海の上の人生 ホントかよ
2017 DEC 18 21:21:10 pm by 西 牟呂雄
ヨット・ハーバーで知り合ったのだが、みんなからは『鮫さん』と呼ばれていた。小柄で真っ黒に日焼けし、白髪と髭を延ばし放題にしていた。
湾内のボート・ハウス(水置き)に住んで、時々頼まれるとクルーとしてヨットに乗って操船を手伝う。僕達の船でもスキッパーをやってくれたが風の読みが抜群にうまかった。
40年程前に太平洋を往復したと言っていた、但し一人ではない。こう言ってはナンだがシングル・ハンドはさすがに滅多にいないが、クルーを組んでの横断はその時点でそうめずらしくもなかった。
酒は飲まない。それでも僕達がデッキでガブ飲みしていると「おじゃましてもいいかな」と言ってヒョコヒョコ現れては仲良く過ごした。このヒョコヒョコというのは本当にそういう歩き方で、最初は障害でもあるのかと勘違いしたがそうではない。歩いたり走ったりすることが下手らしい。暫く喋ったあとには『岡酔いしてしまう』と言ってボート・ハウスに帰っていった。
そして気になることを何回か言った。もう忘れてしまうかもしれないのでその不思議な老人の昔語りを書き残しておきたい。その「鮫さん」の数奇な人生を。
『ワシは実は教育を受けてない。漢字は書けないんだ。もう少し言うとワシの家はみんな戦争まで戸籍もなかった、戦争ってあの大東亜戦争な。いや、本当だよ。ワシの両親・オヤジの弟、ワシの兄貴と妹と陸(オカ)の上に住んだことがなかったんだ。昔は瀬戸内の方にいて多分海賊みたいなことをやっていたんだと思う。爺様の代には一族で塩とか石炭を九州から大阪へ、大阪からはありとあらゆるモノを九州まで持っていく今で言えば海運業だった。
これは儲かるカラクリがあって、当時の秤量なんかいいかげんなもんだから荷抜きをするんだ。荷抜きといっても船は人家族単位の小さい汽帆船だしそんなに大量にはできないが、そこが付け目だったんだよ。
あんたも知っての通り貨物船は夜に走る。荷役は日中だから夜に移動するのが普通だろ。だから金があったって使い道は大してない。バクチが流行る訳さ。女だって岡に上がらなきゃ縁はない。だから大概は一族の間で嫁取りをする。何しろ船酔いなんかされた日には使いもんにならんだろ。
代々そうしてるとやっぱり血が濃くなるんで時々岡の女をかっさらってくる、ワシのお袋がそうさ。
それはそうだとして、あの戦争のおかげでこっちはもう一貫の終わりと思って最期のあたりで家族と別れて海軍に入った。そこでやっと国民になったんだ。海軍さんももうダメだと分かってたんだろうからいいかげんな話さ。税金なんか一度も払ったことの無い、字も書けないのを使わなきゃならないんだから。えっ勤務?震洋って知ってるかい。ひどいもんだよ、ベニヤのモーターボートに爆薬積んで敵艦に突っ込む特攻隊だよ。250kgだったかな、爆薬は。ただ直前で飛び降りる訓練はしてたからゼロ戦の特攻よりはマシだね。その本土防衛隊がここにあったのさ。ワシ等はウネリにも慣れてるし海でしか暮らしてないからどうってことなかったけどあんなもんで戦争かよ、とは思った。そうそう『マルヨン』って呼んでたな、なぜか知らんけど。
訓練なんかどうってことはなかったし、海の上は庭みたいなもんだから潮の流れも風の向きも皆分かる。けっこうウデが立つってんで班長に抜擢された。
そうそう、その時初めて苗字をもらったというか名前はなんだ、って話になって鮫島を名乗ったのさ。ウチの海賊時代からの屋号が『鮫』だったから。それまでほとんど海の上で家族としか付き合ってないから苗字が何かなんて考えた事も無かった。港でたまにおやじの兄弟の船と行き交うと『鮫』とか『鰯』とか屋号で呼ぶのさ。『鰯の良一』とかね、こいつは従兄弟にあたるんだけど。
負けちまってヤレヤレと思ったけどその時の陸(おか)暮らしが堪えたの何のって。眠れないんだよ。こりゃ金輪際岡に上がっての生活はいやだ、と。
部隊は解散、家族はどこだか分からない、ワシは字も読み書きできないから仕事なんか無い。どうしたかって?
横須賀でウロウロしてたらまぁ何とかなった。海軍さんの解散騒ぎの後に米軍が来て、その頃英語が達者な奴はいないから作業員でネイビー・ベースに潜り込んでた。
こっちは日本語の読み書きができないけど英語は若かったからヤンキーの話を聞く・喋るはそのうちどうにかなったんで軍属っていうのか、まあ雑用をやってたよ。シャークってニック・ネームで呼ばれてた。
ところであんたらは海は陸を隔てるものと考えるだろ。ワシ等は逆なんだ。港を繋ぐものだと思ってる。先祖はまぁ瀬戸内の方だけどハナから故郷が陸にあるとは思ってないから土地の所有概念がないんだ。実を言えば国境だってあんまり関係ない。沖縄に行ってごらんよ。台湾からいっぱい来てたよ。ワシ等に言わせれば北方四島だって地元の奴等は、特に海の連中は行き来してるに決まってる。戦後負けちゃったんで拿捕されたりもしたけど。
そもそも感覚が違うから皆が有難がっているものなんか何とも思わないんだよ。子供の頃は宮島の鳥居なんかをくぐって遊んでた。昼間は観光客が見てるからヤバいけど夜になって真っ暗だとまず人目にゃつかない。陸の連中があんなにペコペコしてる所を、ワシ等は神様じゃ、とか思ったもんだ。
言葉だって今でこそこうして喋ってられるけど、行った先の言葉なんか分からないのが普通だったから、今から考えると家族の中じゃ”日本語に近い”別の言葉で会話してたんだな。『しーおそでしめらまっそう』なんてわからんだろ。『うみがあれてきてかえろう』って意味なんだが。
それに正確なことは知らないが古来水上生活者は税金の対象外なんだってさ。今だって東京のお堀にあるカフェだのボート小屋なんかみんなタダらしいよ。不法係留船舶なんかそこで暮らしちまえば何とでもなるさ。要するに税金は土地にしかかけられないようになってんだ。オットあんまり喋るとマズいけどね。
結婚?冗談じゃじゃないよ。イイ娘はいっぱいいたけどさ、ワシは住所不定だよ。
アンタさ、ワシにもしものことがあったらちゃんと焼いてこの海に散骨してくれないか、イヒヒヒヒヒヒ』
この爺さんもボート・ハウスもいつの間にかいなくなってしまった。
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今はもう秋 港で思ったこと
2017 OCT 21 9:09:13 am by 西 牟呂雄
ハーバーでバーベキューをしないかと声を掛けてくれたので、久しぶりに海へ。
ところが着いた時点でもこの天気。
厚い雲が二層になっていて、下の方の濃い雲がビュンビュン飛んで行きます。
今年は色々とあって夏の航海にも乗ることができませんでした。
港に降りて浮き桟橋から眺めていると、ボラがグジャグジャと泳いでいます。あ~あ・・・。
調度帰ってきた仲間の船が接岸しました。
「いや風はドン吹きで白波はザバザバ被るし、とてもとても出られたもんじゃない」
等とヤル気を失くさせてくれます。
実際に恐るおそる湾の出口まで行って荒れた海を見て成仏しました。
まぁ、予報もそうでしたし。
気を取り直して・・・ビールを開けました。
久しぶりに会ったクルーに聞くと、夏のアイランド・ホッピングは荒天で頓挫したようです。
出だしから雨・風に叩かれ大島の波浮に避難し、降り込められた後に下田までは行き、そこで力尽きたそうです。
「来年は新島でも」
「いや式根も」
とやっていたら、アレヨアレヨという間に雲が切れて青空まで、今更何だ。
もう既にビールに飽きてウイスキィになっています、もう出られない。
しょうがなくてデッキでウトウト、汗ばむくらいになりました。
今はポカポカしている秋空も直ぐに暮れてしまう。11月下旬の日没は四時半です。もうすぐガサッと葉が落ちてきて舞うでしょう。クマは冬眠します。
人間も冬眠できたら食糧事情も人口問題も解決しますかねぇ、よくSFで宇宙船なんかの低温カプセルに入って長時間のワープをしてるじゃないですか。
「焼けたよ」
の声が掛かってモソモソと起きると大量のラム。
するとどこかからラム酒が。
サトウキビの焼酎ですね。
ラム酒を水で割ったものをグロッグと言います。
英語でベロンベロンに酔う”グロッギー”はそこから来ていると聞いたことがあるような。
別にラム酒でなくても”グロッギー”にはなりますが。
どういう訳かこの辺りで記憶は途切れ、翌日は船のキャビンではなく自宅のベッドで目が覚めました。
つらつら考えるに、最近良くないことばかりですっかり弱気になっていますが、原因が分かりました。
それは・・・・単に遊び過ぎです。
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この海が教えてくれた 波間に揺られて
2017 AUG 9 23:23:18 pm by 西 牟呂雄
最近は介護と仕事と農作業に励んでいますが。
この話複雑で、色々なことがいっぺんに押し寄せて来たようです。いよいよ始まったか、人生最後のドタバタ・ステージが。
ありとあらゆる困難とツキの無さと金の切れ目が身の廻りを飛び回っている感じですか。これは今年いっぱい何もするな、という天の声でしょう。
するとどうしたことか、人と会うことがめっきり減りましたね。飲みにも行きません、というか行けません。
ヒマ人の繰り言に聞こえるかもしれませんが、不思議と気ぜわしい。誰にも会わないのに何かが追いかけてくるような恐怖感というのが一番近いかもしれません。ひょっとして物の怪に取り付かれているのでは。
海を見に行きたいなぁ。
矢も楯もたまらずハーバーに出かけました。ウィーク・ディなので人も少なくチョコッと船を出します。真夏の太陽に焼かれるのはつらいな、と思っていたらいい塩梅に曇ってきました。
ところが湾を出てみるとウネリもないのに18~20ノットのいわゆるドン吹きで、セールは上げられそうもない。沖にはいかずにポンツーンに舫って暫く海に浸かっていました。
このブログからもう何年も過ぎたのですが、本当にこうなりそうでチョット怖い。
海水浴場のようなビーチと違ってズーッと目線が水面と同じですから、ユラユラと漂う感じで(浮き輪に入ってます)考え事ができるのです。
これからどうしようか、ほっておくとオレはどうなっちゃうのか、親しい人々の行く末はどうか、野垂れ死にしたら家族は迷惑か。
広い海にポツンと浮いて空を見ていると孤独感は感じません、淋しくない。
結局”自分”という概念は様々な紆余曲折をもってこの海に”点”として漂っているばかりで、本人が消えてしまえば今見ている世界も消えてしまうように思えるのです。過去と未来の境目に浮いていながら。
1時間ほど経ってようやく船に上がると少し寒く感じます。
ところで湾内といえども潮は複雑に流れていて、浮き輪には長いロープをくくりつけていますが、チョットびっくりするような方向に流されます。お子さんなんか絶対に夜の海で遊ばないように。おじさんも二回ほどアワヤと言った時がありました。
午後も遅くなっても日差しは強い。晴れてはきたようですが、湾内は切り立った山肌を映して暗くなってきました。
周りに誰もいないのでデッキに上がってからもズーッと考えていると、今度は昔の事を思い出すようになりました。
今はもういない人達、取り返しのつかない失敗、40日も入院していた事。
そしてハッと思うのです。これからはそういった記憶が積み重なり過ぎて、失っていく記憶の方が多くなるだろう、と。
揺られても 揺られても尚 波の中
海と空とは どこで溶け合う
まぁいいや。言われなければ思い出さないことは忘れてしまえ。悲しむほどのことじゃなかろう。断・捨・離かぁ、この海が教えてくれました。
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日向ぼっことなったヨット
2017 MAY 7 10:10:20 am by 西 牟呂雄
例年この時期は真鶴港に行っていたが、今年は休みが長すぎてクルーの都合が調整できず油壺湾内に係留しっぱなしである。連休は風が悪い、相模湾のヨット乗りに秘かに伝わる伝説だ。ギシギシ鳴るくらいの上りの風(向かい風)にかしぎながら船を操るのも醍醐味であるが、今回はやめておこう。
油壷に着いてみると夏のような日差しに目が眩みそう。久しぶりにオーナー仲間と挨拶して少し沖に出た。すると湾内では気が付かなかったが珍しく強い南風が吹いている(ハエの風という)。
実は今年の小笠原レースのフィニッシュが明日の夜明けのはずなのだが、これではかなり早まってしまうのではないか。我が艇のオーナーの内二人がレース委員をやっているので、フィニッシュ・ラインのマークを打ったり、何より次々とやって来る参加者全員分の豚汁を作らなければ。
するとタイミングよく八丈島の仲間から連絡が入り最後の船が島をかわして行ったのを視認した、とのこと。確かにロール・コールではトップの船はもっと早い時間に通過していて、船速は対地9.8ノット!
今では黒潮の蛇行の予測ソフトもあって、房総あたりから巻いた離岸蛇行のはずなのだが9.8ノットとはどういう風を拾ってどんな潮にのったのか。小笠原から3昼夜かからないとは驚異的な速さである。
スキッパーが計算すると今夜の10時頃にはフィニッシュしてしまう。のんびりセーリングしている場合ではない。すぐに引き返して材料買い出しに行った。
帰って来ると、各艇のサポート・メンバーがやはりレースが早いので集まりだしていた。関西ヨット・クラブ(神戸)の会長もみえて宴会が始まってしまった。
こうなると僕はだらしない酔っ払いになって役に立たない。
しかもこの日は最初からウオッカをガブ飲みして、役に立たないどころか迷惑になりそうだ。おまけにデッキでうたた寝してしまいヒリヒリするほど日に焼け、それで目が覚めた。この時期の紫外線は夏よりもキツイ。
夜半のフィニッシュの足手まといにならないように、一人で帰りましたとさ。
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水平線上のアリア (今月のテーマ 空)
2017 MAR 1 1:01:54 am by 西 牟呂雄
ヨットで全く陸地の見えない360度海という景色を見続けていると、何となく地球は丸いのが実感できる気がする。日本人の先祖の中には南方系の海洋民族の血もまじっているはずだから、先祖代々(山国は別として)地球が丸いことが刷り込まれていたのではないだろうか。信長は宣教師から地球儀を見せられて、一瞬にして地球は丸いことを理解したと言われている。
全部水平線の光景は、晴天の日は雄大で海の迫力に圧倒的される。だが、直ぐに飽きる。特に晴天微風の時は空と海のブルーの色彩に飽きると言ったらいいのか、作業をしていないと時々やりきれなくなる。日中の真上の空の色は物凄く濃く、水平線あたりのかすんだ青と違っている。
寒いのもたまらないが、強い日差しの中(従って長袖でキャップも被っている)ボーッと水平線ばかりを見ているのもつらいものなのだ。
何故かいつもは飲んでばかりいるのが酒なんか全然欲しくならない(結果は飲むが)。むしろ甘いもの、エクレアとか冷やしたシュークリームのような物が恋しくなる。聞こえるのは船体に当たる波の音ばかり。
そしてこんな時はフト旋律が頭の中を駆け巡る。それも普段聞くロックンロールじゃなくてスローテンポの弦楽器ユニゾンなのだ。僕はそれを「水平線上のアリア」と名付けている。メロディーはあれ、G線上ですね。
山の麓の喜寿庵にいるときは季節ごとの色彩は鮮やかだ。従ってあんまり空を見上げる事もない。
人と会話をすることがほとんどない、一人で居る事が多いのだ。しかし常に渓谷のせせらぎの音がザア~~っという感じで雨音のように耳に入ってくる。
変なもんで誰とも会わない喜寿庵にいると頻繁と着替えをする、一日に何回もだ。それもいちいち凝った服装にセッセセッセと着替えるのだ。繰り返しになるが誰も訪ねて来ないにも関わらず、だ。
例えば芝生を刈るときにはゴルフの格好をし、アグリカルチャーの為に専用のツナギを買った。剪定の時にはネクタイまでする、そのネクタイの締め方も二重巻きという特別な占め方を発明した。暑くなれば汗まみれになるので一日に何回もシャワーを浴びてYシャツを着替える。それでいて買い出しに行くときはそんな格好をすると目立つのでわざわざジャージに着替える。要するに孤独でヒマなのだ。今時は寒いから家の中でスキーウェアに着替えることもある。
谷合いの山荘だから昼間にジッと空を見上げることはあまりない気がする。むしろ夜空に見入ることはある。夏の夜に芝生に寝転がって星空を見ると、子供の頃「なぜアノ光は落ちてこないのだろうか」と不思議に思ったことまで思い出す。この頃は目が年ではっきり分かるのはオリオンと北斗七星くらいだが、この柄杓は思っているより大きくてダイナミックだ。
するとですな、これまたせせらぎの音と共に脳裏に流れるのは大好きなエーチャンでも何でもなく、何故かホルストの組曲で真ん中あたりのジュピター!これは女性歌手が歌詞を付けて歌ったりCMのバックに流れたのでポピュラーになったが昔から好きだった。
そうやって海でも山でも空を見て少しは清らかな人間になったかと思っても、室内で落とした照明の元に戻ると邪悪なローリング・ストーンズやブルー・ハーツをガンガン聞いて元の木阿弥となる。
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伊豆の下田に 本年初航海
2017 JAN 23 22:22:50 pm by 西 牟呂雄
知り合いのヨットに乗せて貰って下田まで。沼津から熱海まで来ていた船が帰路下田で一泊するから付き合わないか、というのでイソイソと行ってきた。
ベテラン・クルーが7人もいたのでゲストの僕は何もやらなくていい。それで寒いから焼酎のお湯割りをガバガバ飲んだところ、朝から酔っ払って途中からキャビンで熟睡してしまった。クルージングも何もない。風は前日の雪まがいの荒天が嘘のように晴れ上がって風もない。
通常この航路は伊豆半島と大島の間で複雑な海流の流れが入り組み、また打ち付けた波の反射でやっかいな三角波が起きるのだがこの日は楽だった(といっても寝ていたのだが)。
伊豆半島は地図上もギザギザだが、海の中もあまり陸の近くをいくわけにはいかない。伊東でかつて海底噴火があったこともある。従ってあのデカい大島の外側を回ってから利島の先をかわして下田を目指す。
河口のハーバーに入港した時はまだ日が高かった。その日は銭湯(温泉)にジャブジャブ浸かって更に飲んだ。
で、翌日はというと物凄い風でズーッと沖の方まで白波が立っていて、さすがのクルーも出港するかどうか迷っていたが結局行ってしまった。神子元島は船の難所で有名なのだが、まァ大丈夫だろう。
考えてみれば下田は入港しても飲みに行くのとお風呂に行く以外上陸したことなんかなかったのでブラッと観光してみようか。
下田は日米和親条約で函館と共に開港されたが、幕府が黒船にビビって江戸から遠いという理由だけで選ばれたのではない。江戸時代になって廻船輸送が上方から江戸に向かうようになると重要な港として発展した歴史があるのだ。地図を見てもらうとわかるが、遠州灘を突っ切って相模灘に入る丁度境目に当たるのが下田だ。当時の航海技術では遠州灘と風向きが変わるために一気に江戸湾まで向かうのは危険で、下田で風待ちをするのが普通だった。
回船(定期船)が年貢米や特産品を運ぶようになると必ず下田の御番所の調べを受ける海の関所となり、入り鉄砲・出女を取り締るようになる。出船入船三千艘という賑わいを見せていた。その後御番所が浦賀に移され街は寂れて行くが風待ちの港湾機能は残っており(大島の波浮港は幕末まで港湾機能はない)即ちインフラがあったのだ。
さて、色々大変なことが起こり日米和親条約が結ばれた。了仙寺は条約締結の場となる。この頃は今日のように会議場のようなものはないから、大勢の人を収容できる場所はお寺しかないのだった。
ペリー二度目の来日で下田にやって来ると下田条約の下アメリカ人は下田の街中を自由に歩きまわれるようになる。つまり初めてアメリカ人が一般の日本人と接触することになったのだ。
ペリー艦隊はバラバラにやって来て一時函館の測量に入ったりしたので、平均25日最長70日間滞在した。デモンストレーションで上陸した時は大砲四門を揚陸し、将兵とともに軍楽隊まで上陸した。了仙寺境内で演奏をしたというのだが、何を奏でたのだろう。
米水兵は魚を捕ったり餅つきをしたり、それなりに交流めいたものがあったことが伺える。こういうことに妙味を示すのはまず子供だったろう。
御番所が浦賀に移って寂れたとはいえ船宿は少し残っていたが、黒船がいて日本の船は寄り付かない。船宿のお茶引きは米兵を引っ張り込んではカモにもしたらしい。通貨は何だったのか、両替機能が完備していなければ、本当に身ぐるみ剥いだのかもしれない。
その半年後にはすぐさまプチャーチン率いるロシアも開港された下田に来るのだが、実にタイミング悪く安政東海地震が起きて下田は津波をかぶりロシア艦「ディアナ」号が沈没してしまう。半年後にはハリスがやって来て、アメリカ領事館が玉泉寺にできたことを考えると、アメリカにツキがあったのかとも思えてくる。
ところで船を失ったプチャーチンは地元の船大工を指導し帆船「ヘダ号」を建造して帰国した。ヘダとは西伊豆の戸田のことだろうが、日本の造船技術は大した物である。
そしてこの時点での国境は千島列島では択捉島と得撫島の間、樺太では国境を設けず日本人とアイヌ人の居住地は日本領とする。これは今後の北方領土交渉の参考になりそうだ、歴史に学びたい。
歩き回るのは趣味じゃない。タクシーで『近くの砂浜があるところに行って下さい』と言ったらエッという顔をされたが、10分程走って広い海岸に連れて行ってくれた。
親切な人で『30分位だったらまた来てあげるよ』とありがたい。
去年13時間航海して行った神津島が見えたので撮ってみたが、良く写らない。
きょうは特急踊り子で3時間で家に帰る・・・。
ところで出港して沼津を目指すはずの船は、あまりの強風に難所の神子元島をかわすことが危険だと判断し、サッサと下田に帰ってきたそうである。
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神々が集った島 神津島航海記 後編
2016 AUG 20 17:17:28 pm by 西 牟呂雄
どこへ行こうか衆議の結果、島北端の名組湾沿いにある赤崎遊歩道に行くことにした。 切り立った崖にウッド・デッキ風の回廊があり、その下に底まで透けるほどの澄み切った入江がスポットなのだ。
バスに乗って信号もない道をトコトコ行く。あまり大きくないせいか観光開発も大々的ではなくこじんまりした感じ、景観は素晴らしかった。
歩いていくとせり出した所が二ヶ所設けてあって、子供がビュンビュンと飛び込んでいた。
しかしこの飛び込み台、海面まで4m程度だと思うがそこに立った恐怖感は凄かった。オジサンは禁止とでも書いてあれば止めたがそんな表示もない。しょうがなく飛んだ。その瞬間水面に落ちた衝撃が足の裏に伝わった。続いて視界はグリーンの泡ブクブクの中で、体はどっちに向いたのかと思っていると直ぐに明るくなってポッカリと水面に出た。やってみると面白くて二回も飛んだが、海は上がると震えるほど冷たかった。
これは今年の冷水隗が大島から神津島まで居座っていて、漁にも影響が出るほどだったとか。
実はこの写真を撮ったのはそこに通じる橋の上で、7~8m位の高さがある。そこからも勇気ある若者は飛び込んでみせた(オジサンはやらない)。
ここだけの話、飛び降り自殺だけはやめておくことにした。
食料を買い出しに島に一軒のスーパーから船に帰ろうとしたら、偶然タクシーがいたので交渉すると乗せてくれた。ところが運転手が不気味な事を口走った。
「お客さん等ヨットで来たんだったら早く帰ったほうがいいよ」
「ん!」
「次の台風が出来てこっちに向かっているよ」
ナニ!そうか、さっき出て行った船が『直撃』と言っていたのはこのことだったのだ。あわてて船に戻ってパソコンで天気図を検索すると本当に台風七号が発生しているではないか。当初予定通りアイランド・ホッピングを諦めきれない連中は
「大島まで逃げて波浮で様子を見よう」
「イヤ、下田の方がいいだろう」
等といい、オレはよんどころないヤボ用で神津ー調布のフライトを予約していたが飛ぶかどうか不安になり、結論は明朝未明に決める事にして取り合えず持ってきた酒を飲み尽くしてしまおう、となった。
翌朝、四時半に起床して天気図を見ると事態は更に切迫してきた。そして、多数決によりキャンセル料金を出し惜しむオレを置いて船は帰港することになった。
この哀れな姿は決して離島のホームレスではない。行き場を失って途方に暮れるオレだ。フライトが欠航になれば、イチかバチか高速船で下田か熱海にでも出なければ帰れない。それも欠航になるとしたら・・・。
「じゃっ、気を付けてね」
と船は朝日の中出港して行った。
気を付けるって、オレは何を気を付ければいいのか。
更にヤバいことにこの明るい天気は一気に曇り、無情の雨まで降り出した。オレの運命は一体どうなる。雨の中ちっぽけな空港に行き必死に祈った。
結果は(当たり前だが)20人乗りの飛行機は無事に飛び、オレは何事も無かったように調布に降り立った。アー疲れた!
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神々が集った島 神津島航海記 前編
2016 AUG 19 20:20:22 pm by 西 牟呂雄
伊豆七島を造った神様達が集って談合したので神集島、現在の表記『神津島』までクルージング。 伊豆七島には少ない白いビーチが広がる別名ダイアモンド・アイランドとか。
何しろこの暑さ、日差しを避けて夜7時前に出港すると風は北東5ノットの追い風だ。
いつもはここで『出港祝い』と称してビールの一杯も飲むのだが、夜間帆走でもあり、又オレのワッチ・ローテーションは午前1時から4時まで。酔っ払う訳にはいかない。
江の島の灯台を見ながら暫く進むと左手に館山の灯台が見える。この辺りから東京湾から出て来たり、逆に入港する貨物船が増えて気が抜けない。
スピードが全然違うので遠くに点のように見えた光がアッと言う間に目の前まで来てしまう。汽笛を鳴らされてサーチ・ライトを浴びたりすることはヨット乗りの恥だから、セールにライトを当てたりしながら慎重に進む。
今回はオート・パイロットを新規購入しているので、針路を大島の竜王埼にとってローテーションに入った。ちょうど風早の灯が見えた。
結局1時間程寝たのだが12時前には起きてデッキに上がると大島は右やや後方に、前方には利島がボーッと見えていた。コンパス185度位で真っ暗な海を行く。ここまでくるともう船は来ない、と思ったら後ろをイージス艦みたいな船型が移動していた。
ただ、GPSでみる対地速度は4.6ノットくらい。船速メータ-は5ノットを越えている。今年も黒潮に食い込まれていて時間は予定よりかかりそうだ。
台風六号は行ってしまったが大気は不安定のようで、満天に星が見えたりすぐに月まで霞む。新島灯台がチラチラ。
次のワッチ・マンを起こしたがそのまま持ち場について、意外と寒いので長袖を重ね着。大島を交わすとウネリの方向が今までと逆になって船のローリングが激しくなり、オート・パイロットを切って舵を取る、途端に大波を喰らってキャビンで寝ていたスキッパーがバースから落ちてしまった.ゴメーン。
4時半過ぎに未明の薄明かりが漂ってくると、待つこと30分。
分厚い雲の水平線上の切れ目にオレンジ色の日の出が登って来た。ありがたく拝んで少し寝た。
午前7時過ぎに目が覚めると神津島・多幸湾の入り口に来ていた。地滑りでも起こしたのか、岩だらけの峻険な山肌がむき出しになった迫力のある景色を見ながら着岸する。途中1ノット程度の潮を受けて13時間の航海。早速ビールでカンパーイ!多幸湾の廻りには集落もお店もない。漁師さん達は車で通って来るらしい。かわいらしいキレイなビーチでライフ・セーバーが練習をしている。
さて、島内は村営バスが移動手段。タクシーは4台でその運転手さんはバスが忙しいとそっちを手伝いに行く。バスは1時間に1本だから行き当たりバッタリとは行かないから、どこへ行こうかと相談する。
ところで湾内には、やはり停泊しているヨットが2杯いた。その内の一艘は知り合いでヤアヤアと挨拶したのだが、何やら急いで出港準備に余念がない。随分前から来ていたのだろうか、アタフタと出て行ったが、その際
『直撃ですよ、直撃!』
と言ったが聞き流した。。
着いたばかりの僕達はその意味することが分からずに手を振って別れたのだが、後にとんでもない事になってしまった。
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ヨット・ハーバーの納涼祭
2016 AUG 4 0:00:12 am by 西 牟呂雄
熱い風
二日酔いにも 夏は来ぬ
やっとやっと梅雨が明けたぞ。これから夏本番、僕達年寄りの季節だ。
若者は年中遊ぶ事ができるがオジサンはそうはいかない。そもそも運動能力が落ちているから、さあ行くぞ、となるにはそれなりのテンションがないと。
老骨に鞭打ってやって来たぞ納涼大会。ロープの感触を確かめながらひとまず相模湾に。風は・・・ない。
今日はこのヨット・ハーバーの主催なのだ。生はいくらでも飲めるしカクテルも凄いのがある。「エグイ・スペシャル」ウォッカのグレープフルーツ割りをビキニのオネーチャンが造ってくれた。
だがオレは喧騒の中で孤独、ヒドイ二日酔いのせいだ。
いや。それだけじゃない。
実は先般ある所にノコノコ出かけて大変イヤな目に会った。行ったオレがバカだった、情けない。この年で何だと思うなかれ(といって残された時間はオレにはそうないのだが)この年なればこその痛恨事だ。
フワーンとしたワイアン(ハワイアンの事です)が演奏される頃に二日酔いから復活したと思ったら、同時に昨晩と同じくらい酔いが回っていた。
喧騒を避けて浮き桟橋まで歩いて行くと潮が上がって来て、驚いたことに浅瀬にユラユラとクロダイが浮いていた。
50cmはあるだろうか、このデカさなら長年釣り上げられもせずに生きてきて、フラフラと迷い込んできたのだろう。クロダイは時々汽水域・淡水域まで遡上してくるオッチョコチョイ。
誰にも気付かれないうちに早く行けと小石を投げて促しても動じない。
ところが一瞬小魚の群れに目をやって視線を戻したらもう消えていた。
なぜかフト、つい先日これから〝ゆっくり一人で”やっていこうと立てたある計画を思い出す。
オレはあのクロダイみたいに人に釣り上げられず惑わされずにいたい、と気を取り直した。
もうあんなモン二度と行くもんか!
しかし艶やかなオネーさんに引き寄せられるように大勢の人の方に行くと、次に気が付いた時は一緒になって踊っているではないか。
「♪ 月の夜は♪ 浜に出て ♪ みんなで踊ろう ♪ヤシの木かげ ♪」
酔いのせいだろうとは思うが、感情の落差が大きくコントロールし難い。薄氷を踏むような恐さと繰り返し押し寄せる破戒衝動。鋭利な孤独感と狂ったようなバカ騒ぎの反復。
徒に馬齢を重ねる・・・・のはいやだな。
これではおかしくなってしまう、と怯えて夕日が沈み切ってしまう前に逃げ出した。そういえば最近、心の底から怒ったりすることないな。
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風任せ相模湾
2016 JUN 23 7:07:06 am by 西 牟呂雄
梅雨の合間に船を出す。正確に言うと前線が上がって本州にかからないうちに、だ。
朝の9時半に出港してみると、この時期に珍しく視界がいいので驚いた。南の微風が吹いているのでメイン・セールを上げ、汽帆走で270度を狙った。行き先は去年も行った真鶴港。
大島はウッスラと左手に、江ノ島は右手にはっきり見えた。
出港2時間、お腹が空いてきたのでおにぎりを食べる。すると風が少し変わり、いい感じにセールが孕んできたのでジブも上げる。ヨーシ、セーリングできるぞとエンジンを切った。
ヨット談義に華が咲く。
話の勢いで今年の夏は神津島に行く事が決まる。
去年行った八丈島はさすがに遠くて朝出て22時間くらいかかったが、神津島だと夜中に出港すれば翌朝には着ける。ビーチは綺麗だし温泉はあるし。それにここだけの話(皆知ってるが)神津島は調布の飛行場まで定期便が出ていて45分だ。飽きたらホイと帰ってこれる。
個人的にはこれで伊豆七島の行った事のない島は御蔵島だけになる。
そうこうしているうちに真鶴岬が見えた。風も良くなって帆走で5~6ノット。のんびり舵を取らせてもらった。
ところが1時間程やっていたらチャート・チェックをしていた艇長から声がかかった。
「おーい、こりゃ方向違うよ。もっと南、250度くらい!」
そうか、あれは真鶴半島ではなくて小田原の早川だったのだ。
実は早川の辺りは東側から見ると少しせり出したように見えて間違える。風が変わったのではなくて北方向300度くらいを目指していた訳だ。
ゴメンナサイと慌てて舵を戻してエンジンをかける。
同じように真鶴半島を熱海沖の初島と間違えたこともあった。もっとひどいのは大島の帰りに三浦半島と房総半島を間違えた人も知っている(私ではない)。チャートはしっかりと見ましょう。
今回は油壷水軍の合同クルージングとしてポートから8杯の大艦隊が真鶴港に向かっている。
入港してみると艦隊は既に着岸していた、僕が航路を間違えて1時間近くロスったのだった。レースじゃなくて良かった。
直付けで着岸したのでロープに余裕を持たせて舫う。潮の干満が大きいと船が首吊りみたいになって切れてしまうからだ。干潮は午後四時半頃なので見当をつける。
うーん、港町というか漁港というか、堤防で釣りをしている人がたくさん。
魚は旨い、酒も進む、酔いも回る、カラオケまで始まった。総勢50人近い宴会になった。そうなりゃこっちのもんだから、いつものように大暴れ。
翌日は僚船のキャビンで目覚め、おっぽりだされてしまうところだった。おまけにあんなに日焼け止めをしたのに紫外線が強く、帰りは使い物にならなかった。冗談じゃなく命がけだ、トホホ。
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