グローバル・シテイ・ヘイジョゥ
2020 FEB 20 7:07:39 am by 西 牟呂雄

奈良の都にインド人・ベトナム人・ペルシャ人・中国人がいる。これ、今日の話ではない。
今から千三百年前の話。東大寺大仏殿の開眼供養法会の導師、婆羅門僧正はインド人のボーディセーナ。来日して菩提僊那(ぼだいせんな)を名乗った。
この時代は第十次遣唐使が派遣され、彼らは洛陽で玄宗皇帝に謁見している。ひょっとすればかの安禄山や楊貴妃、私の好きな詩人の王維・李白・杜甫といった人達とニアミスしたかも知れない。洛陽は現在のニューヨークに当たるだろうから、当時の国力から考えて我が国も十分にグローバルに追いつこうとした。
第十次遣唐使は帰朝に当たって先に入唐していた吉備真備の他にかの菩提僊那とペルシャ人李密翳、ヴェトナム人仏哲、中国僧数名を連れて来た。この内ヴェトナム人仏哲は、現在のフエの出身であるが、遠路インドまで辿り付いて菩提僊那に師事し、共にヒマラヤを越えて入唐。その後師に従ってはるばる日本まで来た。
またペルシャ人李密翳はどうやってイランからやってきたのかは分からないが、個人的にはインドにいたペルシャ系の人物ではないかと思っている。クイーンのフレディ・マーキュリーや財閥のタタといったパールシーと呼ばれる連中のことである。パールシーがインドに到着するのは10世紀とされているが、ササーン朝ペルシャの滅亡はもっと早い(ただ、ササーン朝の王子ペーローズがその際に入唐している事実はある)。宗教はゾロアスター教でイスラムではない。
一行は聖武天皇に謁見し、大安寺で暮らしていた。興味深いのは、彼等はいったい何語で日常を過ごしていたのか、である。おそらくは彼等の共通言語である漢語を使ったのだろう。現代では日本人と韓国人がニューヨークで英語でコミニュケートするようなものだ。
ところで、我が国ではお経などは呉音で読まれていたのじゃないかという仮説を立ててみた。一方唐の標準語は漢音。
和尚 (漢音)おしょう (呉音)わじょう
利益 (漢音)りえき (呉音)りやく
食堂 (漢音)しょくどう(呉音)じきどう
阿弥陀経(漢音)あみたけい(呉音)あみだきょう
と言った具合だ。大雑把に言って宮中は漢音で民間は呉音なのだろう。
お経は漢文ではあるが、その読み方が違っていたのだ。そのため一行と共にやって来た袁晋卿なる唐人は通訳だったのではないか。この人は飛び抜けて若く(10代と推定されている)後に朝廷の音博士になった。
ところで最初の仏教伝来は半島を経由したが、その時の読み方はわからない。白村江の戦いでコテンコテンに負けて百済系を中心とした多くの難民が来た後は、こちらのルートはは出てこなくなる。多少の危険はあるものの、航海技術の発達により半島経由の陸路を行くより早かったのだろう。地図を見れば一目瞭然だが、半島の付根は万里の長城の外側で洛陽まではかなりある。従って我が国の読み方は呉音が一般的だったと想像すると、遣唐使による漢音の読み方はモダンというかアカデミックに響いたのではないか。
話は変わるが、大陸から渡ってきた人達の中に女性はいたのだろうか。
唐は王族の李氏が鮮卑系であると言われ、西域に至る大帝国でもあった。従って胡族の流入とともに習慣も多く受け入れている。そのせいかどうか女性の地位が際立って高く、恋愛なども開放的だった。
酒楼においてはソグド人・ペルシャ人の女性が接待したという。
そういった女性が海を越えて渡って来ることはなかっただろうか。正式な遣唐使でなくとも女性を伴って来日したグループはいて、その中にペルシャ系の女性はいたのではないか。八代亜紀さんは九州出身だが、あの容貌はその血を引いているに違いない、と睨んでいる。
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インドって国は
2019 SEP 6 6:06:47 am by 西 牟呂雄

インドへ行くのにムンバイとかニューデリーなら直行できるが、僕が行くような奥地はどっちにしろ乗り換えるから、シンガポールやらバンコクでトランジットした方が安い。それが今回選んだのが迂闊にも香港経由だった。
毎週毎週デモがあり、武装警察も介入しそうな勢いにどうなることかとビビッたが、週末の移動は避けたので何とかなった。
一年振りかな。いや日本より涼しいぞ。
旧知の友人が
『オレのファームで昼飯にしよう』
と言うので気軽に応じた。ファームならば僕も喜寿庵のネイチャー・ファームをやっているから、その写真をみせてやった、ドーダ。すると奴は
『オー、これはゼン・ガーデンか』
と聞くではないか、ふざけんな。血と汗と涙の開墾地だぞ。
車で都市部の猛烈な渋滞を抜けたあと、更に3時間もかかるデカン高原特有のロック・マウンテンがあちこち見える丘の上まで連れていかれた。
不気味なことに最後は舗装もしていない一本道で、車がすれ違うこともできない山道だ。
そこを羊の群れがゾロゾロ。そしてなぜか大袈裟なゲートがあって、中に入ったところで『ウェルカム・トゥー・マイ・ファーム』となり仰天した。
『どこまでがお前のファームなんだ』
『あのマウンテンの麓までだ』
『・・・・』
猫の額のような僕の開墾したネイチャー・ファームからすれば、ここは広大な台地、ポテト・フィールドの写真をせせら笑ったのも無理はない。
恐らく古い古い地層が何千万年もかけて隆起し侵食されたゆえに、岩山は亀裂が入ったロック・マウンテン。その麓はジャングルになっていて、どうやらそのうっそうとした木を切り倒し整地したようだ。
車を降りた所から少し歩き、もういいだろうと登ったところに家があり、女性が大勢仕事をしている。畑の方にゾロゾロ歩いていっては戻ってきて仕訳をしていた。
『ここには2ファミリィが暮らしてファームの管理をしている』
あの人数は、おそらく2種類の一族がいる、という意味だと思う。奴のカーストはブラーマン(バラモン)だから自分は手を下せないし、できそうにもない。
山道を少し登っていった所に瀟洒なコテージがあって、そこでランチになった。驚いたことに普段は誰もいないので、僕たちのためにコックを呼んでベジタブル・カレーをふるまってくれた。
奴は生粋のベジタリアンなのだが、ベジタリアンの定義は動く生き物の関連はダメなのだとか。魚も虫もダメ、厳密に言えばミルクも卵もダメ(ただ卵に関してはよし、という流派もある)。それではオイスターはどうなのか、と聞くとそれは微妙な所だ、と考え込んでいた。食べたことはないらしい。
コテージはベッド・ルームが3つある凝った造りで、木の柱には細かい文様が彫りこんであったし、室内に小さなプールまでしつらえてある。子供でも水遊びをさせるのだろうか。かわいらしい。
窓からだだ広い敷地を眺めていると『あの森の中にはワイルド・エレファントが何十頭もいるんだ』と自慢する。これって訳すと野良象になるのかな。
そして『聞けよ。風のサウンドだ』等と洒落たことも言った。耳を澄ますと”シャー”というような木々を渡る音がする、亜大陸の風だな。
『案内しよう』
と車ではじっこまで連れて行かれた。歩く、と言われたらどうしようと困っていたので助かる。
巨大なビニール・ハウスが並んでいて、更におくの一画は造成中。水を汲み上げて段々畑の要領で落としていく方式だ。
それで一体何を作っているのかと見れば、ズッキーニとかカーネーションとかばかり。
そしていちいち車を止めると、なにやらそのたびにオッサンが寄って来て、聞いたことも無いような現地の言葉で相談をしている。奴はそのたんびにエラソーに指示を出しているように見えた。こんな感じではないか。
『こっちの作付けが遅れてるじゃないか』
『旦那、分かってるでしょう。先月あんなに雨が少なかったじゃないですか』
『嘘つけ、それは西の方の天気だろう。サボッてんじゃないのか』
『まーたまた、冗談よして下さいよ。こっちのカーネーションなんざいつでも出荷できますぜ』
わかったぞ。奴は僕を案内しているのじゃなくて仕事をしている、即ち昔で言えば小作を監督・管理するために来て、サボってないかチェックし指示を与えているのだろう。
このファームは奴にとって、他に3ヶ所経営している工場と同じビジネスで、僕がささやかにやっている趣味でも自給でもない。作っているのは商品、いや製品だ。
そしてファームを拡大経営することでこの小作のおっさんたちの生活も豊になっていくのだが、経営者との格差は絶対に縮まらない。ピケティが主張した r>g はここインドでは更に現実のものであり、目の前にいる形而上に生きることが大好きなインド人は痛痒を感じていない(のかな)。以前に提唱した”分度器理論”のように、富の蓄積の差は縦軸の成長経過とともに広がっていくだろう。
帰りは日暮れになった。
すると往路よりもひどい渋滞に(こんな田舎でも)なった。通勤もあるのだろうが、もう一つの要因としてあからさまな過積載のトラックが多すぎる。キャパの3倍くらい積み込んで荷台が膨らんでしまったようなトラックが道幅一杯にノロノロ運転をする。そして例えは悪いがハエのように車列を縫って行くオート・リキシャ(三輪タクシー)。
ぼんやりしながら田舎の繁華街を見ていると、
『ニシムロ、何を考えている』
と突然聞かれた。少し考えてから言った。
『インドの経済パワーについて感心している。この渋滞の凄さは経済成長にインフラストラクチャーがキャッチ・アップしていないからだ。それぐらい伸びている。私はかつての台北・マニラ・クアラルンプールがこうだったのを知っている。いずれ解消されるだろうが、その後何に投資するかで国の方向がきまると考える。それは教育ではないか。エリートの育成ではなくボトム・アップを図るべきだ。ホラ、そこらに大勢居るあの子供たちのことだ』
すると工学部出身でエリートの奴は、珍しく神妙な顔になって頷いた。
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酩酊するインド
2018 SEP 19 0:00:56 am by 西 牟呂雄

この夏の東京に比べればはるかに涼しいインドだった。
去年は水争いで暴動が起き、一昨年は下流の都市が大水害に遭い、今年は上流で洪水になった。日本も大雨・台風・地震と傷ましいことばかりだが、どうやら世界中で地球がおかしくなっているのじゃなかろうか。
経済は去年あたりが底だったようで、著名な企業がいくつも破産した。しかしこの国の分けのわからなさは奥が深すぎて手に負えない。ウジャウジャと街に溢れかえっているいる人々は到底税金を真面目に払っているとは思えない。いきおい私のようなまともな観光客からは取れるだけふんだくるのだろう、ホテルの明細を見ると何から何まで6%とか9%のTaxがかかっている。
ここは訪ねたことのある場所なのだが、そこに至る街道沿いの風景がどうも違っている。嘗てはガタガタの道を車で通った。
だが、フト気が付くと僕はその埃だらけの道を一人で歩いている。暑い照りつける日の中をスーツを着て革靴を履いて。胸のあたりに玉のような汗が滲んで来た。右も左もいつのまにか人はいなくなり、ボロ車とトラックが行き交っている。
突然目の前に砂漠のような光景が出現した。砂に流されたように道がなくなって、しかもその砂は踏み固められたように固い、足がめりこむようなことはなくかえってスタスタ歩ける。しばらく歩くと横を車が一台、私を追い越していった。
そしてその車がスーッとスピードを落として殆んど歩くような速さになると、その先に子供が赤ん坊を抱いて立っている。すると車の中から何かが放り投げられている。子供はそっちに走って行き一生懸命に拾う、赤ん坊を抱いたまま。あれは物乞いをしているのだ。
だが本当に不幸な目にあって物乞いをしているのか、それとも職業的にやっているのかは分からない。
そして妙に寒い、何故だ。
うっ、寝ていた。ぼやけた目に霞んで見えたのは喧しい音楽の鳴るバー・カウンターだった。オレはインドに来ているはずだよな。
だが、今見た光景は確か・・・いや、そうだ確かにインド高原の南部に来ている。この寒さはエアコンを効かせ過ぎるからだ。テーブルにはストレートのウィスキィのグラスが一つ。
飲み干して立ち上がってみると意外にしっかりしている。それにしては何も持っていないのは何故なんだろう。何もインドくんだりで泥酔しなくても。
これから間違いなく宿酔いになりそうな深夜の空港で、やっとこさ出国手続きを終えた。というのもヴィザが本日切れるので、オフィサーにが何しに来ていたのかしつこく聞かれて手間取ったからだ。だいたい入国の時からガタガタ言われた上に、ホテルのチェックインの際にはカードが拒否されたりと今回は散々な旅だった。
ムスッとしながらゲートにいると、揃いのジャージ姿の子供たちが集って来る。そしてその背中にはKARATEの文字が。インドで空手?
これから国際大会でマレーシアに行くのだとか。そして東京オリンピックから空手が競技種目になるので練習を始めた、と目を輝かせている。折角だから写真に撮らせて、と頼むと集まってきて『iyaaa!』の掛け声で型のポーズを決めてくれた。何事か、と待っている乗客が一斉にこっちを見ていた。
ここだけの話だが、引率していたカラテ・マスターは見るからに胡散臭そうなオッサンで本当に空手を教えているのかは怪しい。
そういえば今まで何度もインドに来ているがショート・カットの女性を見たことがない。宗教の縛りなのか美的感覚なのか、もっともムスリムのチャドルの中はわからない。
で、帰国してみると台風で関空は閉鎖、北海道は地震で大変な事になっていた。
袂に入る風がヒヤッと感じられる。いつのまにか秋になったようだ。
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インド漫遊記 インドの花
2017 SEP 29 7:07:16 am by 西 牟呂雄

今は本当は雨期なのだが、この旅で降られることはなかった。
この田舎町のメイン・ストリートがこれだ。
一応舗装してあるのだが、雨が降ったらどのような悲惨な事になるか想像して欲しい。
しかも歩いている人の十分の一くらいははだしである。
そんなことを旅の日本人がしたらまず助からないだろう。
朝、騒がしいので目が覚めた。犬でもない、牛でもない鳴き声がザワザワしている。
気になってしょうがないから食事の後で中庭に出てその騒音を追ってみると、何じゃこれは。
この鵞鳥の群れにどうもエサをやっているらしい。
まてよ、今朝ホテルの朝食にオムレツを食べたが、まさかと思うがこいつらの卵じゃないだろうな。
チキンも怪しい、絶対に食べないことにしよう。
ご存じだろうがインドの一般的なレストランではビーフもポークも無く、チキンかマトンだ。僕は普段チキンはあまり食べないしマトンも好きじゃないのでインド料理を食べる時はベジタリアンの振りをしている。
それはともかく、この田舎町においては全員が貧困だから格差も何もない。
都市部に大金持ちがいることは知っているのだろうが、ここら辺の連中はその金がどういう代物かを知らないし、知ろうとも思わないのではないだろうか。或いは皮相な見方であろう、実際のインド人とのビジネスになれば印象としては『ズルい』『セコい』と感じる事は多い。だがこんな田舎では・・・。
ともあれインドの日は高い。
午前中の朝食を済ませた後に外に出ればカッと日が刺す。
風は涼しいがヒリヒリする感覚だ。
この光の感覚を上手く伝えたいと木陰に入り、見上げたところで渾身の1カットが撮れた。
クリックして良く見てください。
この木には花が咲いていて、それはここの埃っぽい土壌に実に似合う赤い花なのだ。
せっかくだから接写しようとジタバタしていると、守衛のオッサンがやってきて踏み台を貸してくれた。
この”赤”は日本では何の花が近い色だろうか。
思い浮かばない。
今年から毎月『喜寿庵の花』を上梓しているが、この赤にはお目にかかれていないと思う。
真上から降ってくる強い日光でないと出ない色なのだろうか。
インディアン・レッドと名付けた(名前の分かる人は教えて下さい)。
しかししばらく見惚れているとこの赤は目が疲れる(但し僕は強度の色弱だが)。
すると上手い具合に”白”が目に入った。
これは蘭の一種なのか。
そして思ったが、白というのを褒める言葉はないものだろうか。
「鮮やかな白」とも「派手な白」とも言わない。
この広大な国にはどんな色も似合うのだろうが、そろそろ日本の花や松の緑が恋しくなって来た。
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インド漫遊記
2017 SEP 26 18:18:29 pm by 西 牟呂雄

一年ぶりにインドに来た。
ところでインドのビザを取ったのだが、従来のビザ・センターが無くなってインド大使館に引っ越した。あそこのスタッフの態度の悪さとコロコロ言う事が変わるのは有名で、いつも憮然とした日本人や怒り狂う外人観光客がいたのが少しは良くなったかと期待した。ところが行って見ると窓口にいたのはおんなじオバハンだった。
その効率の悪さは少しも改善されておらず、相変わらず書類をつきかえしたりして窓口でトラブッていた。
そもそもビザ申請のオンライン・システムが使いづらいの何の。
原爆を持ち、中にはあんなに天才的な人材が出るインドが、決して先進国としての生産性に達しないと常々思うのは国全体としての効率が全く向上しないからだ。
今回はトランジットの関係で、従来ルートではなくバンコック経由となったため航空会社もタイ航空を選んだ。するとこれが楽しいことに成田の出発が2時間遅れる。それも一度ゲートから離れてから「機体に不備がありました」などとアナウンスがあって戻る。しばらくすると「燃料を入れてます」「ドキュメントが遅れています」「あと15分です」と詐欺師の常套手段のような具合で実に疑わしい。止まっている機体に座っているのは結構キツい上に乗り継ぎも心配で、旅の今後が偲ばれた。案の定バンコクで免税のタバコを機中に忘れた。
そしてバンガロールへ、去年は水争いで暴動が起きた街である。
そこから車で3時間かけて深夜に、街だか村だかわからないところに辿り着いた。今度の旅はここをベースにして古い友人と会うことにしている。
着いた時は真っ暗だったので良く分からなかったが、翌日見ると外見はそれなりでホリデイ・パルム・ナントカというリゾート型のホテルだった。
ところが周りには何もない。こんなところでリゾートねぇ、確かにプールやキッズ・ルームがあるにはあったが。
ちょっとその友人に触れておきたい。バブル期に日本に留学したインド人なのだが、その後日本で多少仕事を得て日本人と結婚し10年以上暮らした。従って働いてはいたのだが、まぁあんまりカタギじゃなかった。大阪でディスコをやったりホストクラブをやったり。だから堪能な日本語も大阪弁。
どういう経緯かは知らないが、現在はインドに帰っているが何をしているのかは分からない。税金に異常に詳しくて、そんなところは今も大いに怪しい。きっと荒稼ぎした金を持ち逃げでもして遊び暮らしているのかと見ている。インドは政策金利を去年下げたが6・25%、以前はもっと高かったから悠々自適にやっているらしい(家族は日本に残しているけど)。
モディ首相ははびこるニセ札対策や脱税防止の名目で去年1000と500のルピー紙幣を廃止したりダイナミックな金融政策をとった。実際に大企業は影響を受けていて、アッと驚く某企業グループの製造業が倒産したりしている。
今回もたかだた1万円を両替したら700ルピー分はキャッシュ・カードで渡された。それも『Yes Bank』なるふざけた名前の銀行が発行したやつで、こんなのはアナログ型の仮想通貨みたいだ。
話がとんでもない方に行ってしまったが、その友人によると僕と入れ違いみたいにインドに来ていた安倍総理は熱狂的に歓迎されたようで、モディ首相は自身の地元で歓迎のセレモニーを催しパレードまでやったことが新聞の一面に出たとか。
こういう話は安倍嫌いの日本の新聞にはロクに出ていなかったが、地球儀外交は確実に効果を上げている。
ところでそのホテルなのだが、部屋に戻ってハッと違和感を感じた。
よくみる中央に置いてあるテーブルが傾いているのだ。なるほどね。
インドのローカルのホテルはこんなもんだ。田舎のホテルにはまずバスタブはないがここもない、お湯を汲みおくポリバケツがあるだけ。
前置きばかり長くなったので続きは続編で。
つづく
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インドで知り合った日本人 (今月のテーマ インドの旅)
2016 OCT 8 9:09:52 am by 西 牟呂雄

旅も終わりに近づいたが、泊まっている激安ホテルの隣りに部屋に何と日本人がチェックイン。朝メシの時『日本からですか』と聞かれた。オニーチャンの二人連れで30代と40代のコンビだが、全く英語が分からないと言う。確かにメシを頼むのにも苦労していた。
聞く所によるとどうやら友達のインド人を訪ねて来たそうで、空港からタクシーで何とか辿り着いたらしい。
ところでこの朝メシだが、お米をマッシュド・ポテトのようにしたものに香辛料が付いているだけで極めて簡素、即ちマズい。しょうがないから目玉焼きをトッピングして食べてみた。
昼ごろそのインド人一行が到着した。何と左のお嬢さんは大阪で育ったそうで関西弁ペラペラ。
彼女は日本の音大で声楽を学び、こちらではミュージシャンとして活動中とか。
大変な美人だ。どうも日本でも多少活動していたらしく旅行者二人はその頃からのファンのようだった。
皆は観光に行くと言うが夕食の約束だけして僕は遠慮した。
それで夕方から僕にしては珍しく外で食事した。
一人の旅先ではあまり夜に出歩く事はしない、これは日本でもそう。見たいところは昼間に一箇所くらいで静かに過ごすのが常で、夜に目的もなくウロウロすると疲労感が倍増する。ガバガバ飲むのは東京にいる時で沢山、という主義。
夜の街は昼の埃っぽさが闇に覆われてご覧の通り。東京で言えば歌舞伎町のノリに近い。
日本人二人組も関西の人だから会話はコテコテの関西語になった。
しかし話しによると『ミナミの帝王』のⅤシネマで竹内力が使うような言葉は大阪では使わない、アレはヨソの人がマネている関西弁だというのだ。
竹内力は大分出身だからそんなものなのか。特に相手に向かって『〇〇ハン』といった呼びかけは死語に近いらしい。
一緒にカレーを食べたガーデン・レストランではステージで恐ろしくヘタなライヴをやっていた。
ベースとシンセにボーカルのトリオがアメリカン・ポップスをやるのだが実に変だ。
カントリー・ロードとか思い出のグリーングラスをやっても途中に1小節多いような間延びした演奏になってしまう。
全てを飲み込んで自分流に消化してしまうのか、これもインド文明の力強さなのか。
旅の終わりにちょっとした用事で郊外に出た。帰りにそのまま空港に行こうと車をチャーターしたのだが、その帰り道。
田舎道をドコドコ走りながら行くと周りはジャングルのようで、時々道が交差するところに集落があり大勢の人がいる。
するとドライバーが停まって窓を開け、通行人と話をした。『けらぐりんぐらんでるられぎらろえるぽた』等と言い、聞かれた方はこれまた何か言いながら道を指を指す。しばらく行くと次の同じような所でもやる。
3回目に気が付いた。必ず『えるぽた』が入っていたからだ。『えるぽた』はインド式の巻き舌英語で『エア・ポート』なのだ。読者諸兄諸姉よ、その時の恐怖感がお分かりだろうか。こいつは空港への道を知らないのだ。
「お前は空港への行く道を知らないのか?」
と聞いても『アイ・ノウ。ジャスト・コンファメーション』等と言うばかり。
結果的には空港には着いたのでこうしてブログを書いている訳だが。
オォ!インドよ。
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インドには日陰が良く似合う (今月のテーマ インドの旅)
2016 OCT 5 23:23:56 pm by 西 牟呂雄

雨期になると朝晩は涼しいので驚く。
初めはツレがいたのだが3日目にひとりになってしまったし、水争いの暴動も収まったようなので安いホテルに移動することにした。
ツテを頼んでナントカ・インスティチュートという所に行く。このナニナニ・インスティチュートとは英領時代の名残で、分かりやすく言えばゴルフ場を示すカントリー・クラブといったところか。
それがですな、ブリティッシュ・コロニアルとでも言うのか質素を通り越してこんなベットと天井に大きな扇風機。事実英領時代に建てられて100年近くの代物だった。
さすがに街中なのでゴルフ場はないが、テニス・コート、スカッシュ。バドミントンなどの屋内設備が整っており、400人の終身会員が現在のオーナーだそうだ。
まあ、当時のえばりくさったイギリス野郎が自分たちに都合のいいように造ったのは露骨にわかる。
バルコニーからはまるでアンリ・ルソーが描いたジャングルの中に浮かび上がるように隣のコテージが見え、南国情緒が味わえる。
写真に写っているのは三階部分で、行ってみると今は使われていない。
これで官庁街まで歩ける距離だから、東京で言えば新橋界隈と言うことになるから驚きだ。一泊約3千円也!
何もすることがないので散歩でも、と道路を渡ったらいきなり大英帝国の名残にぶつかった。
立派な教会だ。
街中にしては静かで誰もいない。
正面から咎められることなく入ってみて、その荘厳さと質素な佇まいに息を呑んだ。そうか、これは英国国教会なのだ。
しかしインド人の信者なんかたかが知れているから、英領時代にイギリス人が建ててその後観光地化したのだろう。と言ってもそれらしいのは僕一人、他に誰もいなかった。
帰るときに白人の女性が一人いて『どうやって入るのか』と聞かれた。
教会を出て少し行くと、今度は十字架がズラリと並ぶ墓地まで併設されている。
統治時代のイギリス人のものだとすると、何世紀にも及んだ植民地時代には随分とこの地に没した人がいたことが偲ばれる。
因みにヒンドゥーは火葬にして遺骨を流してしまうからお墓なんかない。
イスラムは土葬だと認識していたが、ここインドにも大勢いるイスラムはどうしているのか。三千万人いるというあのゴールデン・テンプルのシーク教は、ジャイナ教は、はたまたラマ教は。
今は雨期で一日に一度は激しい雨が降る。するとやはりカッと強い日差しに見舞われる。
この風土の中でインドの人々は極めて『形而上』の思考を巡らせ様々な宗教を生み出していった。
日陰に入ると涼しい。そういえばお釈迦さまが悟りを開いたのも厳しい修行の末、菩提樹の日陰だった。インドには日陰が良く似合う。ビールでも飲もうか。
等と瞑想していたら、目の前にドーンと祠が立っていた。
もっと小さいやつは車から見る道端で随分あったので『お地蔵さん』のようだなと思っていたが、この3mくらいの規模は初めて。近くでよく見ると象の神様が祀ってある。そうだな、これは お地象様 だな。
オォ! インドよ。
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インド 暴動の街へ (今月のテーマ インドの旅)
2016 OCT 3 21:21:41 pm by 西 牟呂雄

別にテロに会ったとかいう大変な話ではない。ただ、暴動である。
暴徒が車・バスに放火し、それに警官隊が発砲、2人が死亡した。オイオイオイ。
その理由が何かと言うとこれが水争いだ。
私が訪問したカタルナカ州と隣のタミルナドゥ州は何百年も前から水争いのあった所で、今回は水不足のタミルナドゥ州に向けカタルナカのダムの放水を最高裁が命令したことに対する反発が理由だ。
「水をよこせ」と言ってる方には、以前大雨に見舞われて都市機能が長期にわたり麻痺したチェンナイがあって、全く自然は恐ろしい。うまいこといかん。
それがですぞ、カタルナカの州都ベンガロールに降りたったら雨。どうやら雨期には入ったようだ。
街中は拍子抜けするぐらい普段どおり。もっともいつも突然のストライキとか訳の分からん祝日やらはしょっちゅうなのでこんなものか、ビビッて旅を延ばさなくて良かったのかどうか。
直近の情報でも州境でタイヤを燃やして1万人が騒いだと聞いていたので身構えた。SNSの呼びかけで千人程直ぐに集まり、それを見たヒマな野次馬が押し寄せ10倍に膨れ上がり暴動になる、と言う話だった。
話は変わるが、欧米ならいざ知らず東南アジア・中国・インドでは旅のスタートは身分不相応なレヴェルのホテルに泊まる。今回は特に暴動にでも巻き込まれたら大変だ、何があるか分からない。
ご覧の通り客はほとんどが外人ビジネスマンで、設備は一流だしサーヴィスも結構であった。
ところでインドのホテルのケーブル・テレビは600チャンネル位あって、半分は宗教番組、CNNもインド版で米大統領選挙も何もなくこれが圧倒的に例の水争いの話。その他は何故かパキスタンの悪口で、新聞もそう。新聞にはアメリカの大統領選挙の様子とショッピング・モールでの銃撃が載っていたが。
冷戦時代は米ーパキ VS 露ー印 の大まかな構図だったが、タリバンの跋扈とインドのアメリカ寄りによって大きく変わった。何やらロシア・パキスタンの軍事演習が行われた事で酷くエキサイトした印象だ。印ーパ両国の関係は日韓関係と同じくらい奥深い。
報道はそうなんだが滞在中ついに暴動の痕跡を見ることはなく、収束したようだ。帰る頃に分かったが、カタルナカ州政府が最高裁からの水の供給命令を無視することにしたから収まったという、そんなの有りかよ。
昔中国で工場を運営していた。上海から始まった『官製』反日暴動があった頃で、あちこちで日本車や日系企業が破壊されたことは御存知だろう。
我々も現地の様子が気になって毎日連絡をするのだが、返ってくる返事は「何の話ですか」というものばかり。工場のある場所でも1万人規模のデモがあった。心配する我々に「一日200件は起こる暴動にいちいち気にしていられませんよ」などという返事で拍子抜けしたものだった。このインドのローカル水争いも同じようなものか、と今更ながら人口超大国の鷹揚さにあきれた。
そしてやっぱりいるんですな、アホ共が。
食事をしてホテルに帰ってくるとエントランスではしゃいでいる若いんだかバカなのか分からない集団がいた。仮装なのか頭にバンダナのようなものを巻いている。
面白いのでスマホを向けたら喜んでしまって『お前も来い』と取り囲まれ写り込んでしまった。オーハズカシ、こっちは何者と思われたのだろう。
そして何故か彼らは集団でバスに乗り込んで帰って行く。何かのパーティーだったのかもしれない。恐らく中産階級以上のバカ息子かと推察するが、暴動もパキスタンも関係ない。
翌朝気が付いたが、滞在していたホテルの隣に一世を風靡した霊能者サイババが建てた病院があった。空中から灰を降らせたり(握った拳を振ってみせると灰が飛び散る映像をみたことがある)するという胡散臭さで、一時日本のテレビも盛んに放映していた。
この物凄い外観で治療費は一切タダという怪しさだ。どんな治療をするのだろう、本当に患者は良くなって出て来るのだろうか。
オォ、インドよ。
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インドの多様性 動物編
2016 MAR 15 0:00:28 am by 西 牟呂雄

このみすぼらしい犬を覚えておられますか。さる工場に居ついたと言うか、たまには残飯なんかももらうかもしれませんが基本的にはノラ。何故か縄張りのような顔をして一日中ウロウロしていた犬です。『名前は何と』と聞いたら『それは犬だ。こんな犬に名前なんかない。』という扱いを受けていたので、勝手にボロと名付けていた奴。首輪もリードも無し。門の外には似たようなノラがウジャウジャいましたね。バンガロールという街の話でした。今回は残念なことに会いに行けませんでしたが。
それがですな、マイスールに泊まったホテルで驚くべき光景を見ました。ちゃんと繋がれた犬がいたのです。そういう扱いを受けている犬は初めてです。
首輪も付けてリードを持ってもらい、おそらくエサも貰っているでしょう。毛並みも貫禄もそこらのノラとは大違い、品格があります。聞けばちゃんとトールという名前もありました。トールは良く躾けられていてやたらと人を噛むことはないと言うので寄ってみたらご覧の通りそっぽを向いてしまいました。で、この後親愛の情を示してくれフンフンと僕のにおいを嗅ぎ、更には舐めようともしたのです。さすがにビビッて手はひっこめました。狂犬病の話はイヤというほど聞かされてますからね。
ホテルのガードが教えてくれました。『あれは元警察犬で爆弾や麻薬の検査をやっていた。リタイアしたから引き取った飼い主がアルバイトでホテルの廻りをウロついて小遣いを貰ってる。』本当なのでしょうか。
今回は瞑想のためバンガロールからマイスールを移動しました。それこそ犬・山羊・猿といたるところにいて、生まれたばかりの子犬も目撃しましたが、可愛いもんですね。国籍を問いません。移動ルートには忽然とこのような工業地帯が出現したりします。
ご覧の通り殺風景です。ところがもう少し北に行くといるんですな、ちゃんと。回りに人家は全く見当たらず、一体どこからやって来てどこに行くのでしょう。牛飼いのおばあちゃんが4頭の牛を連れて、のんびりというより怠けた雰囲気で立っていました。今このあたりは雨季の前で道端の草は枯れたような色ですが、牛はセッセと食べてます。
あなたのファミリーか?写真を撮らせてください。と言ったのですが、このおばあちゃん全く英語がわからないのです。公用語でもあるのですがおばあちゃんには関係ない。もしかしたら字も書けないかもしれません。千年前の暮らしとさして変わらない暮らしで少しも困っていないのでしょう。僕に今からこういう暮らしをしろと言われても不可能です。
おばあちゃんはそれでも僕の言うことが伝わったのでしょう、一番近くの牛を引っ張って来てくれて(牛はいやがっていましたが)ハイ、ポーズ。原色が鮮やかですね。
そしてこういう人達にとって投票行動も経済成長も税金も恐らく関係ないのではなかろうか。
そして最後は動物と言えば動物ですが、シンガポールまでの飛行機の前に座っていたインド人チビです。
こいつは途中でもう退屈してシートに立ち上がり、何故か僕にキャアッといって顔を出して見せる遊びを考え出し、1時間近くやり続けました。こっちも初めはヘン顔をしてみせてやったらケラケラ笑って盛り上がりましたが、日本人が皆ヘン顔をするものと思われても困ると止めました。するとソレをもっとやれ、とせがむのです。終いには機内食用のナイフを振りかざしてキャーとはしゃいだ所を父親に怒られ、ビービー泣きました。
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インドの多様性
2016 MAR 13 0:00:22 am by 西 牟呂雄

フラリとインドに行った。とりあえず瞑想に行ったことにしておく(嘘です)。
行くたびに思うがこの核や空母機動部隊を配備し中国並みの人口を持つ大国は、矛盾の塊だ。数百の言語と宗教、ヒンドゥーのカーストと複雑怪奇な社会にも関わらず一応選挙もやる。もっとも1票125CCバイク一台で買収しまくっているという話はあるが。
今回はマイスールという古い街に滞在したが、この光景はそれなりの近代都市に見えるだろう。
ところがこの光景の後ろ側にはトタン屋根に石ころを乗せたようなゴミ溜めのようなスラムがダーッとひろがっているのだ。そこの住民はほとんどが裸足。家屋にトイレがないために、いちいち数えてられないくらいの性犯罪が毎日起こる場所。さすがに近くに行く根性はなかった。
そしてこの街には現役のマハラジャがいる。正確には政治制度としてのマハラジャではないが、地位として27代目の”マハラジャ”はボストン大学卒業の24~25歳という人物だそうだ。右がマイソール・パレスの門で左が宮殿、しかも実際に住んでいる。にもかかわらず公開されて中には入場料を払って入れるらしいが行かななかった。目的が違ったからだ。ここだけの話だが、先代マハラジャは存命。日本にしょっちゅう来て、居酒屋で飲んで喜んでいるような人。僕は紹介されて会ったことがある。
それはともかく、実はマイソールから少し離れた所に聖地がある。「ダライ・ラマ高等教育大学」と命名された高等教育機関で、周辺のチベット人居住区やブータン人の留学生などが学ぶ。創立は2009年。チベット亡命政府は北部ダラムサラだが、遥か南のこの地にラマ教の巡礼者・修行者がいるのだ。中には日本人もいるのだとか。
体操の有名選手を輩出し進学校でもある大阪の清風中学・高校は高野山真言宗系の学校である。元校長平岡英信氏は盛んにチベット密教を研究しダライ・ラマとも昵懇の仲だが、多額の寄付と共に関係者とこの地を何回も訪れている。その縁で日本人留学生が来ている。
ダライ・ラマはも年に一か月はこの地にやって来て、上記教育機関のいわば卒業式に出席するそうだ。その卒業がまた大変で50人に一人くらいしか合格しない難関だと言う。何しろ忙しい方で、ここに一ヶ月、亡命政府のあるダラムサラに一ヶ月、後は世界中を飛び回っておられる。
そして街中でラマ教のお坊さんを見つけた、ごく日常の光景ではあるが。僕が珍しがって追いかけ写真を撮らせてもらうと、満面の笑みで応えてくれた。
となりのバンガロールにはかのサイババの信者もまだいる。
真黒いチャドルで目だけを出しているムスリムの女性もいる。このムスリムはシーア派なのかスンニ派なのか。
一度だけ真っ黒なチャドルをマレー風に頭だけ覆い、顔を出している女性を見た。顔立ちも化粧も八代亜紀さんにそっくりだった。あれは教えに反していてイジメられないか余計な事が心配になった。
車窓から十字架を掲げた協会も見えた。
そして圧倒的なヒンド゙ゥー教徒。
ふぅ。瞑想も何もいるだけで疲れてしまった。心和む花の写真を。
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