Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 僕の〇〇時代

僕の野球地獄変

2014 JUL 30 20:20:27 pm by 西 牟呂雄

 SMCの野球観戦レベルは、やはり元高校球児の東 大兄の一連のブログのおかげで高い。しかし僕自身は野球をセッセとやったことはなく、テレビを熱心に見る方でもなかった。少年の頃に後楽園時代のファイターズを外野スタンドから応援したことがあるくらいだった。
 ところが一時期、試合の結果(結果のみですよ)に一喜一憂したことがある。正統なファンからはお叱りを受けるであろう理由からだ。

 僕は新入社員時代でバクチから卒業したと書いたが、古いメモを見て気が付いた。それは誤りで、もう少しかかった。話せば長い。
 ペイペイから末端管理職になった時は小さい所帯の長で、みんな仲が良くたまに飲みに行ったりしながらテキパキと営業をこなしていた。組織として実際は我々より偉い人の方が数が多いので、自分も「管理者」というよりはプレイヤーだった思いの方が強かったし、仕事はヒラよりもむしろ増えた。
 営業の人間の一人は、元々は技術屋が営業職になった実直な奴で、そしてオリックスの大変なファンだった。当時は某テレビ局が巨人戦をガンガン中継していたので、パ・リーグのほうは見向きもされないと言っては失礼だがマイナーな存在だ。僕は冒頭に紹介した成り行きで日ハムを応援していたので、彼と試合結果を見ては「勝った、負けた」と盛り上がった。この頃オリックスVS日ハムの試合に注目する人なんかいないので、何か秘密を共有するような楽しみがあった。
 暫くして盛り上がり過ぎてついに一試合ナンボの賭けが始まった。直接対決は毎日はない。プロ野球ニュースで力を込めて見ては多少の金額をやりとりするくらいでかわいいもんだった。
 すると、その彼が
「大阪支店には熱狂的な近鉄バッファローズのファンの Oというのがいます。」
と言ってきた。電話すると、早速オールスター後の後半戦から参入することになり、三つ巴になったのだ。俄然自分で戦っている気がして力が入り楽しいシーズンとなった。しかし優勝争いはいざ知らず、下位チームでの見入りはどんなもんかというと、一年も戦い続けて勝った方と負けたチームの差何千円にもならなかった(確か勝ったはずだ)。

 次の年は大阪の Oもやる気満々で初めから参加した。野茂がまだ近鉄で活躍していた頃である。日ハム対オリックスに限れば、大化けする前のイチローとダイエーからファイターズに来たアイアン・ホークこと下柳投手の対決(僕はこの下柳投手がその後も好きだったなァ)が話題になるくらい。他に「まいど!」とお立ち台に上がるガンちゃんこと岩本投手なんかもいたっけ。
 ところが面白いことに『それに入れて欲しい。』というバカな奴が出て来てダイエーだロッテだ西武だと6チーム総当りになってしまった。
 たまには西武球場や東京ドームに繰り出し奇怪なルールでも戦った。即ちゴルフの握りのように、三振・死四球・エラー等には罰金が科せられ、ホームラン・盗塁・ダブルプレーにはご祝儀が出る。その他忘れてしまったが様々な決め事が観戦のたびに加えられて、試合は負けても掛け金では稼げる、といったふざけた事も起きた。これは見るだけで疲れた。
 それで肝心の総当りの結果はというと、シーズンを通して総当りでやっても最終的には大きな金額は動かない。それは優勝が決まってしまうと優勝チームは日本シリーズ調整という手抜きを始め、他は年棒の帳尻合わせの個人記録のために有力選手が勝手なことをして、どの球団も勝ち負けを度外視するからだ。これは僕達のようにまだ戦っている者にとっては非常に迷惑だった。更にこういうのは中毒というか、エスカレートというか、最終戦の消化試合頃には連戦の賭け金に異常な高値がついたり、1点いくらのあからさまな賭博にまでなった(もう時効ですが)。

 だがこの戦い、猛烈な抗議を受けて翌年から一切できなくなる。さる女性社員が目を据えて怒った。『あたしはギャンブルが大嫌いなんです。毎日毎日職場で現金のやりとりしているのを見るのは耐えられません。訴えますよ。』
 いささか調子に乗りすぎたと反省した。不真面目な俄かファンなんて底の浅いもので野球への興味も薄くなった。
 しかもその後暫くサッカーでも何でも勝ち負けを賭けていないと全然見る気が涌かなくなって困った。一度だけ箱根駅伝の往路・復路・総合を当てるといった賭けに乗ったが、終わった後、心の底から選手に失礼だと思い二度とやっていない。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

悪戦苦闘物語 (今月のテーマ 振り返り)


 

僕の中国事始め

2014 JUL 28 23:23:51 pm by 西 牟呂雄

 Y2Kという言葉をご記憶か。西暦2000年に暦が変わると、それまでコンピューター上に入力されていたデータは西暦の下二桁(’99とか)だったので、年が変わった途端に’00’となった場合認識できなくなってシステムがダウンする、という心配を世界中がしていた。お上から「年が変わるときに飛行機で移動しているような旅行日程はできるだけ避けろ。」というお達しがあったくらいである。
 既に日本のバブルは弾けて久しい時期だったが、90年代に中国進出した連中は結構稼いだ所も実はあった。僕達もこれでは先が無さそうだ、更に国内の需要家がどんどん移転し出していく中で、遅ればせながら大陸進出を検討しなくてはとなる。さて場所はどうするか、東莞や上海の周辺は既に出尽されていた。外資導入のモデルは大都市近郊の農地をザーッと取り上げ、もとい整地して開発する。道路・電気・水にホテルといったインフラを整備して、モデル的なレンタル工場をいくつか並べて呼び込むといったスタイルがスタート。しかし簡単な話であるが、人気が出て進出企業が増えてくるとそこは中国、後発組はふっかけられることが多い。つくづく身に染みたのだがアノ国(人々)は取れる所からは搾り取るのが当たり前なのだ。90年代の先発組にもヒアリングしたのだが、笑うしかない話は山程聞いた。単独独資で進出できなかった頃は行政と合弁させられたりして苦労する、大企業に多かったケースがひどかった。トップが中国熱に浮かされていて強い指示が下ってしまうが、現地のフロントでは日本で考えているより交渉はタフで、板ばさみになることが多いと聞いた。一番手っ取り早いのは、トップが乗り込んで『ここまで言ってもまとまらないなら仕方が無い。もう帰ります。』とやると、相手もそれなりに譲歩するパターンだった。田中・大平の日中国交回復などはそのノリだったことが窺える。しかしごく一般の民間ではそこまでやるトップはまずいない。僕も『これで駄目なら席を蹴って帰ってきていいですか。』とやったが、返事は『そこをうまくやるのがお前の仕事だ。』と凄まれた。何回か訪問し、場所については北京・上海・東莞・大連といったあたりを微妙に避けて長江デルタの外れあたりに目を付けておいた。
 次はパートナー。僕がいまさら中国語をやっても手遅れだ。申し分ない日本語ができ、共産主義者でもなく、なおかつ反日感情が薄く、英語は分かる、と条件を挙げればキリがないが、驚いたことにグループ会社の片隅にそういう人材がいた。しかも女性だったので、ハニー・トラップの恐れも無い。早速条件を吊り上げてスカウトし、僕とコンビを組んだ。実は大変な人だったが。
 その頃長年一緒にやっている台湾勢が大陸進出のために購入てした工業区の視察にも行って椿事を目撃することになる。「ここがこれからの研究拠点になります。」と指差した先には掘立小屋が立てられていて、子供の下着が干してある。更になにか土を耕して変なものを収穫している形跡があって、案内の台湾人は怒りに震えていた。こっちは笑いに震えたのだが。

 文革で下放された世代は、約10年分の受験生が溜まってしまったが(日本に帰化して評論をしている石平さん等の世代)、コンビを組んだ女性はその環境の中で名門清華大学の工学部に合格。卒業後、日中友好の流れで〇〇国立大学の大学院に留学し、日本が気に入って就職までしてしまった。スパイじゃないかと思う程の美人だが独身で、工場の現場技術屋(アナログ系の電気技術者)で働くうちに、海外出張をする際の手続きの面倒さに嫌気がさして帰化してしまったという変わった人。出身は北京の盛り場、かの王府井(ワン・フー・チン)で東京で言えば銀座生まれなのだ。伝統的な北京の読書階級を老北京(ラォ・ベー・ジン)と言うが、まさにそれだ。都市戸籍と農民戸籍が分かれていることは日本でも常識化しているが、この人は田舎者のことをあからさまに『あの農民』という言い方をして徹底的にバカにしていた。共産党員でもなく謎めいた経歴だが、後にその理由が判明する。

 いくつかの候補地を訪ね歩き『いやならこのまま帰る。』のノリを押し通して、ある外資系の貸しビルの二階に決めた。下は金属加工会社でガリガリ騒音がしていた。チャチなクリーン・ルームを設置してまがりなりにも体裁が整った。そして日本から設備を入れる段になってもう一苦労する。現地の行政がスンナリ通してくれないのだ(普通のことらしい)。東京サイドは『何故だ。』『今になっておかしいじゃないか。』と言うばかりで大した対策が来るわけじゃない、頼りにはならなかった。半藤一利氏の『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』に詳しいが、現場に来ようともしない。指示は何とかしろ、これだけ。どうも昔からそうなんですな。若い頃から参謀的な仕事をしている人にありがちな傾向だ。そこでパートナーの彼女が絶大な能力を発揮した。『中国人に任せなさい。』『女が話した方がいいですよ。』『接待しましょう。』と、ありとあらゆる手練手管で通してしまった。終いにはほぼ不可能と思われた使用機械の第三国移転という離れ業までやりとげ、僕達を唖然とさせた。これには僕も一役買っていて、とにかく英語で喋ってくださいと言われ、それなりに丁寧な英語で説明した。彼女は隣りで僕の英語の10倍位の言葉を捲し立てる。どうも僕の説明なんか聞いていないのだ。想像するに、まともにやってもダメに決まっているから適当に英語を訳しているフリをしながら『どうしてダメなのよ。あたしは北京の××とも知り合いだからそれに言いつけてやる。』ということをがなり立てていたのではないか(実際北京にそういった知り合いが多かった)。不思議なことにいろんなことがナントカはなった。僕達は『歩く中華思想』と呼んでいたが、気に入らない従業員のリストラなんかは得意中の得意。実に頼りになった。
 
  トコトコ始めた工場だったが一年も経たずに、妙な値上げを要求されサッサと移転する。向こうがびっくりしていたが、引きずり込まれてなるものか、と気迫の拒否で同じ街の雑居ビルに移転。この時点では、勢いで進出したものの中小企業組を中心に聞くも涙語るも涙的な撤退の話が散見されていた。家賃の理不尽な値上げもその一例であるが、取り込まれてズブズブにむしられ帰るに帰れない、結果乗っ取られるような悲惨な話も無いではない。もっと借り手の方もタチの悪いのになると、本当に夜逃げをしてしまって家賃を踏み倒したケースも近くで起こった。
 そして官民問わず、何かと言えばたかりたがる拝金主義。脱税目的で現金を香港のダミー会社に支払いを要求するやら、ある女実業家は家賃をまける代わりに自分の商社を通じてモノを購買しろ、と迫る。この人のご主人は地元政府の外資誘致局長であった。これからの話は面白すぎて誇張されているのだろうが、その局長は汚職で逮捕されかけたものの、一転政治取引をし全てゲロッてこんどは取り締まる側になったというオチがついている。

 元々少数民族だった『元』でも『清』でもドップリ漬かっているうちに、なんとなくチャイナ化して漢字を使い、宦官にチヤホヤされているうちにおかしなことになって、最後は北に帰っていく。アメリカだって戦前から何かと手を突っ込んでみるが、結局儲けたという話はほとんど無い。グーグルの撤退が典型的だろう。散々アヘンを売りつけてトンズラした英国だけではないか、いい思いをしたのは。
 
 かの女性パートナーは実は、満族(女真)出身だったことが分かった。すると彼女の振る舞いは全て腑に落ちる。共産党は現在政権を握っているがその前は国民党でその又前はあたし達が・・。とはさすがに口に出さなかったが、あの上から目線の謎は案外そのあたりの気質が出たのじゃないかと思ったものだった。
 風光明媚な場所だったので気に入った工場だったが、建屋のオーナーは酔っ払っては運転しているベンツを道端で止めては道にゲロを戻すような人だった。あのオーナー、今どうしているかな。太田胃酸を分けてあげたよなぁ。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

僕の駆け出しヒラ時代

2014 JUN 26 12:12:23 pm by 西 牟呂雄

 僕は25歳で地方から東京に転勤して来た。現場は全国に散らばっており、品種は多岐に渡る。それぞれいろいろな工程を経て製造され、納期に特徴もある。そういった製品群の厖大な注文を、どこで、いつまでに、どれくらい生産するのかを一元的に管理する部署に配属されたのだ。先輩達は折り紙付きの優秀な精鋭ばかりで、上司は一選抜中の一選抜の怪物。着任した途端に圧倒された。当時はパワハラとか残業規制といった概念そのものが全く無く「時間がかかるのはお前が無能だからだ。」と言わんばかりの迫力で、しかも不思議なことに鬱病になった者など過去一人も出ていない驚くべき職場だった。特に四半期計画策定の時は、ほぼ全員が休日に出勤してきて更に徹夜することが常態化していた。
 ある日曜日!サボっていて月曜の会議資料が何も出来ていなかったので焦って朝から出勤した。着いてみるとある先輩がすでに来ていて、ガンガン仕事をしていた。その日はなぜかその先輩と僕だけだったのだが、口も利かずに一日中働いて夕方帰ろうとすると「オレも帰るから一緒に出よう」と言われた。そして会社を出た時の一言に気が遠くなりそうになった。
「うむ、三日振りに吸う外の空気はうまい」

 そのうちに解ってきたのだがこの職場、他部門からは社内三大タコ部屋と言われていた。会議なんかでは独特の用語とともに、考え方がどうだったかが非常に重要視されていて、議論ともなると極めて神学的な論争になる。ペイペイの納得感やら達成感なんかはどうでも良く、ただひたすらに忙殺された。
 更にまずいことに、タダでさえクソ忙しい上に全員が酒とバクチが大好きだったのだ。あんなにコキ使われていて時間が無かったはずなのに、どういうわけかメチャクチャに酒を飲んで酔っ払い、麻雀に入れ込んでいた。この結果ロクに恋もできずに、尚且つ経済的にも困窮し、大幅に結婚が遅れた。大きな声では言えないが、先輩幹部が先頭になって煽るものだから、ヒラが調子付くのも無理はない。
 暫くして後輩達が何人か配属されてくると、その”悪い”傾向に拍車がかかり、給料日のたびに大金が動いていた。ツケの払いと麻雀の負けを払うからだ。今から考えるとこの光景は実に『昭和』であって、今日の若いサラリーマンはぜんぜん違うだろう。本人も好んでやっていた訳でもなく、ああせざるを得なかったように思う。更にここだけの話だが、当時は組合員だったので本部から無利子の融資があったのだ、まぁ×十万円が上限だが。僕の仲間は全員上限一杯借りていた。。
 ある景気の悪かった時に残業規制が始まった。規制もクソも元々忙しすぎるのに麻痺していたから全員『それがどうした』状態だったのだが、問題は公平感。職場単位に割り当てられた残業時間を誰がどう取るのか。頭割りにする案は何故か却下され(会議までやった)紛糾した挙句に上司が下した結論は『麻雀の負けに準じて時間配分する』だった。驚くべきことだが、この非合理な提案に全員が心の底から『何という素晴らしい案だ』と賛成してしまった。忙しさと負けの恐怖感で正常な判断ができなかったのだ。
 その頃始めたゴルフはもっと強烈だ。右だ左だバンカーだパットだと様々なモノに金がかかっていて、18番ホールのグリーン上でのスリー・パットは高額になる始末。そして中にはスコアは120くらいのくせに確実に稼ぐ奇っ怪なプレイヤーがいて、とてもスポーツとは思えなかった。

 しかしそんな暮らしの中でもちゃんとエリートは育っていて、今でも付き合いがある先輩・同期・後輩。ある人は忙しい中にも拘わらず女にモテまくり、得意の英語を駆使しつつ、ガンガン仕事をしていた。そう言えばこの人は確か麻雀はやらなかった。こういう人を見てしまうと、僕程度の能力では余計なことは考えず能率とスピードだけに興味を集中させればそれなりにやって行けると悟った。
 かくして生活は荒れ放題に荒れ、遅くまで会社でドタバタしてから深夜の六本木で暴れ回り新宿のサウナで目覚めてから出勤するようなことまであった。しばしば一体何の為に働いているのか夜中に自問したが、答えが出たためしがない。それどころか盛者必衰の理を表すの伝え通り、メチャクチャ暮らしにピリオドを打つ時が刻々と迫っていたのだ。

 ある週末に二日酔いで水を飲んでも戻してしまい、激痛にのた打ち回っていた。これは酷い胃痙攣だろうと思ってジッと耐えていたのだが、週明けに病院送りにされた。急性すい臓炎!
 医者があきれかえって言う。
「まだ若いと言ったって、これでよく胃と肝臓が持ちこたえたもんですな。」
中年のアル中がたまになる病気だった。20代の発症例が極めて少ないそうで、毎日のように教授が学生・インターンを連れて回診に来て、どうしたらこんなに酷いことになるのかを解説していた。それは飲み過ぎなのだが。ベットの上で鼻から胃までチューヴを入れられ胃液を汲み上げられる人間サイフォン状態になって、これからどうしようか野菜造りでも仕事にするか、等と考えて落ち込んでいたら、見舞いに上司が来てくれた。僕は『こんなになるまでコキ使って済まなかった。』程度のことを言われたらどんな顔をしたらいいのか思いを巡らせたのだが・・・・。
「ワシ等が20年以上毎日飲んでも何とも無いのにだらしの無い奴だ。サッサと直して早く出て来い!お前がいないと退屈でしょうがない。じゃこれから飲みに行くから」
 これだけだった。
 普通はこの手の話は後に『あのときの試練があったから・・・。』と続く成功譚になるはずだが、僕の場合何にもならなかった。再発率の高さにビビッテいたのだが、元々の発症率が大変低く、退院してしばらくして又飲み出したからだ。バカは死ななきゃ直らない。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

僕の新入社員時代

2014 MAR 17 10:10:19 am by 西 牟呂雄

最後に学校を卒業をした今から数十年前、僕にも初々しいフレッシュマンだった頃がある。最初の配属は某県の現場だった。そこの生産スケジュールを管理する工程員としてサラリーマンの第一歩を踏み出したわけだ。地方だから独身寮があり、先輩達が寮でしてくれた歓迎会に仰天した。壇上の壁に『儀』と書かれた紙が貼ってあって、その前にバカでかい杯が鎮座している。ズラリと並んだ先輩達は一言も口を利かない。声一つしない中、司会者が壇上に現れると(この人には生涯頭が上がらないくらい世話になった)大音声で言い放った。

「新入社員諸君。配属お目出度う。我々は心から諸君を歓迎する。本寮への入寮者は、過去一人の例外も無く『儀』の洗礼を受けている。今年も滞りなく無事に済むことを祈っている。」

と書くと立派な入寮式に聞こえるかも知れないが、中身はその大杯なみなみと注いだ酒を一気飲みさせることだった。学生でも今どきしないと思うが、製造現場は田舎で、規模のバカでかい製造所だったからそのような野蛮な風習が残ったモノと思われる。事実その会社は僕の配属になった所以外にもいくつかの拠点があって、どこでも似たようなことをしていた。大杯だった僕たちはまだマシで、ある現場ではヘルメットに注がれたと聞いた。ヘルメットは底にチョロっと入れて3合だそうだ。
 まるで戦場のような宴会に呆気にとられた。

 通勤が始まる。会社の通勤バスが寮から各工場行きに朝も昼も夜中も出る。寮で歌い継がれた『通勤節』という、行き先をズーッと繋げただけの歌が宴会のたびに高らかに歌われていた。
 仕事は工程スケジュールの管理だが、動かしている工場は学生の想像をはるかに超えていて、1ライン三交代で数百人、全体では数万人の人が働く巨大なコングロマリットだ。機械化された自動運転の高能率かつ知的集約型の工場ではあるが、スイッチ入れれば動くような甘い代物じゃない。生産計画を立てて(これは割と機械的にシステム化されていた)製造命令を現場に下ろすのだが、日々思わぬトラブルがあちこちで起こり、現場には現場の都合があり、電話は掛かるし,上司は怒る。
 楽天的なものだからこんなもんだろうとと開き直った。そのくせ何故か夜遅くまで残業していた。これは新人の僕だけじゃなくてベテランから女子社員までセッセセッセと居残っていた(当時)。

 当時はパワハラもセクハラも何にも無いし、鬱病でさえそんなポピュラーな代物じゃなかった。モロに体育会のノリで、その証拠に新入社員も応援部とかボート部、野球部の出身者がたくさんいた。これ等は礼儀は正しいしつまらん小理屈は言わないし、実際仕事もテキパキとこなす。一方の僕はと言えば、今度こそ真面目にやらなければ、と一念発起して固いメーカーを訪問した。人生リセットの勢いだったが、結局今から考えると素性がバレるのは時間の問題だった。

 翌年の暮れにとんでもないオチがつく。僕たち工程スケジュールを組んでいる者はラインが動いている間は4日とか5日をまとめて休むことなんかできない。特に年末は第4/四半期の稼動日数が少ない(正月の一部休止と2月の暦日数の関係)ので、年末31日と正月2日くらいに出勤して生産命令を出さないと工場が止まってしまう。帰省で人も少なくなった寮でヒマを持て余した僕は、バイクでメシを食いに行った。ラーメンの大盛りか何かを食ったあと、世間では紅白歌合戦でも見ている頃には寮に帰ろうと飛ばしたのだが、突如、一瞬宙に浮いた感じの後、ガササッ!と音がした気がした。
 次に気がついたのは河原に寝転がっている自分だ。真夜中なのは間違いない、どうやら気絶していたらしい。アチコチ痛いがどうやら動く、起き上がってみるとライダー・スーツを着たままで、すぐ側に水の少ない川があった。回りは渓谷になっていて、バイクごと転落したらしい。そこら中に石が転がっていて、頭から行ったらと思うとゾッとした。ともあれ助けを呼ばなければ、ほぼ無傷の僕は崖(3mくらい)をよじ登り、近所の家を探し(100mくらい先に2軒あった。行く年来る年を見ていただろう一家の人ごめんなさい)救急車を呼び、病院に行き、警察調書をとられ(結局自爆ということで違反なし)新年を迎えた。読者は俄かに信じられないだろうが、恐ろしい真実である。付け加えると僕は夜中に病院を脱走し、ヒッチ・ハイクで寮に逃げ帰った。

 更に後日談がある。新年4日の仕事始めに会社に来た幹部は当然ながら怒り狂った。悪意のある噂が既に蔓延していたのだった。どう責任取るのかと怒鳴られ、一瞬考えて『倍働いて何とかします』というと、係長・課長を従えた部長が厳かに指示した。『こんなのが倍も働いたらメチャクチャになる。ベテランを付けろ』
これでは将来真っ暗なことぐらい僕にもわかった。

 
 
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。
 

何回も卒業した

2014 MAR 7 12:12:28 pm by 西 牟呂雄

 学校からは5回卒業したが、いつも大した感慨が湧かなかった。僕はどの学校でもどちらかというとマイナーな存在だったし、セレモニーが似合わない性質なのでヤレヤレという感じが強かったように記憶している。友達もそんな奴らばかりだったので、皆盛り上がらなかった。さあ、次に行こうか、といったノリということか。これは東京育ちで、周りの連中と大体似たような進学を繰り返し、更に地域的にも物凄く狭い範囲に通い続けてしまったので、一人だけ遠くに旅立つという感覚にならなかったせいじゃないだろうか。大学までの一貫校の奴らもそれに近いことを言っていた。今から考えれば、海外に進学でもしたほうが人格形成上良かったような気がする。卒業・リセット、そして次への飛躍という気になった初めは、就職して初めての現場に赴任した時、今度こそ真面目にやろう、と力が入った時かもしれない。

 そもそも学生時代全般にわたって、勉学でもクラブ活動でもスポーツですら、打ち込んでやるようなことはやってない。従ってモノになったものはない。ギター・ドラム・スキー・ゴルフ・ヨット全部中途半端に終わってしまった。勤めてからも、大体2年半くらいで担当が変わり、ナニナニの神様というようになるような育ち方をしていない(どこでも使い物にならなかった、の声あり)。
 そういえば、仕事内容が変わった途端それまでの同僚達とは連絡を取らないようにしている。僕はそういうのを普通のことだと思っていたが、中には嘗ての同僚とOB会のように頻繁に会う人も多いらしい。少数の各時代の仲間(小中高大と3人~5人くらい)とは付き合ってはいるが、それは利害関係が無いからで、どういうわけか上司・同僚・部下といったしがらみが継続するのが生理的に面倒なのだ。

 この楽観的な軽薄さに救われているのだろう。年齢のこともあり(アラカン!)本当の意味の船出は実はこれからのような気がしている。その際の多くのヒト・モノをそれこそ”捨て”たのかもしれないが(捨てられた?)、どんなもんだろうか。以前にも書いたが、これからは新しく人と出会ったり、余計なことに首を突っ込んで迷惑を撒き散らすのは止めようと思ったものの、おかげさまでセッセとブログを書いたりしている。人は嗤わば笑え、何が起こるかはわからないのだ。

 それで次に卒業するのは、この世からグッド・バイだから、今まで目を背けてきたかもしれないものも良くみておかなけりゃ・・・。何てね。

 一つ書き忘れたが、学生時代に趣味と同じように極められなかったことにギャンブルがある。これが全くと言っていいほど才能がなかったのだが、見事に卒業できた。 
 その昔、ある宴会で何の拍子か競馬の話になり、よせばいいのに半端なウン蓄を偉そうに喋った。酔いが回って引っ込みがつかなくなり、有馬記念の大勝負を挑まれてしまった。
 この競馬で勝負を挑んでくる、とはさすがに今から考えるとバカの極みなのだが、とにかくそれを受けざるを得ず、手持ちの現金をアラカタつぎ込むことになったら、これが奇跡的な大当たり。百万を越える金を手にすることになる。元から使い道なんか考えてなかったからタガが外れた。今であれば銀座で一晩で使えるのだが、そのころ配属されていた田舎では、スナックを借り切りにし、お寿司を出前して、レミー・マルタンをぶちこんでも大したことない。一週間くらいそんなことばかりして大半を使った週末の朝、ひどい二日酔いで目覚めた。寮の四畳半の部屋だったが、部屋の中で蟻が引越しの行列を作っているのだ。ついに幻覚が出たのか、と恐怖した。そして混乱した頭で「神様、もうギャンブルはやめます。酒も控えますからまだ廃人にしないでください。」と祈った。実は蟻の行列は幻覚でも何でもなくて実際にあったのだが、結果としてこれがギャンブルからの卒業になったのだ。

(筆者注 本年ヨット仲間の新年会でこの禁をやぶり麻雀をやった途端、一局目の東場でリーチ一発ドラ八を振り込んで×万円を飛ばしたことを報告いたします。)

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊