Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 旅に出る

台湾旅情(国家なるもの)

2024 NOV 5 0:00:37 am by 西 牟呂雄

 故宮博物館には何度も行ったが、いつも全部見ることはしない。前回は国宝の青磁のみを見た。
 一日かけても全館周ることなどできないのである。展示の前を通り過ぎりだけならできなくはないが、一つ一つの物語につきあっていてはとてもじゃないが無理である。

 今回目を奪われたのはこの碧玉屏風。高さ180cmくらいのブルーサファイアに透かし彫りを施した屏風である。
 それだけでも気が遠くなる程の逸品だがそれでは済まされない。これはしばらくの間、日本の皇室にあったのだ。
 汪兆銘は様々な苦悩の末に蒋介石とたもとを分かち、南京政府を樹立した後に訪日した。その時にこの屏風を持参して昭和天皇に献上したのである。そして戦後に皇室が中華民国に返還したため、我々はここで見られることとなった。美しい屏風を通じて、汪兆銘・昭和天皇と歴史上の巨星の名前を通じ現代史を透かして見ることができる。勿論、その細やかな細部にも驚嘆すべき技が彫り込まれてもいる。
 それにしても、頂いた物を『返す』とは戦後賠償の一環だったのだろうか。大英博物館だろうがルーブルだろうが、政体が変わったところで貰ったにせよかっぱらった(この方が多いだろう)にせよ返還したなど聞いたことがない。本来、正倉院にでも保管しておくのが筋かとも思うのだが、この『返還』の経緯は気になる。陛下御自身の判断か、あるいは日本国の良心なのか。

 と、こういった具合に故事来歴まで辿っていてはとても1日では無理なのがお分かりいただけただろう。
 お次は清朝後期の「雕象牙透花人物套球」。これは細かい象牙細工がつながっているのだが、キモは真ん中の球だ。よく見てほしい。外側の球の中にマトリョーシカのように球があり、その数21個。そして加工後に張り合わせたのではなく1個の球にまず穴を空けそこからL字型のノミを入れて内側から彫り込み細工した物、従って21個は全て回転する仕組みになっている。最深部の球の時は耳かきの様なノミで長い時間をかけて作ったそうだ。
 こういう物は皇帝が命じて作ったのか名人が腕によりをかけて作って売りつけたのか、およそ常人の求めの及ぶとことではない。

 もう一つ。これは個人的に最も気に入った美しい壺だ。写真は光の関係で色合いが違ってしまったようだが実物はもっと黄色い。
 やはり清代の作品だが、この妖しげな光沢はどうであろう。前に立って見ていると引き込まれるなどといった表現では収まらない。
 ここまでくれば『贅沢』とか『浪費』というような下から目線の感情はケチくさくて湧いても来ない。
 因みに黄色は皇帝の色だそうで、皇帝の外衣である龍袍(ロンパオ)は黄色の生地に龍の文様が刺繍されている。
 現在の価値で言えば何千億円もするような嗜好品を作らせるということは、もう国家の意思の範疇と言える。
 我が国でもバブルなどと浮かれている時にはこれぐらいの凄まじい『贅沢』な『浪費』をしたら大変な文化遺産となったことだろう。
 というのも、故宮の後に話のタネに見に行った蒋介石を顕彰する中正紀念堂(記念堂ではない)に露骨な国家の意思を感じたからだ
 

 1975年に蒋介石が死去した後、5年の歳月をかけて建設された巨大なモニュメントで、面積1万5千平米、高さは70m。蒋介石の享年に合わせた89段の階段を登ったフロアに巨大な蒋介石の銅像が大陸に向って座している。
 当時の台湾はまだ貧しく(大陸はもっとだが)民主化もされていなかった時代に、故宮の文物を愛でた国家そのものとも言えるような皇帝の真似でもしたつもりか。そういえば左右の国家戯劇院と国家音楽庁を合わせて眺めてみると紫禁城を連想させる。ついでに銅像のデカさは北の国の指導者の立像の空虚さも感じさせた。これだけのものを作って国威発揚を表現しなくともよかろうに、などという感想はやはり国家の意思とは無縁の庶民のものなのか。 

 夕暮れが近づくと階段の下にフェンスが置かれて人だかりがして来た。儀仗隊による国旗貢納の時間だ。足を踏み出す時に一瞬動きを止める独特の足取りで左右から進んできた。
 儀仗隊の交代というものをアメリカ・ロシア・バチカン・インドで見たことがあるが、それぞれに威厳のあるものであり、この台湾のそれも見劣りはしない。
 一概には言えないが、国家のなりわいは悪にもなりうるが故にしばしば軋轢をおこすのであるが、紡ぎ出した文化は後世に残る。故宮の文物は遥か後にまで人々に愛されるだろうが、巨大銅像は滑稽にすら見える。いや、建造当時のこの国の状況を鑑みれば、むしろいじらしいと思えるのだ。

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台湾旅情(センチメンタル・ジャーニー)

2024 NOV 2 11:11:41 am by 西 牟呂雄

 また台湾・松山空港に降り立った。風が熱い。
 随分と苦労をかけた懐かしい友、しばらく会っていない親戚のおじさん、そんな人に会うような気持で大好きな台湾にやってきた。仕事といえば仕事なんだが、マッそこはヤボ用ってやつで。
 ところですっかり死語となった感のある故安倍総理が提唱した『自由と繁栄のカーヴ』をご記憶か。僕はその頃、毎月のように台湾・フィリピン・マレーシア・インドネシアを飛び回り、その後中国に工場を稼働させてベトナムにも足を延ばしていた。その間にまず米軍がフィリピンの基地を閉鎖し、大陸は台湾沖に大陸からミサイルを打った(もっともそのミサイルは空砲だったのだが)。
 その経験から『自由と繁栄のカーヴ』は日本の産業の海外展開の最前線だという実感があった。まぁその分国内は失われた時間が経過したのだが。
 だが、その後国際関係は比べ物にならないほど変わってしまった。大陸は露骨に食指を伸ばし、ロシアは戦争を始めて日本との関係が悪化し、南北の半島は敵対した。まぁ半島は政権が変われ反日をやるだろうからほっといていいが、台湾有事はほってはおけない。すなわち安全保障上の概念においても『自由と繁栄のカーヴ』が可視化された。日本ー台湾ーフィリピンーマレーシアーインドネシアのラインである。
 岸田総理は最後にいい仕事をして,護衛艦に台湾海峡を通過させた。台湾有事に日本は黙っているわけじゃないことを示し(いや、戦争するわけじゃないですよ)、元々親日の台湾をグッと引き寄せたのだ。僕が足しげく通っていた頃の台湾の印象は、一言で言えば『いじらしい』に尽きる。李登輝という巧みな指導者の元、毅然と大陸に対峙しつつ民主化のプロセスを進めていた。

 先日、中国海軍がぐるりと台湾を囲むような海域で演習をしたばかりだが、街の雰囲気は落ち着いていた。と言うよりはむしろ活気を感じた。下世話な話で恐縮だが、若い女性がキレイだ。以前に比べてファッションが垢抜けたのか、お化粧が上手になったのか。みんな足が長く見えるようなプロポーションを強調するいで立ちで、暑いせいもあるだろうが露出度も大きい。実に健康的で溌溂とした印象。
 ヤボ用(お客さん並びに提携先)の相手も、20年前は『日本の技術を教えてもらう』『日本から買った方が安心する』という感じが前面に出ていたが、今は『もう同じことぐらいはできる』『日本だけに頼らなくとも自分たちでできる』と(露骨に口に出しては言わないが)変わって来た印象だ。
 事実、TSMCはファウンドリーという独自の事業モデルを進化させ日本に逆上陸した。TSMCは半導体上工程だが、下工程の組み立てラインもコスト競争力では世界一である。
 街はきれいになって、昔見かけたスラムなどどこにもない。常宿にしていたリージェント・ホテルの前にあった場所を整理していたが、忽然と鳥居が出現してびっくりした。台湾総督としてこの地で亡くなった明石元二郎陸軍大将台湾総督の墓だと知った。
 単なる印象でしかないものの、勢いが伝わってくる実感があり、一人当たりGDPは日本より上かもしれない。

神様?仏様?

 今回は今までほとんどしたことのない観光もやってみた。
 まずはレトロ・タイペイの商店街。観光スポットらしく人でごった返している。いきなりこのエリアの守り神的な神様だか仏様があったのでお参り。
 おそらくツアー・コースに入っているのだろう。団体の日本人が大勢いて、ほとんどの店で日本語が通じた。自分のためにカラスミを買う。
 他にも食材は沢山あって、ニンニクやら果物が山のように並んでいる。驚いたのは『北海道産』とわざわざ表示してある昆布、これは台湾の人が買うのだろう。

 熱帯魚のような魚を売っていたが、あれは不味いのじゃないかな。
 また、土産物屋ではキンキラの光物とか訳の分からない雑貨を並べていて、一体誰が買うのかと思っていたら日本人観光ツアーで来た若い女性がカエルのおもちゃを買った。どうするのだろう。旅の思い出になるのだろうか。

 現地エージェントに頼んで台北近郊のシーフェン(十分)に電車で行く。
 台北の混雑を抜けると、途端にのどかな田舎になる。元々平地は少ないので、都心からいきなり山梨か千葉の外房あたりに移動する感じだ。
 途中の乗り換え駅では驚くべき標識を見た。

 禁止事項が列挙されているが、右の一番上は何だ。
 わざわざ禁止しているという事はする奴がいるのか。
 まさか日本人じゃないだろうな。
 それとも観光客ではなく、地元では普通のことなのか、理解に苦しむ。

 さて、単線の電車をおりるとシーフェンの街である。やはり山岳地帯なので線路沿いにへばりついた様な商店街があり、そこでランタン(天燈)を飛ばして遊んだ。お土産屋さんからランタンを購入し、その4面に墨で願い事を書く。

飛んだ!

 そうして持ち上げていると店の人が下にぶら下げた燃料(良く分からなかった)に着火するとフワリと舞い上がる代物だ。
 僕は一人なので他の日本人のお客さんに混ぜてもらった。皆さん諺とかこの地で見つけた標語のような漢文を書いたりしている。隣の人は『仲良きことは良き哉』などと格調高かったが、自分の番が来たら反射的に『金』と書いてしまった。ウッ・・・・情けない。
 そして単線の線路に持って行って(道が狭くて飛ばせない)火を付けてもらうと。ランタンは少し上がったところで横風に流されて遠くの谷間の方に漂って行き見えなくなった。夜だったらさぞきれいだろう。やれやれ、やっぱりカネには縁が無いのか。
 別のランタンは強風に煽られて民家の二階で燃えていたが、このあたりの人は慣れているのか騒ぎにはならなかった。

(この項続く)

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渚のいざない 海へ

2024 MAR 20 0:00:28 am by 西 牟呂雄

 

 インドからやっと帰ってきて、色々あったので海の基地まで出かけた。
 垢落しというか骨休めというか、何とも精神的にグッタリして海が無性に見たくなったからだ。
 ここは私のお気に入りの浜で、朝から晩までサーファーが練習している。
 そしてこの岬を回ったところに満潮時には隠れてしまう秘密のビーチがある。一人で引き潮の時に寝そべっているうちに満ちてきていきなり胸まで波を被って慌てたこともある。チョット危なかった。
 実は大いに落ち込んでいて、機嫌が悪いのである。不愉快なのだ。そしてどうしようもないことも分かっている。
 私は鬱病になる体質ではないので、この気分をもっとも正確に表すのは『悪い予感がする』か。
 こんな時は海を見ているに限る。
 普段であればハーバーで船を出すのだろうが、それも億劫なので始末に悪い。

潮溜まり

 引いた後の潮だまりはまるで小宇宙。貝だのイゾギンチャクがいる箱庭のようでかわいらしい。今回は小魚はいなかった。
 個々の生き物はこの小さい世界が自分たちのテリトリーだと信じ、満足し、必死に生きているかと思えば、私たちの知り得る無限の宇宙と同じだ。まぁイソギンチャクはモノを考えないかもしれないが。

年輪か

 そしてこの潮溜まりのある巨岩の表面に描かれた年輪のような模様に目を奪われた。
 表面はザラザラしているが、このキメの細かい線が柔らかい滑らかさを演出しており、恐らく石英が層を成した砂岩と思われる。
 幻想的な模様を刻んだこの岩を波が長い年月をかけて『滑らか』に磨いたのだろうか。
 その気の遠くなるような時間を思えば、現在その美しさに息を飲んでいる自分は冗談のような存在に思えて来る。
 特に、現時点の『悪い予感』に苛まれている身としてはね。

 この晩は良く晴れた月夜で、潮は上がって来ていた。
 不安定な心持のまま、人っ子一人いないビーチに出た。何故か星の輝きは記憶にない。泥酔していたからだ。
 昼間見た砂岩を眺めたくなってフラフラとビーチを歩いていたところで何かに吸い込まれるように転倒した。
 そこからは顔がヒリヒリしたという記憶のみが残った。
 翌日鏡をみてゾッとする。顔に大きな痣。それも、柔らかい砂浜にめり込んでできるような甘いもんじゃない。コンクリートでこすったような立派な怪我で腫れている。あの『悪い予感』はこのことだったのだろうか。
 いや、いくら何でもそれはない。なぜなら『悪い予感』はまだ続いているのだから。
 そこで再びあの砂岩のところまで行ってみた。やはり・・・・。私の煙草の箱が落ちている。小さな石段があってそれに気付かずによろけたに違いない。

謎の洞窟

 フト見上げると崖の中腹に妙な凹みが見えた。
 波の浸食によるものか、と登って行くと(夕べの事もあり多少恐怖感があった)明らかに人工的な掘削の跡である。
 這いつくばらないと奥までいけないのだが、例の『悪い予感』のせいで進む気になれず、入り口の所で座って海を見ていた。
 そもそもなんでこんな洞窟の掘削跡があるのか意味不明であるが、雨風くらいはしのげそうで寒くなければ寝泊りもできそうだった。1時間もいただろうか。
 すると続いていた『悪い予感』が引いていることに気が付いた。波は規則的に音を立てて寄せてきて、それに呼吸を合わせていた。そして不快感の本質が朧げに分かってくるような気分になったのだ。
 それは過去から将来に続く不整合に対する怒りとでもいうのか、言葉にしにくい感情で、最も近い表現は子供が無意識に持つ『死』という絶対に対する絶望のようなモノかもしれない。この世の神羅万象はことごとく繰り返される『波動』であり、私はただ波の音を聞くことでその『波動』を取り戻したように思えた。
 そろそろ帰りの渋滞が心配になり、顔の傷の痛みもひどくなったあたりでやっと腰を上げることができた。
 またここに来てこうしていたいが、それまで洞窟は誰も手を付けずに残っているだろうか。

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バンコク決死の脱出

2021 JUL 17 3:03:58 am by 西 牟呂雄

 今から四半世紀も前の話。
 あれは蒸し暑いバンコクの旅が終わる日だった。まあ、いつもの事であるがひどいひどい二日酔いで水すら飲めない。そのくせ喉の乾きだけはあるので冷蔵庫のミネラルを飲み干すと次は吐き気、結局戻してしまう。
 いかんいかん、昼過ぎにはアユタヤまで行くのに、もう11時を回ったではないか。
 仕方がなく、ぬるいシャワーを浴び、着替えてロビーに降り同行のドクター・ポテトを待った。この男はクアラルンプール支店長の理学博士で、現在目覚ましい成果を上げている。シンガポールから香港・マニラまで飛び回るフット・ワークから、南方派遣軍司令官・山下奉文の『マレーの虎』をもじった『マレーの猫』と言われていた(ワタシが名付けた)。
 落ち合って外に出た途端、あまりの熱さに汗が背中を流れる。車に乗るとエアコンの効きがすごくて、さっきの汗がつめーたい冷や汗となり、気分が悪くなった。そのまま渋滞にはまること2時間で目的の工業団地についた。が、吐き気は頂点に達し、受付横のトイレに駆け込んだ。
 一般に当時の東南アジアの衛生状況は日本では考えられないくらいに劣悪だったが、躊躇しつつも吐かざるを得なかった。
 次の瞬間、ギョッとした。鮮血がサーッと流れたのだ。
 実は吐血は何回かしていた。が、それとも違う。単純な喀血は結核のように咳とともに肺から飛び散る、胃からくるやつは赤い糸状の血が混じる。それが滝と言えば大袈裟だがドバァーっと流れ落ちる血に我を失った。
 まだ40代で子供も小さいのに、ついにバンコクの薄汚いトイレでくたばるのじゃないだろうな。思わず口を手のひらで押さえた。するとアラ不思議、血は流れ続けるではないか!
 口からではなく鼻の粘膜が切れての大量の出血だった。
 鼻血だったら止まるのは早い。あたふたと処置して何食わぬ顔をして見せたが、ドクター・ポテトは目を丸くして言った。『どうしたんですか。白目がまっ赤ですよ』そりゃそうだろう。鼻の粘膜が切れるほど血が上ったのだから。
 所用を済ませての帰り道、今度は猛烈な痛みが胃のあたりに走った。ズキズキと言うのではなく、よじられるようなひねりの効いた痛みで、プロレスのストマック・クロー(胃袋掴み)を喰った時のような痛さだ。
 このエリアの日本便は真夜中に飛んで翌朝に成田着がメジャーで、バンコクやシンガポールは1泊節約した翌日にも日本で仕事ができるから、みんな良くそれを使っていた。大体フライトまでは飲んだり食ったりして過ごすのだが、それどころじゃない。
 実は僕は20代の若さで急性膵臓炎を発症し、その痛みが体に残っている。そしてこのバンコクの痛みはそれを彷彿とさせる、恐ろしいものであった。その時は40日間入院させられた。もし、再発だったらこの地の劣悪な衛生状態と貧弱な医療体制でどうなってしまうのか。想像しただけで、必ず今日のフライトに乗る決意を固めた。だが苦しい。
 とりあえずドクター・ポテトの投宿するホテルで休ませてもらうことにした。しかし鍵を受け取った後に男二人が一緒にエレベーターに乗る際に、周りのドア・ボーイやオネーチャン達が『あいつ等そういう関係か』という目付きでニタニタしながら見ていて参った。バンコクは実際そういう怪しげな人がやたらといる。
 経験上、この痛みはお湯に浸かるとやわらぐ。そこでバスタブで長いことあったまった。すると今度は喉の渇きが耐え難く、コーラなんぞをガブ飲みしては嘔吐⇒痛みのルーティーンを繰り返した。
 その間ドクター・ポテトは平然と仕事をこなし続け、大丈夫ですかの一言もない。多分、サッサと出ていかないか、ここで死なれたら面倒だ、などと思っていたに違いない。
 そうこうしているうちに少し収まったので空港に行くことにした。早く行ってクラスアップの手続きをし、前の席を確保するためだ。当時は年間20万マイル・カスタマーだったから安いチケットでもいくらでもアップできた。そして万が一のたうち回るようなことに備えて前から座席を倒されないポジションに座らなければ、と考えた。
 空港リムジンに乗って行く私を送るドクター・ポテトの顔には、道中の無事を祈る表情は全くなく、厄介払いができたという満面の笑みが浮かんでいた。
 私の難行苦行はまだ続く。何とか夜半のフライトに乗り込み、シート・ベルトを締めたのはいいが、痛みと共に喉の渇きが襲い掛かる。しかし、ここでがぶ飲みしてひどいことになったら『乗客の中にお医者様はいらっしゃいますでしょうか』とか、最悪『最寄りの空港に緊急着陸いたします』になってしまうかもしれない。それはマズい。
 悶々と苦しんでいた時、あるアイデアが浮かんだ。うがいだ。それも発砲性の飲み物でやれば少しは助かるのではなかろうか。迷わずビールを頼んだ。そしてその缶を以て畿内のトイレに向かいやってみた。おォ!快感だ。危うく飲んでしまいそうになるのを必死にこらえた。
 だが、当たり前だが即効性はあるものの本質的な渇きの解消にはなるわけがない。丸一日水を飲んでいないのだ。結局このテを使う事3度に及び、3時間程経過した。午前4時頃である。
 すると、忽然と痛みが引いているのに気が付いた。なぜか力が湧き上がって来るような体温が上がってきたような。おそるおそる今度はお湯を頼んでそーっとすこしづづ飲んでみた。飲めた!吐かない!どうやら何事もなく成田に着けそうだ。そう安心したらいつの間にか浅い眠りに落ちて、着陸した。ふー。
 スモーカーのやることはただ一つ。ゲートを出て一服付ける、胃にグーッとくるタバコだった。それからどうしたか?もちろんその足で事務所に行き仕事したさ。ドクター・ポテトに無事を伝えたところ『あーよかった、あの部屋で死なれなくて』だって。

 冒頭述べたように、これは今から四半世紀も前の話である。そして今日はと言うと実は断酒中である。目下緊急事態宣言が発布されているが、実はその日に同じ症状が出たのだ。
 折しも近日中にワクチン注射をする。いい機会だから宣言中は断酒することにした(というよりドクター・ストップがかかった)。懲りないというか何と言うか・・・・。

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林森北路(リンシンペィルー)に消えたジョニー 

2021 JAN 1 0:00:38 am by 西 牟呂雄

 早速キャシーに名刺を頼りにアポを取らせて訪ねて行く、台北郊外のウークー地区の雑居ビルだった。
 受付で名乗ると何故か男の秘書らしい者がエレベーターで降りてきて階上の立派な応接に通された。しかし案内してくれた男は浅黒い小柄な、明らかに中華系ではない精悍な男だった。そしてエレベーターを降りたところにもカウンターがあり、そこにも同僚と思われる同じような男が鋭い目付きで立っていた。応接室に行く途中で執務フロアが見えたのだがおよそ台湾人には見えない男達ばかりなのでちょっと違和感を感じた。
 応接に通されお茶が運ばれ、しばらく待っているとドアが開いた。
「オーゥ、懐かしい。何年ぶりだよ。訪ねてくれてシェーシェー。シン・クゥ・ラ(ご苦労様)いきなりの連絡でびっくりしたよ。よくここがわかったね」
 あのジョニー古入の顔だった。
「いや~、噂を聞いて飛んできましたよ。お元気ですか」
「マーマー・フーフー(馬馬虎虎、まあまあだ、くらいの意味)」
 懐かしい会話が弾んだ。
 その後、勤めていた会社から外資系にヘッド・ハンティングされ、数年をアメリカ・で暮らしたそうだ。更に勃興する東南アジアで仕事をしたらしいが、マニラ・シンガポールあたりでは結構ニアミスしていたことがわかって互いに驚いた。
 しばらくしてこちらから切り出した。
「リン・シン・ペイ・ルーではだいぶ活躍されているみたいですが、あんまり目立つとあそこは結構ヤバいところですよ」
 すると敢えてその話をスルーした。
「ところでこのコロナのご時世に一体どうやって入国したんだい。どうせまともにイミグレ通ったわけじゃないだろ」
「(ギクッ)エヘヘヘ、蛇の道はなんとやら。それでなにしてるんですか」
「せっかく来てくれたんだから教えてもいいが、そちらの御婦人は席を外してもらえないか」
「彼女は私のエージェントで秘密は守れますが」
「聞いてしまうとヤバくなるよ。いいのかい」
「あたしはそれじゃ外にいます」
 二人になるとジョニー氏はこう切り出した。
「香港がえらいことになっているのは知ってるよな。国際金融センターのポジションを失いかねない。一番困るのは誰だと思う」
「マフィアとかアジアの金持ちですかね」
「ジェット君もまだまだだな。一番困るのは金融以外にすでに産業競争力のない英国だよ」
「へえ、そうなんですか」
「雨傘運動とか民主化活動がタダでできると思ってるのか。ちゃんとスポンサーはいるのさ」
 ここでジョニー氏はさらに声を潜めた。
「僕はMI6の依頼を受けて動いている。香港はもうエージェントは置けないから台湾から情報を取る。それが仕事だ」
「MI6って!007を操っているようなアレですか」
「シッ、声がでかい。英国人ではもう情報が取れないからな。ガードマンがいただろ、この建物に」
「あの色の黒い連中ですか」
「あれらはMI6が手配しているロイヤル・グルカ・ライフルズ、すなわちグルカ兵のOB達だ」
「グルカ兵って何ですか」

グルカ・ナイフ

「ネパールの山岳民族の傭兵だよ。イギリス陸軍が正式に編成している傭兵。強いぞ」
「本当の話なんですか」
「腰に付けている逆反りのナイフがその証拠だぜ」
「すごいですね」
「MI6は香港の情報を喉から手が出るほど欲しがっている。それも自分達の目の届かないところをな。先に条件を出しておくが年3千万円プラス必要経費全額で香港に行ってくれないか」
「なっ何をやるんですか」
「香港の不動産王、李嘉誠(リ・カーシン)の次男リチャード・リーにインタヴューしてほしい。そしてもう一人、マカオのカジノ王、スタンレー・ホーの娘で歌手のジョシー・ホーに近づけ」

ジョシー・ホ

「そんなんで3千万も貰えるんですか。まさか命がけなんて無理ッス」
「それは心配ない。インタヴューして共産党とうまくやっていけるだろう、という事をにじませた記事をここに送ってくれればいいだけだ。ジョシーは大変な美人だから大ファンだという触れ込みなら接触可能だろう。イザとなればMI6がなんとかしてやる。君は台湾にいたからミンナン語が喋れるだろ」
「カタコトの挨拶だけですよ」
「それがいいんだよ。ここに台湾のパスポートがある」
 出されたパスポートは私の写真の入った物だった。名前は黄欽明、偽造パスポートだ。何でこんなものが用意されているんだろう。
「向こうではこれを使ってくれ。ジェット・ホァンになるんだ。香港の連中は日常広東語だけどインタヴューなんかは英語でやればいい。君はマンダリン(北京語)なんかダメだろうから英語にミンナン語が混じるくらいがちょうどいいんだ。間違っても日本語はダメだぜ。リチャードもジョシーも日本語ができるから」
「これ偽造パスポートですよね」
「当り前じゃないか。君ここには密入国だろ入国の記録がないから正規ルートで出国できないじゃない」
「ですから一度日本に帰って」
「それではこの話はナシだね。3千万をフイにするとは大した余裕だねえ」
「イヤッ、やります。やりますよ」
「別に無理にとは言わないよ。せっかく訪ねてきてくれたから、タマタマいい話があったんでね。実は今週末に高雄(カオシュン)からマカオに出る船があるからそれに乗ってくれ。そこから香港発フリーだ。3千万は日本の口座に振り込むから必要経費はこのアメックスのカードを使ってくれ。黄欽明、ジェット・ホァン名義だ」
「あのー、一つ聞いていいですか」
「なんだい」
「こんなことしてて地元のスー・ハイ・パンは大丈夫なんですか」
「そっちの心配をしてるのか。MI6が付いてるんだよ。紅幇(ホンパン)も青幇(チンパン)も戦前から英国と繋がっている。もっとも現在は実態はないにも等しいがね。戦前はその両方に加えて日本軍も一部はアヘンの流通でしのぎを削っていたから。戦時中の中華系抗日ゲリラなんかみんな英国の手下だったよ」
「あんまり怖いこと言わないでくださいよ」
「君はスー・ハイ・パンと繋がってるつもりなんだろ」
「えっ!・・・まさか」
「ふっふっふ、まぁいいや。よし、話は決まった。飲みに行こう」
「はあ」
「さっきのお嬢さんもつれてリン・シン・ペイ・ルーにでも。あっ、それから李嘉誠(リ・カーシン)は広東語ではレイ・カーセンだからね」

エピローグ

「ジョニーさん、ウチのボス確かに船に乗せました」
「シェーシェー、キャシー。見事に引っ掛かってくれた」
「最初に相談された時はMI6からのオファーとは言わなかったじゃないですか。びっくりしました」
「ヒヒ、あれは全部嘘だよ」
「ウソッ、うそなんですか。だったらを提示したギャラは払わないんですか」
「払うさ。まぁ聞いてくれ。MI6が関心を寄せているのは本当だよ。ただしカネを出したりはしない」
「だけどあのグルカ兵はどうしたんですか」
「キャシーも騙されたか。あれはフィリピンから出稼ぎにきた奴らを集めただけでもういない」
「そんな手の込んだことしたんですか。で、本当のスポンサーは」
「香港の金融機能が失われるとしたらどこがそれに取って代わるか」
「常識的にはシンガポールでしょうね」
「それを阻止するとすれば」
「多少無理筋ですけど東京ですか」
「目下、菅政権は日本の福岡に持ってこようと猛烈なロビー活動をしている」
「福岡!」
「そう。そのために香港の金持ちの動向をぜひ探りたいわけだ」
「だけどウチのボスがオベンチャラ記事を書いたところで関係ないでしょう」
「インテリジェンスの世界は二重・三重底になってる。ジェットの記事はどうせ中国当局に検閲されている。問題はそういった日本向けのインチキ情報に当局やレイ・カーセン、ジョシー・ホーがどう反応するかだよ」
「それを知りたがっている機関とは・・・」
「教えてもいいが条件がある」
「危険度と報酬によりますね」
「必要経費別で年1千万円。私の事務所の後任になってジェット君からの情報を配信してほしい。実はジェット君にも指摘されたんだが台北のスー・ハイ・パンが少し動き出していて私もヤバいんだ」
「潜るんですね」
「ああ。ただし日本には帰らない。林森北路からは姿を消す。南のカオシュンに移動するかな」
「成るほど。うふふ、1年ならやります」
「その後は」
「さあ。それでボスはどうなります」
「そこまでは考えていない。ヤバけりゃあいつのことだから自力で何とかするだろう。どうする」
「受けます。それでどこのオファーで動いてるんですか」
「法務省直轄、公安調査庁だ」
「えっ、政府機関じゃないですか。ジョニーさん。あなた何者なんですか」
「すまない、喋り過ぎた。それじゃそろそろトンズラするので」
「待ってください。カオシュンでもファーレンでもどこにいっても私のネット・ワークには引っ掛かりますから」
「なにっ、どういう意味だ」
「初めに会ったときにあたしの人脈をチェックしたでしょう。その時にヒントは差し上げたじゃないですか」
「あなたが言ったのはSMCという得体のしれないシンクタンクのエージェントだってことだったけど。それがジェット君の組織だと分かったんでおびき寄せる段取りになったと記憶するが」
「それはそうです。でもその前にあたしをナンパしようとしたじゃないですか」
「まぁ、男のたしなみとしてね」
「その時に日本人のおじいさんが割って入って来て名刺を出しましたよね」
「あの、久しぶり、とか言って挨拶した人か。確かNPOホワイト・グループとかいう所の名刺だった」
「あれが私のバックなんです。ジョニーさんは戦後に台湾に上陸した国民党軍に日本人の軍事顧問団がいたのを知ってますか」
「そんなこと知らない」
「パイダンと呼ばれて1960年代まで活動しました。その後も組織は続いています」
「それがどうしたんだい」
「台湾の親日感情がどこからきていると思いますか」
「それは統治が適切だったのと戦後の反国民党意識からじゃないのか」
「違います。あたし達の地下工作と台湾への愛情の賜物なんです。その後台湾でも政権交代は起きましたが、日台を結ぶ工作は継続中ですから。特にジョニーさんがウチのボスをだまくらかして香港に送り込む話は私たちにとっても渡りに船の話でした」
「あたし達ってキミも関わっているのか」
「私はそのパイダンの幹部の娘です。ボスはそんなことも知らずに私をエージェントとして使っているつもりになっていたんですよ」
「パイダンは日本とも繋がっているのか。オレはそんな話は聞いてないぞ」
「あたりまえじゃないですか。そちらは法務省、こっちは元帝国陸軍ですから」
「すると外務省かそれとも防衛省か」
「陸幕第二部別班。旧中野学校の流れです。いいですか、国民党とスー・ハイ・パンはズブズブでした。そのルートも手の内です。ジョニーさんが台湾にいる限り、夜の街でやることは筒抜けなんです。テンムーに良く来ているあの美人はス・ファー・シュンでしょう」
「・・・・」
「ところで台湾から逃げればすぐわかりますからね。ギャラの方は一年間お忘れなく」

結局のところ、誰が誰を雇っているのかわからないまま情報戦が繰り広げられており、世の中にフェイク・ニュースが溢れかえり、人々は真実を知ることもなく怪しげな社会に組み込まれるのである。

おしまい

林森北路(リンシンペイルー)の日本人ジョニー

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林森北路(リンシンペイルー)の日本人ジョニー

2020 DEC 30 1:01:30 am by 西 牟呂雄

 SMC(スーパー・メタリック・クラブ)の台北エージェント、キャシー・アベから連絡があった。
「この頃、林森北路でボスを知っているという日本人が飲み歩いています」
 林森北路とは台湾に駐在した日本人なら誰でも知っている繁華街だ。日本語の看板が並び女性がはべる店があり値段も高い。カラオケも日本の歌が豊富で会話も勿論日本語。若者の姿はほとんどない。私も台湾時代には随分馴染みの店があった。中には怪しげな所もないではない。
 SMCとは体裁はコンサルなのだが顧客は様々、要望も多岐にわたる。砕いていえば情報屋で、もっとはっきり言えば台湾・フィリピンの裏情報を専門に扱う。
 台北やマニラではあまり表には出ない日本人並びに日系人のソサエティが存在していて、結構ヤバい事件も起こる。ほとんどは女の問題と金銭トラブルなのだが、グローバル化に乗って現地法人を作るカタギの企業や関係者には見えにくい。そういった少し危ない話を収集するエージェントを置いて裏の情報として流すのが仕事だ
。 
「なんて奴なんだ、そいつは」
「本名は分かりませんがジョニーと呼ばれているようですよ」
「ジョニー?なんじゃそれ。本当に日本人なのか」
 台湾経済は国内の需要が限られている為(人口2千万)自然と海外に販路を求める。その究極の姿が半導体のファウンドリーと言われる受託生産形態である。設計・開発部門を持たずに大規模受託に特化する産業が大発展している。するとそこのスタッフは難しい現地読みの名前の代わりにニック・ネームをつけて名詞にも表記する。ジェイソン・チェンとかレオ・ファンといった具合だ。
 と言うのも、漢字で表記していると北京語・ミンナン語(台湾語)・広東語ではいちいち発音が違っており若干の混乱を招く場合がある。かの李登輝さんも北京読みではリ・トンフェだが現地語ではリ・タンフイとなる。
 で、現地にいるイカレポンチの日本人もヒューゴ・ヤマダとかハック・サイトウなどと名乗る者も出てくる。ジョニーなどという名乗りはおそらくそのノリで自称したに違いない。
「で、何だってそいつはオレを知ってるんだ。いやそんな話がなんでオマエの耳に入ったんだ」
「ヒューミントに使っている飲み屋のネーチャンから聞きました。なんでも『昔この界隈をウロついていたジェット・ニシムロを知っているが、奴はとんでもない男だった』ってボスの悪口をバラまいているらしいです」
「悪口だと?まあその程度なら構わんよ。何か特徴はないのか」
「カラオケで必ず郷ひろみのお嫁サンバを歌うそうです」
「なんだと、バカみたいな奴だな。シノギは」
「日台合弁の社長だとか」
「よし、ヤバかったら締める」
「了解」
 電話を切って暫し感慨に耽った。あの辺りをうろついていたのはSMCを始めた頃で、今から30年も前の話だ。情報を取るために散々飲み歩いていた。
 当時は大陸が露骨に選挙に介入しようとミサイルをぶっ放したり(海上に向けて)、台湾国内でも国民党と民進党がドロドロの選挙で争ったりしていた。
 さる筋の依頼で、今から考えれば国民党寄りの反大陸カウンター・インテリジェンスを流す仕事を請け負っていた。ところが現地でそういった活動をしているとスー・ハイ・パンと呼ばれる、いってみればヤクザと業務上のバッティングが起こり危なっかしいことこの上ない。ネタは取りづらくなってくるので、残留日本人・日系人のルートや民進党系の人脈を頼ることになった。
 実は戦後の台湾に、日系と推定される人々が数%残っていて苦労しつつも結構なポジションに付いたため情報が取れるのだ。目下香港の情勢がヤバくなってきたので、この台湾ルートは益々貴重なものとなりつつある。将来この情報をもっとも高く買うのはロシアとインドだろう。このあたりの国際感覚は一般には分かりづらいだろうが、両国は中国と国境を接して微妙な緊張関係にあるためだ。そして日本。尖閣列島は台湾も領有権を主張しているのを知る人は少ない。

 キャシーから名前が送られてきた。「ジョニー・古入(Jhonny Furuiri)」
 突如記憶が蘇った。まさか・・・。
 私がカタギの商社勤めをしていたヒラ社員時代に、取り扱っていた材料のメーカーに抜群の切れ者がいた。鮮やかな英語を操り次々と大型案件を捌いていく。まだ30前の若さにもかかわらず、その手腕は図抜けていた。本名古入純一(ふるいりじゅんいち)、なぜか夜の街では通称ジョニーと呼ばれていた。しかも大変なイケメンで、それはそれは女にモテたのだ。あまりのモテぶりに、その流し目からはジョニー・ビームが発せられ、それを浴びた女はそれだけで妊娠するとまで言われた。
 もし、その人であるならば大変なことになる。まず、我々の情報源である林森北路の女達が根こそぎジョニー・ビームを浴び使い物にならなくなったらSMCの活動水準ががっくりと下がる。更に片っ端からなで斬りにしてスー・ハイ・パンに目を付けられれば今度は当人の命まで危ぶまれる。
 いやな予感がして台北に飛ぼうと思ったが、コビット19のおかげで台湾へは目下定期便は飛んでいない。しかもまともに入国すると着いてから2週間は隔離される。仕方が無い、密入国するか。
 長年培ってきた人脈を駆使して与那国島から漁船をチャーターして基隆(キールン)から入る。かの地の役人にはたんまりと握らせているので、何度もこの手で危ない橋を渡ったことはあった。

 港町で佇んでいると時間通りにキャシー・アベが真っ赤なブジョーで乗り付けた。
「ばか、派手な車に乗るなと言っただろう」
「ハ~イ、ボス。こちらで赤は別に派手じゃありません」
 キャシーはダンナと台北で暮らしていたが、すっかり台湾が気に入りご主人が帰国した後もそのまま住み着いている。お子さんも帰国してしまい『主婦の単身赴任』と称していたがヒマに任せて我々のエージェントになった。そして女だてらに林森北路のマンションに暮らし夜な夜な飲み歩いていた。
「その後ジョニー古入はどうしてるんだ」
「それがこの2週間は全く姿を見せなくなりました。女でもできたのかしら」
「有り得る、昔と変わらんな。ただ何だってオレの悪口を言いふらしたのか、そこが引っかかる」
「だけどボスの評判もひどいもんですね。古手のママで『そうそう、その通りの薄情な奴だった』と言ったのがいました」
 まずいことに多少の心当たりはある。しかし30年前の話だ。ということはあの辺の女どもはまだ店にいると言うことか。もういい年だろう。
 かつての常宿フォルモサ・リージェントにチェック・インして夜に備えた。

林森北路

 一眠りしていると携帯が鳴った。
「ボス、食事は済んだんですか。行く時間ですよ」
「なにっ、何時だ、お前どこにいるんだ」
「ロビーです」
「何やってんだ」
「ボスを案内しようと思って来ました。8時廻ってますよ」
 もう8時か。台北の夜は始まったばかりだろうに。しかもキャシーの奴一緒に行くつもりなのか。急いで着替えた。
「これから調査に行く所だぞ。一緒に行くのか」
「何言ってんでっすか。ボスが飲み歩いてた頃とは多少違ってますよ」
 それもそうか。キャシーの車で移動した。
 一軒目は『紫恩』とういう看板の出ている雑居ビルの二階にある店。キャシーがドアを開けると『ハ~イ、キャシー』という声が掛かった。実はここはかつて通った店なのだが、見渡したところ知った顔はいない。
「あら、キャシーさん。きょうはカレシと一緒か」
 店のママがやってきた。何故かボトルを持ってきている。相変わらずのシステムで、今日で言うところの「接待を伴う飲食」丸出しである。
「こちらシャッチョーさん?よろしくね。オンナの子にフルーツもらっていいでしょ」
 やれやれ、これで銀座並みの金をむしり取られるわけだ。
 少し飲んでおもむろに切り出す。
「ところでジョニー古入は来てるかい」
「ウェイ、シャッチョはジョニーの知り合い?そういえばこの頃来ないね」
「そうか。お嫁サンバを歌っていたか」
「そう。良く知ってるね。帰り際に必ず歌ってたよ。ウチの女の子に受けてた」
「何をやっているのか知ってるか」
「メイヨゥ、何かの会社のシャッチョだけどよくしらない」
 この調子でハシゴすると3軒目の店できれいな子が名刺を持っていた。
「それでこのジョニーはどこに住んでんだ」
「テンムーだよ」
 ははぁ、こいつ誘われて行ったことがあるな。相変わらず手の早いことで。

つづく

林森北路(リンシンペィルー)に消えたジョニー 

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台湾旅情 Ⅳ

2019 SEP 12 5:05:27 am by 西 牟呂雄

 インドから帰ってきて直ぐに台湾行きとなった。我ながら忙しい話でヤレヤレとアタッシュケースの中身だけ入れ換えて羽田から飛んだ。だがツラツラ思うに、台湾は20年ぶりだ。時の経つのは早い。
 発展目覚しいと聞く懐かしい台北の街はどうなっているか。はたまた毎晩飲んだくれていた林森北路のネオンは相変わらず賑わっているか。
 僕の知り合いは民進党支持者ばかりなのだが、チョット前まで蔡英文総統の評判は主に経済政策への不満からずいぶん悪かった。
 台湾は各国の大陸への遠慮から国際的には孤立しており、海峡を挟んで振り子のように振れざるを得ない。また、大陸が大発展してしまったためその恩恵にも浴す面もあって舵取りの難しい立場だ。失礼かもしれないが、その苦闘ぶりはいじらしくさえ見えたものだった。
 足繁く通っていた20年前でもそうだったが、その後国民党の総裁馬英九の時代を経て、『ひまわり学生運動』が起こったりと一筋縄ではいかない。
 ちなみに馬英九自身は香港生まれの客家で、客家語も自在なうえ、ハーバード留学経験もあって英語もこなす。地元の連中に言わせると、台湾語(ミンナン語)は聞けたモンじゃないというが。
 その香港の騒乱は台湾人にとって人事ではない、香港が二制度の機能を失えば次はオレ達の番だ、と非常な関心を持って見ている。次の総統選挙はもう来年であるが、香港情勢が攪乱要因となって様相がガラリと変わったようだ。孫正義の盟友でシャープを買収したテリー・ゴーは予備選挙で負けた。
 今日ではかなり洗練されてきているが、かつてはかなり荒っぽい選挙で、あの李登輝さんがシャツの腹部をめくりあげて『鉄砲なんか恐くないぞ』とアジったり、陳水扁さんが銃撃されたこともあった(軽症だった)。
 そしてアメリカ型とでもいうのか、テレビで物凄いネガティヴ・キャンペーンの応酬が繰り広げられる。人懐っこい台湾の古い友人達も闘志を燃やしていた(民進党候補の応援に)。
 話の中で、冗談ともつかないさる悪口があった。某候補のバックについている財界人達は青幇(チンパン)の流れを組むグループで、大陸ともズブズブの関係であり、こんなのが当選したら我々(台湾人)はおろか日本まで食い荒らされてしまうぞ、と言っていたがホンマかいな。
 話はエスカレートして、報道される韓国の文大統領は北に取り込まれてどうしようもない、かつては反共の仲間だった台湾には目もくれない、そのうち高麗連邦になって韓国はなくなってしまうだろう、その時は日本はどうするのだ、更に、今更ホワイト国から外されたとジタバタするのはみっともない、我々(台湾)は初めからホワイト国でも何でもないのに日本との関係がおかしくなったことはない、これ答えようがない。
 いやこの辺で切り上げないとこっちの口も滑りそうでヒヤヒヤした。

三次会の屋台周辺

 閑話休題。
 僕は以前来ていた時には観光をまるでしていない。僅かにウライという町で温泉に入ったぐらいだろうか。
 今回の旅は偶然にもフライトまで半日何もない日が取れた。
 前日、街中の店で3次会までやってしまい、昼まで寝てもまだ時間が余ったので故宮博物館を訪ねた。実は過去2回来たのだが、一度目は陶器を時代順に駆け足で見てヘトヘトになり、二度目は書画でそれをやって力尽きた。
 なにしろ70万もの所蔵品があり、未だに展示されたこともない物も多いと聞いた。清朝の秘蔵品をかっぱらってきた際にドサクサと持ち去って来た訳だから正式な目録のない物が多く、整理できていないと言われている。紫禁城に秘蔵されていた宝物は100万件を超えるが、上海・南京と租界した後に台湾にたどり着いた分である。途中で盗まれたものが時々オークションに出て何十億円の値がつけられるらしい。
 事前に検索すると、青磁の逸品『汝窯青磁無紋水仙盆』が展示されているのでそいつを見に行った。
 あった!

汝窯青磁無紋水仙盆

 かの乾隆帝が愛し「子犬のえさ入れ」「猫のえさ入れ」等と詩に書きつけたとか言われる美しい物がサッと置かれていて撮影自由、まさかレプリカではあるまいな。
 普通の青磁のように釉(うわぐすり)のヒビ(貫入・かんにゅう)が無く、温かさえ感じられる光沢を放っていた。歴代皇帝は優れて文化の保護者でもあったのだ。

快雪時晴帖

 もう一つ、書の展示に書聖、王義之の表示があったので覗いたが、こちらは拓本の写真だった。現物は全て失われており、残っているのは拓本や写しだけなのだ。だから遠慮なくこれもパチリ。
 2点見ただけで満足して帰る、これも贅沢ではないかな。オットそろそろフライトだ。

 外に出ると、何とも珍しい事に青空の下、大粒のスコールが降っている。写真で雨粒の大きさが分かるだろうか。
 暫く続き、しかし雷なぞは聞こえず、大きな水溜りが出来るほど降った。
 台北が別れを惜しんでくれたのだろうか。


 
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台湾旅情 

台湾旅情 Ⅱ

台湾旅情 Ⅲ

韓(から)色の風

2018 SEP 9 14:14:19 pm by 西 牟呂雄

 7月の末、かれこれ20年振りだろうか。夜半の仁川空港に降り立つと、この地もやはり暑い。
 この厄介な国にまた来るとはね。
 空港では「客」だと思わばこその愛想のいい親切な対応は昔と変わらず。タクシーの運転手が声をかけてくれる。
『オゲンキデスカ』『オツカレサマデス』
 今はあまり経済が良くないので尚更なのだろうか。こういう普通の人達が、頭に血が上るととんでもない反日家になり、自国の権力者を引きずり下ろし、セクハラ・パワハラどころではないモンスターになるのを以前から不思議な思いで見て来たのだ。
 ビジネス・マンの時は危険予知でいつも褒め殺しにし、大体うまくやったつもりだが決して油断はするまいと思っていた。これは時として効きすぎて、例の韓国式の宴会などをやった日には『トムセン(あにき)!』と舞い上がられてハグされ、これからどう付き合おうかビビったこともある。こう極端だとそもそも信用していいのかどうか、悪気はないのは分かっている。
 ヒステリックな激しさとややもすれば理不尽な要求はニュースでいやというほど見聞きさせられたから、個人的には『付き合わないのが一番』な国だと思っているが、ヤボ用でチョイと行ってきた。
 今回会った人は、事前に聞いていた話では日本語が喋れるという触れ込み。挨拶した時に名詞に『기시무로 겐』と書き込んでドーダというつもりで渡すと、彼はニコニコしながらホウッと見入っていたが『ニシムロサン、コレデハ 「きしむろ」デス』と言うではないか。『기』を消して『니』と書きなおしてくれた。しまった。昔よく練習していたのだが、使っていなかったせいでいつのまにか間違えて記憶している。ドーダのつもりが恥ずかしい。
 ちなみに、この人の日本語はこれまたひどく難しいのだ。実践で覚えた発音と翻訳ソフトを駆使しているようだが、結果的にうまくコミュニケートできず時間がかかる。
 車で移動すると、渋滞は20年前よりは少しは改善されたかもしれないが相変わらずひどい。ただ運転マナーは随分柔らかくなったように感じた。
 さて、話はスムースに進みお互いに納得感が醸成された。
 だが、コリア・ネゴシエーションはここから始まるのである。
 経験則からだが、この場はこの場で収まっても帰国してからが本番だ。
 そのため、初めから夕食の約束はしなかった。これは私の方の問題だが、飲み潰されてそこで調子に乗って喋った事を忘れる恐れがある。相手はメチャクチャ強い、無論例外はあるが。その場合向こうの記憶には残り始末に負えない。
 ところで先方はキムさんだ。そこで『どこの本貫のキムさんですか』と訊ねると『キメッキム(金海金)です』。この系統は先祖はキム・シュロ(金首露)ということになっている。その話に振ると『良く知ってますね』と相好を崩す、シメシメ。
 金首露は金の卵から生まれたという神話上の王だが王墓もある。治めていたエリアは南部で魏志倭人伝にある狗邪韓国(くやかんこく)とされている。確か直系の宗家も現代まで続いていたのではないか、記憶が定かでない。最近ではこの首露王が応神天皇だというトンデモっぽい本も上梓された。
 そんな訳でサッサと帰国したが、例によって次の日から『話が違う』が始まった。
 今回の場合は原因ははっきりしていて相手の日本語がテキトーすぎたから、従って充分予想ができ、そうこなくっちゃ面白くない。
 更に話の元をたどって行くと、どうやら先方の内部での足の引っ張り合いも絡んでいる、ということが分かってきた。それならこっちはサッサと手を引くか、思案のしどころである。
 韓国は異常な輸出型経済が格差の拡大を広げたところに、現政権の反大企業政策と最低賃金引き上げが悪い方に作用したのか、消費が落ち込み設備投資もはかばかしくないと言う。
 そこへ持って来て米中貿易戦争は、韓国最大の部品輸出先の中国を危うくし、また既に中国に生産工場を移転した企業を直撃する。某韓国メーカーの中国にある大工場に行ったことがあるが、ああいうところは大変になるだろう。

 僕は旅先では花の写メを撮るのが好きなんだが、偶然なのか咲いている花に全く気が付かなかった。この国にもたくさん花が咲いているだろうに。鮮やかなムクゲの花を期待していたが、残念だ。
 で、訪問してから一ヶ月以上モメ続けたまま。今度は先方が話し合いに来日することになってしまった。キムさんは凄くいい奴なので焼肉でも食べに行こう。

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博多にて(打倒ホークス紀行)

2018 FEB 15 21:21:59 pm by 西 牟呂雄

 私用で博多に行って来た。
 無論一晩は旧知のムッシュウ・ナカジマことSMCの仲間である中島さんと水炊きを堪能し、今期パ・リーグの覇権についてオーナー会議を秘密裡に行った。
 しかしどう理屈をコネても我がファイターズは宿敵ホークスに適わないことがはっきりするばかり、投手力が違い過ぎる。
 また、不愉快千番なことにテレビを見ると街ぐるみでホークス投手陣の好調を伝えており、これから戦い続ける気を萎えさせてくれた。
 北海道に行けば清宮フィーバーの報道をしているのだろうが、大谷も谷元も増井もいなくて一体どうしろと言うのか途方に暮れる。

 しかしながら九州の首都とも言うべき福岡の都市の成り立ちは、博多と福岡の区別がつかないよそ者には計り知れない分厚いものだった。地元で言われる『商都・博多』とはあの祇園山笠で有名な櫛田神社を中心にしたJR博多駅辺りまでの東部だけなのだそうだ。
 そして屋台が並ぶ中洲より(本当に川の中州だった)西側の天神からは城跡の廻りの城下町、福岡ということらしい。

大手門

 黒田家の居城・福岡城跡に行ってみると、エリアが細い道に至るまで真っ直ぐに整備されていて屋敷町であったことが良く分かる。
 大手門一帯は東京の丸の内辺りに良く似ていて、まだそんなに高層化していない分昭和の光景をみるようだった。
 ビルも『〇〇九州本社』とか『✖✖西日本支社』という名前で九州の政治・経済の中心である。
 お城の内堀には裁判所が立っており、その横は平和台球場があったところ。あの西鉄ライオンズのフランチャイズだった。ファイターズ(当時は東映フライヤーズだったが)も乱闘を繰り返していた聖地で懐かしい気持ちになった。

行儀良く一列に

 ところで札幌も北海道の首都として九州における福岡のような位置づけなのだが、(関係ないけど)去年のファイターズの体たらくはどうしたことか。こっちは見る影もなく最下位争いなのにホークスは日本一。そして今年も余程の栗山マジックがなければ優勝とは言い難い。
 人口は福岡 156万 札幌 194万。
 ホームゲームの観客数はここ2年 福岡 249万・250万 札幌 200万・200万。ただ福岡の隣接行政市も含めたグレーター・ハカタ・エリアの人口を考えればいい勝負と言っていいだろう。どちらもドームだし。
 おととしの日本一を誰も覚えていてくれない腹いせに、福岡と札幌の都市機能の違いを比較してみよう。
 どちらにも七帝大(北大と九大)、お祭り(祇園山笠と雪祭り)、各国領事館と、極端に文化程度は違わないはずだ。繁華街も中洲に対してすすき野。コンサドーレ札幌にアビスパ福岡。
 札幌が負けているのは相撲興行(九州場所)や歌舞伎小屋(博多座)、そして城跡。
 福岡はタモリ・武田鉄也を出しているが、こっちには(って私は札幌出身でも在住でもないが)不滅の中島みゆきがいる。
 いや待てよ、内陸都市の札幌には港がないな。

 しかしながらファイターズの不振を比較都市論で考察するのは無理があるという当たり前のことに気が付いた。そうでなければメガ・都市である巨人や阪神、ロッテあたりが毎年優勝しなければならないではないか(DENAはCSのまぐれ勝ち)。
 まぁキャンプも始まっているし投手不足を埋める秘策を、と帰りの車中(新幹線の長旅)で手に取った月刊誌を見た途端にとんでもない記事を見て怒り狂った。
 『ホークスは十連覇を目指す』ふっふざけるな。
 工藤監督のインタヴューを起こした記事で、正確には「王会長や球団が望んでいるのは巨人のV9を超える十連覇です」という他愛もない話だがそうはいかない。
 テメー、一昨年はあんなに継投が下手で散々試合を落としたくせに冗談じゃねえ。達川ヘッド・コーチのおかげだと白状してるのはいいとして、それじゃあと十年ファイターズは優勝できないとでもぬかすのか、上等だ。
 (影の)オーナーであるムッシュウ・ナカジマには恨みはないが、こうなったら秘策中の秘策を繰り出して目に物みせてくれる。

プロ野球3オーナー極秘鼎談

2016プロ野球 3強チーム影のオーナー鼎談(極秘)

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伊豆の下田に 本年初航海

2017 JAN 23 22:22:50 pm by 西 牟呂雄

 知り合いのヨットに乗せて貰って下田まで。沼津から熱海まで来ていた船が帰路下田で一泊するから付き合わないか、というのでイソイソと行ってきた。
 ベテラン・クルーが7人もいたのでゲストの僕は何もやらなくていい。それで寒いから焼酎のお湯割りをガバガバ飲んだところ、朝から酔っ払って途中からキャビンで熟睡してしまった。クルージングも何もない。風は前日の雪まがいの荒天が嘘のように晴れ上がって風もない。
 通常この航路は伊豆半島と大島の間で複雑な海流の流れが入り組み、また打ち付けた波の反射でやっかいな三角波が起きるのだがこの日は楽だった(といっても寝ていたのだが)。
 伊豆半島は地図上もギザギザだが、海の中もあまり陸の近くをいくわけにはいかない。伊東でかつて海底噴火があったこともある。従ってあのデカい大島の外側を回ってから利島の先をかわして下田を目指す。
 河口のハーバーに入港した時はまだ日が高かった。その日は銭湯(温泉)にジャブジャブ浸かって更に飲んだ。
 
 で、翌日はというと物凄い風でズーッと沖の方まで白波が立っていて、さすがのクルーも出港するかどうか迷っていたが結局行ってしまった。神子元島は船の難所で有名なのだが、まァ大丈夫だろう。
 考えてみれば下田は入港しても飲みに行くのとお風呂に行く以外上陸したことなんかなかったのでブラッと観光してみようか。
 下田は日米和親条約で函館と共に開港されたが、幕府が黒船にビビって江戸から遠いという理由だけで選ばれたのではない。江戸時代になって廻船輸送が上方から江戸に向かうようになると重要な港として発展した歴史があるのだ。地図を見てもらうとわかるが、遠州灘を突っ切って相模灘に入る丁度境目に当たるのが下田だ。当時の航海技術では遠州灘と風向きが変わるために一気に江戸湾まで向かうのは危険で、下田で風待ちをするのが普通だった。
 回船(定期船)が年貢米や特産品を運ぶようになると必ず下田の御番所の調べを受ける海の関所となり、入り鉄砲・出女を取り締るようになる。出船入船三千艘という賑わいを見せていた。その後御番所が浦賀に移され街は寂れて行くが風待ちの港湾機能は残っており(大島の波浮港は幕末まで港湾機能はない)即ちインフラがあったのだ。了仙寺

 さて、色々大変なことが起こり日米和親条約が結ばれた。了仙寺は条約締結の場となる。この頃は今日のように会議場のようなものはないから、大勢の人を収容できる場所はお寺しかないのだった。
 ペリー二度目の来日で下田にやって来ると下田条約の下アメリカ人は下田の街中を自由に歩きまわれるようになる。つまり初めてアメリカ人が一般の日本人と接触することになったのだ。
 ペリー艦隊はバラバラにやって来て一時函館の測量に入ったりしたので、平均25日最長70日間滞在した。デモンストレーションで上陸した時は大砲四門を揚陸し、将兵とともに軍楽隊まで上陸した。了仙寺境内で演奏をしたというのだが、何を奏でたのだろう。
 米水兵は魚を捕ったり餅つきをしたり、それなりに交流めいたものがあったことが伺える。こういうことに妙味を示すのはまず子供だったろう。
 御番所が浦賀に移って寂れたとはいえ船宿は少し残っていたが、黒船がいて日本の船は寄り付かない。船宿のお茶引きは米兵を引っ張り込んではカモにもしたらしい。通貨は何だったのか、両替機能が完備していなければ、本当に身ぐるみ剥いだのかもしれない。
 その半年後にはすぐさまプチャーチン率いるロシアも開港された下田に来るのだが、実にタイミング悪く安政東海地震が起きて下田は津波をかぶりロシア艦「ディアナ」号が沈没してしまう。半年後にはハリスがやって来て、アメリカ領事館が玉泉寺にできたことを考えると、アメリカにツキがあったのかとも思えてくる。
 ところで船を失ったプチャーチンは地元の船大工を指導し帆船「ヘダ号」を建造して帰国した。ヘダとは西伊豆の戸田のことだろうが、日本の造船技術は大した物である。
 そしてこの時点での国境は千島列島では択捉島と得撫島の間、樺太では国境を設けず日本人とアイヌ人の居住地は日本領とする。これは今後の北方領土交渉の参考になりそうだ、歴史に学びたい。kaigann

 歩き回るのは趣味じゃない。タクシーで『近くの砂浜があるところに行って下さい』と言ったらエッという顔をされたが、10分程走って広い海岸に連れて行ってくれた。
 親切な人で『30分位だったらまた来てあげるよ』とありがたい。
 去年13時間航海して行った神津島が見えたので撮ってみたが、良く写らない。
 きょうは特急踊り子で3時間で家に帰る・・・。

 ところで出港して沼津を目指すはずの船は、あまりの強風に難所の神子元島をかわすことが危険だと判断し、サッサと下田に帰ってきたそうである。

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今はもう秋 港で思ったこと

日向ぼっことなったヨット

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