Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 旅に出る

秋の関西に足を伸ばした 上

2016 NOV 8 0:00:38 am by 西 牟呂雄

 気分転換にブラリと旅に出かけて、秋の関西に行って来た。新幹線で京都で降りると七条通りで、その一画に旅館街がある。観光シーズンだからネットでやっと見つけたシケた旅館(それでも明治時代からやってるそうだ)にチェックインして旅装を解いた。テレビ無し四畳半というシャビーな感じ、これで2万円もするとはさすがに京都は凄い。
 例によってメジャーな観光はするつもりはない、紅葉の名所とかね。
京都には何年も前に、その昔爺様が出していた黒紋付の染物屋を訊ねて以来。その時は新撰組にカブれていたので壬生を歩いた。今回は夕闇迫る七条通りでも歩いてみたかった。
 ここのところロクでもないことばかり起きてしまい、東京にいるのがいやになったので新幹線に飛び乗って来たから目的もあてもない。それで鴨川の方にトコトコ歩き出したのだが、外国人の多さに仰天した。白人・黒人・アジア系とゾロゾロ連なるツアー団体からバック・パッカーのようなのまで、果ては長期滞在なのか手ぶらで散策している人など外人だらけだ。通りそのものは地方の大通り風情なのだが、行き交う人々の会話が柔らかい京都弁ではなく外国語なのに辟易して鴨川を渡ったところで路地に入った。まあしかし、あの人数では京都経済に貢献すること大だろうからケチをつける訳にもいくまい。

町屋の中の不気味な料理屋

町屋の中の不気味な料理屋

 暗がりの小路を通ると古い家並みが続く。
 時折玄関の横から裏庭まで覗ける『うなぎの寝床』ぶりの、京町屋という造りの家屋がある。その昔、間口の広さで徴税されたからこのように細長くなったという説を聞いたことがある。裏庭までの通しを『走り庭』と言うそうだ。新撰組に追い回された志士が逃げ込んだのはこういう所なのかな。また、地上げにでも合ったのか相続に失敗したのか細長い長方形の入れにくい駐車場もある。もう疲れたので鴨川の方に戻った。
するとですな、鴨川を渡った大通りに面してラブ・ホテルがあったり、その向かい側は何かの庭園なのか長塀が続いていたり。旅人は珍しければ『これがこの地の風景か』と納得してしまうが、それなりにケッタイな眺めだった。
 その長塀の横を通って行くとどうやら東本願寺の別院、渉成園(しょうせいえん)だとか、フゥーン。
 そして更に行くと古い古い町並みの中にこれまた古い工場のような建物。東京の下町にある工場(こうば)の佇まいに正面に回ると、厳めしいロゴに『かるた 山内任天堂 プンラト』とあった。プンラトはトランプの扁額書き、即ち戦前の新聞の見出しで使われていた一行一文字の右縦書きだ。えっするとこれは今を時めくポケモンのオリジナル製造元である任天堂のことか?もしかして花札とか手本引きはここで造られていた?そういえば社長は山内という人ではあった。

クラシックなロビー

 関西の旅は続く。近鉄奈良線の特急喫煙席で奈良に向かう。こっちはシャビーな京都の旅館とは違って名門奈良ホテルに泊まる。名門ホテルというものはそこに泊まること自体が観光目的化できるようにそれなりに居心地はいい。クラシック・ホテルと呼ばれるカテゴリーがあって、箱根富士屋ホテル・日光金谷ホテル・軽井沢万平ホテル・上高地帝国ホテルを指す。

 天平時代に造られた人工池である名勝猿沢池(大したことないが鳥がいた)を通ってブラブラ行くと、街中に当たり前のように宮内庁の看板が。何事かと怯むと何と開化天皇陵であった。

レプリカかと思ったら動いた怪鳥

レプリカかと思ったら動いた怪鳥

 開化天皇は系譜のみ存在して事績は記されていない欠史八代の最後の天皇で、次の崇神天皇からは陵墓も特定されて実在が有力視されるが、実在については諸説ある。どうやらここも江戸時代には隣のお寺の敷地内だった古墳(ただの小山に見えなくもない)を特定したらしい。日本書紀に「春日率川坂本陵(坂上陵)」古事記では「伊邪河之坂上」と記されているだけである。
 おそらくここに大きな勢力はあったのだろう。そして次の崇神天皇となると例の邪馬台国の時代と文献上被ることになる。
 観光案内の地図を眺めていると明日香は遥かに南だ。これは一筋縄ではいかないな、ともう一泊する事にした(もっと安い宿に変わろう)。

つづく

秋の関西に足を延ばした 下


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犬山城見聞記

2016 JUN 20 5:05:51 am by 西 牟呂雄

 先日、チャンスがあったので国宝犬山城を見物に行ってきました。
 木曽川沿いにそびえる威容は別名白帝城と呼ばれ、これは荻生徂徠の命名です。由来は、三国志の劉備が呉に敗れて、逃れて没した白帝城から名付けたようです。現在の姿になったのは尾張藩の家老が入城してからです。そして城主成瀬氏が居城とし、驚いた事に明治期をやり過ごして2004年までその成瀬家の個人所有の城でした。さすがに今では維持・管理のため財団法人の所有となっています。

犬山城天守閣

犬山城天守閣

 この城は元々織田家の支流の砦だったのですが、小牧長久手の戦いの時に歴史の表舞台に立ちます。本能寺の変の後、城主が変わります。そして豊臣・徳川の対立が鮮明になった頃、かつての犬山城主・池田恒興が突如奇襲をかけ当時の織田信雄方から奪い返すのです。すなわち豊臣側に付く。それに対して家康は小牧山に陣を張り、双方にらみ合いになってしまいます。
 その後、豊臣秀次の軍が家康の地元三河に攻撃をかけようとして南尾張の長久手のあたりで激戦が起きますが、戦闘では家康の勝ち。家康は電光石火の読みで長久手の戦場に現れ池田・森の両将を討ち取ってしまう。
 しかしながらも双方決め手を欠いている内に半年あまり。二手に分かれた戦乱は関東・加賀・伊勢・四国とあちこちで始まりながらもとうとう大会戦で決着をつけるには至りませんでした。
 すなわち、扱いは小さいが後の関が原・大阪の陣に至る萌芽とも言うべきものが小牧長久手の戦いと言えないでしょうか。
 そう思って天守閣に登ると、案内板がついていて遥かというよりもすぐ手の届くような感じで小牧山が丘のように見えます。無論当時にこういった城郭はないのですが、恐らくこれくらいの目線で対峙した秀吉は家康の陣を見て何を思ったでしょう。

こんもりしているのが小牧山

こんもりしているのが小牧山

『ワシは犬のように御屋形様に御仕えしてここまでになった。それどころか猿だの禿鼠とまで言われて。それに比べてあやつは御屋形様と固い絆で結ばれた同志のように振舞っておった。ここまで来て今更上前を撥ねられて堪るものか。』
 と闘志を燃やしたのかもしれません。
 二人の名将が対峙した訳ですが、濃尾平野はペタンとしていて一鞭を奮って突撃すればさぞ大会戦になったのでは。なにしろ秀吉は十万人を大阪から率いて来ていたのですから。
 しかし両者は小競り合いをするばかりで激突には至りません。夜襲も行われなかったようです。どうにも解せないのですが、家康はもっと長期的見地に立っていたのかも知れません。小牧城の防御もガッチリかためています。
 この時点では豊臣・徳川の色分けは鮮明ではなく、他地方の状況も不安定。そして関東もまだ小田原に北条が健在でした。急ごしらえの秀吉包囲網ではいかにも心もとない、ここは一つ貸をつくる意味でも講和に持ち込むのが得策、と思案したのでしょう。
 今激突するには時期尚早。秀吉の力は今が盛りで月は満ちればいずれは欠ける、こう判断したならば大局観としては正しく、唸らざるを得ません。

 一旦は和睦はしたものの、その後二年ほどは本格的な講和には至らなかったのです。

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早咲き日本一の桜

2016 FEB 10 21:21:15 pm by 西 牟呂雄

早咲き桜

早咲き桜

 二月六日の午後、新年温泉・酒・麻雀・カラオケのデスマッチに行きまして。結果フラフラになってフト目に留まったのがこの桜です。関東地方は雪の予報さえ出ていましたが、この小さな花は何と健気なことでしょう。桜は一斉に咲くと豪華なものですが一輪一輪は可憐な花。
 『早咲き日本一の桜』と案内に書いてありました。ケチを付ける訳ではありませんが、沖縄の緋寒桜(ヒカンザクラ)は咲いてませんでしたかねぇ。本土で、を付けた方が・・・。
 これは河津桜でしょうが、一本で街中にポツンとしているところがカワイイ。

 ところで私は麻雀をあまりやらなくなっていて、今回も『参加しない』と宣言していたにも係らずあの牌の並びに目を奪われてしまい、これをやらない訳にはいかなかった。初めは良かったのですが直ぐに・・・。

 この合宿所は素泊まり料金だけで、カラオケもジャン卓もタダだから”やらなきゃ損だ”の意地汚さが丸出しになって、やれ風呂はドーシタの歌がコーシタのと大騒ぎになり、常に麻雀の面子は入れ代わり、ついに帰るまで一回も温泉に浸からなかった輩もいました(12人中2人も)。
 因みにあまりに頻繁に入れ代わるので半荘での現金決済だからその度に札が飛び交うという下品な振る舞いで顰蹙も買っています。
 メシだけは一緒に食べましたが、そこで驚くべき事実が判明しました。
 平均年齢が65歳を軽く越えるメンバーで、殆どが既に癌をやっていたのです。3回もやった人までいました。誰も死なない・・・。やっていないのは僅かに3人。勢い物凄い会話が飛び交いました。
「なーにー。まだ癌もやってないの?」
「だーめだなー。癌にもなれないの?」
「そんなこっちゃ長生きできないよ。ホラ、もっとガバガバ飲んで。」
 言われて小さくなっているのはワタシと不真面目を絵に描いたようなミスター・カンオケに無敵の麻雀大魔王(さっきタダのリーチを一発ツモドラ3にしてワタシを飛ばした)。いくら何でもこれ以上どうしろとおっしゃるの。
 しかし、不死身の癌オヤジ達も悪運のバカ強さだけで生き延びたわけでもありません。何といっても検査精度の向上と手術の技術的進歩、医薬の発達に他ありません。
 気楽にこんなことを言っているとバチが当たります、ありがたありがたや。

 朝4時まで戦い続けたツワモノ4人。入れ替わる立ち代わりカラオケで12時解散4人。朝からガッチリ食べ再度カラオケ3人。朝飯後に即戦闘開始4人。昼まで死んで昼風呂でやっと生き返った者一人(ワタシ)。

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年末 酔夢譚

年末 酔夢譚

2015 DEC 29 2:02:49 am by 西 牟呂雄

 忘年会を精力的にこなしている。バカの一つ覚えのようにビールをガブ飲みしてから焼酎のロックをガンガンやる。が、先日SMCメンバーのハリーさんに連れて行ってもらった都内某所はなかなか味があった。

アルミの急須

アルミの急須

 店主のこだわりらしい。生は置かずに瓶のビールでコップも小さい。狭いお店なのだが6時前にもう一杯で、それから帰るまでズッと満席だった。それも一人で入ってくるオヤジが圧倒的に多く、みんな相席で静かに飲んでいた。
 焼酎もお湯割りしか出さない。暖めた徳利に焼酎が、そしてご覧のチープ感溢れる急須にお湯が入っていて、お猪口にチョビッと焼酎を注ぎお湯割りにする。必然的にチビチビとしか飲めないところが実に良かった。

 さて次は九州まで足を延ばし盟友中島兄を訪ねた。
 因みに僕は九州に行くのに新幹線を使う。それはスモーキング・ゾーンがあり、缶ビールも車内販売されるからだ。従って失礼ながら中島さんにお目にかかった時点で大分酩酊してはいた。
 そして順調に焼酎を空け水炊きをつつき、昨シーズンのホークスVSファイターズの死闘を振り返り互いの健闘をたたえ合った。
 しかしやはりハイライトはSMCメンバーが観戦した対オリックス戦。金子復活のはずがホークスの殺し屋『柳田』にブチ壊されたあの試合だ。同行した中村兄の呆然とした写真が残っている。

 翌日移動してもう一度気合を入れて忘年会へ。そういえば去年もこのパターンで別府酒池地獄に沈んだ。結論から言えば今年はもっとヒドイことになった。近隣の某温泉(恐くて名前を書けない)までわざわざ行き、今時昭和丸出しのドンチャン騒ぎに。しかもカラオケという迷惑なもののお陰で年甲斐もなく暴れた(歌った)。更にここだけの話、オッサン達がプロレスごっこに興じるのは滅多に見られるもんじゃない。IMG_0176

 そうなる前にゆっくり浸かったこの温めの露天風呂は気持よかった。一人で入っていると手足が小さく痙攣するようで物凄く気持ちがいい。
 そこで思ったのだが、人間いや生き物というものは何と緻密にできているのだろう。何億年もかけてモノを考えられるように進化して今日に至り、ニュートリノだの何だのまで熱心に研究する。一方宗教・神学も深くスピリチュアルな領域にまで深め、全く偉大な造形物と言わざるを得ない。
 それがプロレスごっこに枕投げでは・・・。

 この温泉は明治の元勲である品川弥二郎を祀った品川神社の跡らしい。それがどうしたと言われても困るが、この曲ならご存知のはず。

宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの  錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ

 幕末の東征軍がはるばる東海道を攻め上って来た時に行軍で歌われた『トンヤレ節』である。脱衣所にあった説明書きによれば、この日本初の軍歌の作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とか。本当だろうか。
 
 結局何もしていないくせに都合10回近く忘年会をやってしまった。少なからずアチコチにトラブルを持ち込んだ報告が上がり出した。年末年始は少し休もうっと。
 
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早咲き日本一の桜

桶狭間 訪問記

2015 NOV 2 17:17:57 pm by 西 牟呂雄

 ひょんな思い付きから桶狭間を見てみたくなり行ってみた。
 といっても正確にどこだか良く分からないのだ。現在の名古屋市緑区のあたりのエリアのようなので、名古屋から車で地図を頼りにチョロっと出かける。

 永禄3年(1560年)今川義元は尾張を目指して西進。5月19日(太陽暦6月12日)明け方の3時頃、今川軍の先鋒松平元康が丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始すると、その知らせを聞いて信長は幸若舞「敦盛」を舞う。史上有名なノブナガが『信長』になったシーンである。そして午前4時には小姓衆を連れて出陣、8時には熱田神社に到着し戦勝祈願を行った。
 10時頃には、信長軍の丸根砦・鷲津砦は陥落、配色濃厚となる。しかし今川本隊が沓掛城を出発し西に進んだのを察知して信長も2000を率いて東南への進軍を開始した。
 正午過ぎ、天の采配か偶然か、視界を妨げるほどの雹が降る。これに紛れて兵を進めていると再び奇跡が起きたか、雨が止む。直後の14時頃、今川本隊の奇襲に突入し刀槍をふるう乱戦を制する。

高根山から有松

高根山から有松

 ざっとこんな経緯だ。現地に行ってみると、名古屋駅近辺はご承知のごとくのっぺりとした濃尾平野。桶狭間と言うのだからそれなりの狭隘な所があるのかと地名を検索しながら行くと、名前こそ『~山』と呼びならわしている所もせいぜい『丘』がいいところ。名鉄の有松駅のあたりが最も窪んでいるようだったがその辺りは宅地化しており、桶狭間の地名はその周りに点在している。国の伝統工芸品にも指定されている有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)という絞り染めの有名な所だ。

1953年の田楽坪

1953年の田楽坪

 田楽坪と言われたエリアが実際に信長軍が突っ込んで今川義元を討ち取った辺りとされ、古戦場公園があった。実際にそこに立ってみても四方の見通しは利いていて、こんなところで奇襲を受けるのかと思った。2000人が突撃してくるのに余程ボヤボヤしていなければ不意打ちを喰らうのは想像し難い。1953年に偶然「駿公墓碣」と彫られた石碑や「桶狭間古戦場」と記された標石が付近の川底から発見されたので、義元終焉の地はどうやらこの辺りのようだ、としたらしい。
 

駿公墓碣

駿公墓碣

 しかしあまり『気』のようなものを感じない。日本史が変わった場所にも関わらず。
 信長軍が通ったと思われる国道一号線・東海道を挟んで反対側になる姥子山とか尾崎山といった地名を辿ってみると妙な池があり、ここだけの話義元公の亡霊が出るというヨタ話があるらしい(出所不明)。

 因みに信長は1534年生まれだが英国の女王エリザベス一世と一つ違いのほぼ同じ年代である。信長が天下布武を高らかに掲げた時点の日本は当時の鉄砲保有数世界一と推定されるが、方や英国も宿敵スペインの無敵艦隊を破り、海洋覇権国家の道を歩みだした頃に当たる。
 英国海軍と言ってもサー・ドレークは半分海賊のようなものだし、信長考案の大安宅船だったら戦闘能力は上ではなかったかと秘かに妄想する。
 当時は倭寇が玄界灘や南シナ海で暴れまわっていたし、陸上の会戦でも当時世界最大の規模で激突した碧蹄館の戦いに於いて明の名将李如松を日本軍が打ち破っている。
 アルマダの海戦はイングランドが勝ったのだが、日本海海戦のように1日で済んだようなものではない。無敵艦隊アルマダ・インピンシブルは200隻、対するイングランド艦隊130隻と多数の艦船が丸一か月以上英国を一周する形で戦われ、イングランドの勝利と言えば勝利だが無敵艦隊も約半数は帰国している。結局スペインの止めを刺すには至っていない。15年近く後、痛み分けのようにロンドン条約が結ばれる。

桶狭間のドングリ

 私は信長の天才を疑う者ではないが、現地を見た限りではかなりギリギリの作戦だった。しかしこの戦いは避けては通れず、例の雹雨が降る中でやっと腹が据わり突撃したのではないだろうか。その後奇襲戦法は二度とやっていない。むしろ『あれはフロック』と以後戒めたところに軍事的才能を感じる。
 桶狭間と思しき場所で戯れに拾ったドングリの写真だが、手慰みに捨てずに転がしている。視界が利かないほど雹が降りしきる中で『この今にしか勝機がない』と奮い立った気分を想いながら。

黄金の首 (紅蓮の炎)  

映画 『花戦さ』


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本能寺の変 以後

通り過ぎた国 

2015 SEP 12 20:20:51 pm by 西 牟呂雄

 英国体験は少ない。行ったのは出張、それも泊まったのはエディンバラで翌日はお隣アイルランドのダブリンだった。食事はホテル(名前も忘れた)に付いていたパブで済ませて慌しく通り過ぎた。季節は夏で、それなりに暑かったことを覚えている。ロンドンは乗り換えただけ。
 従って観光もせず、人ともロクに触れ合わず、印象を語る何物も持たない。印象は古い町並みが随分とくすんでいたような、淋しい印象。今はだいぶ違うのかも知れないが、このままスコットランドが独立して首都になったとすれば何となく景気の悪そうな首都になりそうだ。

 エリザベス女王が来日した際の晩餐会で『デューク・エディンバラ アンド アイ、~』と言ったことが記憶に残っているが、これご主人の元ギリシア王族フィリップ・マウントバッテンの公式名称だ、エディンバラ公という訳だ。これはただの爵位で別にエディンバラが領地ということではない。将来は三男のエドワード王子が継ぐらしい。

 私的な旅であればリヴァプールにでも行ってキャバーン・クラブでも覗きたかったが、実に味気ないことに翌日はダブリンに。こっちはもっと暗かった。なぜか黒いTーシャツが流行っていたようで、特に女性は黒ずくめのような恰好だった。パブに行くと変なオヤジととびきりの美人のカップルに絡まれた。いや、正確に言うと構われたくらい。働いていたのが中国人で、そいつの悪口を僕に言い散らす。よく見分けがつくもんだと感心したが『あんたジャパニーズだろ。だから言うけどチャイニーズはねぇ。』といった具合にエンエンと続くのだ。その向こうから”変なオヤジ”がしきりにウィンクして見せる、『コイツ酒癖悪くてな。』と言いたげに。

 さて出国してニューヨークまでアトランティック・オーシャンを一跨ぎ、と思ったらイミグレを通った後にすぐまたイミグレがあってびっくりした。その場でアメリカに入国してしまうのだ。余程の人数が行き来しているのか、ダブリンで入国手続きをしてニューヨークの国内便エリアにランディングさせてしまう。
 ところで昔の一筆書きのチケットをご記憶だろうか。堅いペーパーが長い出張の予約だと手帳のように繋がっていた。従って客毎にどんな旅程なのか直ぐ分かるようになっていた。その時は八泊十日で地球を一周するようなひどい日程だった。そしてバゲージも預けずにアタッシュケース一個の出で立ちを怪しんだらしい。別室に連れて行かれて全ての荷物をチェックされた。『一体最終目的地はどこなんだ。』『何のビジネスだ。』『どうしてコンナに荷物が少ないんだ。』オレはテロリストじゃない!

 実はこの後大西洋を越えてメキシコに行き、再度米国への入国で同じようなトラブルに見舞われている。更に恥を白状すると上海でもマニラでも出国の際に大モメしたことがあったが、それはまた別の機会に・・・。

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ヴェトナムに行ってきた

インドにもいた その2

2015 SEP 8 13:13:39 pm by 西 牟呂雄

 インド人の社長が突然言った。
「明日はゼネストだから工場は稼動できない。」
 その場にいた全員が(僕以外はインド人)エッと驚く。僕が驚くのは当たり前だがインド人までが『まさか』という反応だった。どうも以前からやるかもしれない、と言われていたそうだが結局やることになったとか。
 お陰で予定はメチャクチャになり、現場にも出られず。仕方なく事務所で昼飯でも食おうか、となった。相手先で別の人達とパワー・ランチをするためホーム・メイド・カリーを用意したから一緒にどうだ、と誘ってくれたのだ。いやも何もない。FullSizeRender

 昨日は渋滞で一時間もかかった道が、そのストライキのおかげで10分で着いてしまった。何と学校まで休みになる。
 そして懐かしいとでも言うのか、ツルハシにハンマーの旧ソ連国旗のような旗を持った集団が時折集団で練り歩いていた。聞いた限りではああして見回って、もしスト破りで操業している工場があったら襲撃するとか。紅衛兵じゃあるまいし本当だろうか、確かに食料品のお店以外はシャッターが閉まっていた。

 事務所の横に怪しげな木が立っていた。これ健常者の方には毒々しい赤い花が見えるはずだが、写真に撮ってアップすると私には分からない(おそらく東 兄も全然ダメだろう)。

 その邪悪な花を背にしながらパワー・ランチが始まった。そしてランチの相手はインド海軍のアドミラルなのだった。
 無論我がパートナーは一生懸命接待するのだが、盛り上がりに欠けたまま時間が過ぎた。立食なのである時点でアドミラルと僕の間に真空地帯ができてしまい、何か切り札を出さざるを得なくなった。
『アドミラル、私はネイビーのビッグ・ファンだ。大変センスィティヴな話だが、私の父は1945年にネイヴァル・アカデミー(海軍兵学校)の生徒だった。』
 アドミラルは途端に態度を変えた。
『お父さんはお元気か。あなたもネイビーだったのか。』
 まずいことにブレザーにヨット・クラブのエンブレムを付けていたので、これではセーラーだと誤解されると思い、取ってつけた。
『無論違う。それに今日の日本にネイビーはない。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースだ。』
 読者諸君、その時のインディアン・アドミラルの顔をお伝えできないのが残念だ、こいつは何を言ってるんだという表情になった。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースでは何のことか分からなかったらしく、こう言った。
『ネイビィ イズ ネイビィ』
 それからジャパニーズ・ネイビーのことをやたらと誉めそやし出した。一度訪ねたが素晴らしい、たくさん学ぶことがあった、あの艦船があれば日本は安心だろう、そして・・・・。
『センカクを何とかしろよ。』
 困るんですよ、そういうことをアジア・エリアで聞かれると。仕方なく『あれはマリタイム・セルフ・デフェンス・フォースは相手にしていない。コースト・ガード(海上保安庁)の仕事だ。』と言ってみたがどうも全く通じない。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースは海上自衛隊の正式名称なのだが沿岸警備隊くらいに思われるようだ。
 インド海軍は原子力弾道ミサイル潜水艦や航空母艦を保有する堂々たるブルーウォーター・ネイビー(外洋機動部隊保有海軍)であり、そういう意味では海上自衛隊より格上と言えなくもない。ペルシャ湾の海賊対策では共に警戒に当たる関係でもある。

 先日亡くなった作家の阿川弘之氏は、海軍の短期現役主計出身で海軍関係の著作も多い。ちょっと無理筋かと思われるほどの贔屓の引き倒しめいたコラムもある。
 面接を受けに行って中佐クラスの試験官に『貴様はなぜ海軍を志望したのか。』と聞かれ、『陸軍が嫌いだからであります。』とやったと書いておられる。するとその試験官がニヤリと笑ったそうだが本当だろうか、実際に合格している。しかしこれ、あんまりじゃないか。多少陸軍に失礼かとも思う。
 その阿川大尉の海軍自慢の定番に『フレキシビリティ』がある。そう言えばオヤジのネイヴァル・アカデミーのクラスメイトには医者だの社長だのからデザイナー・作曲家・共産党の元代議士までいる。但し敗戦により解散させられたので様々な道を歩まざるを得なかったからかも知れない。
 不思議な事に作家にはまるで応援団のように海軍出身者がいて、文芸春秋社の池島信平社長を中心に源氏鶏太、阿川弘之、豊田穣(この人は海兵出身)といったお歴々が「海軍の会」をやっていた。池島信平・源氏鶏太両氏は徴兵組でだいぶ年嵩が経ってから水兵(セーラー)に取られたのだが、何故か大変な海軍贔屓。世に『海軍善玉・陸軍悪玉論』がはびこる所以である(この点、陸軍出身の司馬遼太郎あたりが陸軍の悪口を書きまくったせいで損をしたんじゃないだろうか)。

 ちょっと断っておくが、私は安保法制改正には賛成だが戦争絶対反対の平和主義者です。戦争肯定論者では断じてないので、そこんとこよろしく。

 又、海軍同士は国境を越えて一般的に仲が良いことで知られる.ネイヴァル・アカデミーのクラス・メイトが海外に行くと、各国の現役にやたらとチヤホヤされていることは聞いていた。いわゆる登舷礼式を以って迎えられる。
 このインドも海軍はそうなのか。敬礼こそしなかったがアドミラル(良く聞くと技官のようだった)のジャパニーズ・ネイビー礼賛を聞きながら、こういうのも文化の共有と言うのかとフト思った。

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インドにもいた その1

2015 SEP 6 11:11:21 am by 西 牟呂雄

 出発の日は小雨が降っていた。きょうは成田から。ぼんやりと車窓を眺めていると、下町の街並みが随分とマンションだらけになってきていることに気づいた。

ITビル群

ITビル群

 成田から飛び、シンガポールでトランジットして延べ15時間。バンガロール空港に降り立って驚いた、涼しいのである。ドライですね。バンガロールはご存知の通り世界的にネットワークを張っているITの一大集積都市。
 ご覧のビルは全てそういった関連の会社が入っており、24時間世界中と繋がっている。
 但し、このインフラを出資したのはシンガポール政府。タダ同然の土地にインフラ投資をしてベンチャーを育てる、シンガポールが中国・東南アジアでさんざんやったビジネス・モデルだ。ここでもしたたかなインド商人と華僑が鍔競合いをしているかと思うとゾクゾクするような。
 多くのベンチャーがひしめいているが、デキのいい一発屋をグーグルやアップルが月に4~5社程度次々に買収するとか。買収された方も人材はサッサと辞めて次を狙う逞しさ。厖大な設備投資の必要のないソフト産業ならではのスタイルかも知れない。するとインド・華僑の上にアメリカ情報帝国が君臨していることになる。見事なトライアングルと言えよう。日本も食い込まなくては。

 街は巨大で薄汚いのは以前と同じ。調べてみると観光資源はたくさんあるようだが、目に付く所では一番立派なのはサイババが建てた巨大病院くらいなのだ。
 渋滞だらけの幹線道路はマナーも最低。今回は路線バスの後ろに金を払わずに掴まってブラ下がるという離れ業を見たかと思うと、デイ・ワーカー即ち日雇いの建設労働者を満載していたトラックが無理矢理Uターンして事故を起こすのを目撃した。

牛の定時行進

牛の定時行進

 打ちあわせをしていてアッと驚いたのが牛の堂々たる行進。ここは一応インダストリアル・エリアですよ。まぁそれはいいとしても現地のインド人の説明では『あれは5時になったから家に帰る所だ。』には納得がいかない。牛が出勤して時間通りかえるとでも言うのか。折りしも午後5時ピッタリだ。まだ明るいのに牛に時間が分かるのか。もっとも動物の方が体内時間はしっかりしているだろうが。
 街はゴミがバカスカ捨てられ埃が舞い、何をしているのか良く分からない人がウロウロ、そして飼われているわけでもなさそうな犬がアチコチに昼寝。

みすぼらしい犬

 読者は御記憶だろうか。小倉記 春風駘蕩編ならびに小倉記外伝 友よ何処に等、拙ブログ『小倉記』にしばしば登場した日本初でおそらく最後の『工場犬チビ』のことを。
 訪ねた工場の中に入って見た途端、ギョッとした。ちょっとサイズが大きめであるがそっくりな(即ちボロボロにみすぼらしい)犬がいるではないか。インド版工場犬か、思わず話しかけてしまった。
『お前、元気でいたのかい?』
 帰ってきた答えは『ウォン』。しかし良く考えてみればこいつは日本語が分からないのだ。ガード・マンに名前を聞くと、キョトンとされて『そんな犬に名前は無い。』と言う。インドは犬に名前を付けないのか、それともどこかのバカ犬が勝手に住み着いても知ったこっちゃないのか。

 ひょっとすれば又会うことになると思い『ボロ』と名付けてやった。
 

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名古屋だぎゃ (ゼロ戦と秋水)

2015 JUN 23 12:12:37 pm by 西 牟呂雄

 映画『風立ちぬ』でゼロ戦を牛に引かせたシーンがあった。あれは実話で、その場所は名古屋なのだ。そのつもりで何か見るものはないか、と探すとあるわあるわ。そう、ここはゼロ戦発祥の地。正式名称『A6M 零式艦上戦闘機』米軍からは『ZEKE(ジーク)』『ゼロ・ファイター』とも呼ばれた。
 単発単座戦闘機で常識外れの航続距離と空力特性・旋回能力を持つ、日本海軍の技術の粋。将に荒鷲の称号にふさわしい戦闘機だった。
 以下は某社の史料館と現地を訪ねて見た写真である。

通称 時計台

通称 時計台

 例の映画で若き堀越二郎が心血を注いで設計していた場所がこの時計台だ。当時の日本のエンジンはどうしても千馬力程度にしかならず、そのために軽量化のため肉抜き、空気抵抗を減らす沈頭鋲など恐ろしく手の込んだ造りになったのがゼロ戦である。言い尽くされたことであるが、防御の面での問題等は全てここから来ているのだ。更にこの凝ったつくりが工程を増やし能率を上げられない。
 ある意味では奇跡的にゼロ戦が出来てしまったからあの悲劇につながったとも言えなくもない。
 それはともかく、映画にも出てきたこの建物を見て思わず一枚撮った。無論観光客も誰もいない。現役の工場でもあるわけだ。
 ここから牛に引かせて滑走路に運んだ。

 そして、この場所からは10km程北上したところにこの会社の史料室があり、予約をすれば入ることができる。ワクワクしながら手続きをし体育館のようなところに行くと、あった。ゼロ戦52型だ。靖国神社で邂逅し、鹿児島鹿屋海自基地の展示以来、久しぶりのご対面となった。

ゼロ戦52型

ゼロ戦52型

 悲しい話であるが前線撤退の際には機密保持のために爆破せざるを得ず、また敗戦時は武装解除で全てスクラップとなったのだが、わずかに復元されたものもある。ここの展示は南方ヤップ島で破壊されていたものを引き取り、技術者が苦労して復元したものだ。以前はコクピットも覗けたそうだが、心無い大バカが部品を盗ってしまうのでダメになった、残念。
 丁寧に説明して頂いて色々と航空技術の先進性が分かる。
 にもかかわらず、僕の感想は『何といじらしい!』だった。何とか工夫をして弱点を補う技術者魂が、だ。機体の丸い優美な姿に見とれてしまった。

 さらにもう一つ。驚くべき展示もあった。IMG_0084

 右のムクドリのような機体をご存知か。ロケット推進局地迎撃機『秋水』なのだ。ドイツで先に実機化されたが、それは結局日本には持ち込まれず手探り状態で苦労に苦労を重ねて製作されたらしい。
 高度1万メートルから焼夷弾をバラ撒くB-29に止めを刺すべく、まるでロケットのような高角度で上昇、到達まで約3~4分。燃料の制約でわずか数分の戦闘だが必殺の30mm砲でこれを撃破、そこで燃料を使い果たす。驚くなかれ片道燃料なのだ。そしてその後は急降下してスピードを確保すると滑空して着陸。何と帰りはグライダーである。
 その時解説してくれた方はパイロット経験者なのだろうか、まるで神業だと驚く僕に『いや、技術的にはそんなに難しい操縦ではありませんよ。』等と言う。
 更に、翼下に車輪がつけられないため離陸の際には両翼を支えた整備兵が浮力がつくまで全力疾走で押したのだとか、鳥人間コンテストじゃあるまいし。
 しかもこの機の翼は軽量化と省資源のために木製である。説明者が叩くとポクポクと音がした。
 この美しいボディを見ていて、兵器というものは悲しい使命を持って生み出された代物だが、やはり文明の一つの結晶ではあると思う。先の『いじらしい』という感想にも通じるが技術の最先端であり、いい悪いは別として必死の気迫が伝わってくる。結局実戦には間に合わなかったのだ。

 頭が下がるとともに不戦の誓いを噛み締めた。
 もうやらないんだからツベコベ突っかかってくるなよ!

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名古屋だぎゃ (お城と神宮)

2015 JUN 21 18:18:22 pm by 西 牟呂雄

 

天守閣

天守閣

 
 なかなか観光で来ることはない名古屋。仕事で来ていたときも、東京に近すぎるのでちょっと見て歩くようなことをしたことがない。縁があって尾張名古屋にやってきた。他にも観光地はあるのだろうが名古屋シロウトとしては出だし名古屋城に行く。米軍の爆撃を食って炎上したため、天守閣も光り輝く金の鯱(しゃちほこ)も残念ながらレプリカだ。焼失したものは鱗が全て高純度の金で、しばしば盗難にあったことも知られている。しかし正門をくぐって入る時の堀の深さや入場してからの天守閣への経路のディフェンスなど実に考え抜かれており、広さから推定できる収容人員の規模も大きい。戦いには強い名城と思えた。特に天守閣の石垣の高さと傾斜は、名人加藤清正の作品らしく見事なものだった。
 思えば鳥羽伏見の後、東海道を上ってくる官軍に対し守りを固めたこの名城で食い止めた場合は激闘があったかもしれない。ところが尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、逆に王政復古後の混乱期は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった譜代大名を勤皇側へ動かす方へ回る。
 元々将軍家と同格意識があり、異才の藩主七代徳川宗春などは将軍吉宗とことごとく対立して見せた。こういった気風を残した開明派の徳川慶勝が巧みに時代の流れを読んだということだろう。

  熱田神宮にもお参りに、鳥居が直立不動といったシンプルな感じ。
 ここは草薙の剣が御神体。話は古く素戔嗚尊が切り刻んだヤマタノオロチの尾から出た剣だ。それを日本武尊が東征の折りに携行して危機を脱出。ところが伊吹山で身罷ってしまったため、残された宮簀媛命 (みやすひめのみこと)がここに祭った、という複雑な経緯をたどっている。
 
 

 

 従って創建された景行天皇の時代には剣もあったのだろうが、現在は諸説あってよくわからない。どうも御神体の櫃の中に何かはあるようだが見た人はいない。平家が壇ノ浦で滅亡した際に平時子が安徳天皇を抱いて入水した際に腰に差して水没して見つからなかったという記述があるものの、それも本物だったかどうか。
 戯れにガイドの方に『本当はどうなんですか』と聞いてみると『それは気にしなくていい事なんです。我々も見ることはできませんし、宝剣は人の目に晒されただけでもケガれてしまいますから。』と実に明快に不明瞭な説明をされた。

 織田信長は例の桶狭間に行く際はわずか5騎のみを連れ飛び出し、ここ熱田で軍勢が集まるのを待って戦勝祈願した。

信長塀

信長塀

 首尾よく勝利した後寄進した「信長塀」が残っている。現存しているのは120メートル。
 信長と言えば、叡山焼き討ち、長島一向宗殲滅、石山合戦と仏の方は抵抗すると徹底的に弾圧したが、神様は何にも難しいことは言わないから平気で拝んだのだろうか。
 一説には『勝つなら表、負けるなら裏を』と賽銭10枚をバラ撒いたところ全て表が出た、と言う。手の込んだことに表を貼り合わせた細工だったとか。多分嘘だろう。
 しばし、たったの5騎で兵を待っていた織田信長の心境に想いを馳せたが、どうもヤケッパチになったのが実態だったのではないかなァ。もうこれしかない!と頭に血が上るまで戦術を練りながらこの境内にいたのだろう。

 近くに名物『ひつまぶし』の本店があって、午前中に予約を聞いたら午後二時からと言われた。そういうものなのだそうで、その間にお参りをしていた。
 それでその『ひつまぶし』なのだが旨い上にコッテリ感がすごく、二日酔いの胃にはキツかったが確かに旨い!
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 ところで東海道五十三次の四十一番目『宮宿』とはここ熱田のことで、当時の東海道はここから海路桑名宿へ行ってしまい名古屋は通らない。そっちは美濃街道になるのだ。
 そのルートが示すとおり、広い境内の足元まで海になっていたようだ。
 そういえば新幹線も当初は東海道線の方ではなく、四日市ルートで計画されたようだが怪物政治家、大野伴睦の辣腕で岐阜ルートになってしまった。そりゃ票になったでしょうね。

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