君は今 駒形あたり 時鳥(ほととぎす)
2023 APR 8 22:22:16 pm by 西 牟呂雄

何といじらしい。尚且つせつないというか可愛らしいというか。
子規によって近代俳句が確立されるおよそ200年も前に発せられた句だが、瑞々しい語感は少しも古びていない。
さぞかし高貴な方の作品かと思いきや、作者は吉原の花魁である。花魁といってもそこらの場末の酌婦・夜鷹とは訳が違う。大江戸ワンダー・ランド吉原の三浦屋に代々伝わる大名跡の二代目高尾太夫の作である。
高尾太夫ともなれば、容姿端麗で教養高く書も良くするスーパー遊女。そこらのチンピラなど相手にもされないまさに高嶺の花と言えよう。かの二代目を寵愛したのは仙台伊達藩主、伊達家十九代綱宗公だった。
花魁は筋のいい情夫(いろ・贔屓筋のこと)には惚れたふり。提題の句は綱宗公に送ったとされる。
ところが、色事は奥が深い。このような美しい句を送っておいても心は違った。隅田川の楼船上にて公の勘気にふれ、吊り斬りに首を刎ねられた。すると後日、その首が日本橋川と隅田川の合流するところに骸が流れ着き。事情を知る人々は大いに同情し、社を建て「高尾大明神」を祀り手厚く葬った。
先日、人込みを避けて葉桜を楽しみながら大川端を散策していて、この高尾稲荷を見つけた。
ビルの一角に嵌め込まれるようにひっそりと佇んでいた。
場所は確かに日本橋川と隅田川の合流する豊海橋のほとりである。
どうやら以前は別のところだったのが、Bー29の無差別爆撃で社殿が燃えてしまいここに再建された。
その際、焼け跡を整地する際に地面を掘ったところ頭蓋骨が出て、これは本物だとご神体として安置した。まずほかに見られないケースである。
恐る恐る、小さな社を覗いたが、おそらく別の場所で大切にされているのだろう。よく見えなかった。
この伊達綱宗は仙台藩主として三代目なのだが、酒色に溺れてどうしようもない殿様とされている。どうやら、親族の政治介入や家臣団の対立で嫌気がさしておかしくなり、「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞を命じる」と21才で隠居させられた。おまけに幼い息子が家督を継いだことがのちの伊達騒動の遠因となるなど、ろくでもない殿様だったらしい。
しかしながら隠居後は風流人として和歌、書、蒔絵などを良くし、特に絵は狩野探幽に師事して優れたものを残した。
上記高尾太夫の惨殺も読本や芝居で広まった俗説だとか。実際には旗本の島田利直に身請けされ、死去した後は埼玉県坂戸の永源寺に葬られたというのだ。
すると、祭られている髑髏は一体誰なのか。
まさか何でもない土座衛門の骸骨ではあるまいな、と思いながらお賽銭を投げて鈴を鳴らした。
さて、天気もいいしこのまま浅草橋まで行って神田川の合流を観て行こうか、と歩き出したところこんなのがあった。影がはいってしまい見づらいが旧日銀の跡地の碑である。
かの渋沢栄一が近代資本主義の第一歩を踏み出した所かと、感慨深い。
桜は過ぎたが、新緑の中を散策するのにお勧めのコースです。
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生きすぎたるや二十三 八幡引けは取らるまい
2022 SEP 11 0:00:26 am by 西 牟呂雄

天下分け目の関ヶ原で東軍が勝利した後、大阪の陣までの間は、全国で大地震が起こり世の中は騒然としていた。慶長年間の江戸では、家康の天下普請で町中が埃を巻き上げている中で、ひときわ派手な拵えで闊歩する人足元締がいた。
異装の男伊達を看板に徒党を組んでは暴れまわる傾奇者(かぶきもの)。大鳥逸平、通り名を大鳥居の一兵衛と言った。するとそれに従うバカ共も大風嵐之助、天狗魔右衛門、風吹藪右衛門と調子に乗った名乗りを上げている。
武州下原の刀工に打たせた三尺八寸の厳物造太刀(いかものつくりのたち)には、その銘に「廿五まで生き過ぎたりや一兵衛」と刻んだ。いかにもヒマを持て余した都市の仇花の刹那的な心情が滲み出ている。25年の人生は長生きのし過ぎということか。せっかく手に入れた平和が退屈なのだろう。約半世紀後に現れる六方組と呼ばれる旗本奴の先駆けである。
最もこの時代の死生観は現代の我々とは違っていて当然だ。ましてやついちょっと前まで戦乱が続いていたのだ。平和な時代の今よりも命は遥かに軽い。となれば破れかぶれの潔さが分からんでもない。
大鳥逸平、もともとは幕臣本田信勝の草履取りだった。身持ちが悪く逃げ出したのちはなぜか佐渡の金山奉行かの大久保長安の元、大久保信濃の小者になりおおせたが長続きしない。弓・鉄砲・槍と武芸百般に通じる器用さも持ち合わせていた。まぁ喧嘩には強い。
江戸に出てきて人足元締めを稼業にするころには、今で言うチーマーとか族、半グレの頭として300人を超す配下を束ねていた。
ある時、旗本柴山正次が家僕を成敗した。するとこの奉公人の一味が柴山を切り殺すという事件を起こした。実際の下手人を詮議したところ、裏で糸を引いていたのは大鳥居一兵衛と知れた。ところが当の一兵衛は行方をくらまして見つからない。一計を案じた町奉行・内藤平左衛門は武蔵国多摩郡の高幡不動の春の縁日に合わせて相撲の興行を開く。すると相撲自慢の一兵衛は間抜けにも姿を現し、大捕り物の末に捕縛された。
当時のこと故、厳しい拷問を受けたが口を割らず、本多正信・土屋重成といった大物までが駆り出されたが、自白しないまま一党300人まとめて処刑される。享年25才。銘に彫り込んだ年齢で果てて見せた。
ところで、この『生きすぎたるや』という言い回しは当時の流行り言葉だったようである。
慶長九年、太閤秀吉没後の七回忌に執り行われた豊国臨時大祭礼の喧騒を描いた屏風が名古屋の徳川美術館に所蔵されている。その中に、ヨタ者同士が抜刀して対峙する喧嘩の場面がある。このもろ肌脱ぎの大兵の朱鞘には、金文字で『生きすぎたるや二十三 八幡引けは取らるまい』と書かれている。
先行きの見えない不安。どうにもならない焦燥感。目的も見えずすることもない。ただ人の集まるところでは弾けるように異装に凝っては男伊達を競って暴れる。
この破れかぶれ感、筆者も思い当たらないでもない。しかしながら齢古希に近づかんとする前期高齢者となってみれば、これ等の振る舞いはおろかの極みでありで、何が23だ25だ、どうせならお前達もう5年バカを続けてもいいんじゃないか、と言ってやりたい。
チンピラというのは目標も何もないから、喧嘩沙汰でもなければ退屈でヒマを持て余す。そのうちに相手にされなくなって気が付くともういけない。
まっ今でもそういう輩の種は尽きませんがね。そこから余程才能があればバサラ者になって・・・、もういいや。筆者も危ないところだった。
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逆転 江戸城総攻撃 後編
2021 SEP 27 0:00:26 am by 西 牟呂雄

勝海舟が帰った後、西郷はしばし目を閉じて思料していた。
『夕餉の支度が整いもした』
声がかかっても動かない。心配した側近の村田新八・中村半次郎らが傍らに来て聞いた。
『吉之助さぁ、どげしたとでごわすか』
西郷はその声に即されるよう、カッと目を開き大声を発した。
『夜襲で来もす!勝先生の最期の言葉で分かりもした。戦支度せい。こっちから行きもんそ』
そう言うと、飯椀にお茶をぶちかけ、グーッと一口で飲み込んでしまった。
夜襲は静かに迅速を以て成すべし。しかしながら元々翌日の総攻撃に興奮して酒まで飲んだ官軍は笑う者・歌う者・大声で話す者でごったがえしていた。そこへ各小隊長の「非常呼集ー!」の声がかかると、一瞬静寂が流れた。
大隊長の村田新八が訓示しようと壇上に登って各隊に対面したその刹那、「ドーン!」「ドーン!」「ドーン!」と立て続けに砲撃音の後、地響きとともに官軍本営に猛烈な火の手が上がった。
『しもた!一足おそか』
西郷が叫んだ時には次々と被弾し、全軍が浮足立つ。
西郷は薩摩人の気性を知り抜いている。劣勢に立つと人が変わったように腰砕けになることを。品川沖に停泊していた開陽丸以下、幕府艦隊の一斉砲撃である。開陽丸のクルップ砲の射程は4kmである。
後ろから不意打ちをされた格好で、西郷は直ちに指示した。
『半次郎!先手をとられっした。反撃すっとじゃ』
『心得っごわす。小銃隊!オイに続けー!』
半次郎は抜刀すると配下の小隊長を従え、未だに動きのない幕府側を見据えて進軍(というより切り込み)を開始した。既に戦場となっているのだ。
前衛が幕軍の防衛線に突っ込んでいく。こうなったら静かにも何もない。一斉に鬨の声を上げた。対する幕府歩兵隊のシャスポー銃が火を噴き、半次郎の左右を駆けていた薩摩藩士がなぎ倒された。しかしそれしきのことでは怯まない。
『チェストー!』と独特の声を上げて敵陣に殺到すると手当たり次第に切りつけた。
官軍の先鋒の多くは薩摩兵である。彼らの突進力は凄まじく、潮が引くように幕軍は後退していった。品川沖からの砲撃音は既に止んでいた。
江戸城に構えていた慶喜の元に次々に伝令が来る。
『ご注進ー!申し上げます。敵はいよいよ新橋にまで迫りつつありー!』
それを聞いた慶喜はニヤリと笑った。既に戦闘は3時間を超えている。
『よし。正面から来たな。高橋、遊撃隊を前進させよ。そして浜御殿の新徴組にもかからせよ』
高橋とは幕末三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)と謳われた幕臣で、槍(忍心流)の達人である。いわば将軍の親衛隊ともいえる洋式陸軍の遊撃隊を率いていた。新徴組は清川八郎が集めた浪士隊の分派で、庄内藩預かりの江戸の治安部隊。あの清川八郎が浪士隊上洛後に江戸に下向した際、一緒に帰ってきた連中で、この時に京都に残ったのが新撰組だ。慶喜は勝機と見て虎の子の精鋭部隊を投入し背水の陣を敷いたことになる。
『上様、どちらへ』
『これより桜田門を出て直接指揮を執る。各々覚悟致せ』
江戸城開闢以来、前代未聞の将軍出陣に一斉にほら貝が吹かれた。
官軍にしてみれば、正確な砲撃を撃ちこまれたために敵陣に突撃すると、途端に歩兵部隊の一列横隊一斉射撃を浴びせられ、その侵攻は止まった。と、同時に新徴組に側面を突かれ、不意打ちを喰った。
『こいはまずか、ええい退け、戻るッと。吉之助さぁ守らんな』
半次郎は官軍本営に駆け込んだ。
『吉之助さぁ、思いの外の押されっごわす。逃げったもんせ。オイは殿(しんがり)を務め、捨てがまりやいもす』
『半次郎。背後からも会津と桑名が寄せちょう。武州を西に上って土佐の迅衝隊と合流せい。ステがまりィ?くれぐれも早まんな』
捨てがまり。古くから薩摩に伝わる退却の際の戦法である。十名程の決死隊が全滅するまで追っ手を食い止め、その隙に本隊が進むという十死零生の凄まじい戦法で、有名なのは関ケ原の家康本陣に切り込んだ後の撤退だ。その際は300人が80人に減って薩摩にたどり着く。
半次郎の目の前に背の高い新徴組隊士が突っ込んできた。咄嗟に身を翻らせトンボの構えで対峙すると、敵は正眼に構えた。こんな所で切り合いをしている場合ではないが、ただならぬ殺気に思いきり打ち込んだが手ごたえがない。ヒラリと体を交わされ逆に胸元目がけての電光の突きが飛んできてそれを払った。腕が立つ、半次郎の血が騒いだ。
『おはん、かなりの腕と見た。尋常に勝負したかが今はちょっ手が離せん。あいすまんこつがここは一旦預けったもんせ。大将ば守らんならん。オイは薩摩藩士、中村半次郎ごわす。お名前聞かせたもんせ』
この火急の際に豪胆というかムシがいいというか、あまりの滑稽さに隊士もつい笑ってしまったようだった。
『新徴組、中沢琴』
『かたじけなか。これにてご免』
半次郎は駆けだしながら、今の甲高い声に引っかかるものを感じた。
「あれはおごじょではなかか」
中沢琴は新徴組に実態に在隊した美貌の女剣士だった。史実では新徴組の撤退に同行して庄内まで転戦、維新後は故郷の沼田に隠棲する。
西郷を囲みつつ官軍の大部隊が敗走しているうちに夜が明けつつあった。半次郎は次々に捨てがまりを指名する。
『弥助、隼人、十郎、五郎丸、信吾、小隊連れて捨てがまりじゃ』
『承知ごわす』
すべての薩摩武士はこの時のために胆力を練ったのであろう。嬉々として死地に赴く、笑みさえ浮かべて。
夜が明け切ってしまうと視界が効くようになる。幕軍歩兵部隊は当面の敵が退きつつあるので休みだしたところ、一人の高級指揮官が現れて叱咤激励し始めた。
『一合戦終わったつもりなら心得違いじゃ。朝敵の汚名を着たままですむと思うのか。覇権は関東にありと知らしめい』
各隊の指揮官が訝ってその声の先を見るや、飛び上がって土下座する。
『上様』
各々仰天して身構えるが、声の主である慶喜はサッサと歩を進めつつ言い放った。
『余に続け』
とんでもない事態になって全軍が慌てた。将軍は例のナポレオン三世から送られた洋装に身を固めている。総大将が護衛も付けずに行く後から勝海舟と山岡鉄舟が続く。「上様を先陣に立たすな!」と声を励ますと歩兵部隊は駆けだした。
慶喜がハッと身構えて右半身になり「エイッ」と右手を振り下ろした。グァッ、と断末魔の声がして、黒い影がのけぞって倒れた。慶喜、得意の手裏剣が官軍の残兵のとどめを刺したのだ。
『見よ、未だ戦い成就せず』
勝・山岡は真っ青になって歩兵隊を叱責した。
『馬鹿者!止めを刺さんかァ!』
一方その頃、板橋の中山道で対峙していた官軍と幕府軍の戦闘の火蓋が切られた。夜明けとともに『バタリオーン!アルト!』とフランス語の号令がかかる。
指揮を執るシャノワーヌ大尉に率いられ幕府・伝習隊が前進を開始した。シャノワーヌ大尉は幕府の招聘によりナポレオンⅢ世に派遣された軍事顧問団のリーダーで、後にフランスで陸軍大臣となる名将である。
対する官軍の中心は長州の奇兵隊だ。こちらも士気は高く退くことなどあり得ない。ガチンコの激突となった。だが一つ違う所がある。伝習隊には新設の砲兵隊があったのだ。当時の日本には砲兵戦術はまだなく、固定させてぶっ放すだけだった。それを指導し率いるのはシャノワーヌ大尉の盟友ブリュネ大尉、こちらも後にシャノワーヌ陸軍大臣の元で陸軍参謀総長となるエリートである。
ブリュネの指導は、初めは仰角45度で敵陣中央を砲撃し、次第に下げて前面近くを叩く。更に砲兵部隊を素早く前進させ、機動活用することによりダメージを拡大させるとともに、味方の歩兵の突撃には損傷を与えない、という近代用兵だ。そのためブリュネの部隊は重い青銅製四ポンド砲12門を運用する猛烈な訓練を受けていた。
前進の号令のすぐ後に、そのブリュネ大尉の砲が一斉に火を噴いた。轟音とともに奇兵隊は砕かれ吹っ飛んだ。その後4門3組が仰角を変えて縦横無尽の砲撃で、そこら中を焼き尽くす。
戦闘2時間、シャノワーヌ大尉は総大将の小栗に判断を仰いだ。
『コウヅケノスケサマ。ソウコウゲキデヨロシイデスカ』
『うむ。存分にかかれ』
伝習隊の銃剣突撃が始まった。奇兵隊も必死の防御をするが後方は砲撃により潰されてしまい、とても持ちこたえられるものではない。押されてさらに砲撃の餌食になっていく。幕軍の完勝であった。
江戸城本丸。集まった勝・山岡以下各方面の司令官・親藩大名、榎本海軍総裁等を前に慶喜は更なる命令を下した。依然洋装の軍服のままである。
『皆の者、よくやった。ご苦労であった』
『ははー』
『軍議である。さっさと面を上げよ。敗走した西郷や板垣はどうなった』
『いずれも相模まで下がっており、目下追討の追っ手を差し向けております』
答えたのは勝海舟であった。
『手ぬるい!遊撃隊も向かわせよ。合わせてあの土方に追い詰めさせるのじゃ。必ず二人の首を我が前にならべよ。榎本はおるか』
『釜次郎、御前に』
『官軍主力は関東に出払って居る。艦隊は伝習隊とともに再び大阪湾に移動し、都を制圧する。今度こそにわか官軍の化けの皮を剥いでやる。尚会津中将と桑名定敬、江戸の守りを固めよ』
『上様、下阪の指揮はだれが』
『うつけものー!余が自ら帝に拝謁し、朝敵の汚名を晴らすのじゃ。公家どもめ。こちらも寛永寺におわす輪王寺宮法親王に御動座いただき、菊と葵の旗を掲げて下阪する。錦旗何するものぞ』
官軍本隊はボロボロになり敗走。京都は主力が出払っている。開陽丸が大阪湾に着く頃には「幕軍優勢」の噂と共に日和見だった親藩は寝返って慶喜を先導するだろう。
このまま日本を割った戦を続けるか、はたまた寸止めにして妥協をするのか。
近代日本の夜明けは未だ遠く、行く末はそれぞれの胸先三寸にしか無いのだった。将軍慶喜・勝海舟・西郷隆盛の・・・明日はどっちだ!!!
おしまい
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逆転 江戸城総攻撃 前編
2021 SEP 24 0:00:06 am by 西 牟呂雄

鳥羽・伏見での動乱の後、急遽江戸に帰ってきた徳川慶喜に、満面の怒りを込めて対峙しているのは勝海舟である、
『上様!何たる不始末!恐れながらこの勝、情けなさに腹も切れませぬ』
『やかましい!』
凄まじい怒声に思わず顔を上げた。
『いいか、ここからが勝負じゃ。そんなに戦がしたければタダではすまぬということを思い知らせてやる。何のために幕府歩兵部隊を無傷で江戸に連れ帰ったと思うのじゃ。小栗上野介を呼べ。そしてそちは榎本の艦隊を品川沖に集結させろ。それからエゲレスのパークスとメリケンのハリスに話をして、今後の商いをエサに中立を約束させよ。覇権は関東に有り』
勝は面食らった。意気消沈しているかと思った将軍慶喜は鬼の形相で言い放ったのだ。
『恐れながら。無傷の歩兵部隊とおっしゃいましたが、なぜ大阪城で籠城なさらなかったのでございましょうや』
『うつけ者!籠城すれば成程戦には負けないであろう。しかしどうする。その後上洛し御所に攻め込むのか。長州風情ではあるまいに、帝の庭先で暴れるつもりか』
『重ねて恐れながら。大阪城が炎上しても最後の一兵まで戦う、と仰せと聞きました』
『時間稼ぎじゃ。この江戸に先回りされたら我が方は後ろ盾を失う。薩長を上方に釘付けにするための方便に過ぎぬ。城受け取りはわが従兄弟、尾張慶勝。意は通じておる』
『恐れ入りましてござります』
『官軍は東海道・甲州街道・中山道を戦闘もなしに意気揚々と来るであろう。江戸府内に入る前に海と陸ですり潰してくれる。おォ、安房守(勝の事)。そこもと敵将西郷と親しかろう』
『ははー』
『山岡でも使って三田の薩摩屋敷までおびき寄せろ』
『といいますと』
『浜御殿(現在の浜離宮公園)から側面攻撃をかける。後ろからは品川沖に停泊させた榎本の幕府艦隊から砲撃する。その間、敵の敗走に備えて海路にて会津・桑名の精兵を移送し挟み撃ちにせよ。ただし外国人の居留する横浜は避ける』
『甲州街道・中山道からも押してきておりますが、いかがいたしましょう』
『甲州の方は街道沿いの諸隊をまとめ上げて甲府にて迎え撃て。官軍本隊はあくまで東海道を来る』
『そちらの指揮は』
『食い止めて膠着状態にしておけばいい。そうだな・・・。多摩か・・・・新選組を使え』
『局長の近藤は負傷しておりますが』
『副長の薄気味悪い男がいるじゃろう。確か多摩出身の』
『土方歳三でしょうや』
『そいつじゃ。そ奴にやらせよ。地の利にも明るかろう』
『中山道方面は』
『伝習歩兵隊四個大隊を小栗に指揮させ板橋にて迎え撃つ』
『すると品川・東海道筋は誰が指揮を執られますか』
ここで将軍慶喜はニヤリと不敵な笑みを浮かべた
『余、自ら成敗してくれる』
勝は内心とんでもないことになったと慌てた。実は京都で王政復古のクーデターまがいが起こって将軍を排除するとは思ってもみなかったのだ。西郷の野郎、本性をむき出しにしやがったな。本音を言えば国を割るような戦はしたくない。そのための大政奉還だったのをブチこわしやがった。上様も気が変わりやすいとは言えあれは本気だ。乗せると手がつけられねえから一戦交えなければ収まらないだろう。それにしても将軍自ら指揮を執るなど二代将軍秀忠公の大阪の陣以来絶えてなかったのだ。
取り合えず小栗と土方を呼んだ。どちらも見るのも嫌な相手である。ただし身分が違い過ぎるので同席させられない。従って同じ話を二度もしなければならないのにうんざりさせられた。ちなみにこの日、勝は幕軍の大参謀という地位を与えられていた。
呼び出された小栗・土方の二人は対照的な対応を見せた。小栗は三河以来の譜代の名門らしく厳かに言った。
『誠に良い死に場所を仰せつかまつり恐悦至極。必ずやその官軍を殲滅し、敵将の首を上様にご覧に入れて見せます』
と、慶喜に拝謁した。
土方の方は
『甲府の城の取り合いじゃ勝っても負けても犠牲が多い。取ったところで知れたもの。攻めて来るのは土佐の乾退助が率いる迅衝隊と聞き及びます。甲州街道は山間をうねるように走って小仏峠を下る。だだっ広い甲府の盆地でやりあうより狭い街道沿いでしつこく襲撃してやれば敵は細る一方で、武蔵の国に入る頃にゃ擦り減っているでしょう。そこを一気に潰します。ついては八王子の千人同心を手前の配下にお加えください。奴等は元はと言えば旧武田の遺臣達ですから今でも行き来があって街道を知り尽くしてます。そうですねえ、まず猿橋で、次は犬目。小仏峠でも仕掛けますかな、ふふふ』
そう言うと笑みを浮かべてさっさと帰った。なるほど上様が薄気味悪いというのも尤もだと気分が悪くなった。
さて西郷をおびき出すと言っても果たして乗ってくるのか。思案した挙句に江戸城大奥にいる天璋院の文と自筆の添え状を持たせて山岡鉄舟を官軍本営に行かせることとした。クソ度胸がなければつとまらない。念のためではあるが、江戸で散々火付け打ち壊しで暴れていた薩摩人、益満休之助を同行させた。自筆の添え状には『江戸開城につき相談の義これあり』とだけしたためている。
官軍は既に駿府に進んで来ていた。
そこへ「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」との大音声を発っして馬上の武士が乗り込んできた。、兵士たちは今にも切りかかりそうであったが、先導する益満休之助を見て踏み止まる。益満は「西郷大参謀にお目通りを」と案内を請い面会が許された。西郷は江戸城引き渡し・将軍慶喜は備前藩に預ける、といった条件を出すとともに勝との面談は飲んだ。策士・勝の術中にはまった。
かくして三田の薩摩藩邸で面談が成ったのである。山岡も同席している。西郷の後ろには村田新八・中村半次郎(のちの桐野利秋、この時点では人切り半次郎である)が控える。
『勝先生、お久しぶりでごわいもす』
『いや西郷さん、わざわざすまねェ』
『さて、いかな御用向きごわすか』
『まぁ、な。例の小御所会議じゃだいぶドスを効かせたらしいですな』
『おいは公家どんの議は好かんごわして』
『煮え切らない連中に「短刀一本でカタがつく」と脅しあげたと聞きましたが。まあいいや。しかしいきなり政りごとをもぎとるのも荒っぽかあねえでんしょうが』
『そいならなして慶喜公は幕府軍を上洛させようとしもした』
『ありゃ呼ばれたんで行っただけですぜ。それをいきなり発砲したのはお前さんの薩摩兵だそうじゃねえですか』
『錦旗に向って進軍されたら守らにゃ仕方あいもはん』
『さてさて、山岡に寄越したあの条件はひどすぎる。飲めなきゃ江戸を焼き払うってんですか』
『そちら次第ごわす』
『なあ、西郷さん。日本の中でいがみあってるご時世じゃねえのはお互い承知でしょう』
『勝先生、先生は油断ならんお人ゆえ、そのまま伺ってはこっちがあぶのうごわす』
『策も何も、あんなに上様を煽っちゃオレもどうしようもねぇ。こうしている間にも開陽丸は目と鼻の先に錨を下ろしてるんですぜ』
『脅すつもりごわすか。帝に弓を引かるっと』
『そんな気はさらさらねえよ。脅すつもりならとっくにこの山岡が抜きますぜ・・・・マッよーく分かった。この足で上様にかけあってくらぁ』
『山岡さあが抜くならば、ここにいる半次郎がだまっておいもはん。いずれんせよ、そいは宣しく頼みもす』
『お互い達者でな』
『勝先生もくれぐれも』
『今年の春は夜がやけに蒸していけねえ、寝冷えしねえように』
互いに暫く無言で見つめ合った。
甲州街道ではしきりに土方のゲリラ戦が展開されていた。何しろ勝沼宿を過ぎると狭い山間の街道のため、総勢千人近くの迅衝隊は長く伸び切ってしまう。編成は15小隊・砲隊・本営・病院・鉄砲隊・輜重隊と近代的な軍である。街道は整備されておらず進軍は平地の倍はかかった。
なお、乾退助は甲斐入国に当たって、先祖である武田の旧臣、板垣信方(武田四天王の一人)の姓に改め、板垣退助となっていた。
土方は配下の小隊を猟師道を使って山中に忍ばせ、しきりにゲリラ攻撃を仕掛けていた。それも鉄砲を打ちかけると一斉に引き上げて深追いしない。初狩(はつかり)では先頭で例の「宮さん宮さん」のメロディーを奏でる隊列を崩し鉄砲隊を粉砕。猿橋では最後尾の兵糧部隊を谷底に葬った。そして犬目(いぬめ)宿で宿営する迅衝隊に夜襲をかける。この時は新選組を率いて自ら切り込み『新選組副長、土方歳三である』と怒鳴り上げて姿を消した。土佐浪人には新選組に切られた者も多い。あからさまな威嚇に隊士は震えあがった。迅衝隊の指揮官は赤熊(しゃぐま。歌舞伎の連獅子のような赤い被り物)を付けていたため遠目にも目立ち、格好の標的になったのだった。
そして、その頃には板垣の耳にも敵が新選組の土方だということは伝わってきていた。当時は龍馬と中岡慎太郎を切ったのは新選組だと思われていたのでその名を聞いて激高する。おのれ、かたきを取ってやる、と。
勝・西郷の会談が行われる7日前。迅衝隊が駒木野(現在の京王線高尾駅のあたり)を過ぎると一気に視界が開け武蔵野が広がるが、板垣は周りを警戒した。土方のことだ、必ず包囲戦の仕掛けをしているに違いない。大砲隊が山肌を下るのを待って、ジリジリと進んだ。時刻は午後の2時頃になった。
すると、八王子宿の街あたりに急ごしらえの幕軍の防衛線が目に入った。左右には敵はいない。板垣はなお慎重に大砲を前面に曳いて据え付けると、轟音とともに前衛を吹っ飛ばした。
幕軍も一斉に射撃を開始して戦場は膠着する。板垣は小軍監(副隊長格)の谷干城(たにたてき)を呼んだ。
『谷。あん中にゃあの土方がおるはずぜよ。何か策を講じてるろう。おまんチクと手勢を連れてあの開けている右へ進んでみい。仕掛けがあるはず』
『心得た』
谷は向かって右側に続く丘陵沿いに侵攻した。不思議なことに敵陣が丸見えなのだが、その防御は扇形に薄く広がっているように見え、橋頭保が築かれていない。妙だな、と思いつつ部隊をその扇の要のあたりに向って進めた。
すると、今までは小銃の射撃のみであった幕軍から、おそらく四ポンド山砲と思われる砲撃音が3発轟いた。その音に反応するかのように一斉に退却が始まった。谷は益々違和感を覚え本営の板垣に『不審の動き也』と伝令を走らせるが、既に官軍は突撃が始まってしまった。板垣が総攻撃命令を下したのだった。
ところが前衛が突っ込んで行くのだが、未だ後方の狭隘地にひしめいている後続部隊がにわかに乱れた。通常は最前線を押し上げるように進むはずが、バラバラになってしまっている。右翼方面に展開していた谷の元にも伝令が転がり込んできた。
『大変ぜよ。突如背後から襲撃されちょるきに』
『なにー!いかん、取って返すぞ。仕掛けは後方じゃった!』
一隊を率いて急遽駆け出し、本体の混乱を目の当たりにした谷は信じられない物を見た。
赤地の段だら模様に『誠』の染め抜き。泣く子も黙る新選組の隊旗である。
『なんじゃとー!どこに潜んじょった。いかんぜよ、しかも前が飛び出して追われる格好の挟み撃ちじゃ』
谷は配下の者達を率いて新選組に突っ込んでいった。既に述べたようにこの時点では龍馬の仇だ。今日では見廻組の暗殺だったことが定説である。谷は突進しながら土方を探した。ところが近づいても誰もあの羽織を着ていない。あの浅葱の段だら模様の羽織だ。土方、どこにいる、と戦闘に駆け寄る、もちろん抜刀した。白兵戦になってしまうと味方を撃ってしまうので銃は使えない。迅衝隊は異変に気がついても前線の鉄砲隊を向けることができないのだ。
混乱の極みになっているところに駆けつけた谷は、真ん中で剛剣をふるっている洋装の士官に目を止めた。あれが土方に違いない。切りかかる迅衝隊士を払いながら「切り飛ばせーい」と声をかけていた。カタキを取るぞ、と力を込めた刹那、今度は前衛の方から鬨の声が上がった。
今までジリジリと後退を続けていた幕軍が突如反撃に転じたのだった。初めから3段構えの塹壕を掘り、3段目に本隊となる八王子千人同心の主力を潜ませていた。地域を知り尽くした土方ならではの『三枚突き通しの陣』である。
前面を持ち堪えられなくなった迅衝隊は敗走を始める。混乱の中、板垣は谷と偶然出会い、取り急ぎ撤退の方針を固め、川に沿って相模方面に落ちることとした。
戦況は逆転した。後を追おうとする新選組隊士や千人同心を止めて土方は言うのだった。
『クククッ、津久井を抜けて東海道筋まで行き、どこかで官軍本隊に追い付こうとしてるぜ。そうはさせるかよ。新選組、一息入れたらオレに付いて来い。ゆっくり行くぞ。ただしやつらは休ませない、眠らせない、食わせない。深追いせずに動きが止まった時だけ撃ちかけ切り込んで少しづつ追い込んでやる。2日もあればバラバラになるさ。千人同心諸君、すまんが多少の人数を割いて2日程の食いものを準備し後を追ってくれ。面白くなるぜー』
隊士も同心も底知れぬ不気味さを感じて引きつった。しかし、この男についていけば負けない、とも強く思った。
つづく
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維新にさほどの義が有りや
2021 SEP 2 0:00:11 am by 西 牟呂雄

文久三年、薩摩藩は琉球救済の一環として地域通貨のような『琉球通宝』の鋳造を幕府に願い出て、3年間に限って許された。ところがその際に『琉球通宝』だけではなく、幕府が発行する天保通寳も一緒に密鋳していたのだ。その贋金は幕府のものより鉛の含有量を多くしていて、今で言えばあからさまな贋金、立派な犯罪なのだ。尊王討幕の正体見たりと思わざるを得ない。しかもこれを推進したのは名君として名高い斉彬である。
尚武の志高く、武士として胆力を磨きに磨いた薩摩藩にして、藩論分裂によって散々血を流した後に、薩長同盟を結ぶことに筋は通るのか。
大体どこの藩でも『尊王攘夷』一本鎗の派と、討幕までは筋が通らないとする一派で激しい争いが起こり、暗殺・切り合いといった大騒ぎを経験することになる。薩摩・長州はその争いの中の生き残った連中が討幕に舵を切った。結果は良く知るところであるが、歴史的には危ない橋を渡り続けたことになる。どちらも無謀な戦を外国に仕掛けてコテンパンに負けたらさっさと攘夷の旗は降ろす、戦闘こそないものの土佐もまたしかり。
筆者自身、保守派を自称しているので、短絡的に『尊王攘夷』と口走る心情は分からないでもないが、どうも論理体系のゆがんだポピュリズム・ヒステリーに思えてならない。それは幕府・反幕府に関わらず同時発生的に出て来る。
一例は御三家水戸で暴発した天狗党である。水戸は元々同じ御三家の尾張と同様勤皇の志の厚い土地柄だが、理屈ばかり言い立てる藩風とカッとなる気質が災いして藩内に争いごとが絶えなかった。それは藩主の世継ぎ問題だったり、幕府による日米和親条約だったりとキリがない。桜田門外の変にも人材を輩出している。そして水戸学の権威、藤田東湖の息子の小四郎(当時23歳)がたった60人で筑波山で気勢を挙げ武装蜂起してしまう。すると例の気質で頭に血が上った近隣の百姓・浪士が参集して瞬く間に千人を超えた。
その集団が日光東照宮を目指そうとして、一部が暴徒化する。それからは天狗党・保守派が入り乱れ、水戸城や江戸藩邸での勢力争いを引き起こしてのテンヤワンヤ、暴徒により那珂湊反射炉の煙突は爆破されたしまった。
結局目標を失った天狗党は何故か京都を目指す。おそらく一橋慶喜に嘆願にでも行くつもりだったのだろうが、幕府からは追討令が出ており中山道沿いの小藩と小競り合いしながら進む、最後は慶喜に拒絶されてアウト。最初から最後までプロセス無視の計画で、どうしたかったかも不明な混乱だったと言える。
尊王攘夷の天狗党の流れから、対照的な道を進む二人の人物がいる。実際に乱に加わり、途中で逸れ生き残った相良総三と、武田耕雲斎の下で暴れている頃に一度捕縛された芹沢鴨である。芹沢は新選組に行って局長になり、その時点では幕府側ではあるが結局暗殺される。
一方の相良は江戸潜伏中に何と土佐藩の板垣退助の保護を受ける。間の悪いことに丁度そのころ坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋で、薩摩の西郷との間で薩土軍事同盟という討幕の謀りごとが結ばれた。薩長同盟に遅れること1年である。これより西郷の指示で江戸薩摩藩邸にいた益満休之助が幕府の後方攪乱のため放火や、掠奪・暴行と暴れるが、相良はそれに加わった。余談ではあるが益満は勝海舟の親書を山岡鉄舟が西郷隆盛に渡す際の先導役を務めるキーパーソンで、最後は彰義隊討伐の上野戦争で戦死する。
相良の方は、この騒乱を鎮圧しようと庄内藩の新徴組が薩摩藩邸を焼き討ちした際に品川から船で落ち延びる。すると王政復古の大号令が発布されたため、公家の綾小路俊実を盟主とした赤報隊を結成し、官軍の東山道征討として中山道を攻め上ることとなった。しかしこの寄せ集めの赤報隊はかなりいい加減なもので、相良は命令に従わないどころか勝手に『年貢の半減』等を言い触らしては略奪ばかりして顰蹙を買う。何しろ甲州博徒の黒駒勝蔵までが入っているのだ。結局、偽官軍のレッテルを張られて下諏訪で処刑される。因みに命令に恭順した二番隊長を務めたのは元新選組九番隊組長の鈴木幹三郎(分裂して暗殺された伊東甲子太郎の実弟)である。テンヤワンヤぶりが分かろうというものだ。
そもそも何百年も京から出たこともない公家を頭に戴いて圧力をかけることができると思う所がこっけいの極みで、天誅組の騒ぎに至っては目的も何もはっきりしない。
孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられると、その先鋒を勤めようと土佐脱藩浪士の吉村寅太郎が公家の中山忠光をそそのかして浪士を引き連れて大和に出発する。40人位のまぁちょっとした護衛につもりだったのではなかろうか。それが何をトチ狂ったか五条にあった幕府代官所を襲撃して制圧する。しかし例の八月十八日の政変で長州派公卿は追放され、孝明天皇の大和行幸が中止される。こうなるともはやお呼びでない、とばかりに幕府から追討されることになる。すると天誅組は十津川郷士をオルグして千人程の人数を揃えた。
十津川は年貢御赦免の天領だが、言ってみれば古代より尊王専門の傭兵部隊であるから参加した。これが思いつきで頼ったようなものだから、待遇は悪いし戦略もない。中山忠光の無能は如何ともしがたくたちまち四分五裂となって雲散霧消してしまう。これまた何をしたかったのかさっぱり分からない。中山はその後長州潜伏中に暗殺された。
九州の大村湾に面したエリアに2万八千石の大村藩がある。関ケ原で東軍に付いたため準親藩で、代々名君が出たことでも知られる。場所柄長崎から海外の情報も入り易いと思われる。初代藩主はキリシタン大名でもあった。
さて、最後の藩主となった大村純熈(すみひろ)が長崎奉行を命じられた頃、例によって藩内は当然割れた。明治以後に編纂された藩の正史である『台山公事績』は山路愛山が編纂を始めたが、十数年モかけても脱稿せず、愛山死後にやっと完成した代物だ。それによれば、開明派藩主の元、勤皇の旗印を掲げ一丸となって討幕に励んだことになっている。維新後に栄達した者も多い。筆者はさる縁者からそれは嘘っ八であることを知っている。維新に邁進したのは事実であるが、その前に過激派が保守派の家老を暗殺してその罪を保守派の藩士になすりつけたのだ。その狡猾さと残虐さはその後の栄達にふさわしいものでは断じてない。それを塗り込めて正史に落とし込むために愛山は難渋して筆が進まなかったのだ。そのことは、その後を継がされたさる大歴史学者の子孫に確認した。一方暗殺された側にも筆者の知り合いがいて同様の証言を得ている。
最近『歴史のミカタ』という新書を読んでつくづく自分は歴史を生きていない、と感じた。分かりやすく言えば、自分で考えて歴史を体系的に吸収していない、ということだ。ところが老いたりとはいえ未だに息はして物は考えることはできる。なにやらこの先が楽しみになるような気が、今はしてきた。手始めに維新の大義はあるか、と思料した次第である。
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情夫(いろ)に持つなら彰義隊
2021 JUL 4 0:00:00 am by 西 牟呂雄

謹慎していた前将軍、徳川慶喜は水戸に去った。江戸城は主を失ったが、この時点では誰の物なのかははっきりしない。無血開城によって関東各地に散らばった旧幕臣の残存部隊は無傷であり、盛んに抵抗をしており、官軍はその追討に兵力を削かざるを得ない。従って江戸に残っているのはたったの3千程。大参謀西郷隆盛は江戸市中の治安を勝海舟に委ね、勝はその任に上野寛永寺にたむろしていた彰義隊をもって当たらせた。
その彰義隊、無論徳川の正規兵でも何でもない。とにかく江戸に官軍が来て我が物顔に振舞うのが気に入らない不満分子の塊である。頭取からして一橋家の家臣に取り立てられた渋沢成一郎と、与力の養子となって旗本になった天野八郎。彼らが集まっては悲憤慷慨しているうちに出来上がった寄り合い所帯なのだ。
ところが勢いに乗じてその数3千人にまで膨れ上がり、気炎を上げていた。
勢いに乗じて官軍との徳川家処分について交渉していた策士勝海舟は次々に難題を突き付け西郷を翻弄し始めた。西郷は妥協を重ねるが、京都の新政府幹部はそれが気に入らない。西郷も板挟みになっていたのだった。
そのころの江戸の世論は主に廓が発信元だ。花魁達はもちろん幕府びいきで、上京してきた官軍兵士なぞはその田舎者振りや傍若無人な振る舞いで嫌われる。一方彰義隊士は元々江戸っ子ばかりがにわかに景気づいたせいでやたらと金払いはいい。廓の人気はうなぎのぼりで『情夫(いろ)にもつなら彰義隊』と囃される始末。情夫(いろ)とは花魁の贔屓客のことである。当時の記録を読んでみると大人から子供まで、官軍とは異国の進駐軍を見るような感じで、一つには戦闘もなしにのさばっているのが気に入らない。
ところが彰義隊内部では、直情径行の天野に対し元々一橋家の家臣だった渋沢はソリが合わなかった。渋沢にしてみれば主が恭順をしているのに足元で暴れるのはいささかの遠慮があり、戦闘はできれば避けたい。そこを天野から弱腰と罵られ遂に分裂してしまい、一派を率いて江戸市中から多摩の田無村に本陣を移した。
彰義隊のいる寛永寺は、天海僧正が開山し広大な上野の一山が寺領である。歴代皇族の法親王を天台座主に戴いた。幕末の輪王寺宮公現法親王は 伏見宮邦家親王の庶子ながら、新政府からの京都への帰還の勧めを拒否。江戸に進駐してきた東征大総督である有栖川宮の呼び出しにも応ぜず、配下をして彰義隊の面倒を見させる有様はあたかも南北朝を彷彿させる気骨を持っていた。
江戸は不穏な情勢に包まれる。官軍を白眼視する江戸っ子達、情勢次第で勝ち馬に乗りそうな面従腹背の幕臣および関東の親藩、田無から江戸を睨む渋沢成一朗の振武隊。
官軍と彰義隊の小競り合いも多発するにいたり、ついに京都から三条実美が大村益次郎を伴って東上してきた。
「オイ!丈の字!丈太郎!」
「ヘーイ」
「マヌケな返事を寄越すな、このトウヘンボク」
「ヘイヘイ。何でス、親分」
「噂じゃ官軍がいよいよおっぱじめるらしい。寛永寺まで一っ走りして御用の向きを聞いてこい」
「えっ、とうとう始まるんですか戦が」
「おうよ。彰義隊の旦那衆が続々と集結してる。デケー面してやがるイモ侍に一泡吹かせてくんなさるんだ。この新門一家が指咥えて見てる訳にゃいかねー」
「わかりやした」
新門辰五郎、浅草の火消し「を組」の頭でありながら慶喜の知遇を得て、娘を妾に差し出した大の官軍嫌いである。
「親分!でーへんだ。天野様の元にいったら戦はあしただそうです」
「あしたー!」
「へェ、鉄砲の弾除けに畳や俵をあるったけ持って来いっての仰せで」
「若ェ奴等を全員集めろ。そこいらの畳をひっぺがしてお山に登れ」
「合点だ」
「あっそれから「を組」は火消し装束だぞ」
「わっちらも戦すんですか」
「バカヤロー。戦がはじまりゃ火事になるに決まってんだろ。お山を灰にされたら江戸っ子の名折れだ」
「けど親分。親分はここにいなすってくだせいよ」
「何だと。テメー俺を年寄り扱いする気か」
「いやっ、だって古稀ですよ。万が一のことが起きんとも限らねえ」
「やかましい。さっさと纏を持ってきやがれ」
通称「般若の丈太郎」は通り名の般若を背中に彫り込んだテキヤ上がりの道楽者だ。浅草の飾職人の息子だが放蕩が過ぎて勘当され、神農のシノギをしていたところ度胸っぷりを買われて辰五郎の用心棒のような「を組」の代貸し格に納まっていた。喧嘩の時も頼りになる腕利きだが普段は大酒を食らってばかりで何の役にも立たない。
火消しは通常トップを『おかしら』『かしら』と呼ぶが、丈太郎はテキヤ時代の癖が抜けず『親分』と呼びならわしていた。
総勢280人程の『を組』が勢揃いすると辰五郎が激を飛ばす。
「野郎共、明日は上野の山の大火事だぁ。新門一家が束んなって大伽藍を官軍からお守りするんで今夜から籠るぜ」
「おう!」
鳶口(とびぐち)・刺又(さすまた、指俣)・鋸は言うに及ばず、竜吐水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・水鉄砲・玄蕃桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)といったいわゆるポンプの類を担いでの行列はまるで百鬼夜行だが、広小路口からの参道では物見高い江戸っ子から、今までの鬱憤を晴らすように声がかかった。
「かしらー!頑張ってくんねぇー」
「丈の字ー、しゃかりきに行っといでー」
「丈太郎、頼んだぜ」
「般若の兄ィ」
調子にのった丈太郎は手を振って応える。
「任しとけ。官軍なんざ屁の河童だ」
辰五郎はいやな顔をした。
「丈太郎、ただの喧嘩ざたじゃねぇ。黙ってやがれ」
すると同じように黒門を目指してくる武士の集団と出会った。こちらは50人程の小部隊だがやや速足で整然とやってきた。誰も口をきかない。先頭の者が掲げる旗には『會』の文字が見て取れた。
「親分、ありゃお武家さんですね」
「あの旗は会津だ。まだこの辺に残っておられたのか。はて、殿さまと一緒にみんな帰って行ったと聞いていたが」
立場上、先を譲ると軽く目礼して黒門から入っていった。新門一家も後に続く。中腹の寒松院に陣取る頭取、天野八郎に挨拶をすると根本中堂のあたりに固まって朝を待った。
翌朝午前7時。黒門正面の現在松坂屋のあるあたりに兵を進めた薩摩藩の前線指揮官、篠原国幹が「放てーッ」の命令を下した。一斉射撃が響き渡ると彰義隊も撃ち返し戦闘が始まった。丈太郎はつぶやいた。
「いよいよ始まりやがった」
彰義隊は黒門の近くの小高い山王台(西郷隆盛の銅像のあるあたり)に四听(ポンド)山砲を2門据え付け、全面の薩摩藩兵に向けて猛烈な砲撃を加えた。轟音とともに前線が吹っ飛び煙が上がる。
「ざま-みやがれ。こいつぁー景気がいいや」
「丈の字!うるせい、少し黙ってろ」
「へい」
うるさいも何も銃声と砲弾の炸裂音で会話なんぞ聞き取れない状況だ。
薩摩軍の消耗は凄まじく次々に死傷者が運ばれる。すると他藩の動きが鈍った。薩摩軍と共に黒門攻略に当たった熊本藩が誤射してしまい薩軍に負傷者が出る。
当時、脱走歩兵部隊は関東各地で暴れ回り、奥羽や越後の各戦線からもひっきりなしに援軍要請が来る中、官軍の中枢である薩摩兵は江戸に4個中隊(数百人)いたに過ぎない。西郷が事前に薩摩軍の配置を見て「薩摩兵を皆殺しになさるおつもりか」と立案者の大村益次郎を問い詰めると「そうです」と答えたという都市伝説すらある。
また、背後の団子坂から谷中門に向った長州藩は、貸与された新式スペンサー銃の扱いに慣れておらず、すこぶる奮わない。
ドカーンンンと重い大音響と同時に根本中堂が炎上した。
「オイッ、いってーどっから火が降って来たんだ」
「わかりやせんぜ。黒門は破られちゃいねえ」
「グズグズすんな!火消しの出番だ」
そう言っている直後にまた数発が着弾して台地が震える。吉祥閣・文殊楼まで燃え上がった。
「親分、あっちだあっち、池の向こうの前田様のお屋敷からだ」
「バカ言え、あんなとっから届く大筒なんか・・・」
ドカーン、今度はすぐ近くで炸裂した。
「さっさと龍土水をブチかけろ」
「かしらー、永吉がバラバラになっちまったー」
「ナニー」
その時黒門の方を見やった丈太郎は抜刀した一団がこっちに向って来るのを視認した。昨日の会津藩の旗を掲げていた連中だ。その者たちは周りにいる彰義隊士に切りかかっているのだ。
「親分、マズい。寝返りだ寝返り。あいつら会津藩兵じゃねぇ。官軍だったんだ」
「冗談抜かせ」
「火消しどころじゃねえよ。こっちに切り込んできやがった」
黒門の前衛の彰義隊が動揺しているのを見て取った篠原国幹が振り返って西郷に尋ねた。
「もう、よかごあんど」
「うん、もうよか」
西郷は奇しくも後の生涯最後に言った言葉を発した。すると薩軍は一斉に抜刀し、独特の切っ先を高く上げるトンボの構えをすると、各々例の「チェストー」という声を上げて切り込んだ。内部をかく乱されていた彰義隊はもはや持ちこたえられず黒門を破られ、勝負がついた。
「親分、だめだ逃げましょう」「かしらー、もうだめだ」
「バカヤロウ、逃げるな!火を消すんだー」
「親分、分かったからこっちに」
「を組」も四分五裂になり、丈太郎は子分共と喚く辰五郎を引っ担ぐように逃げた。彰義隊は総崩れになり、大村益次郎が作戦立案の際に玉砕覚悟の抵抗を避けるために手薄にしていた東側から根岸の方に落ちて行った。孫子の兵法で言う囲師必闕(いしひっけつ)の構えである。
辰五郎一行がジタバタと走っていると寛永寺の僧侶が二人、やはり落ち延びているのに追いついた。通り過ぎようとして若い方の顔を見た途端、辰五郎は一行を制しひれ伏した。丈太郎以下も何事かと土下座する。辰五郎は絞り出すように言った。
「御前様。あっしらが不甲斐ないばかりに申し訳ございません」
輪王寺宮公現法親王が側近である執当役の覚王院義観を伴って落ちていくところだった。
暫く見送った後で一息入れた辰五郎は呟いた。
「浅草にけえろう(帰ろう)」
「まだ官軍がいますぜ」
「考えてもみろ。おれっちゃー火消しだ。何も逃げ回るこたーねぇ」
「それもそうか」
「お山の火事を消そうとしただけじゃねーか。コソコソしなくていいんだ。第一逃げるってどこ逃げんだよ」
ヨタヨタと歩いていると右手にまだ炎上している大伽藍が見える。
「これでお江戸もお終めーだな・・・・。隠居して上様のおわす水戸にでも行くか」
「親分、それじゃお江戸の火事は誰が仕切るんですかい」
「自分で火ィつけたんだ。あの西郷隆盛とかいうのがやるんじゃねえのか」
「あんなイモに務まるもんか、ベラボーめ」
辰五郎が言った通り、明治とともに江戸という地名は無くなってしまうのである。
辰五郎自身は慶喜の駿府への移封について行きその地で数年を過ごす。慶喜が水戸を出て、江戸から駿府に移動する際には既に旧幕臣の組織だった行動はできなくなっていた。それはあんまりだと辰五郎が音頭を取り江戸中の町火消が装備を纏って数千人の大名行列をしつらえ、出立した。町火消全組の纏が振り投げられたという。辰五郎は最後は東京に戻り明治8年に没。
輪王寺宮公現法親王は、江戸市中を転々とした後、いかなる伝手を頼ったか品川沖に錨を下ろしていた榎本武揚の旧幕府艦隊と共に北上、会津入りする。奥羽列藩同盟の錦の御旗になる可能性があったが、利有らずして投降し京都で謹慎させられる。
維新後には北白川宮能久親王となり、ドイツに留学し陸軍軍人の道を進む。最後は台湾でマラリアにかかり亡くなる。この宮様のお屋敷は赤坂プリンスの旧館で、現在同じ場所で整備され案内版には『朝鮮王族の、李王垠殿下の邸宅』と書かれていたがその前は北白川宮邸だった。筆者はそのまん前の中学に通っていたが、現在よりも道路側にあったことを記憶している。
渋沢成一朗は上野のドンパチが始まったと聞いて参戦しようとしたが、戦闘がたったの一日で終わってしまったため多摩郡田無で地団駄を踏むことになる。その後残存部隊も合流したため、旧一橋領である埼玉の飯能で一戦交えるがあっけなく敗ける。その後、転々とし辛くもこれまた榎本艦隊に乗り込み、こちらは函館まで行く。従って輪王寺宮とも、土方俊三とも会っている。
函館では再結成された彰義隊の隊長だったが、何故か降伏前に離脱して潜伏している所を捕まる。彰義隊の再分裂が原因らしい。その後、従妹の渋沢栄一の勧めで官吏になり財界でも活躍する。今放送中の大河ドラマ『晴天を衝く』の渋沢喜八である。
最後に天野八郎であるが、一度は約百人程の彰義隊士とともに護国寺に集結するが、協議して解散、各々潜伏することにした。一部は渋沢に合流する。天野は隅田川沿いの炭屋に潜んでいる所を捕縛された(先に掴まった彰義隊士から密告されたという説がある)。そして小伝馬町の牢屋敷で獄死する(これも暗殺説がある)。
猪突一本、直情径行の士だったのだが指導力や人望には欠けていたのかもしれない。
彰義隊はその後タブー扱いされ取り上げられることも無くなったが、江戸っ子の口伝には長く残った。明治中期になってから、五世尾上菊五郎が新富座の演目に取り上げると大変な人気を呼び、陸軍少将に昇進していた北白川宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)も軍服を脱いでお忍びで観劇している。
筆者は神田淡路町の生まれだが、子供時代のチャンバラごっこのイイモノは彰義隊だった。ただしチビの筆者は「将棋隊」だと思っていた。
そして上述の、前の晩に会津の旗を掲げた一団の武士が裏切った、という話は淡路町から秋葉原・広小路辺りでは都市伝説になっていて、ガキを相手に講釈するヒマなオッサンは実在した。しかし、それを証明する文書にお名に罹ったことはない。上野が燃えると炎がアオい(グリーン)とも伝わっている。
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実録 三方ヶ原の戦い
2021 JUN 20 0:00:08 am by 西 牟呂雄

越後の虎と言われ、生涯敗けなしの猛将・上杉謙信は一向一揆と対峙しながらイライラしていた。武田軍が躑躅ヶ碕の館から出て韮崎・小渕沢に動いたという報告が上がってきたのだ。ここで背後を突かれてはひとたまりもない。
一方、浅井・朝倉連合軍と睨み合っていた織田信長も背中に汗が流れる思いで同じ知らせを聞いた。東美濃で国境を接してから、懐柔しようにも遜ろうにも硬軟自在の信玄には通じない。正直ホトホト手を焼いていた。そこへもってきて盟友の徳川家康が武田と小競り合いを始めてしまったことに気を揉んでいたところだ。
そしてその家康、ここ浜松城は元はと言えば今川領である。謂わば旧敵地にヘリコプターで舞い降りたようなもの。しかも旧今川の本拠であった駿府は武田領となった。浜松と駿府の地侍はツーツーである。もし本気で信玄が攻め上ってきたらばどうなるか分かったものではない。おっとり刀で信長に応援を要請したのだが、信長が援軍として寄越したのはたったの3千人。
追い打ちをかけるように新たな情報がもたらされた。武田の別動隊が甲府を出陣し南下し始めたというのだ。信玄得意の攪乱作戦に違いない。
越後でも謙信が声を荒げていた。
「一体、信玄入道はいずこにある。甲府か!諏訪か!」
無理もない。正面で4回対決した川中島でも陽動作戦には悩まされ続け、終いには単騎突撃するに至ったこともある。おまけに謙信が陣を払った後は、様々な調略によりかの地の国衆を傘下に納めてしまうのだ。
突如、東美濃に武田方の秋山虎繁が2千5百の兵を率いて現れ、猛将・山県昌景が東三河に南下し、破竹の勢いで信長の六男御坊丸のいる岩村城を取り囲んだ。天兵が舞い降りたような早業に、調略を受けた岩村城はあっけなく開城してしまう。
肝を冷やしたのは信長で、上杉謙信は胸を撫で下ろし、家康はパニックになった。信玄の本隊は後発の部隊だと分かったからだ。その本隊は駿河と遠江の境を超えて来る。
浜松城には自分の兵8千と信長の援軍3千人がいる。籠城するか、迎え撃つか。武田軍の騎馬隊の強さは天下に知れ渡っている。当時の平均的編成は足軽7~8人に馬1頭だが、目の前の武田軍は総勢2万5千が1万頭の軍馬を引き連れており、その騎馬武者が独特の長槍を携え、猛烈な勢いで突進してくれば止めるのは不可能だ。
家康は籠城に傾いたのだが、そうも言っていられなくなった。近隣の地侍が先を争って信玄になびき出したのである。我慢できなくなり、3千の兵を連れて威力偵察に出た。
天竜川を渡り、一言坂の下から本多忠勝に5百ほどの兵を付けて先発させた。本多隊が坂を上りきって視界から消えたと思った途端、その忠勝を先頭に息せき切って駆け戻って来る。
「殿!大変です!武田の兵は我等を取り囲んでおります」
「なに!いかほどの数か」
「およそ1万。信玄率いる本隊です」
「そんなバカな。音もなく大軍が降って湧いたとでも申すか」
「とのー、あれを」
指差した先には真っ赤な武者備えの大人数がヒタヒタと駆け下りて来るではないか、ホラ貝も吹かず鬨の声もあげずに、である。
「殿!お下知を」
「ターケ(たわけ)!逃げるんじゃー」
3千人の総退却である。指揮もヘチマもない。灰神楽をひっくり返したように砂塵が舞い怒声が上がる。兎にも角にも馬に乗った家康を先頭に逃げに逃げた。本多忠勝は殿になり駆けに駆けた。見付(現在の磐田市)の集落にたどり着いて一息入れようとすると、なぜかそこには赤備えの騎馬隊がいるではないか。一体いつ先回りしたのか。
「一斉に放てー!」
苦し紛れに家康は鉄砲を撃ちかけ火を放った。自分の領地を焼くのである。もはや作戦もクソもない。3千人はまだ戦もしていないのに敗残兵のように大火事の中を逃げる。天竜川が見えてきたが、一同目を見張った。何とそこにも騎馬隊がズラリと並んでいたのだった。
「もはや、これまでか。信玄恐るべし」
家康は覚悟を決めた。と、その時、殿だった本多忠勝が飛ぶように駆け込んだ。鉄砲隊を連れての決死の突撃だった。本多忠勝は家康の側近中の側近。好んで危険な戦闘に飛び込むのだが、生涯かすり傷一つ負わなかった剛の者である。手には天下の三名槍と後に称えられる二丈余(約6m)の蜻蛉切りを携えていた。穂先に止まったとんぼが真っ二つになったのが名前の由来である。
「とのー!ごめーんん!」
叫びながらの突撃にさすがの騎馬隊も割れ、家康は九死に一生を得たのだった。
しかしこの遭遇は単なる脅し程度のもので、信玄本隊は二俣城に軍を向ける。
浜松城での軍議は寂として誰も声を発しない。かろうじて家康が絞り出すように言った。
「信玄は妖術でも使うのか。あの騎馬武者は音も立てずに我等を追い抜いたとでも言うのか」
「おそらくは我等の動きを読んで先に迂回させていたかと」
「しからばなぜ一言坂に行くことが知れた。裏切り者でもいるのか」
「あれは確か殿とそれがしのみで謀ったことにござる」
「ともかくあんなのとまともに戦ったら勝ち目はない。籠城するぞ」
「敵は我が領地の庭先を悠々と二股に向っており候。遠江の地侍は雪崩を打って武田に馳せ参じております」
「ケッ、腰抜け共め。武田を片付けたら目にモノ見せてくれるわ」
そこへ物見の武者が駆け込んできて庭先に平伏した。
「申し上げます。二股の城が落ちましてござる」
「なにー!あの堅固な城をか」
「いかだを組んで水を切られ候」
「ふうむ・・・・。服部半蔵いずこにある」
家康が突然大声を上げた。
「庭先にて御座候」
「近う」
半蔵が縁側のところまで進むと家康はわざわざ立ち上がって近づいていき、半蔵の耳元で何かをささやいた。諸将は家康が迷っていることを悟った。半蔵を呼ぶのは迷った時のいつもの癖である。それもそのはずで、このまま籠城している間に三河に進軍されれば岡崎の息子信康はひとたまりもない上に信長との同盟が破綻してしまうかもしれないからだ。
旧暦の師走は日暮れも早い。軍装を解かぬまま夕餉を掻き込んでいる所に半蔵が帰ってきた。
「殿、服部半蔵おん前に」
「おう、どうじゃった」
「武田は奥三河に向う、とのこと」
「なんじゃとう」
「放っていた草はみなそう聞き、それがしも確認して候」
「こちらへ向かわず我が庭先に進軍するとは。岡崎の信康を潰して岩村より信長様の背後を突く」
「こうしてはおれぬ。殿、打って出ましょうぞ」
大声で立ち上がったのは鬼のような形相の本多忠勝だった。
三方ヶ原は東西10km南北15kmの広さで標高差は80mもある洪積台地。浜松からは見上げる形で2万8千の武田軍が整然と移動しているのが見えた。家康の手勢は信長の援軍をいれても1万程度。しかも出だしでこっぴどくやられているので、家康は鬨の声が上げられなかった。
しかしついていくように軍を進めている内、まるで敵を追い詰めているような気分が高揚してしまい、先方の部隊が武田の殿に礫を投げ掛け始めた。すると武田側からも印打ち(円盤状の石)を掛けて来る。しかし行軍はそのまま粛々と進むので、家康の先鋒千人ほどがつい深入りした、その瞬間に全軍がピタリと動きを止め向きを変えると鉄砲隊が構えた。
第一撃で前面がやられてもすぐには踏み止まれない。そこへいきなり50騎一組の塊で、次々と突進してきた。しかも例の長槍を携えている。ホラ貝の音も『突っ込め』の声もワーッといった歓声もない無言の突撃だ。家康も仰天するとともに先日の騎馬隊に追われた恐怖がまざまざと蘇った。
叫び声を上げて次々に突かれ騎馬に踏み倒されていくのは家康の兵ばかりである。迎撃戦は破られ総崩れとなりかける。ただ一か所、家康軍左翼で本多忠勝隊のみ奮戦をしていた。あまりの攻撃の苛烈さについにもちこたえられず家康が下知した。
「引け―!浜松まで引くのじゃー」
踵を返して近習と共にひたすら逃げに逃げた。しかしこっちが必死に駆けて居るのに武田菱の馬印の騎馬隊は後ろから迫るかと思いきや、天竜川の時のように向かう先に轡を並べていたり.終いには逃げる家康と成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛のわずか5人になったすぐ横を並走していた。這う這うの体で浜松に帰り着いた時は切腹まで覚悟した。
家康は破れかぶれになり、全ての城門を開いて篝火を焚き、湯漬けを食べて寝た。猛将山県昌景が浜松に突入してきたが、空城の計(敵をおびき寄せるたのの策略)と勘違いしてそのまま引き上げた。
一方、圧倒的に勝利した武田軍の陣中は勝ちに乗ずるかと思いきやさにあらず。
実は信玄の病は既に手の付けられないほど進行していた。信玄の喋っている言葉が良く聞き取れないのだ。にもかかわらずあの整然とした戦を軍配一つで指揮できるのは武田軍団の日頃の鍛錬の賜物ではある。信玄は歯が全て抜け落ち、口の中にできものができていた。髪は剃髪していたので分からないが、もう無かった。幽鬼のような姿に成り果てて輿に乗るのがやっとだったのを、ここまで押して来たのだ。
いよいよ危なくなってきた。勝頼と側近数名を呼び寄せてかすれる声で告げたのだった。
「我が死を3年秘匿し、ひたすら兵馬を養え」
そして勝頼の名を上げて密かに伝えた。
「越後を頼る事」
信玄は勝って病に伏し、宿命のライバルの名を上げて戦に明け暮れた生涯を終えた。
家康はこの敗北を恥じ、その後の生涯に渡って同じ負けの轍を踏まぬように戦い続けた。負けて生き残り後に天下に覇を唱えることになる。そしてその前に、信長・秀吉の天下統一もまた無かったに違いない。
あまりにも鮮やかな運命の天秤だった。
なお「しかみ像」に関して、家康がこの敗戦の時の姿を模写させたと伝わるが、最近の研究では否定されている。
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高志国(こしのくに)考
2021 JUN 6 0:00:20 am by 西 牟呂雄

筆者は出雲の歴史を研究し、オリジナル出雲族である大国主命が天孫族に攻め滅ぼされ、国譲りという神話を残しその一族はいずこかへ散っていったと考えている。はっきりしているのは大国主命の息子である。建御名方神が糸魚川に沿って南下し諏訪にたどり着いている。また、海岸線を伝って日本海を北上するルートも検証してみると、高志国がキーワードとして浮かび上がってきた。
高志=越国は越前・越中・越後と広いが、このエリアと出雲は古来密接なつながりが有ったはずだ。そもそも須佐之男命が出雲にやってきて八岐大蛇を退治した神話からして、そのオロチは高志の国から毎年やって来ていたのである。
それだけではなく、出雲市には古志町という地名が残っていたり、隣の松江市にも松江市古志町・松江市古志原と言った場所があり、往来の盛んであったことが偲ばれる。
ちなみに新潟では地震の被害が報じられた山古志村がちゃんとある。
時代が下って出雲風土記が編纂された時は国引き神話の記述があるが、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、「志羅紀」「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)「古志」という四つの国の地面を引っ張ってきたとされている。人々が大いに入植したことの例えなのだろう。北門佐岐は佐渡島、北門農波は任那だろう、新羅と越は明らかだ。
古代の航海技術がどれほどのものか詳しくはないが、環日本海の物流・人流があって、時に対立・侵略しながら付き合っていたはずである。アイヌ系はあまり海洋民族のイメージがないが、満州族は後年にいたって刀伊の入寇といった3000人規模の襲撃を仕掛けて来た。
大国主命も高志国まで行って沼河比売(ぬなかわひめ)に妻問いして建御名方神(たけみなかたのかみ)をもうけたりしているが、この場合明らかに侵略だろう。
この高志エリアは古来から豊であったことだろう。大国主命の時代にどの程度稲作が普及していたかは知らないが現在でも米所であり海の幸にも恵まれている。当時は翡翠を産し、GDPも高かったと思う。従って力を持つ者が出て来る。
例えば継体天皇は即位後20年近くこのエリアにいた。越前の朝倉は信長を追い詰める所までに至った。戦国時代は個別戦闘でほぼ無敗の上杉謙信が出る。ただ、あまりに雪深いため、冬季の移動が困難だったので天下に覇を唱えるには至らない。逆に言えば逃げ込むには都合がいい場所だという事だ。
先程、高志の地名をたどってみたが、その逆はないのか。国譲り後に大国主命一族が落ち延びた痕跡が辿れるのではないだろうか。そう思って地名で検索すると、あった。
まず金沢市に出雲町があり、その名も出雲神社なるお宮が5つもある。
隣の富山県小矢部市にもやや小振りながら出雲社が見つかった。
次の新潟に入ると糸魚川市では例の翡翠が採れた地域だから、逃げ込むというよりは沼河比売(ぬなかわひめ)へ妻問いしに遠征したかと思料する。奴奈川神社がある。
新潟は実は結構な数が見つかったのだがもう一つ挙げるとすれば出雲崎だろう。新潟と柏崎の真ん中あたりの出雲崎町は良寛さんの故郷で知られるが、出雲臣の一族が往来したとの伝えが残る石井神社が出雲大神(大国主神)を祭っている。
高志=越の国はここまでだが、ついでにもう少し北上してみる。
山形県では内陸の寒河江市に出雲太神社というのがあって、面白いことに『いずもおおかみしゃ』と読むそうだ。本命かと考えていた酒田市には大国主命を祭っている神社はあるが社名は地味なものだった。
更に秋田まで行くと最南端のにかほ(ひらがな表記)市に大国主命を祭る出雲神社があるが詳しいことは分からない。大国主命がやられた直後の一族・重臣といった第一次出雲難民の脱出先は、どうやらこの辺りが北限と思われる。
筆者としては、松江の宍道湖と同じ汽水湖(海と繋がっている)であった八郎潟あたりがポイントかと想像したが有力な痕跡は見つけられず、『出雲』で検索に引っかかって来るのは出雲大社教(いずもおおやしろきょう)という明治以降に組織化された宗教法人だけであった。出雲大社教とは明治時代に伊勢派が主流を占める国家神道から出雲派が分離した神道系新宗教(教派神道)のことである。
もう一つ出雲教というのがあって、室町時代に千家から分かれた北島家によって創設された教団で、出雲大社に向って右側にある北島国造館が本部である。尚、千家と北島家は今日でも出雲国造を名乗っている。
話がそれたが、出雲神社と言う名称で絞り込むと以上の例が検索できたが、祭神が大国主命(或いは別名であると大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・大穴持命(おおあなもち)-大物主神(おおものぬし-))である神社はそれこそ数えきれないくらいあった。特に北限と想定した秋田県南部を更に北上した青森県に多い。
筆者の仮説ではこれらは第一次出雲難民の次世代以降の人々が移動した先にゆかりの祭神を祭ったのではないかと考えている。
さて、出雲難民が北上していった先は、その時代が下ると蝦夷(えみし)の国として中央と対立することになる。古くは武内宿禰から、坂上田村麻呂やら八幡太郎義家が散々攻撃して最後は中央に従うのだが、最後の最後まで抵抗した荒蝦夷(あらえみし)が立てこもったのは現在の弘前城のあるあたりである。作家の佐藤愛子や今東光のルーツで、何やらお上に従わない反骨の気質が覗える。蝦夷とはアイヌ系・オロチョン系といった北方民族の別称ともされるが、その構成の中に出雲系もあるのではないだろうか。
筆者の想像は膨らむのである。是非、フィールド・ワークに行ってみたいと思う所以である。
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婆沙羅競べ
2021 JUN 1 0:00:40 am by 西 牟呂雄

南北朝の相克は、後醍醐天皇亡き後も足利尊氏から二代将軍義詮になってもなお果てしなく続くようであった。後醍醐天皇の魔性、足利尊氏・直義兄弟の争い、北畠顕家の剛直、高師宣・師奏兄弟の狼藉、楠一族の死闘、と筆舌に尽くせぬ人間模様が織りなす奇々怪々が、末法の世にはびこったからである。
京都に押し寄せる軍勢は、元は足利幕府の管領であった細川相模守清氏に率いられた南朝軍であり、先陣として乗り込んできたのは大楠公・楠正成の三男、正儀であった。、四條畷の戦いで、長兄正行・次兄正時が高師直に敗れ討死したため楠軍の総大将となっていた。
追って入京してきた細川清氏は明らかに度を失っていて、室町の幕府屋形に攻め入りもぬけの空であったことに怒り狂い火を放った。略奪する物が何もなかったからである。
清氏の怒りも、元はと言えば政敵となった佐々木道誉に謀反の噂を立てられたせいで幕府における地位を失墜させられたからであり、詮なきものではない。しかしこの時期、転じて北朝南朝のいずれかに宗旨替えすれば、両朝天皇の名の元にいくらでも大義名分がたってしまう。何しろ足利兄弟ですらことあるごとに宗旨替えをしたくらいである。
二代将軍義詮は、後光厳天皇を擁して近江に落ち延びた。
楠正儀は、京極にあった幕府の要人佐々木道誉の屋敷に向った。すると遁世者とおぼしき僧形の姿があり静かに言上するのであった。
「楠左兵衛督(さひょうえふ)様とお見受けいたし候。屋敷の主、道誉禅師申しまするに必ずや楠左兵衛督様おいでの際はこれにて一献さしあげるべしと申しおかれ候。案内(あない)仕りますゆえこちらへ」
正儀も面食らったが、馬を下り従って進むうちに更に仰天した。畳が敷き詰められ(この時代板張りが普通)、花瓶・香炉・盆に至るまで贅を尽くした物が整えられている。寝所には沈香の枕に緞子の寝具が敷いてあった。次に十二間の侍所に行くと山海の珍味が山と準備されており、三石入りの大筒に美酒が満々と蓄えられていた。書院に案内され、書聖・王義之の偈、韓愈の文集が古渡りの硯とともに揃えられるに至っては三嘆せざるを得なかった。
王義之は東晋の書家であるが日本には奈良時代の鑑真和上によりそのコピーが入ったと言われる。コピーとは真筆の上に薄紙を乗せて輪郭を取り、それを丹念に塗り潰したもので、今日日本にはそれすら2点残されるのみである。実際の真筆は世界に一つも伝わってはいない。韓愈は唐代の高級官僚で、詩人の白楽天と並び称された文章家である。
やって来た細川清氏が『佐々木の屋敷など焼き払え』と吠えたが、正儀はそれを制した。さすがの正儀も唸るしかなかったのだ。
時は4日程遡る。前線を破られた幕府軍は都からの離脱を決め、御所でも室町でもそれぞれの御物・宝物・武具を積み込む作業で大童である。ガラガラと荷駄が動き回り埃を巻き上げ、怒号が飛び交っていた。何しろ御所と幕府政所が一緒に引っ越すのだ。女房達の衣装・化粧道具だけでも山のような荷物となる。京極にある佐々木館でも同じような喧噪の中、主である佐々木道誉は一人の遁世者を連れて帰って来た。そしてその様子を見て大音声を発した。
「たわけー!オサマレーッ」
そして振り返ると後ろの遁世者に向って言った。
「まったくあさましいこと夥しく恥じ入る次第で。われらは武装してこれより都落ち候。手筈の通りに宜しく申し上げる」
遁世者は頷くと上述のような常識外れの出迎えの準備にかかったのだ。
京の都は攻めるのに易く守るのに難い。七口の全てを固めるには南朝方の勢いがどうであろうと兵力がたりない。この時期に南朝が攻め入ったこと四たびに及ぶが、体制定まらぬがゆえに敵中に孤立するばかりで兵站が続かない。果たして今次もすぐに撤退することとなった。
正儀は逗留中にこの度肝を抜くような気配りにいたく感じ入り、郎党共に飲み食いは許したが調度品の一切に手を付けさせなかった。
しばし刮目して何かを思案していた。フト目を開けると、自分を出迎えた遁世者が庭先に佇んで自分を見つめている。正儀はニコリともしないでその者を手招きした。
「御坊、ずっとこの屋敷におったのか」
「入道様が行く末しかと見届けよと申されましたゆえ。左兵衛督様のお振るまい、誠に雅であること伝えんがためここに御座候」
「丁度よい。そこもとに願いの義これあり。これより我等は立去るが、道誉入道が揃えし物に倍する馳走を盛り上げてくれぬか」
「あっぱれな武者振り、心得て候」
「奥に設えしは秘蔵の鐙と白幅輪太刀(しろぶくりんのたち)である。去るに当たっての置き土産と伝えてくれ」
「御意のままに」
そう言うと『馬引けー』と号令をかけ馬上の人となった。門前を出た所で振り返りその遁世者に問うた。
「そこもとの法名は」
「さて、徒然なるままに流れる乞食坊主にて」
「されば俗名はなんと」
「卜部と申し候」
「ふむ」
踵を返して去っていった。
元の鞘に納まって舞い戻った佐々木道誉は上機嫌で遁世者を相手に盃を干した。
「それで楠の若造はどんな顔をした」
「初めはあまりのバサラ振りに唖然と驚き入り、深く感じ入った様子にて」
「ほう、やはり大楠公の倅じゃのう」
「なかなかに歯ごたえのあるもののふにて候」
「三十路前であろう、これからか」
「入道様にあしらわれ、鎧に太刀を献上したことにて。この婆沙羅くらべは結局」
「これこれ、兼好法師。人聞きの悪い」
「ふふふふ」「はははは」
かの吉田兼好は太平記に高師直の艶文の代筆者として記述され、歌舞伎の演目にまでなっているが、筆者はこれをかなり怪しんでいる。あの斜めに物をみては悦に入っている兼好法師がそんなことをするだろうか。太平記は誇張された内容が多く、筆写によって伝わるうちに当代一の名文家として後に知られた吉田兼好の名が取ってつけられたのではないかと睨んでいる。この婆沙羅比べに出て来る遁世者の名は太平記には無いが、兼好法師と考えると余程面白いと思うがいかに。実際にはこの時点で大阪近辺の正圓寺のあたりにいたとされるので都までは指呼の距離である。
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天台座主尊雲法親王
2021 MAY 14 1:01:13 am by 西 牟呂雄

「お次!」
今日もやや甲高い声が叡山に響き渡る。太刀・薙刀をしつらえた荒法師が次々になぎ倒され『参り申し候ー!』と打ち据えられる。天台座主自ら僧兵達に武道を手ほどきしていた。
尊雲法親王はわずか6歳で延暦寺に入山すると、その稀に見る英明さでたちまち宗徒の耳目を集め、二十歳になるや天台座主に推される。すると今度は武術の稽古に邁進し、瞬く間にそれを極め、一山の者は舌を巻いた。のちの太平記に『まこと不思議なる御門主』と記される所以である。
顔立ちはやや丸顔に切れ長の鋭い目、小柄ではあるが筋骨たくましく、6尺の塀を軽々と飛び越えた。声はよく通る響きで数千人の山法師はことごとくこれに従った。読経の際の澄んだ声と妖しい眼光からか、軍神・摩利支天の生まれ変わりの神人と称える者もあり、事実しばしば予言めいた偈(げ)を唱え、それは全て当たった。
それもその筈、尊雲法親王の父親こそかの皇統の魔人ともいうべき後醍醐天皇その人であった。
「殿ノ法印、これへ」
尊雲の声が闇を切り裂くと『おん前に』と太い声の返事があり、巨漢の天台僧が現れた。殿ノ法印良忠、関白藤原良実の孫でありながら怪力無双。尊雲の側近中の側近である。
「都の帝に厄災近し」
「・・・っと仰いますと・・」
「帝に大望あり。鎌倉に知れよう」
「そっそれでは」
「帝の御身が危うい。良忠、山を下り都に潜め。八瀬童子を集め備えよ」
「御意。いつもながらの千里眼、恐れ入り候」
「ここも危ない」
「・・・御門主・・・」
「天命と心得よ。いずれ還俗し帝を支えん。ホホホホホホ」
後醍醐天皇は宋学を修め真言に凝り、書を能くし琵琶の名手、茶道の闘茶を主催する全能の帝のような華麗さであるが、同時代の身内の評判は惨憺たるものだった。堂上公卿からも総スカンの有様。要は人の気持ちを斟酌することができない驕りと我儘の塊で周りは全て塵芥にしか見えない。尚且つ執念深く猜疑心の強い性格は魔人としか言いようがない。こちらもまた珍しき天皇であった。
異様な眼光と圧倒的な迫力に、初めはひれ伏さない者はない。しかしながら毒気が強すぎて凡人はその目を見つめ続けることさえできずに委縮し、その後には離反した。
その帝が鎌倉に憎悪を抱かないはずがない。
幕府の方でも警戒し、さっそく中宮(正妻)西園寺禧子への御産祈祷が幕府への呪詛との嫌疑がかけられる。これでおとなしくなるかと思いきや、5年後に討幕計画がチクられて三種の神器を持って逃げ出さざるを得なくなる。尊雲は情報網と独自のカンでそれを察知し先程の会話となったのである。
しかし時がわずかに遅く、良忠が駆けつけた時は比叡山への逃亡に失敗していた。慌てた良忠は八瀬童子の手を借りて帝を笠置山に落ち延びさせた。
同時に叡山の尊雲にも扇動の咎により死罪を申し渡しをすべく六波羅の兵がせまったが、尊雲は僧兵を指揮しこの大軍を坂本にて鮮やかに撃破、姿を晦ませた。山法師達は妖術でも使ったかと噂し、敬愛する天台座主の無事を祈った。
結局、笠置山の後醍醐天皇は圧倒的な兵力に包囲され捕らえられる。その有様を、父帝の花園院から「王家の恥」「一朝の恥辱」と記された等、宮中における不人気を物語っている。そのまま隠岐島に流された。
殿ノ法印良忠も捕縛され六波羅の牢にぶち込まれる。ところがこの荒法師は夜半、その怪力にモノを言わせて錠を捻じ曲げて遁走し、密かに尊雲の後を追った。
以後、尊雲は各地に突如姿を現しては消える神出鬼没の振る舞いで幕府軍を翻弄する。
般若寺では五百騎の兵に囲まれ、本堂の大般若経の経箱に身を潜める所を目撃された。雑兵が経箱をひっくり返すと姿は見えず例の『ホーッホッホッホッホ』という笑い声だけが響く。
吉野では6万の軍勢を相手に、7本の矢を受けるが又しても笑って消える。さすがに幕府方は気味悪くなりだした。次に高野山に現れた時は途中十津川にて還俗しており、大塔宮護良親王の名乗りを上げた。令旨を発するやたちまち参ずる者が後を絶たない。
またその頃、以前より怪僧文観の仲介により後醍醐天皇と通じていた正体不明の悪党、楠木正成が河内より猛烈なゲリラ戦を展開していた。
するといかなる技を使ったか魔人は復活し隠岐の島を脱出した。その霊力は以前にも増して恐ろしく、目は赤光を放ち、舌鋒は火を噴くが如し。ついには西国鎮圧に派遣されてきた足利尊氏を寝返らせ、六波羅を全滅させてしまった。
鎌倉の抑えが効かなくなった時代背景もあり、この動きは連鎖反応を起こす。新田は鎌倉に攻め入り鎌倉幕府は滅亡した。
満を持して上洛した後醍醐天皇は上機嫌で尊氏に『尊』の字を与えた。ところがどうしたことか大塔宮が馳せ参じない。宮は何を考えているのか。
「殿ノ法印、これへ」
「御前に」
「わしの代わりに都に上れ」
「・・・宮様は・・」
「行けば必ずや厄災に巻き込まれるであろう」
「それは、いつもの千里眼にあらしゃいまするか」
「さよう。わしには見えた。帝の周りに蠢く魔性の輩多し。足利、土岐、高、佐々木、それらは皆、帝が引き寄せた者ども」
「帝はお気づきにならしゃいませぬと」
「違う。帝がかの者達を邪悪にしてしまうのだ」
案の定、良忠が上洛してみると、いきなり六波羅を攻略した折に手勢の者が狼藉を働いた、との廉で尊氏の手により配下の十名以上が六条河原に晒されてしまった。仰天した良忠は上洛はやはり厄災である旨を宮に上奏した。
いつまでも上洛しない宮に手を焼いた帝は、遂に大塔宮を征夷大将軍・兵部卿に宣旨した。仕方なしに宮は入京するが、その際には総勢20万騎にもなる私兵を率いていた。さすがの尊氏も、その親衛隊を率いる高師直も驚いたが、だれよりも肝をを潰したのは後醍醐天皇であった。二人の対面は魔人と神人が向き合う異様な雰囲気となった。
帝は御簾の奥からもわかる凄まじいオーラを発していたが、宮もまたそれを跳ね返す眼光で対峙した。居並ぶ公家も尊氏もまるで瑠璃光が漂っている錯覚にとらわれた。しかも二人とも型通りの挨拶の後に一言も発しないのだ。末席にいた尊氏は気分が悪くなったが外す訳にもいかず、ダラダラと冷や汗が背中を伝うのをひたすら堪えた。
尊氏が屋敷に帰って来ると弟直義初め高師直以下幕僚たちが首を長くして待っていたが、真っ青な顔色を見て息を呑んだ。
「殿、いかがでしたか」
「どうもこうもない。恐ろしいものを見た」
「・・・恐ろしい・・・と言いますと」
「帝も一筋縄ではいかないお方だが、宮もまた我等の手に負えるお方ではない。宮が征夷大将軍のままではこっちが危ない」
「どうなされますか。一戦交えると」
高師直が一言漏らすと、尊氏が諫めた。
「馬鹿ぁ!宮は20万騎もの私兵に守られている。負けるに決まってるだろう。しばらく様子見だ。帝も警戒されておられると見た。あのお二人親子とも思えぬ」
尊氏も優れた政治家である。宮中含め都の隅々にまで情報網を巡らせジッと待った。諜報の元締めはかのバサラ大名佐々木道誉である。道誉は武名のみならず連歌・闘茶・香道・立花に深い造詣があり、加えて派手な歌舞伎者ぶりに都の子女から宮中の女房達にまで絶大な人気があった。それをフルに使い、はなはだしきは宮中の噂をことごとく知ることができた。何しろ洛南大原野の勝持寺にあった4本の桜の大木が満開になると、その下に3mもの高さの黄銅の花瓶を置き、遠目には立花に見える仕掛けを施し、都中の白拍子・田楽師を呼んで乱痴気騒ぎに興じた。美酒に山海珍味を山盛りにし、巨大な香炉でむせ返る程の名香を焚き上げるという凝りように、都人は喝采し謡い狂った。婦女子でなびかぬものはない。
すると最近天皇の寵愛を最も受けている側室は新待賢門院という姫君であることがわかった。しかも新待賢門院は恒良親王を産んでおり、その皇子を帝位に着けるため最大の障害が大塔宮をであると思っているらしい。
尊氏は舌なめずりする思いで絹やら香やら惜しげもなく贈り続けた。そして頃合いを見て散々吹き込んだのだ。
「それがし、いかに帝のために骨を折ろうとも厭いは致しませぬが、なぜか大塔宮様の御憎しみを賜り候。毎日身の細る思いで勤めておりまするが、ひょっとして大塔宮様は帝位を望んでおられるやも・・・」
抑揚たっぷりにささやかれるとつい確かめたくなるのは人情、帝との寝物語に繰り返し尋ねる。帝は魔人である。股肱の臣が怯えるのを放っておく訳にはいかない。しかも息子とは言え久方ぶりに会ってみれば恐るべき強者になっている。そして勅命に至った。配下の20万騎を解散させよ、と。勅命とあらば是非もない。手勢の多くを所領に帰し、残ったのは殿ノ法印、光林坊玄尊、赤松則裕律師と僅かなものになった。更に帝は清涼殿の御開宴の時に護良親王を捕縛する挙に出た。二人の間には火花が散り、殿ノ法印は吠えた。
「僭越至極!」
「ホホホホホ、殿ノ法印。慌てずともよい。遠からず帝の心安んじ奉る」
「それはいつもの千里眼にあらしゃいまするか」
「帝に女難の気が立ち上っておる。その後、もののふ共も離反あり」
尊氏はこの機を逃さず、宮の身柄を確保したのちどさくさ紛れに鎌倉にいた弟直義に預けてしまった。
大塔宮は初めから坂東武者の田舎者をことごとく見下し、足利兄弟はいつ裏切るかわからないと警戒していた。しかし帝は鷹揚な尊氏をコンントロールできるのは自分だとの自負が強く、むしろ危険なのは大塔宮として、結局希代の政治家尊氏の思う壺にはまった。魔人も神人も政治家に手玉に取られたのである。
「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)」
二条河原に墨痕鮮やかな落書が高々と掲げられた。
「追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)」
見苦しく蠢く者をあげつらい、禅宗・律宗などにも冷水を浴びせる。
「キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ
賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ」
ドサクサと官位にありついた成り上がりを貶し、
「為中美物(いなかびぶつ)ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツヽ
気色メキタル京侍 タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好(いろごのみ)」 その田舎者ぶりをこきおろす。
「ハサラ扇ノ五骨(いつつぼね) ヒロコシヤセ馬薄小袖
日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕」
東国侍の風俗を嘲笑う。
後年、庶民の怨嗟の声との解釈もなされたがさにあらず。鎌倉に引かれる直前に大塔宮の命を受けた殿ノ法印が叡山の僧に仕立てさせた最後通牒だったのだ。
鎌倉では尊氏の命を受けた直義が手ぐすね引いて待っていた。この弟は、豪胆無比でともすればあっけらかんとした気前の良さとおおらかなところのある兄尊氏と違い、厳格にして果断。万事筋を通すのだが猜疑心が強く粘着する。尊氏は島流しくらいのつもりだったのだが、宮の扱いは苛烈を極めた。背伸びもできない湿気の多い土牢に閉じ込め、共に落ちて来た殿の法印等の側近達とは顔を合わせることを禁じた。更にむごいことに、愛妾である雛鶴姫のみ月に一度土牢に通わせるという仕打ちである。その日は土牢を見分させる鬼畜の振る舞いまでした。
さしもの宮もげっそりと痩せこけ日に日に神人の面影は薄くなる。
運悪くその半年後、滅ぼされた執権北条高時の一子、時行が残党を率いて一矢報いんと鎌倉に雪崩れ込んだ。中先代の乱である。時行にすれば親の弔い合戦、怨念の塊のような鬼神の攻撃に直義は溜まらず鎌倉から退却する。その混乱の最中に後顧に憂いを絶つとして七人もの刺客を差し向けた。はたして宮は覚悟を決め、開け放たれたにもかかわらず牢から出てこない、いや既に足が萎えて自由歩行ができなくなっていたのだ。暗い土牢に恐る恐る押し入った一人目の刺客は絞殺された。その首に飛びついた淵辺義博が太刀で喉元を刺そうとする、宮は振り向きざまに剣先を噛み折った。こぼれた太刀でなんとか首を取り、這い出して見分しようとした途端、見開いた目が動き淵辺を見据えた。
「ギャーッツ!
思わず放り出し逃げ去った。
大塔の宮の千里眼はその後ことごとく当たり、後醍醐天皇は南朝に君臨するも二度と都に上ること叶わなかった。その魔人天皇に時に従い時に反目しつた足利兄弟も終いには相争い直義は毒殺された。直義の天敵だった親衛隊長たる高師直は観応の擾乱によって戦死。室町幕府を開いた尊氏にしても最期は背中の腫れ物に苦しめられた。廱(よう)即ち黄色ブドウ球菌による毛嚢の化膿の集合体である。拳大に腫れあがった肉腫にはハチの巣のような穴が開き血の混じった膿を脈と共に吹きだすという恐ろしい苦しみの中で死んだ。
帝の女難の相は結局のところ大塔宮の方に降りかかったのだった。この混乱を最後まで生き残ったのはバサラ者の佐々木道誉だけであったが、婆沙羅こそ乱世に会っての華であり、平時には趣味の悪い毒でしかないのである。
ところで、恐怖のあまり投げ捨てられた宮の首はどうなったのか。
大混乱の最中に密かに土牢に駆け付けたのは宮に従って来た愛妾の雛鶴姫と供の者数名。雛鶴姫はそこではっきりとした宮のカン高い声を聴いた『雛鶴、こちらじゃ』。その声に導かれるように藪に分け入ってみると、果たして変わり果てた宮の首が転がっていた。ああ、宮様、と駆け寄って泥と血にまみれた首を取り上げると、宮の瞳ははっきりと雛鶴姫を見つめたのだ、口には噛み切った剣先を咥えたままに。
「おいたわしや」
水で洗い清め薄化粧を施すと、生前の面立ちが蘇り生きているがごとく艶やかであった。
雛鶴姫と供の者の数名は途方に暮れたが、ともあれ鎌倉にいてはどうなるのか分からない。ひとまず都を目指そうと鎌倉街道を北に進んだ。
戦の直後とあっては落ち武者狩りのの野伏りや武装百姓が金品目当てにそこかしこに潜んでいる。そこを僅かな人数での逃避行は危険極まりない。そして、実は雛鶴姫は宮の子供を宿していたのである。
武蔵の国を横切り、相模の津久井を抜けたあたりで案の定野盗の一団に目を付けられた。人数の少ない上に女人の遅い脚、たちまち取り囲まれた。
「クククク。金目の物とその女を差し出せ。命は助けてやる」
頭目とおぼしき大男が笑みを浮かべて凄んだ。
ところが雛鶴姫は少しも動じない。にこやかに供の者を促し、葛籠の中から丸い円筒状の物を取り出すと、捧げ持つようにして中の物を取り出した。
「なんじゃ、それが自慢の宝物か」
うそぶきながら近づいた男はその物を見た途端『ぎゃああああ』と叫んで後ろに倒れた。
何とそれは生首で、しかもその瞳ははっきりと男を見つめると虹色の妖しい光を発した。他の野盗共も『ヒイー』と怯えた声で飛び散るように姿を消した。
一行が甲斐の国に差し掛かかった頃は旧暦の年末、雪のチラ就くほど寒かった。人里離れた渓谷沿いで、間の悪いことに雛鶴姫が産気づいてしまった。
急ごしらえの褥(しとね)で難産の末皇子を出産したのだが、旅の疲れと寒さにより哀れにも母子は亡くなってしまった。
あまりの無常さに残された従者はこの地を無生野(むしょうの)と名付けて雛鶴姫と皇子を手厚く葬った。今日まで伝えられる無生野の大念仏という行事は、護良親王の神霊と雛鶴姫母子を弔うものとして、その地で帰農した従者達によって残された。現存する雛鶴神社は母子を祀っており、石舟神社は大塔宮を祭神としている。尚、真偽のほどは分からないが雛鶴姫が押し抱いていた宮の首も石船神社に残され、年に2度公開されている。現在、無生野の大念仏は国の指定無形文化財でありユネスコ無形文化遺産への登録が提案されている。
この話には続きがある。護良親王の皇子である葛城宮綴連王(つづれのおう)、陸良もしくは興良親王は南北朝の戦乱の中に行方不明となったが、実は雛鶴姫の没後20年ほど経ったこの地に現れ雛鶴姫と兄にあたる皇子の話を聞かされる。そしてこの地を定めの場所として居住し、一子五孫を得て天寿を全うしたという。
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