Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 旅に出る

韓(から)色の風

2018 SEP 9 14:14:19 pm by 西室 建

 7月の末、かれこれ20年振りだろうか。夜半の仁川空港に降り立つと、この地もやはり暑い。
 この厄介な国にまた来るとはね。
 空港では「客」だと思わばこその愛想のいい親切な対応は昔と変わらず。タクシーの運転手が声をかけてくれる。
『オゲンキデスカ』『オツカレサマデス』
 今はあまり経済が良くないので尚更なのだろうか。こういう普通の人達が、頭に血が上るととんでもない反日家になり、自国の権力者を引きずり下ろし、セクハラ・パワハラどころではないモンスターになるのを以前から不思議な思いで見て来たのだ。
 ビジネス・マンの時は危険予知でいつも褒め殺しにし、大体うまくやったつもりだが決して油断はするまいと思っていた。これは時として効きすぎて、例の韓国式の宴会などをやった日には『トムセン(あにき)!』と舞い上がられてハグされ、これからどう付き合おうかビビったこともある。こう極端だとそもそも信用していいのかどうか、悪気はないのは分かっている。
 ヒステリックな激しさとややもすれば理不尽な要求はニュースでいやというほど見聞きさせられたから、個人的には『付き合わないのが一番』な国だと思っているが、ヤボ用でチョイと行ってきた。
 今回会った人は、事前に聞いていた話では日本語が喋れるという触れ込み。挨拶した時に名詞に『기시무로 겐』と書き込んでドーダというつもりで渡すと、彼はニコニコしながらホウッと見入っていたが『ニシムロサン、コレデハ 「きしむろ」デス』と言うではないか。『기』を消して『니』と書きなおしてくれた。しまった。昔よく練習していたのだが、使っていなかったせいでいつのまにか間違えて記憶している。ドーダのつもりが恥ずかしい。
 ちなみに、この人の日本語はこれまたひどく難しいのだ。実践で覚えた発音と翻訳ソフトを駆使しているようだが、結果的にうまくコミュニケートできず時間がかかる。
 車で移動すると、渋滞は20年前よりは少しは改善されたかもしれないが相変わらずひどい。ただ運転マナーは随分柔らかくなったように感じた。
 さて、話はスムースに進みお互いに納得感が醸成された。
 だが、コリア・ネゴシエーションはここから始まるのである。
 経験則からだが、この場はこの場で収まっても帰国してからが本番だ。
 そのため、初めから夕食の約束はしなかった。これは私の方の問題だが、飲み潰されてそこで調子に乗って喋った事を忘れる恐れがある。相手はメチャクチャ強い、無論例外はあるが。その場合向こうの記憶には残り始末に負えない。
 ところで先方はキムさんだ。そこで『どこの本貫のキムさんですか』と訊ねると『キメッキム(金海金)です』。この系統は先祖はキム・シュロ(金首露)ということになっている。その話に振ると『良く知ってますね』と相好を崩す、シメシメ。
 金首露は金の卵から生まれたという神話上の王だが王墓もある。治めていたエリアは南部で魏志倭人伝にある狗邪韓国(くやかんこく)とされている。確か直系の宗家も現代まで続いていたのではないか、記憶が定かでない。最近ではこの首露王が応神天皇だというトンデモっぽい本も上梓された。
 そんな訳でサッサと帰国したが、例によって次の日から『話が違う』が始まった。
 今回の場合は原因ははっきりしていて相手の日本語がテキトーすぎたから、従って充分予想ができ、そうこなくっちゃ面白くない。
 更に話の元をたどって行くと、どうやら先方の内部での足の引っ張り合いも絡んでいる、ということが分かってきた。それならこっちはサッサと手を引くか、思案のしどころである。
 韓国は異常な輸出型経済が格差の拡大を広げたところに、現政権の反大企業政策と最低賃金引き上げが悪い方に作用したのか、消費が落ち込み設備投資もはかばかしくないと言う。
 そこへ持って来て米中貿易戦争は、韓国最大の部品輸出先の中国を危うくし、また既に中国に生産工場を移転した企業を直撃する。某韓国メーカーの中国にある大工場に行ったことがあるが、ああいうところは大変になるだろう。

 僕は旅先では花の写メを撮るのが好きなんだが、偶然なのか咲いている花に全く気が付かなかった。この国にもたくさん花が咲いているだろうに。鮮やかなムクゲの花を期待していたが、残念だ。
 で、訪問してから一ヶ月以上モメ続けたまま。今度は先方が話し合いに来日することになってしまった。キムさんは凄くいい奴なので焼肉でも食べに行こう。

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博多にて(打倒ホークス紀行)

2018 FEB 15 21:21:59 pm by 西室 建

 私用で博多に行って来た。
 無論一晩は旧知のムッシュウ・ナカジマことSMCの仲間である中島さんと水炊きを堪能し、今期パ・リーグの覇権についてオーナー会議を秘密裡に行った。
 しかしどう理屈をコネても我がファイターズは宿敵ホークスに適わないことがはっきりするばかり、投手力が違い過ぎる。
 また、不愉快千番なことにテレビを見ると街ぐるみでホークス投手陣の好調を伝えており、これから戦い続ける気を萎えさせてくれた。
 北海道に行けば清宮フィーバーの報道をしているのだろうが、大谷も谷元も増井もいなくて一体どうしろと言うのか途方に暮れる。

 しかしながら九州の首都とも言うべき福岡の都市の成り立ちは、博多と福岡の区別がつかないよそ者には計り知れない分厚いものだった。地元で言われる『商都・博多』とはあの祇園山笠で有名な櫛田神社を中心にしたJR博多駅辺りまでの東部だけなのだそうだ。
 そして屋台が並ぶ中洲より(本当に川の中州だった)西側の天神からは城跡の廻りの城下町、福岡ということらしい。

大手門

 黒田家の居城・福岡城跡に行ってみると、エリアが細い道に至るまで真っ直ぐに整備されていて屋敷町であったことが良く分かる。
 大手門一帯は東京の丸の内辺りに良く似ていて、まだそんなに高層化していない分昭和の光景をみるようだった。
 ビルも『〇〇九州本社』とか『✖✖西日本支社』という名前で九州の政治・経済の中心である。
 お城の内堀には裁判所が立っており、その横は平和台球場があったところ。あの西鉄ライオンズのフランチャイズだった。ファイターズ(当時は東映フライヤーズだったが)も乱闘を繰り返していた聖地で懐かしい気持ちになった。

行儀良く一列に

 ところで札幌も北海道の首都として九州における福岡のような位置づけなのだが、(関係ないけど)去年のファイターズの体たらくはどうしたことか。こっちは見る影もなく最下位争いなのにホークスは日本一。そして今年も余程の栗山マジックがなければ優勝とは言い難い。
 人口は福岡 156万 札幌 194万。
 ホームゲームの観客数はここ2年 福岡 249万・250万 札幌 200万・200万。ただ福岡の隣接行政市も含めたグレーター・ハカタ・エリアの人口を考えればいい勝負と言っていいだろう。どちらもドームだし。
 おととしの日本一を誰も覚えていてくれない腹いせに、福岡と札幌の都市機能の違いを比較してみよう。
 どちらにも七帝大(北大と九大)、お祭り(祇園山笠と雪祭り)、各国領事館と、極端に文化程度は違わないはずだ。繁華街も中洲に対してすすき野。コンサドーレ札幌にアビスパ福岡。
 札幌が負けているのは相撲興行(九州場所)や歌舞伎小屋(博多座)、そして城跡。
 福岡はタモリ・武田鉄也を出しているが、こっちには(って私は札幌出身でも在住でもないが)不滅の中島みゆきがいる。
 いや待てよ、内陸都市の札幌には港がないな。

 しかしながらファイターズの不振を比較都市論で考察するのは無理があるという当たり前のことに気が付いた。そうでなければメガ・都市である巨人や阪神、ロッテあたりが毎年優勝しなければならないではないか(DENAはCSのまぐれ勝ち)。
 まぁキャンプも始まっているし投手不足を埋める秘策を、と帰りの車中(新幹線の長旅)で手に取った月刊誌を見た途端にとんでもない記事を見て怒り狂った。
 『ホークスは十連覇を目指す』ふっふざけるな。
 工藤監督のインタヴューを起こした記事で、正確には「王会長や球団が望んでいるのは巨人のV9を超える十連覇です」という他愛もない話だがそうはいかない。
 テメー、一昨年はあんなに継投が下手で散々試合を落としたくせに冗談じゃねえ。達川ヘッド・コーチのおかげだと白状してるのはいいとして、それじゃあと十年ファイターズは優勝できないとでもぬかすのか、上等だ。
 (影の)オーナーであるムッシュウ・ナカジマには恨みはないが、こうなったら秘策中の秘策を繰り出して目に物みせてくれる。

プロ野球3オーナー極秘鼎談

2016プロ野球 3強チーム影のオーナー鼎談(極秘)

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伊豆の下田に 本年初航海

2017 JAN 23 22:22:50 pm by 西室 建

 知り合いのヨットに乗せて貰って下田まで。沼津から熱海まで来ていた船が帰路下田で一泊するから付き合わないか、というのでイソイソと行ってきた。
 ベテラン・クルーが7人もいたのでゲストの僕は何もやらなくていい。それで寒いから焼酎のお湯割りをガバガバ飲んだところ、朝から酔っ払って途中からキャビンで熟睡してしまった。クルージングも何もない。風は前日の雪まがいの荒天が嘘のように晴れ上がって風もない。
 通常この航路は伊豆半島と大島の間で複雑な海流の流れが入り組み、また打ち付けた波の反射でやっかいな三角波が起きるのだがこの日は楽だった(といっても寝ていたのだが)。
 伊豆半島は地図上もギザギザだが、海の中もあまり陸の近くをいくわけにはいかない。伊東でかつて海底噴火があったこともある。従ってあのデカい大島の外側を回ってから利島の先をかわして下田を目指す。
 河口のハーバーに入港した時はまだ日が高かった。その日は銭湯(温泉)にジャブジャブ浸かって更に飲んだ。
 
 で、翌日はというと物凄い風でズーッと沖の方まで白波が立っていて、さすがのクルーも出港するかどうか迷っていたが結局行ってしまった。神子元島は船の難所で有名なのだが、まァ大丈夫だろう。
 考えてみれば下田は入港しても飲みに行くのとお風呂に行く以外上陸したことなんかなかったのでブラッと観光してみようか。
 下田は日米和親条約で函館と共に開港されたが、幕府が黒船にビビって江戸から遠いという理由だけで選ばれたのではない。江戸時代になって廻船輸送が上方から江戸に向かうようになると重要な港として発展した歴史があるのだ。地図を見てもらうとわかるが、遠州灘を突っ切って相模灘に入る丁度境目に当たるのが下田だ。当時の航海技術では遠州灘と風向きが変わるために一気に江戸湾まで向かうのは危険で、下田で風待ちをするのが普通だった。
 回船(定期船)が年貢米や特産品を運ぶようになると必ず下田の御番所の調べを受ける海の関所となり、入り鉄砲・出女を取り締るようになる。出船入船三千艘という賑わいを見せていた。その後御番所が浦賀に移され街は寂れて行くが風待ちの港湾機能は残っており(大島の波浮港は幕末まで港湾機能はない)即ちインフラがあったのだ。了仙寺

 さて、色々大変なことが起こり日米和親条約が結ばれた。了仙寺は条約締結の場となる。この頃は今日のように会議場のようなものはないから、大勢の人を収容できる場所はお寺しかないのだった。
 ペリー二度目の来日で下田にやって来ると下田条約の下アメリカ人は下田の街中を自由に歩きまわれるようになる。つまり初めてアメリカ人が一般の日本人と接触することになったのだ。
 ペリー艦隊はバラバラにやって来て一時函館の測量に入ったりしたので、平均25日最長70日間滞在した。デモンストレーションで上陸した時は大砲四門を揚陸し、将兵とともに軍楽隊まで上陸した。了仙寺境内で演奏をしたというのだが、何を奏でたのだろう。
 米水兵は魚を捕ったり餅つきをしたり、それなりに交流めいたものがあったことが伺える。こういうことに妙味を示すのはまず子供だったろう。
 御番所が浦賀に移って寂れたとはいえ船宿は少し残っていたが、黒船がいて日本の船は寄り付かない。船宿のお茶引きは米兵を引っ張り込んではカモにもしたらしい。通貨は何だったのか、両替機能が完備していなければ、本当に身ぐるみ剥いだのかもしれない。
 その半年後にはすぐさまプチャーチン率いるロシアも開港された下田に来るのだが、実にタイミング悪く安政東海地震が起きて下田は津波をかぶりロシア艦「ディアナ」号が沈没してしまう。半年後にはハリスがやって来て、アメリカ領事館が玉泉寺にできたことを考えると、アメリカにツキがあったのかとも思えてくる。
 ところで船を失ったプチャーチンは地元の船大工を指導し帆船「ヘダ号」を建造して帰国した。ヘダとは西伊豆の戸田のことだろうが、日本の造船技術は大した物である。
 そしてこの時点での国境は千島列島では択捉島と得撫島の間、樺太では国境を設けず日本人とアイヌ人の居住地は日本領とする。これは今後の北方領土交渉の参考になりそうだ、歴史に学びたい。kaigann

 歩き回るのは趣味じゃない。タクシーで『近くの砂浜があるところに行って下さい』と言ったらエッという顔をされたが、10分程走って広い海岸に連れて行ってくれた。
 親切な人で『30分位だったらまた来てあげるよ』とありがたい。
 去年13時間航海して行った神津島が見えたので撮ってみたが、良く写らない。
 きょうは特急踊り子で3時間で家に帰る・・・。

 ところで出港して沼津を目指すはずの船は、あまりの強風に難所の神子元島をかわすことが危険だと判断し、サッサと下田に帰ってきたそうである。

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今はもう秋 港で思ったこと

日向ぼっことなったヨット

3分後の世界は見えているのか

2016 DEC 20 8:08:31 am by 西室 建

 新幹線をこのところ頻繁に利用している。
 東京駅の新幹線乗り場に立つと、3分おきに各種『こだま』『ひかり』『のぞみ』が発車・到着し続ける。
 最高時速270kmの猛スピードでひっきりなしにアレだけの車両が行き交っているのだ。俯瞰すれば物凄い密度であの重量が移動していることになるのである。
 乗っていれば車窓の景色はアッという間に後方に飛んでいって、約3分前に別の人が見た光景が目に入る。
 だが、フト気が付いたのだ。それは約3分間の時間にこの線路と自然がそのまま残っている前提に過ぎない、と。
 自然災害がこうハイ・ペースで起きると、なにやら心騒がしい。
 例えば新幹線でいつも見る富士山が本当に大噴火してしまえば、そして大きな火山弾が飛来して3分後に僕の乗った車両を直撃したとすれば、その前に通り過ぎた人と僕の明暗は大きく別れる。
 神戸で東北で熊本であれだけの地震があっても、新幹線の車両ダメージはあれほどの高速運行にしては少ない。とにかく乗客全員が死亡というような参事にはなっていないので極めて高い安全システムが構築されていることは分かる。
 そういう話ではなく、我々の3分先の運命は全く予見できないのだ。
 飛行機に乗れば更に3分後の位置は遠ざかり、不確実性は増すのか。
 実はこの理論はパラドックスがあって、『危機』に近づく確率と『危機』から遠ざかる確率は同じなのだ。そしてそれは取りも直さずジッと其の場所に止まっていても『危機』に合う確立と同じと推定される。
 そうでなければあれだけ世界中を飛行機で飛び回り、新幹線をしょっちゅう乗っている僕自身の生存確率は物凄く低くなっているはずだ。

 それでは宇宙ステーションに長期滞在することはどうか。
 なるほど重力の影響は少なく地震だ津波だという地表の『危機』からは遠いだろう。今の所宇宙空間での事故はないのだが、数が増えるに従って万が一もあるだろう。すると外の空間は真空なのだ。まず助かりっこない。おまけにスピードは地上とはケタ違い。とてものんびりと安全でございとはならない。

 そう考えている間にも最近東北・関東界隈で地震が起きた。要するに自然災害は避けられない。富士山が噴火したら喜寿庵にいればまず助からないだろう。
 即ち未来の予測は確実ではないというのが現実。
 私自身は還暦を越え、5年後10年後のある程度の姿も想像できなくはないが、そんなものはない。それは若い人も赤ちゃんも同じ事で、未来自体が無い物であることは変わらない。

 従って未来予測というものは、経済予測から国際関係の見立てがほとんど当たらないように、やってもしょうがない。あるのは目標値にすぎない。
 だからといってノンベンダラリンとやれないのがオトナの普通の感覚だ(それでテキトーにやる人はどうぞ勝手に)。
 人によってやり方もやる事も違ってくるだろう。

 僕は還暦を過ぎてから面白おかしく暮らすことにしているが、なかなかそうもいかないのだ。
 

矛盾を矛盾と感じるのは常識という感情

 

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秋の関西に足を延ばした 下

2016 NOV 9 19:19:54 pm by 西室 建

 明日香に行ってみようとレンタカーを借りた。
 そして移動して分かったのだが、現在の奈良の中心地である春日大社・東大寺の辺りからは車で一時間以上かかる。奈良盆地は縦に大変長いのである。ほぼ直線に南下して、やや険しい感じに風景が変わった辺りが明日香だった。
 目ぼしい所はと言えば石舞台だろうか。ナビを頼りにソロソロ行くが、道がとても狭い。すると山の中腹に向けて看板が出ていた。登って行くと、出た。%e5%87%ba%e3%81%9f

 ほぼ蘇我馬子のお墓と推定されているが、初めから盛り土されていなかったそうだ。ボランティアの解説によると、馬子の弟に当たる人が造営を始めたところ暗殺されてしまい、工事が中止になった可能性が高いらしい。

中に入れる

中に入れる

 この裏山に石切り場があり、そこからエッサエッサ運んで埋めたり積んだりした。一個70トン程の塊なので大した土木技術だ。当時のこのエリアの人口ではピラミッドに匹敵する工事と言ったら大げさか。
 この入口から中に入ると物凄い重圧感で、まさか落ちてはこないだろうが息苦しくはある。ところどころ日の光が漏れていた。
 しかし石棺などは無いので馬子の死体も埋葬品もどこへいったか分からない。
 それどころか、遥か後世には城郭に使うためにこの巨石を切り出そうとさえした輩もいた。
 考古学も歴史学も尊重されなかった頃は、こんなものはタダの石で利用できるものは利用してしまえ、だったのか。

酒船石

酒船石

 古代の石文化にすっかりマイッて車のナビを入れると、他にも近所にたくさんあることに気が付いた。小判形石造物やら亀形石造物とか記してあったので『酒船石』を見に行く。国の史跡に指定されているのだが、全く観光資源になっておらず案内もなかった。
 幾何的な溝が彫ってあり呪術的なことに使用された気がしなくもないが、構造は至って単純。見れば見るほど面白く、近くに土管・石樋も見つかっと言うからここを何かが流れていた事を想像しているうちに暗くなってきた。
 それにしても誰も来ないし石自体は放りっぱなしにされていて、このままでは風化が進んでしまう。石舞台同様で江戸時代に高取城の石垣用に削ったことも。
 この近くが飛鳥板蓋宮のあった場所だ。皇極天皇の目の前で蘇我入鹿が刺殺される、乙巳の変の舞台である。その後大化の改新となるクーデターだった。それまではその蘇我氏のフランチャイズだった。
 大化の改新によって都は難波宮に遷都され大阪に移ってしまった。

 大和路は 秋くれつつも 人やさし
        まばたき一つ 千五百年 

飛鳥残照

飛鳥残照

 蘇我氏の本拠地ということは、蘇我入鹿が聖徳太子の遺児で従兄弟にあたる山背大兄王を襲撃するとき、100人の兵を斑鳩宮に向かわせたのはここからだったろうか。
 寒くなってきた。もう帰ろう。

秋の関西に足を伸ばした 上


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秋の関西に足を伸ばした 上

2016 NOV 8 0:00:38 am by 西室 建

 気分転換にブラリと旅に出かけて、秋の関西に行って来た。新幹線で京都で降りると七条通りで、その一画に旅館街がある。観光シーズンだからネットでやっと見つけたシケた旅館(それでも明治時代からやってるそうだ)にチェックインして旅装を解いた。テレビ無し四畳半というシャビーな感じ、これで2万円もするとはさすがに京都は凄い。
 例によってメジャーな観光はするつもりはない、紅葉の名所とかね。
京都には何年も前に、その昔爺様が出していた黒紋付の染物屋を訊ねて以来。その時は新撰組にカブれていたので壬生を歩いた。今回は夕闇迫る七条通りでも歩いてみたかった。
 ここのところロクでもないことばかり起きてしまい、東京にいるのがいやになったので新幹線に飛び乗って来たから目的もあてもない。それで鴨川の方にトコトコ歩き出したのだが、外国人の多さに仰天した。白人・黒人・アジア系とゾロゾロ連なるツアー団体からバック・パッカーのようなのまで、果ては長期滞在なのか手ぶらで散策している人など外人だらけだ。通りそのものは地方の大通り風情なのだが、行き交う人々の会話が柔らかい京都弁ではなく外国語なのに辟易して鴨川を渡ったところで路地に入った。まあしかし、あの人数では京都経済に貢献すること大だろうからケチをつける訳にもいくまい。

町屋の中の不気味な料理屋

町屋の中の不気味な料理屋

 暗がりの小路を通ると古い家並みが続く。
 時折玄関の横から裏庭まで覗ける『うなぎの寝床』ぶりの、京町屋という造りの家屋がある。その昔、間口の広さで徴税されたからこのように細長くなったという説を聞いたことがある。裏庭までの通しを『走り庭』と言うそうだ。新撰組に追い回された志士が逃げ込んだのはこういう所なのかな。また、地上げにでも合ったのか相続に失敗したのか細長い長方形の入れにくい駐車場もある。もう疲れたので鴨川の方に戻った。
するとですな、鴨川を渡った大通りに面してラブ・ホテルがあったり、その向かい側は何かの庭園なのか長塀が続いていたり。旅人は珍しければ『これがこの地の風景か』と納得してしまうが、それなりにケッタイな眺めだった。
 その長塀の横を通って行くとどうやら東本願寺の別院、渉成園(しょうせいえん)だとか、フゥーン。
 そして更に行くと古い古い町並みの中にこれまた古い工場のような建物。東京の下町にある工場(こうば)の佇まいに正面に回ると、厳めしいロゴに『かるた 山内任天堂 プンラト』とあった。プンラトはトランプの扁額書き、即ち戦前の新聞の見出しで使われていた一行一文字の右縦書きだ。えっするとこれは今を時めくポケモンのオリジナル製造元である任天堂のことか?もしかして花札とか手本引きはここで造られていた?そういえば社長は山内という人ではあった。

クラシックなロビー

 関西の旅は続く。近鉄奈良線の特急喫煙席で奈良に向かう。こっちはシャビーな京都の旅館とは違って名門奈良ホテルに泊まる。名門ホテルというものはそこに泊まること自体が観光目的化できるようにそれなりに居心地はいい。クラシック・ホテルと呼ばれるカテゴリーがあって、箱根富士屋ホテル・日光金谷ホテル・軽井沢万平ホテル・上高地帝国ホテルを指す。

 天平時代に造られた人工池である名勝猿沢池(大したことないが鳥がいた)を通ってブラブラ行くと、街中に当たり前のように宮内庁の看板が。何事かと怯むと何と開化天皇陵であった。

レプリカかと思ったら動いた怪鳥

レプリカかと思ったら動いた怪鳥

 開化天皇は系譜のみ存在して事績は記されていない欠史八代の最後の天皇で、次の崇神天皇からは陵墓も特定されて実在が有力視されるが、実在については諸説ある。どうやらここも江戸時代には隣のお寺の敷地内だった古墳(ただの小山に見えなくもない)を特定したらしい。日本書紀に「春日率川坂本陵(坂上陵)」古事記では「伊邪河之坂上」と記されているだけである。
 おそらくここに大きな勢力はあったのだろう。そして次の崇神天皇となると例の邪馬台国の時代と文献上被ることになる。
 観光案内の地図を眺めていると明日香は遥かに南だ。これは一筋縄ではいかないな、ともう一泊する事にした(もっと安い宿に変わろう)。

つづく

秋の関西に足を延ばした 下


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犬山城見聞記

2016 JUN 20 5:05:51 am by 西室 建

 先日、チャンスがあったので国宝犬山城を見物に行ってきました。
 木曽川沿いにそびえる威容は別名白帝城と呼ばれ、これは荻生徂徠の命名です。由来は、三国志の劉備が呉に敗れて、逃れて没した白帝城から名付けたようです。現在の姿になったのは尾張藩の家老が入城してからです。そして城主成瀬氏が居城とし、驚いた事に明治期をやり過ごして2004年までその成瀬家の個人所有の城でした。さすがに今では維持・管理のため財団法人の所有となっています。

犬山城天守閣

犬山城天守閣

 この城は元々織田家の支流の砦だったのですが、小牧長久手の戦いの時に歴史の表舞台に立ちます。本能寺の変の後、城主が変わります。そして豊臣・徳川の対立が鮮明になった頃、かつての犬山城主・池田恒興が突如奇襲をかけ当時の織田信雄方から奪い返すのです。すなわち豊臣側に付く。それに対して家康は小牧山に陣を張り、双方にらみ合いになってしまいます。
 その後、豊臣秀次の軍が家康の地元三河に攻撃をかけようとして南尾張の長久手のあたりで激戦が起きますが、戦闘では家康の勝ち。家康は電光石火の読みで長久手の戦場に現れ池田・森の両将を討ち取ってしまう。
 しかしながらも双方決め手を欠いている内に半年あまり。二手に分かれた戦乱は関東・加賀・伊勢・四国とあちこちで始まりながらもとうとう大会戦で決着をつけるには至りませんでした。
 すなわち、扱いは小さいが後の関が原・大阪の陣に至る萌芽とも言うべきものが小牧長久手の戦いと言えないでしょうか。
 そう思って天守閣に登ると、案内板がついていて遥かというよりもすぐ手の届くような感じで小牧山が丘のように見えます。無論当時にこういった城郭はないのですが、恐らくこれくらいの目線で対峙した秀吉は家康の陣を見て何を思ったでしょう。

こんもりしているのが小牧山

こんもりしているのが小牧山

『ワシは犬のように御屋形様に御仕えしてここまでになった。それどころか猿だの禿鼠とまで言われて。それに比べてあやつは御屋形様と固い絆で結ばれた同志のように振舞っておった。ここまで来て今更上前を撥ねられて堪るものか。』
 と闘志を燃やしたのかもしれません。
 二人の名将が対峙した訳ですが、濃尾平野はペタンとしていて一鞭を奮って突撃すればさぞ大会戦になったのでは。なにしろ秀吉は十万人を大阪から率いて来ていたのですから。
 しかし両者は小競り合いをするばかりで激突には至りません。夜襲も行われなかったようです。どうにも解せないのですが、家康はもっと長期的見地に立っていたのかも知れません。小牧城の防御もガッチリかためています。
 この時点では豊臣・徳川の色分けは鮮明ではなく、他地方の状況も不安定。そして関東もまだ小田原に北条が健在でした。急ごしらえの秀吉包囲網ではいかにも心もとない、ここは一つ貸をつくる意味でも講和に持ち込むのが得策、と思案したのでしょう。
 今激突するには時期尚早。秀吉の力は今が盛りで月は満ちればいずれは欠ける、こう判断したならば大局観としては正しく、唸らざるを得ません。

 一旦は和睦はしたものの、その後二年ほどは本格的な講和には至らなかったのです。

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早咲き日本一の桜

2016 FEB 10 21:21:15 pm by 西室 建

早咲き桜

早咲き桜

 二月六日の午後、新年温泉・酒・麻雀・カラオケのデスマッチに行きまして。結果フラフラになってフト目に留まったのがこの桜です。関東地方は雪の予報さえ出ていましたが、この小さな花は何と健気なことでしょう。桜は一斉に咲くと豪華なものですが一輪一輪は可憐な花。
 『早咲き日本一の桜』と案内に書いてありました。ケチを付ける訳ではありませんが、沖縄の緋寒桜(ヒカンザクラ)は咲いてませんでしたかねぇ。本土で、を付けた方が・・・。
 これは河津桜でしょうが、一本で街中にポツンとしているところがカワイイ。

 ところで私は麻雀をあまりやらなくなっていて、今回も『参加しない』と宣言していたにも係らずあの牌の並びに目を奪われてしまい、これをやらない訳にはいかなかった。初めは良かったのですが直ぐに・・・。

 この合宿所は素泊まり料金だけで、カラオケもジャン卓もタダだから”やらなきゃ損だ”の意地汚さが丸出しになって、やれ風呂はドーシタの歌がコーシタのと大騒ぎになり、常に麻雀の面子は入れ代わり、ついに帰るまで一回も温泉に浸からなかった輩もいました(12人中2人も)。
 因みにあまりに頻繁に入れ代わるので半荘での現金決済だからその度に札が飛び交うという下品な振る舞いで顰蹙も買っています。
 メシだけは一緒に食べましたが、そこで驚くべき事実が判明しました。
 平均年齢が65歳を軽く越えるメンバーで、殆どが既に癌をやっていたのです。3回もやった人までいました。誰も死なない・・・。やっていないのは僅かに3人。勢い物凄い会話が飛び交いました。
「なーにー。まだ癌もやってないの?」
「だーめだなー。癌にもなれないの?」
「そんなこっちゃ長生きできないよ。ホラ、もっとガバガバ飲んで。」
 言われて小さくなっているのはワタシと不真面目を絵に描いたようなミスター・カンオケに無敵の麻雀大魔王(さっきタダのリーチを一発ツモドラ3にしてワタシを飛ばした)。いくら何でもこれ以上どうしろとおっしゃるの。
 しかし、不死身の癌オヤジ達も悪運のバカ強さだけで生き延びたわけでもありません。何といっても検査精度の向上と手術の技術的進歩、医薬の発達に他ありません。
 気楽にこんなことを言っているとバチが当たります、ありがたありがたや。

 朝4時まで戦い続けたツワモノ4人。入れ替わる立ち代わりカラオケで12時解散4人。朝からガッチリ食べ再度カラオケ3人。朝飯後に即戦闘開始4人。昼まで死んで昼風呂でやっと生き返った者一人(ワタシ)。

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年末 酔夢譚

年末 酔夢譚

2015 DEC 29 2:02:49 am by 西室 建

 忘年会を精力的にこなしている。バカの一つ覚えのようにビールをガブ飲みしてから焼酎のロックをガンガンやる。が、先日SMCメンバーのハリーさんに連れて行ってもらった都内某所はなかなか味があった。

アルミの急須

アルミの急須

 店主のこだわりらしい。生は置かずに瓶のビールでコップも小さい。狭いお店なのだが6時前にもう一杯で、それから帰るまでズッと満席だった。それも一人で入ってくるオヤジが圧倒的に多く、みんな相席で静かに飲んでいた。
 焼酎もお湯割りしか出さない。暖めた徳利に焼酎が、そしてご覧のチープ感溢れる急須にお湯が入っていて、お猪口にチョビッと焼酎を注ぎお湯割りにする。必然的にチビチビとしか飲めないところが実に良かった。

 さて次は九州まで足を延ばし盟友中島兄を訪ねた。
 因みに僕は九州に行くのに新幹線を使う。それはスモーキング・ゾーンがあり、缶ビールも車内販売されるからだ。従って失礼ながら中島さんにお目にかかった時点で大分酩酊してはいた。
 そして順調に焼酎を空け水炊きをつつき、昨シーズンのホークスVSファイターズの死闘を振り返り互いの健闘をたたえ合った。
 しかしやはりハイライトはSMCメンバーが観戦した対オリックス戦。金子復活のはずがホークスの殺し屋『柳田』にブチ壊されたあの試合だ。同行した中村兄の呆然とした写真が残っている。

 翌日移動してもう一度気合を入れて忘年会へ。そういえば去年もこのパターンで別府酒池地獄に沈んだ。結論から言えば今年はもっとヒドイことになった。近隣の某温泉(恐くて名前を書けない)までわざわざ行き、今時昭和丸出しのドンチャン騒ぎに。しかもカラオケという迷惑なもののお陰で年甲斐もなく暴れた(歌った)。更にここだけの話、オッサン達がプロレスごっこに興じるのは滅多に見られるもんじゃない。IMG_0176

 そうなる前にゆっくり浸かったこの温めの露天風呂は気持よかった。一人で入っていると手足が小さく痙攣するようで物凄く気持ちがいい。
 そこで思ったのだが、人間いや生き物というものは何と緻密にできているのだろう。何億年もかけてモノを考えられるように進化して今日に至り、ニュートリノだの何だのまで熱心に研究する。一方宗教・神学も深くスピリチュアルな領域にまで深め、全く偉大な造形物と言わざるを得ない。
 それがプロレスごっこに枕投げでは・・・。

 この温泉は明治の元勲である品川弥二郎を祀った品川神社の跡らしい。それがどうしたと言われても困るが、この曲ならご存知のはず。

宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの  錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ

 幕末の東征軍がはるばる東海道を攻め上って来た時に行軍で歌われた『トンヤレ節』である。脱衣所にあった説明書きによれば、この日本初の軍歌の作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とか。本当だろうか。
 
 結局何もしていないくせに都合10回近く忘年会をやってしまった。少なからずアチコチにトラブルを持ち込んだ報告が上がり出した。年末年始は少し休もうっと。
 
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早咲き日本一の桜

桶狭間 訪問記

2015 NOV 2 17:17:57 pm by 西室 建

 ひょんな思い付きから桶狭間を見てみたくなり行ってみた。
 といっても正確にどこだか良く分からないのだ。現在の名古屋市緑区のあたりのエリアのようなので、名古屋から車で地図を頼りにチョロっと出かける。

 永禄3年(1560年)今川義元は尾張を目指して西進。5月19日(太陽暦6月12日)明け方の3時頃、今川軍の先鋒松平元康が丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始すると、その知らせを聞いて信長は幸若舞「敦盛」を舞う。史上有名なノブナガが『信長』になったシーンである。そして午前4時には小姓衆を連れて出陣、8時には熱田神社に到着し戦勝祈願を行った。
 10時頃には、信長軍の丸根砦・鷲津砦は陥落、配色濃厚となる。しかし今川本隊が沓掛城を出発し西に進んだのを察知して信長も2000を率いて東南への進軍を開始した。
 正午過ぎ、天の采配か偶然か、視界を妨げるほどの雹が降る。これに紛れて兵を進めていると再び奇跡が起きたか、雨が止む。直後の14時頃、今川本隊の奇襲に突入し刀槍をふるう乱戦を制する。

高根山から有松

高根山から有松

 ざっとこんな経緯だ。現地に行ってみると、名古屋駅近辺はご承知のごとくのっぺりとした濃尾平野。桶狭間と言うのだからそれなりの狭隘な所があるのかと地名を検索しながら行くと、名前こそ『~山』と呼びならわしている所もせいぜい『丘』がいいところ。名鉄の有松駅のあたりが最も窪んでいるようだったがその辺りは宅地化しており、桶狭間の地名はその周りに点在している。国の伝統工芸品にも指定されている有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)という絞り染めの有名な所だ。

1953年の田楽坪

1953年の田楽坪

 田楽坪と言われたエリアが実際に信長軍が突っ込んで今川義元を討ち取った辺りとされ、古戦場公園があった。実際にそこに立ってみても四方の見通しは利いていて、こんなところで奇襲を受けるのかと思った。2000人が突撃してくるのに余程ボヤボヤしていなければ不意打ちを喰らうのは想像し難い。1953年に偶然「駿公墓碣」と彫られた石碑や「桶狭間古戦場」と記された標石が付近の川底から発見されたので、義元終焉の地はどうやらこの辺りのようだ、としたらしい。
 

駿公墓碣

駿公墓碣

 しかしあまり『気』のようなものを感じない。日本史が変わった場所にも関わらず。
 信長軍が通ったと思われる国道一号線・東海道を挟んで反対側になる姥子山とか尾崎山といった地名を辿ってみると妙な池があり、ここだけの話義元公の亡霊が出るというヨタ話があるらしい(出所不明)。

 因みに信長は1534年生まれだが英国の女王エリザベス一世と一つ違いのほぼ同じ年代である。信長が天下布武を高らかに掲げた時点の日本は当時の鉄砲保有数世界一と推定されるが、方や英国も宿敵スペインの無敵艦隊を破り、海洋覇権国家の道を歩みだした頃に当たる。
 英国海軍と言ってもサー・ドレークは半分海賊のようなものだし、信長考案の大安宅船だったら戦闘能力は上ではなかったかと秘かに妄想する。
 当時は倭寇が玄界灘や南シナ海で暴れまわっていたし、陸上の会戦でも当時世界最大の規模で激突した碧蹄館の戦いに於いて明の名将李如松を日本軍が打ち破っている。
 アルマダの海戦はイングランドが勝ったのだが、日本海海戦のように1日で済んだようなものではない。無敵艦隊アルマダ・インピンシブルは200隻、対するイングランド艦隊130隻と多数の艦船が丸一か月以上英国を一周する形で戦われ、イングランドの勝利と言えば勝利だが無敵艦隊も約半数は帰国している。結局スペインの止めを刺すには至っていない。15年近く後、痛み分けのようにロンドン条約が結ばれる。

桶狭間のドングリ

 私は信長の天才を疑う者ではないが、現地を見た限りではかなりギリギリの作戦だった。しかしこの戦いは避けては通れず、例の雹雨が降る中でやっと腹が据わり突撃したのではないだろうか。その後奇襲戦法は二度とやっていない。むしろ『あれはフロック』と以後戒めたところに軍事的才能を感じる。
 桶狭間と思しき場所で戯れに拾ったドングリの写真だが、手慰みに捨てずに転がしている。視界が利かないほど雹が降りしきる中で『この今にしか勝機がない』と奮い立った気分を想いながら。

黄金の首 (紅蓮の炎)  

映画 『花戦さ』


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本能寺の変 以後

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