幕末甲州奇談 横浜編
2017 AUG 27 6:06:45 am by 西 牟呂雄
アメリカ人のバイヤーは5人程の明らかにゴロつきのような日本人を従えてタバコを燻らしている。
「No!」
「ゴードンさんはダメだとおっしゃってる」
「ふざけんな!相場がどうだか知らねえが、オレッチは若尾幾造の使いで来たラ」
若尾幾造は甲州財閥で知られた若尾逸平の弟で、横浜の生糸商売を任されていた。逸平は横浜で外国人相手に生糸・水晶の商売を行い、生糸輸出の投機で莫大な利益を得た。生糸産業は上州・甲州の冒険的投機商人が凄腕を振るい、明治日本の基幹産業となった。ただ、相場が荒っぽく動くので横浜の商売は命がけだった。
丈太郎一味はそこに取り入って代金取立てに暗躍していた。
「うるせい!」
いきなりバイヤーの脇にいた顔に刀傷のある男が畳にドンッとドスを突き立てた。アメリカ人はニタニタ笑っていた。これで決まりとタカを括ったのだ。
ところが丈太郎側もこれぐらいではビクともしない。大兵肥満の権蔵を中心に、右が僧形の地蔵、左に娘姿に化けた丈太郎という構えだった。
バンッ!
突然の炸裂音に一同がのけ反った。立ち上がった女形姿の丈太郎の手元から硝煙が上がっている。得意のピストルをブッ放し、弾は正確に突き立てられたドスを弾き飛ばした。
身を起こした。丈太郎はピストルをアメリカ人の顔前に突き付け、向こうも持っているはずの火器を制したのである。
「ユー・ノウ・ディス・イズ・リボルバー。アイ・ハヴゥ・ファイヴ・モア・ブリッツ。フー・キャン・アライヴ?」
どこで覚えたか、丈太郎の英語だ。
「どうしても持ち込んだ生糸を引き取ってもらい金は貰ってく。いやとは言わせねえ」
そして娘装束を解いて諸肌脱ぎになって背中の彫り物を晒した。
「般若の丈太郎だ、文句あるか。地蔵!引導渡してやれ」
「ソーギョー・ムージョー・ハンニャー・ハラミター」
元より信仰心のカケラもない偽坊主のデタラメな経文だが、動く者はもういなかった。
帰り道に巨漢の権蔵がそっと聞いた。
「兄貴、般若の通り名はもう使わない方がいいズラ。堅気の商売のつもりがだいなしだし、有名になったら上がったりラ(甲州弁の語尾)」
若尾逸平の事業欲は止めがない。兄弟分とも言うべき雨宮敬二郎・根津嘉一郎とともに鉄道事業に乗り出す。その後このグループは電力・ガスといった東京の基幹産業を次々と興し、血縁はないものの甲州地縁をバックにした『甲州財閥』と言われた。
生糸の商いの方は維新後も新政府の輸出産業として急速に近代化・企業化が進みだした。即ち鉄火場的な半ば暴力的ボッタクリが影を潜めるようになる。
丈太郎達は次第に疎んじられると同時に、例の風体と通り名が横浜で有名になってしまい、アメリカ人・イギリス人のバイヤーが敬遠しだした。若尾幾造は兄の命を受けて一味を秩父の生糸買い付けに行かせた。
一方で、秩父エリアは英米系ではなくフランス系商人の牙城だったという裏の事情もある。要するに鉄砲玉として横浜から追っ払ったのである。
一行は横浜から八王子を抜け飯能を通り武蔵の寄居に宿を取った。三峰参拝の門前町であると共に秩父方面との物産の集積地でもある宿場町だった。
悪い癖で荷物を解くと近隣の博打場に行くのだが、調子に乗って『面白いから貸元(かしもと)に仁義を切りに行こう』となり、地回りのヤクザを物色した。
「軒下三寸借り受けまして、失礼さんにござんす。おひかえなすって!」
先方の三下が目を丸くして引っ込んで、代わりにそれなりの貫禄の者が仁義を受けた。
「早速のお控えありがとうござんす。手前、生国と発しますところ花の八百八町はお江戸でござんす。お江戸といってもいささか広うござんす。お大名屋敷並びましたる山王様で産湯を使い、四谷木戸門出まして内藤新宿からはるばる甲斐路へ下り、甲州にて黒駒一家で修行重ねましたるお見かけ通りの若輩者、般若の丈太郎と申しやす。後ろに控えしは」
「生まれは甲州、犬目の権蔵でごいす」「同じく猿橋の地蔵」
「ご案内の通り『犬』『猿』と揃いまして『雉』の『鳥沢の源蔵』はご維新の戦(いくさ)で欠けましたるはご愛嬌。黒駒党の『桃太郎一家』でござんす。以後よろしゅうお見知りおきおたの申します」
相手は呆気に取られながら『血眼(ちまなこ)の周五郎』と名乗ったが、ここの貸元本人であった。実に下品な顔つきをしている上に額に大きな傷があり、通り名の通り白目に血管が浮き出た凶悪な眼差しは不気味そのもの、丈太郎は一目で嫌悪感を覚えた。
「なぁ、血眼の貸元。ここいらの様子はどうなんだい」
「それがよ、さっぱりだ。今年になってから生糸の相場が下がりっぱなしでな」
だからその生糸を安く仕入れにきたとは言えない。
「そりゃまた災難だな。賭場もそれで寂しい有様という訳か」
「全くダメだ。だが貧乏百姓から更に搾り取ってる奴らはいる」
「ほう、どういうカラクリだい」
「ここいらを見なよ。水回りの悪い場所はどこもかしこも桑畑だ。お蚕百姓も多い。ところが米だの何だのはみんな買わなきゃ食う事すらできゃしねえ。そいつらが皆翌年の生糸をカタに借金してるのよ。そこへ持って来て相場がこんなに下がっちまえば次の年にゃーもう首は回らねぇ。そこで俺たちの出番ってこった」
「すると渡世人のおめぇさんがたは賭場が立たなくても食えるって寸法かい」
「そうよ。有るもん根こそぎかっさらって来るのさ。あれ見な」
顎をしゃくったその先には年の頃は干支が一回りした位の真っ黒な小娘がいた。
「あの子供がどうしたい」
「若い娘なんざ根こそぎかさらっちまったんでもうあんなのしか残ってねぇ。いきなり女衒にナシをつけても安めに買い叩かれるから暫く置いといて頃合を見るってこった。3年くらいかかるから生糸よりも割りが合わねぇ」
丈太郎はウンザリした。博打を打って人も切るが、人買いはしたことがない。
娘は着たきりのほったらかしにされているようで、真っ黒なのは薄汚れているかららしい。見ていると良く光る視線で見つめ返してきた。折檻されたのか、あちこち痣もあったが、その眼光は強く印象に残るものだった。
「おい、名前はなんてぇんだ」
「お光(ミツ)ズラ」
甲州訛りがある。思わず笑ってしまうと、お光と名乗った娘も染みるような笑顔を見せたが、はばかるのか直ぐに表情を引き締めた。
とにかく行ってみなければ話にならない。三人は秩父を目指した。
つづく
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幕末甲州奇談 博徒編
2017 AUG 23 8:08:05 am by 西 牟呂雄
「入ります」
カラカラとサイコロを入れると盆の上に伏せる。
「丁」「半」「丁」「丁」「丁」
「半方(はんかた)ないか、半方ないか」
「半」
「揃いました。勝負!」
そこに突然踏み込まれた。大勢が提灯を掲げてなだれ込んできたのだ。
「御用だ」「御用だ」「神妙にしろ!」「手向かいするな!」「勝蔵はどこだ」
「手入れだー」「逃げろ!」
賭場に踏み込んできたのは石和代官配下の者で、狙いは一帯の大親分である黒駒の勝蔵率いる通称黒駒党である。
所は甲斐の国鳴沢。勝蔵の本拠地である黒駒から御坂(みさか)峠を越えて下ったところの魔王天神社の境内である。この不気味な名前の神社は昭和初期に”徴兵逃れ”に効き目があるといわれて賑わったこともあるが、当時は全くの寒村の鄙びた神社に過ぎなかった。
捕り手が踏み込んだ途端、天井が破れドサーッと灰神楽が降った。もうもうと立ち込める灰煙にその場の全員が鼻を押さえて咳き込んだ。誰が誰だか分からない喧騒の中に突如火の手が上がる。人が次々飛び出して捕縛の指揮を執る納戸組頭の前に転がった。
「ええい!しっかりせい。勝蔵はどうした」
すると参道の石段を登りきったあたりから凛とした声が響いた。
「勝蔵親分はもうここにいない」
目をこらすと、一条の光を浴びたような白い影が見えた。
「おまっちは誰ズラ」
「オレか。黒駒一家、勝蔵四天王のうち”般若の丈太郎”だ。捕らえられるなら捕らえてみやがれ」
ヒラリと身を交わすと石段を駆け下って闇に消えた。同心が咳き込みつつも後を追うと、脱ぎ捨てられた白い羽織が落ちている。拾い上ると一同息を飲んだ。背中に見事な般若の刺繍が縫い付けてあったのだ。
甲斐の国は甲府の国中で15万石、甲斐一国で25万石と米の石高こそ大したものではないが養蚕と絹織物が盛んで、その物流の集積やら織物・染色が発達し、金山まであったため、幕府は直轄領として代官を派遣していた。
甲府には城もありそれなりの統制が効いたがその他地域ではそれぞれの地域のボスとも言うべき庄屋・豪商に牛耳られた一種の自治区である。例えば都留郡の谷村陣屋に武士はたったの六人で、生涯に一度も侍を見たこともない百姓は多かった。
従って無宿人の博徒と言われる者は比較的密度高く存在し、その抗争も激しい。
特に富士川の水運に係る利権を巡って駿河のヤクザとは対立が根深く、それが慶応年間の清水の次郎長と黒駒の勝蔵の大出入りになっていく。
既に富士川で揉み合い、その後勝蔵は次郎長の放った刺客に襲撃もされるなど何かと血なまぐさいことがしょっちゅうなのだ。
黒駒党はあらかじめ決めてあった集合場所で明け方に落ち合っていた。十里以上離れた甲州谷村の村はずれにあった八幡神社である。清流桂川のほとりにあった。
「丈太郎。まったくおみゃーの逃げ足にゃ驚くズラ。神出鬼没っちゃーおみゃーのこんだ」
「親分。あの与力・同心には普段からたんまり掴ませてますからね。知らぬは代官ばかりなり、でさぁ」
綺麗な江戸弁を使う般若の丈太郎はあまり生い立ちを語らないが、江戸の食い詰め旗本の三男あたりが出奔して悪事に手を染めたらしい。髷は結わずにゾロりと伸ばして普段は束ねもしていない。背中にはその名の通りおどろおどろしい般若の彫り物を背負っている。
勝蔵四天王とは他に相撲取りのような肥大漢である”犬目の(犬目は地名で旧甲州街道の宿場町)権蔵”、小兵であるがやたらとすばしっこく喧嘩には滅法強い”鳥沢(同じく甲州の地名)の源蔵”、そして坊主崩れのヤクザ”猿橋の地蔵”の三人。皆、蔵が付くことから『黒駒の三蔵』と呼ばれていた。
「このまんまじゃいかにもマジーら(まずいよ)。おれっちはずらかるから丈太郎後を頼む」
「へぇ」
実は勝蔵は不思議な教養を身に着けていて熱烈な尊王攘夷主義者で有名。
又、義侠心に富んだ人物でもあり、百姓達には好かれている。山籠もりをしていると近隣の者どもが食べ物くらいはいくらでも持ってくるのだった。天領であることもあって『どうせお上に搾り上げられるくらいなら』という理屈らしい。
丈太郎は変装の名人で、特に女装は見事なもの。手筈としては女に化けた丈太郎が甲府に潜入し『勝蔵が浪士を糾合して甲府城を奪取する』という噂をバラ蒔き、勝蔵達はその風聞が流れているうちに行方をくらますという段取りである。
代官側は見事に引っ掛かかった。
木曽の兄弟分の所に転がり込んで暫く潜伏しておとなしくしていたが、伊勢の縄張り争いに清水の次郎長が大政・小政を引き連れて乗り込むという話を耳にすると、勝蔵はもうじっとしていられなくなった。後から合流した丈太郎はあきれかえってたしなめた。
「親分。せっかくうまく逃げて来たのに面を晒すのはどうなんですかね」
「馬鹿野郎!あの次郎長を潰す。兄弟分の吉良の仁吉に頼まれたんだろうが、あいつがデカい面するのは我慢できねーズラ。権蔵も源蔵も地蔵もやる気だ」
「オウッ。次郎長を叩っ切るでごいす」「決着つけるズラ。般若の兄貴」
「何も伊勢くんだりまで喧嘩に行くこともねえでしょうが。親分の好きな尊王攘夷もできなくなりますぜ」
「やかましい!丈太郎!」
結局、後に講談で有名になる”荒神山の大出入”となったのだ。
ところが結果は倍以上の人数を集めたにもかかわらず統制を欠き、次郎長に名を成さしめてしまった。勝蔵は負けてすっかりしょげかえった。
「丈太郎。おみゃーの言う通りだった。おれっちはもう堅気になる」
「はぁ、今更戻れっこないでしょう。博打打たずにどうやって食ってくんですか」
「岐阜の水野の兄弟が口を利いてくれる。尊王攘夷の諸隊が隊員を募集してるそうだからそこに入れてもらう」
「親分。いくら尊王攘夷の志士を気取っても博打打ちですよ、冗談じゃねえ」
「ケッ、尊王攘夷のおかげでオラッチを追い回してる与力・同心を蹴散らせるんだ。おもしれーズラ」
そして子分どもを引き連れて、相楽総三の赤報隊に本当に入隊してしまった、一人丈太郎を除いて。
時代は激しく動いた。
尊王攘夷の『攘夷』はいつのまにかどこかに行ってしまい、大政奉還によって『討幕』も大義名分を失う。
水戸天狗党の流れを組む赤報隊は東山道鎮撫の先駆けとして東進したが、結局薩長にいいように使われた挙句、新政府に認められず下諏訪で隊長の相楽総三が捕縛され壊滅する。
訳が分からなくなった勝蔵一派は京都で新たに組織された公家である四条隆謌の徴兵七番隊に参加し、戊辰戦争を東北地方で転戦することとなった。
無論本格的な洋式訓練など受けていないため、正面切っての突撃には使い物にならないが、裏へ回っての白兵ゲリラ戦では”出入り”の要領の切り込みで結構重宝されていた。官軍として二本松を抜き、仙台まで進出した。
ところが、その時の官軍総指揮官は、後年長州のダニと言われた世良修三である。おかげで最悪の結果を招く。
世良は人面獣心がピッタリ当てはまる下品な酒乱で、行く先々において略奪はする娘を狩り出すの狼藉振りだった。維新の官軍といっても底の方はこんなもので真っ当な革命と言えるような代物ではない。単純な尊皇攘夷主義者の勝蔵は、初めのうちは尻馬に乗って暴れたが次第に嫌になりとうとう脱走する。このことが後に命取りになった。戊辰戦争後の兵制改革で徴兵七番隊は解散になるが、脱走後甲府にいた勝蔵は脱退容疑で捕縛され、あっけなく処刑されてしまったのだった。
尚、世良修三は仙台でのあまりの非道ぶりに怒った伊達藩士に惨殺されている。
「般若の兄貴!」
「バカッ、その名前で呼ぶんじゃねぇ」
声を掛けたのは犬目の権蔵。赤報隊から遊撃隊まで付き合ったものの、勝蔵と一緒に脱走したのだが、その勝蔵が捕縛・処刑されてしまったので、彷徨った挙句に甲府城下をウロついていたのだ。
「親分はとっ捕まってやられたそうだな。鳥沢や猿橋はどうしたんだ」
「源蔵は二本松あたりで弾にあたってウッチンダ(死んだ、の意味)。地蔵はオレッチについて来て。兄貴は何してるズラ」
「オレか。ちょっと来い」
しばらく歩いて川原に降りて行くとあたりを見計らって懐から何かを取り出した。そして川に向けた。
バン!という音がこだまして権蔵は「うわっ」と大声を上げて尻もちをついた。
「兄貴、何ですか!びっくりしたズラ」
「わはは、たまげたか。これからは切った張ったじゃねぇ。こいつの時代だよ」
「何ズラ。その花火の化け物は」
「”ぴすとる”だ。これからはこれと生糸だぜ。よしヒマならついて来い。若尾の大将に会わせてやる」
若尾逸平。雨宮敬次郎・根須嘉一郎と共に甲州財閥の一角をなす風雲児である。
つづく
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捨てがまり戦法
2017 JUL 24 20:20:05 pm by 西 牟呂雄
島津四兄弟の末っ子、家久の息子である豊久は墨俣の陣で何故か孤立してしまった。西軍先鋒を務めるべく一隊を率いて突出してしまったのだ。これは薩摩軍の悪いところで、ずば抜けた破壊力で敵を蹴散らし休まない。鉄砲を撃ちかけ槍襖で突進し終いには将卒まで馬を降り、抜刀し切り込むのである。その間総員走りっぱなしなのだ。このような戦法は他家にはない。陣を構えその周りは母衣武者が固め、先ずは弓・鉄砲を放ち、その後騎乗の大将が騎馬隊と共に進む。
西軍石田隊・宇喜多隊がいかに精強といえども勝手に駆け出してしまった島津隊に追いつく事など初めから無理なのだ。
豊久が一息入れた時点では、当初の作戦通り石田隊も宇喜多隊も島津隊を見失い大垣方面に退いてしまっていた。
「こいはしたり、おい達ァはぐれとっど!」
「豊久殿、御味方いずこにごわす」
「いかん、もどせー!囲まるっどー」
一人馬上にて指揮を執っていた豊久は即座に反転を決めたが、数倍の敵の真っ只中だった。退路を断たれた格好になると形勢はたちまち逆転する。
「固め!固め!殿を守るっとじゃ!」
「阿呆!オイの周りに固まるな!動けー」
ところがつい先刻まで猛烈な切り込みをかけられたため東軍の足軽は容易に攻め懸けられない。一種の膠着状態に陥ったまま、豊久は軍を返した。
「援軍出さんと!ないごて!上方の腑抜け侍どもが」
西軍にあった島津の次男、義弘は怒鳴った。先鋒隊が帰陣するのを見て素早く甥にあたる豊久の孤立を察知した義弘は救援に向かうと意見具申したところこれを石田三成に退けられて怒り狂ったのだ。
配下はたったの三百人程度。単独行動は自殺行為であることは誰もが分かっていたが、長老格の長寿院盛淳が低い声で答えるのみだった。
「行きもんそ」
「殿。持ち応えられもはん。逃げてたもんせ、オイ達が捨てがまりごわす」
第何波目かの攻撃を辛くもしのいだ豊久はやっと馬上に戻り前を見据えて言った。
「早か。おんしにはあん旗が見えんか」
彼方から敵の包囲網を割って迫ってくるのは丸に十字の島津紋である。双方合わせて鬨の声を挙げた。
そして天下分け目の関が原となる。
戦端が開かれた後、紆余曲折を経て昼過ぎには西軍が総崩れとなった。
思うところあって寡兵の島津軍は戦闘を見守るだけであったが、義弘は頃合や良しと戦場の離脱を決める。
実は切腹して果てようと一度は決意したところ豊久に叱咤激励された。
「義弘公は必ず帰らんな。薩摩の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」
最初から寝返りなど島津にあり得ない。敵中突破あるのみである。
「豊久。どっちィ飛ぶかのぅ」
豊久は佐土原藩主であり、元服前から大変な美少年として知られている。戦構えも凛々しく強烈な眼光を放っていた。
「伯父上、薩摩ンゆっさ(いくさのこと)でごあんど。ご覧あれ、敵大将の陣ばそこい見えてもんそ。あいがよか」
笑みを含んでこう言うと、周りの将卒達はドッと声を挙げて笑った。無論義弘もである。
「そいじゃゆこかい」
「オウッ!」
敵大将と豊久が言ったのは東軍総大将家康のことである。薩摩軍は押してきた家康軍とはもう指呼の距離になっており、精鋭井伊直政、猛将福島正則の部隊が迫ってきていた。そのドテッ腹を切り取るように突っ込んだのだ。
先陣を切る副将格の豊久が駆け込んでくる。さすがに面食らった福島隊は数段の構えを抜かれ、家康本陣をかすめられた。
そうはさせじと福島正則が豊久と死闘を演じているあいだに、井伊直政・本多忠勝・松平忠吉といった幕僚部隊が追って来る。薩摩兵もバタバタ討ち取られた。
「伯父上。必ずかごんま(鹿児島)に行き着いてたもんせ。オイは捨てがまりをやいもす」
「なんとぉ!豊久、早まんな!」
捨てがまりとは数名の鉄砲足軽を従えた将卒が初めから命を捨てて敵を食い止め、その間に本体が進むことを繰り返す十死零生の消耗戦である。
薩摩軍は家康本隊からの圧力をかわす様に伊勢街道にひた走った。
先陣だった豊久は今や殿(しんがり)となって次々に捨てがまりを指名する。捨てがまりは初めから命のない物と覚悟しているので全員下馬し、元より弾込めの時間などないから足軽は一発撃つのみで、たちまち白兵戦に巻き込まれて磨り潰されるように瞬く間に全滅する。
重臣長寿院盛淳も膾のようにズタズタに切られて戦死。徳川方も井伊直政は深手を負って脱落。
みるみるやせ細る薩摩軍が残り百人を切った頃、豊久は駆けに駆けてきた手勢を止め、寄せ来る敵に対峙した。
「おはんら。こいが最後の捨てがまりごあんど」
中村源助・上原貞右衛門以下13人が何故かにっこりと笑った。源助が言う。
「こいだけいっぺんにならば賑やかでごわっそ」
「オオウッ」
「薩摩ん武士の意地、見せもんそ」
迫ってくる方ももはや火縄に弾を込める暇などない。足軽は槍を抱えて突進して来る。
薩摩隼人とは誠に不思議な気質で、ここまで来ると悲壮感などは微塵もない。むしろ明るいのであった。
抜刀した豊久は示現流のトンボの構えを取ると一直線に敵に切り込んで行き、他の者も誰が声を掛けるでもないのに一斉にこれに続いた。槍をかわし一人をぶった切るとしばらくは突っかかってくる者はおらず川の流れが止まったかの如くであった。
結局薩摩に辿り着いたのは僅かに80人だと伝わっている。
猛将島津豊久を仕留めたのは二代将軍秀忠の弟(同母)の松平忠吉とされた。後に二代将軍を決める際に結城秀康とともに候補にもあがった剛の者であった。
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七条油小路
2017 JUN 14 20:20:54 pm by 西 牟呂雄
「ふざけやがって!」
局長近藤勇がドスの聞いた声を絞り出した。
新撰組から分派した御陵衛士が長州藩に対し寛大な処分を、と建白したというのだ。
「歳、どうすんだ」
傍らにいる土方に向かって聞く。
「どうするもこうするもねえ。あんたはいつもそれだ。決まってんだろ、殺る」
「どうやって」
「いいから何とか理屈をつけて伊東を呼び出してくれ。北辰一刀流は理屈が好きだからな。全く藤堂まで」
藤堂とは試衛館以来の盟友、藤堂平助である。元々は千葉周作の玄武館で剣を学んだ後、試衛館の師範代になった。隊士募集の際に北辰一刀流門下で面識のあった伊東甲子太郎を紹介したのも藤堂だった。
しかし伊東が門弟を引き連れて入隊すると、当初の同志である天然理心流一派より伊東の言説に共鳴し、とうとう御陵衛士に合流してしまった。理由はやたらに人を切りたがる近藤一派の野蛮さに辟易したからだ。
伊勢津藩主藤堂高猷公の落とし胤、とホラを吹いていたが貧乏旗本の三男である。
剣は、強い。
近藤は早速妾宅で酒宴を催し、したたかに飲ませた伊東を待ち伏せした大石鍬次郎の槍で突き殺した。土方の下知だ。
土方は伊東の死体を検分すると目を閉じたまま言った。
「こいつを油小路に捨ててこい。それで山崎、配下の連中を高台寺のあたりにやって伊東がやられたと言い振らせ」
監察、山崎丞(すすむ)は頷くと姿を消す。土方は幹部を前に更に指示する。
「永倉、原田、隊士を連れて待ち伏せして皆殺しにしてやれ。島田と大石、お前等も行け」
名前を呼ばれた永倉新八は眉をひそめて土方に言った。
「副長。平助が来たらどうします」
「何だそれは。お前が敗けるとでも言うのか」
「いや。ただ」
「ただ、何だ。切られてくるか。迷うようなら局長にでも聞け」
「副長は行くのですか」
「馬鹿野郎!御陵衛士の5~6匹殺るのにいちいちオレが行けるかよ」
土方さんらしい、と永倉は原田左之助に目くばせして屯所に向かった。あの人は本音が言えない、山南の時も沖田に行かせた。
すると物陰から一人の男が前に進み静かに進言した。
「拙者も参ります」
土方はさすがに驚いた表情になった。
「斎藤か。貴様は平気なのか」
斎藤一。新撰組屈指の使い手である。秘かに言い含めて御陵衛士に潜り込ませたのは土方だ。建白の秘密情報を持ち込んだのも斉藤なのだ。
「今更どうしました。服部武雄・毛内有之助もかなりの遣い手。まさかの時は・・」
「ケリをつけたいのか。勝手にしやがれ」
果たして高台寺の伊東一派は激高した。藤堂平助は体が震えた。また例の手を使ったか。だから罠だと言っただろうに。おのれあの百姓上がりども、それでも武士のつもりか。
紅顔の美少年と言われた平助の眉間から頬のかけて池田屋の時に負った向う傷が凄味を帯びていた。
「きたない奴らめ」「しかも遺骸を路上にさらし者にしているとは許しがたい」「とにかく伊東先生の御遺体を」「おうっ」「おうっ!」「行くぞ!」
立上がる中、一人服部武雄が声を掛けたが。
「御一同。相手は新撰組ですぞ。必ず切りあいになりましょうぞ」
服部が鉢金を巻いて支度をする間に他の六人はその声を無視して飛び出して行った後だった。
息せき切って御陵衛士七人が油小路にやってきて伊東の遺骸を見つけた途端、いきなりジャラジャラと音を立てて抜刀した新撰組に包囲された。こういう時に新撰組は誰も口を利かない。御陵衛士側も直ぐに刀を抜いた。藤堂が一歩進んで低く呟いた。
「やはりな」
切っ先を上下させながら歩を進めると、囲みの中から一人の隊士が対峙した。その顔を見て藤堂の表情が引きつる。永倉新八である。長い付き合いの永倉を向けるとは、しかも近藤も土方も沖田も、天然理心流は高みの見物か。おのれ。
永倉もすぐには切り掛かれない。互いに手の内を知り尽くしているのだ。藤堂の眉間の切り傷をみて、永倉はフト思った。
この怪我以来こやつの心根が変わったのではないか。しかし切らねばやられる。
永倉はツツッと体を交わす素振りをした。平助、逃げろ、とは思わなかったか否か(近藤がそう意を含んだと後に永倉は維新後証言している)。
刹那、背後に回った三浦常三郎が切り掛かった。『むぅ!』と藤堂が声を上げると取り囲んだ隊士が一斉に刃を振り下ろし、藤堂は即死した。
その刀音が合図になったかのように、まず御陵衛士、富山弥兵衛が示現流のトンボの構えから「チェーストー!」と裂ぱくの気合を発して囲みに突っ込む。富山は薩摩の出身で、入隊の時点から間者の疑いを掛けられていたが伊東が斡旋していた。
必殺の切り込みに新撰組も一呼吸置かざるをえなかった。二人ほど太刀を払いかけるが富山もこれを膝を折るように刀を振り下ろして叩き落す。三人が後に続いて血路を開いた。篠原泰之進・鈴木三樹三郎・加納道之助である。
しかし二人遅れた。いや居残ったのかも知れない、後に引けずに。
毛内有之助は武芸十八般何でもござれの達人で、更には和漢の経典を講ずる文学師範や諸士調役兼監察までこなし「毛内の百人芸」と言われた。切りかかってくる新撰組の攻撃をかわしにかわし、遂に大刀が刃こぼれすると小太刀を振るって奮戦するも多勢に無勢。原田左之助の槍の餌食となった。
服部武雄は毛内と同じく諸士調役兼監察を勤めた。並外れた体格と怪力で二刀流の剛剣を遣う。塀を背にして半円形に取り囲む隊士を全く寄せ付けなかったが、半時ほどの戦闘に力尽き猛烈な切り込みを受けて死ぬ。
二人とも遺体はズタズタに切られていたのだった。
土方は幹部の多くが妾宅を構えるなか、相変わらず屯所の離れで過ごしていた。
この晩は寝付けなかったので居室から障子を開けて屯所に戻ろうとしてギョッとした。体調を崩して臥せっていた沖田が厠に立つところだった。胸を患い顔色は悪い。黒目がちの光る眼がこちらを見ていた。
「土方さん。きょう藤堂さん達をやりましたね」
「なにィ」
「さっき永倉さんが局長の所に来てましたよ」
「それがどうした」
「いや。僕も元気だったら行けたなって思って」
「総司・・・・」
「え、何のことですか」
「いいからさっさともう寝ろ!」
「はいはい」
屯所への渡り廊下から青白い満月が照らしている。今日一日で一体天下の何が変わったと言えるのか。土方は無言で仰ぎ見た。そして二尺八寸の愛刀・和泉守兼定を抜き、月光にかざして見つめた。
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わかったぞ弓削道鏡
2017 JUN 3 17:17:16 pm by 西 牟呂雄
まァ詮索も何も孝謙天皇と弓削道鏡が強い信頼関係にあったことは事実である。
そして禁断の天武天皇系は孝謙天皇(後の称徳天皇)を持って終わることは以前書いた。天智系と天武系の睨みあいが先ず縦軸にあって、更に藤原仲麻呂と橘諸兄の対立が横軸で重なる。不幸な事に天然痘の流行で藤原四兄弟がいっぺんに死んでしまってから俄然おかしくなったことに気が付いた。
権力争いでナントカの乱がしょっちゅう起こって実に複雑だが、勝ち抜きトーナメントのように潰しあっている間に道鏡は天皇の寵愛を受け、重祚して称徳(しょうとく)天皇となられた頃は現在の平城京跡あたりにあった西宮(さいぐう)で一緒に政務を暮らしていた。
弓削氏はご案内の通り河内がフランチャイズの一族で、何やら”弓”を作っていたとか。モノの本によるとかの物部氏の流れとも言われる。
当時唐から来日した鑑真和上が仏教界にあって道鏡の現役時代と重なっている。また失脚後に流れた下野薬師寺は鑑真和上ゆかりの寺であり、ひょっとすると漢語・サンスクリット語で二人が会話したのではないか等と想像をたくましくしている。少なくとも当時最高のエリートだったはずだ。
で、話は変わって今まで知らなかったが、道鏡には弓削浄人という弟がいて大納言・従二位にまで出世している、勿論コネだ。
こいつが大宰帥(だざいのそつ)という九州長官に任じられた。あの菅原道真が飛ばされてなったのが大宰権帥(だざいごんのそつ)という副官だから、それより偉い。因みにこの職名は名前だけ幕末まで残り、最後の大宰帥はあの官軍・東征大総督だった有栖川熾仁親王だ。
したがって宇佐八幡の神託なんぞ思いのままで、やりたい放題の挙句が兄貴を皇位に就けろというインチキに至ったのだろう。当然のごとく称徳天皇崩御の後は流罪。
気の毒にそのインチキはさすがに評判が悪く、再度神託を請う勅使に任じられたのは天皇側近の女官だった”広虫”という人なのだが、病弱だと言って弟の和気清麻呂を行かせる。想像するにこの時に密かに『道鏡が弟をそそのかしたのだから反対の神託を持ってこい』と含んだのではなかろうか、と仮説を見立ててみた。
結果は当然バツ。すると天皇は怒ってしまい広虫は還俗させられ備後国へ、清麻呂に至っては名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられ大隅国に流される。『きたなまろ』!なんという気持ち悪い音だろう。
僕は小倉にいたことがあるが、足立山という所に御祖神社(妙見社)という神社があった。そこの縁起によれば清麻呂が流される際に足の筋を切られたのだが、小倉の南辺りの温湯で足が直り歩けるようになったという伝説がある。”湯川”という地名が残っていてその辺りの歯医者に通っていたので知った。
別バージョンもあって、途中もう一度宇佐八幡に参ったところ猪三百頭余が現れ清麻呂を支えたのでゆっくりと歩いて行った、というのもあった。
僕は小倉時代に宇佐神宮に行ってその伝説を実感した。
清麻呂が”きたなまろ”にされてそんな目にあっていた頃、天皇と道鏡は弓削寺(由義寺)で仲良く暮らしましたとさ。
そこは場所が分からなかったのだが、八尾市の東弓削遺跡のあたりで遺構と思しき跡が発掘された。平城京の西宮と同格クラスらしい。今年になって七重塔跡と見られる一辺20mの塔基壇が発見されている。
いずれにせよ天武系がオジャンになり男系が守られたことになるのだが、その遥か後年の今日では皇統の問題は解決されていない。退位の方向で議論が進むが、この問題はまさか投票で決めるわけにはいかない。
学者だ有識者だで議論すべきことなのかも正直分からない。
そんなときこそ秘かに陛下の御意向を聞くことはできないものか、忖度などという非礼ではなく。
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わかったぞ南北朝
2017 MAY 17 18:18:52 pm by 西 牟呂雄
魔人後醍醐天皇と太平記に登場するダーク・ヒーローが面白くてしばしばブログのネタにしてきた。しかし”南北朝”と称されるようになったのは遥か後年になってかららしい。
鎌倉時代の大覚寺統と持明院統の両統迭立とは天皇家が二つあるようなもので、皇位継承は鎌倉幕府の仲介により成り立っていた。
それが建武の中興で堰を切ったように大混乱が始まり、本当に日本中が北朝方を名乗ったり平気で南朝に寝返ったりして戦乱に明け暮れる。後醍醐天皇と尊氏はくっついたりはなれたり、足利尊氏・直義兄弟も反目し、化け物高師直の奇怪な振る舞い、バサラ大名佐々木如道誉の狼藉、と面白い題材がこの時代テンコ盛りなのだ。
あまり注目されないが、最後の執権・北条高時の一子、時行が信濃潜伏の後に挙兵し、鎌倉になだれ込んで足利直義を追っ払い20日ほど占領して見せた事績なども大そう魅力的だ。
それにしても、どうしてこうアッケラカンと裏切りが横行するのか。
おまけにどこから湧いてくるのか、俗に悪党と言われる連中は何なのか。その悪党の親玉の一人、楠正成とその一族は踏まれても死んでも後醍醐天皇に忠誠を誓うのも不自然に思える。
司馬史観で読み解いた場合は、宋で流行った大義名分大好きの朱子学が宋学として日本に入り、楠木正成等の忠臣を輩出したことになっている。教科書的には鎌倉御家人体制は、後期になると分割相続と元寇による疲弊で没落し社会が不安定になってくる、と教えている。
それで鎌倉に突撃した新田義貞とかはこのドサクサに乗って一勝負、とばかりにやったわけだ。しかし担いだ後醍醐天皇は一筋縄ではいかない御仁。武士に対する恩賞なんぞ眼中に無く、それどころか犬コロを扱うような態度だったと思われる。勢いがついてしまってもはや無理なのに大昔の『公地公民制度』まで頭がぶっとんでしまう。
挙句の果てに造反されて三種の神器を取られ、尊氏の後見の下光明天皇が即位するとこれを無視。奈良の吉野で南朝を開くに至った。
その後の複雑怪奇さはとうていドラマ化するのは不可能で、大河ドラマがチャレンジしたがダメだった。
北朝・南朝の騒乱が日本中に広がる。そもそも尊氏の弟直義と高師直が内部対立して内紛になり、事もあろうに直義は南朝に帰順。スッタモンダの末に一時は尊氏でさえ南朝につくとかグチャグチャだ。
鎌倉幕府そのものが、言ってみれば二重政権で畿内を中心に帝や貴族の荘園・寺社領はゆるく存続していた。それが『オレは今日から南朝につく』と宣言すれば武力に物を言わせてブン取り放題になる。
わかったぞ!
分割相続であぶれて山賊・海賊・悪党となって暴れていたクチに『南朝』のお墨付きができてしまったのだ。下剋上どころではない。
その悪党の代表格がやられてもやられても一族を上げて南朝について戦った楠一族だが、これなど初めから失う物がないから裏切るも何もなかったんじゃなかろうか。
ただ南朝は言葉をきちんと残した。北畠親房が『神皇正統記』で南朝の正当性を書き物として残し、はるか後年に水戸光圀がこれに被れて大日本史で認め今日に至っている。
話は変わるが僕の母方の遠縁に、岸和田の和田一族がある。伝承では楠の流れで一族が受け継いだ楠の巨木を守り伝えている。長屋門を構え、堀が残っている大邸宅に今も住んでいて、僕もその巨木を見たことがある。驚いたことに注連縄が巻いてあって毎年宮内庁から送られてくるとか、和田家の人は『宮様から』と言っていた。
やはり南朝正統論は健在なのだ。
南朝の系統は結局次々に暗殺されてしまうのだが、名前がおどろおどろしい。直親王家以外の天皇の孫はナニナニ王となる。南朝後亀山の弟・護聖院宮(ごしょういんのみや)家の孫は通蔵主(つうぞうす)・金蔵主(こんぞうす)という異様な名前の兄弟で、その金蔵主の息子達は尊秀王(たかひでおう自天王ともいう)・忠義王(ただよしおう)兄弟となり、このあたりでかなりあやしくなる。
応仁の乱にはこの系統から小倉宮の末裔としての西陣南帝という南朝の天皇が突如現れた。戦後にあまた出た自称天皇の中でもっとも有名だった「熊沢天皇」こと熊沢寛道はこの系統だと主張した。この西陣南帝はしまいにはおっ放り出されて美作の国あたりまで落ち延びたと言われ、南朝の末裔と噂された大室氏に連なるという都市伝説を生む。
他に南朝第三代長慶天皇の流れを組む玉川宮家というのがあって、第六代足利将軍義教の時代まで記録に残っている。玉川宮は必死に室町幕府の公家社会に溶け込もうとして京都にいた。かなりいい感じだったが義教の南朝根絶政策で相国寺にいた梵勝・梵仲という兄弟が消息を絶つ.出奔したというのだが暗殺だろう。
しかしどこかに正真正銘の子孫がいないとも限らない。
その家系の隠れ皇子様が独身の秋篠宮家・三笠宮家・高円宮家の内親王様方と恋に落ちたら皇統維持の問題が一気に解決しないか。
等と畏れ多いことを夢想していたら秋篠宮眞子様が婚約した。おめでとう御座います。お相手は南朝の気はなさそうだけど。
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そうせい侯 雑感
2016 OCT 10 16:16:39 pm by 西 牟呂雄
毛利敬親(もうり たかちか)、言わずと知れた長州藩第十三代藩主である。臣下の者の言う事を何でも『そうせい』と裁可したことから『そうせい候』などと言われ、ともすればバカ殿のごとく伝えられる。
しかし、僕は少し違う印象がある。
長州藩は「八月十八日の政変」で京から追っぱらわれた後、破れかぶれになって禁門の変という暴挙にいたる。大河ドラマで感動的に描写されるが、頭に血が上ると抑えきれない長州人の気質が丸出しになるところである。こういう所ややもすると半島の気質を連想させ、昔から交流があった傍証にならないか。
更に四ヶ国艦隊に敗北し、二度にわたる長州征伐を喰い、その都度藩論は沸騰して多くの血が流れた。要するに大変な状況だったのだ。
その間何とか藩を建て直し求心力を失わなかったのはそれなりの見識だったのだと推察している。
若き吉田松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と評したように、有能な人材を見出しては使った。自ら松陰門下となったとも伝わる。
この時期、島津斉彬が西郷を重用したり、江戸で勝海舟が台頭したように全国で同じように制度疲労を補うような人事が行われている事は興味深い。
第一次長州征伐の時、藩論は例によってモメまくり一日中議論しても結論は出ない。すると突然「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と言って席を立ったそうだ。
思うに殿様は恐ろしく無口な人だったのじゃないか。じっくり考え抜いて家臣から優れた提案があるまで黙っていた、と。そして自分の考えとも合わせて最適解と思われる発言に対して、ゆっくりと
「そうせい」
と告げた、とすればこれは類稀なる名君となる。
長州人はとかく騒がしい。いきなり抜刀して中にはテロまがいに暴れまわるのが多い(新撰組も似たようなもの、との声有り)。
殿様は臣下の者共のそういった気質を良く知っていたのだろう。
喋らせるだけ喋らせておいてタイミングを見て『そうせい』と。
版籍奉還の際も率先してこれを了承。自らの行く末が見えていて、島津久光のように『話が違う』と怒り狂うこともなかった。そして事が落ち着くと明治2年には山口に帰り隠居する。
日本の行く末も又視野の中にあったとすると、相当のマキャベリストなのかもしれない。
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謎の人物 (都市伝説編)
2016 SEP 15 20:20:39 pm by 西 牟呂雄
ついにその名前が明らかになることなく、歴史のかなたに埋もれていった人物は多い。或いは正体不明のまま消えていった人達。本人の自覚も無く、どこかで言い伝えられたり、噂に上りながらついに名乗り出る事のなかった人。筆者はそういった人を捜し当てたい欲望にかられる。
明治天皇は大層お酒を召し上がり、飲み過ぎて臣下の者に抱えられて寝所に帰ることもあった。尤も当時の側近は下級武士上がりも多く、薩摩出身の枢密顧問官、黒田清隆などは酒乱でも有名だった。
昭和天皇はお酒を召し上がらなかった。体質的にあまりお好きではないと共に時代も洗練されてきて、泥酔した人間を見たこともなかったという。
戦時中、広い御所ではなく防空舎の御文庫でお暮しに成った時のことである。侍医の一人が事もあろうに泥酔して長椅子に寝転がっているのを見てしまった。
「これは病気であるか?」
と陛下は尋ねられ、酔っ払って寝てしまった旨をお聞きになった。
「酒に酔うとこんなになってしまうのか」
と呟かれた。僕はこの話が好きで、この泥酔した豪傑の侍医先生は一体何という人か知りたくてずいぶん調べたがついに分からない。戦後はどうされたのだろう。
先般、天皇陛下が戦没者慰霊の旅に訪れられたペリリュー島の話。ここはかの硫黄島での戦闘の前哨戦のような持久戦が戦われた激戦地だった。米海兵第一師団は壊滅する。結果はご案内の通りではあるが。
記憶が曖昧なのだが、ここで最後の一兵として機関銃を乱射して戦死した女性がおり、何かの雑誌でその女性と思しき方が軍装で日本軍と写っている写真を見たことがある。
確かその記事では『佐官の愛人の芸者』となっていたと思うのだが定かではない。パラオには多数の民間人もいたので、そこからついてきた日本人慰安婦なのだろうか。
米軍も手榴弾まで投げて食い止めようとした最後の一兵が女性であったことに驚き、十字架を立てて手厚く葬ったというオチもついている。これはかなり信ぴょう性が薄いと思われる。
それにしても軍籍がないので戦死者とも認定されず、親兄弟もいたであろうにこの人の名前くらいは知りたいと思ったのだが皆目分からなかった。
サイパンで自決しようとして重傷を負われた菅野静子さんという従軍看護婦の方がおられるが、この話と混同したのだろうか。
『命売ります』は1968年に発表された三島由紀夫の娯楽小説で、ちくま文庫で今でも刊行されている。内容は例によって三島がエンタテイメントをやるといつも陥る不完全小説だ(と僕は思っている)。
ところがその20年も前「5万円で命売ります」という広告が名古屋市内に張り出されたことがあった。父親の病気治療のためにある青年が実名で書いたもので、何人かの申し入れがあり面談にも及んだ実話だ。
また、瓦礫の山になってしまった新橋から銀座のあたりで『命売ります』の看板をサンドイッチ・マンのようにぶら下げている男が多くの人に目撃されている。実際は複数かもしれない。
敗戦後間もない混乱期で売る物もなくなり必死に生きようとした話だ。その人(複数かもしれない)が載った半藤一利と森本哲郎の対談を読んだが、その後はどこでどうなったのか。まさか本当に『売る』ことになってしまったのか・・。
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本当かよ 承久の乱
2016 AUG 25 1:01:51 am by 西 牟呂雄
後鳥羽上皇は『新古今和歌集』を撰したことで知られるが、武芸も好み自ら刀剣に焼刃を入れるような変わった天皇であった。その異色振りは皇統の魔人、後醍醐天皇にも匹敵すると筆者は考えているが、いかんせん巡り合わせが悪すぎた。
平家が木曽義仲に追っ払われて僅か四歳で三種の神器が無い中に即位。在位中に鎌倉幕府が出来てしまった。
しかし初期鎌倉幕府は畿内を中心に朝廷が一定の勢力を保持する二重政権で、後鳥羽院も広大な荘園を維持していた。西行法師や鴨長明などとチャラチャラ暮らしていればいいのに、一方で北面に加え西面の武士を組織し幕府への対抗心を隠そうともしない。
そこでまた間の悪いことに鎌倉三代目将軍実朝が暗殺されてしまい、新将軍の件でモメる。そしてとうとう北条義時追討の院宣(いんぜん)を出すに至った。
鎌倉では動揺する御家人を前に北条政子が涙ながらの大演説を行ったことは良く知られた話だが、鎌倉武士は団結して京に向かった。
やる気満々の上皇はこれを迎え撃つため、美濃・尾張の国境に布陣するが、実に情けない事に京方は総崩れ。ついに宇治川の決戦となってしまった。後鳥羽上皇は自ら武装したらしい。宇治川は豪雨により増水していたが、鎌倉方は溺死者を出しながらも強行渡河し京へなだれ込んだ。
以上が承久の乱のあらましだが、最近面白い事を知った。
上記北条追討の院宣は当時の公文書、漢文で書かれていた。ところが追討される北条義時をはじめ、鎌倉武士団でそれを読める者がいなかった!慌てて坊主かなんかに読ませてわかったという有様で、都と関東の文化程度はかくも差があったのかと今更ながら驚いた。
どうやらこの時代のサムライとか軍師は、戦国時代の黒田官兵衛のように『孫子』や『六韜』を読みこなしているようなインテリではなく、梶原景時とかは暦と占いで戦争の日を決め、また占いで陣の方角を決め出陣式の段取りをつけるだけ。あとはせいぜい情報を取るぐらいが関の山だから、奈良時代には入っていた『史記』なんぞ読んでないのだ。これらが熱心に読みこなされるのは戦国時代になってかららしい。鎌倉武士団の教養なぞ推して知るべし。
後鳥羽上皇は隠岐の島に流されそこで20年余りを過ごす。することがないので七百首近い和歌をお詠みになった。
我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け
配流後も強い気迫が感じられる。あながち妄想とも言えないのは百年後に流されてきた魔人・後醍醐天皇は脱出に成功している。忠臣楠公ありせば・・。
余談だが、百人一首のパロディーとして「股引や 古き軒端にぶら下がり」と落語のネタに使われる
ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほ余りある 昔なりけり
は、後鳥羽院の三男順徳上皇の作品です。オヤジ以上のイケイケで佐渡に流されて詠んだものです。
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謎の人物
2016 JUL 2 18:18:47 pm by 西 牟呂雄
ご存知、聖徳一家の画像でこの太子の尊顔が旧一万円札になったから、我々昭和オヤジには大変馴染みがある。
太子を中心に向かって右が長男の山背大兄王だとは知られていたが、左は一体誰なのか。太子の他の息子だろうとは思っていたが偶然(研究者はとっくに知っていたろうが)分かった。殖栗皇子(えぐり の みこ)という太子の弟だそうだ。弟と長男の立像とは知らなかった。
弟は腹違いも含めて4人、息子は8人まで数えてみたがまだいるかもしれない。嫡男はともかく一人の弟がなぜ選ばれているのか分からない。やっと名前は突き止めたが何かをした人でもなさそうだ。ひょっとして全部うそじゃないかな。
函館フランス外人部隊、というものは無いが、幕府の歩兵である伝習隊を指導したのはフランス陸軍である。その士官・下士官で幕府がギブアップした後、函館まで行ったグループがある。義に感じたものと見られ、全員一旦フランス軍を辞めている(給料が高かったのかもしれないが)。全部で5人。中央でソッポを向いている人がリーダー格のブリュネ大尉、後に復帰してフランス陸軍参謀総長になった人物だ。
函館軍は彼らの指導もあって号令なんかも「バタリオーン(大隊)アルト(進め)」とやっていた。
その隣にいる日本人は函館政権の幹部のはずだが榎本武揚でも大鳥圭介でも、ましてや土方歳三でもない。これもネットでしつこく探したら分かった。松平太郎という幹部である。
松平というから、将軍の筋の妾の子かと思ったら幕府ができる遥か前に三河で分家した家系で只の幕臣だった。有能な人だったらしいが明治期に外務省に出仕シウラジオストックに行く。かに地で商売を始めたがうまくいかなかった。武家の商法というヤツの典型でその後は不遇だったとか。![MIKASAPAINTING[1]](https://sonarmc.com/wordpress/site36/files/2016/04/MIKASAPAINTING1.jpg)
あまりにも有名な日本海海戦時の三笠艦上の絵。東郷司令長官は皆さんご存知かと思う。
ところが、この絵に書き込まれている人物は全員どこの誰だか分かっているのだそうだ。例えば秋山参謀は右から三人目であることが分かっている。
この中に一人、私の良く知っている人物の遠縁がいるらしいのだがそれがどれなのか分からない。
今度会って確認することにしよう。
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