Sonar Members Club No.36

カテゴリー: インド

小倉記 再会編

2015 APR 20 20:20:33 pm by 西牟呂 憲

  門司の北端、すなわち九州の北端に和布刈(めかり)神事で名高い『和布刈神社』があり、その一角は割に由緒ある料亭になっています。和布刈神事は厳冬の旧暦元旦の深夜に神職が関門の海に入って、松明に手鎌でワカメを刈り取る儀式のことで、和銅時代には朝廷に献上もした由緒ある行事です。
 この料亭でメシを食っていて気付きました。関門海峡は西にむかって一度蛇行して小倉の方へ曲がりS字のように玄界灘に通じます。夕陽を眺めながら飲んでいますと、何と九州から見る夕日が本州に落ちていくのです。正確には彦島ですね。馬関戦争でやられた後、危うく香港のように外国領土になりかけたのを、高杉晋作がツベコベ言って何とか繋ぎとめました。高杉晋作はあの写真の顔があまり好きになれないのですが(ファンの方ごめんなさい)大したものです。
 私の知り合いに元小倉藩士の子孫がいて、大変変わった苗字です。小倉城主は礼法宗家の小笠原氏ですが、信濃から国替えでやって来た時に藩主に付いて来た一族です。その彼、幕末の長州戦争・小倉口の戦いで高杉晋作の部隊に軽く負けたことを今でも恥じていて『博多の黒田が助けに来るはずが裏切られて負けた。』と黒田藩を逆恨みしています。恨むなら奇兵隊を率いた高杉を恨みなさいよ、といったところなのに。

 ところで小倉に行きまして。インド人とドイツ人が一緒に来るという奇怪な日程にあわてて足を延ばし再会しました。連中とは10ヶ月ぶりですかね。両人とも実は偉い人で大金持ちです。そしてなかなかのタフ・ネゴシエーター、尚且つユーモリストでもあります。
 話していると、ドイツ人のここ一番の集中力とインド人の譲らなさにはしばしば『もう分かった。』と妥協しかけたものの、黙り込むのも技の内。
 その後食事にディナーに誘うとにこやかに応じてくれました。ただインドの方はビーフはだめです。『ヒンドゥーか?』と聞くと『私はブラマンだからね。』とウィンク。初めは何のことかわからなかったのですが、これ日本ではバラモンと教えられた最上位カーストのことでした。彼は上級バラモンで先祖以来ビジネスに手を染めたのは父親の代からだそうです。さすがに肌は黒いのですがジョニー・デップに似た男前。
 彼の地元に行った時にまるで国会議事堂のような建物がありましたが、なんとあのサイババが建てた病院でした。もう亡くなった有名なサイババは初代サイババの生まれ変わりと称していて、ただ彼の説明では初代は元々イスラムの異端で、あんなものニセに決まっているといっていましたね。どうでもいいけど。
 ドイツ人はデカくてゴツくて、昔のサッカー・ナショナル・チームにいた名キーパー、オリバー・カーンにそっくりで強そう。アジア中にビジネス・ユニットがある連中だから日本食もお箸も慣れたものでした。最後の桜に喜んで携帯でたくさん写していました。
 それで食事した後にカラオケに連れていくと、奴等面白がっていましたねぇ。
 カラオケは英語縛りでやりましたが、彼らはビートルズ、私はプレスリーばかり。インド人はパフォーマンスはよかったがリズム音痴というやつで歌が合いません。ドイツ人は真面目にやり過ぎてビートルズというより男性バロック音楽のコーラスみたいになってしまいました。
 このドイツ人はお母さんが先日 国境を考える Ⅱ で書いたカリーニングラード(旧ケーニヒス・ベルグ)の出身でした。ここの出身者の話になってイマニュエル・カントやオイラーの名前を出したら『よく知ってるな』と受けました。
 二日の話し合いでおぼろげながら着地点が見えてくるのですが、その後のスケジュール感が微妙に違う。ドイツ人はここから加速するように次々と目標を前倒しにしようとします。インド人は『これからのインドは凄いことになる。中国なんか問題にならない。』と張り切ります。日本側のハラが試されることでしょう。

 ところで、帰る時に以前九州で研修していたロシア人とバッタリ羽田で会ってビックリ。別のプラント・メーカーと商談していたそうで(私の件とは別に)旧交を温めたのですが、始めに『ヴィー・ゲート・イーネン(数少ない使えるドイツ語)』とやってしまい怪訝な顔をされました。ここはロシア語で『カクダィラ』と聞くべきでした。
 別れ際にはカンが戻って『ダスヴィダーニャ』がスッと出ましたが付け焼刃ではこんなもの、まだまだですな。
 
世界は狭い!

インド高原までやってきた


「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

真夏のインド大陸 後編

2014 JUL 14 15:15:47 pm by 西牟呂 憲

2014070910230000

 インドから帰ると台風一過、あまりの蒸し暑さに『ああ、日本の夏だ。』と思ったが、実際日本の方が暑い。これって変じゃないですか。
 6時間の車移動中の奇観が上下の写真で、砂岩が積み重なったような光景が続きます。古い話で恐縮ですが映画『イージー・ライダー』のアリゾナの光景を思い出します。岩だらけなので、ロックンロール・マウンテンと名付けました。

2014070616490000

 こういうところには、例の牛だの山羊だのはいませんが、今度は猿が道を横切りました。車を寄せて外に下りても全然ビビらず、むしろ威嚇するようです。どうやらこいつらも神様の使いらしく、全く迫害されないためこのように威張りくさっているのです。

 2014070910130002  

 どうも、地位で言えば 牛>猿>人間>犬 くらいの順番でしょうか。

 インド人は笑わないと実に深刻な顔つきになり、おまけに相手が頷く時に首を振る癖があって、見た目にはあからさまに拒否しているように見えて困りました。

 ところで、ご承知の通り先日ドイツがワールドカップ準決勝に於いて、大本命ブラジルをコテンパンにやっつけて決勝進出を決めたばかり。
 あの真面目なドイツ人もこの話にはノルはず、今回合流出来なかった仲間のドイツ人に電話をした途端、
「コングラッチュレーション!!」
とやって盛り上げました。案の定ドイツは大騒ぎになっているらしく、その後の快勝を祈らずにはいられません。まさかサッカーの結果をインドから期待することになるとは思いませんでしたが。

 そして本日は3時に起きて必死に応援。結果は優勝ですから早速おめでとうのメールを打つことに。よかった。

真夏のインド大陸 前篇

小倉記 再会編

インド高原までやってきた


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

真夏のインド大陸 前篇

2014 JUL 8 21:21:32 pm by 西牟呂 憲

 涼しい、ビックリです。インドの高地に降り立った途端に爽やかな冷気に包まれました。灼熱、とか熱波という言葉が良く似合うはずのインドでこの風。どうやら雨季なのでしょうが日本の日差しが刺すようになるこの季節に思わぬフェイントを食ったような気がしました。
 実はマヌケにもパソコンを忘れ、最近とみに著しいボケの進行にうんざりさせられたのですが(だから人のパソコンを借りて打っています)意外な過ごしやすさにホッとさせられました。インドでは最も暑いのは4月頃だそうです。夏休みも最も暑い時期の4月・5月なのだと聞きました。サマーという語感はやはり国によっては異なります(当たり前だったか)。
 今回はここから車で6時間、デカン高原奥地の現場まで足を伸ばしました。途中はたまーに村落がある以外は耕したかどうか良く分からない、畑のような原野のようなサバンナが続いて退屈しました。どこでも我が物顔に振舞う牛の群れは至るところに屯していて、都市部に近い所では一応家畜の風情でしたが人も住居もロクにない所ではまるで野良牛とでも言うのか・・。そのうち野良象でも歩いているかと期待したのですが、さすがにいません。そして一箇所、エアーズロックのような石の山。この周りは巨石を積み上げたような不気味な景色です。

 ところでやっと着いた所はいわゆる工業地帯で、たどり着いたのは夕方ですが巨大設備がシルエットになっているのを見ると、一瞬あまりの既視感にインドに居ることを忘れます。世界中、日本でも同じような設備が稼動しており、従ってコンペティターでもある訳です。産業のグローバル化は様々な矛盾を抱えながら今後はどうなって行くのか。いずれにせよ技術を持っている日本はキー・プレイヤーでありつづけるものと考えます。
 宿泊のホテルについた途端に思わぬ光景を見て、益々その感を強くしました。何とカンファレンスルームで麻雀に興じている日本人グループに出くわしたのです。日本語を喋っていたので中国人・韓国人じゃありません。いるんですな、昭和タイプのサラリーマン。
 そして更に驚いたのはホテル内のメニューにTonkatsuとかKaraageといった日本食があるのです。後に判明しましたが、ある長期滞在の日本人商社マンが、休みのヒマに任せてコック達にレシピ付で教えたのだそうです。これは評判が良かったらしく、オリジナルのコックは腕を買われて既に大都市に転職してしまいましたが、その後も受け継がれてやっています。近くに14~15世紀の世界遺産になっている宗教施設がありますが、そこまで来た日本人女性バック・パッカーが『こんなところにまで日本食が!』とツイートしたことが話題になったとか。どっこい日本のサラリーマンはやってますよ色々と、と自慢したいものです。

 さて翌日現場に入りました。時おりサーッと日が照るとさすがにムワッと暑いですね。
 僕達メーカー育ちはヘルメットを被ると本能的にピシッとして『良し、行くぞ。』となります。熱く、煩く、重い機械の側を通ると普段使ってもいない筋肉が締まるような気がします。現地のオペレーターと目が合うと、いようやっとるな、と声を掛けたくなるもんです。
 この工場は立上げの時にヨーロッパ系のエンジニアリング会社に相当ふんだくられて懲りたようです。あちらはスペックに書いてないことは知ったこっちゃない、と冷たい。そこで我々は丁寧に対応策まで協力しますよ、と説明するのですがそこは価格とかコネとか絡んで複雑になります。
 こういうヨーロッパ勢のやりかたは、政治的軍事的コストをかけないで絞りまくる帝国主義の匂いを感じますね。インドは地政学的に十分アジアの範疇です。韓国もゴリゴリ来ています。中国はインドとはうまくいっていません。
 日本がインドと組むのは、今でしょう、なんちゃって。安部総理は日印関係をかなり多角的に考えている気配がします。よし、ここでガンバレ日本、と工場の片隅で一人で力んでいました。

真夏のインド大陸 後編

インド人とドイツ人

インド高原までやってきた


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

インドの貴婦人

2014 JUN 21 19:19:18 pm by 西牟呂 憲

 今から35年あまりの昔、僕の実家のマンションのゲスト・フロアにインド人の女性が2年程いたことがある。国立大学の客員教授で滞在していたのだ。当時で御年50位のまァオバチャンなんだが、法学博士という立派な方で、小柄なかなりの美人だった、独身。
 大変な生まれらしく料理はおろか身の回りのことが一切できなかったため、招聘元の先生に(同じマンションのこっちは文化人類学者)多少の英語を喋るウチの母親が何かと面倒を見てやってくれと頼まれ、頻繁にウチに来ていたようだ。僕はその頃地方に飛んでいたが、たまに実家に帰るとその博士はいつも来ていた。玄関を開けた途端に『あっ来てるな。』と分かる。何故かと言えばサンダルがあっちこっちに脱ぎ散らかしてあるからで、靴を揃える習慣が無い。正確に言えば自分で揃たことがなく、その役割のカーストが常にいたのだそうだ。召使ですな。曰く「私が揃えたらその人の仕事がなくなってしまう。」ウチにはそんな召使はいないけど、とにかく自分ではやらない。
 上位カーストのバラモン階級だが、その中もいくつにも分かれていて、確かマハラジャの次くらいのハイエストになるらしい。そこクラスになると人口大国インドでも人数は極少なく、結婚適齢期(インドの女性は16~18歳)に同等カーストに適当な相手がいなかったため学者になったと言っていた。
 現在の巨大資本による工業が発達する前のインド社会では、カーストそのものが仕事の資格のようなもので、ヒンドゥー教徒に関しては誰も文句も何もなかったようだ。どうしてもイヤという人は少数だが仏教徒(発祥の地ですぞ)やキリスト教徒(マザー・テレサがいたでしょう)になれば済んでしまうようなことを説明されたが本当だろうか。
 例えば財閥で有名なタタはペルシャ系でゾロアスター教だから昔から製鉄業に進出できた。商人はジャイナ教徒とか。ムスリムだって多い。タタのゾロアスター教は、まるで日本の天皇家のように男系相続しかできないため、前当主だったラタン・タタの後にはタタの苗字を名乗る後継者がいなくなっている。

 ところで例のインド女性はドイツで博士号を取った、なぜドイツかは聞かなかったが、ナントカ大学でしばらくそのまま教えていたそうだ。物凄いインテリで文化の吸収力も凄かった。ただ、ネイティヴのドゥラビダ語とドイツ語が混じったインディアンイングリッシュは聞き取りが難しく、何度も聞き直したが。面白いもんで母親とは十分にコミニュケートできていた。向こうは向こうで『息子さんのアメリカン・スラングはよく分からない。』と言ったとか。
 ウチの母親の運転で弥次喜多道中のような旅を楽しんでいた。しかし母親の方も十分に世間知らずだったので(しかも我儘で押しが強い)行った先ではさぞ大変なことが起こっていただろうと思う。もう一人はインド人で靴も揃えられないのだから。
 帰国に当たって更に驚かされたそうだ。あんなに長くいたのに大した物は何も無く、着るものとか身の回りの物を何故か10個くらいの紙袋に分けた荷造り。「インドでは空港や税関でよく物を盗られるので荷物は沢山分けておいた方が被害が少ない。」と言ったらしい。

 僕も最近インドに行くのだが、今頃どうされているだろう。ドクター・チャンドラー・ムダリアル、存命ならば80歳を超えているはず。お目にかかってみたいものだ。

インド人とドイツ人

インド高原までやってきた

インド高原までやってきた Ⅱ

インド高原までやってきた Ⅱ

2014 MAR 31 21:21:45 pm by 西牟呂 憲

 ホテル前の広場に住み着いている犬の親子は、朝7時にエサを求めてか棲家から出て来たが、本日はもう一匹、あれは父親なのか加わって運動会をしていた。僕が食事をして部屋に戻ると6匹になっていて、何かを咥えて走る奴を追いかけるというルールらしい。

 そしてついにドイツ人が来たと連絡が入った。本当に0泊3日でドイツからやって来た。確か僕より2歳くらい下のはずだが、驚くべきエネルギーである。チェックアウトをしていると、隣で白人が「日本人か?」と聞いてきた。そうだ、と答えるとロビーに腰掛けてやたらとインドの悪口を言い出した。一ヶ月いるがこの国は時間は守らない、直ぐに値引きの話ばかりする、責任感の無い奴ばかりだ、と余程の目に会った様子だ。もう一人来て挨拶して分かったがフランス人だ。
 別れ際に「オヴァー(ル)、ボン・ボヤージュ。」と言ってやると、久しぶりに聞いたフランス語がうれしかったのか、満面の笑みで、日本語では何と言うか聞いてきたので「サヨナラ、ヨイタビヲ。」と教えた。インドにきてドイツ人に会う日にフランス人と会話する、グローバル化とはこういうことなのか。
 やれやれと待ち合わせ場所に向かうが、渋滞・渋滞・ヒト・ヒト・ヒト、牛・牛・犬・山羊まで、そして砂塵舞い上がる乾いた大地。この暑い中に目出しのブラック・チャドルを纏うムスリム、全く溶け込んでいてそれなりに平和ではある。どれぐらい乾いているかというと、着いた途端に裏手の塀の向こうのユーカリの木が燃え出した。煙が黒っぽく、自然発火の火事のようだ。従業員も慌ててはいなくて、ヘラヘラとバケツに水を汲んで歩いて行く。しばらくそこにいたが、どうも日常茶万事のようだった。
 ドイツ人は××mannというユダヤ系の名前だが、風貌は全くゲルマン化していてハゲている。初めから喋りっぱなしに喋るので、途中で切らないとこちらが意見を伝えることもできない。現地のインド人(こちらのパートナーのインド人とは別)は一言も喋らない。”フィロソフィー”という単語を会話にしきりに入れるのはジャーマンの面目躍如か。
 このインド人は工学系の大学院を出たインテリで、いくつもの会社を経営している金持ちであるが、典型的な二代目でオヤジが一発当てて成り上がった一家のようだ。もっともここインドでは圧倒的に貧困層が多く、チョっとでも当てるといきなり庶民・大衆から隔絶したステータスにあがってしまう。資本主義発達の過程ではありがちなことだ。付け加えると最大の民主主義国家で目下総選挙の直前である。それが又発展途上っぽくてメチャクチャな買収合戦の真っ最中。実弾はおろか着る物・食べ物・バイク・車・までが飛び交っているそうだ。そういった部分をいささか差し引かなければならないが、ここだけの話、かの二代目氏、どうも胡散臭い。
 それはともかくこの時点で僕の最大の問題は、本日のフライトがキャンセル待ちのままだったことだ。本当のところ一人旅なら何とでもなるのだが、日本の営業時間ギリギリにメールが入って目出度し目出度し。こんなもんだ、度胸を据えなきゃアジアじゃ勤まらない。
 話し合いは持ち越しも含めて、次のステップまで継続、食事の席に移動した。この時、インド人のエゲツなさが明らかになる。即ち日本に来たときにギンザに行った、と盛んに強調するのだが、よく聞くと大した所には案内せずにキャバクラに連れて行ってそこを銀座と吹き込んだらしい。色んな国のガールズがベタベタしてくれたと自慢していたが、その嬉しそうな顔は品格のカケラもなかった。
 そして別れ際に驚くべき事を言った「この前、あなたにそっくりなブラジル人が来て、あなたと同じような話をして帰った。」僕は引きつった。「それはケネス・ニシームか。」「オウ、知っているのか。」分からない方は拙ブログ『春夏秋冬不思議譚ー月曜日の夜 ーもう一人いた』をご参照ください。もちろんバックレたが。

インド人とドイツ人

インド高原までやってきた

インド高原 協奏曲 Ⅳ


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

 

インド高原までやってきた

2014 MAR 28 4:04:30 am by 西牟呂 憲

疲れ果てたノラ

疲れ果てたノラ

 

 今週はインドにいます。インドのほぼ中央のIT産業が盛んなデカン高原の真ん中にです。着いてチェックイン、コーヒーを沸かそうとした途端にブレーカーが落ちて、暗黒の部屋で途方に暮れました。何やら悪い予感がします。翌日合流するはずのドイツ人の予定が狂い、一日余計に滞在する羽目になりました。そのドイツ人は一日遅れて来るので申し訳ないと詫びつつ、来たその日に又何処かへ飛ぶと言うのです。ドイツから日帰り、0泊3日でもするつもりでしょうか。
 ホテルのWi-Hiは部屋で何とか拾えましたが、頼りにしていたガラケーのIモードは何故かシンガポールまでは繋がりましたが、インドではダメ。ネットワークが多すぎて自動ローミングがダメだったようです。

そしてホテルで待ち合わせたインド人は待てど暮らせど現れない。今回は一人ですが、こういう時に誰かが一緒だとああでもないこうでもないと煩いだけで危機管理の役には立たないのが常です。こういう時は悠々としているに限る。電話が入り『渋滞がひどい。こんな渋滞はインドでも初めてだ。』と全く想定の範囲内の言い訳に思わず苦笑い、結局5時間後にホテルに来ることとして良しとしました。
 ホテルの周りを少し歩くと、怪しげな野犬が昼寝をしていたり走っていたりしてビビりますね。こいつら野生の犬なのだろうか。今は乾季ですからカラカラに乾燥していて、36度でも日陰に入ると快適です。その分風が吹くと土埃が舞ってしまう。恐ろしくヒマそうなオッチャン達が固まって笑っていたので覗くと、何と側溝にウジャウジャとドブネズミがいて、這い出してきた奴に石を投げて遊んでいるのです。2014032716070000

 

 ネズミはウロチョロしてゴミの山(本当に紙屑や残飯のゴミ)に逃げ込もうとしますが、オッチャン達は細い棒で突いたりして追い出しては小石を投げる。気が付くとインド人以外は私だけでみんながジロジロ見るのです。そして遠巻きに見ていたのにいつの間にか彼らの輪の最前線に押し出され、ギョッとして『OK、OK。』等と言いながら逃げ出しました。これ、志賀直哉の名作”城崎にて”の情景ですね。文豪の筆致は、石を投げられ必死に泳ぐネズミと、療養中で生きている自分(というインテリ)を対比した深い洞察を書き込んでいますが、私はといえばインドのドブネズミに生まれ変わるのだけは御免だ、という凡庸な感想を持っただけ、それくらい惨めな姿なのです。

 いささか憂鬱な思いでホテルに帰り窓から外を見ると、何かの建設予定地なのでしょう、目の前に掘り起こされ整地され、乾燥のせいでひび割れた野原で子供がクリケットの練習をしている。そしてその子供たちが帰ってしまうと、何と広っぱの真ん中で、たぶん親子と思われる犬が二匹どこからともなく現れ遊び出しました。彼らの感覚ではウチの庭といった趣で、腹を出して転げ回り、飛びついて逃げてみたり。親の方は飽きたのか、しばらくするとソッポを向くのですが子犬は鳥を追いかけては帰ってきてじゃれつき、転がり、キリがない。この鳥、黒い羽を広げると真ん中に白い染め抜きのような短い筋が、ちょうどゼロ戦の日の丸のように入っている、日本では見たことのない鳥でした。
 そのうち親の方がトコトコ歩いてよそに行くのを、子犬は途中まで追いかけたのに勝手に別の方向に走っていきます。バカ、そっちじゃない、しかし互いが見えないくらい離れてしまいました。ハラハラしていると子犬の方は広場の隅の盛土のヒビ割れに行き、そこに空いている穴に入ってしいました。
 そして暫くすると遠くの方から親犬がトコトコ走ってきて、やはりそこに行くのです。どうやら奴らはそこを棲家にしていて、広場が庭のようでした(ただイヌ科が穴居するものでしょうか)。さっきのは「もう遅いから早く家に行ってろ。」くらいの話の様で、心配して損しました。
 工事が始まるまでの短い間ですが、数千平米の庭を持つウチを独占しているのです。ネズミはいやだけど、あの子犬は楽しそうだなぁ、と思ってしまい・・・・ウッ情けない。

 遅れてきたインド人と打ち合わせし、話が弾みました。テレビのチャンネルが数百もあるのは(ホテルのCATV)広大なインドに数百の言語と数百の宗教があるからだそうです。自分は5年の修行(セミナー程度かも)の後ラマ教のお坊さんの資格を取った、長男は東京で暮らしていてオリンピックの時はタダで大勢が泊まりに行くこと・・・。さて、あす本当にドイツ人はくるのでしょうか。ルフトハンザのストライキと言っていたが実に怪しい。私はフライトのスケジュールを変更したところ、物凄い混みようで予定の二日後しか取れません。キャンセル待ちを掛けているのですが、音沙汰なし。ちゃんと帰れるのか少々慌て出しました。

つづく

インド人とドイツ人

インド高原協奏曲Ⅲ

インド高原 協奏曲 Ⅳ

小倉記 再会編


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

インド人とドイツ人

2014 JAN 26 12:12:30 pm by 西牟呂 憲

 巨漢と学者風のドイツ人コンビと長い髪を後ろで縛っているインド人に、ほとんど英語を話せないニッポン人と僕。グローバルと言えばそうなのだが、ヨーロッパ勢とアジアの組み合わせがミソである。

 まず食事。インド人はヒンドゥー教徒と言うのだが、何やら牛でも何でも来い、ベジタリアンでもないとのことでこれはクリア。ドイツ人の内一人がユダヤ系に見えたので、多少気を揉んだがクリスチャン改宗らしくこれもOK。接待は日本料理にしたが全く問題なかった。ドイツには随分と日本料理屋もあるらしい。

 酒に関してはイスラム教徒がいないので、これも何でも有り。初めはビールで乾杯し、日本の生ビールをガンガン飲んだ。そう言えばロシアに行ったときに出されたのがドイツ・ビールだったのを思い出してその話をしたところ『それはロシアでライセンス生産しているのでノット・グッド。本物はもっと旨い。だがキリンも好きだ。』とリップ・サービスしてくれた。しかしヨーロッパ人の酒の強さはケタが違うので、こちらとしては先方があまり得意でないはずの日本酒を勧めた。ところがいくら飲ませても赤くも青くもなりもせず、トイレにも全然立たない。

 ドイツ人の一人は名ゴール・キーパーのオリバー・カーンにそっくりでザ・ゲルマン、そう伝えると破顔一笑して喜んだ。サッカーの日本人選手の話がはずんだ後、話題がオリンピックになったのだが、何と驚いたことに1964年東京大会を知っているのは僕とそのゲルマンだけだったのだ。もういい年になってしまったと感慨深いものがあった。以前のブログ『オリンピック死闘十番勝負』で取り上げた棒高跳びの銀メダリスト、ラインハルトの名前を出すと『お前良く覚えていたな。』と盛り上がった。ところが東京大会の時までは東西合同チームの編成だったことを思い出し、ザ・ゲルマンはそのころどっちだったろうと焦った(焦ることもないか)。

 そうこうしている内に日本側が(僕が)酔っ払ってしまい、早々とお開き。その後バーでウイスキィでもやろうかと思ったが控えた。控えたのだが、インド・ドイツ組は飲み足らなくてどこかに行ったようだ。そのインド人がかなりの日本通で、カタコトよりマシな様子だったからどこかへ行ったに違いない。翌日迎えに行き『眠れたか。』と聞くと3人ともニタニタしたのであれは怪しい。

 インドは一国とはいえ、何でも有りの一種の大陸だから、民族の多さ・多様さは西ヨーロッパ全体並だろう。南の出身だと言っていたが、あの辺は本来あまり大柄ではないはずが奴はデカい。薄い頭髪を長く伸ばして後ろに縛っている訳を問いただすと、ダライ・ラマの教えに被れてナントカの修行期間は髪を切れない、と訳の分からない解説をした。きっといいかげんな奴だろう。ところがどうも日本に居たことがあり、日本とインドのビジネスを結びつけるような、いくつかの会社を経営していることを白状した。

 SMCメンバーはヨーロッパ滞在の経験者が多いが、僕はあまり縁が無い。世界地図を睨みながら戦略を凝らすタフなゲルマン、何でも飲み込む 亜大陸インド。ひょんなきっかけで何かが生まれるかもしれない。

インド高原協奏曲Ⅱ

インド高原協奏曲Ⅲ

インド高原 協奏曲 Ⅳ


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

たむらあやこ
久保大樹
深田崇敬