナヅチ)の子孫のフランチャイズという訳だ。鳥居の後ろに石段が山中にまで続いていて、いかにも、な感じで登っていく。するとボウっとした社の輪郭が見えてきた。ちゃんとした出雲式の屋根の神社でしっかりと手入れされ案内板もついていた。長者屋敷跡とある。地元の伝承なのであろう、足名椎命・手名椎命が娘の櫛名田比売と住んでいたところらしい。毎年娘を一人づつ八岐大蛇に食われて、最期の一人が素戔男尊(スサノオ)に救われるのだ。この山深い里に代々そう言い伝えられていたことを思い、ぼくはとても嬉しくなった。
そして、隣接した八重垣神社はその櫛名田比売が鏡に見立てた鏡ヶ池の跡のようだ。
しかし幹線道路が整備されて偶然目に入ったが、その昔は到底人目につかないひなびた場所だったろうに。
周りを見回しても見通せるところは棚田があるくらいで、村落は形成されてもいない。
出雲について書くきっかけになったある高齢の方(93才!)のお手紙の通り、薄く層雲がたなびくような山間に秘かに伝わっていた口伝が生き生きと蘇る思いだった。
更に驚いたのは、そのお手紙にあった〇〇家の墓所らしき所も近くにあった。たくさんの墓石に刻まれていたのは確かに〇〇家のもので、神話の御子孫の営みには恐れ入る他はない。
とてもじゃないが、東夷(あずまえびす)の太刀打ち出来るものではなく、下の写真の社に出雲大社と同じ金額のお賽銭を入れた。
ところで話は変わるが、この辺の人達は一般道路(それも山道)でも物凄く車を飛ばす。軽トラもダンプも普通の車もだ。
東京界隈で滅多に煽られたことのない僕の運転が、気が付くと必ずピッタリと付けられているのには驚いた。
戦国時代でも尼子の本拠はもっと西の安木の方で、このエリアは一種の神域としてあまりガサガサした戦闘もなかったはずだが。
人心も穏やかそうな印象の出雲の方々はハンドルを握ると何かの血でも騒ぐのだろうか。もっとも、やたら事故が多いとも聞かなかったが。
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出雲への誘惑 Ⅴ オマケ
2014 JUL 26 0:00:47 am by 西 牟呂雄
話は全く変わるが、日露戦争の第二艦隊旗艦は大日本帝国海軍装甲巡洋艦でその名も『出雲』である。上村中将指揮の元、ロシアのウラジオストック艦隊を追い掛け回して苦労していた。上村中将は猛烈な闘志を持った薩摩隼人で、たびたび濃霧によって敵艦隊を見失い「濃霧濃霧、さかさに読めば無能なり。」と謂われない罵倒までされた。その後は日本海海戦に出撃し、舵の故障を北進の転舵と誤認した三笠の命令を無視し「我ニ続ケ」と突撃したことで知られる。
その後、第一次世界大戦時には遥か地中海のマルタ島にも出撃した。筆者はマルタ島には行った事があり、そこには派遣され雷撃を受けた駆逐艦「榊」の犠牲者の碑が立っていた。そして何と先の大戦末期、1945年の7月に呉軍港の空襲により転覆着底した。45年も現役であり続けた艦艇だった。
伝統と言うか何と言うか、帝国海軍が消滅した遥か後の2013年にヘリコプター搭載型護衛艦として『いずも』が進水している。これはでかい。昨今集団的自衛権の議論がなされているが、この『いずも』は他所の国に攻撃になんか行きませんよ、皆さんご安心を。
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出雲への誘惑 Ⅳ トミという謎
2014 JUL 24 12:12:11 pm by 西 牟呂雄
出雲関連に興味を持っていたら妙な記述に行き当たった。『富(トミ)』という家系が太古より続いていて、門外不出の口伝を伝えている、というのだ。この話、以前から気になっていた。出雲大社を司る千家・北島家は天孫族で、言ってみれば恭順を示した大国主命の一派が再び事を構えないようにお目付け役として神社を守っている立場、という話である。そして『富』家の伝承はその裏付で、尚且つアシナズチ・テナヅチ系も含めてオリジナル出雲の秘密の証拠となるのではないか、と興味が湧いた。
このたびのお目出度い話(千家国麿氏と高円宮典子様の御婚約)で一気にメジャーになった現役の国造千家氏であるが、実は明治になって起きた祭神論争(天照大御神の伊勢神宮と大国主命の出雲大社の論争)では第八十代千家尊福(たかとみ)氏が『同格』を主張し大モメする。出雲大社としては筋を通したと言える。
更にこの直接の系譜ではないが、アンチ伊勢神宮(=国家神道)の流れに大本教が出る。
しかしながら当の『富』家の実在は確認できたが、やはり関係者の口は堅く公表されたことはない。かなり取材を受けて、先々代あたりの方が漏らした僅かなコメント・伝聞が残されるのみだ。それが大国主命の直系で、秘かに記紀神話とは別の神話を持っているらしい(例えば天照大御神は出てこない)というところまでしか追えない。どうもスサノオの系譜は出雲オリジナルだったものを、記紀編纂の際に組み込まれてしまった可能性があるのではないか。スサノオも高天原をおっ放り出された後、新羅あたりをウロついたことになっていて、出雲・半島あたりのエリアに縁が深い。そしてその子孫が大国主命だとなると腑に落ちるのでは。
これを元ネタに前回ブログ(出雲Ⅲ)で神話パクリ仮説を思いついたのだが。要は都合が悪いので、天照大神の弟だったことにしちゃったのでは・・・・。しかし戦後で良かった、不敬罪にされてしまう。
残念ながらこれ以上は現地にでも行くしかあるまい。出雲大社のすぐ側に、その名も出雲井神社がある。確認できないがここが『富』家の信仰するクナト神を祀っているらしい。秋にでも行ってみよう。
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出雲への誘惑 Ⅲ 左白 ーさじろー
2014 JUL 21 17:17:03 pm by 西 牟呂雄
この毛筆の手紙は、ある奥出雲のご高齢(93歳)の方から立派な直筆のお手紙をいただき、それがまさにその逆探知の手掛かりになるような内容であり、関係各所のご了解を頂き、現在のテーマである 出雲 の特集の一環として内容を紹介するお許しを得ました。
話は、昔は寂しかった左白(さじろ、以下全て)に幹線道路が出来てそこを通った際、今は無き息子さん(気の毒にこの方は故人)の同級生の墓所を発見するところから始まります。
ところで、出雲神話のもっとも古い部分は素戔嗚尊(以下スサノオ)の八岐大蛇退治ですが、オロチに娘を食われ続けていたのが誰かご存知ですか。ちゃんと名前があって足名椎命・手名椎命(以下アシナヅチ・テナヅチ)です。即ち先住の民というかオリジナル出雲人のはずです。
手紙によると、その方は生前息子さんに『ウチはアシナヅチ・テナヅチの子孫だ。』と語っておられたそうです。私はこういった口伝・伝承の類が大好きで、且つある程度歴史を正しく伝えているものと考えています。
何しろ記紀の記述にしてもはるか後の八世紀前半の成立であり、それ以前の文字による記述はありません(消失したものはあったとされているが)。しかも政治的にはいくつかの権力の変遷が起こっていたため、中国ほどではないにせよ葬りさられてしまった勢力はあっただろうと推測できます。何らかの憚りがあるので、口伝として子孫に伝わった話に真実が隠されてはいないでしょうか。
伝説を伝える一族の名前が記されていました。今でも島根県にある苗字です。幹線道路が通る前は訪ねる人もないひっそりとした小山に、百基ほどもあろうかという程の墓碑が何列もならんでいたそうです。その本家は代々たたらを家業として長く栄えたとあります。左白を中心に斐伊川沿いにたたら製鉄遺跡が点在しており、古代より盛んだったことがわかります。そして斐伊川は典型的な天井川で、たびたび氾濫を起こしていました。この川の氾濫やたたら製鉄の際の鋼滓の湯道といったものが八岐大蛇(以下オロチ)伝説の元と考察されています。その怪物が土地の娘を食ってしまう、そこへスサノオが高天原から降りてきて、見るに見兼ねてオロチを退治する神話は良く知られたところです。
調べてみると、その川沿いに多くの神社があり、古い伝承が残されていることが分かります。記述された一族が篤く祭ったのが伊賀武神社だということは、地元でも知る人は少ないようです。
さて、オリジナル出雲人の系譜が現存するならば、果たしてオロチとは何でしょうか。他所からの侵略者に違いありません。スサノオが助けに来たのは天孫系の記紀によるので、これは後述しますがいかにもいいとこどりっぽい。ヒネクレ者のせいかもうちょっと別の解釈がしたいですね。
お手紙には『オロチはオロチョンではないか。』という驚くべき地元の伝承も書かれていました。オロチョン・オロッコは北海道にも来ており、尚且つそのピュア・グループが昭和30年代まで釧路に残っておられたと記憶します。私は環日本海文化交流論者ですので、南下してきた一派がいたのではないか、と想像するとやたらと興奮するのですが。語呂もいい。
出雲先住組(アシナヅチ・テナヅチ)← オロチョン・グループ(オロチ) ← 天孫系(スサノオ) という勢力の交代といった仮説は如何なものでしょうか。以前のブログでは逆に西から追っ払われた流れを考えて、物部・平家の北上を検証しましたが、これはその逆、侵略者南下仮説ですね。
そしてここがこだわり所ですが、オロチVS先住出雲人といった抗争は確かにありスサノオという強者が活躍したのでしょうが、記紀成立の際に天孫族の英雄譚としてパクられたのでは、とまで仮説を飛躍させてみました。
と言うのも、その子孫の大国主命は国を譲ってしまうからです。大国主命についてはこのお手紙とは別の話ですので次にしましょう。
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出雲への誘惑Ⅱ
2014 JUN 9 23:23:56 pm by 西 牟呂雄
大国主命の一族のその後に思いを巡らせているとき、ハタと気が付いたことがある。
松本清張の『砂の器』に出雲の亀嵩が出てくる。小説は東北訛を追いかけて行くと出雲に辿り着き、それが事件解明に繋がるという話だ。文脈では東北(恐らく日本海エリア)の方から出雲まで言葉が流れたというモチーフと記憶するが、これ逆じゃないか。
日本海の海運は江戸期の北前船の物流のように極めて盛んで、東北から山陰を経由して関門を抜け、瀬戸内を通って大阪に至る。ここで様々な物(一番は米)の値段が決まってから「下り船」で大消費地の江戸へと向かう。無論復路もある訳で、帰り船は黒潮の分流に乗って能登くらいまではスイスイ行けたはずだ。
「越」の国。古来より継体天皇が出てくる等、大国だったと思われるが越前・加賀・越中・越後と広すぎるのでパスすると、その先はまぁ東北となる。
このルートで行くと出雲発祥の出雲弁が東北方言の一つのルーツと言うのもあまり無理筋ではないと考えた。大国主命が国を譲ってしまった後、その一門は天孫族の目をかすめて海路北を目指す。その一部が信濃に辿り着いて諏訪神社を造営し、別の一団は更に日本海沿いを進む。なかなかイケるのではないか。盛岡在住の作家高橋克彦氏によると、青森を中心に東北ではやたらと大国主命が祭られているそうで、見方を変えると一族は東北に逃げ込んだと考えられなくも無い。
源義経の生存北上伝説が知られているように、政治的にマズくなると北に逃げ込むというのは、中央の統制が利きにくかったからだろう。そう思って平家と物部氏に狙いをつけてみたら、あった。確かそうなところをそれぞれ挙げておく。
物部の方は秋田県に唐松(カラマツ)神社というのがあって、宮司は何と物部さんという。しかもそこの『物部文書』というのには、蘇我氏にやられたのでここまで逃げて来たのではなく、先祖神ニギハヤヒが鳥海山に降りたのが始まりで、その後スッタモンダの挙句に物部守屋の子供がこの地に戻って(逃げ帰って)落ち着いたのだ、と。この家系からは物部長穂工学博士や実弟の長鉾陸軍中将も出ていて本物だ。
平家はと言えば能登の輪島に大納言時忠の子供、時国の血をひく時国家という家系が続いていて有名。こちらはかなりの信憑性がある。他にも落人伝説は東北全般にあるそうだ。
蝦夷(えみし)という名称はアイヌ民族説もあるにはあるが、思うに”中央に従わない”あるいは”中央に背を向けた”人々の総称なのではないか。佐藤愛子さんの佐藤家はその中でも特に反抗的な荒蝦夷(あらえみし)の系統だと聞いたが、頷ける。或いは東夷の沙門を自称した今東光大僧正しかり。
しかるに年代的に物部・平家よりも時代の下る出雲こそ、日本のルーツの一方の旗頭に相応しいのではないか。うーん、ロマンを感じるなぁ。
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出雲への誘惑
2014 JUN 3 16:16:18 pm by 西 牟呂雄
千家国麿さんと典子女王様の婚約について、俄かに出雲がクローズアップされた感がありますが、私も以前より強い思い入れがありました。
特に私の興味は『大国主命』一族のその後であります。出雲大社は大国主命を「高く」奉っていることになっています。国津神から天津神への国譲りの神話ですね。高天原から色々と説得をするのですが(実は戦争?)首を立てに振らないために随分と時間をかけて工作します。結果として国は譲られ、お目付け役として以後連綿と天孫族『千家』の御子孫の方々が厚く守っておられる訳です。大国主命の系列はどこへ行ったのか。子息の一人は諏訪に行き諏訪大社の神氏になっていますね。後の諏訪氏で、武田信玄の後取り勝頼は、母親がこの家系ですから当初は諏訪(神)四郎を名乗っています。地方の諏訪神社系はこの国津神の系列でしょう。
又、大国主命は素戔嗚尊(スサノオ)と出雲の櫛名田比売の子孫ですから天孫族と言えなくも無いのに国津神となるのは(何百年か経ってるのでしょうが)何故なのか、やはりこだわりたい所です。
素戔嗚尊(スサノオ)が退治した八岐大蛇の方も、その一派はその後どうなったのか。
たびたび表明していますが、私は環日本海経済圏に期待する者ですし、古代に於いても濃密な交流はあったのでは、と想像して楽しんでいます。
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