Sonar Members Club No.36

カテゴリー: ヨット

冬季夜間落水救助訓練

2021 FEB 6 0:00:08 am by 西 牟呂雄

 2021年である。緊急事態宣言も延長され、どんな年になるのか全く分からない。みんな同じだ。
 すっかりルーティーンが狂ってしまったが、いつまでも嘆いてばかりはいられない。とにかく海の安全だけでも確保しようとハーバーに集まった。ここではソーシャル・ディスタンスはスカスカだし岬の突端だから風はいつも吹いている。ハーバーはとても静かに新年を迎えていた。我流安全祈願祭をやり海の神に酒を捧げ、自分の胃にも注ぎ込んみ、船内をアルコール(酒ではない。本当のアルコール)で拭いて清めた。
 海面に小さなさざ波が立っている。浮き桟橋からよく目をこらして見るとボラがキラキラと日の光を反射していた。すると水鳥がスイスイと寄ってきてスッと潜ったと思ったらボラを咥えて浮いてきて、そのまま丸呑みした。のどかである。

 さて、今年はどうしようか。スキッパーはオリンピックがあればヨット競技のボランティアをやるためオリンピック中は航海できないし、その他レースもできるかどうか。去年は伊豆の島からできるだけ来るなのお達しがあった。目下の状況が収まってくれなければ今年も嫌がられるはずだ。保田・真鶴・熱海・伊東あたりどうなんだろう。
 クルーは全員前期高齢者になったが、船はこれだけ手を入れているからあと10年もつのでそれまでがんばろうか。
 ほかの船も新年顔合わせで来ていて、ヨシッ、バーベキューでもやろうか、となった.直ぐに買い出し班と設営班(簡易コンロだが)が動いて料理班が野菜を切り、かんぱーい。それぞれの船から飲み残したウイスキイや焼酎・日本酒が出てきて酒池肉林になる。僕はやかんで温めた熱燗を飲んだ。
 するとですな、酔いがまわるんですなこれが・・・。

 キャビンで目が覚めた。寒い。トイレに行っておくか。皆寝たみたいだな、ヨッコラショ、と桟橋に飛び降りようと・・・した。
ダダン!ジャボーン!アーッ(僕の声)
 34フィートのクルーザーでは海面からデッキまで届かない。おまけに厚着をして靴をはいたままでは泳げたもんじゃない。浮き桟橋に掴まろうとしていたら靴が脱げた。
 ところでこの時期の海水温は15℃くらいで、落ちてしばらくは”寒い”とはあまり感じなくて、いい気持ちとは言い難いが凍え死ぬとも思えなかった。
 デッキで倒れた時の音と直後の水音で寝ていたクルーが起きてきた。
「おーい、意識あるか」
「あります。水も飲んでません」
「ぎゃはは。ほら掴まれ」
 二人掛かりで引き上げてくれた。途端に物凄く寒くなった。
「早く脱いで脱いで、着替え持ってるの?」
「オレシャワー・ルームの電気付けて来る」
「あっ着替えならあります」
「急がないと風邪ひくよ。このご時世に熱なんか出したら非国民扱いだから」
 みんなが親切にしてくれるが、その表情は明らかにニタニタ笑っていた。そしてパンツ一丁になった僕はあまりの寒さに震え乍らグルーミング棟にヒョコヒョコ(はだしで)歩いて行き、熱いシャワーを浴びて寝た。

 翌日、ボケーッと起きてコーヒーを飲んでいると桟橋が騒がしい。
「夕べは大変でしたね」
「いやー、まさか落ちると思ってなかったから驚いたよ」
「本人どうしてます」
「のんきに寝てるよ。危なかったよ、ポートサイドだから上がれなくてね」
 どうも、昨日の落水のことを話している。何で知ってるんだ。人がいなくなったのでこっそりとキャビンから出ていくとクルーはニヤニヤしている。夕べのドジを平謝りに詫びて、先程の会話について恐る恐る訪ねた。何でもう知っているのか、と。
「あれだけの騒ぎだからほかの船もみんな見てたよ」
「・・・・」
 酔っぱらっての落水など、ヨット乗りとしてはあるまじきミス!そこで僕は提題の『冬季夜間落水救助訓練』だったことにしてくれ、と頼み込んだ。すると・・・。
「今更遅いよ。あの騒ぎに気付いた××××(遠くに停泊していた船)のクルーがパンツ一丁でウロウロしてるところを動画で撮ってハーバー中に配信したんだよ」
 何たる。動画を見せられた。消去してくれ、と泣いて頼んだが無視され永遠に残ってしまった。

 この話は続きがある。今年93歳になる僕のオヤジは大学ヨット部OBで、この顛末を聞いてこう吐き捨てた。
「お前もうヨットか酒のどっちかやめろ。この恥さらし」

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初冬のハーバーにて

2020 DEC 8 0:00:19 am by 西 牟呂雄

 冷たい北の風が強い。こんな時はメンテナンスでもしながら酒でも飲むのがいい。某日、クルーの都合が合ったので油壷に集合した。ヨットは風がなければ走らない。従って船の上では密にもならない(酔っぱらってキャビンで寝るときは密かも)。誰もマスクなんかしてない。
 風は18~20ノットと強いが波は立っていない。よし、行くぞ。

わあッ

 この時期はあまりもやっていないので、相模湾越しの富士山がはっきりと見えた。山頂部分が冠雪している。
 江の島を目指す。強風で7~8ノットとこの船にしては結構な速さだが、うねりがないのであまり波をかぶらない。
 海面を見ていると潮目のように色の濃くなっているエリアがあって、そこに風が叩きつけられている。その青が迫ってくるとウワーンといった感じで強風に大きく船が傾く。風の当たる角度によって持っていかれるように舳先が流れるか逆に風上に切りあがってしまうか、いずれにせよ舵を操作するとまるで生き物が跳ねるように船速が増す。腕の見せ所であり醍醐味だ。この間、頭の中はカラッポの状態と言っていいだろう。即ち煩悩からは解放されているのだ。ズーッとこの時間が続けばいいような気がしてくる瞬間だ。音もしない。
「そろそろタックか」
 スキッパーの声で全員配置につき、ヘルムは僕だったから合図とともに舵を切る、ゆっくりと船を回してセールを固定した。帰りはさすがに波を被るようになって寒い。
 この時期の日没は4時半だから3時をすぎると夕日は低くまぶしい。海はすでに青さは消えつつあり海面が暗くなってくる。ハーバーに入れてから何をするか、といった煩悩・雑念が湧いてくる時間である。

物憂い日没

 しかし飲んではしゃぐ気になれなかった。海の暗さに塗り込められたわけでも、冷たい風のせいでもない。
 この不気味な、繰り返し押し寄せるコロナの惨禍は人々を麻痺させ愚かにさせる。いずれワクチン開発により乗り越えられる部分はあるだろう。しかし先程の『麻痺』してしまい結果『愚か』になった私達の意思というものが正しい判断ができなくなることは誰が否定できるのか。我等はもう元には戻れない。何かを捨てざるを得ないのだ。
 全ては今更遅いのだ。民主主義などクソくらえ、アメリカの狼狽を見よ。反グローバリズム、非独裁、アンチ・テロ。すると後には何が残る?
 北は核を持ち続け、大陸は領土拡張の野心を隠さず、南は反日。もうこっちを向かないでくれ。
 格差?日本なんかマシな方だ。生産性?無駄な仕事が多すぎるからだ。学術会議?学問の自由のどこが損なわれた。桜を見る会?呼ばれれば嬉しそうに行くくせに。
 僕は3・11で被災していない。コロナにもまだ罹っていない。
 自分で考える癖は前から持っている。
 保守派を吹聴しているが、人からは自由に好き勝手しているようにしか見られない。 
 僕は分裂している。
 誰が何を考えようとそれは勝手だが、想像を超えた災害や疫病の前で最後に頼るのは国家しかないことがはっきりした。
 そしてそれを守るために大好きなものを捨てられるか。例えばこのヨットを。
 我等を受け入れてくれた湾内は、鏡のように静かなのだが。

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夏の終わりのヨット・レース

2020 SEP 7 0:00:05 am by 西 牟呂雄

 結局この夏は全然海で遊べなかった。自粛と言えば自粛なのだが、感染者が200~300人出ている最中に東京から行くのが憚られたのが大きい。どうしても港が見たくなって入口までドライブして船をみないで帰ったりした。
 それが夏のドン詰まりにレースがあって、我が愛艇はボランタリーに本部船(実行委員長が乗船しスタート支持やゴール着順を判定する船)をやることとなったのでお手伝いに行った。勿論日帰り・泊まりなし・酒ナシ。
 スタッフは随分前からコース設定、マーク手配、帆走指示書の作成・公示、などでずっと忙しかった。僕はひと夏棒にふったのでミソっかすなのだが、一度も乗らずに年を重ねる罪悪感に抗しきれず朝早くからポートを目指した。
 当日のスタート予定は10時。着いて直ぐに出港の運びとなった。快晴・微風で海は静かに凪いでいた。

 コースは3角形のルートでターンする所とスタート・ゴールにマークを打つ、黄色の大きな風船のようなもので、本部艇はそこにいて現在レース実行中である旗(オレンジ)を上げる。そして大会会長が当日の風を見て、コースの時計回りか反時計回りかを判断してこれも旗で知らせる。その間、エントリーしていた船が本部船を回って参加人数を知らせチェック・インする。人数によってレーテイングが変わるからだ。
 タイム・キーパーが時計を見ながら「5分前まであと1分・・30秒・20秒・10秒・9・8」とカウントダウンしてキッカリ5分前に予告信号(音響 短音1声、掲揚)、4分前準備信号(音響 短音1声、掲揚)。
 この頃になるとスタートラインで各艇が風向きからポジション取りの駆け引きは始まってまるでクジラが群れているように海面が慌しくなり、スキッパーの怒鳴り声が飛び交う。1分前(準備信号旗降下 音響 長音1声)、5・4・3・2・1・スタート(予告信号旗降下 音響 短音 1声)、さあ、始まった。

スタート

 フライングもなくきれいなスタートだ。やや上り風を受けた船がグーッとヒールしながら出て行った。本部艇からはラインをオーバーした船にリコールをしたり、場合によっては再スタートをしなければならないため緊張はするがきょうは問題ない。
 遠くに行ってしまうと横一線にしか見えないのでレースの様子は分からないが、大分バラけているので早くも戦いは佳境に入ったようだ。
 10時スタートで最終フィニッシュは15時半。レースの無事を祈るばかりだ。
 本部艇は早々とゴール・ラインを作るために、アンカーを引き上げマークの反対側に移動した。普段はここで「さぁビールでも」となるのだが、大会会長・レース実行委員長も乗船しているので控えて釣竿を出したりお弁当を食べた。
 すると面白いことにカモメが1羽近くに来て着水した。こっちを見ている。こいつはお弁当を食べているのを見ておこぼれを待っているのだろうか。試しに海老の尻尾を投げて見るとオォ!パタパタ水面を蹴って食べた。シャケの皮は、これも食べた、それも潜って。
 そうこうしていると本部(陸上)から連絡が入る。東京湾の方から参加している船がリタイアしたらしい。エンジンの調子が悪いので帰港できないかもしれないので、というのだが。レース中は帆走なのでエンジンの調子が悪いのがなぜわかったのか不思議だ。
 ちょうど水平線のあたりに第二マークに向かってスピンを上げている船団が見える。あれはレース中盤を走っている連中だな。今日は各マークにプレス・ボートがレスキューも兼ねて張り付いてターンした船を連絡してくれる。そしてドローンも飛ばして動画も撮影、通信機器の進化は目覚しい。しばらくはこの強い日差しの下、昼寝かな・・・。
 大島は見えたが富士山はモヤって見えない。
 ところで本命は精鋭の乗ったレース艇が数杯。中には快速カタマランがいてこいつは速い。スタート後3時間を過ぎた頃から第二マークをターンしたという連絡が入りだした。
 すると江ノ島方面から続々と船影が見えてくる。あのコースの真上りではあと2回タックを入れないとゴールできそうもないな。それぞれスキッパーの判断により沖の方から回るグループと半島側に突っ切ってきてワン・タックで勝負する船に別れた。このあたり、風だけではなく潮の流れも考慮して作戦を変えているようだ。
 プレス・ボートから『まだ1艇ターンしていないがリタイアの連絡はないか』の連絡が入りヒヤリとする。この船はその後僕達の本部艇に挨拶に来て『マークを発見できなかった』と言ってリタイヤしたが、チャートの読み違いなのか。更に『最後の船〇〇は時間内にはフィニッシュできそうもない』との連絡も入る。
 その頃はファースト・ボートがハッキリしてきた。スタートの時のように近づいてくると〇時〇〇分5・6・7と読み上げていきラインを通過した時点で音響・短音でゴールを記録する。ところがマズいことに日が傾きだした逆光の上、船体がこちら側に傾くため船名とセール・ナンバーが読みにくいのなんの。双眼鏡まで出して何とか読むのだが、固まって来られると慌てる。

 本命がフィニッシュし、後続にデッドヒートを繰り広げる塊が入って来る、僅か7秒だった。3時間以上波や風と戦ってきて僅か数秒の差でフィニッシュ。彼らはこの数秒に知恵を絞り戦術を練り技を競ったのだ。すべての参加者の意思が結晶した結果は、順位とは別に讃えられてしかるべきである。
 そんな時にプレス・ボートが『〇〇は時間内のフィニッシュをあきらめ帰港することの連絡あり』と伝えて来た。〇〇はおじいさんが二人のダブル・ハンドで参加していたが、参加そのものを楽しんでいたに違いない。それではこちらも撤収しようか。

 すると最後に僕がドジを踏む。アンカーが上がらないので引き上げに行ったのだが岩を噛んだのだろう、水深40m位なのだがどうしても上がらない。ロープを足で踏んで腕に巻きつけようとしたらどうした弾みか足に絡まって転んだ。スキッパーが咄嗟に後進をかけてニュートラルにしてくれて助かったが、下手すると骨折やら落水やらになるところで、あわやの事態にド顰蹙もの。深い反省とともに夏が終わった。

 夏の海、また来年な!

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矢も楯もたまらず

2020 AUG 16 8:08:51 am by 西 牟呂雄

 矢で攻めても盾で防いでも勢いを止めることができない、それでどうにもならない気分を表題のようにあらわすのだが、まさにそれだ。梅雨は明けた。いい感じの南風(はえのかぜ)。 
 いつもであれば伊豆の島か保田・伊東、あるいは熱海・下田の花火大会を見にナイト・セーリングで行く所をこのコロナのおかげで花火大会は中止、島からは露骨に『来るな』のお達しが出ている。島は確かにクラスターでも発生したら大変だし、花火もねぇ。
 クルージングは三密でもなんでもないが、問題は着いてからガブ飲みして雑魚寝になるとさすがにヤバい。
 それでも夏になったら海は見たいし風も浴びたい。油壺から相模湾に出た時の伊豆大島や富士山が見たい、ましてあの長い梅雨が明けたんだから尚のこと。
 で、たまらなくなって一人車を飛ばした。
 但し、今回はクルージングには参加しない旨を連絡していた。毎日400人も感染者が発表されている東京からの参加は、メンバーが怯えるかもしれないと配慮したからだ。問題は泥酔した僕が大声で歌ったり踊ったりする可能性が排除できない。おまけに他のメンバーは神奈川だ。やっぱりハーバーの桟橋にまで行くのは遠慮するか。
 と思っていたら高速を降りて半島に向かう一本道は渋滞しているではないか。近場ならいいかと一斉に繰り出したのか、このあたりは帰省でもGo Toでもなかろうに(夏休み期間ではあるが)。見れば品川・多摩・埼玉のナンバーがウジャウジャ。仕方がない、半島の先の島にでも渡ってみるかとノロノロ進む。やっと大橋を越えるころには午後の日が傾きかけた頃だった。ところでこの大橋は以前は通行料を取っていたが今年の4月から元が取れてタダになった。
 遊覧船発着所で車を降りたらもうクラーッとするほどの熱さ。そして強い風が吹いていたが、体温のような風で全くさわやかさがない。ほうほうの体で車に飛び乗り鄙びたビーチに行ってみた。

人のいない浜辺

 なんだこれは。
 「コロナ対策のため市内全域で海水浴場は閉鎖します」
 こんなところは三密にもならないが・・・。
 色んなことを考えた。
 この熱さでは甲板に寝転がることもできない、車だからビーチでビールも飲めない(そもそも売っていない)、沖には強風による白波が立っている、見渡してもヨットは全然出ていない、船に触るぐらいはしたいなぁ、そういえばこの前のバーベキューのお金払ってなかった、コロナの奴め早く消えて亡くなれ、オレは1人でこんなところで何やってんだ、せめて反対側の湾の入口まで行こうか、相変わらず車は多いから帰りも渋滞だな・・・・。
 矢も楯もたまらなくなって車を回した。
 夕日スポットで相模湾を眺める。相変わらずヨットは一艘も見当たらない。夕焼けには早いが沈み始めた光に向かって思わずつぶやく。
「おーい、僕はここだよ」

 この日、淋しくはないが孤独だった。
 案の定渋滞にはまって3時間もかかって帰ったが、この車列は皆僕と同じで海を見るだけに来たのだろうか。

今日は式根か新島か(のはずだった)

2019 AUG 16 9:09:19 am by 西 牟呂雄

 今年のクルーズは島伝いに新島まで。航海計画を立てて準備に勤しんだ。
 それが8号・9号が行った思いきや、巨大10号台風のおかげでどうやらウネリは結構ある上に、計画日程には雨マーク。いつものことではあるが、夏のクルージングは天気との戦いだ。
 8月10日22時。熱い日差しを避けてオーバー・ナイト・クルーズに出航するはずが、集合して天気図を見ながらアーダコーダと議論白熱。いつものことだが強行派と慎重派に分かれてスキッパーの判断を仰ぐ。冷静なスキッパーは帰りの天気まで読み込んで航海を中止した!何よりも30ノットの風予想を危険と判断したのだ。
 その際、航海を「スキップ」する権利を擁しているから「スキッパー」と言うのだ、という説が出された。船と運命を共にする艇長である。実際に戦時中はともかく、近くはタンカーのアメリカ人船長が関門海峡で座礁し、ピストル自殺するという話が有名である。
 でもって、この時点では油壺の風は微風。星は綺麗に見えていた。当然大宴会になった。

出港直前 油壺艦隊の精鋭

 11日快晴。風微風。そろそろ油壷湾には漁船が入り出した。ここは避難港に指定されているので仕方がない。ただ入り江一杯に入られてしまうと出港も入港もできなくなる。
 僚船はレースにエントリーしていて、決行の知らせがあったので出ていく。そうすると我々ものんびりしているのもナンだ、ということでレースを見に行くことにした。
 油壷を出ると、相模湾に面した荒井浜の横が磯場になっていて、そこに打ち寄せる波の飛沫(しぶき)が結構な高さで驚いた。この微風にどうしたことか。

こんな感じ

 その謎は直ぐに解けた。いつもは見えている大島のあたりから千葉方面まで水平線上にビッシリと積乱雲がつながっていて、まるで前線ができているようだ。更に恐ろしいことに大島や湘南の江の島が水平線に溶け込んでしまう。台風のうねりが、本体はまだ小笠原の南にもかかわらず押し寄せているのだ。3m位の高さの大きなうねりが長い波長で来るために、ヨットの目線では波の間に入ると周りが見えなかったのだ。磯に打ち付けられた飛沫が高かった訳だ。
 レースは風が無くて苦労していた。
 港への帰りに疑似餌を流しているとシイラがかかった。カツオかと思ったが引いたらグリーンに光ってガッカリ。すぐにリリースしてやった、もう来るなよ。

 ところで、港に帰ってきて天気図をみると台風はでかくなっている。やはりスキッパーの判断は正しく、南水平線上に沸き上がっていた雲は台風の最も外側の雲だったのである。
 12日。やや曇り、のち通り雨、快晴。こういうときはどうすればいいのだろう。スキッパーは『好きにしろ』と匙を投げ、僕達クルーは朝からビールを始めた。
 こうして夏は過ぎて行き、僕達は年をとり、この巨大台風をやり過ごすと風が変わってしまう、秋の風になってしまうのだ。
 いつの間にかビールは焼酎になり、岡にいるのと変わらない酔っ払いができあがっていた。
 
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風と波と潮と

2019 MAY 5 7:07:20 am by 西 牟呂雄

 船に乗るという行為は、果たして行先がない場合は何の意味もないのだろうか。『フライング・ダッチマン』という幽霊船の伝説はワグナーのオペラにまでなって人口に膾炙しているが、永遠に港に入らない航海があったら乗る人は・・・。
 阿川弘之のクルーズエッセイに(大金持ちの未亡人かと思われる)乗船したきりズーッと乗り続けて降りない人の話を読んだ覚えがあるが、そういう人が何かの拍子に亡くなったら水葬してもらえるかな、タダで。
 僕は島影も海岸線も見えないクルージングは、ヨットで最長3昼夜までだ。それでも陸が見えた時はホッとした気分になった。八丈島への航海では御蔵島と八丈島の間でしばらく島影はなく、黒潮の北上に押されて時間はけっこうかかるが距離は約75kmでしかない。

 連休の海は、いつもナラエの(北東の)凄い風が吹くので迷ったが、久しぶりに海に行った。雨である。三々五々とクルーが集まって来るが船を下ろして舫った時点でこの日は出ないことに決定。夜はゴーンと冷えてガタガタしながら寝た。

あっ 雪が

 翌日、寒い。
 防寒具を着込んだ他の僚船が次々と出港するのでもう後に引けなくなった。
 で、油壷湾をでると、真っ白に雪化粧した富士山までクッキリと見えた。夕べ降雪があったのだ。
 風はと言えば南の微風だ、しめたっと針路を東に向けて城ケ島大橋をくぐる。
 ところが東京湾に入った途端に天気は一変した。おそらく低気圧が抜けてしまったのだろう、白波が立つほどの北東の風に変わった。
 貨物船は10連休も関係ないからデカい船も通る。意外と速い上にウェーキもきつい。バシャバシャと被りながら南総の港を目指した。
 横浜の方からけっこうヨットが上って来る。急がないと船が着けられないぞ。
 浮桟橋の船溜りに、あー寒かった、と舫って一服していたら40フィートくらいのデカい奴が入り込んで来た。オジイちゃんが3人で操船していたが港の奥まで行ってターンしてきた。それが結構なスロットルでスーッと向かい側のプレジャー・ボートに寄って行ったかと思ったら、そのままの勢いでダーンと当てた、何だあれは。一人がスターンの方に駆けよるのだが、謝るのが先だろう。当てられた方は行き足が止まらずその前の船にも突っ込みそうになったが止まった。慌てた慌てた。
 ところがその当てた方はそのままアスターンをかけて、クルリと向きを変えるとまた港の奥の方にウロウロし出した。あれ、まさか側に来て横抱きさせてくれなんて言われたらイヤだぜ、と見ていると錨を下ろして停泊するではないか、何だコイツ等。
 ボートが向かって、何かの話がついたようだった。そしてその船は出て行く。どうなってんだ。保険で修理させるだろうが、出際にペコペコするぐらいでいいのか。

 夜、近くのスーパーでその日に釣れたような鰯や鯖を買ってきて船の上で焼いて食べた。昼間見た事故の話になったのだが、あの船は(無論名前を見た)今後南総・相模湾・伊豆七島のどこの港でも相手にされないだろう、という結論になった。こういう噂は足が速い。例えば

山崎豊子さんの取材力


 すると(まぁ入港はできるにしても)その港では他の船の冷たい視線を浴びるはずだ。海を愛する人間だったら耐えられないだろうに、あいつ等は平気かな。

 その晩、昔港にいた海にしか生きられない、岡では生きていけないオッサンの思い出話に花が咲いた。

海の上の人生 ホントかよ

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海の魂鎮め

2018 JUL 24 23:23:46 pm by 西 牟呂雄

古色蒼然

 

 東大の三崎臨海実験場という施設が油壷湾の入り口にある。
 明治19年と生物研究施設としては早い時期にスタートし、明治30年に現在のの地に移って来た。この歴史的な建造物は昭和11年、関東大震災で被害を受け建設された。
 敗戦後に米軍に接収されていたこともある。
 この本館が老朽化し取り壊しになる。仕方がない事だがもう何十年も慣れ親しんだランドマークが取り壊されるのはこちらが年をとった証左だな。
 また、ここは戦国時代の三浦氏の居城があった所で、三浦氏は鎌倉時代から何度か再興したが北条早雲によってこの地で滅亡。一族郎党の血で赤黒く油を流したように見えたので油壺といわれた(らしい)。そのせいか亡霊が出るという噂はかなり古くからあった。

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 こちらはその対岸に当たるが、写真左のマンションでさる鬼畜が外人女性を殺害し、右側の海岸奥の洞窟にコンクリートで埋めた。
 また隣の小網代に外国人に殺された女性の遺体が上がったこともある。
 この美しい入り江で何てことをしてくれる。

 その昔、もう少し南の方で学習院大学のヨットが遭難して、麻生財務大臣のすぐ下の弟さん他5名のクルーも亡くなっている。
 こういう話は日本中の海にはいくらでもあって、だから祟るだの縁起が悪いだのとは言わない。海坊主はいるが怨霊は海にはいない、そもそも似合わない。海のスケールが亡霊を圧倒するのか。

 その大きな海でマイクロ・プラスチックのゴミ問題が今頃言われ出したが、沖合でペットボトルやコンビニ袋が漂っているのは腹立たしい。海を汚す不届きものは海に呑まれてしまえ。
 記録的熱さは海の上も同じだが、幸い今日は風が強い。
 さあ、ジブを張った。風上に一旦舵を切ってメインセールを上げるぞ。

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下田へ 航海(後悔)先に立たず

2018 JUL 11 19:19:56 pm by 西 牟呂雄

 本当はあまり面白くないネタである。
 下田へのヨット航海の話(のはず)だ。私はヤボ用があって帰りのクルーとして乗り込むつもりで週末に陸路下田に向かうことにしていた。
 台風を心配したが早い時期に九州北部から日本海に抜けたので、まあ良かろうと計画通りにヨットは出港した。
 ところが、その台風の影響は相模湾に残り続けおまけに風は強い。航海計画そのものは充分に余裕をみていたが、スキッパーが出た途端に向け先を変更し『一発で下田まではキツいようなの船を伊東に入港しようかと相談している』とのメールがすぐ入り、夜になると『途中の海上で雨に降られたので結局真鶴港に停泊している。あしたには下田に回航して待っている』との連絡だった。私は別の真鶴でも構わなかったのだが明朝判断しよう。
 すでに梅雨は明けていて夏だ。ご承知の通り入道雲がムクムクと頭をもたげてくる季節、この入道雲は傍目には輝かんばかりの夏の風物だ。見た目には。
 丘から見ている分にはいいが、海上でその下あたりを突っ切るのは実は大変で、風は変わるわドシャ降りになるわ。

 そして移動日に自宅から小田原まで行き熱海で特急踊り子に乗り換える。熱海では晴れているが相模湾は霞んでいて、というか例の入道雲がグロテスクな姿を見せていてイヤな予感がした。
 船からは『真鶴出港。本日天気晴朗なれども波高し』と日本海海戦のようなメールは来ていた。
 しかし熱海を出て伊東を経由したあたりから、はっきり言って雨が降り出したのだ。これはマズい。航路から言ってメールは入るはずだから携帯を握り締めながら私は焦った。即ちヤル気を失ったクルーが下田を目指すのを諦める可能性が高い。しかもこの荒れようでは(白波が立っている)安全を確保するためもあって私の都合など問題外でスキッパーは航海を中止できる。それに対して異議は唱えられないルールになっているし、似たような事は何度も起きている。直近は神津島であった。
 

神々が集った島 神津島航海記 後編


 また、熱海港では宴会に参加していた者が出港時間に行方不明になった。その際には荷物積んだまま人は置いて行ったこともある(当人は翌日フェリーで大島に合流)。
 そして伊豆急下田駅に着く頃に『風雨収まらず下田は諦める。悪しからず』と連絡が入った。
 こういうのを仕方ないと言うのだ。せめて稲取にでも入ってくれれば今から移動できるがメールには書いて無い。大島の岡田港かもしれない。恐らく南下するには風が悪すぎたのだろう。実際には直ぐに帰港を決めていて私に行くフリをしていた疑いはあるものの、諦めて旧知の温泉宿に連絡したら運よく泊まれた。

 すると西日本はとんでもないことになっているではないか、気の毒に。
 風呂に浸かってツラツラ考えた。スキッパーの悩みも深かったはずで、おまけに波・雨・風に晒されたクルーの苦労は私が電車でイライラしたのとは比較にならない辛さである。ここでのんびりしている私は感謝こそすれ恨みがましい事を言ってはいけないのだ。各地で被害が広がりその救出に慌しい時に無謀なヨットの遭難などで世の中に迷惑をかけてはいけない。むしろ帰港は英断だ。
 宿は温泉ではあるが民宿よりもマシという侘しさ。湯舟も銭湯より狭いくらいで三人は入れないから足を延ばすことはできるが外は見えない。雨の音が聞こえるだけだった。

こんな感じ

 ところが次の日も雨。そうなるとすることもない。だが本来であれば船に乗っているはずなのですぐに帰るのもナンである。いい機会だからとメシ時に天気を睨みながら外に行き散歩がてらビーチに出た。下田は砂浜は少なく投宿先からは結構な距離だが歩いた。時折ハラハラと降って来る雨粒を受けながら波に足を浸した(ビーサンは宿で借りた)。
 今回このマヌケな顛末でも書いてお茶を濁すつもりだったが、それどころではなくなった。ニュースでは大雨の被害は川の氾濫と土砂崩れで犠牲者も。停電・断水・浸水の大災害になっている。
 降り始めからの雨量が1000mmとは1mもの水量があるエリアに集中したことになる、おっそろしい。陸地に降るからあんな悲劇が起こる、海に降ってりゃどうってことないものを。
 そして、また温泉でふやけていると『数十年に一度の・・』と気象庁予報課長が必至に訴えたにもかかわらず想像を絶する被害が続々と報道されだした。こうしている場合じゃない、と酒も何も止めて自分だったらどうするかを考えてみた。
 さしせまった重大危機からサバイヴするにはまず『これなら助かる』などと考えずに最小限の物を掴んで逃げる事なのだろう、携帯・お金。考え出したらキリがない。
 喜寿庵という山荘で週末過ごす事が多いが、そこは断崖の上に立っているから土砂崩れに遭ったら押し潰されるより流れ落ちていく。逃げだす所はどこだ。
 自宅の場合は広域避難場所が直ぐ近くだが、あそこは原っぱだから雨具・・・危機に当たってはそんな余裕はないではないか。
 事務所は・・・・。

 いてもたってもいられずに東京に舞い戻ったが、目を覆う惨状に言葉も無い。自衛隊・消防・警察の不眠不休の努力に敬意を表するとともに、犠牲になられた方の冥福を祈るばかりである。
 一つだけ。洪水に見舞われた岡山県真備(まび)町の映像の中に『吉備真備(きびのまきび)公生誕の地』という看板が映り込んでいた。遣唐使として派遣され鑑真和上と帰国したあの吉備真備はアノあたりの出身だったのか。それにしては『まきび町』ではなくて『まび町』と読むのは何故かな。
 
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セールを上げろ!

2018 MAY 9 19:19:00 pm by 西 牟呂雄

 連休は風が悪くてセーリングには不向きだと言われている。結構寒いし。
 それがこの真夏日にもなろうという地球の狂い方に、今年はどうだろう、とハーバーに。

 ところで加山雄三の光進丸が焼けて沈んでしまった。会見で涙ぐんでいたが、あの気持ちは良く分かる。長年連れ添ったパートナーを失ったような悲しさと言っていた。
 しかしここだけの話。『オレがここに光進丸を泊めていれば観光資源にもなるだろう』との理屈で係留料を全然払ってない、という噂が根強かったけど。事実相模湾にいたときはそれに近かったという話だった。
 アノ手の有名人は周りがチヤホヤして多少我儘が効くため、地元の一部からは大っぴらに表には出ない話はある。かの慎太郎センセイも油壺では・・・。
 しかし光進丸は実に美しい船型で、間近でみると我々34フィート・クルーザーからは駆逐艦のような威圧感だったが見とれるほどだった。
 保険には入っているだろうが、あの規模の船をもう一回造る気力はあるだろうか。維持も大変だし。

回航されたレース艇

 久しぶりに会う我が愛艇は物凄い風の中でユラユラと漂っていた。
 何しろ予定されていたレースが中止になり、参加するはずの船はみんな待機状態。クルー達はヒマを持て余してガバガバとビールを空けて焼酎までやっている。
 着いたのは昼前だったがみんなもう酔っ払っていて晩飯の相談をしていた。
 まぁ何だかんだいっても追いかけるように僕も飲みだしたのだが出遅れ感は否めず、ぼんやりと海を見ながらロープを手慰みに結んだりほどいたりした。
 丁度陸揚げする船を見上げて改めて、丸みを帯びたヨットのボディは色っぽい、だから女性名詞なのかと思った。
 これはセクハラにはならんでしょうな、今時注意しないと・・・。

 ヨット愛好家の女性も多いが、皆さんなかなかお美しい。
 このハーバーで知り合ってゴール・インしたご夫婦もいらっしゃる。
 にもかかわらず僕の周りには浮いた話がまるでないのはどうしたことか、謎は深まるばかりである。

 そうこうしているうちに風は益々強くなり冷たくなっていった。
『これは明日も中止になるだろうな』
 誰かが口走ってしまい、これで歯止めを失った僕は本気モードで泡盛を飲みだした。

 オーナー仲間は先日10日程、ニュージーランドまで行き、オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ・カナダ・ロシア・日本の六か国クラブ対抗のレースをやってきた。
 映像を見せてもらったが各国参加者の年齢は高い。レースは3日間行われたが、毎晩の楽しそうなパーティーやピクニックといった催しが凝っている。日本チームが『炭坑節』で盆踊りをやると各国全員が輪になって踊っていた。『コール・マイニング・ソング』と訳して大受けとか。
 ホーム・ステイしたが、全体的にボランティア精神というか運営にかける情熱が感じられて、こういうのをヨット精神というのではなかろうかと思わされた。しかしこれ、日本の番が来たときはどうするのだろう。あんな家に住んでるのはいない。
 次回は二年後にナホトカ。今回ロシア艇は接触して失格だったからがんばるだろう。ナホトカでヨット・レースってイメージはないのだが。

 夕日が沈んでいく。これも贅沢な時間と言えなくもない。
 ヨーシ、オレも気高いヨット・マンに生まれ変わりあしたはどんなに風が強くてもセールを上げるぞ!

 (結果はやはりレース中止プラス二日酔いだったとさ。今年は未だにスピンはおろかメイン・セールを見ていない、ダメだこりゃ。)

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舵をとる 風にのる 

2017 DEC 23 19:19:20 pm by 西 牟呂雄

「どんな場合にも帆は風に逆らうことはできないが、吾々はただ風に従うことによって風に逆らうことが出来る。人間は無理を聞くかも知れないが自然は決してきかない」
 慶應義塾塾長、小泉信三がヨットについて遺した言葉である。けだし名言だ。
 小泉は昭和八年に45歳で塾長になったが、当時体育会は23部あった(現在は43部)。週に一度はその全ての練習を見回ったと言われているが、ヨット部の体育会加入は13年なので葉山の練習を見たのかどうかはよくわからない。
 しかし冒頭の表現はヨットの本質を鋭くとらえていて一流のスポーツ愛好家であることが良くわかる。
 天気予報の精度向上によって昔に比べれば風向きはある程度正確にわかる。更にヨットの熟練の乗り手は季節感や地形による癖を知っていて「この時期は~の風が吹く」などと言いならわす。
 ブルー・ウォーター派のようにロング・レグの航海を楽しむ人やレースに挑むチームと船によって色んな楽しみ方ができるのもいい。
 その昔は行き当たりばったりに出港して風の向きによって西に行くか東に行くか決める事が多かった。三浦岬の真西が伊東で真東が保田に当たる。普通はハーバーに連絡をして予約やらするのだが、適当に入港して台船に掴まったりした事もあった。

浮き桟橋から

 今年は個人的事情でロクに航海に出られなかったが、一年の安全への感謝と忘年会に行った。
 みんなでセッセと甲板やハルをピカピカに磨き上げ、充分に潮抜きをする。
 浮き桟橋に寝転んで覗き込んでいると、夏よりは透明度の高い海に小魚はセコセコ、ボラはユラユラと泳いでいた。水は冷たい。
 メリー・クリスマス
 じゃなくてハッピー・ホリディ
 冬至は22日だが日没は今月の頭より2分ほど遅く。
 シャンパン・ビール・焼酎

寒風は メリークリスマス と海渡り
       水鳥潜り ボラ飲み込んだか 

 もうこれからは風を切って上る航海は止めて、追い風にのって流れていたい。アッそれじゃヨットじゃないかな。

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夏本番 昭和は遠くなりにけり

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