ナニワの狂い咲き
2023 NOV 25 18:18:21 pm by 西 牟呂雄

ピン・ポイントで大阪に行ってきた。
摂津の国は、古くは即位前の神武天皇が畏れ多くも生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)を建立された由緒ある場所である。その後も日本の政治経済の中心であり続け、江戸幕府が開かれた後でも敗戦後の繊維不況の波を被るまでGDPでは常に東京よりも上だった。
令和の今日は、ほとんどの在版大企業が本社機能を東京に移したため地盤沈下が言われて久しいものの、東京に比肩しうる唯一の都市であることは変わらない。今年は日本シリーズも在阪球団同士で盛り上がり、38年ぶりのタイガーズのアレとなった。
ナニワは漢字で難波(なんば とも読む)、浪速、浪花、浪華と表記され、江戸よりも遥かに人文は古い。ところがこと『観光』ということになると、例えば京都・奈良に比べれば見劣りする。まあ、道頓堀とか大阪城は名所といえば名所だが、いかんせん先の大戦で東京同様にやられたためもあり、目下の盛り場が観光地となっている。
それはそれで結構なことだが、まずビックリしたのは外国人の多さだ。
実は今回、宿泊をケチって梅田の近くの安宿を検索し、チェック・インの時点で仰天した。タチンボやポンビキがウヨウヨする連れ込み宿のど真ん中だった。地の利に疎いとはこういうことなのだが、驚いたのはそれだけじゃない。そういった場所になんの躊躇もなく外国人女性がトランクを引きずりながら闊歩し安宿に(僕のところとは別の)入っていく。おそらく僕のように安宿を検索して旅をしているのだろう。そして外国人ゆえにこういったところのヤバさ加減が分からないため平然としていられる。僕は十分注意しているが、彼女達大丈夫だろうか。
というのも、泊まったところはやはりかなりの代物で、内装はビジネスホテルでもその昔は想像もつかない。一つだけ傍証を上げると窓を開けたら目の前に窓があり、夜中でもある種の女性の嬌声が聞こえっぱなしだった。それで隣の窓との間はどういうわけか塞がれた空間で、配管が通っていて右も左も外部に通じていない、つまり外が見えないのだ。まるで繋がっていたビルを無理矢理間仕切りして窓を嵌め込んだような不思議な造りで、向こうの窓が開いたらどうなるのか怖かった。
さて、今回の旅の目的は何かというと、最近始めた『都市進化論』のフィールド・ワークである。調査結果は別途まとめるのだが、焼け野原になった都市の中心部が復興するにあたってどのような形態をたどっていくのか、という内容。きっかけは東京で焼けてしまった高尾稲荷がビルにはめ込まれるように復活していたのを見たからである。これと同じように梅田のすぐ近くにかの曽根崎心中の舞台となった通称『お初天神』、正式名称は露天神社(つゆのてんじんしゃ)がある。ここも爆撃によって焼失してしまったのだが、果たして今日はいかなる状況にあるのかを見たかった。
すっかり心中の神様扱いされて、縁結びのご利益が言われるのだが、元々は天照皇大神を祀った神明社(東京でいえば芝大神宮)で、名称の露天神社は大宰府に飛ばされた菅原道真がここで『露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば』と詠んだからとか。
翌日起きてさてこっちかな、とノコノコ歩きだすと再び外国人女性が、しかしみんな手ぶらだ。夕べ見た欧米系ではなく、明らかにこの辺りで働いているであろうフィリピン系。これには痺れましたね。無論東京にもこういう光景はあるのだが、ここは大阪の顔である梅田の近くですぞ。
このアナーキーさが大阪の魅力なのだな。
もう少し言うと、このアーケードの朝の寂れぶりは大阪のイマイチ感を物語っているかな。
アベノハルカスはできた。維新の会は立ち上がった。
だが万博には苦戦している。
しかし在版2球団での日本シリーズで盛り上がった。
この怪しい街並みのすぐ向こうには高層ビル。
昨日食事したビルの中のワン・フロアはオープン・スペースに似たような飲み屋がはいっていて、どこもが喫煙可。
その下には素人では迷ってしまう地下街が広がる。
我が東京はというと、スカイ・ツリーがあるが、都民ファーストは雲散霧消。
オリンピックは何とかやり切ったものの、巨人はダメ。
おまけに巨人が勝とうがヤクルトが優勝しようが日本橋から川に飛び込んだ奴は未だかつていない。
さて、辿り着いたお初天神は、建物が押しくらまんじゅうをしているような所にあった。
入って行くと意外と小さい。かつては2千平米弱の広大な敷地にうっそうと茂った森に覆われていたそうだが、戦災で焼けてしまい、その後急速な都市化に飲み込まれるように敷地を切り売りせざるを得ず、ご覧のような姿に変わった。
更に裏参道はもっと凄い。
こういうのを『巧み』とか『したたか』と言うのではないか。
先程の『切り売り』だが、再建費用の捻出のためとネットにあった。タダでは起きないというか、さすがに大坂だなと感心してしまった。
翻って我が東京では神宮外苑の再開発において東京都と、JSC、伊藤忠、三井不動産が覚書を締結し小池百合子女帝が認可したという大袈裟な代物で、樹木千本の伐採が問題になっている。
時代は違うが、大坂では少しづつこんな感じでやったのではなかろうか。
『ウチも社殿が焼けてもうてドモなりまへんのや』
『そら難儀でんなぁ。それやったらここあたりこんぐらいで譲ってもらいまひょか』
『あんさん、そりゃ殺生や。かんにんしとくなはれ。せめてこんぐらいにでけまへんか』
『あちゃーっ。それこそきついでんな。もうちょっと勉強してもバチあたりまへんやろ』
『わかりまへんで。お初さん怖いでっせ』
なんてね。
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
もしも江戸時代が続いていたら
2017 JAN 31 20:20:03 pm by 西 牟呂雄

僕のような保守派・守旧派は時代の変化に『本当かよ』と疑ってかかる癖がある。最先端を行っているつもりの革新派も30年も過ぎれば古くなってしまう。現在盛んにグローバリズムの終焉と右傾化・内政回帰が言われだすとそれで景気でも悪くなったらどうなるのか心配になる(個人的にはTPP反対でグローバリズムもそろそろと思ってたからどうでもいいが)。
こういう気質は初めから自己矛盾を抱えていて、直ぐに昔は良かったと言い出すことになりかねない。ボブ・デイランは良かったローリング・ストーンズは良かった、昭和は良かった・・・。
本当は、ヒッピーがいて学生運動が盛んで組合闘争は激しかった頃は世の中結構殺伐としていた。恐らく懐かしむ人々は自分が若かった日々を否定したくないからそんなことを言っていて、目下のところ人口比率が最も高い団塊組の声が最も大きく聞こえる。
『三丁目の夕日』が描き出した時代は交通事故が多く、埃っぽく、不便な時代だったと記憶している。
その前は東京は空襲を受けて焼けた。
その又前の戦前は良かったかというと、それこそ大正期なんかは平和な時代で白樺派がロマンチックな恋愛小説を書いていたが、当然庶民は貧しく苦しい生活をしていたはず。それでもまァカタギなら余程の悲劇に出くわす以外は普通に暮らした(兵役に取られて戦死した英霊は除く)。
さかのぼって明治維新はそんなに素晴らしいか。
京都に行ってみると良く分かるが、江戸期に寺社が保有していた広大な敷地を下級武士上がりの新政府高官が私した。尊皇攘夷と言うが、攘夷なんか途中でどこかに行ってしまって、尊王の方は幕末期の社会常識でさえあった。何が言いたいかというと、社会変革はその都度に本のページをめくるように進むのが望ましく、ひっくり返した後に前時代の資産を分捕りあうようなことは好まない、というのが保守の精神だと言いたいのだ。維新後の凄まじい汚職や、掠め取りまがいの略奪で京都の広大な別荘を作ったのが気に入らない。
お江戸の時代があのまま続いても近代税制と中央集権(この場合は国軍の創設を意識している)は進み、当たり前のように将軍も大名も溶け込んでしまったと考えている。現に華族制度ができた。
砲艦外交によってアタフタ開国した印象があるが、丹念に調べていくとどうしてどうして幕府は圧倒的な軍事力を目の当たりにして粘り強く理屈を並べ焦らしに焦らして交渉している。いきなりぶっ放したり切りつけててコテンパンにやられた長州や薩摩に比べれば遥かに国際感覚は上だと思える。
江戸期は封建制度と鎖国で暗黒時代のように語られるのもいかがなものか。身分制度に苦しんだ人も理不尽な年貢に苦しめられた農民もいただろう。
だが当時の農業技術では飢饉は世界中でも起こったことであり、身分制度も今日なお形を変えて残っている。均衡社会だった幕藩体制時代を通じておよそ3千万人だった人口が明治期を経て6千万人に増えた事は生産性の上昇で国民が食える状況になったことは確かだ。
実は江戸期を通じて信州の山間にある村落人口の推移を調査した研究によると、長期に渡って全く変わっていない。実際には間引きが行われていたことが報告されている。だがそれは鎖国のせいじゃない。
江戸期は前半こそ戦国の名残があったが、社会が安定してくると平和で文化の華が咲く。上は上なりに、下は下なりにその文化に磨きをかけることができた。更にその後半(吉宗以後)には『民を大事にする』といった平和な社会ならではの考え方が広まる。
一例を挙げる。『無礼打ち』なる行為は時代劇に出て来るようにやたらと武士が農民・町人を切り捨てる権利となっているが、実際は細かく本当にその正当性があるのか審査される。該当しないと見なされれば斬った方は斬首の上御家断絶だ。役所に届出る、証拠品の検分、無礼な行為を立証する証人、全部揃えなければそれも斬首。大体処罰されてしまうため、江戸後期には無礼打ちでお咎めなしは滅多になかった。まぁ大体両成敗で両方とも処罰されてしまうのだ(これが故に忠臣蔵で浅野だけ切腹させられたと評判が悪かった)。それが故に幕末期になるまで抜刀しての斬り合いなんか滅多に見られるものじゃなく、武士も実際に白刃での対峙などすることなく一生を終えた者が殆どだった。
幕末期には身分制度がガッチリしていたら世に出ることもない連中が藩政・幕政に口が出せるイイ世の中になってきていた。しかし維新後、途端に資産のブン取り合いと汚職まみれになったのはどうしたことか。西郷はそれで頭に来た。
又、鎖国といっても出島から入って来る海外情勢は瞬く間に江戸にも伝わり情報は良く咀嚼された。ジタバタ感は拭えないものの開国したのは井伊大老で、その後幕府は貿易で大儲け。その独占が気に食わないと強く思ったのが明治維新と言えなくも無い。
世襲封建主義がよろしくないのはそうかも知れないが、できもしない連中に無理矢理勉強を強いてオチこぼれを作り心を歪ませるより、初めから職業が決まっていて早くからその道に精を出す方が健全な部分はあるのじゃないか(アッ、僕はチンピラでしたけど)。あれこれ勝手に妄想にかられて自分探しの旅などという金と時間の無駄を過ごさなくて済む。
世襲の統治が気に入らないといっても、今だって大方の人はやりたくも無い政治家は世襲でもしてもらわなければなり手がないか、相当怪しいでしゃばりが当選してしまう。子供の頃から有権者にペコペコして選挙でヘトヘトになる親を見て志を立てる人間の方が、ポッと出のチルドレンやタレント候補よりいいに決まっていると思うのは僕だけかな。その点お江戸の昔は大名でさえアホだったり女狂いがバレるとお家取り潰しになるので回りが必死に庇っていたではないか。今の議員とさして違わない。
極論すると公武合体くらいで妥協して、内戦なんかやらずに漸進的に改革されるのが望ましかった。逆に言えば明治以後の改革スピードが速すぎたのであの忌まわしい敗戦があったとも考えられる(但しその場合我が国が英米・ロシアの支配を受けなかったかどうかは研究の余地がある)。
以下はお江戸のまたその前の豊臣時代が続いていたらどうだったかを想像して、時代順に宝暦年間から平成まで五段階やって遊んだが、やはり結果は同じだった。
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
平成28年 大阪オリンピック ナニワの狂い咲き
2014 OCT 18 8:08:30 am by 西 牟呂雄

ヒトラーは独自の思想とオカルティズムを統合させ、ドイツのみならずヨーロッパを巻き込んでいく。戦勝国のはずのフランスも恐慌の最中にあっては実に意気が上がらない。経済疲弊により従来の体制から革新したい思いはどの国も一緒で、バカバカしいことに一般世論にはファシズムを歓迎する向きも色濃い。イタリア・スペイン・オーストリア・ウクライナと燎原の火のように拡がった。
このため、ヨーロッパ中でユダヤ系の迫害がひどくなる。ドイツもフランスも似たようなもので、財産没収など当たり前のように横行しだした。
ヒトラーは対ソ連を意識してしきりに日本に秋波を送って来る。日英米の三国同盟に楔を打とうとするが、時の太政大連葛城衆太郎を筆頭に米内光正自帆倶総司令官といった有力者は相手にしなかった。ヒトラーは一般にも評判が悪く、理由はその著書に日本人を指して『あの黄色い猿』と表現していたことが翻訳者によって明らかにされていたからだ。
この時期日本はブロック経済による縮小を脱するべく、不況ではあったが盛んに設備投資を行った。豊田重工業の名古屋地区の自動車、帝国機械工業の江戸エリアでの航空機といったものは、国防国策としてこの時期に大発展の基礎が作られた。
1939年9月、ヒトラーは突如ポーランドに攻め込んだ。電撃侵攻は世界をアッと言わせたが、これはドイツとソ連スターリンの領土的野心ミエミエのデキ・レースみたいなもので、ヒトラーはポーランドを分割した後に矛先を直にフランスに向けた。
フランス軍は自慢のマジノ線が何の役にも立たずにあっという間に総崩れし、腰の引けていた英軍はダンケルクで殲滅されてしまう。あまりの仏軍のふがいなさに雪崩を打ってイタリア・スペイン・フランス(ビシー政権)で汎ヨーロッパ連合が出来上がる。チャーチルは地団駄踏んで怒り狂ったが後の祭りで、ペタン元帥と喧嘩別れして転がり込んできたド・ゴールを取り合えず亡命政権として反抗の機会を待った。もっともこの二人、心底お互いをバカにし合っていたようでウマが合わなかったが。
これによって最も迷惑を蒙ったのは欧州に散らばっているユダヤ人であった。必死の脱出工作を展開し地続きのシベリア鉄道で脱出を図る。この時一身を顧みずにかたっぱしからヴィザを発行したのが『スギハラのリスト』で有名なリトアニアにいた杉原知畝である。事は一刻を争う。杉原は独断でスタンプを作る間もなく手書きのヴィザを発行しまくった。難民達は次々と脱出しシベリア経由で日本領アラスカまで移動しやっと腰を落ち着けた。アラスカでは元々人口が少ない所に持ってきて石油が採掘されだしていたために、多くは油田の周辺に定住する。その他、樺太から北海道に移民した者もいた。実は、以前フランク安田が組織したユダヤ人ネットワークがここで更に強化され、TOYOTOMI/アラスカはインテリジェンスの中心地となるのである。
又、他に職がないのでアンカレッジの自帆倶で軍人になったグループも多い。
しかし前回をしのぐ大戦争になるかと米英は大いに闘志を燃やしたが、意外に早く終結を迎える。
こともあろうに、不可侵条約を結んでいたソ連にドイツが攻め込んでしまったのだ。バルバロッサ作戦である。緒戦の圧倒的勝利にヨーロッパ・ユニオンの気勢が上がり、一時はモスクワまで数キロまで攻め込んだが、兵士出身の叩き上げで名高いソ連軍参謀総長ジューコフ大将の指揮の元、冬場に持ち応えて反撃する。
その時、あまりのヒトラーの気違い振りに嫌気がさしたドイツ国防軍内で、ロンメル元帥によりヒトラーが暗殺されクーデターが起こってしまう。
戦争は終結した。
独ソ戦時点で日本の葛城太政大連は『ヨーロッパの情勢不可解。』と政権を投げ出し、新たに米内内閣が発足し、この時点でアメリカとの緊張を嫌ってハワイの第六艦隊はアンカレッジの第七艦隊に吸収させる腹を固めた。アメリカがカメハメハ王朝を戦略的に取り込むのが時間の問題だったからだ。
だが、世界には新たな試練のときが来る。調子に乗ったスターリンは矛先を本格的に清に向ける。張作霖はロシア支配を敏感に察知していたが、息子の張学良はソ連派に寝返ってしまい、太平天国で弾圧を受けた毛沢東・周恩来等、長城を越えて逃げて来た一派と手を握り中国共産党を名乗って本格的な革命を起こし、その名も中華人民共和国と大きく出た。清も又、時代の変化に飲み込まれ滅びたのだ。国境を接する朝鮮も金日成の反乱を抑えきれず、38度線で李氏朝鮮と分裂、金氏朝鮮を打ち立てた。全てコミンテルンが糸を引いていたのである。
太平天国は袁世凱がクーデターで洪秀全を処刑したが、蒋介石・閻錫山といった軍閥が跋扈しており、戦乱に次ぐ戦乱の大混乱が続く。
ただ太平天国はキリスト教を国教にしておりアメリカはそのせいかヤケに入れ込んでいた。アメリカ留学を果たしクリスチャンであった宋美齢を妻とした蒋介石は日本に相手にされないため大いにアメリカに擦り寄り、ライバルを蹴落として大統領を名乗ることに成功する。
そして冷戦期になる。長城を境に対峙しつつ、中国と太平天国は小競り合いを繰り返した。よせばいいのに太平天国は何をトチ狂ったかベトナムにも攻め込み、結果無様に跳ね返されたが、10年にも及ぶ中越戦争をやる。
往時茫々、70年が過ぎ去った。
昭和は平穏に過ぎ大日本帝国は経済の一人勝ちの状態で、平成の御代に変わってもずっとそれが続いた。ソ連は太平洋進出を試みるも、太平洋は平和の海であり続けた。例によっての妥協の産物で、日米安全保障条約によりアンカレッジの新第七艦隊の共同運営・リース方式という常識破りの条約の結果、ソ連が潰れてロシアになってしまったからだ。この動きはフランク安田の後を継いだインテリジェンス・オフィサー佐藤優の手元に全て筒抜けで、日本が右往左往することは全く無かった。
アラスカで原油は出る、樺太でガスが出る、移動原発(巨大原子力潜水艦発電システム)は充実、エネルギー大国ニッポンである。
又、防衛大綱も洋上機動空母郡から静止衛星+海中機動体制に変わり、大日本帝国の宇宙ステーションはその名も『ヤマト』と言う。今では宇宙空間の原子力発電を地上に送電するシステムが実用化目前なのである。
投機的経済運営を繰り返し、何度も株の暴落によってバブル体質を露呈したアメリカを尻目に一人日本は悠然と我が道を行く。おりしも経済破綻と治安の悪化でリオデジャネイロのオリンピックが不可能になったブラジルに代わり、IOCは困ったときの日本頼みとばかりに開催を懇願してきた。平成の太政大連、安部晋三は軽く微笑んでこう応えた。
「よろし。かましまへん。」
だが、その直後の閣議ではこうつぶやいたらしい。『ほな、あんじょうかせいでや。』
標準語(大阪語)は英語との親和性も良いため、アメリカ人は苦も無くこなす。
「もうかりまっか?」「ボチボチでんな。」『How are you?』『Not so fine.』
「かんにんしとくなはれ。」『Yes, but』
「あきまへん!」『Too bad!』
と言ったように訳され、自動変換もできる。
豊臣家25代当主豊臣秀道は、首都大阪の大阪城の天守閣にある垂れ幕を下げた。大日本同胞(はらから)教本部の立ち上げである。祝詞には以下の言葉が並んでいた。今やTOYOTOMIは世界的な慈善財団としてビッグ・ネームであり、毎年ノーベル平和賞の候補となっている。ただ現当主は少しアブナイという噂があるため、次の代に見送られるらしい。
『みなは しこたま かせぐがよい
ためて つかって くるうがよい
おんとよとみの するごとく
ひのもと ますます さかえるぞい
へいわは いやさか つづくわい
おんとよとみの するごとく』
歌い狂う豊臣秀道の手には、黄金の千成瓢箪が輝いていた。
おしまい
P.S 皆さん戦争はやらない方がいいですね。書いて見たらやってもやらなくても結果は大して変わらなかった。
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
昭和元年 ナニワの花盛り
2014 OCT 13 13:13:34 pm by 西 牟呂雄

TOYOTOMI/USAからアラスカ支店長に任命されたのは、フランク安田こと安田恭輔である。彼は日本政府の後押しを受けながらアラスカ開発に乗り出す。TOYOTOMI家の跡取り22代目の豊臣秀達も自ら現地に乗り込み調査の指揮を執った。実は安田から『金鉱脈がありそうだ。』との情報がもたらされたからである。
一方でバルチック艦隊に完勝したことで、もう一つの火種アメリカでは急速に日本脅威論が高まって来ていた。カリフォルニアのゴールド・ラッシュが下火になり、太平天国の建国を嫌うチャイニーズ移民の急増もあったことからサンフランシスコ地域の経営にTOYOTOMIは意欲を失いつつあった。そんな時にアラスカが日本領になったため、豊臣秀達は本格的に進出を決断したのだった。
又、日本政府も日本人排斥運動が高まりを見せる中、第七艦隊をサンフランシスコに置いておくメリットが無くなって来ており、時の太政大連、大和俊介は『金ばかり掛かってあかんわ。』とこぼしていた。
ところが、サラエボの一発の銃弾がヨーロッパでとんでもない戦争を引き起こした。ドイツ側同盟国とフランス側連合国の間で始まった。
1914年から戦闘が始まりタンネンベルク、マルヌと激突。ガリポリ、ヴェルダン、そしてユトランド沖海戦と陸でも海でも総力戦が続く。ヨーロッパから中東、アフリカまで世界中で大戦争が繰り広げられた。あまりの殺戮の物凄さにどこも疲弊する中、太平洋と北米は平和なものだったが、日英同盟の誼で派兵の要請が英国首相からしきりにあり、日本も応えざるを得なくなった。『そんなことして、ナンボになるんや。』『しょーもない。』と評判は散々だったが時の太政大連(首相)大和俊介は『貸しつくっておくのもええやん。』と第五艦隊の一部を地中海に、香港外人部隊をヨーロッパに派遣した。
ところが1917年になってロシアで2月革命が起こってしまう。一種の内乱状態で東部戦線は訳がわからなくなり、そこへ商船を沈められて頭に血が上ったアメリカがたまらず参戦。結局これが流れを作った。
しかしボリシェビキが単独講和を結んだあたりから共産主義への脅威を感じた大和太政大連は第七艦隊をサンフランシスコからアンカレッジに移動させ、排斥運動に悩まされていた日本人も半数近く艦隊を追いかけるように移民してしまった。この動きは大きな社会問題になり、大西洋とヨーロッパにかかりきりだったアメリカをビビらせ、後に日英同盟への参加の流れを醸し出したのだった。
ヴェルサイユ条約が調印されようやく平和にはなったのだが、世界には二つの潮流が出現した。一つは国際共産主義、もう一つが恒久平和を組織化する動きである。
共産主義はコミンテルンが各国に共産党を結党させては指導した。ただ、日本にも共産党は出来たことは出来たが「そらなんや。余計に働いたら損やんけ。」「ワテ等そんな難し本よう読まん。学者のセンセに任しなはれ。」「そんな主義いらん。」のノリで全く流行らない。
恒久平和はその後国際連盟が設立されたが、「300年も戦争やっとらんのに何で入らなあかんねん。」「そんなもん金取られるのがオチや。自帆倶さんがおれば守ってくれるやろ。」の声が強く、人種差別禁止条項を入れなければ参加しない、と言い張って無視を決め込んだ。それを見たアメリカのウィルソン大統領も参加を思い止まってしまった。
ソビエトの内戦状態は大量の難民を生み、一部はシベリアを経由し日本領となったアラスカに移住してきた。寒さにはめっぽう強いロシア人である。カリフォルニアから移住してくる日本人よりも多い人数となり、鉱山に開拓にと従事し独自の集落を形成した。まず最初に建てたのは正教会だ。彼らの中にはユダヤ系も多くこちらは国境を越えてアメリカを目指す者も少なくなかった。フランク安田はこのユダヤ・ネットワークに密かに目を付けた。
赤軍はその後浦塩まで完全に制圧したが、さすがに黒竜江は超えられなかったようだ。その分清の取り込み活動を強化する。軍閥の張作霖に巨額の工作資金をつぎ込み、清朝の弱体化を企みながら秘密裡に中華共産党にも資金提供をする。同じく国境沿いの朝鮮にも反李朝の組織化に着手する。リーダーとして金日成を選んだ。
時代が混乱を呼ぶのだろうか。太平天国では軍司令長官の袁世凱が力を蓄え、洪秀全のキリスト教偏重主義に異を唱え出し軍を私物化してなお混乱が収まっていない。
国際連盟に入らない日本とアメリカに業を煮やした英国は、アメリカを説得して日英同盟+米の枠組みを持ち掛け、三国同盟を提案する。お付き合いのつもりで日本から全権大使としてワシントンに乗り込んだ松岡祐介に対し突如海軍船腹の保有制限、すなわち軍縮が提案された。5:5:3に制限するというのである。松岡は一応ビックリする振りをして大袈裟に言って見せた。『えらいこっちゃ!どないしょ。』翻訳は『Oh my God! What shall I do?』だったが。
実は自帆俱艦隊内部では既に浪速の建造を最後に、これからは航空だと方向転換して老朽戦艦日光・月光は空母への計画があり、又戦略的にもアンカレッジの第七艦隊とホノルルの第六艦隊は再編途上であった。松岡祐介は渋りに渋ってゴネにゴネて見せた後、ズバッと丸飲みして帰国する。帰りの船上で笑いを噛み殺している姿が目撃されていた。
後で気付いた米・英はその後もジュネーヴ・ロンドンと交渉を持ち掛けるが、今度は自帆俱中将山本三十七の巧みな交渉に手玉に取られ、日本は空母の次は潜水艦、その次は超長距離爆撃機だと充実を図る。無論未だ大量生産には至らないが、涼しい顔をしてケロッと妥協してしまえば英米は気味悪がる。それが抑止力になれば『タダやないか。』という考え方だ。
世界がジタバタしている中、大日本帝国は大正天皇の崩御により年号が昭和に変わった。聡明を以て聞こえた昭和天皇の即位である。
アラスカから沖縄まで、そしてハワイ・香港・シンガポールと祝賀ムードに包まれた。各国の大使が揃って京都御所にやってくる。この時期海外からの元首級が来日しても官位が授けられていないために御所に入ることが許されず、従一位を与えられている各国の大使のみが祝辞を述べられるからだった。
更に、奉祝大評定において段階的普通選挙が実施される旨が決定し、勅使を仰ぐこととなった。
時代は走るように進む。1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所の株価暴落が警鐘となる世界大恐慌に陥った。アメリカの供給能力の異常な過剰投資とヨーロッパの疲弊による需給の大ギャップだ。これで又ヨーロッパは迷走し出す。特に巨額の賠償金に苦しむドイツにとってはこのままでは国家の再建は不可能なのは間違いない。影響は米欧に留まらない。植民地は更に過酷に経営されることになり、全世界がブロック化され、特にインド・中東・アフリカはヨーロッパ勢に蹂躙されてしまった。しかし東南アジアはかろうじて日本の押さえが効いて未開ながらも植民地にまではならないで済んでいた。大日本帝国は来るものは拒まないが、地上軍の派兵というコストを伴う異民族支配を好まなかったからだ。
敗戦国のドイツ語圏には不満が鬱積して、不気味な国民感情が醸成されつつあった。そう、ヒトラーという怪物が動きだしたのだった。
それでも4月には大阪名物の八重桜が咲き誇り、ナニワの街は誰しも我が世の春を謳歌していた。
つづく
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
明治末年 浪速(なにわ)のハナ
2014 OCT 9 20:20:10 pm by 西 牟呂雄

明治37年、江戸湾に巨大戦艦が出現した。超戦艦『浪速』がその威容を見せたのだ。TOYOTOMIの技術の粋を集めたこの時代で世界最大・最強・最速の戦艦が進水し、艤装・竣工を終えて太平洋に出港したが、多くの国民は知らされることはなかった。これこそ自帆俱艦隊の切り札であり、来るバルチック艦隊との決戦に動き出した。
太政大連は二代目、山城重信に変わっていた。勿論大阪人のエリートである。このころ高等教育は全て私立が充実しており、江戸に慶應義塾、大阪に適塾、京都に同志社があったが、山城は適塾の首席だった。
連合艦隊を指揮するのは艦隊司令官、自帆倶大将西郷平八郎。『浪速』のブリッジから双眼鏡を見ながら猛烈な訓練の指揮を取った。この後鹿児島第三、香港第四艦隊と洋上合流し、新加坡第五艦隊とともにバルチック艦隊を迎え撃つ予定だが、作戦自体は密封命令により秘匿されていた。浪速は第三艦隊旗艦の『江戸』第四旗艦『日光』を従え第五旗艦『月光』の待つマラッカ海峡へと航海を続けた。しかし後の備えの為に第一・第二艦隊を日本に残さざるを得ず、連合艦隊とバルチック艦隊は総排水量においては互角であり、名将ロジェストウィンスキー中将に率いられたロシア艦隊優位の報道がヨーロッパでは流布していた。
新加坡では両艦隊決戦が行われるという噂で持ちきりだったが、ある日第五艦隊は錨を上げて跡形残らず出港してしまう。情報は錯綜し、バルチック艦隊の参謀達は疑心暗鬼に陥る。ロシア軍が陸上から集めた情報には敵が日本まで逃げ帰ったという物まであり、大いに揉めたが結局次の泊地であるカムラン湾を目指すこととなった。この一瞬の躊躇が明暗を分けた。
明治38年5月27日早暁、バルチック艦隊旗艦クニャージ・スヴォーロフの測敵手が叫び声を上げるのと、浪速の主砲が火を噴くのが同時だった。辛くも一発目は命中しなかったが、それを合図に自帆倶艦隊はロシア側から見ると左右に拡がるような艦隊運動を見せた。江戸と浪速がちょうど扇の形に別れていくように。中央からは日光・月光が多数の駆逐艦を引き連れ突進してくる。これこそ自帆倶の魔術師と言われた天才、春山参謀が一晩で思い付いた『逆Y字陣形』である。ロシア艦隊は次々と被弾し戦闘力を失って行く。かの下瀬火薬と伊集院信管の性能により実際初めの30分でカタが着いた。双方の距離は見る見る縮まり、すると横展開に前進していた浪速と江戸がロシア艦隊方向に舵を切り、巻き込むように並走する格好になった。後ろに続く自帆倶艦隊の後列もあとに続く。後に西郷のスペード・ターンと称される必殺の操艦で、これは春山参謀がトランプをしながら考え抜いたと噂された。
砲撃音が続き、クニャージ・スヴォーロフ、ドミトリー・ドンスコイ、オスリャービャ、インペラートル・アレクサンドルⅢ、ボロジノ、と次々に沈没。残りの残存艦艇は今度は追われる形になり、ことごとく駆逐艦による魚雷攻撃の餌食となった。
『カムラン湾の夕日赤し。』
春山参謀の筆になる、ワレコトゴトクテキヲゲキチン、の暗号である。大艦隊が海上から消えた。
密かにこの暗号を手にしたTOYOTOMI/ロンドン支店は市場が開くと同時に猛烈なロシア関連株のカラ売りを掛け午後には手仕舞いし、地球がもう半回転するニューヨーク支店では日本国債の買いに走った。結果は巨万の富をまたもや手にする。
2日後には連合艦隊が黄海に姿を現すと、そのまま渤海湾に侵攻。最後通告を打電しながら旅順のロシア軍要塞に洋上から砲撃を加えた。一方でセオドア・ルーズベルトに講和をせっついている間にも、日夜続けた。
ポーツマスでの全権交渉に当たったのは外務奉行、大村寿次郎とロシア全権ウイッテである。ウイッテの元には砲撃を受け続ける旅順の惨状が伝わっている。自帆倶側は占領するつもりはハナから無いので浪速が帰港した後は江戸と日光が射程一杯の大砲を撃つのだ。ウイッテは又、1ルーブルも払うな、と皇帝から言明されており交渉は難航する。
浪速は浦塩にも現れ威嚇の砲撃を加えた。何しろ巨大な島の様な巨艦だ。浦塩の市民はパニックになり、即座にペテルブルグに打電された。
一刻も猶予がなくなったウイッテは培賞金を払う代わりに持て余していたアラスカの譲渡を提案した。
日本国民は江戸や鹿児島といった辺境で多少の騒ぎがあったものの、概ね『ロシアはんが勝手に来たら全滅しはったんやて。』『アホちゃうか。』『そしたらアラスカいう所が転がり込んだそうや。』『なんや役たたんとこらしいで。』『ええやんけ。損して得とれや。』
山城太政大連はたったの一言、
「あんじょうキバってアラスカに荷物廻しなはれや。何ぞあるやろ。」
と笑った。
つづく
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
万延元年 浪花(なにわ)の華
2014 OCT 7 22:22:30 pm by 西 牟呂雄

摂関家19代豊臣秀慶は、自身の経営する『あけぼの新聞』に自説を発表した。「和のこころ 国体のあらまし」と題された衝撃の論文の概要は次の通りである。
聖徳太子のお作りあそばした十七条憲法の一・四・十七条を残し、一条には『広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ』を付け加える。新たに『旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ』『智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ』の二条を加え、五条憲法として国際的に発表する。
又、五奉行は代々世襲されてきたがこれを廃止し、全国の各邦(くに)から選ばれた代表による入れ札でこれを選出する。邦は古来からのものを踏襲し、それぞれ領主達が話し合いによって互選して代表を決める。一同に会したものを『評定』とする。
物品の買い上げの一割を『公金』として徴収する、今までの各領主が年貢として納めさせていた米をはじめ五穀・味噌・醤油・酒、流通する物品について全てである。今まで豊臣家が負担してきた軍事費用はこの公金を当てる。その他公金の使い道は先に定めた評定によって定める。勘定方は大阪堂島で行われている借方・貸方表記で全国統一する。
年に一度の大評定は各邦共通の『律令』を決めるものともする。
豊臣家は評定の議長を務めるが、10年後には世襲を排し評定から議長を互選する。
そして、対外的な国家元首は天皇家とする。
この内容に世界は驚愕した。今日で言う民主主義と消費税の導入なのだ。日本では市民はこれを『それでも暮らし』と言い習わし、欧米に伝播しDemocracy の語源となった。豊臣側近、特に世襲五奉行家は勿論反対の姿勢を露わにしたが、秀慶は知ったこっちゃない。即座に上奏しビビる考明天皇に御聖断を取り付ける。
秀慶の改革熱は止まるところを知らず、慶応年間には広大な関東地方の江戸湾一帯に製鉄・造船といった大工業圏を建設し出した。全て豊臣家の出資である。TOYOTOMIは一躍世界のブランドとなり、自帆俱艦隊と共に圧倒的な力を蓄積していった。
しかし、この国家は不思議と大規模な陸上部隊を構築せず、軍人と言えば専ら自帆俱艦隊の海上軍のみを指した。長いこと内戦が無かったため警察力以上の戦力は必要とされず、貿易拠点としての台北、香港、呂宋、安南、新加坡(シンガポール)、蛇賀田羅(ジャガタラ)という都市拠点を持つに留まり、決して駐留先の内政には干渉しなかった。それらの拠点都市では日本語が流行り通貨も「両」「分」が普通に通用した。治安も衛生もいいために越境するものが後を絶たず、自帆俱艦隊が入港するたびに入隊希望者が殺到する有様だった。
英国東インド会社とTOYOTOMIは提携関係を結び、後の日英同盟となる。
これらの改革は年号が明治に変わる頃に本格的に軌道に乗り、大評定を大々的に開き世界に向けて『大日本帝国』の名乗りを上げた。欧米列強の帝国主義的拡大にある種の抑止力を発揮するためである。この時期日本と利害が対立する国は南下政策を進めるロシアと西進して太平洋に到達したアメリカであった。国家の効率を高め自慢の自帆俱艦隊を充実させる必要が生じた。
五奉行は大蔵奉行・治安奉行・自帆俱奉行・外務奉行・科学奉行に再編され、奉行申し合わせにより『太政大連(だじょうおおむらじ)』を互選し、大阪出身で秀才の誉れ高い河内雄山を初代に選出した。これを期に豊臣家は摂政関白職を離れ、政治の表舞台からは遠ざかる。しかし大阪城外堀までの広大な私有地を保持する、日本一いや世界一の大金持ちであり続け、かろうじて比肩できるのはロスチャイルド家だけという噂だった。
日本商人道は広く世界に喧伝され『ほどほどにしなはれ。』『損して得取れ。』といった言葉は翻訳され多くの人口に膾炙するようになる。『モウカリマッカ』『マイド』はアジアにおいてはそのまま日常の挨拶に使われた。
時帆倶艦隊は七艦隊に増設された。
大阪湾に第一、江戸湾に第二、以下鹿児島第三、香港第四、新加坡第五、ハワイ第六、サンフランシスコ第七という布陣である。このうちハワイはカメハメハ大王からの要望で、サンフランシスコは自国民(約10万人が入植していた)の保護の名目で派遣した。カリフォルニアは少し前メキシコからアメリカに割譲され、途端に金が発見されゴールド・ラッシュが始まっていたが、現地でゴールド・キングと呼ばれたのがジョン万次郎こと中濱萬次郎である。株式会社化されたTOYOTOMI/USAのアメリカ支配人である。金採掘は巨万の富を日本にもたらしたが、同時に白人たちとの小競り合いが絶えなくなり、止むを得ず艦隊を派遣することとなったのだ。しかし第七艦隊は都市部のみを防衛しているだけなので、金鉱を守るためには自帆俱陸戦隊を組織せざるを得ず、これは現地で募集した外人部隊を傭兵として雇い入れた。主にネイティヴ・アメリカンや奴隷脱走の黒人を高い給料で訓練して鉱山の守りに当たらせたため、小規模衝突は誠に頭の痛い問題であった。
一方でロシアもしきりに黒竜江を越えてしきりに清を挑発する。ロシアの狙いは不凍港の確保だったので、アイグン条約・ネルチンスク条約等で清の足元を脅かした後、まず遼東半島を確保しようとした。圧倒的な日本の自帆倶艦隊との直接戦闘を避けるため、朝鮮半島には手を出さなかったからと言われている。
そうこうしているうちに、明で農民の反乱をきっかけに大規模な内戦が始まり、あれよあれよという間に大陸は大混乱に陥った。
時の皇帝であった星光帝は連戦連敗に驚き、香港の自帆倶第四艦隊に応援を求めて自身は南京から一歩も出ようとしない。これに先立ち第四艦隊も第七艦隊の外人部隊方式で陸戦外人部隊を編成していたため、日本政府は東郷隆盛を指揮官とする陸上部隊を広東州一帯の防御には当てた。しかし緊急に開催された大評定はそれ以上の侵攻を許さなかった。『そんなもんに巻き込まれて何の得があるのや』第四艦隊参謀部に入電した河内雄山の言葉とされる。
ところがロシアはこの機を見逃さず、シベリア鉄道の完成と同時にバルチック艦隊を急遽極東に回航する動きに出た。日英同盟のインテリジェンスによって、日本に密かに伝えられた。
大陸は風雲を告げる。ついに反乱軍は明の首都南京に雪崩れ込み星光帝はなんと日本に亡命しようとしたが、結果失敗して処刑されてしまう。反乱軍指導者だった洪秀全は『太平天国』を打ち立て自ら飛天大王と称するに至った。明は滅び去り、キリスト教を国是とする国家が出現した。泡を食ったのは国境を接する清である。最高権力者の西太后は宰相曽国藩と李鴻章に首都を新京から斉斉哈爾(チチハル)に遷都する様に命令を出した(実行はされず)。大騒ぎになったのは李氏朝鮮も同じで、こちらも権力者閔妃が露骨にロシア寄りの姿勢を打ち出し、国論は二つに割れた。
どの国も日本がどちらを向くか、固唾を飲んで様子を見る。一人太政大連、河内はうそぶくのだった。
「さて、どないしまひょ。」
バルチック艦隊は喜望峰を回り、インド洋を北東に進んでいる。時は刻々と迫っていた。
つづく
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
宝暦元年 難波(なにわ)の花
2014 OCT 5 20:20:25 pm by 西 牟呂雄

第九代摂政関白を継いだ豊臣秀重は、生来聡明でなく近習達は常に気を揉んだ。何を言い出すか予測不能な上に、言語不明瞭で何を言っているかさえもわからないからだ。側近右大臣石田康成がいつも控えており、配下の者に伝える役目を一手に引き受けていた。
ある日はあまりに暑いので『雪を降らせよ。』と言い出した(らしい)。元々常軌を逸してばかりなので誰も相手にしなかったのが勘気に触れた。
「何で雪が降らんのや!降らなんだら皆打ち首や。」
甲高い小さい声でそう喋った(らしい)。石田康成はほとほと困り果てて一計を案じた。曇天の日を選び大阪城天守閣から紙吹雪を降らせ、寝所からそれを見せた。
「上様、雪でごじゃります。恐れながら時節は夏ですゆえに積もることはあらしゃいませぬ。」
「ユーキー。雪や雪や。」
右大臣以外のもの達には『ウーイー。ウウウヤア。』としか聞こえなかった。
初代豊臣秀吉は、破竹の勢いで天下を統一した織田信長の後継となりおおせた後、摂政関白となった後は野心満々の徳川・毛利・伊達等をたくみに競わせ権力の頂点に君臨した。結果徳川は江戸周辺の田舎大名に、毛利・伊達を始め有力大名も削られた領地に押し込められ、後に太閤刀狩と言われる武装解除までされてしまった。
政権運営は五奉行を中心に極端な重商主義を取り、南方との交易を盛んに奨励して莫大な富を独り占めすることに成功。一方で倭寇を密かに後押しして軍事的にも圧迫を加え続け高砂・呂宋・越南・ジャガタラ方面の制海権を常に握った。これは信長の時代から蓄積された大安宅船の建造技術を発展させて、世界最強の海軍力を持っていたためである。
宗教的には常に宗派同士の緊張を維持させ南蛮寺にはプロテスタントとカトリックを、浄土宗には日蓮宗を、伊勢神宮には出雲大社を対立軸を立てて政治には介入させなかった。即ちキリシタン追放や鎖国などする必要は無く、交易すればそれだけ豊臣政権の財政基盤が強くなる結果を招く。
有り余る金銀をバックに技術革新が進み宝暦年間には産業革命と言われる発明が日本で先行した。元々世界一の鉄砲大国だった日本は飛躍的に戦闘力が上がった。これによって、英蘭の東インド会社の勢力範囲はカルカッタまでに限定された。この時期日本海軍は対外的に『自帆倶(ジパング)』を名乗った。
一方大陸においては突如女真族が清を建国し、明を圧迫しだした。明は飢饉が続き人口が減って国力を弱めていたため簡単に清の侵略を押さえられず、自帆倶に救助を求め日本は派兵した。隊長は勇武の人、山田長政。
山田部隊は連戦連勝で清の侵攻を食い止め、かろうじて長城ラインまで押し返した。永暦帝はこれに感激し山田長政に香港の地を与え、かの地は代々自帆倶の正規兵が常駐することになった。豊臣政権の直轄部隊として主に薩摩人から選抜した軍団を派兵した。
さらに絶妙な外交センスで李氏朝鮮を通じて清とも盛んに交流し、自帆倶艦隊も日本海を北上、浦塩あたりまでその威容を見せつけた。更にそのズバ抜けた機動力と磨かれた航海術で太平洋を渡ってもみせたのだ。後にハワイ・カリフォルニア航路となる。
宝暦年間、西暦では1750年代の秀重時代に大阪の繁栄は当時の世界一で人口は200万人、張り巡らされた掘割で上下水道は完備。文化的にも様々な小説・戯曲・詩歌・絵画・建築等の独自様式が発達し、全国に発信されていった。全国どころか大阪発の流行は自帆倶風(ジパングフェン)として半島経由で清に、香港経由で東南アジアへあっという間に広がり、遥か喜望峰を越えてヨーロッパにまで伝わった。
都市機能が発達したため『市民』の意識が芽生えるに至る。正確には公家と五奉行以外に特権階級というものは事実上存在せず、武士と百姓は身分上の境界線は無い。大名は直轄の事務方を除けば治安奉行しか配下に置いておらず、いうなれば百姓の親玉である。図抜けた財力に物を言わせて兵を養うのは摂政関白家のみであり、自然とその位置づけは『国軍』ということになる。ヨーロッパのようなブルジョア革命などしないで『市民社会』が日本中に形成された。革命などする必要がなかった。
ボンクラだった秀重の後は名君が続き、太平の世が続く。難波はいつしか浪花と表記されるようになり、社会的には各種産業が興り文化の華が咲く。
日本の場合、一般的には基本的には長子相続を基本とする直系家族を構成するが、大阪の商家に見られるような養子縁組・いとこ婚も容認する独特の社会を形成するに至る。結果として次男・三男は『イエ』を継がずに軍人、製造業、商業、芸術と別の分野に進み、この階層が分厚い中間層を形成した。蝦夷地開発も、野心的商人が次々と進出し、ギリヤーク・オロッコ・ジョルシンといった異民族との交流が進む。
しかし『算盤の合わんことはやりまへん』の格言が残るように、意味の無い領土拡張はしない。島国なので海軍の充実と交易だけで領土が侵される心配が全く無い故による。その圧倒的な海軍力でこの時代樺太・千島列島から沖縄までが今日で言う領土となっていた。しかも産業革命後の更なる革新と石炭採掘技術の向上で、世界に先駆けて蒸気船が主流になり、ハワイから北米にまで盛んに移民してカリフォルニアは巨大な日本人コロニーが形成された。これは後に西進政策を取ったアメリカとの対立点となる。
時が過ぎ摂政関白家の19代目に一種の啓蒙思想家である豊臣秀慶がなった。万延元年のことである。この人はある意味で歴史学者でもあり、改革派でもあり、発明家でもあった天才だった。
つづく
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
