Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 旅に出る

桶狭間 訪問記

2015 NOV 2 17:17:57 pm by 西牟呂 憲

 ひょんな思い付きから桶狭間を見てみたくなり行ってみた。
 といっても正確にどこだか良く分からないのだ。現在の名古屋市緑区のあたりのエリアのようなので、名古屋から車で地図を頼りにチョロっと出かける。

 永禄3年(1560年)今川義元は尾張を目指して西進。5月19日(太陽暦6月12日)明け方の3時頃、今川軍の先鋒松平元康が丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始すると、その知らせを聞いて信長は幸若舞「敦盛」を舞う。史上有名なノブナガが『信長』になったシーンである。そして午前4時には小姓衆を連れて出陣、8時には熱田神社に到着し戦勝祈願を行った。
 10時頃には、信長軍の丸根砦・鷲津砦は陥落、配色濃厚となる。しかし今川本隊が沓掛城を出発し西に進んだのを察知して信長も2000を率いて東南への進軍を開始した。
 正午過ぎ、天の采配か偶然か、視界を妨げるほどの雹が降る。これに紛れて兵を進めていると再び奇跡が起きたか、雨が止む。直後の14時頃、今川本隊の奇襲に突入し刀槍をふるう乱戦を制する。

高根山から有松

高根山から有松

 ざっとこんな経緯だ。現地に行ってみると、名古屋駅近辺はご承知のごとくのっぺりとした濃尾平野。桶狭間と言うのだからそれなりの狭隘な所があるのかと地名を検索しながら行くと、名前こそ『~山』と呼びならわしている所もせいぜい『丘』がいいところ。名鉄の有松駅のあたりが最も窪んでいるようだったがその辺りは宅地化しており、桶狭間の地名はその周りに点在している。国の伝統工芸品にも指定されている有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)という絞り染めの有名な所だ。

1953年の田楽坪

1953年の田楽坪

 田楽坪と言われたエリアが実際に信長軍が突っ込んで今川義元を討ち取った辺りとされ、古戦場公園があった。実際にそこに立ってみても四方の見通しは利いていて、こんなところで奇襲を受けるのかと思った。2000人が突撃してくるのに余程ボヤボヤしていなければ不意打ちを喰らうのは想像し難い。1953年に偶然「駿公墓碣」と彫られた石碑や「桶狭間古戦場」と記された標石が付近の川底から発見されたので、義元終焉の地はどうやらこの辺りのようだ、としたらしい。
 

駿公墓碣

駿公墓碣

 しかしあまり『気』のようなものを感じない。日本史が変わった場所にも関わらず。
 信長軍が通ったと思われる国道一号線・東海道を挟んで反対側になる姥子山とか尾崎山といった地名を辿ってみると妙な池があり、ここだけの話義元公の亡霊が出るというヨタ話があるらしい(出所不明)。

 因みに信長は1534年生まれだが英国の女王エリザベス一世と一つ違いのほぼ同じ年代である。信長が天下布武を高らかに掲げた時点の日本は当時の鉄砲保有数世界一と推定されるが、方や英国も宿敵スペインの無敵艦隊を破り、海洋覇権国家の道を歩みだした頃に当たる。
 英国海軍と言ってもサー・ドレークは半分海賊のようなものだし、信長考案の大安宅船だったら戦闘能力は上ではなかったかと秘かに妄想する。
 当時は倭寇が玄界灘や南シナ海で暴れまわっていたし、陸上の会戦でも当時世界最大の規模で激突した碧蹄館の戦いに於いて明の名将李如松を日本軍が打ち破っている。
 アルマダの海戦はイングランドが勝ったのだが、日本海海戦のように1日で済んだようなものではない。無敵艦隊アルマダ・インピンシブルは200隻、対するイングランド艦隊130隻と多数の艦船が丸一か月以上英国を一周する形で戦われ、イングランドの勝利と言えば勝利だが無敵艦隊も約半数は帰国している。結局スペインの止めを刺すには至っていない。15年近く後、痛み分けのようにロンドン条約が結ばれる。

桶狭間のドングリ

 私は信長の天才を疑う者ではないが、現地を見た限りではかなりギリギリの作戦だった。しかしこの戦いは避けては通れず、例の雹雨が降る中でやっと腹が据わり突撃したのではないだろうか。その後奇襲戦法は二度とやっていない。むしろ『あれはフロック』と以後戒めたところに軍事的才能を感じる。
 桶狭間と思しき場所で戯れに拾ったドングリの写真だが、手慰みに捨てずに転がしている。視界が利かないほど雹が降りしきる中で『この今にしか勝機がない』と奮い立った気分を想いながら。

黄金の首 (紅蓮の炎)  

映画 『花戦さ』


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本能寺の変 以後

通り過ぎた国 

2015 SEP 12 20:20:51 pm by 西牟呂 憲

 英国体験は少ない。行ったのは出張、それも泊まったのはエディンバラで翌日はお隣アイルランドのダブリンだった。食事はホテル(名前も忘れた)に付いていたパブで済ませて慌しく通り過ぎた。季節は夏で、それなりに暑かったことを覚えている。ロンドンは乗り換えただけ。
 従って観光もせず、人ともロクに触れ合わず、印象を語る何物も持たない。印象は古い町並みが随分とくすんでいたような、淋しい印象。今はだいぶ違うのかも知れないが、このままスコットランドが独立して首都になったとすれば何となく景気の悪そうな首都になりそうだ。

 エリザベス女王が来日した際の晩餐会で『デューク・エディンバラ アンド アイ、~』と言ったことが記憶に残っているが、これご主人の元ギリシア王族フィリップ・マウントバッテンの公式名称だ、エディンバラ公という訳だ。これはただの爵位で別にエディンバラが領地ということではない。将来は三男のエドワード王子が継ぐらしい。

 私的な旅であればリヴァプールにでも行ってキャバーン・クラブでも覗きたかったが、実に味気ないことに翌日はダブリンに。こっちはもっと暗かった。なぜか黒いTーシャツが流行っていたようで、特に女性は黒ずくめのような恰好だった。パブに行くと変なオヤジととびきりの美人のカップルに絡まれた。いや、正確に言うと構われたくらい。働いていたのが中国人で、そいつの悪口を僕に言い散らす。よく見分けがつくもんだと感心したが『あんたジャパニーズだろ。だから言うけどチャイニーズはねぇ。』といった具合にエンエンと続くのだ。その向こうから”変なオヤジ”がしきりにウィンクして見せる、『コイツ酒癖悪くてな。』と言いたげに。

 さて出国してニューヨークまでアトランティック・オーシャンを一跨ぎ、と思ったらイミグレを通った後にすぐまたイミグレがあってびっくりした。その場でアメリカに入国してしまうのだ。余程の人数が行き来しているのか、ダブリンで入国手続きをしてニューヨークの国内便エリアにランディングさせてしまう。
 ところで昔の一筆書きのチケットをご記憶だろうか。堅いペーパーが長い出張の予約だと手帳のように繋がっていた。従って客毎にどんな旅程なのか直ぐ分かるようになっていた。その時は八泊十日で地球を一周するようなひどい日程だった。そしてバゲージも預けずにアタッシュケース一個の出で立ちを怪しんだらしい。別室に連れて行かれて全ての荷物をチェックされた。『一体最終目的地はどこなんだ。』『何のビジネスだ。』『どうしてコンナに荷物が少ないんだ。』オレはテロリストじゃない!

 実はこの後大西洋を越えてメキシコに行き、再度米国への入国で同じようなトラブルに見舞われている。更に恥を白状すると上海でもマニラでも出国の際に大モメしたことがあったが、それはまた別の機会に・・・。

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ヴェトナムに行ってきた

インドにもいた その2

2015 SEP 8 13:13:39 pm by 西牟呂 憲

 インド人の社長が突然言った。
「明日はゼネストだから工場は稼動できない。」
 その場にいた全員が(僕以外はインド人)エッと驚く。僕が驚くのは当たり前だがインド人までが『まさか』という反応だった。どうも以前からやるかもしれない、と言われていたそうだが結局やることになったとか。
 お陰で予定はメチャクチャになり、現場にも出られず。仕方なく事務所で昼飯でも食おうか、となった。相手先で別の人達とパワー・ランチをするためホーム・メイド・カリーを用意したから一緒にどうだ、と誘ってくれたのだ。いやも何もない。FullSizeRender

 昨日は渋滞で一時間もかかった道が、そのストライキのおかげで10分で着いてしまった。何と学校まで休みになる。
 そして懐かしいとでも言うのか、ツルハシにハンマーの旧ソ連国旗のような旗を持った集団が時折集団で練り歩いていた。聞いた限りではああして見回って、もしスト破りで操業している工場があったら襲撃するとか。紅衛兵じゃあるまいし本当だろうか、確かに食料品のお店以外はシャッターが閉まっていた。

 事務所の横に怪しげな木が立っていた。これ健常者の方には毒々しい赤い花が見えるはずだが、写真に撮ってアップすると私には分からない(おそらく東 兄も全然ダメだろう)。

 その邪悪な花を背にしながらパワー・ランチが始まった。そしてランチの相手はインド海軍のアドミラルなのだった。
 無論我がパートナーは一生懸命接待するのだが、盛り上がりに欠けたまま時間が過ぎた。立食なのである時点でアドミラルと僕の間に真空地帯ができてしまい、何か切り札を出さざるを得なくなった。
『アドミラル、私はネイビーのビッグ・ファンだ。大変センスィティヴな話だが、私の父は1945年にネイヴァル・アカデミー(海軍兵学校)の生徒だった。』
 アドミラルは途端に態度を変えた。
『お父さんはお元気か。あなたもネイビーだったのか。』
 まずいことにブレザーにヨット・クラブのエンブレムを付けていたので、これではセーラーだと誤解されると思い、取ってつけた。
『無論違う。それに今日の日本にネイビーはない。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースだ。』
 読者諸君、その時のインディアン・アドミラルの顔をお伝えできないのが残念だ、こいつは何を言ってるんだという表情になった。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースでは何のことか分からなかったらしく、こう言った。
『ネイビィ イズ ネイビィ』
 それからジャパニーズ・ネイビーのことをやたらと誉めそやし出した。一度訪ねたが素晴らしい、たくさん学ぶことがあった、あの艦船があれば日本は安心だろう、そして・・・・。
『センカクを何とかしろよ。』
 困るんですよ、そういうことをアジア・エリアで聞かれると。仕方なく『あれはマリタイム・セルフ・デフェンス・フォースは相手にしていない。コースト・ガード(海上保安庁)の仕事だ。』と言ってみたがどうも全く通じない。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースは海上自衛隊の正式名称なのだが沿岸警備隊くらいに思われるようだ。
 インド海軍は原子力弾道ミサイル潜水艦や航空母艦を保有する堂々たるブルーウォーター・ネイビー(外洋機動部隊保有海軍)であり、そういう意味では海上自衛隊より格上と言えなくもない。ペルシャ湾の海賊対策では共に警戒に当たる関係でもある。

 先日亡くなった作家の阿川弘之氏は、海軍の短期現役主計出身で海軍関係の著作も多い。ちょっと無理筋かと思われるほどの贔屓の引き倒しめいたコラムもある。
 面接を受けに行って中佐クラスの試験官に『貴様はなぜ海軍を志望したのか。』と聞かれ、『陸軍が嫌いだからであります。』とやったと書いておられる。するとその試験官がニヤリと笑ったそうだが本当だろうか、実際に合格している。しかしこれ、あんまりじゃないか。多少陸軍に失礼かとも思う。
 その阿川大尉の海軍自慢の定番に『フレキシビリティ』がある。そう言えばオヤジのネイヴァル・アカデミーのクラスメイトには医者だの社長だのからデザイナー・作曲家・共産党の元代議士までいる。但し敗戦により解散させられたので様々な道を歩まざるを得なかったからかも知れない。
 不思議な事に作家にはまるで応援団のように海軍出身者がいて、文芸春秋社の池島信平社長を中心に源氏鶏太、阿川弘之、豊田穣(この人は海兵出身)といったお歴々が「海軍の会」をやっていた。池島信平・源氏鶏太両氏は徴兵組でだいぶ年嵩が経ってから水兵(セーラー)に取られたのだが、何故か大変な海軍贔屓。世に『海軍善玉・陸軍悪玉論』がはびこる所以である(この点、陸軍出身の司馬遼太郎あたりが陸軍の悪口を書きまくったせいで損をしたんじゃないだろうか)。

 ちょっと断っておくが、私は安保法制改正には賛成だが戦争絶対反対の平和主義者です。戦争肯定論者では断じてないので、そこんとこよろしく。

 又、海軍同士は国境を越えて一般的に仲が良いことで知られる.ネイヴァル・アカデミーのクラス・メイトが海外に行くと、各国の現役にやたらとチヤホヤされていることは聞いていた。いわゆる登舷礼式を以って迎えられる。
 このインドも海軍はそうなのか。敬礼こそしなかったがアドミラル(良く聞くと技官のようだった)のジャパニーズ・ネイビー礼賛を聞きながら、こういうのも文化の共有と言うのかとフト思った。

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インドにもいた その1

2015 SEP 6 11:11:21 am by 西牟呂 憲

 出発の日は小雨が降っていた。きょうは成田から。ぼんやりと車窓を眺めていると、下町の街並みが随分とマンションだらけになってきていることに気づいた。

ITビル群

ITビル群

 成田から飛び、シンガポールでトランジットして延べ15時間。バンガロール空港に降り立って驚いた、涼しいのである。ドライですね。バンガロールはご存知の通り世界的にネットワークを張っているITの一大集積都市。
 ご覧のビルは全てそういった関連の会社が入っており、24時間世界中と繋がっている。
 但し、このインフラを出資したのはシンガポール政府。タダ同然の土地にインフラ投資をしてベンチャーを育てる、シンガポールが中国・東南アジアでさんざんやったビジネス・モデルだ。ここでもしたたかなインド商人と華僑が鍔競合いをしているかと思うとゾクゾクするような。
 多くのベンチャーがひしめいているが、デキのいい一発屋をグーグルやアップルが月に4~5社程度次々に買収するとか。買収された方も人材はサッサと辞めて次を狙う逞しさ。厖大な設備投資の必要のないソフト産業ならではのスタイルかも知れない。するとインド・華僑の上にアメリカ情報帝国が君臨していることになる。見事なトライアングルと言えよう。日本も食い込まなくては。

 街は巨大で薄汚いのは以前と同じ。調べてみると観光資源はたくさんあるようだが、目に付く所では一番立派なのはサイババが建てた巨大病院くらいなのだ。
 渋滞だらけの幹線道路はマナーも最低。今回は路線バスの後ろに金を払わずに掴まってブラ下がるという離れ業を見たかと思うと、デイ・ワーカー即ち日雇いの建設労働者を満載していたトラックが無理矢理Uターンして事故を起こすのを目撃した。

牛の定時行進

牛の定時行進

 打ちあわせをしていてアッと驚いたのが牛の堂々たる行進。ここは一応インダストリアル・エリアですよ。まぁそれはいいとしても現地のインド人の説明では『あれは5時になったから家に帰る所だ。』には納得がいかない。牛が出勤して時間通りかえるとでも言うのか。折りしも午後5時ピッタリだ。まだ明るいのに牛に時間が分かるのか。もっとも動物の方が体内時間はしっかりしているだろうが。
 街はゴミがバカスカ捨てられ埃が舞い、何をしているのか良く分からない人がウロウロ、そして飼われているわけでもなさそうな犬がアチコチに昼寝。

みすぼらしい犬

 読者は御記憶だろうか。小倉記 春風駘蕩編ならびに小倉記外伝 友よ何処に等、拙ブログ『小倉記』にしばしば登場した日本初でおそらく最後の『工場犬チビ』のことを。
 訪ねた工場の中に入って見た途端、ギョッとした。ちょっとサイズが大きめであるがそっくりな(即ちボロボロにみすぼらしい)犬がいるではないか。インド版工場犬か、思わず話しかけてしまった。
『お前、元気でいたのかい?』
 帰ってきた答えは『ウォン』。しかし良く考えてみればこいつは日本語が分からないのだ。ガード・マンに名前を聞くと、キョトンとされて『そんな犬に名前は無い。』と言う。インドは犬に名前を付けないのか、それともどこかのバカ犬が勝手に住み着いても知ったこっちゃないのか。

 ひょっとすれば又会うことになると思い『ボロ』と名付けてやった。
 

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名古屋だぎゃ (ゼロ戦と秋水)

2015 JUN 23 12:12:37 pm by 西牟呂 憲

 映画『風立ちぬ』でゼロ戦を牛に引かせたシーンがあった。あれは実話で、その場所は名古屋なのだ。そのつもりで何か見るものはないか、と探すとあるわあるわ。そう、ここはゼロ戦発祥の地。正式名称『A6M 零式艦上戦闘機』米軍からは『ZEKE(ジーク)』『ゼロ・ファイター』とも呼ばれた。
 単発単座戦闘機で常識外れの航続距離と空力特性・旋回能力を持つ、日本海軍の技術の粋。将に荒鷲の称号にふさわしい戦闘機だった。
 以下は某社の史料館と現地を訪ねて見た写真である。

通称 時計台

通称 時計台

 例の映画で若き堀越二郎が心血を注いで設計していた場所がこの時計台だ。当時の日本のエンジンはどうしても千馬力程度にしかならず、そのために軽量化のため肉抜き、空気抵抗を減らす沈頭鋲など恐ろしく手の込んだ造りになったのがゼロ戦である。言い尽くされたことであるが、防御の面での問題等は全てここから来ているのだ。更にこの凝ったつくりが工程を増やし能率を上げられない。
 ある意味では奇跡的にゼロ戦が出来てしまったからあの悲劇につながったとも言えなくもない。
 それはともかく、映画にも出てきたこの建物を見て思わず一枚撮った。無論観光客も誰もいない。現役の工場でもあるわけだ。
 ここから牛に引かせて滑走路に運んだ。

 そして、この場所からは10km程北上したところにこの会社の史料室があり、予約をすれば入ることができる。ワクワクしながら手続きをし体育館のようなところに行くと、あった。ゼロ戦52型だ。靖国神社で邂逅し、鹿児島鹿屋海自基地の展示以来、久しぶりのご対面となった。

ゼロ戦52型

ゼロ戦52型

 悲しい話であるが前線撤退の際には機密保持のために爆破せざるを得ず、また敗戦時は武装解除で全てスクラップとなったのだが、わずかに復元されたものもある。ここの展示は南方ヤップ島で破壊されていたものを引き取り、技術者が苦労して復元したものだ。以前はコクピットも覗けたそうだが、心無い大バカが部品を盗ってしまうのでダメになった、残念。
 丁寧に説明して頂いて色々と航空技術の先進性が分かる。
 にもかかわらず、僕の感想は『何といじらしい!』だった。何とか工夫をして弱点を補う技術者魂が、だ。機体の丸い優美な姿に見とれてしまった。

 さらにもう一つ。驚くべき展示もあった。IMG_0084

 右のムクドリのような機体をご存知か。ロケット推進局地迎撃機『秋水』なのだ。ドイツで先に実機化されたが、それは結局日本には持ち込まれず手探り状態で苦労に苦労を重ねて製作されたらしい。
 高度1万メートルから焼夷弾をバラ撒くB-29に止めを刺すべく、まるでロケットのような高角度で上昇、到達まで約3~4分。燃料の制約でわずか数分の戦闘だが必殺の30mm砲でこれを撃破、そこで燃料を使い果たす。驚くなかれ片道燃料なのだ。そしてその後は急降下してスピードを確保すると滑空して着陸。何と帰りはグライダーである。
 その時解説してくれた方はパイロット経験者なのだろうか、まるで神業だと驚く僕に『いや、技術的にはそんなに難しい操縦ではありませんよ。』等と言う。
 更に、翼下に車輪がつけられないため離陸の際には両翼を支えた整備兵が浮力がつくまで全力疾走で押したのだとか、鳥人間コンテストじゃあるまいし。
 しかもこの機の翼は軽量化と省資源のために木製である。説明者が叩くとポクポクと音がした。
 この美しいボディを見ていて、兵器というものは悲しい使命を持って生み出された代物だが、やはり文明の一つの結晶ではあると思う。先の『いじらしい』という感想にも通じるが技術の最先端であり、いい悪いは別として必死の気迫が伝わってくる。結局実戦には間に合わなかったのだ。

 頭が下がるとともに不戦の誓いを噛み締めた。
 もうやらないんだからツベコベ突っかかってくるなよ!

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名古屋だぎゃ (お城と神宮)

2015 JUN 21 18:18:22 pm by 西牟呂 憲

 

天守閣

天守閣

 
 なかなか観光で来ることはない名古屋。仕事で来ていたときも、東京に近すぎるのでちょっと見て歩くようなことをしたことがない。縁があって尾張名古屋にやってきた。他にも観光地はあるのだろうが名古屋シロウトとしては出だし名古屋城に行く。米軍の爆撃を食って炎上したため、天守閣も光り輝く金の鯱(しゃちほこ)も残念ながらレプリカだ。焼失したものは鱗が全て高純度の金で、しばしば盗難にあったことも知られている。しかし正門をくぐって入る時の堀の深さや入場してからの天守閣への経路のディフェンスなど実に考え抜かれており、広さから推定できる収容人員の規模も大きい。戦いには強い名城と思えた。特に天守閣の石垣の高さと傾斜は、名人加藤清正の作品らしく見事なものだった。
 思えば鳥羽伏見の後、東海道を上ってくる官軍に対し守りを固めたこの名城で食い止めた場合は激闘があったかもしれない。ところが尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、逆に王政復古後の混乱期は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった譜代大名を勤皇側へ動かす方へ回る。
 元々将軍家と同格意識があり、異才の藩主七代徳川宗春などは将軍吉宗とことごとく対立して見せた。こういった気風を残した開明派の徳川慶勝が巧みに時代の流れを読んだということだろう。

  熱田神宮にもお参りに、鳥居が直立不動といったシンプルな感じ。
 ここは草薙の剣が御神体。話は古く素戔嗚尊が切り刻んだヤマタノオロチの尾から出た剣だ。それを日本武尊が東征の折りに携行して危機を脱出。ところが伊吹山で身罷ってしまったため、残された宮簀媛命 (みやすひめのみこと)がここに祭った、という複雑な経緯をたどっている。
 
 

 

 従って創建された景行天皇の時代には剣もあったのだろうが、現在は諸説あってよくわからない。どうも御神体の櫃の中に何かはあるようだが見た人はいない。平家が壇ノ浦で滅亡した際に平時子が安徳天皇を抱いて入水した際に腰に差して水没して見つからなかったという記述があるものの、それも本物だったかどうか。
 戯れにガイドの方に『本当はどうなんですか』と聞いてみると『それは気にしなくていい事なんです。我々も見ることはできませんし、宝剣は人の目に晒されただけでもケガれてしまいますから。』と実に明快に不明瞭な説明をされた。

 織田信長は例の桶狭間に行く際はわずか5騎のみを連れ飛び出し、ここ熱田で軍勢が集まるのを待って戦勝祈願した。

信長塀

信長塀

 首尾よく勝利した後寄進した「信長塀」が残っている。現存しているのは120メートル。
 信長と言えば、叡山焼き討ち、長島一向宗殲滅、石山合戦と仏の方は抵抗すると徹底的に弾圧したが、神様は何にも難しいことは言わないから平気で拝んだのだろうか。
 一説には『勝つなら表、負けるなら裏を』と賽銭10枚をバラ撒いたところ全て表が出た、と言う。手の込んだことに表を貼り合わせた細工だったとか。多分嘘だろう。
 しばし、たったの5騎で兵を待っていた織田信長の心境に想いを馳せたが、どうもヤケッパチになったのが実態だったのではないかなァ。もうこれしかない!と頭に血が上るまで戦術を練りながらこの境内にいたのだろう。

 近くに名物『ひつまぶし』の本店があって、午前中に予約を聞いたら午後二時からと言われた。そういうものなのだそうで、その間にお参りをしていた。
 それでその『ひつまぶし』なのだが旨い上にコッテリ感がすごく、二日酔いの胃にはキツかったが確かに旨い!
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 ところで東海道五十三次の四十一番目『宮宿』とはここ熱田のことで、当時の東海道はここから海路桑名宿へ行ってしまい名古屋は通らない。そっちは美濃街道になるのだ。
 そのルートが示すとおり、広い境内の足元まで海になっていたようだ。
 そういえば新幹線も当初は東海道線の方ではなく、四日市ルートで計画されたようだが怪物政治家、大野伴睦の辣腕で岐阜ルートになってしまった。そりゃ票になったでしょうね。

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South Bound Train (サウス・バウンド・トレイン) クロスビー&ナッシュ

2015 MAR 6 22:22:58 pm by 西牟呂 憲

 微笑ましい映画『小さな恋のメロディー』で流れた『Teach your children』や『青い目のジュディ』で知られるクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング。僕らの世代にはおなじみのアコースティック・グループだった。しかしあれだけの個性ではまとまってやってはいられないだろう、パッと解散してしまった。その中でデビット・クロスビーとグラハム・ナッシュは気が合っていたらしく二人ユニットでアルバムを出している。yjimageCALS3SG1 
 デビッド・クロスビーはバーズのオリジナル・メンバーで、曲中のサビのテナー・ハーモニーをやっている人。風貌は元ヒッピーの明るいオヤジという感じで、今ではハゲてデブになってるだろう。
 グラハム・ナッシュは英国人でこちらはまた懐かしいホリーズ。英国は後にハード、パンク、ヘヴィに進化するが、ヒッピー・ムーヴメントの頃はこういう輩もいたのだ。
 
 僕はどういう訳か、この二人で出した『サウス・バウンド・トレイン』が好きでいまも口ずさむ。メロディーと相俟ってが歌詞が泣けるんですな。
 この歌のサウスはディキシー、アメリカ南部(南北戦争で負けた方)と解釈している。この語感がピッタリくる日本語はふるさと。東京に上京して酷い目に会うモチーフは、南部のアンチャンがニューヨークで挫折する『真夜中のカウボーイ』的世界とシンクロする。それでかわいらしいお嬢さんとイイ感じになって振られればそれなりの小説一丁上がり。ちまたにそういう私小説が多いのは、最初から根性据えて女を食いもんにしようとしてその通りやった奴は、その経験を小説になど書きゃしないからだ、いや恥ずかしくて書けない。ついでに言えば同じように小説にしにくいのはバンカラもの。
 このディキシーに対する北部のことをヤンキーと言うのだが日本では別の意味になった(チンピラに)。
 余計な寄り道だったが、この歌を八代亜紀が日本語で歌ったらどういう歌詞になるか。いつものオチョクリじゃなくて真面目にやってみた。クリックして聞きながら読んでみてください。

Liberty, laughing and shaking your head
自由!   笑って  首を  振れ
Can you carry the torch that’ll bring home the dead?
亡き人 を  故郷(クニ)へ  連れてけよ
To the land of their fathers whose lives you have led
かつて   たどった  父祖の地 へ
To the station at the edge of the town
街はずれの駅 へ  送る
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車に

Equality, quietly facing the fist
平等!   最初に 気が付いて
Are you angry and tired that your point has been missed?
怒った   ことを    忘れてないか
Will you go in the backroom and study the list
昔の   リスト   見てみろよ
Of the gamblers using the phone
博打ウチ  が   綴ったアレ
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車よ

Fraternity, failing to fight back the tears
仲間!     泣くのを   こらえろよ
Does it take an eternity breaking all the fears?
永遠に    怯えて  暮らすのかい
And what will the passenger do when he hears
過ぎ去る者が  聞いて   どう思う    
That he’s already paid for the crown
亡きひと  は 割りに  合ったんだと       
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車で

 お聞きになって分かるかもしれないが、これにモロに吉田拓郎&ムッシュかまやつ が歌った『シンシア(南さおりに捧げる歌)』が被る。やったに違いない。拓郎は『春だったね』はボブ・デイランのパクリだったのを認めている、散々言い訳した後で「まっ真似しましたね。」と言っていた。まっ気付いてましたけどね。

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台湾旅情 Ⅲ

2014 SEP 16 11:11:52 am by 西牟呂 憲

 思い出深い台湾だが、もう少し書きたいことがある。国民党が上陸してしまったから、リパブリック・チャイナとなってしまったが、果たして概念的にチャイナに入るのだろうか。
 極めて大雑把な歴史的背景から考えれば、中原にある中華は農耕を良くし年貢を納めてこそチャイナ文化の華が咲く。
 すると、古来万里の長城の外側は関係ないと言って差し支えない。「西の方、陽関を出づれば故人無からん」唐の時代の詩だ。そして中華は海の向こうには除福の伝説や鄭和艦隊の派遣を例外として興味を持たない。オランダが台湾を統治した際にも文句一つ言った形跡はない。
 僕はこのエリアで上海・台北・香港と渡り歩いたが、それぞれ性格が違う。言葉も本当はマンダリン以外通じない。悪口はSMCの趣旨にのっとって書かないが、台北が一番お人好しだった。
 例の『素食』でご飯を食べたときに、量り売りの料金を払ったあとにお婆さんがチョコチョコっと寄ってきて「おいしいおかゆだよ。」とサービスしてくれた。こんなことは上海や香港では絶対に起こらない。しかも上手な日本語だった。

 言葉に関しては、前編でミンナン語、北京語、現地語(アミ語やタイヤル語)を紹介したが、客家も多い。僕は客家語の1・2・3・4がイチ・ニィ・サン・シィという読み方だということを台湾で知った。
 更に北の日本人妻ではないが、台湾人と結婚していたり(男も女も)何らかの事情で引き上げなかった旧日本人が(国籍はまだあるが)暮らしているとも聞いた。
 
 AOさん(怖くて本名は書けない)という不思議な日本人に会った。日台の交流促進のNPOの名詞を持っていたが、謎の多い人だった。一度台北で酒を飲んだときに、例によって僕がベロンベロンになって地元の酔っ払いに絡まれた(絡んだ?)。すると早口の中国語で何かまくし立てると周りが怯んだそのスキにサッと僕をタクシーに押し込んでくれた。当時の僕より20歳以上年長のおじいさんで大した貫禄だった。確かその時だったと思うのだが「自分は陸幕の別班だった」と言った記憶がある。
 この人、大陸の事情に通じていて実際に香港にも活動拠点があったらしい、いやマカオだったか。2000年頃。李登輝の後任の総統選挙では大陸からの猛烈な工作が仕掛けられていた。その際突如として独立派として知られる大物財界人の許文龍(シィ・モン・ロン)氏が独立反対の意見を発表して少なからず驚いた。このときにAO氏と会ったのだが『あれは許(キョと言っていた)の奴が大陸に入れ込み過ぎて共産党にカタを取られたんだ。』とギョッとすることを言ってみたり、又なんの用があったのか知らないが、(もちろん戦後)海南島に住んでいたような話もしていた。段々ヤバいと感じて、上記『陸幕』の話はとうとう確認せずに僕が台湾から足を洗ってしまった。
 
 あれからもう長いこと行っていない。色々変わっているだろうが、あの人たちの人懐こい笑顔が懐かしい。

台湾旅情 

台湾旅情 Ⅱ


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台湾旅情 Ⅱ

2014 SEP 7 21:21:29 pm by 西牟呂 憲

 台北で定宿にしていたフォルモサ・リージェントホテルの直ぐ向かいに、中がどうなっているかも分からないスラム地区があった。表通りに面した部分は色々な店が並んでいたが、中の方は居住区のようで怖くてとてもじゃないが足が踏み入れられなかった。
 それが都市計画により取り壊され整地されていく過程を、出張のたびに窓から見ていた。
 それが、ある程度取り壊しが進んだ段階で、忽然と鳥居が見えるようになって仰天した。日本式の鳥居だ。後日分かったが、台湾総督明石元次郎のお墓で、この地に神道式に祭られたのだ。日露戦争でヨーロッパにおいてロシア工作を仕掛けた明石大佐のことである。
 ここからは伝聞だが、大陸からやってきた国民党の兵士は住むところも何も無いから、引き上げた日本人街を勝手に占拠してバラックを建てたという。神道もへったくれも無く、明石総督の鳥居を住居の柱に使ったというのだが。
 この辺の感覚が本省人(台湾人)と外省人(国民党)で大きく違っていて、政治的な話には慎重にならざるを得ない。僕の相手は本省人が多かったが、日本語の上手い奴が国旗の青天白日旗を指して言った。
「あれは国旗ではありません。国民党の旗です。私達は台湾国旗を未だに持っていないのです」
彼こそ兵役時代は金門島で大陸に対峙していた砲兵だった。この人、前回書いた大陸のミサイル発射の時も落ち着き払って
「アレ、2~3発ダフッて大陸(ダールー)に落ちる。(ゴルフのダフリの事らしい)。」
と嘯いていたツワモノである。

 烏来(ウライ)という温泉地がある。渓谷沿いの美しい景観が見られる露天風呂に浸かった。パートナーが招待してくれたのだ。タイヤルという山地系の人々が暮らす町だ。
 翌日は一人でバスで帰ることにして(僕は一人でトボトボ旅をしたい)景色のいい所で一服していたら『高砂義勇隊慰霊碑』という小さな案内に気が付いた。細い路がついていたので登ってみるとここでまた突如鳥居が出た!神社なのである。
ー高砂義勇隊慰霊碑ー
先の大戦の際に帝国陸軍が軍属を募集したところ千人の募集に40万人が応募したとされる、あの高砂義勇隊を顕彰しているのだ。一瞬、まずいものを見たような気がしたが、暫く見て廻ると日本が造ったのではないことが分かった。他に人っ子一人いない静かな静寂の中で日本語の説明文を見つけた。読んでみると驚いたことにお兄さんが戦死された地元の篤志家(女性らしい)が自力で立てた旨記されてあった。神社だから拍手を打って、何とも厳かな気分になって小道を降り、少し先にあったレストランでうどんを食べた(ニューローメンという)。キツネにつままれた、という気分で食べていると、
「日本から来ましたか」
と聞かれた。ウワァ、ややこしい話をされたら参るな、と身構えた。すると向こうから、
「高砂義勇隊記念碑に行ったか」
と言うではないか。万事休すだ。ところが、その店の従業員らしい老人は、喋りなれた日本語でおおよそ以下の事を語った。
 あの慰霊碑は地元のタイヤルの酋長(制度としては無いが伝統的な長老、英語でチーフ)が立てたが、折からのSARSで経営しているホテルが倒産しメンテができなくなった。以前は日本人観光客が大勢来ていたので日の丸をたくさん立てて軍歌を流していた(本当だろうか)。残念なことだ。
 大体そういう内容を語った。指をさした先には確かに『酋長のお店』という看板があり、タイヤルの伝統舞踊を見せていたとの事。
 その行為は別におもねる訳でもなく、頼まれた訳でもなく、必死に戦った親族を誇りを持って讃える気概を感じたのだが。これを今日の日本で考えると・・・・。そういえばテニヤン島でスニヨン(中村という日本名だったか)という旧日本兵が発見されて、台湾に帰国した際の日本政府の対応があまりにも冷淡だったことを思い出した。彼は山地のアミ族でアミ語と日本語しかしゃべれなかったため、中華民国となった故郷ですることもなく、一日夕方まで一人でぼんやりとしていたという。

 その後帰国して調べてみると、周麗梅さんという方だとわかった。僕のような人間が『有難う御座います』とか『申し訳ありませんでした』と言うわけにも行かず、せめて民進党と李登輝さんを応援しようと思った。
 人間は歳をとると『昔はよかった』と必ず言う。台湾のオールド・ジェネレーションには国民党の圧制がこたえたので日本時代が良かったと言うのかも知れない。
 一方でしかし半島ではクーデター後の戒厳令以前を懐かしむ人も日本時代を語る人も(本当はいるのだが)いない。
 これも本当の話だが、酔っ払った台湾人が目を据えて『天皇陛下はお元気か』と聞いてきたこともあった。『大和魂』とも口走ったが意味を知っていたのだろうか。

 ところでもう5年も前になるが、某放送局の『JAPANデビュー』という台湾のルポ番組を見てしまったが、あれは酷かった。何か番組の作り手の方が怖い。
 最近A新聞も何かの問題で訂正を出したというが・・。

台湾旅情 

台湾旅情 Ⅲ

台湾旅情 Ⅳ


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台湾旅情 

2014 SEP 2 19:19:50 pm by 西牟呂 憲

 これもまた昔の話だ。台湾の総統選挙を牽制するために大陸がミサイルを台湾近海に撃ち込んだことがあった。僕はその直後に台北に向かった。今から考えると不思議だが渡航禁止も注意喚起も何も無かったのだ。1996年だった。
 これは前年のミサイル発射の際に、アメリカが空母インディペンデンスを派遣して強烈なメッセージを出し、今回も直ちに第七艦隊が配備されたので、大事には至らないだろうと思われていたからだろう。ペルシャ湾からミニッツが来る、とも言われていた。更にその後広がった噂では、中国のミサイルが空砲だったことを(本当かどうか知らないが)李登輝が諜報によって”知っていた”からだと囁かれた。
 台北訪問の目的は現地の企業との提携交渉で、ほとんど合意に達しており現地の弁護士と打ち合わせをした後はサインを交わすだけだったので、気楽とは言わないがいつもよりは足取り(飛行機だから飛び取り?)は軽かった。それが乗客は物凄く少なく、座席が1列に3人くらいしかいない。皆ビビったかとせせら笑ったものだったが、今ではそうも言ってられないだろう、ウクライナの事もあるし。
 着いた日に提携相手とメシを食いに行ってただ事ではないと思い知らされた。普段はネオンギラギラの台北の街が暗い。英語の上手い洗練された台湾人が、乾杯の時にグラスを挙げて言った言葉。
「こんな時に約束通りに来た日本人の勇気に感謝する。」
「!」
最早『そんなつもりでは・・・』等と言えなくなってしまい、僕自身は絶対に役に立たないくせに、
「心配ない。第七艦隊(アメリカン・セヴンス・フリート)とウィ・ジャパニーズ・アー・ナウ・イン・タイワン。」
と口走った。これが効いたとも思えないが、大変スムースに合意に達することは出来た。
 台湾は人口2千万しかいないのに国是として大陸に対峙しているから国民皆兵で、彼らは全員兵役をこなしている。そして本当にドンパチが始まると予備役招集されると言うのだ。何と先方の責任者はかの金門島の砲兵で時報代わりに空砲をブッ放していたそうな。
 帰りの便は、来る時とは逆に台北から帰国するアメリカ人やアジア人・日本人で空港はゴッタ返し、帰国便も満員だった。

 その後も何度も行き、南国らしいトロピカルな雰囲気と人懐こい人達にすっかり台湾贔屓になり、台湾内は一人でも電車・バスで十分移動できるようになる。新竹(チンチュウ)という街は台湾のシリコン・バレー等と言われ、米国と直結したファウンドリーと言われる受託産業が独自に発達していた。そして次々に新しい会社ができたり売却されたり、と活発だった。
 台湾式経営という訳ではないが、バランス・シートを安定させてキャッシュを確保する堅い経営と旺盛な独立心が特徴的で、人口2000万人に当時70万人の社長がいると言われていた。韓国と違うのは、分厚い中小企業が中核を支えているところだろうか。このスタイルはアジア通貨危機の時に圧倒的に強みを発して、NT(台湾ドル、しかし圓と表示されている)はむしろ円にリンクして暴落しなかった。
 一般に親日的と言われているが、産業構造も日本と競争するより上手く棲み分けているように感じられた。即ち材料は日本から、加工・組立は台湾で、といった具合だ。

 台北や高雄の屋台風外食もおいしいが、『素食』という看板の食堂のようなものがある。入るといろんなおかずが大皿にいくつも盛ってあり、一人一人好きなものを少しづつ取っていく。ビュッフェ形式のようだが会計のところには量があり、それに乗せた時の重さで料金を決めるシステムで、これがうまい。繁華街に『四川料理』『潮州料理』『北京料理』『広東料理』といった立派なレストランも充実しているけれど、僕は一人の時は素食を好んだ。もっとも中には材料を見せている棚にカエルがぶらさがっていることもあったが・・・・。
 台北の林森北路(リン・シン・ペェ・ルー)という一角は日本人が多くカタカナのネオンだらけだったので、僕はあまり近寄らなかった。
 
 台湾オリジナル言語はミンナン語と言ってどうやら福建系のチャイニーズらしいが、国民党が来てマンダリン(北京語)が入った。一党独裁時代はミンナン語は禁止され、僕と同世代くらいの人間は教室に憲兵がチェックするため入ってくる経験をしている。この戒厳令時代の歴史的葛藤は今でもある程度続いているものの、ここでは政治的評論は避けたい。現在は民主化もされて選挙は行われる一方、大陸との関係は緊張感が続く。
 それとは別に山地のオリジナル言語、漢語とは別で南方系の言葉もある。しかし文字がないために記録が残らないようだ。他に客家語その他。台湾人パートナーがレストランの隣の客が喋っている(中国語っぽい)言葉が分からない、と言うのでビックリしたことを覚えている。
 従って彼等の他国語に対する感性は敏感で、ビジネスマンは英語が上手いし、アメリカへの留学者も多いと聞く。ただ、留学生は徴兵免除になるから、と当時は噂された。
 
 総じて中国の台頭により国際的に孤立しがちな彼等は、ビジネスの上ではいじらしい程誠実だった。

 つづく

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