Sonar Members Club No.36

カテゴリー: インド

インド漫遊記

2017 SEP 26 18:18:29 pm by 西 牟呂雄

 一年ぶりにインドに来た。
 ところでインドのビザを取ったのだが、従来のビザ・センターが無くなってインド大使館に引っ越した。あそこのスタッフの態度の悪さとコロコロ言う事が変わるのは有名で、いつも憮然とした日本人や怒り狂う外人観光客がいたのが少しは良くなったかと期待した。ところが行って見ると窓口にいたのはおんなじオバハンだった。
 その効率の悪さは少しも改善されておらず、相変わらず書類をつきかえしたりして窓口でトラブッていた。
 そもそもビザ申請のオンライン・システムが使いづらいの何の。
 原爆を持ち、中にはあんなに天才的な人材が出るインドが、決して先進国としての生産性に達しないと常々思うのは国全体としての効率が全く向上しないからだ。

 今回はトランジットの関係で、従来ルートではなくバンコック経由となったため航空会社もタイ航空を選んだ。するとこれが楽しいことに成田の出発が2時間遅れる。それも一度ゲートから離れてから「機体に不備がありました」などとアナウンスがあって戻る。しばらくすると「燃料を入れてます」「ドキュメントが遅れています」「あと15分です」と詐欺師の常套手段のような具合で実に疑わしい。止まっている機体に座っているのは結構キツい上に乗り継ぎも心配で、旅の今後が偲ばれた。案の定バンコクで免税のタバコを機中に忘れた。

 そしてバンガロールへ、去年は水争いで暴動が起きた街である。

インド 暴動の街へ (今月のテーマ インドの旅)


 そこから車で3時間かけて深夜に、街だか村だかわからないところに辿り着いた。今度の旅はここをベースにして古い友人と会うことにしている。

外見はそれなり

 着いた時は真っ暗だったので良く分からなかったが、翌日見ると外見はそれなりでホリデイ・パルム・ナントカというリゾート型のホテルだった。
 ところが周りには何もない。こんなところでリゾートねぇ、確かにプールやキッズ・ルームがあるにはあったが。

 ちょっとその友人に触れておきたい。バブル期に日本に留学したインド人なのだが、その後日本で多少仕事を得て日本人と結婚し10年以上暮らした。従って働いてはいたのだが、まぁあんまりカタギじゃなかった。大阪でディスコをやったりホストクラブをやったり。だから堪能な日本語も大阪弁。
どういう経緯かは知らないが、現在はインドに帰っているが何をしているのかは分からない。税金に異常に詳しくて、そんなところは今も大いに怪しい。きっと荒稼ぎした金を持ち逃げでもして遊び暮らしているのかと見ている。インドは政策金利を去年下げたが6・25%、以前はもっと高かったから悠々自適にやっているらしい(家族は日本に残しているけど)。

怪しげなカード

 モディ首相ははびこるニセ札対策や脱税防止の名目で去年1000と500のルピー紙幣を廃止したりダイナミックな金融政策をとった。実際に大企業は影響を受けていて、アッと驚く某企業グループの製造業が倒産したりしている。
 今回もたかだた1万円を両替したら700ルピー分はキャッシュ・カードで渡された。それも『Yes Bank』なるふざけた名前の銀行が発行したやつで、こんなのはアナログ型の仮想通貨みたいだ。

 話がとんでもない方に行ってしまったが、その友人によると僕と入れ違いみたいにインドに来ていた安倍総理は熱狂的に歓迎されたようで、モディ首相は自身の地元で歓迎のセレモニーを催しパレードまでやったことが新聞の一面に出たとか。
 こういう話は安倍嫌いの日本の新聞にはロクに出ていなかったが、地球儀外交は確実に効果を上げている。

わかりますか?右に傾いている

 ところでそのホテルなのだが、部屋に戻ってハッと違和感を感じた。
 よくみる中央に置いてあるテーブルが傾いているのだ。なるほどね。
 インドのローカルのホテルはこんなもんだ。田舎のホテルにはまずバスタブはないがここもない、お湯を汲みおくポリバケツがあるだけ。
 前置きばかり長くなったので続きは続編で。

つづく

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インドには日陰が良く似合う (今月のテーマ インドの旅)

インドで知り合った日本人 (今月のテーマ インドの旅)

インドで知り合った日本人 (今月のテーマ インドの旅)

2016 OCT 8 9:09:52 am by 西 牟呂雄

朝メシ

朝メシ

 旅も終わりに近づいたが、泊まっている激安ホテルの隣りに部屋に何と日本人がチェックイン。朝メシの時『日本からですか』と聞かれた。オニーチャンの二人連れで30代と40代のコンビだが、全く英語が分からないと言う。確かにメシを頼むのにも苦労していた。
 聞く所によるとどうやら友達のインド人を訪ねて来たそうで、空港からタクシーで何とか辿り着いたらしい。
 ところでこの朝メシだが、お米をマッシュド・ポテトのようにしたものに香辛料が付いているだけで極めて簡素、即ちマズい。しょうがないから目玉焼きをトッピングして食べてみた。%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e6%97%85%e8%a1%8c%e8%80%85%e3%81%a8%e3%81%9d%e3%81%ae%e5%8f%8b%e9%81%94%e8%a6%aa%e5%ad%90

 昼ごろそのインド人一行が到着した。何と左のお嬢さんは大阪で育ったそうで関西弁ペラペラ。
 彼女は日本の音大で声楽を学び、こちらではミュージシャンとして活動中とか。
 大変な美人だ。どうも日本でも多少活動していたらしく旅行者二人はその頃からのファンのようだった。 
 皆は観光に行くと言うが夕食の約束だけして僕は遠慮した。

日の暮れた繁華街

日の暮れた繁華街

 それで夕方から僕にしては珍しく外で食事した。
 一人の旅先ではあまり夜に出歩く事はしない、これは日本でもそう。見たいところは昼間に一箇所くらいで静かに過ごすのが常で、夜に目的もなくウロウロすると疲労感が倍増する。ガバガバ飲むのは東京にいる時で沢山、という主義。
 夜の街は昼の埃っぽさが闇に覆われてご覧の通り。東京で言えば歌舞伎町のノリに近い。
 日本人二人組も関西の人だから会話はコテコテの関西語になった。
 しかし話しによると『ミナミの帝王』のⅤシネマで竹内力が使うような言葉は大阪では使わない、アレはヨソの人がマネている関西弁だというのだ。
 竹内力は大分出身だからそんなものなのか。特に相手に向かって『〇〇ハン』といった呼びかけは死語に近いらしい。

奇怪なステージ

 一緒にカレーを食べたガーデン・レストランではステージで恐ろしくヘタなライヴをやっていた。
 ベースとシンセにボーカルのトリオがアメリカン・ポップスをやるのだが実に変だ。
 カントリー・ロードとか思い出のグリーングラスをやっても途中に1小節多いような間延びした演奏になってしまう。
 全てを飲み込んで自分流に消化してしまうのか、これもインド文明の力強さなのか。

 旅の終わりにちょっとした用事で郊外に出た。帰りにそのまま空港に行こうと車をチャーターしたのだが、その帰り道。
 田舎道をドコドコ走りながら行くと周りはジャングルのようで、時々道が交差するところに集落があり大勢の人がいる。
 するとドライバーが停まって窓を開け、通行人と話をした。『けらぐりんぐらんでるられぎらろえるぽた』等と言い、聞かれた方はこれまた何か言いながら道を指を指す。しばらく行くと次の同じような所でもやる。
 3回目に気が付いた。必ず『えるぽた』が入っていたからだ。『えるぽた』はインド式の巻き舌英語で『エア・ポート』なのだ。読者諸兄諸姉よ、その時の恐怖感がお分かりだろうか。こいつは空港への道を知らないのだ。
 「お前は空港への行く道を知らないのか?」
 と聞いても『アイ・ノウ。ジャスト・コンファメーション』等と言うばかり。
 結果的には空港には着いたのでこうしてブログを書いている訳だが。

 オォ!インドよ。

インド 暴動の街へ (今月のテーマ インドの旅)

インドには日陰が良く似合う (今月のテーマ インドの旅)

インド高原協奏曲Ⅱ


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インドには日陰が良く似合う (今月のテーマ インドの旅)

2016 OCT 5 23:23:56 pm by 西 牟呂雄

 雨期になると朝晩は涼しいので驚く。
 初めはツレがいたのだが3日目にひとりになってしまったし、水争いの暴動も収まったようなので安いホテルに移動することにした。

なんじゃーこれは

なんじゃーこれは

 ツテを頼んでナントカ・インスティチュートという所に行く。このナニナニ・インスティチュートとは英領時代の名残で、分かりやすく言えばゴルフ場を示すカントリー・クラブといったところか。
 それがですな、ブリティッシュ・コロニアルとでも言うのか質素を通り越してこんなベットと天井に大きな扇風機。事実英領時代に建てられて100年近くの代物だった。
 さすがに街中なのでゴルフ場はないが、テニス・コート、スカッシュ。バドミントンなどの屋内設備が整っており、400人の終身会員が現在のオーナーだそうだ。
 まあ、当時のえばりくさったイギリス野郎が自分たちに都合のいいように造ったのは露骨にわかる。

ジャングルのコテージ

 バルコニーからはまるでアンリ・ルソーが描いたジャングルの中に浮かび上がるように隣のコテージが見え、南国情緒が味わえる。
 写真に写っているのは三階部分で、行ってみると今は使われていない。
 これで官庁街まで歩ける距離だから、東京で言えば新橋界隈と言うことになるから驚きだ。一泊約3千円也!

 何もすることがないので散歩でも、と道路を渡ったらいきなり大英帝国の名残にぶつかった。

荘厳なアングリカン・チャーチ

 立派な教会だ。
 街中にしては静かで誰もいない。
 正面から咎められることなく入ってみて、その荘厳さと質素な佇まいに息を呑んだ。そうか、これは英国国教会なのだ。
 しかしインド人の信者なんかたかが知れているから、英領時代にイギリス人が建ててその後観光地化したのだろう。と言ってもそれらしいのは僕一人、他に誰もいなかった。
 帰るときに白人の女性が一人いて『どうやって入るのか』と聞かれた。

 教会を出て少し行くと、今度は十字架がズラリと並ぶ墓地まで併設されている。
 統治時代のイギリス人のものだとすると、何世紀にも及んだ植民地時代には随分とこの地に没した人がいたことが偲ばれる。
 因みにヒンドゥーは火葬にして遺骨を流してしまうからお墓なんかない。
 イスラムは土葬だと認識していたが、ここインドにも大勢いるイスラムはどうしているのか。三千万人いるというあのゴールデン・テンプルのシーク教は、ジャイナ教は、はたまたラマ教は。
 
 今は雨期で一日に一度は激しい雨が降る。するとやはりカッと強い日差しに見舞われる。
 この風土の中でインドの人々は極めて『形而上』の思考を巡らせ様々な宗教を生み出していった。
 日陰に入ると涼しい。そういえばお釈迦さまが悟りを開いたのも厳しい修行の末、菩提樹の日陰だった。インドには日陰が良く似合う。ビールでも飲もうか。

 等と瞑想していたら、目の前にドーンと祠が立っていた。
 もっと小さいやつは車から見る道端で随分あったので『お地蔵さん』のようだなと思っていたが、この3mくらいの規模は初めて。近くでよく見ると象の神様が祀ってある。そうだな、これは お地象様 だな。

 オォ! インドよ。
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お地象さん

お地象さん

インド 暴動の街へ (今月のテーマ インドの旅)

インドで知り合った日本人 (今月のテーマ インドの旅)

小倉記 再会編

インド高原協奏曲Ⅱ


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インド 暴動の街へ (今月のテーマ インドの旅)

2016 OCT 3 21:21:41 pm by 西 牟呂雄

 別にテロに会ったとかいう大変な話ではない。ただ、暴動である。
 暴徒が車・バスに放火し、それに警官隊が発砲、2人が死亡した。オイオイオイ。
 その理由が何かと言うとこれが水争いだ。
 私が訪問したカタルナカ州と隣のタミルナドゥ州は何百年も前から水争いのあった所で、今回は水不足のタミルナドゥ州に向けカタルナカのダムの放水を最高裁が命令したことに対する反発が理由だ。
「水をよこせ」と言ってる方には、以前大雨に見舞われて都市機能が長期にわたり麻痺したチェンナイがあって、全く自然は恐ろしい。うまいこといかん。
それがですぞ、カタルナカの州都ベンガロールに降りたったら雨。どうやら雨期には入ったようだ。
 街中は拍子抜けするぐらい普段どおり。もっともいつも突然のストライキとか訳の分からん祝日やらはしょっちゅうなのでこんなものか、ビビッて旅を延ばさなくて良かったのかどうか。
直近の情報でも州境でタイヤを燃やして1万人が騒いだと聞いていたので身構えた。SNSの呼びかけで千人程直ぐに集まり、それを見たヒマな野次馬が押し寄せ10倍に膨れ上がり暴動になる、と言う話だった。

朝食風景

朝食風景

 話は変わるが、欧米ならいざ知らず東南アジア・中国・インドでは旅のスタートは身分不相応なレヴェルのホテルに泊まる。今回は特に暴動にでも巻き込まれたら大変だ、何があるか分からない。
 ご覧の通り客はほとんどが外人ビジネスマンで、設備は一流だしサーヴィスも結構であった。
 ところでインドのホテルのケーブル・テレビは600チャンネル位あって、半分は宗教番組、CNNもインド版で米大統領選挙も何もなくこれが圧倒的に例の水争いの話。その他は何故かパキスタンの悪口で、新聞もそう。新聞にはアメリカの大統領選挙の様子とショッピング・モールでの銃撃が載っていたが。
 冷戦時代は米ーパキ VS 露ー印 の大まかな構図だったが、タリバンの跋扈とインドのアメリカ寄りによって大きく変わった。何やらロシア・パキスタンの軍事演習が行われた事で酷くエキサイトした印象だ。印ーパ両国の関係は日韓関係と同じくらい奥深い。
 報道はそうなんだが滞在中ついに暴動の痕跡を見ることはなく、収束したようだ。帰る頃に分かったが、カタルナカ州政府が最高裁からの水の供給命令を無視することにしたから収まったという、そんなの有りかよ。
 
 昔中国で工場を運営していた。上海から始まった『官製』反日暴動があった頃で、あちこちで日本車や日系企業が破壊されたことは御存知だろう。
 我々も現地の様子が気になって毎日連絡をするのだが、返ってくる返事は「何の話ですか」というものばかり。工場のある場所でも1万人規模のデモがあった。心配する我々に「一日200件は起こる暴動にいちいち気にしていられませんよ」などという返事で拍子抜けしたものだった。このインドのローカル水争いも同じようなものか、と今更ながら人口超大国の鷹揚さにあきれた。

はしゃいでいるアホ

 そしてやっぱりいるんですな、アホ共が。
 食事をしてホテルに帰ってくるとエントランスではしゃいでいる若いんだかバカなのか分からない集団がいた。仮装なのか頭にバンダナのようなものを巻いている。
 面白いのでスマホを向けたら喜んでしまって『お前も来い』と取り囲まれ写り込んでしまった。オーハズカシ、こっちは何者と思われたのだろう。
 そして何故か彼らは集団でバスに乗り込んで帰って行く。何かのパーティーだったのかもしれない。恐らく中産階級以上のバカ息子かと推察するが、暴動もパキスタンも関係ない。
 
 翌朝気が付いたが、滞在していたホテルの隣に一世を風靡した霊能者サイババが建てた病院があった。空中から灰を降らせたり(握った拳を振ってみせると灰が飛び散る映像をみたことがある)するという胡散臭さで、一時日本のテレビも盛んに放映していた。
 この物凄い外観で治療費は一切タダという怪しさだ。どんな治療をするのだろう、本当に患者は良くなって出て来るのだろうか。

 オォ、インドよ。

国会議事堂ではない

インドには日陰が良く似合う (今月のテーマ インドの旅)

インドで知り合った日本人 (今月のテーマ インドの旅)

インド人とドイツ人

真夏のインド大陸 前篇

インド高原までやってきた


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インドの多様性 動物編

2016 MAR 15 0:00:28 am by 西 牟呂雄

みすぼらしいボロ

 このみすぼらしい犬を覚えておられますか。さる工場に居ついたと言うか、たまには残飯なんかももらうかもしれませんが基本的にはノラ。何故か縄張りのような顔をして一日中ウロウロしていた犬です。『名前は何と』と聞いたら『それは犬だ。こんな犬に名前なんかない。』という扱いを受けていたので、勝手にボロと名付けていた奴。首輪もリードも無し。門の外には似たようなノラがウジャウジャいましたね。バンガロールという街の話でした。今回は残念なことに会いに行けませんでしたが。
 それがですな、マイスールに泊まったホテルで驚くべき光景を見ました。ちゃんと繋がれた犬がいたのです。そういう扱いを受けている犬は初めてです。

トール

トール

 首輪も付けてリードを持ってもらい、おそらくエサも貰っているでしょう。毛並みも貫禄もそこらのノラとは大違い、品格があります。聞けばちゃんとトールという名前もありました。トールは良く躾けられていてやたらと人を噛むことはないと言うので寄ってみたらご覧の通りそっぽを向いてしまいました。で、この後親愛の情を示してくれフンフンと僕のにおいを嗅ぎ、更には舐めようともしたのです。さすがにビビッて手はひっこめました。狂犬病の話はイヤというほど聞かされてますからね。

人をバカにする猿

人をバカにする猿

 ホテルのガードが教えてくれました。『あれは元警察犬で爆弾や麻薬の検査をやっていた。リタイアしたから引き取った飼い主がアルバイトでホテルの廻りをウロついて小遣いを貰ってる。』本当なのでしょうか。

 今回は瞑想のためバンガロールからマイスールを移動しました。それこそ犬・山羊・猿といたるところにいて、生まれたばかりの子犬も目撃しましたが、可愛いもんですね。国籍を問いません。移動ルートには忽然とこのような工業地帯が出現したりします。

北に向かって

北に向かって

南に向かって

南に向かって

 ご覧の通り殺風景です。ところがもう少し北に行くといるんですな、ちゃんと。回りに人家は全く見当たらず、一体どこからやって来てどこに行くのでしょう。牛飼いのおばあちゃんが4頭の牛を連れて、のんびりというより怠けた雰囲気で立っていました。今このあたりは雨季の前で道端の草は枯れたような色ですが、牛はセッセと食べてます。

大サービスのおばあちゃん

 あなたのファミリーか?写真を撮らせてください。と言ったのですが、このおばあちゃん全く英語がわからないのです。公用語でもあるのですがおばあちゃんには関係ない。もしかしたら字も書けないかもしれません。千年前の暮らしとさして変わらない暮らしで少しも困っていないのでしょう。僕に今からこういう暮らしをしろと言われても不可能です。
 おばあちゃんはそれでも僕の言うことが伝わったのでしょう、一番近くの牛を引っ張って来てくれて(牛はいやがっていましたが)ハイ、ポーズ。原色が鮮やかですね。
 そしてこういう人達にとって投票行動も経済成長も税金も恐らく関係ないのではなかろうか。

 そして最後は動物と言えば動物ですが、シンガポールまでの飛行機の前に座っていたインド人チビです。
 こいつは途中でもう退屈してシートに立ち上がり、何故か僕にキャアッといって顔を出して見せる遊びを考え出し、1時間近くやり続けました。こっちも初めはヘン顔をしてみせてやったらケラケラ笑って盛り上がりましたが、日本人が皆ヘン顔をするものと思われても困ると止めました。するとソレをもっとやれ、とせがむのです。終いには機内食用のナイフを振りかざしてキャーとはしゃいだ所を父親に怒られ、ビービー泣きました。
 

退屈したインド人チビ

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インドの多様性

2016 MAR 13 0:00:22 am by 西 牟呂雄

マイスールの風景

 フラリとインドに行った。とりあえず瞑想に行ったことにしておく(嘘です)。
 行くたびに思うがこの核や空母機動部隊を配備し中国並みの人口を持つ大国は、矛盾の塊だ。数百の言語と宗教、ヒンドゥーのカーストと複雑怪奇な社会にも関わらず一応選挙もやる。もっとも1票125CCバイク一台で買収しまくっているという話はあるが。
 今回はマイスールという古い街に滞在したが、この光景はそれなりの近代都市に見えるだろう。
 ところがこの光景の後ろ側にはトタン屋根に石ころを乗せたようなゴミ溜めのようなスラムがダーッとひろがっているのだ。そこの住民はほとんどが裸足。家屋にトイレがないために、いちいち数えてられないくらいの性犯罪が毎日起こる場所。さすがに近くに行く根性はなかった。
during-daytime[1]mysore-maharajah-s-palace[1] 

                                          
 

 そしてこの街には現役のマハラジャがいる。正確には政治制度としてのマハラジャではないが、地位として27代目の”マハラジャ”はボストン大学卒業の24~25歳という人物だそうだ。右がマイソール・パレスの門で左が宮殿、しかも実際に住んでいる。にもかかわらず公開されて中には入場料を払って入れるらしいが行かななかった。目的が違ったからだ。ここだけの話だが、先代マハラジャは存命。日本にしょっちゅう来て、居酒屋で飲んで喜んでいるような人。僕は紹介されて会ったことがある。 
 それはともかく、実はマイソールから少し離れた所に聖地がある。「ダライ・ラマ高等教育大学」と命名された高等教育機関で、周辺のチベット人居住区やブータン人の留学生などが学ぶ。創立は2009年。チベット亡命政府は北部ダラムサラだが、遥か南のこの地にラマ教の巡礼者・修行者がいるのだ。中には日本人もいるのだとか。
 体操の有名選手を輩出し進学校でもある大阪の清風中学・高校は高野山真言宗系の学校である。元校長平岡英信氏は盛んにチベット密教を研究しダライ・ラマとも昵懇の仲だが、多額の寄付と共に関係者とこの地を何回も訪れている。その縁で日本人留学生が来ている。

ダライ・ラマではない

 ダライ・ラマはも年に一か月はこの地にやって来て、上記教育機関のいわば卒業式に出席するそうだ。その卒業がまた大変で50人に一人くらいしか合格しない難関だと言う。何しろ忙しい方で、ここに一ヶ月、亡命政府のあるダラムサラに一ヶ月、後は世界中を飛び回っておられる。
 そして街中でラマ教のお坊さんを見つけた、ごく日常の光景ではあるが。僕が珍しがって追いかけ写真を撮らせてもらうと、満面の笑みで応えてくれた。

 となりのバンガロールにはかのサイババの信者もまだいる。
 真黒いチャドルで目だけを出しているムスリムの女性もいる。このムスリムはシーア派なのかスンニ派なのか。
 一度だけ真っ黒なチャドルをマレー風に頭だけ覆い、顔を出している女性を見た。顔立ちも化粧も八代亜紀さんにそっくりだった。あれは教えに反していてイジメられないか余計な事が心配になった。
 車窓から十字架を掲げた協会も見えた。
 そして圧倒的なヒンド゙ゥー教徒。

 ふぅ。瞑想も何もいるだけで疲れてしまった。心和む花の写真を。

邪悪な色の花

邪悪な色の花

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小倉記 再会編

2015 APR 20 20:20:33 pm by 西 牟呂雄

  門司の北端、すなわち九州の北端に和布刈(めかり)神事で名高い『和布刈神社』があり、その一角は割に由緒ある料亭になっています。和布刈神事は厳冬の旧暦元旦の深夜に神職が関門の海に入って、松明に手鎌でワカメを刈り取る儀式のことで、和銅時代には朝廷に献上もした由緒ある行事です。
 この料亭でメシを食っていて気付きました。関門海峡は西にむかって一度蛇行して小倉の方へ曲がりS字のように玄界灘に通じます。夕陽を眺めながら飲んでいますと、何と九州から見る夕日が本州に落ちていくのです。正確には彦島ですね。馬関戦争でやられた後、危うく香港のように外国領土になりかけたのを、高杉晋作がツベコベ言って何とか繋ぎとめました。高杉晋作はあの写真の顔があまり好きになれないのですが(ファンの方ごめんなさい)大したものです。
 私の知り合いに元小倉藩士の子孫がいて、大変変わった苗字です。小倉城主は礼法宗家の小笠原氏ですが、信濃から国替えでやって来た時に藩主に付いて来た一族です。その彼、幕末の長州戦争・小倉口の戦いで高杉晋作の部隊に軽く負けたことを今でも恥じていて『博多の黒田が助けに来るはずが裏切られて負けた。』と黒田藩を逆恨みしています。恨むなら奇兵隊を率いた高杉を恨みなさいよ、といったところなのに。

 ところで小倉に行きまして。インド人とドイツ人が一緒に来るという奇怪な日程にあわてて足を延ばし再会しました。連中とは10ヶ月ぶりですかね。両人とも実は偉い人で大金持ちです。そしてなかなかのタフ・ネゴシエーター、尚且つユーモリストでもあります。
 話していると、ドイツ人のここ一番の集中力とインド人の譲らなさにはしばしば『もう分かった。』と妥協しかけたものの、黙り込むのも技の内。
 その後食事にディナーに誘うとにこやかに応じてくれました。ただインドの方はビーフはだめです。『ヒンドゥーか?』と聞くと『私はブラマンだからね。』とウィンク。初めは何のことかわからなかったのですが、これ日本ではバラモンと教えられた最上位カーストのことでした。彼は上級バラモンで先祖以来ビジネスに手を染めたのは父親の代からだそうです。さすがに肌は黒いのですがジョニー・デップに似た男前。
 彼の地元に行った時にまるで国会議事堂のような建物がありましたが、なんとあのサイババが建てた病院でした。もう亡くなった有名なサイババは初代サイババの生まれ変わりと称していて、ただ彼の説明では初代は元々イスラムの異端で、あんなものニセに決まっているといっていましたね。どうでもいいけど。
 ドイツ人はデカくてゴツくて、昔のサッカー・ナショナル・チームにいた名キーパー、オリバー・カーンにそっくりで強そう。アジア中にビジネス・ユニットがある連中だから日本食もお箸も慣れたものでした。最後の桜に喜んで携帯でたくさん写していました。
 それで食事した後にカラオケに連れていくと、奴等面白がっていましたねぇ。
 カラオケは英語縛りでやりましたが、彼らはビートルズ、私はプレスリーばかり。インド人はパフォーマンスはよかったがリズム音痴というやつで歌が合いません。ドイツ人は真面目にやり過ぎてビートルズというより男性バロック音楽のコーラスみたいになってしまいました。
 このドイツ人はお母さんが先日 国境を考える Ⅱ で書いたカリーニングラード(旧ケーニヒス・ベルグ)の出身でした。ここの出身者の話になってイマニュエル・カントやオイラーの名前を出したら『よく知ってるな』と受けました。
 二日の話し合いでおぼろげながら着地点が見えてくるのですが、その後のスケジュール感が微妙に違う。ドイツ人はここから加速するように次々と目標を前倒しにしようとします。インド人は『これからのインドは凄いことになる。中国なんか問題にならない。』と張り切ります。日本側のハラが試されることでしょう。

 ところで、帰る時に以前九州で研修していたロシア人とバッタリ羽田で会ってビックリ。別のプラント・メーカーと商談していたそうで(私の件とは別に)旧交を温めたのですが、始めに『ヴィー・ゲート・イーネン(数少ない使えるドイツ語)』とやってしまい怪訝な顔をされました。ここはロシア語で『カクダィラ』と聞くべきでした。
 別れ際にはカンが戻って『ダスヴィダーニャ』がスッと出ましたが付け焼刃ではこんなもの、まだまだですな。
 
世界は狭い!

インド高原までやってきた


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真夏のインド大陸 後編

2014 JUL 14 15:15:47 pm by 西 牟呂雄

2014070910230000

 インドから帰ると台風一過、あまりの蒸し暑さに『ああ、日本の夏だ。』と思ったが、実際日本の方が暑い。これって変じゃないですか。
 6時間の車移動中の奇観が上下の写真で、砂岩が積み重なったような光景が続きます。古い話で恐縮ですが映画『イージー・ライダー』のアリゾナの光景を思い出します。岩だらけなので、ロックンロール・マウンテンと名付けました。

2014070616490000

 こういうところには、例の牛だの山羊だのはいませんが、今度は猿が道を横切りました。車を寄せて外に下りても全然ビビらず、むしろ威嚇するようです。どうやらこいつらも神様の使いらしく、全く迫害されないためこのように威張りくさっているのです。

 2014070910130002  

 どうも、地位で言えば 牛>猿>人間>犬 くらいの順番でしょうか。

 インド人は笑わないと実に深刻な顔つきになり、おまけに相手が頷く時に首を振る癖があって、見た目にはあからさまに拒否しているように見えて困りました。

 ところで、ご承知の通り先日ドイツがワールドカップ準決勝に於いて、大本命ブラジルをコテンパンにやっつけて決勝進出を決めたばかり。
 あの真面目なドイツ人もこの話にはノルはず、今回合流出来なかった仲間のドイツ人に電話をした途端、
「コングラッチュレーション!!」
とやって盛り上げました。案の定ドイツは大騒ぎになっているらしく、その後の快勝を祈らずにはいられません。まさかサッカーの結果をインドから期待することになるとは思いませんでしたが。

 そして本日は3時に起きて必死に応援。結果は優勝ですから早速おめでとうのメールを打つことに。よかった。

真夏のインド大陸 前篇

小倉記 再会編

インド高原までやってきた


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真夏のインド大陸 前篇

2014 JUL 8 21:21:32 pm by 西 牟呂雄

 涼しい、ビックリです。インドの高地に降り立った途端に爽やかな冷気に包まれました。灼熱、とか熱波という言葉が良く似合うはずのインドでこの風。どうやら雨季なのでしょうが日本の日差しが刺すようになるこの季節に思わぬフェイントを食ったような気がしました。
 実はマヌケにもパソコンを忘れ、最近とみに著しいボケの進行にうんざりさせられたのですが(だから人のパソコンを借りて打っています)意外な過ごしやすさにホッとさせられました。インドでは最も暑いのは4月頃だそうです。夏休みも最も暑い時期の4月・5月なのだと聞きました。サマーという語感はやはり国によっては異なります(当たり前だったか)。
 今回はここから車で6時間、デカン高原奥地の現場まで足を伸ばしました。途中はたまーに村落がある以外は耕したかどうか良く分からない、畑のような原野のようなサバンナが続いて退屈しました。どこでも我が物顔に振舞う牛の群れは至るところに屯していて、都市部に近い所では一応家畜の風情でしたが人も住居もロクにない所ではまるで野良牛とでも言うのか・・。そのうち野良象でも歩いているかと期待したのですが、さすがにいません。そして一箇所、エアーズロックのような石の山。この周りは巨石を積み上げたような不気味な景色です。

 ところでやっと着いた所はいわゆる工業地帯で、たどり着いたのは夕方ですが巨大設備がシルエットになっているのを見ると、一瞬あまりの既視感にインドに居ることを忘れます。世界中、日本でも同じような設備が稼動しており、従ってコンペティターでもある訳です。産業のグローバル化は様々な矛盾を抱えながら今後はどうなって行くのか。いずれにせよ技術を持っている日本はキー・プレイヤーでありつづけるものと考えます。
 宿泊のホテルについた途端に思わぬ光景を見て、益々その感を強くしました。何とカンファレンスルームで麻雀に興じている日本人グループに出くわしたのです。日本語を喋っていたので中国人・韓国人じゃありません。いるんですな、昭和タイプのサラリーマン。
 そして更に驚いたのはホテル内のメニューにTonkatsuとかKaraageといった日本食があるのです。後に判明しましたが、ある長期滞在の日本人商社マンが、休みのヒマに任せてコック達にレシピ付で教えたのだそうです。これは評判が良かったらしく、オリジナルのコックは腕を買われて既に大都市に転職してしまいましたが、その後も受け継がれてやっています。近くに14~15世紀の世界遺産になっている宗教施設がありますが、そこまで来た日本人女性バック・パッカーが『こんなところにまで日本食が!』とツイートしたことが話題になったとか。どっこい日本のサラリーマンはやってますよ色々と、と自慢したいものです。

 さて翌日現場に入りました。時おりサーッと日が照るとさすがにムワッと暑いですね。
 僕達メーカー育ちはヘルメットを被ると本能的にピシッとして『良し、行くぞ。』となります。熱く、煩く、重い機械の側を通ると普段使ってもいない筋肉が締まるような気がします。現地のオペレーターと目が合うと、いようやっとるな、と声を掛けたくなるもんです。
 この工場は立上げの時にヨーロッパ系のエンジニアリング会社に相当ふんだくられて懲りたようです。あちらはスペックに書いてないことは知ったこっちゃない、と冷たい。そこで我々は丁寧に対応策まで協力しますよ、と説明するのですがそこは価格とかコネとか絡んで複雑になります。
 こういうヨーロッパ勢のやりかたは、政治的軍事的コストをかけないで絞りまくる帝国主義の匂いを感じますね。インドは地政学的に十分アジアの範疇です。韓国もゴリゴリ来ています。中国はインドとはうまくいっていません。
 日本がインドと組むのは、今でしょう、なんちゃって。安部総理は日印関係をかなり多角的に考えている気配がします。よし、ここでガンバレ日本、と工場の片隅で一人で力んでいました。

真夏のインド大陸 後編

インド人とドイツ人

インド高原までやってきた


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インドの貴婦人

2014 JUN 21 19:19:18 pm by 西 牟呂雄

 今から35年あまりの昔、僕の実家のマンションのゲスト・フロアにインド人の女性が2年程いたことがある。国立大学の客員教授で滞在していたのだ。当時で御年50位のまァオバチャンなんだが、法学博士という立派な方で、小柄なかなりの美人だった、独身。
 大変な生まれらしく料理はおろか身の回りのことが一切できなかったため、招聘元の先生に(同じマンションのこっちは文化人類学者)多少の英語を喋るウチの母親が何かと面倒を見てやってくれと頼まれ、頻繁にウチに来ていたようだ。僕はその頃地方に飛んでいたが、たまに実家に帰るとその博士はいつも来ていた。玄関を開けた途端に『あっ来てるな。』と分かる。何故かと言えばサンダルがあっちこっちに脱ぎ散らかしてあるからで、靴を揃える習慣が無い。正確に言えば自分で揃たことがなく、その役割のカーストが常にいたのだそうだ。召使ですな。曰く「私が揃えたらその人の仕事がなくなってしまう。」ウチにはそんな召使はいないけど、とにかく自分ではやらない。
 上位カーストのバラモン階級だが、その中もいくつにも分かれていて、確かマハラジャの次くらいのハイエストになるらしい。そこクラスになると人口大国インドでも人数は極少なく、結婚適齢期(インドの女性は16~18歳)に同等カーストに適当な相手がいなかったため学者になったと言っていた。
 現在の巨大資本による工業が発達する前のインド社会では、カーストそのものが仕事の資格のようなもので、ヒンドゥー教徒に関しては誰も文句も何もなかったようだ。どうしてもイヤという人は少数だが仏教徒(発祥の地ですぞ)やキリスト教徒(マザー・テレサがいたでしょう)になれば済んでしまうようなことを説明されたが本当だろうか。
 例えば財閥で有名なタタはペルシャ系でゾロアスター教だから昔から製鉄業に進出できた。商人はジャイナ教徒とか。ムスリムだって多い。タタのゾロアスター教は、まるで日本の天皇家のように男系相続しかできないため、前当主だったラタン・タタの後にはタタの苗字を名乗る後継者がいなくなっている。

 ところで例のインド女性はドイツで博士号を取った、なぜドイツかは聞かなかったが、ナントカ大学でしばらくそのまま教えていたそうだ。物凄いインテリで文化の吸収力も凄かった。ただ、ネイティヴのドゥラビダ語とドイツ語が混じったインディアンイングリッシュは聞き取りが難しく、何度も聞き直したが。面白いもんで母親とは十分にコミニュケートできていた。向こうは向こうで『息子さんのアメリカン・スラングはよく分からない。』と言ったとか。
 ウチの母親の運転で弥次喜多道中のような旅を楽しんでいた。しかし母親の方も十分に世間知らずだったので(しかも我儘で押しが強い)行った先ではさぞ大変なことが起こっていただろうと思う。もう一人はインド人で靴も揃えられないのだから。
 帰国に当たって更に驚かされたそうだ。あんなに長くいたのに大した物は何も無く、着るものとか身の回りの物を何故か10個くらいの紙袋に分けた荷造り。「インドでは空港や税関でよく物を盗られるので荷物は沢山分けておいた方が被害が少ない。」と言ったらしい。

 僕も最近インドに行くのだが、今頃どうされているだろう。ドクター・チャンドラー・ムダリアル、存命ならば80歳を超えているはず。お目にかかってみたいものだ。

インド人とドイツ人

インド高原までやってきた

インド高原までやってきた Ⅱ

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