僕は保守派
2024 AUG 11 21:21:01 pm by 西 牟呂雄
「世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性を持ち、相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現れ、そこから消えることができるのである。言い換えれば、世界は、そこに個人が現れる以前に存在し、彼がそこを去ったのちにも生き残る。人間の生と死はこのような世界を前提としているのである」
思想家ハンナ・アーレントの言葉である。『全体主義の起源』で名高いアーレントの評価は一旦置くとして、このところの筆者にとってこの言葉はズッシリと腑に落ちた。
ここで『運動』と表現されているのは、例えば世界史の潮流として現れる社会運動や思想的流行、更に技術開発に伴う構造変化といったものまで大きく網羅していると考えられる。
例えばグローバル化が進行した、世界は右傾化したといった流れはその時々で観察されるものの、溶液の中の酸化・還元が繰り返されていながら一定の均衡状態を保つようにバランズするごとし、と読み解ける。その中で個人は繰り返し現れては消えていくが、集団としての動的平衡は保たれる。
無論個人の内在する葛藤やら感情はそれぞれだが、ピースの一つとしてアーレントのいう『耐久性を持ち、永続性をもっている』ところに光をあてればいかなる凡人の人生でも光輝く。
即ち、相矛盾する事象といえども現実に共存することはごく自然なことで、人間も社会もそうあることこそ自然体だとも言える。
筆者はかつてそのような考え方について『川の流れの方が流れることによって学習し、流れに潤っている生きとし生けるものは施しを受けているに過ぎないと。流れの水が大地の形から自然の造形を記憶しているのではないか』と表現してみた。
このブログはそれを言語化しようとした失敗作だが、6年前はといえばすでに還暦を過ぎていたにもかかわらず、この程度の考察しかできていない。
それがアーレントの言葉をもって安寧を得た。
障害物に当たった個人は自分と世界の関係を理論化しようとして現実否定のイデオロギーを作り出そうとするが、それは理性の傲慢であり、理性は必ず過去の習慣や先入観に育まれているから、それらを完全に否定すれば方向性をも見失う。それゆえ社会というものは(この場合筆者の好みで言えば保守主義というものは)手入れを怠らずに鍛えに鍛えても漸進的にしか変わらないのだ。
翻って、バブルの崩壊以後、少子高齢化、就職氷河期、財政健全化、非正規拡大、不法外国人労働者、郵政民営化と30年を失っている間に様々な『運動』があったのだが、その間『改革』と称して俎上に上ったもので効果があったのは『異次元の緩和』くらいだろうか。民主党政権や小泉改革とは何だったのか。
議論は色々あろうが、そうであれば故安部元総理を除けばほとんどがアーレントの視点を欠いた小手先の『改革』でしかなかったと言えるのではないか。筆者でさえもその視点を6年前は持ち得なかったのだ。
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菩提寺にて
2024 APR 7 6:06:21 am by 西 牟呂雄
ある難民一家と知り合った、というか話をしただけだが。お父さんと娘さん・息子さんの一行は佇まいがとても品が良く、最初は中東から来た観光客だと思った。というのもこの喜寿庵周辺のような田舎でも外国人を観ることは珍しくもなく、欧米人・東南アジア人と思いもよらないところで遭遇する。ほとんどが富士山観光のついで、もしくは宿が一杯なのでここまで泊りに来た観光客である。困っていそうな人には道案内をしてあげたりもして、大抵は英語ですむ。ただし技能研修性のための日本語学校まであるため、そこの生徒たちは英語は覚束ない。
今回はいきなりそのお父さんから日本語で話しかけられた。
『西願寺はどっちですか』
きれいな発音だった。
お父さんは年の頃僕よりは若いのだろうが、頭髪は少し薄くなりひげは真っ白。そして何よりも顔が大きい(身長は低いのに僕よりずっと大きい)。娘さんは欧米人との混血と見まごうような彫りの深い美人で黒髪、息子さんも黒髪で目の大きな少年である。肌は浅黒く、ヨーロッパ系ではなさそうだった。
ちょうど墓参りに行くついでがあったので、こちらですよと案内することになった。
『西願寺に御用ですか』
『いえ、この子達に枝垂桜を見せてやりたくて。有名ですから』
『そうですか。ちょうど行くところですからご案内しますよ』
亡母の命日が近いのだ。
『ずいぶん日本語が上手ですね』
『私はもう30年日本にいますから』
その間お子さん達は聞いたこともない言葉でポツポツ会話をしている。まったく見当もつかないので聞いてみた。
『どこから来られたのですか』
『私はトルコ人です』
『そうですか。トルコ語は初めて聞きました』
『いや、あの子達が喋っているのはアラビア語ですよ』
『へえ、トルコでもアラビア語は公用語なんですか』
『いや、公用語ではないですね』
と話しているうちに着いて。見事な桜のドームが満開で子供さんは歓声を上げていた。それじゃあ、とお墓に行ってお線香を上げて一服。母はタバコが好きだったのでお線香と一緒に添えてやった。もう十年経った。
戻ってくると一家はまだベンチに腰掛けて眺めていた。トルコは伝統的な親日国として知られる。それはエルトぅール号の救助のエピソードや長年死闘を続けてきたロシアに辛勝したことが遠因とされているが、今でもそうだろうか。ここは民間外交の基本として何でも感心して友好に努めようか。
『日本で何をされてますか』
『宝石の輸入をしています』
『そうか、トルコ石とかありますね。私は色々と世界を回ったのですがトルコは行ったことがありません。イスタンブールはどんなところですか』
するとその質問には答えず、桜を見ている視線を僕の方に向けてポツリと発した。
『私は国籍をトルコにしていますが、タタル人なんです』
『えっ、タタル!日本語や中国語で韃靼人とも言われているタルタル・ソースの!』
『ハハハ。よく知ってますねそうですよ』
『司馬遼太郎の本で読みました』
『「韃靼疾風録」ですね。あれは私も読んだけど正確には私達ではなく靺鞨のことです。ジョルシン、後の満州族です。私達はその頃は突厥と呼ばれていました』
なに、読んだ!確かにこのオッサンの言う通りなんだが、日本語でよんだのか、並々ならぬ教養に恐れ入った。これは只者じゃないぞ。
『タタールの方が日本にもいらっしゃるのですか』
『あなたの年齢ならロイ・ジェームスを知ってますね』
『あの日本語の達者な外人タレントですか』
『彼もタタルですよ。彼は私の父の友人でした。革命後ソ連を嫌って日本にやってきて白系ロシア人と言われた人達ですね』
突然世界史が目の前に出現したような気がしてお子さん二人に目をやった。
『あっ、この子たちはタタルじゃありません。上の女の子はクルド人で下の男の子はパレスチナ人です』
今度は国際政治を突き付けられた。
『上の子は両親をISILとの戦闘で亡くしましたし、下の子もヨルダン川西岸の騒動で孤児になりました。クルド人はどこでも弾圧されていますし、パレスチナも似たようなものです。今は戦闘が報じられていますが、あのハマスはテロリストにすぎませんし自治政府というのも腐敗の温床で統治能力はありません。二人とも身寄りがないので私が引き取って東京に連れてきました。言ってみれば難民なんです』
『そうだったんですか』
『この子達は、まあ私もですが祖国というアイデンティティはありません。・・・・桜がきれいですねぇ、日本人は幸せですよ。国内に民族対立はないし、世界のどこに行っても故郷を普段は忘れていても思い出すことができますから。こんないいことはないんですよ』
返す言葉がなかった。逆に、我が国は世界を相手にあんなみじめな負け方をしていながらよくまあ(領土問題はあるにせよ)露骨な分断もされずに今日に至ったものだと先人の知恵に感謝した。同時に苦労をかけた沖縄にもだ。
『あのー、これからどうされるのですか』
『この子達に富士山を見せに行きます。印象に残るでしょうから。そのうちに第二のふるさとだと思えるかも知れません』
『それだったら私の車で送りましょうか』
『ありがとう。周遊券を買っていますし旅はゆっくりするものです。生きた自然を見て人を見て、神の偉大な創造を体験することが真のイスラムの知ですから』
『イスラム!』
『あっ、ご安心を。私たちはスンナの穏健派ですからね』
そういって初めてニッコリ笑った。
そしてアラビア語(だと思う)で子供たちに何か言って立ち上がった。
『私はラシド・ムサーといいます。神のお導きがあれば東京でお目にかかるかもしてません』
子供たちを促すと二人ははじけるような笑顔で『サヨナラ。マタイツカ』と言った。僕もつられて『さようなら。又いつかね』と言って手を振った。
三人は山門の所で振り返り、もう一度手を振ると歩いて行った。
しばらくタバコを吹かしながら桜を見上げ、あの子たちの今後の幸せを密かに祈った。本堂に向かって仏教式に合掌しながら。
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この世の境目
2023 JUL 16 6:06:24 am by 西 牟呂雄
先日、親族が天寿を全うした。パーキンソンを患い、最後は認知症になってしまったそうだ。これは悲しいことでその人にはもう会えないのだが、最後に会っても話はできなかったのだろう。後何年もか生きれば苦痛が続いたことは想像に難くない。そんな苦労をして生きなければならないのか、違うだろう。
コロナが収まった途端に葬儀が立て続けにあった。
一人は無宗教の家族葬。もう一人は上記の方で敬虔なクリスチャンのため教会葬である。
僕の家は浄土真宗で、菩提寺での葬儀も法事も何度も経験しているが、葬儀はこちらも動転しているのでお経も講話も覚えていないし、法事になると退屈だもんだから住職に『短めでお願いします』などと不届きなことを頼んでいる(もう何代もやってる間柄だし)。第一お経なんか何を言ってるのかわからない。
因みに母方は神道で、神主がお経の代わりに祝詞を唱える。そもそも葬式とは言わずに葬場祭(そうじょうさい)というお祭りだ。焼香はしないので、代わりに玉串奉奠(たまぐしほうてん)をする。大抵神主がテープで雅楽を流しながらナントカの儀という手順で進め、確か途中で照明を落とし真っ暗にした。御霊が身体から抜けるのだと聞いてそれなりにしみじみしたものだった。
無宗教は親友だったブログ仲間の故中村順一君のときもそうで、個人の好きだった音楽を流していた。上記家族葬の時はナントカ讃歌という寮歌をかけて、OBたちは多少口ずさんでいた。
そして教会葬は直近のことでもあり、感慨深いものだった。美しい讃美歌は知っているメロディーなので唱和できた。その後に聖書を読むのだがそれに衝撃を受けた。
『だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、くらべものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものはすぎさりますが、見えないものは永遠に存続するからです。ーコリント人への第二の手紙4章16節から18節ー』
僕はクリスチャンじゃないので宗教的な解釈はできない。だが、そもそも葬儀は残された者のためであり、亡くなった人を偲ぶセレモニー。悲しくもないのが義理掛けで大勢来るのはいかがなものかと思っている。
上記、聖書からの引用は信仰者でなくとも腑に落ちる警句であり、尚且つ送る側が同じ教義を固く信ずる場合は、どんなに悲しみをやわらげ、遺族を慰めることだろう。
まっ、そうは言っても今更洗礼を受けてどうこうするつもりもない。フト自分が死んだ後の葬儀を想像してしまったが、クセの強い我が親族と少数のタチの悪い仲間が、ガンガン酒を飲みながら私の悪口を言ってはゲラゲラ笑っている光景が浮かんできてウンザリさせられたからである。
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相撲の始まり
2022 NOV 19 22:22:01 pm by 西 牟呂雄
関西の旅
のつづきー
目下九州場所で一年の締め括りの場所中である。
良く知られた話だが、野見宿禰と當麻蹶速が垂仁天皇の前で力比べをしたのが相撲の始まり。
恐ろしいことに野見宿禰は當麻蹶速の肋骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて勝ったというから、現代の相撲とは違ったキックもありの立ち技格闘技だったのだろう。當麻蹶速は命を落としたから、凄まじいデス・マッチだ。その勝利によって野見宿禰が當麻蹶速の領地を授けられたが、その場所は現在の奈良県香芝市『腰折田(こしおれだ)』地区と言われている。そしてその地区はデスマッチの行われたのもその場所だと主張している。腰を折ったから腰折田とはすさまじい。當麻地区からも近く、いかにも當麻蹶速の領地と言うのに説得力はある。
當麻寺の参道で見つけた『葛城市相撲館「けはや座」』はそれにあやかった町興しの施設のようで、実際の土俵が作られていた。立ってみると意外と固い。
建物の前に蹴速の墓と言われる塚があるが、これはちょっと怪しいのではないか。古墳時代の話ですぞ。天皇じゃあるまいしいくら強くてもねえ、古そうな石塔だったが。
一方の野見宿禰は出雲の出身とされている。ところが、この奈良盆地のちょうど東側にある桜井地区に何故か出雲という地名が残っている。そしてその桜井地区には卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳をはじめとする纏向遺跡があり、第11代垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくたましろのみや)と第12代景行天皇(倭建命の父)の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の伝承地である。要するに当時もっとも発達した都市が築かれていた。
その垂仁天皇が力自慢の當麻蹴速と野見宿禰のデス・マッチをさせたのだが、その現場と言われている場所がここにもある。その名も相撲神社。これは行かねば。
ところが、車で行くとまるで『ポツンと一軒家』で山奥に行くような細い道を登っていく。対向車とはすれ違えないだろう。恐る恐る行ったところに相撲神社はあった。鳥居はそれなりだが誠にささやかな社が。野見宿禰を祭ってるらしい。しかしどうも違和感がある。周りに力士像やら土俵やらしつらえてあるのだが。
案内を読んでいると、どうやらこの神社は後付けで造ったのではないかと疑問が湧いた。
ここの地名は古よりカタヤケシという字名で、カタヤとは『方屋』即ち相撲場の四本柱の内、土俵のことである(江戸期以前は俵を四角に配した角土俵だった)。そこから着想を得て、ここが相撲の行われた所だ、としたのではないだろうか。昭和37年10月6日に柏戸・大鵬両横綱がここで土俵入りをしたとある。当時京都に在住していた小説家の保田與重郎に地元の有力者が話を持ち掛けて実現した、そのころの一大イベントだったろう。要するにここも町興しだったのじゃないか。
しかし私が思うに、肋骨を折り腰骨を砕くようなデス・マッチはプロレスのような四角いジャングルで行われたに違いない(猪木がマサ斎藤とやったみたいに)。だからカタヤケシは有りだ。
その両横綱土俵入りの時に使ったと思われる土俵がブルー・シートがかけられて保存されていた。四方の柱は自然木のようで、あんまり使っていないらしい。
先ほどの社の処からこの土俵を見下ろすと、遠景に奈良盆地の雄大な風景が一望できる。ここで天覧相撲を戦ったらそれは燃えるだろう。そう思えばあながちただの町興しだけではないかもしれない。
この神社に続く道はまだ続いていて、先はどうなっているのか気になったので、歩いて行く。登っていくとミカン畑なんかもあり、多少の人の営みの形跡があったその先に、アッ再び鳥居が出た!本物はこっちでは。
山奥に鎮座する姿は物々しく、不気味な雰囲気が漂う。おそらくこちらの神社が親分で相撲神社はその子分というか支店のように創建したのだ。解説によると垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったと伝わる大兵主(おおひょうず)神社である。いずれにせよ10~11代天皇の時代、遥か昔からここにいるわけだ。『大和一の古社である』とわざわざ表記しているところはむしろかわいげがあり、社殿の横の来歴は手書きだった。大兵主神は他にも素盞嗚命(スサノオ)、天鈿女命(アメノウズメ)、天日槍命(アメノヒボコ)に御せられるとも、すなわち出雲系、渡来系、とどうも本流ではない神様と言える。
さて、野見宿祢の出身に諸説あることを記述したが、確かに出雲国から力自慢がやってきて天覧相撲をするのはそれなりのスケールとロマンがあるが、どうも桜井市出雲が引っかかる。当時、力自慢を競わせるのに遠い出雲から人を呼ぶほどの”全国的”な統制が行きわたっていたのか疑問だ。
そこで考えた。ヤマト盆地の西の當麻にバカみたいに強い男がいてオレが日本一だと嘯く。すると垂仁天皇は『東で一番強い男と戦ったらどうなるのか』と地元の(桜井市出雲)男達に下問した。口を揃えて『それは野見でしょう』となり、両者が雌雄を決することになる。するとその場所は腰折田でもカタヤケシでもなく、その真ん中である今日の大和八木の辺りの田圃の一角で、両方から多くの応援団がやって来る。ヤマトを上げての一大イベントに群衆は盛り上がり、天皇も最前列で観戦する。
『に~し~、たいまの~けはや~。たいまの~けはや~。ひが~し~、のみのすくね~、のみのすくね~』
ここで世紀のデスマッチの火蓋が切られる。
両者ガッチリ組んで互角だが、蹴速はしきりにロー・キックをぶち込むが野見は巧みにブロックしつつ腕を固める。そして力任せに投げを打つ。蹴速が起き上がって来たところに野見の回し蹴りが決まってダウンを奪い、そこに猛烈なストンピングを浴びせて担ぎ上げバック・ドローップ。すると蹴速が死んでしまった、ナーンチャッテ。
現代の大相撲のルーツにふさわしい闘いではないか(今は蹴りは禁止)。きっとそれで今でも呼び出しは『西、東』であり、天覧がある格闘技なのだ.僕のルーツが『葛城の足跡』の仮説通りなら、僕の先祖はかぶりつきでこの取り組みを見ては歓声をあげていたことだろう。ケハヤ・ボンバイエと。
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葛城の足跡
2022 NOV 6 0:00:41 am by 西 牟呂雄
家系伝説ではヤマトの方から食い詰めて東にたどり着いた藤原の流れとなっている。どうせ誰かが吹いたホラだろうが、もし本当ならヤマトのどこあたりがルーツなのか。それを解く鍵が気になっていた。地名である。
私の本名は全国でも甲斐国の一部に多く、そこから同心円的に分布していた。面白いことにそこは桃太郎伝説がある。そしてもう一つ平家の落人伝説。どちらも知る人は少ない。特に平家の方は清盛一派の伊勢平氏ではなく、平新皇・平将門の息子が流れてきた話。
戦前の電話帳にウチの苗字は東京市に二軒しかなかった。ウチは曽祖父からの下町だったがもう一軒は中野区の女性で、再開発される前の中野駅北口で表札を見たことがある。爺様は冗談で『そのウチはワシの妾宅だ』という嘘をバラまいたらしいが、当人が知ったらさぞ迷惑だったことだろう。最近、八王子の呉服屋さんが同姓で家紋が同じなのを発見した。
また、九州単身赴任時代に歯医者にかかったところ、同じ苗字の女性歯科技工士さんがいて、山梨のご出身ですかと聞かれた。その方は結婚されてその苗字になったが、ご主人の父上は山梨からきたそうだ。『あなたと私が不倫してもバレませんね』とマヌケな冗談を言ったところ口をきいてもらえなくなった。
この写真は奈良県葛城市の電柱の住所表記である。
今回の旅先で見つけた。確かめようもないがここからはるばる東下りで一族郎党が流れたのではないだろうか。
近鉄御所線の単線が通る農村地帯だ。
こころみに近所を歩いても表札に同姓は一軒もない。
或いは、ナントカ一族が逃げ出して落ち着いた後に故郷を懐かしんで出身地を名乗ったかも知れない。
ちっぽけなお寺があったので試しに聞いてみたが、やはり近在にその姓の家はないそうだ。ちなみにそこのお寺の奥さんは大字(おおあざ)のことを『ダイジ』というので初め何を言っているのか分からなかったが、あれは方言なのか奥さんが無知なのか。
仮説が正しければここで農業にいそしんでいたのか、などと思いながらブラブラした。
まことにささやかな小川があって、その向こうの地名は東室であり、遥か南に下った隣の市には室という地名も残されていることも分かった。更に北の斑鳩には三室山という聖徳太子ゆかりの山がある。
古代にあっては土を掘り下げて柱を立て屋根をかぶせる竪穴式住居を『ムロ』と呼んだ。この辺りはそれなりの人口を擁した集落だったのか。
奈良盆地をうろつくと、南東の石舞台がある蘇我氏のフランチャイズ、卑弥呼の墓とも伝わる箸墓古墳のエリア、北にあたる平城京と斑鳩、と中心地が移動している。そしてここ葛城もまたそれなりの政治的勢力の葛城氏が値を張っていたことだろう。
集落の外れまで来ると誠にささやかな神社があった。
春日神社である。春日と言えば藤原。ははあ、それに引っ掛けて『ウチは藤原だ』と言った奴がいたのだな。ただしここから流れたという証拠なんかない。
おもむろに地図を広げて眺めているとすぐ近くに當麻寺があった。聖徳太子の異母弟、麻呂子王によって建立されたと言う伝承の古刹である。今日では当麻寺と表記される。
ここから一山超えれば河内の国になる。古来交通の要所で、しばしば戦乱にも巻き込まれた。
検索してみると、役行者だ空海だと有名どころがテンコ盛りで、元々は三輪宗の寺だったのだが現在では真言宗と浄土宗の二宗兼学の寺院となった。
尋ねてみると広い敷地の大寺院だった。
そして塔が東西とも残っている古い形式で他では見られない。国宝の當麻曼荼羅図(根本曼荼羅)があり、拝観料を払ってみたものの暗くてなんだか・・・・。
この曼荼羅は中将姫という姫君が蓮糸を用いて一夜の内に織った、という伝承があるが実際には錦の綴織りであることが分かっている。藤原鎌足の曽孫である藤原豊成の娘とされているらしい。
やれやれと参道を下り始めた所で、なにやら場違いな『葛城市相撲館「けはや座」』の看板。なんじゃこりゃ。更には『相撲の開祖・当麻蹴速の塚』。相撲?けはや?
この項 つづく
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京都魔界探訪
2022 NOV 1 0:00:41 am by 西 牟呂雄
大正の中頃には僕の3代前は黒紋付の染め抜きの専業で手広く事業を展開したそうだ。関東の染色業者にも関わらず京都に店を構え、関東者が成功したと珍しがられたらしい。早い時期に専売特許を取得したこともあってほぼ無競争の商売だったようだ。
その跡を継いだ次の代(すなわち爺様)が京都の事業を任されていたことになっていたのだが、爺様は仕事なんかしないで京都帝大に通っていた。
先日、古い物を整理していたらその頃のモノが出てきて色々と面白かったのだが、京都の店の従業員の記録とか一連の綴りがあった。そして爺様が通ったのは経済学部であったことを記したものがあり驚いた。旧制高校は蔵前高等工業(現東工大)。通説では工学部に行ったことになっていたのだが経済学部である。更に不可解なことに中退していた。京大ではそのころ河上肇によるマルクスの研究が盛んで、京都学連事件(きょうとがくれんじけん)などの導火線となる学風であったため、大いにその方面に接近し当主(曾祖父)の勘気を被った可能性が高い。事実その直後、地元に帰され結婚もしている。
それからおとなしく仕事をしたかと言うと、そうはならずに様々な奇行を重ね、挙句の果てに戦争中に統制を受けて店を閉めてしまい、息子達は跡を取らなかったせいで経営を譲ってしまった。宮内庁の仕事を手掛けて大赤字を出した、とも聞いた。菊の紋章を図案化するのに竹でできたコンパスを手作りしたとのことである。続けていてくれたのなら、僕はサラリーマンになんかならずに済んだはずだ。
以前からその京都の店および工場(こうば、と呼びならわしていた)がどうなったのかが気になっていて、先日京都に行ってみた。住所は京都らしく『〇〇通り▽辻クダル』。
古には都大路だったというその通りの南端は羅生門があったと伝わる一角である。新撰組が入京してしばらくいた壬生のすぐそばにあたる。
一見京都の普通の街角に立ってみた。往時を思わせるものは何もない。染物屋の店も工場も見当たらなかった。わずかに『××染工業』という看板がかかる事務所がビルの1室にあったが休日で人はいなかった。
こういう時は近所を取材するのだろうが、それらしい人が都合よく歩いているでもない。漬物屋さんが店を開けていた。『ごめんください』と狭いお店に入ると柴漬けとかお惣菜があって、出てきたのは建築史や京都の歴史の泰斗である井上章一先生にそっくりなご主人.少し買い物をして、おもむろに尋ねた。
『ご主人、このお店は昔からやってるんですか』
『ワタシが始めてからは50年かな』
『はあー。その昔このあたりには染物屋はありませんでしたかねえ』
『そらこころはみーんな染屋でしたわ。床見てみなはれ』
『石造りですね』
『ウチは染屋に糊を卸してましたんや。糊を焚くのにセメントやらアスファルトではでけんので石敷いてました』
『えっ、じゃこの石畳は大昔からあったんですか』
『いや~、市電の廃材かなんかですやろ』
『・・・・』
何やら得体の知れないオッサンで、後から考えるとこの時点で術中にはまったのかもしれない。
『その中に黒染めの専業の店はありませんでしたか』
『あったあった。こうしゅうこく、ゆうて世界一の黒染めやったで』
何と!世界一って凄すぎないか。絹の黒染めなんかが世界に輸出されたとは聞いてない。
『こうしゅうこくって何ですか』
『甲斐の国の甲州に黒と書いてそう読ませてた』
その屋号はウチだ、ただし こうしゅうぐろ、と読むのだがまっいいか。
『私はその四代目なんですが』
『(まったく無視して)店はすぐ三軒向こうやったけどもうついこないだ取り壊してしもた』
『僕のおじいさんはそこから京大に通ってたみたいなんですけど』
『(これまた無視して)最後に住んではったんは娘さんじゃなかったかな。工場(こうばと言った)は角の煙草屋の先にあって、今三階建てのうちが三軒並んどる』
どうも話は嚙み合わないまま、ともかく場所は確認できた。私の脳裏にはマントを羽織った爺様が闊歩する姿が浮かんでいた。
フト気が付くとお店には写真が飾ってあって、そのオッサンとソムリエの田崎真也さんが一緒に写っている。いったいなぜ。
『あっこれ、ターやんな。よう来るねん』
いくら聞いてもどこで撮った写真かは教えてくれない。なんだかヤバい。
その横にはこれまたそれなりの墨絵、京漬物と書いて落款が押してある。田崎真也さんの話はあきらめて。
『この絵は以前のお店の絵ですか』
『これな。これ芸大のセンセがくれたんや。いつもその先で飲んではったんで一緒になった時に頼んだら描いてくれはった』
『凄いじゃないですか。なんていう先生ですか』
『(これも無視)このセンセな、西本願寺はんのお土産に売っとる絵葉書の墨絵も描いたはる』
『誰だろうなあ』
『(無視)飲んではったときに描いたから筆も酔うてまんのや。ホホホホ』
オッサンは耳でも悪いのか。いやそうじゃない。これが京者のイケズの真骨頂なのか。この話もやめた。
『えーと、ここから壬生のお寺は近いんですか』
『アンサン東京の人やろ。新選組の跡を見に行かはるんやろ』
『(なんだ聞こえてるじゃないか)ええ、ここまで来ましたんで』
『京都で新撰組で稼ぐんは八木のとこだけや。あら幕府お抱えの人殺しなんやで』
ギクッその八木邸、新撰組に転がり込まれて芹沢鴨が切られた所に行こうと思ってた。おまけに私は大の佐幕派。マズいぞ、これは。
『はぁ、お寺さんにでもお参りしようと』
『あの辺、夜になると(両手首をダラリと下げた幽霊の手つきになって)出るで』
『えっ、見たことあるんですか』
『あんなとこ夜に行くわけないやろ。コワイコワイ』
その時のオッサンの上目遣いの三白眼にはゾッとした。口は笑っているのに。これはそろそろ退散した方がよさそうだ、と挨拶もそこそこに逃げ出した。
オッサンの言っていたあたりは、確かに家を取り壊した更地があった。爺様、ここで暮らしたのか、と感慨に耽っていると、なんだか地面にシミが、オイオイオイ。
もう少し先を行ってみたが煙草屋なんかないじゃないか。
まさかオッサン、ボケているのか。
田崎信也さんも本物じゃなくて、墨絵もただの印刷だったりして。どうも怪しい・・・。
アッ三階建てがある。よかった!まるっきり嘘じゃなかった。
近いうちにもう一度訪ねてあのオッサンにまた確かめなければなるまい。その時は違う話をするような気がするのだ、京都人だから。
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亡き友 中村順一君へのレクエム
2022 OCT 23 7:07:40 am by 西 牟呂雄
どうにもならないことがある。
それでも納得とか合点がいかない。あいつが死んで7回忌にもなるのにオレが生きている。
順番が違うだろう、えっ。ふざけやがって。
オレ達はあの時代にはマイナーだった保守派だった。だが微妙にズレていて、あいつは保守本流でオレは反体制無頼派を気取った、分かり易く言えばチンピラのことだが。周りは頭の切れる左派ばかり。それが何故か『力を合わせて』という感じにはならず、罵りあってばかりいた。
ヒマに任せて何時間も電話で話したこともあった。何を話したか全く記憶にないのは、恐らく意味のない会話だったに違いないが、何時間も話し続けられたのは謎としか言いようがない。そのころ互いに彼女がいなかったことは事実だ。
九州に単身赴任していた時に訪ねてきてくれた。今更だが、正直うれしかった。
『マイレージが期限切れになりそうなので使わにゃならんのだ』
『国境の防衛状況を視察する』
『特攻の英霊を慰めに行きたいから付き合え』
いちいち奴がひねり出して恩着せがましく言い放った旅の理由である。こう言いながらも1年に3回も会いに来てくれた。知り合いもいないオレを励ましに来たのは分かっていた。
病魔に臥せった奴を見舞いに駆け付けた時、すでに奴は会話もままならなかった。
『オレが来たからにはもう大丈夫だぞ』
と振り絞るように声をかけた。そして以前からモメていたある絵を拡大印刷した紙を見せた。
『この絵を覚えているか。確かめたくて持ってきた。お前が言っていた親戚とはこの絵のどいつだ』
と迫った。実はその絵に関して数年来論争し決着がついていなかった。まぁ、例によって奴の一方的主張にオレがイチャモンをつけただけだが。
しかしすでに奴の記憶から消えていたようだ。あの記憶力の化け物が。
それから奴を見舞うのはつらかった。とても一人では耐え難いのでもう一人を誘い、帰りにはいつもガブ飲みして帰った。
ともあれそれからまる6年経ち、オレは癌にもコロナにもなったものの相変わらず酒を飲み煙草を吸い、余裕のある生活とは無縁の暮らしを続けている。奴との約束通りだったらとっくに仕事なんか辞めて、一緒に旅に出ては罵り合い、時局を論じて悲憤慷慨していただろうに。奴が死んでしまったおかげでこの年になってもついつい仕事をしては抜き差しならないことになり、ヤボ用に漬かってしまう。こういうのをオレたちは『ダサい』と言っていたではないか。それもこれも奴のいないせいだとすれば合点がいく。これでは体力のあるうちに遊べないではないか。
これは最後まで現役だった奴のオレに対するいやがらせではないのか。オレにだけ人生の果実を味合わせてたまるか、ということなんだろう。
だとすれば奴の望みは達成された。奴のいないこの世に残されたオレの人生の果実は既に寂しいものに成り下がっているからだ。この先、たいして長くはないだろうが、生きれば生きるだけ、面白くもないことばかりが降りかかってくる。それは優れて戦いそのものとも言えよう。すると奴はその戦いに勝利して逝ってしまったとなるのではないか。クソいまいましい。
遅いか早いかで、いずれオレもあっちに行き、奴と邂逅するだろう。
それはまるで目が覚めたような感覚に違いない。あの世は時間も空間も無いのだから、オレ達の年も関係ない。そうでなければジジイになったオレがまだ若々しい壮年の奴と出会うことになり、あっちに行ってまで不快な気分になる。そんなことはあってはならない。
遠い昔に奴のウチに『オトマリ』に行った際、奴の実家は戦災に会わなかった山の手で、驚くべきことに薪で沸かす五右衛門風呂だった。二人で浮いている板の上に乗る段階でモメ、どっちが長く入っていられるかで勝負がつかず(オレが反則をした)、終いには潜りっこまでやった。その時のお湯から頭を出した時の互いのマヌケ面。
あの世に行って初めに奴と会うときは、必ず互いにその時のマヌケ面をしていることだろう。お湯から頭を出した瞬間のようにポッカリと目が覚めすはずだ。
待ってろよ、順。
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ビブラフォンの誘惑
2022 SEP 4 8:08:22 am by 西 牟呂雄
まずはこれ、一部のファンに熱狂的に支持されている演奏をお聞きください。
ジャズ・ビブラフォンの第一人者、大井貴司の迫力ある『ルパン三世のテーマ』です。
僕は30年近く前に、この人の演奏にシビレまくり、主に六本木の某所で行われていたライヴに良く通っていて大の仲良しだった。
オリジナルのアルバムを何枚か出していて、好きな曲に勝手に英語の詩を付けていやがられたりした。そうそう、山中湖のジャズ・フェスティバルに一緒に行って喜寿庵でドンチャン騒ぎをしたこともあったなぁ。
切れ味のいいアドリブと強烈なリズム。スタンダードを演奏しても独自の解釈を加えるセンス。そしてジャズ屋らしい実にバランスを欠いたキャラ。全てが魅力的だった。
その後すっかりご無沙汰だったのだが、偶然ライブを見つけて聞きに行って来た。
さすがに最初に声をかけた時はギョッとした表情になり「チョット待って、嘘だろー!」と驚きの声を上げた。お互い昔の悪夢が頭を過り、30年間の来し方を話したりした。
そして、当時良く組んでいたパーカッショニストの消息に話題が至った。かの人は数年前に亡くなったのだが、脳梗塞だったとか事故だったとか噂が流れていたのだ。聞いてみると『やっぱクスリじゃないの』といういかにもな返事にあきれ返った。
メンバーは他にピアノ・ウッドベース・ドラムで、その演奏は素晴らしかった。みんな上手いが、僕は特にベースの指さばきに感心した。いい音だし、ソロの時のやり過ぎ感が最高。
お弟子さんが参加しての、動画に載せた『ルパン三世のテーマ』のダブル・ビブラフォンには息を呑む迫力だった。大井さんのプレイもキレッキレでした。
ところで、このライブ。実は毎月第三金曜日にやってます。お客さんはツウばかりなので落ち着くし楽しいステージです。来月はオリジナルをやってくれ、とお願いしたので皆さんもどうぞ。
立ち見が出るときもあるので、予約した方が無難です。何か食べてから行くのがいいでしょう。
西荻北口からすぐの『ココパーム』
↓ ↓ ↓ ↓
https://www.livecocopalm.net/
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私家版 同級生交換
2022 JUL 8 0:00:24 am by 西 牟呂雄
先に席に案内されたのでビールを頼み待っていると奴は現れた。予想に反してスーツ姿だった。
『やあやあ、久しぶり。忙しそうだな』
昔ながらの笑顔を振りまいた。
久しぶりと言っても2年ぶりくらいだから、お互いそう変りようもない。
『直近の仕事、相変わらずの充実ぶりに恐れ入ったぜ』
この男、妙に鋭い表現で評論をするところがあるので、たまに会っては私の事業の感想を聞くことにしている。大半がどうでもいい感想なのだが、100回に1回くらい、目から鱗のことを口走る。
『あんまり面白いのでつい感心しちまったがよ。どうも先祖返りしたみたいでオレなんか懐かしいけど一般の顧客からはネタ枯れに見られるかもしれんな』
これが聞きたかった。確かに苦し紛れのテーマかも知れない、成程。
この男、奇想天外なことを言うかと思うと変にイジケテ見せたりして、ちょっと話しただけでは頭がいいのかバカなのかよくわからない、異形のサラリーマンである。
こういう奴の人生は破滅するだろうと見ていたら、大学卒業後に猫を被ってカタギの就職をしたのでビックリした。ちなみにまだデキアガッてないが酒乱でもある。
『お前時々自分がマトモだと勘違いするけど、人から見りゃ十分偏屈で頑固なんだから普通にやってるつもりの仕事が個性を際立たせるんだからな。奇をてらう必要なんかない』
こいつにだけは言われたくもないが、こいつが言うからそうかもしれないと思わせる、という複雑なプリズムである。
そういうこいつは、就職先の評価は別にしても、やりたいように自由気儘な人生を重ねているが、本人に言わせると『若い時分から苦労を積み上げた血と汗と涙の人生を送った』ことになるらしい。バカバカしいのでその話が始まるとみんな無視している。
『これはこれはお待たせ』
次の男が来た。抜群の秀才で人格高尚の教授である。酒を飲んでもそんなに崩れないし人望も厚い。研究に没頭しているかと思うと、事務処理能力も高く、人からは何と順調な人生を送っているのだろうと思われるに違いない。
ところがこの男は病んでいるのだ。挫折をしないが故に心を病むという、これまた奇怪な人格を隠して生きている。それには本人も多少の自覚があるらしく、それだけでも最初の男よりはマシだ。
更にこいつの美徳は働き者であることだ。といってもあくまで比較の問題なのだが毎日出勤しているのは仲間内ではこいつだけ。そしてなぜ未だに働くのかという問いに対し『性格がいいからだ』と平然と答える余裕さえ見せた。
『どうもどうも、みんな元気そうじゃん』
三人目が登場した。こいつは単純に不可解である。いつ聞いても『今は基本的にプーだよ』と言って、確かに正業にはついていそうもない。若い頃に確か広告代理店の下請けのような会社を経営していたが、その後行方知れずになっていて、巷では本当にヤクザにでもなったのじゃないかと噂された。
本人の言葉によると、上海で雑誌を作ったり和食屋を手伝ったりしたと言うのだが、バブル崩壊の大波を受けて日本から逃げたと睨んでいる。
こいつの場合、働いていないことが日常で、こいつが忙しくなる時は世情騒然としているので、世の中のバロメーターとしては重宝である。
でもって、目下のところウクライナの戦争やら物価上昇・円安おまけに選挙と喧しいがどうなのか。
『昨日もヒマなおっさん達と麻雀やって稼ぎ倒したぜ』
日本は平和ということだな。
『おォ、もう始まってるのか』
時間ピッタリに真打登場で今日のメンバーが揃った。最後のこいつも一筋縄ではいかない。宇宙人のように頭が良く大変なイケメン、一見性格も穏やかなのでよくモテる。いつも輪の真ん中にいて、オレ達のやるようなバカ騒ぎにはあまり加わらない。
ところが内側に高温のダークサイドを秘めていて、チョッカイを出したマヌケは大やけどを負ってしまう。
そして時々黙って狂う。あまりに女を寄せ付けないので一時ホモだと噂されていたが、それもない。
プッツンの白眉は、ある中間テストだか期末テストの時に全科目で白紙答案を出すという暴挙である。僕にしろ最初の男や三番目の奴(要は一番マトモな2番目を除いて)は勝手に設問と関係ない内容を回答したりして遊んでいたが、さすがに全科目白紙には腰が抜けた。このことは職員室で大問題になったらしいが、教師の方もはれ物に触るのがいやだったようで、そのまま進級させてしまった。
そう、そろそろ白状するとこの連中とはさる学校の同級生である。
日経新聞の交遊抄や文芸春秋の同級生交換には、それなりの功成り名遂げた方々が『会えば途端に昔に帰り』などと麗しい青春譚が記されているが、我々はそうはいかない。あんな時代には二度と戻りたくはない。
表では大っぴらにサボり倒し、雀荘に入り浸ってははしゃぎまわっていたが、暗い焦りと将来の展望の無さに荒み切っており、そしてそれを周りに気取られないように繕うことに精いっぱいだった。何かに打ちこむわけでもなくヒマを持て余し、それぞれが発狂寸前だったが、そのカオスを互いに嘗め合うことなど決してしなかった。
或いは共通の目的でも共有していたならば、それはスポーツでも芸術でも学業でもいいが、切磋琢磨してライバル関係となり得たかもしれないが、目指すモノ(それがあったとしたら、だが)が違い過ぎてありえない。むしろ、コイツみたいにだけはなりたくないとさえ思った、とでも言う方が実態に近いだろう。
その後、何度かヘマをして今日に至っている。嘘ではない。具体的に言えば、酒・バクチ・女・自滅に絞られる事実があった。あの頃はそうでもしなけりゃいられず、止める訳にはいかなかったのだ。
そして前期高齢者ともなれば、互いに何かの悪事を共有しているような秘密結社化した集まりになってしまい、無論他の連中はそれぞれ別のグループとも関わっているものの、この結社には誰も入れなくなった。
この共有しているモヤモヤ感を、果たして友情と呼べるのだろうか。
僕は秘かに自問した。これよりひどい集まりはあるだろうか、と。
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スキー競技の張家口
2022 FEB 12 8:08:27 am by 西 牟呂雄
現在オリンピックのスキー競技が行われている所は北京の北180km、万里の長城の要害である大境門の外側に位置している張家口である。この地で平和の祭典が執り行われることに筆者は特別の感慨がある。
昭和20年8月15日。日本が無条件降伏をした時点で、かの地は内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)であり帝国陸軍駐蒙軍(関東軍ではない)が駐屯していた。民間日本人4万人もいた。
千島列島の占守島と同じく、降伏を無視したソ連軍の侵攻はここでも起こった。この地を守っていた根本博中将は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と果敢に突撃を命令、ソ連軍の猛攻を跳ね返した。更には八路軍のゲリラ攻撃(彼らは山中ゲリラ・街中テロしかやらない)をしのぎつつ、4万人の民間人とともに長城を越え脱出・帰国したのである。民俗学者の梅棹忠雄や版画家の池田満寿夫はこの一行の中にいて生還できた。根本の決断は北海道をソ連から守った第五方面軍司令官、樋口中将に被る。
尚、駐蒙軍は国民党軍とは戦闘しておらず、根本は帝国陸軍にあってはいわゆる支那屋の中国通で、国民党軍の傅作義とも交流があったためスムースに引き揚げられたものと思われる。
その縁なのか根本は戦後奇怪な行動に出る。蔣介石が日本軍の引き揚げに協力的だったことを徳と考え、大陸の足場を失いアメリカからも疎まれ孤立無援だった国民党を支援しようと台湾に密航する。
この時無一文に近かったため、明石元長の援助を受けるが、この明石は台湾総督を務めた明石元二郎(日露戦争の時に後方攪乱工作をした情報将校明石大佐)の息子、かつ現上皇陛下のよき相談相手でもある明石元紹の父である。
当初は拘束されるが、身元が明らかになり「顧問閣下」として遇された。そして人民解放軍との決戦となった金門島の戦いを指揮してこれを撃退する。今日の台湾の地位を保全したことになる。根元の行動は日台両国ともに長く極秘とされ2000年代まで表には出ていなかった。尚、日本人義勇軍と言われた富田少将の白団(パイダン)とは関わっていない。
検索していたらもう一つ面白いエピソードがあった。中佐時代の陸軍省新聞班長だった時、かの2・26事件に遭遇している。根本は統制派として決起将校からは狙われており、決起部隊の一部は、当日未明から根本の陸軍省出勤時に襲撃する計画だった。が、二日酔いで寝過ごして助かったらしい。そして「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである」で始まる戒厳司令部発表を、拡声器を使ってガンガン流し部隊の動揺を誘っている。
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