Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 埼玉水滸伝

ホンキー・トンク・ウィメン 歌詞取り 埼玉にて

2013 DEC 11 15:15:33 pm by 西 牟呂雄

埼玉北辺の工場の周りは人口密度は極めて低く、みんな広い庭のある家に住んでいる。どこでも犬を飼っており、ダン、ミルク、シナモン、ライガ、ジョンといった立派な名前が付いていて犬地図ができるくらいだった。しかし、あまりに犬が多いので依怙贔屓するわけにもいかず、普段は犬派の僕だがその頃は住処にしていたプチ高原ホテルにウロついていたノラ猫をかわいがっていた。ウララちゃんの牧場の先だ。黒ブチに白い口元のブサイクな猫だったが、勝手に「シナシナ」と名前を付けていた。恐らくどこかの飼い猫だったのだろう、人には慣れているようで、時々酒のつまみのチーズをやったりしていたが、暫くしていなくなってしまった。

社員には近所の大地主の息子とか、歩いて通ってくる奥さんとかいう人がいた。近所といっても名字が同じ家が何軒もあったりして、伝統的な集落が形成されていたことが分る。そして何故かこういう田舎の家には物が物凄く散らかしてあるのだ。機械だったり、部品だったり、何かの壊れた家具も積んである。捨てるのも面倒だからかも知れないが、ちょっと油断するとゴミ屋敷に成りかねない。田舎の人はモノを捨てないのだろうか。近所づきあいではないが、会社の悪口を言い触らされてはかなわないので、挨拶をしたりして何人かとは仲良くするようになった。タクシー屋のおっさんとその弟とは地域の相談をしたりするので、メシを食いましょうや、となったのだが。この兄弟ガタイも恰幅よく、ガラは悪く、なかなか楽しかった。食事をした後フラフラと街(といっても暗い田舎町)をうろついていると、車がスーッと寄ってきて中から「なんとかチャーン。」と声が掛かり、見るとオバハンがこっちを見ている。要するに兄貴の方の知り合いの飲み屋のオバハンで、これから開けるから店に来い、という成り行きになったようだ。それから3人で行ったのだが、しかし飲み屋に出勤するのに車って・・・。そして着いたところは人の家のような所で、ガラガラガラっと玄関を開け電気を付けたらゴキヅリがガサガサ逃げるのが見えた。コッチは十分酒が入っている、ガラも悪い(僕も)。それからの会話は「オイ、ババア焼酎よこせ。」「ババアとは何よ。そこにまだあるだろー。」「バカヤロー、そっちの奴にしろってんだ。」という会話がズーッと飛び交う地獄のような飲み会になっていった。途中地元の常連らしいカップルが来たが、直ぐ帰ってしまった。少し後からヘルプというかバイトというかもう一人化け物みたいなネエちゃんがカウンターに入る。カラオケを振られたので、ヤケになってローリング・ストーンズの替え歌をやったら受けた。あのドラム・イントロのホンキー・トンク・ウィメンだが、妙に覚えている。

I met a gin soaked, bar-room queen in Memphis

ここは埼玉 秩父の麓
She tried to take me upstairs for a ride

田圃の中の 工場勤め
I had to heave her right across to my shoulder

流~れ着いて 半年 経った
I could not seem to drink you off my mind

しけ~たホテルが オイラの寝ぐらさ

It’s the honky tonk, honky tonk women

ほ~~ん気の ネェちゃん
Gimme, gimme, gimme the honky tonk blues

くれ~ くれ~ くれ~焼酎オン・ザ・ロック

Strollin’ on the boulevards of Paris

夜に なれば 怪しい 店が開く
As naked as the day that I will die

バケモン みてえな ババアが はべる
The sailors they’re so charming there in Paris

下手に 構えば 地獄に 一直線
But they just don’t seem to sail you off my mind
こわーいもんだよ ババアの深情け
It’s the honky tonk, honky tonk women

ほ~~ん気の ネェちゃん
Gimme, gimme, gimme the honky tonk blues
くれ~ くれ~ くれ~焼酎オン・ザ・ロック

 画像はレアなハンブル・パイ。聞きながらどうぞ。

恥ずかしい話だがもう一曲、以前ブログで書いたが、工場に蛇が出たことに掛けてディープパープルの名曲スモーク・オン・ザ・ウオーターの替え歌、スネーク・イン・ザ・フアクトリーもやったのだが、あまりにバカらしくてここに記すことはできない。

それはさておき、この製造所の運営は今日の縮図のようなところがあり、『製造現場血風録 (火災勃発)』以降は同様の製造設備を東南アジア某国に設置し直しており、又、需要家も既に大半がそちらの方への移転が済んでいた。即ち日常的に国際競争に晒されているため、常にプロセスの開発、新品種の開発を続けざるを得ない。僕が所長として年柄年中モノを除却し無駄な仕掛かりを捨てていたのも、イザというときにスペースを確保したいからだった。更に、何かあったらまた使おう、という構えでいると急の場合に除却損が大きく出ることも避けたかったからだ。円が安くなって少しは楽になっているといいが。

一方、従業員も社員以外にパート・タイマー(タイム・スタッフと言うそうだが)派遣社員、シニアのおじいちゃんと多彩であった。新しいプロセスに移行する際には、時には職場を変ってもらう、もっとあからさまには辞めて頂かなければ廻らない。『また忙しくなったら来てもらうから。』と言い、実際事情が変った時には優先的な声掛けもしたのだが、実は当時のリピート率はあまり高くなかった、特に若い女性はダメだった。増産のための休日出勤から低稼働による生産休止まで、ドタバタしながら新米製造所長は二年で風と共に去って行った。

僕は仕事が変った後は前職に一切関わらないのを信条にしている。一つは後輩達に迷惑をかけたくないから。もう一つは『昔はこうだった。』といった感想が自分の中に沸き上がるのがいやだからだ。まだまだ老け込んでたまるか。でも懐かしいなぁ。

空っ風 一望駆ける武蔵野の

巻き上げる 埃 てのひらに当たる

埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

埼玉水滸伝 (埼玉のウララちゃん)

春夏秋冬不思議譚 (同時進行の不可思議)

一人ぼっちの世界とライク・ア・ローリング・ストーン 


 
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埼玉水滸伝 (埼玉のウララちゃん)

2013 NOV 25 15:15:48 pm by 西 牟呂雄

 前回書いた埼玉事業所の話の続き。秩父の麓は交通の便はイマイチで、東京の吉祥寺から毎日電車通勤することはできない。車だと関越自動車道なのだが、毎日ともなれば通勤費がベラボウになってしまう。近くにアパートを借りている単身赴任者もいたが、僕の場合必ずしも毎日住むわけではないし(会議とか出張)、土日は家に戻るので、色々と安いところを工夫した。まず住んだのは、バブルホテルのような自称ビジネスホテルで、なかなか快適だった。なにしろガラガラでおまけに大浴場まで付いている。そこにほぼ毎日一人で入っていたのだが、しばらくして気付いた。面倒だからかコスト削減かは知らないが、滅多にお湯を代えないのだ。それが分かってからは、負けるものかとばかりに一人で十人分くらいのお湯を消費して循環に努めたものだった。まずいことにそこにはスナックが併設されていて、そこの従業員と仲良くなったもんだから連日カラオケを歌いまくって金がかかってしょうがない。しかしフィリピンや中国の研修生を何人も一月くらい泊めていたこともあって、僕は重要な顧客NO2だったらしい。何かの地方イベントがあって珍しく満室になった時は、一人で20畳敷の宴会場で寝かしてくれたりと便宜を図ってくれた。NO1は誰かと言うと謎のお婆さんだった。この人とは何度もすれ違ったが一度も挨拶はおろか目も合わせない。フロントのオネエチャンに聞いたら、月に一回だけ現金で30万持ってきて「これで今月もお願いします。」と言うだけだそうで、値切りも何もせず、昼間は隣のフアミレスに一日中いるらしい。ネット予約でその三分の一以下の支払いしかしない僕は恐れ入るしかなかったが、きっと大金持ちの未亡人で息子の嫁と折り合いが悪いから生きている間にできるだけ金を使ってやろうとしていたのじゃないだろうか。それなら僕に言ってくれればいくらでもお手伝いできたのだが、口も利かないのじゃどうにもならない。しかし周りに観光資源が何も無いのだからホテルの経営は苦しいに決まっていて、支配人はペットと泊まれるように中庭のスペースを改造したり、夏にはバーベキューの場所にしてみたり、と色々悪戦苦闘するのだが、武運拙く潰れてしまった。

 次に根城にしたのは近隣のゴルフ場のロッジ。これまたバブルの後遺症から抜け出せないような、ゴルフ客、併設するテニス・コートの客を当て込んだプチ・高原ホテルの体裁だが、やはり気の毒なくらい客がいない。もっとも客室も五部屋くらいしかなかった。テニスのコーチも兼ねている支配人はヒマそうにしていて、しまいには業務用の冷蔵庫も自由に使わせてくれたので、山のようにビールを持ち込んで一緒に飲んだりしていた。同時に先程の潰れたビジネスホテルの道路沿いに、こちらは工事の長期宿泊者等が泊まるアト・ホームなビジネス・ホテルも見つけた。そこはサウナが付いていて、汗を流すのに快適だった。かわるがわる泊まってみたり、週別に住み分けたりして暮らしていた。

ロッジの方はゴルフ場の中なので、街から反対側に10分程車で行く。その辺は水利が悪く田圃はできない。昔であればお蚕のための桑畑だったと思われる。現在では造園業・ゴルフ場に変わり、そして牧場があって肉牛乳牛を育てていた。これはやはり匂いがきついので、人家が無い所が絶対条件だが、隣にはなぜかヤマギシ会の農場が広がっていた。ヤマギシなんかまだあったのか。毎日通っているうちに牛舎の脇にポニーが繋がれているのに気がついた。オスのほうは良くいなないて暴れたりするが、メスの方はトボケた顔してジッとこっちを見るので、車を降りてしばらくにらめっこをしたりして遊ぶのが日課になった。そのメスはひたすら雑草を食べているか、ジーッと何かを見ているかのどちらかで、時間が止まっている風情。ある日農作業の帰りの牧場の人(家族経営らしく揃いのツナギを着ていた)が「あら良かったわね、遊んでもらってるの。」と言って通りすぎて行った。一瞬僕に向かって言ったのかと思い憮然としたが、考えて見ればあれはポニーに言ったのだ。ポニーのメスはウララちゃんという名前だと教えてくれた。

草を食むウララちゃん

草を食むウララちゃん

 全く手の掛からない家畜のようで、牧場周りの雑草刈りに、この辺で一週間、あっちの方で一週間、といったローテーションで繋がれているようだった。しかしこの子、生まれてから雑草しか食べていないらしく一度コンビニで買った人参をやったのだが、全く興味を示さない。翌朝見に行ったら蹴飛ばして遊んだようで、端っこで踏みつぶされていた。馬の目の前にニンジンをぶら下げて、という表現があるが、ニンジンが食べられるということを知らなければ何の役にも立たないことが分った。面白いことにすぐ側で暮らしていながら、大勢の乳牛・肉牛とウララちゃんはお互い全然干渉しない。まだ牛達の方は、僕なんかが歩いて寄っていくと珍しそうに興味を示すのだが、ウララちゃんはウンでもなければスンでもない。同じ馬でもサラブレッドに比べるとはるかに頭は悪いようだった。それでも毎日会っているうちに僕の顔ぐらいは覚えたらしい。「ウララちゃん。」と声を掛けると、パカポコと歩いて来るようになったので頭を撫でてやった。少しは嬉しいのか目を細めていた。時間の止まっているウララちゃんと夕日を眺めていると昼間の仕事上の会話がつくづくアホらしい。というのも僕が普段業務で使う言葉は、80%が相手に理解させることに費やされていて、20%ぐらいが自分が分らないことを質問しているのではなかろうか。前者が指示を出す時で後者が報告を受けている時だ。そこにはあまり楽しみとか喜びの入る余地はない。人間同士が仕事を通じてつきあう、ということはどうもそういうことで成り立っているようで、僕とウララちゃんの関係のように、お互いを理解し合う必要が全くないと会話は不要になる。これだけメールだスカイプだと通信手段が発達しているのに会議の数は減っていないではないか。人間同士の付き合いとは愚かでイヤなものだな、とウララちゃんにテレパシーで伝えてみたら、思った通り、そうそう、と返事をしてくれた。

ポニーの目に 何映るかと 我問えば

答えパカポコ 時は流れぬ

埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

ホンキー・トンク・ウィメン 歌詞取り 埼玉にて


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埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

2013 NOV 20 14:14:26 pm by 西 牟呂雄

多少前の話だが、僕は埼玉の北辺で半導体材料の製造所長をやっていたことがある。元々は関連会社が畳んだ工場を買い取って、新たに造り替えながら大きくしていったところだった。初めの頃は「なんじゃ、これは。」と驚くほどのオンボロ建屋で、不謹慎ながら一部はサテイアンとか馬小屋とか呼ばれる有様だったが、まあ時間を掛けてそこそこ体裁が整った頃赴任した。前は民家で左右後ろは田圃、関越自動車道が通るその向こうには秩父連山がはるかに見渡せた。このあたりは夏は日本で最も暑くなることで知られており、冬には希に(東京よりは頻繁と)雪が積もる。色々と重金属を使う工程も抱えており、周辺の環境には気を使った。もっとも今の日本ではどんな辺鄙な所でもタレ流しなぞ許されないから、別にここだから特別コストが上がるということではない。おかげで工場を囲むように流れる用水路は、オタマジャクシはウジャウジャいるし、ザリガニもいるし、甚だしきはヘビもいる。この蛇は年季の入った青大将か何かで度々工場周辺で目撃され、さすがに気味が悪かった。

あるときは工場の屋根から落ちてきたこともある。バサッとかいう音がして何かが落ちて来たのだが暫くすると、そのモノがウネウネと動くではないか。良く見れば蛇の塊ではないか。その塊はその内うねうねと並んでいる廃油用のドラム缶の間に逃げて行く。その先の工場はクラス1,000のクリーン度を保つ検査棟で、蛇なんかにニョロニョロされたら堪ったもんじゃない。僕は慌ててそこら辺の傘を掴んでドラム缶の上に飛び乗り、隙間に入った蛇を追い出そうと突いた。しかし「殺してやる」の気迫に欠けて、変幻自在の動きについていけない。その姿があまりにマヌケに見えたのだろう、構内を通りかかった社員が吹き出しながら寄ってきた。そして「所長は都会の人だね~。」と笑いながら暫く見ていたが、逃げ惑った蛇が一瞬ドラム缶のスキから頭を出したところを電光石火の早業でパッと掴むやコネコネコネっと団子のようにこね回し、両手でボールを持つように抱えた。そして「アッハッハ。」といいながら工場の端っこから田圃に投げた。バシャッと水を上げた後、蛇の奴はどこかに泳いで消えた。                     「あれは毒のない蛇なんで噛みつきませんよ~。手が臭くなっちゃいました。落ちてきたでしょう。」                                               と余裕綽々で言った。彼の説によると、落ちてきたのは屋上の鳩の巣で卵を飲み込み、その殻を割るためにわざと飛び降りたのだそうだが・・・。そんな学習能力が蛇にあるだろうか。

ところで、赴任当時には引き継いだ事業の製品在庫が山のようにあり、一部は工場とは名ばかりの貸倉庫のようになっていた。こちらの事業が拡大基調にあったので、少しづつ在庫を処分して行ったのだが、製品そのものは何とか捌けても付随していた副資材や使わなくなった設備はそう簡単に右から左という訳にはいかない。物を捨てる、という行為は結構なエネルギーがかかる上に、資産計上されていれば償却途中の場合大っぴらな除却損が立つ。先送りが蔓延する所以で有る。「いつかは使う。」「あれば便利。」といって誰もやろうとしないのだ。しばらく様子を見ていたが、我慢できなくなって自ら片っ端から捨てることに決めた。そうしたら次から次から表に出ないような物が驚くべき数量で明らかになった。仕様変更により役に立たなくなった金属材料は何トンもある、かつて実験で使ったビーカーがダンボールで山のように隠されている、備品、梱包資材(これも何トンもだ)、補強資材、更には鉄骨(これは切って業者に引き取らせた)。造っている製品はミクロン単位の、要するに微細なワイヤやパウダーなのだ。それが何トンものいらん物をため込んでいるとは、その無駄たるや読者の想像を遙かに超えている。しかも捨てるのもタダではない。しばらくの間、製造所長が先頭に立ってゴソゴソ物を捨てる、という異様な光景が続いた。しかし、これは「荷を軽くする」(僕の造語だが)といって、見えないところのコスト、固定費を下げるのに物凄く効果があり、実際そうだった。カンバン方式だろうがカイゼンだろうが、無駄をなくす環境を醸成すればいいわけだ。社員は僕のいないところでは除却大魔王と呼んでいたらしい。このとき僕の右腕として補佐してくれたのは、通称『げんじい』と呼ばれた(僕が呼んでいただけだが)嘱託の爺様で、庭木の手入れから屋根の補修から、メカにも電気にも強い大変なトボけた味の人だった。二人コンビでフオークリフトの運転を練習したり、バーベキューの焼き鳥屋をやったりしていた。

この製造所の印象はとにかく赤。秋口から冬にかけて、真っ赤な夕日が毎日秩父に落ちて行った。工場と事務棟の間に山茶花の木を植えていたがこれにも紅色とピンクの中間のアカいとしか言いようのない鮮やかな花を咲かせる。そしてこれがのどかなのだが、事務棟に植えてある柿が濃いオレンジ色の実をいっぱいつける。僕は毎日絢爛豪華な晩秋の秋を堪能した。調子に乗って年度末に屋上を赤く塗れと指示し、全員に反対され赤茶色で妥協したが。

赤々と 秩父を染めて 落ちる日を

山茶花ひとつ 添えて見送る

埼玉のウララちゃん

埼玉水滸伝 (埼玉の ホンキー・トンク・ウィメン Honky Tonk Women )


 
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