Sonar Members Club No.36

カテゴリー: ヨット

ヨコハマ・ベイ・ブルース

2016 MAY 19 21:21:56 pm by 西 牟呂雄

 相模湾は良く晴れていて、この季節に珍しく富士山のシルエットがうっすら見える。
 ところが、だ。毎年この季節は風が悪い。今年は特に前線の通過が頻繁で、物凄い南風が吹いた。
 せっかくホーム・ポートまでやって来たのに、湾の最深部でも波が立つのでいやな予感がした。
 船の艤装をやっていると、帰港してきたツワモノがグッタリした表情で入ってくる。
『初めに保田に入ったけどドン吹きくらって2日間閉じ込められた』
『うねりがひどくてキャビンにまで海水がドッと入った』
 こういうことを聞くと、我等オールド・セイラーはやる気をなくすではないか。
 仕方なくデッキにサン・バイザーを掛けて(日差しは強い)とうとうビールをやりだした。
 そうなってしまうともうダメで、だんだん強い酒も欲しくなるし昼寝するのも出てくる。
「大体この風で遠出するのはバカだよな。」
「こう吹いちゃスピンなんか上げられんだろ。」
「おまけに明日から雨だって。もしレースがあってもオレがレース委員だったら中止するね。」
「そうそう。皆に恨まれるだけだよ。」
「それで今年どこ行く?」
「大島行って、新島行って、三宅まで行こうか。往復島伝いで一週間。」
「◎◎さんは今年新盆だろ、クルーが足んねー。」
「その前にレース出ようよ。」
 他愛もない会話が続いたが、そのうちスキッパーがポツリと言った。
「一体いつまでこうやってられんのかねぇ。」

 オーナーたちの平均年齢は軽く還暦を超えている。船は色々と手を加えているから大丈夫なのだが、乗っている人間の方が先にガタが来てしまうかもしれない。現にベテランのオーナーが一人、引退を表明している。
 思えば、先代の船も含めて相模湾を中心に伊豆の島や房総半島へと随分行ったものだ。
 色々上手くいかなくてどうしようかと思った時、ここに来て船を沖に出して波風を浴びると『まァもう少しやってみようか』などと英気を養った事も少なくない。
 長い航海は好天ばかりじゃない。突然の土砂降りに合ったり、寒い北風に煽られたときは『もう二度と来るものか』という気になる。
 それでも長年船を操る事に楽しみを見出し、海に癒されてきた。
 ハーバーから見る風景も別荘・宅地開発で多少変化したが渚の趣は変わらないし、出港すれば海は少しも年を取らない。
 いい加減酔っ払ってから港まで行って鮪漬け丼をイヤと言うほど食べ、無論ドンチャン騒ぎをした。

 翌日は曇り空にもっとひどい風になったので船を下りた。雨も降り出しそうだった。
 帰路に着いたのだが、途中どうにもこうにも海が又見たくなり横浜で降りた。
 実は今回、三浦岬を東京湾に北上してヨコハマ・マリーナで一泊、さらに北上して夢の島マリーナまで行く計画だったのだ。湾内といってもワン・レグ7~8時間はかかる距離なので3泊を予定した。一緒にランデヴーする僚船もいたのだが、やはり全艇取り止めにしていた。風はないとつまらないが、強すぎてもどうにもならぬ、全ては海の思し召し。
 海から見るベイ・ブリッジや京浜・京葉工業地帯はどんなに綺麗なのかワクワクしていたので残念。以前東京湾クルーズに(大型クルーザーで)乗ったことがあったが、その風景は素晴らしかった。それをより海面に近いヨットの目線で見れば、巨大さに圧倒されただろう。

 港の見える丘公園から海を眺めた。
 もう年なので近未来のことを考えた。いつか海に出られなくなってこうして港から見る日が来る事だろう。すると珍しく感傷的になって横浜にまつわる人を思った。
 近くに神奈川近代文学館と言うのがあって「百年目に出会う夏目漱石」という展示をやっている。

 海よ、お前は年を取らないなァ。

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平成28年の海 (今月のテーマ 今年は何を)

2016 JAN 19 0:00:35 am by 西 牟呂雄

満月の夜

満月の夜

 寒い中ハーバーに行って新年会をやりました。今年の航海の安全を祈願して振舞い酒も頂いたらコロッとキャビンで寝てしまい、夜中に揺り起こされます。正確には午前3時頃でしたか。
「オラーッ、すんげー満月がでてるぜー。」
とか言われて厚手の装備をゴソゴソ着込んでデッキに上がるとオォッ!まるで暗天に向かう光の道です。風は冷たいが強くはなく、唯一人酒の飲めないオーナーが舵を取って城ケ島の沖合を微速でセーリングしていました。海は静かに凪いでます。

出撃を待つ 油壷第一艦隊

出撃を待つ 油壷第一艦隊

 お湯を沸かして焼酎をお湯割りにして少し飲んで暖まり、
「去年は八丈行ったけど、今年は島伝いに三宅までにしようか。」
「下田に付けてそこから東伊豆の温泉をズーッと回るのはどうだ。」
「いっそ東京湾の奥まで北上してディズニー・ランドの花火を見ようよ。」
 などと今年の抱負を言い合いました。大体今頃口に出すハッタリは実現しないことが多いのですが。
 年明けでも貨物船は行き交っているのが遠くに見えていてワッチ・マンは気が抜けません。一眠りした後に夜中の12時に出港したそうです。
 水平線まで続いて、その光に向かっていけば満月に届いてしまいそうな気がしながらメイン・セールだけでジブは使わずに進んでいきます。
 船はチャプチャプ行ったり来たり。江ノ島の灯台は見えていたのが観音崎や房総の光がチラチラと。航跡を見ると大分千葉側に来ていました。スキッパーから
「そろそろ戻ろうか。」
 と声が掛かりました。流れ星が沢山見えてくるとそろそろ夜明け、東が明るくなってきます。
 満月はいつの間にか見えなくなりました。

 そして房総の方が!

翌日の朝焼け

翌日の朝焼け

敵迎撃に備える 油壷第二艦隊

敵迎撃に備える 油壷第二艦隊

 闇を消し 空を割りたる 朝焼けに
   音も届かず 波も騒がず

 今年の航海の安全を祈って柏手を打ってしまった。日本人だなぁ。

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今はもう秋 港で思ったこと

八丈島航海記 後編 

2015 AUG 22 23:23:01 pm by 西 牟呂雄

 

黄八丈織り

黄八丈織り

 今回の航海は台風の端境期にちょうど当たった。全く日頃の行いの賜物であろう。
 しかし天候は何があるかわからない。予備を一日取ってはいるが、万が一を考えて本日出発する。出際に民宿の前にあった民芸品のお店で素晴らしい黄八丈の織物コースターを買った。どうだろう、この鮮やかな黄色は。他にも欲しくなったネクタイがあったが、それは高くて手が出なかった。
 きのうのニュースで湘南にサメが30匹も出た、と聞いて多少怯えた。落水してサメの餌食は勘弁して欲しい。

15日午前9時50分
 視界良好の晴天にいざ出港。風はラッキーなことに南西の追い風だ。っと思って船出したところ、セールが風をはらんでいるにも関わらず船が走らない。対地速度がやはり2ノットの逆潮を食っている。暫くは仕方がない。

水平線上の御蔵島

水平線上の御蔵島

 幸い天気がいいので3時間も走ると御蔵島が見えて来た。往路では灯がうっすら見えるだけだったが島影が分かるだけでも少しは士気が上がる。目標が見えると方向を決め易くなって舵取りが簡単だからだ。
 ところが御蔵島が見えてもまだ逆潮が続く。おとといこれに十分苦しんだので帰りは押してもらえる、と話していたのにどうしたことか。
 パンにソーセージとタマネギ・ピクルスを挟んだだけの昼食を取る。
 波はさすがに外洋の大きなうねりは続く。
 御蔵島の島影に入り、波が小さくなって1回目の燃料補給。キャビンで少し休む。
 
午後6時三宅島
 次の三宅島あたりで日が暮れて来た。本日もまた夕日が海に落ちる所は見られず。一回目のワッチで8時頃から舵を握る。
 すると、三宅をかわしたあたりから潮に押されるようになった。どうやらこの2日で少し変わり、黒潮が御蔵島と三宅島の間を直進して島の南北に巻いたのではないだろうか。風は相変わらず南西の追い風だった。
 夕食は御飯を炊いてザーサイ・海苔の佃煮。
 そして暫くすると、往路では見ることができなかった神津島か新島の灯台が見えてきた。
 夜間に月も星も出ていない時に灯台のフラッシュが見えると、ホッとするやら元気が出るやら。

15日午前3時
 キャビンで横になっていたら突如慌しく人が降りてきてバラバラと甲板を叩く音がする。スコールだ。ワッチまで時間があったが、急ぎ合羽を羽織ってファーネスを装着し上がって行くと土砂降りだ。舵を取っているクルーは手が離せずにズブ濡れになっていた。いや参った。
 こうなると灯台もうっすら明るくなるくらいに視界は落ちるし島なんかとても視認できない。急遽ワッチ人数も増やして体制を立て直した。外洋レースのベテランは『もっと南でレースだったらこんな時は「ハイ、シャンプー用意」とか言って裸になるんだよね。』等と笑っていた。
 しかし台風でもないし、おそらく前線を抜けたのだろう、暫くすると雨は止み天空には星が見えてきた。満天の星に流れ星が良くみえる。流れ星は狭い都会の夜空ではなかなか見えないが360度の視界の利く海の上ではしょっちゅうなのだ。

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 いつの間にか波浮灯台、房総の灯台が瞬く。東京湾を行きかうフェリーや貨物船のライトが目につきだす。航海灯は右が緑左が赤、前後は船首の方が低くなっているので向け先の見当をつける。大型貨物船からみればこちらは米粒みたいなモンだから時々懐中電灯をセールに当てて相手にも注意喚起する。何しろ船舶航行量日本一の東京湾の入り口である。
 ワッチが終わる頃、東の空が明けてきた。どうやら随分千葉方面に寄ってしまった。
 北西に進路を取ると、観音崎・剣崎そして城ヶ島の灯台が見えてくる。遠くに江ノ島の灯台も瞬く。ようやく帰ってきた。

16日午前5時45分油壺入港
 まず、航海の安全を祝してビールでかんぱーい!お疲れ様でした。結構潮の押しが効いて帰りは20時間で着いた。
 ライフ・ジャケットやロープの潮抜き、食器洗い、甲板にブラシ、キャビンの雑巾がけ、感謝を込めてセッセとやる。その間にも冷えたビール・ビール・ビール。
 久しぶりにオーバーナイト・セーリングをやったのだが、まず(帰りのスコールは別として)天候に恵まれてよかった。全員ケガも体調不良(二日酔い除く)もなく、南の島と海を堪能した。

 ところで私はビールをやりすぎて、昼まで爆睡してしまった。

こうなったら後には引けない!次は小笠原か!
 

八丈島航海記 前編 

八丈島航海記 観光編 

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八丈島航海記 観光編 

2015 AUG 21 20:20:49 pm by 西 牟呂雄

 朝起きてみると涼しい。島はヤシの木やカシュガルが繁りハイビスカスの赤い花がいかにもトロピカルだが吹く風が涼しい。やはり東京の照り返しとは違うのだろうか、気温も猛暑日ではなかった。
 少しは観光しなければ、と島の奥の裏見ケ滝温泉と言うところまで行くことにした。ph02[1]

 水着着用の男女混浴という触れ込みだ。

 途中、丸い石を積み上げた石垣の家を見る。島内の大里地区には何万年かかったか分からないが波に打たれて角も取れた丸い石が採れてこれを積んだとか。玉石という。
 その玉石の運搬は島に流された流人が一つ一つ海岸から運び上げたらしい。そして石1個につき白米のオムスビ一つが報酬として与えられたという話だ。恐ろしく低い生産性だ。
 八丈島は有史以来人は居住していたが、食糧確保には常に苦労していた。観光案内には明記されていないが、口減らしに餓死するため年寄りが進んで篭って死んでいく姥捨て山のような洞窟もある。そういった所に流人を送り込むのだから、オリジナルの島民は迷惑だっただろうに。
 ご存知の通り八丈流人の第一号は宇喜多秀家でお墓もここにある。他に源為朝の来島伝説があり、八丈小島で自害したと言うがどうだろう。確かに為朝神社があり、また次男が建立したとされる宗福寺があり、そこの住職は源を名乗っているそうだ。
 流人は江戸期を通じて1800人程度で年で言えば7人くらいのペース。テレビでは大岡越前や遠山の金さんが毎週毎週『終生遠島申し付ける』とやっていたが、そんな人数ではない。おそらく最下層の労働力だったろうが、島の女性と暮らすことはできた。多くは江戸にいたころの職を営んだらしい。
 島民の食料事情を劇的に改善したのは薩摩芋である。痩せた土地でも良く育って多くの島民の飢えを救った。それで造ったのが昨日堪能した島酒『八重椿』。

覗き込むと滝壺が

覗き込むと滝壺が

 そんな話を聞きながら着いたのは『裏見ヶ滝温泉』
 密林の中を分け入っていくようなロケーションに秘境感が漂う。海で遊んだ若いサーファー達が来ていた。
 崖の途中にあるので湯船から下を覗き込むとインディー・ジョーンズ的な迫力のある風景。
 ぬる目のお湯にそれこそ1時間でも2時間でも入っていられそうだったが、もう一つ景勝地があるので先を急いだ。それはこの温泉の名前になっている裏見ヶ滝である。これ「恨み」じゃないですよ。
 以前、SMCメンバーの中島さんが九州の名所として紹介していたような、滝を裏側から見物できる場所で、温泉から細い山道を登ったところだ。その途中に玉石の参道があって前述の為朝神社もここにある(険しすぎて行けなかった)。

 滝はまるでジャングルの中の水晶のような美しさでたたずんでいた。思わずその滝壺に飛び込みたくなったが、環境を破壊してしまいそうで止めた。是非このままで取っておいて欲しい。裏側から見ると濃い緑の中のプリズムのようで少し寒さを感じる。

 さて八丈島にはヨット乗りには是非お参りしなければならない碑が立っている。
 1991年ジャパン・グアム ヨットレースに参加していたマリンマリンの慰霊碑だ。落水のあとトラブルが続いて最後にキール脱落で転覆し、全員遭難したのだ。同じレースでやはり転覆しライフラフトでの長期間漂流後たった一人生還者がいた「たか号」のことは大きなニュースとして取り上げられたのでご記憶の方もいることだろう。
 幸い来る時は荒天にもならずに無事に入港したので、帰りも、そしてこれからの色々な航海の安全を祈りお線香を立ててきた。
 
 安全第一で酒も控えますから我等に好天を

八丈島航海記 前編 

八丈島航海記 後編 

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八丈島航海記 前編 

2015 AUG 19 20:20:08 pm by 西 牟呂雄

 伊豆七島の南端八丈島、東京から280kmだ。大島みたいに「チョッと行ってくる」という感覚では行けないが、夏休みを取ってヨットで行くことを共同オーナー達と決めた。
 大体一昼夜の航海でオーバー・ナイト・セーリングは久しぶり、僕は張り切った。

出港前準備
 安全備品チェックや落下防止のネット張り等、汗だくになって作業。ふざけたノリだけでは命に関わる。準備は入念にやってやり過ぎはない。
 前の艇で使ったチャート(海図)をそのまま利用。
 ラダー(舵)がギコギコして動きが悪いから分解して中を掃除。
 エンジン・オイル、ギア・ボックス・オイル交換。
 オート・パイロット(自動運転)のテストで沖に出てみると、パイロットは作動するのだが微調整スイッチを入れるとそのまま押し続けになってしまう。これヤバいのでもう一度バラす。
 ファーネスという落下防止用のベルトを装着したまま甲板の移動ができるようにジャック・ラインというロープのようなものを張り巡らす。
 食糧買い出し。
 体調を整えるため、前日は酒を抜く。昼間二日酔いで熱中症になるだの夜間航海なんかで腹が痛いのとなっても、仮に最寄の港に寄港するにしてもすぐには着けないから大騒ぎになる。計画はメチャクチャになるし、他のメンバーの迷惑になるからだ。
 

12日油壺10時42分出港。
 総勢7人のクルーで女性2人。これから24時間は波の上だ。海は今のところ穏やかな表情をしている。普段からやっているように出港祝いと称してビールを開けるようなことはしない。
 大島を右に見ながら南下して行くがモヤってしまって島影は見えない。
 ところで、艇長はベテランのヨット通であり、一人は元大学ヨット部キャプテン、二人は外洋レース(グアム島レースとか)の腕利きクルーというメンバー。素人に毛が生えた程度の遊び半分なのは僕一人だ。
 そして長い航海になると実力の差はテキメンに現れる。ロープの複雑な扱い、ちょっと風が変わった時のセールの調整、等でモタモタしていると皆が不安そうになるのが分かる。夜間のオーバー・ナイト・セーリングはワッチ(WATCH)と言って必ず一人は他の船舶や障害物の監視、もう一人が舵を取る、というバディ体制にして入れ替えながら一人当たり2時間ワッチ3時間休憩のローテーションを組むことになる。すると僕のワッチの時には組んだ相手の負担が物凄く増えてしまうかもしれないからだ。
 一般的に技量が違う場合は『当然こう考えるだろう』というつもりで指示を出すとまるで逆に受け取られるというリスクがある。これは普段の仕事なんかでもよくあることで、双方注意が必要だ。また、別のところから正反対の指示が出たりすれば混乱して事故にならないとも限らない。指揮命令系統は常に確保しなければならない所以である。要は冷静な判断とチームワークという訳だ。
 初めに舵を取った時点で『当て舵(波の当たりに合わせて直線を維持しようと大きく舵を切る)』のやりすぎと指摘される。風は微風の東風なのでエンジンを掛けながらの汽帆走で7ノットを確保する。

午後3時
 なかなか見えなかった大島だったが次第に輪郭を現した。

霞んで見える大島

霞んで見える大島

 日が暮れて来る。これから暫くは島を視認できないからコンパスだけを頼りに航海する。ただ現在では通信技術の発達によりデジタルに位置の測定ができるので、アッと気が付いたらとんでもない所に来てしまったとはならないですむ。
 残念ながら本日は伊豆半島辺りが全部雲に覆われていて、ドンと落ちる夕日を見ることはできなかった。
 明るいうちに夕食を食べる。レトルトの牛丼とか中華丼をご飯を炊いてかけて簡単に食終わり。18時からワッチ体制に入り、まず艇長が舵を取ってぼくは見張り。19時から操舵した。このあたりから先日の逸れた台風のうねりが残っていて船が叩かれる。

午後20時
 ボウッと浮かび上がる感じで灯が見える。三宅島だ。
 どうにも曇天で視界が悪い。星は天頂あたりに瞬いているだけで、きょうは新月だから月はない。ペルセウス座流星群が見えるかと期待したが全くダメであった。
 今年は黒潮の蛇行が凄いという話で、八丈島にぶつかった後大きく北上しているらしい。事実三宅を越したあたりから対水速度メーターが7ノットを示しているのにGPSの対地速度は5ノット以下。2ノットの潮を食っていることになる。

八丈島 右に八丈小島が

八丈島 右に八丈小島が

 その後0時、4時とワッチの舵を取ったが思うように南下できなかった。風が強くなり19~20ノットの強風と外洋のウネリになる。波飛沫のシャワーを浴び始めたのでパーカーを着込みライフ・ジャケットを着けてファーネスを巻き付けるという重装備に。その間休憩時に横になってみたが結局暑くて眠れない。
 夜中のワッチ交代時に燃料の給油。これも備品一つ落っことす訳にいかない作業で、酷いときは危険な作業だが、今回は比較的楽だった。

13日6時八丈島目視
 明け方になっても曇っていてやはり日の出は見えない。遠くの方に雲の塊があって、暫くすると八丈富士の稜線が視認できた。大島も三宅もそうなんだが、この時期は島に当たった風が山頂にまで吹き上がって雲をつくる。これが島雲でまるで傘をかぶったようになる。
 島がようやく見えると突然潮の流れが変わり対地速度が上がりだした。巻潮と言って島に海流が当たって大きく向きを変えた時に流れの端っこが渦を巻く。その流れをとらえたようだ。

8時30分八丈島神湊港入港
 やれやれ、お疲れ様と入港して岸壁に船を舫う。ともかく安全にたどり着いた。22時間。
 岸壁に立つと弱冠の岡酔いでフラフラした。それにしてもお江戸の昔に流された罪人はどんな気持ちでこの島を見上げたことだろう。ホッとはしたのかこれからの暮らしに絶望感を抱いたか。

 この日は艇長のヨット仲間(八丈在住)のご厚意で、軽自動車を2台借りて民宿に泊まる。
 まずは山の中腹にある温泉に浸かりに行くこととした。高台にある『見晴らしの湯』でプールのような露天風呂で太平洋を一望の元に見ながら入る。うーん、太平洋も八丈島まで来て眺めると余計にだだっ広いような。

島寿司

島寿司

 そしてお楽しみの宴会。八丈島ではお寿司は『島寿司』焼酎は『島酒』。ハナからシマズシをガツガツ食べた。白身の魚を醤油ダレでヅケにして青唐辛子をチビッとかける。
 『島酒』の方は芋の八重椿という奴をこれまたガンガンやる。
 持込の日本酒も含めて、終いには何を飲んでいるのかよく分からないまま南の島の夜が更けて寝入ってしまった。あー疲れた。

八丈島航海記 観光編 

八丈島航海記 後編 

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港の夏祭り 

2015 JUL 28 7:07:48 am by 西 牟呂雄

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 今年もヨット・クラブの納涼祭りがありました。
 右は続々出港を待つ油壷艦隊の雄姿です。
 小学生の体験乗船で湾外を一巡り、波をかぶるたびに『キャアキャア』とはしゃぎます。初めて乗る小学二年生の子は『こわいよ。』と半ベソになってしまい、抱っこになってしまいました。空は夏丸出しの快晴。
 この子達は事情があって親と一緒に暮らせないのでオトナとの会話に慣れていません。それでも後で一生懸命練習した踊りを披露してくれます。

さあ 行くぞ

さあ 行くぞ

 港に帰ってくると各船ごとに「焼きそば」「カレーうどん」「トウモロコシ」「焼き鳥」といったお店が出て、バンドが演奏します。これが又40年以上前の曲ばかりやるゴキゲンなバンドで、大好きなCCRの「雨をみたかい」をレパートリーに入っているのがうれしい。
 僕はカクテルの模擬店で「ウォッカベースのヤバいのくれ。」とか「テキーラ・サンライズもいいけどテキーラ・サンセットにして。」等と言って嫌われていました。

 そうして子供達の可愛い踊り。中に一人口に指を咥えている子がいます。さっき船の上で半泣きだった子です。人前に出るのが恥ずかしいのか、チビで上手く踊れないのが恥ずかしいのか。僕達はカブリつきに行って手を振って目が合うとやっとニッコリしました。
 こういう少年の孤独は身に染みて分かります。もっとも僕の場合は逆に出て悪ふざけに走り、返って目立って怒られたものですが。彼は最後には景品のシャボン玉セットを貰って嬉しそうに帰っていきました。
 子供は無垢でいい、と言うでしょう。それを言いたがるのはスレたオトナで、子供は子供で色々考えて十分忙しく、無垢もクソもないのです。あれ、結構真剣なんですよ、忘れてませんか。少年よ、願わくば自由に生きよ。。

フラのお姉さん達

フラのお姉さん達

 お待ちかねのフラ・ダンス・ショウ。ご覧のあでやかな皆さんがハワイアンに乗せて柔らかく舞います。これニコニコしながら踊るのが大事で、なかなか笑顔をつくるのは難しいそうです。確かに僕がやってみると変にヘラヘラしてしまってダメ。大体オジサンがニコニコ踊るというコンセプトに無理があるのですね。
 ハワイアン・バンドのバンマスはANAのパイロットが本業のかっこいいオジサンでした。

 一応夏休みのテーマのつもりで書きましたが、休みはあんまり関係のないオジサンがドンチャン騒ぎをしているだけで、春にも秋にも似たようなことはしていますから、バケーションでも何でもないですね。

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われは海の子 と 琵琶湖周航歌 

2015 MAY 28 20:20:37 pm by 西 牟呂雄

 東兄のブログに「我は海の子」の記述があって思い出したことがある。標記の両歌、そのまま歌詞を入れ替えても歌えるのだ。いずれも七五調の文語体だから馴染みもいい。
 ヨットで相模湾をウロウロするときに勝手にパクりの歌詞をつけて歌っていた。両方の節で味わって下さい。

琵琶湖 夏

琵琶湖 夏

我は海の子 さすらいの
船出にあれば 荒波の
しぶきをあげて セール張る
伊豆の港よ いざさらば

嵐のような 猛き海も
鏡のような 凪の海も
満天星の  夜(よ)の海も
グラス片手に 舵を取る

波の間に間に 顔を出す
流人の伝えの 島々よ
夕日に染まる 相模湾
今日は三宅か 新島か

伊豆 夕日

伊豆 夕日

 キリがないから止めるが、この調子で田子(西伊豆)から下田から波浮(大島)・熱海まで波に揺られていると実に楽しかった。但し天気が良ければね。
 ズブ濡れになって物凄い向かい風を食ったときなんか海は怖い。こういうのを『真上り(まのぼり)』と言う。
 以前の船で伊東から帰港する航路で、濃霧とドシャ降りの真上りに心の底から恐怖した。しかもその時エンジンのピストン・ヘッドが飛ぶという前代未聞のトラブルに見舞われ、子供の頃に読んだ『15少年漂流記』の出だしの心細さを思い出してイヤ~な気持ちになった。そして霧の中に同じポートの僚船を見つけて『アッ港が近い。』となった時はホッとした。
 経験者に聞いたところでは、こういう時に海に落ちると目線が水平線の高さなのでアッと言う間に方向感覚が分からなくなり、とてもヨットを見つけられないそうだ。まして夜だったりすればイチコロ(幸いその人は助かったが)。ファーネスは欠かせない。
 特に伊豆の大島の辺りは流れも速くてヤバイ、海は流れるのだ。実は大島は伊豆半島突端の下田よりも北側にあるため、黒潮が複雑な支流を作って波も高い。二階から落ちてくるような感じだった。三角波に乗り上げてしまい、船が次の波にドーンと突っ込むとデッキの上をザーッと海水が走り結構な量がキャビンに流れ込む。それ汲み上げだ、帆を下げろと下っ端が忙しくなる。
 だが本当のヨット屋はこういう時こそ風や波と戦った気がするらしく、好んで出港するクルーも多い。ブルー・ウォーター・レースのような外洋航海の練習に行くのだ。
 えっ僕?聞く方がヤボです。

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今はもう秋 港で思ったこと

 

海のハンター 潜水艦 

2015 MAY 26 22:22:18 pm by 西 牟呂雄

 えー、くどいようですが私は平和主義者で戦争反対です。それはそうとして・・。

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イ号潜水艦

 沈黙の艦隊という大ヒット漫画により多くのファンを獲得した潜水艦。
 古くは『眼下の敵』や『Uボート』『レッド・オクトーバーを追え』といった映画、あるいは漫画『サブマリン707』といった作品にも親しみました。又、有名ではないかもしれませんが『紺碧の艦隊』というノベルス本があってアニメ化もされてます。これは山本五十六がパラレル・ワールドに転生して高野五十六(山本家へ養子に入る前の名前)となり、照和(昭和ではない)の戦争を指導しナチスと戦うというシュミレーション小説です。ヒーロー前原少将率いる秘匿潜水艦隊が大活躍する作品で、アニメも全部見ました。

 忌むべき先の大戦でも実は潜水艦は大活躍していたのですがあまり語られませんね。
 開戦直後の翌年2月、作戦行動中だった日本海軍の潜水艦伊17はカリフォルニア・サンタバーバラ沖に現れエルウッド石油製油所へ14センチ砲を20発を撃ち込んでいます。実際には不発弾が多く大した被害にはならなかったのですが、アメリカ人への心理的圧迫は物凄かったらしい。日本軍の上陸の可能性が拭いきれず、万が一陸上部隊が進入してくれば、米陸軍はカリフォルニアを捨ててロッキー山脈で防衛する、という作戦があったそうです。これが日系人の強制収用の引き金を引きました。
 潜水艦部隊はその後も貨物船等を攻撃し、その年の9月には伊25から飛び立った零式小型水上偵察機による爆撃までしています。もっとも焼夷弾による森林火災を計画したものでオレゴン州の山がちょっと燃えただけですが。アメリカ本土への他国軍機による空襲は歴史上これが唯一です(9.11は民間機ハイジャック)。
 ただし空母艦載爆撃機による日本本土へのドーリットル空襲は4月であり、そっちのダメージに比べればカワイイものではありますが。

 一方で伊10・伊16・伊20は五月末にマダガスカル沖に浮上します。マレー沖海戦・セイロン沖海戦でインド洋の制海権を握った勢いで、一応ドイツ占領下の仏ヴィシー政権からの対英軍攻撃要請によるとはいえ何を考えていたのでしょう。地球一周するつもりだったのでしょうか。
 

引き上げられる特殊潜航艇

引き上げられる特殊潜航艇

 伊20から『甲標的』という特殊潜航艇(人間魚雷ではありません雷撃小型潜水艦)が発進、戦果を挙げたものの座礁し、乗員はマダカスカル島に上陸して戦死しています。甲標的は真珠湾やシドニー湾攻撃(オーストラリアまで行った!)にも使われたことでも知られていますが、これが後に人間魚雷・回天の悲劇になっていきます。私は回天の訓練基地だった山口県の大津島に行きましたが、参りましたね。
 ところでシドニー湾の攻撃は機動部隊も何も無く、この特殊潜航艇3隻の突入です。特殊潜航艇は一応母艦へ帰還する作戦でしたが、真珠湾でも全滅していたのだから乗員は覚悟の出陣だったと思われます。名前も『特別攻撃隊』となっていました。

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日の丸で覆う海軍葬

 
 湾内奥深く入り込んでの攻撃に大いに慌てたものの、多勢に無勢で3隻とも沈没します。
 すると驚いたことにシドニー軍港司令官のムーアヘッド・グールド少将(英海軍から派遣)は、この無謀とも思える作戦行動に敬意を表し、引き上げられた2隻の乗組員の海軍葬をし遺骨も返還されているのです(3隻目は2006年に発見された)。
 さらに戦死した松尾中佐(海軍兵学校66期)のご母堂はオーストラリアに招待されて国賓並の待遇を受け、新聞に中佐の勇気を讃える記事が載った報道が残っています。戦後20年を過ぎた昭和43年のことでした。
 戦争の良し悪しは別として、こういう礼を尽くしてくれる国には礼を持って応えるのが国際社会のルールでしょうね。
  
 ともかく、いくら何でも北米沿岸からマダガスカルとは世界の2/3を戦闘海域にするなど荒唐無稽と言うか誇大妄想と言うか、無理がありますよ。海軍上層部は山本五十六が言ったようにチョロっと攻撃しただけで停戦に持ち込めると考えていたのでしょうか。

伊ー400の外観

伊ー400の外観

 その誇大妄想が乗り移ったかのような潜水空母という途方も無い代物が伊ー400型でしょう。事実2012年に至るまで史上最大の潜水艦でした。特殊攻撃機『晴嵐』を3機搭載し本当に地球1周可能な仕様になっていて、戦略的にはパナマ運河攻撃説とアメリカ東海岸攻撃説がありますが、実際の戦果は全く無し。敗戦までに3隻建造されたものの、米軍は敗戦までその存在すら知らなかったようです。ここまで来るともうギャグの世界です。

晴嵐の格納庫

晴嵐の格納庫

 しかしこの発想は冷戦時の核ミサイル搭載型原子力潜水艦につながり、武装解除に当たったアメリカ海軍はソ連への情報漏えいを警戒して技術を秘匿しました。しかしまぁ最初に見た時はビックリしたでしょうな。
 
 話は変わります。『伊号』とついているのは1000t以上の潜水艦で、そういうからには『呂号(500t以上)』も『波号(500t未満)』もあるにはあります。呂号は戦闘というよりは輸送船攻撃用の潜水艦、波号に至っては原型は大正時代の物で大戦当初には現役艦はありません。終戦間際の本土決戦の為に急遽作られました。
 文芸雑誌『群像』の名編集長、故大久保房男氏は慶応義塾から学徒出陣で海軍に行き、おそらく主計少尉としてこの波号潜水艦に乗っていて終戦を迎えたはずです。乗組員21人の小所帯で、最も苦労したのはトイレだったそうです。いくつかのレバーを操作して圧縮タンクに流し込むのが、失敗すると逆流して被ってしまうとか。
 もう一人。大蔵官僚から短期現役士官として海軍に行き、敗戦後復帰してから国税庁長官をした後に博報堂の社長・会長を務めた故近藤道生(みちたか)氏もペナンの第八潜水戦隊司令部副官でした。
 駆逐艦乗りも成績上位者が行くことが少ないのですが(若い大尉クラスは別)潜水艦乗りの方はまた一段と扱いが酷く、特に輸送船攻撃は戦果のカウントが低いので出世コースにはなりませんでした。私の母方の伯父は兵学校卒業後の進路が潜水艦と聞かされ『こりゃダメだ』と思っていたら終戦になった、と言っていたものです。
  
 それにしても戦艦武蔵・大和・伊四百と・・・・嗚呼

 絶対に戦争はやめましょうね。。集団的自衛権と安保法制整備は賛成ですが。

海のハンター 駆逐艦


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海のハンター 駆逐艦

2015 MAY 24 14:14:12 pm by 西 牟呂雄

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 駆逐艦、英語ではデストロイヤーと言う。ガンガン大砲を撃ち合う洋上艦隊決戦では脇役だが、初めに突っ込んで魚雷攻撃をしたり、敵潜水艦を燻り出す爆雷投下を主に受け持つ『海のハンター』である。
 現在はミサイル技術の発達により洋上での一発必中の雷撃主体は潜水艦に移り『水雷』搭載としての駆逐艦は存在しない。
 上の写真は駆逐艦雪風である。
 雪風はそのほとんどの戦力を失った帝国海軍にあって、先の大戦の最初から最後まで戦い抜いて沈まなかった駆逐艦として名高い。阿川弘之氏や半藤一利氏の著作でしばしば紹介されたのでご存知の向きも多いだろう。大和の沖縄水上特攻に僚艦として出撃し勇戦、撃沈した大和の多くの将兵を救った。
 呉の雪風、佐世保の時雨と言われた歴戦の駆逐艦だった(時雨は終戦間際に沈没)。運が良かったと言えばそれまでだが、生還した多くの人の証言によると士気の旺盛さ、各員の責任感、そして抜群のチームワークで幾多の海戦を生き抜いた。
 駆逐艦乗りは巨大戦艦や空母のような華ではないが、闘志溢れる船乗り根性の塊としてプロ中のプロと言えよう。但し艦長にトップ・クラスはあまり乗らない。トップとはハンモック・ナンバーの上位のことで海軍兵学校の卒業時の成績抜群エリートを指す。そのレヴェルは軍令部やそれこそ大和といった花形艦に乗る。駆逐艦は高速でもあるので、機動部隊の盾になったり輸送護衛をさせられたりもする割に合わない存在でもあった。しかし世界一の射程距離のロング・ランス(長槍)九三式魚雷、通称酸素魚雷を装備して意気軒昂たるものがあったそうである。
 この酸素魚雷は航跡が見えずに直進性に優れ、しばしば大戦果を上げている。技術交流でドイツに紹介されたがUボートには実践配備できなかった日本オリジナルの技術の粋だった。
 
 ガダルカナル島ルンガ岬の沖にてルンガ沖夜戦があった。このときは孤立したガダルカナルに輸送物資を届ける任務を負っていた8隻の駆逐艦がアメリカ艦隊と一戦交えた。
 食料を半分入れたドラム缶を投入するところを発見された田中少将は麾下部隊に対し「揚陸止め!全軍突撃せよ」との命令を下す。最前線にいた『高波』は短時間に50発以上被弾・炎上したが、後続の駆逐艦隊の果敢な雷撃により米巡洋艦部隊は壊滅的な打撃を受けた。アメリカ海軍の将校が「癪に障るほど優秀な連中だった。」と述懐したと言われている。
 しかしながら帝国海軍最後の勝利のこの海戦も、海軍上層部の評価は低かった。作戦の主目的である食糧輸送に関しては実績が挙がらなかった事と田中少将の戦線離脱が早過ぎたという理由による。
 戦後、半藤一利氏のインタヴューを受けた田中少将は『ワシは、全軍突撃せよ、と言っただけだよ。』と答えているが、本当だろう。ドラム缶を積む為に魚雷の搭載数が少なかったとは言え、確かに戦闘開始後の旗艦『長波』の離脱は早かった。

 その後、ご存知の通りの戦局をたどったのはご案内の通り。yjimage[3]
 

 現在ではかつての駆逐艦の役割は高度に電子化されたイージス艦へと変わったが、船乗り魂はすこぶる健在と聞いている。海上自衛隊の特徴を現す四文字熟語は『伝統墨守、唯我独尊』だそうだ。

ところで言うまでも無く戦争は良くない 集団的自衛権は賛成だが。

海のハンター 潜水艦 

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潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 

2015 MAY 14 19:19:00 pm by 西 牟呂雄

 古代史のヒロイン額田王(ぬかだのおおきみ)の力強い歌である。
 
 
熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

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 一条の光に導かれ
 友よ力込めたまえ
 まだ波静けくあるうちに
 
 我が目指すところ
 遥かなる 海原の
 風まだ猛くならぬうち

 友よ さあ 力込め
 櫂しならせて漕げ 
 外海で 帆をはらむまで
 

 夜間帆走というのは荒天で灯台も見えないような外洋の場合、大変に難しい。風とコンパスだけで心細い航海が続く。しかし月も星も見えないで何時間も舵を取っていると必ず恐怖感が麻痺してしまい、返って緊張感がなくなる方がヤバいそうである。4人で太平洋を横断した人が言っていた。外洋の懐の深さ、大きさ、そしてその恐さを語って余りある。その人達は33日でサンフランシスコに入港したが、日本を出た途端に低気圧を喰らって帰港しようかと随分悩んだそうである。
 もっとも近海でも注意しないと内航貨物船は夜中航海しているから危険だ。
 影のできるほどの月夜で天の川が目測できるような満天の星に気を取られ、千トンクラスの貨物船が接近しているのに気付かずヒヤリとしたことはある。航海灯に気が付いた貨物船の航海士が汽笛を鳴らしてくれたのだった。
 そして未明の薄明かりの時は、実はもっとあぶない。障害物(船舶等)が海の色に溶け込んでしまって良く見えなくなってしまう。
 結局航海は常に危険に囲まれているのだ。

 ところで冒頭の歌の熟田津は愛媛県のあたりらしく、百済からの援軍要請を受けた倭の軍が出港する時の歌だ。あの時代の航海術では風の悪い時期の玄界灘なぞ、行くのも命がけだっただろう。

 かの人は天皇兄弟の三角関係から壬申の乱の遠因になったという説もある。
yjimage[1]

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る
 これは天智天皇行幸の際に歌ったのだが、それに対し大海皇子が
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
 と返歌したので、前述の三角関係説の傍証とされている。確かにはじめは大海皇子のツレだった。
 このやり取りの故池田弥三郎氏の解釈がメチャクチャ面白い。僕は40年以上前に聞いた語り口を未だに覚えている。池田先生は江戸っ子なので話し言葉のニュアンスを思い出してちょっと再現して見よう。
「あれは宴が始まって酔っ払った大海皇子が下手な踊りでも踊ってるんじゃないんですか、ラジオ体操みたいな。額田王は前のオトコだった皇子に向かって『コレコレ』ってな具合で注意を促してるんですよ。周りみんな、今は天智天皇の彼女ってこと分かってんだから、何にも言えない。それを大海皇子の方も『いまだに惚れてますよ。』ってな按配で返してる。この歌の時点でどう考えても40台後半ですからあの時代では大年増どころじゃない、『恋ひめやも』も何もないですよ。それぐらい大らかだ、と思ってないと古代のウタゲってもんはわからないでしょう。」
 いやはや、さばけてますな。

 またテーマと関係ない話になってしまった。

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