Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 僕の〇〇時代

僕の修行時代 インテリジェンス編 (今月のテーマ インテリジェンス)

2016 DEC 30 10:10:57 am by 西室 建

 その男は台湾生まれの日本人だった。
 台湾語も北京語も自在に操る語学力と滅法切れる頭、そして頑強な体力をもっていた。

 当時台湾は国民党が上陸してきて戒厳令を敷き白色テロが横行する不安定な状況だった。本気で大陸に反攻する気だった蒋介石はあれ程激しく戦った日本とは反共国家同士として国交もあった(田中内閣以前)。当時はまだ貧しくもあり、大陸からのスパイはウヨウヨしていたようで、それは国民党側も多数の人間を共産党内部に送り込んでいたから互いの手の内はスカスカな時代だったらしい。
 本当かどうか確かめようもないが、その男は香港・マカオ・台北に拠点がありその辺りをウロウロしていた。僕がその男と知り合ったのは遥か後年、台北の繁華街として日本人にも有名な林森北路(リンシンペールー)の飲み屋だった。カラオケに興じていたところ隣で古い演歌ばかりを歌っているオヤジがいて意気投合した。随分羽振りがいいものだから調子を合わせて二次会・三次会と飲み歩いて名詞を交わしたが、その時は日台の貿易振興NPOの名詞だった。僕より大分年上だからA先輩と呼んでいた。
 勃興する台湾経済がしきりに日本に秋波を送って、国際的に孤立しないように気を使っていた。台湾はASEANにも入っていないし、李登輝政権が民主的に出来る直前の話だ。
 当時僕も台北にはよく行っていた。たまに連絡をして(年に2回くらいか)飯を食ったりして遊んだ。その時に元自衛隊にいたことは聞いた。へ~え、と驚いたものの年から言って先の大戦とは無関係のはずで普通の就職先の一つという認識しかない。
 本人は物腰の柔らかい小柄な紳士だったが、時々「海南島」やら「金門島」の名前が出る。海南島は中国の領土で当時そう簡単に行けるところではないし、金門島は言ってみれば中台の最前線にも当たる要塞だ。
 更に蒋経国・蒋緯国兄弟(蒋介石の息子達)の名前が出たりして、国民党にも太いパイプがある口ぶりだ。 

 3年ほどして、あるきっかけでA先輩のバックに謎の組織があること(あったこと)が分かった。白団(現地語でパイダン)と呼ばれる。
 中華民国は国共合作をしたり反発したりしつつ日本とドロドロに戦争しながら、日本が敗戦となった後はもっとひどい戦乱国家となり、アメリカも強く支えず国民党が台湾に上陸する。その後も共産党に推されまくっているうちにあろうことか秘密裏に旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団の協力を仰いだ。無論GHQの後押しあっての事だ。それが白団(パイダン)と呼ばれる秘密軍事顧問団であり、中心人物富田直亮元陸軍少将の中国偽名 白鴻亮 から名付けられたと言う。
 どうやらA先輩は若き日にはその組織と繋がっていて主に防諜を担当していたものと推察された。

 それから僕はA先輩にスパイダーというコード・ネームを付けて(だって本物のスパイかもしれない)秘かに見よう見まねで諜報活動・秘密戦の修行を始めた。
 だが、既にスパイダーはちっとも活動しないのである。『マカオに連れて行って欲しい』とか『台湾の民主化によって防諜はどうなるんでしょうか』としきりにコナをかけるのだがニコニコするばかり。一度尾行しようとしてこっちが道に迷って失敗した。
 結局肝腎なところは言を左右にして何も語らなかった。こんな具合だ。
『海南島で暗号通信を傍受したとするとそれを伝達するのには又別の電波を使う事になるでしょう?』
『いや、漁船で釣りをしてたら海が荒れましてな。高雄に帰港するのに二日かかったんですよ、ワハハ』
 これでは何も分からない。
 しかし、それでもたまにギョッとするような示唆をしてくれた。忘れもしない李登輝氏の選挙中に大陸がミサイルを撃ち、第七艦隊は空母を派遣したアノ時である。台北市は戒厳令下のようにネオンが消え人通りも絶えて緊張したが、スパイダーはこう言い放った。
『ありゃ空砲だよ。弾頭は空っぽだから心配しなくていいさ。リ・タンフイ(李登輝の事)もそのことを知ってるよ。』
 
 結局何も教わらないうちに僕は台北を引き上げ、ひとりでスパイ修行に励むことになる。強い愛国心と切れる頭、火のような度胸と冒険心で女にモテまくる、はずだった。

 結論から言えば今も修行は怠っていない。一人NSAのつもりで情報収集に努めているのだが、ロシア関係者からも日本当局からも一向にスカウトされないのはなぜか・・・。

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悪戦苦闘物語 (今月のテーマ 振り返り)

2015 DEC 30 21:21:47 pm by 西室 建

見るのもいやな食べ物
 子供の頃、本当に幼い頃の記憶だが、蟹の缶詰を見た。缶詰には横一杯に八本の足を広げた蟹があった。一目見た時からなんて薄気味悪い生き物なんだと怖くなった。そしてそのオレンジ色への恐怖感が刷り込まれ、その色合い(以前も書いたが私は色覚異常だが)のモノが食べられなくなった。蟹・海老・人参、従って天丼と蟹玉もだめ、人参はかろうじてカレーで克服した。海老のおかげで似たような食感の物も好きではない。これは大変に不幸なことではないだろうか。
 同じような視覚によるショックで明太子も長いこと食べられなかった。

二度と思い出したくない記憶
 この年になればそれなりにマズかったことはいくつもあるが、実に苦々しいことはやはり人を裏切った経験だろう。何度かある。原因は今から考えると私の説明不足と曖昧な態度だったと考える。相手も相手だったのだが、ここでクドクド述べるのは本意ではない。
 しかしながら少なからず恨みも買っただろうし、未だに僕のことを許せない奴はいるに違いない。だけどこっちだって今度会ったらただじゃおかないからな、とだけ言っておこう。嫌いな人間が増えるたびに人から嫌われていると思うようにしている。オマエだ!おまえの事だ。
 えっ?お前もだ?すいません。
 そう言えば最近人見知りがひどい。

死にかけたと思った時
 バイクで事故っている。しばらく気絶していたが蘇生して、その時は『シマッタ』と思っただけだった。だが後日現場に行きマシンの残骸を引き上げさせられたので(廃車処理するにも捨てて置けない)覗き込んで改めてゾッとした。浅い谷底なのだが大きな石が転がっていて、将に危機一髪だったのだ。
 その直後、てっきり胃痙攣を起こしたと思い金曜の晩から月曜の朝まで苦しみ抜いた。水一杯飲んでも戻してしまう。ただお風呂に入っていると痛みが和らいだので入っては戻した。結局急性膵炎というアル中にでもならなければ滅多に発病しない病気で入院。医者からは『もう一生酒は飲めない。』と言われた。当然無視して今日に至っている。
 これに近い症状を怖いことに東南アジアで発症したことがある。ご承知の通り東南アジアのトイレ事情はひどいもので、戻すたびに『この汚い所で死ぬのはイヤだ』と心から思った。30分おきに吐いてしまうので鼻の粘膜が破れサーッと鮮血が流れた。ついに胃が破裂して吐血したかとビビッた。当時マレー・エリアからの帰国便は真夜中離陸が多く、ズーッと苦しみながら乗った。喉が渇いて堪らず、コーラをもらってトイレでうがいをすると少し楽になる。明け方、成田に着く頃に回復しCAさんにお湯を貰ったら飲めた。これで生きて帰れると本当に涙ぐんだ。

近づくのもいやな場所
 これはやはり記憶からくる刷り込みだろう。大概大恥をさらした恥ずかしい思い出とセットになっている場合が多い。私の場合はまず交番、そして職員室。どちらも胸が悪くなるほどのイヤな思い出が詰まっている。すべて自分が原因だが、満座の中で私が怒られ、マヌケな言い訳をしてドツボに嵌まり最後は俯いて黙ってしまう、オー恥ずかしい。そして最後は悲しくもなった。
 もう一つ、地下鉄〇〇〇線の✖✖✖✖駅。
 駅の伝言板、と言っても携帯ですむ今の人は分からないか。待ち合わせなどで都合が悪くなると『先に行きます』とか『もう帰ります』等と書き込む黒板が設置されていたのだ(今もあるかな)。そして当時✖✖✖✖駅の伝言板にはしばしば『國◎参上』と記されていた。これは硬派の気概と無類のケンカ強さで都下にその名を轟かす◎◎館高校のアニさんが『ここはオレ達のナワバリだ。そこらのチンピラでかい面するな』の警告サインとして知られ、都内の主要ターミナルでも良く見られた。その実力はずば抜けており、辛うじて対抗し得るのは民族教育一本槍の△△高校生だけと言われていた。それをこんな相手もいないヤワな駅で何をいきがってるんだ、とばかりに僕はその伝言の横にバカとかアホと書き込んでおちょくって遊んだ。
 それがある午後の授業をサボッた帰りに駅で例の書き込みがあったので、ワハハとばかり”國◎”のところに✖を付け、さて何と書こうかなと佇んだところ、只ならぬ気配を感じて振り返った。そこにはガッチリとオール・バックに頭をキメた黒い蛇腹の制服が二人・・・・。後は言いたくない。以後卒業まで通学経路を変えた。

いつまでも続くような冗談のような暮らし
 オレがまだ若かった頃。突如カミさんがケッタイな病気になり長期入院治療となった。ガキはまだ中学生であちこちの助けを受けながら二人でナントカ暮らした。朝はお茶漬けばかり、夜は外食、ついにネタがなくなって六本木の飲み屋に連れて行ったこともあった。あれは教育環境として大変よろしくなかったと反省している。コッチはすぐにデキあがってしまい、まるでガキの方が保護者のようだった(店の人の談)。
 ウチの中はグチャグチャ。キッチン・テーブルは簡易卓球台になり洗濯物はウチの中に干しっぱなし。あまりにオレが酒ばかり飲むものだからガキは酒瓶を隠し、それを見付けられたら飲んでいいというルールまでできた。大体二人とも金銭感覚が無く(ガキはしょうがないが)気が付けば全て飲み食いに費やしてしまい床屋にも行けなくなった。
 一応分担を決めて掃除はするのだが、お互いの手抜きがミエミエでまるでゴミ箱をひっくり返したような暮らし。
 ある晩酔っ払って帰ってみるとガキの部屋からジャラジャラ音がする。中学生が麻雀をやっているのだ。しかももう夜中だ。幸い住んでいた所はワン・フロア・マンションだったので近所からはクレームが来ないが、うるさくて眠れない。よっぽど『うるさいから雀荘に行け』と言いそうになったが、奴等が中学生なのに気が付いて止めた。
 このマヌケな暮らしは三ヶ月続き、更にもう一度やることになる。

気が狂いそうな夜
 中学半ばから4~5年、創造的な考えを巡らせることができなく、何もかもがうまくいかなくなっていた。昼間はギャアギャアはしゃぎまわりバカ騒ぎに明け暮れたが、寝る前に時々『うわぁー!』と叫びたくなる衝動にかられるともう眠れなかった。翌日学校に行くとその反動で授業中に寝てばかりいた。即ち心の病でも何でもない訳だ。おかしなもので大音量で大好きなローリング・ストーンズを聞くと眠れる。それ以外目を閉じようがラジオを聞こうが、タマに勉強しようが眠れない。あれは一体どういう精神状態だったのか。何をやる気にもなれない。何事にも夢中になれない。もしかしたら、こういう精神状態で朝になったら人は発狂してしまうのかと本気で怖かった。
 うつ病とは違う。人とは平気で話せたし、割りに親切だった。
 硬派を気取ってみて訳も分からず右傾化してしまい、ついでにテレビで見たキャロルにイカれてリーゼントにしたらチンピラに殴られた(上記、地下鉄〇〇〇線の✖✖✖✖駅)。
 時を経、酒の味を覚えてから開放された。従って今でも禁酒するといつまたそうなってしまうのか恐怖する。
 途中体調の都合で連続して飲めない時期には薬を処方してもらって(上記入院時)眠れたが。
 あの時期は一体何だったのだろう。ひょっとして当時は狂っていたのだろうか。

 しかし良く無事に還暦を乗り越えた。これからも油断せずにまじめにやろうっと。

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おじさんが遊んで暮らす十ケ条

2015 MAY 7 2:02:31 am by 西室 建

 ゴールデンウィークを過ごしてみて、農業の真似事をしたり海で航海していたら『これは遊んでいるのではないか。』と天の声がした(と言いつつ今週は働く気は全然ない)。庭仕事や苗の植え付けなんかは大真面目に働いたつもりになっていたが、資産性は元々ない上に到底生産活動ともいえない代物だ。セーリングそのものの移動コストは限りなくゼロだが、行った先に何かを運んだり観光をしたわけではない。
道楽しながら遊んで暮らす、と言えばなにやら達人風ではあるが中身は全然そんなことは、ない。人生の醍醐味というにはあまりに底が浅い。
 これではいかん。と言いつつもっと真面目に色々と準備をしなくては。趣味を持てとか健康に留意する、みたいな話はこの際除く。更に余計なお世話だが若い人はセッセと働きなさい。
 しかし遊び人という語感は、古い話で恐縮だが遠山の金さんのセリフが一番しっくりくる。
「オレか。オリャ金さんってぇ遊び人だがよ。」
 しかし今時『遊び人』と言ってしまうとどうもイキな感じがしにくいし、なかなかなれそうもない(もう見た目十分なっているとの説もあるにはあるが)。どうやったらなれるか考えて以下列記して見よう、オヤジのための十か条。

1.孤独に耐える。
 一週間くらいは誰とも口をきかなくてもどうってことないように暮らす。やってみると結構難しくて、人間というのは意外と喋りまくっていることが分かる。この喋りにはLINEなんかも含められるから、今はケータイ携行がほぼ100%なので根性を入れないと孤独そのものが保てない。寂しいという気持ちを脳から消し去らなきゃいけない。
 常に難しい顔しろ、じゃないんですよ。返ってニコニコしているくらいがちょうどいい。

2.安く長い旅をする。
 『安い』がキー・ワード。贅沢な旅は飽きがきて早く家に帰りたくなる。時間はたんまりある前提で、国内であれば飛行機・新幹線はなるべく使わず快速くらいで移動する。目的地までいきなりたどり着かないようにする。目的地では安宿に最低でも3泊する。レンタカーがオススメ。豪華旅館のグルメ飯は避けて、お土産屋さんの地元流通品を選んでチマチマ食べる。そもそもあんな御馳走毎日は食べられないでしょ。
 一人が最も良く、或いは少人数、とにかく群れるな。ただセーリングの航海は除く。僕の腕では一人で34フィートの船を操れないのだ。下っ端なんです。
 自由な旅というものは若者の特権じゃない、我等に自由を!

3.倹しく暮らす。
 何もケチケチやれと言っているんじゃない。バブルが来ようが不況になろうが自分のペースを守りなさい、という意味。俄仕込みのカネの掛かる様な趣味を新しく始めるなぞもっての外。第一今から始めても絶対に上達することは無い。特にマズいと思われるのは金のかかる骨董とか。
 あのですね、遊んで暮らす話ですから飲みに行くとかおもちゃを買うのはいいんですよ。
 使うときは使う、豪華レストランで値引き交渉なんて恥ずかしいことをするな、の意味。旨いもんは食べればいい。

4.物はすぐに人にやる
 次に又使える等と思って取っておくのは禁物。いらん物が増えすぎる。思い出に取って置くなぞ全く不要。思い出に耽る時間なんかもう無い。かといって捨てるのも面倒ならかたっぱしから人にあげてしまう。車なんか動かなくなってからじゃどうにもならない。腕時計をいくつも持っている、とかロクに袖を通さない高いコートとか全部無駄。みんな譲ってしまいなさい。
貰ってももらえないのは本!CD!紙袋!食器!家具!それから・・・自分か。
その内気前のいいオジサンという評判になるだろう。

5.先のことを考えない
 明鏡止水という結構な境地があるそうだが、破れかぶれとそう違わない。流行語になったけど、先が短いんだから『今でしょ。』の精神です。これはいくつか意味があって、そのうちやろうとしていたら絶対できない。もう一つ妙に義理堅くドロ沼にはまってもいけない。『せっかく~だから~までやらなきゃ損だ。』何てビンボウ根性をだすと粋じゃない、無理すると帝国陸軍みたいに引っ込みがつかなくなってオジャン。
 予定に振り回されるのもいけませんね。死ぬスケジュールでも作る気ですか、死ぬのはまだ先だ。

6.嘘をつかれるな、つくな
 わかってますね、この年になれば。後妻業みたいな事件があったでしょ。それこそこれから出会う人間と複雑怪奇な感情の縺れなどとんでもない。それで本当のところ大金が動くこともあるから遊んで暮らせなくなる。大体オレオレ詐欺何かにコロッと引っ掛かるなんて脇が甘すぎる。
 ハッタリもダメです、ダメ。夢を持つことは構いませんが、それには努力を伴うのでナマケ者は控えるように。イロコイは別に止めません。

7.仕事と言うな
 いや、働くなじゃないですよ。働くんですが『仕事』と言わないで『用事』とか『ヤボ用』とか言いましょう。実に粋な感じがする。お江戸の昔の職人は食えなくなってから働いたのです。旗本の次男・三男なんか全然働かない。
 尊敬する内田百閒は借金まみれになってから、おもむろに筆を取った。もっともそんなになる前はドイツ語の先生はやりましたけど。
 ぼくだってゴルデンウィークが終わればチョイト用事はあるもんで。

8.経験則はダメ
 このご時世、通信機器の進化は異常なハイ・スピードだから前述の『用事』の中身も変わるだろう。どうせ進化にはついていけないのだから、ガラパゴスだろうが何だろうが、反流行・反世俗。人間コモド・ドラゴンになってやる。
 昔はこうだった的な成功譚は控える方が賢明。それより勝手に進化してしまえばこっちのもんだ。『昔はね~』の話はオジサン同士でも聞き苦しい。

9・こうなったらもう
 虎穴に入らずんば虎子を得ず。どうせ失うものは無い。誰も助けてくれっこない。後は野となれ山となれ。これが最期だ文句あるか。行ける所まで行ってやる。どうせ自分は嫌われている。あの世に金は持っていけない。さあ殺せ。ボケが何だ。話がくどいのが何だ。病気が何だ。子供が何だ。孫が何だ。

10・・・はですね。自分は遊んでいる、という自覚をいつも持つこと。だって遊んでるんだもん。人の役にも立たないし。

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突然思い出したこと Ⅱ

2014 DEC 25 16:16:39 pm by 西室 建

 以前書いたある『優秀な先輩』の思い出の続き。突然思い出したことの後半に出てくるアノ先輩だ。
 このお方、実は同じ高校の四学年上に当たり、更にマズいことに担任の先生が一緒だった。学年ごと繰り上がって又1年のクラスを担任したときに僕がそのクラスだったわけだ。ある時の会話でわかり、僕は必死に隠した。ところがうっかりその先生のアダ名を言ってしまいバレて、最後は恩師の知る所となる。先輩は秀才だったのに加えラグビー部のキャプテンまでこなすスーパー高校生。こっちは伸ばしたいだけ伸ばした髪にガリガリのパーマをかけたバンド崩れ・麻雀小僧で、しまいにはリーゼント・ボーイになった劣悪高校生。聞く限りでは先生は大変に心を痛められ翌年の年賀状に『あいつを頼む』と書かれていたそうである。そりゃそうだろう、最高と最悪が10年後に机を並べているのだ。僕は教育の効果と結果に深く思いを馳せた。

 当時は新規研究材料の事業化というテーマに取り組んでいたがそれはさておき。かの先輩はオベンチャラを駆使して少しでもサボろうとする僕を使うのには苦労をされていた。今から考えると誠に申し訳ないことをした、反省してます。
 ある日のこと。
「この材料のアプリケーションについて調べてフィジビリティ・スタディをやっておけ。いつまでにできるか(本当はもっと色々あるのだが省略)。」
とのご下問があった。例によって僕は、
「いつまでと言われましても、私ごときにそのような難しいことができるわーけがないじゃないですか。そういう高級な仕事こそ先輩の最も得意とするところでアタシがやったら時間は掛かるわ結果は間違えるわ・・・・。」
「バカ!オレも忙しい。サッサとやれ!」
「いえ、ですから左様な難しいことをするにはワタシ自身あまりに、あーまーりーに浅学非才でして。」
「だったらその浅学非才を直せ。」
「エッ、何か嫌だなー、そのノリ。」
「いいから今週中にやっておけ。」
「はいはいはいはい、はいのはいのはーい。」
「何だ!その返事は。『はい』は一回にしろ!」
「はーーーーい。」
「伸ばすな。」
「ハ・・・・イ。」
「縮めろ。」
「・・・・はい。」
「よーし、それでいいんだ。最初からそう言え!」
この会話を終えるころには先輩も僕も肩で息をしていた、本当の話だ。勿論こんなことばかりしていた訳は無いが、細部にこだわる真面目な先輩とアホな僕とではキャラが違いすぎて気の毒だった。繰り返しますがこの先輩、本当に優秀な人でした。

 時は移り再度この先輩とは机を並べることになる。10年を経ていたのだが相変わらず対外折衝の時などいつもモメた。
「そんなことをしたら投機になってしまう。絶対いかん。」
「トーキ?瀬戸物でも買うんですか?」
「貴様!日本語が分からんのか!ヨーシ、今からは英語でやる。」
「イェッサー。」
「・・・・。」
これも本当の話だ。周りが唖然としていた。恐らく怒る気にもなれなかったのだろう。
 
 しかし年次の差は如何ともし難く、いつまで経っても絶対に縮まらない。例の先輩にしても最近お目にかかっていないが、会えば直立不動で対応せざるを得ないだろう。バッタリ会わないようにしたいものだ。

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悪戦苦闘物語 (今月のテーマ 振り返り)

フィリピン侵攻作戦 下 

2014 AUG 27 12:12:55 pm by 西室 建

 マニラから南に下った所のバタンガス州、美しい湖のある所にご他聞に漏れずゴチャゴチャした町があり、ここの工業団地に工場を建てることにした。検討に費やした物凄い密度の会議で、最期に僕はキレた。
「採算についてはもうこれ以上は分析できません。しかしたとえ嵐に遭遇してもどこまでも海原を行ける航海の可能性を選びます。」
言った時には加山雄三の『海・その愛』が頭の中でガンガン鳴っていて自分の言葉に酔った(バカだったなあ)。
 エリアの契約、現地法人手続き、派遣人員人選、顧客説明、現地オペレーターのトレーニングと事務処理が続く。フィリピンから第一陣の研修生が日本にやってきた。全員初めての海外である。見るもの聞くもの珍しく、学習意欲の高い子達だ。日本のコンビニが楽しいらしく、仕出しのお弁当はすぐに飽きて自分達でオニギリ、から揚げ、、サンドイッチを買って喜んでいた。僕達がレクリエーションでやっていたバーベキューやキャンプには大はしゃぎで参加し『フィリピンに帰って工場でやってみたい』。そして休日には『ディズニーランド』と『アキハバラ』に行って見たいと言う。現地でも有名なブランドらしい。これは操業してから来た第3次研修グループまで皆同じだった。
 一方でフィリピンの方でも、工場建設を進める。レンタル工場の中に設備を搬入する。ガード・マンを手配する。現地の有力者とコネをつける。
 この際注意しなければならないのは、日本人の現地コンサルには相当ヤバいのがいるのでご用心。ある人間に相談したら、それから『傭兵を紹介する』とか『レストランに出資しないか』とか、更にはあからさまに『女を調達してやろう』などと言い出す。その辺りで切ったが。

 さて、準備が遅れつつも何とかスタートしてからは、この工場は驚異的に伸びた。数名の女の子のオペレーターと少数のスタッフに日本人二人。思えばかわいらしい南の前線基地のスタートだったので、僕達はここを『ラバウル』とコードネームで呼んだ。1年もすると品種も増やし、オペレータも倍々のペースで集まり、すっかり定着した。
 ところがやっぱりこの国、気を抜くわけにはいかないのだ。ある日同じ工業団地の敷地内にフィリピン空軍の練習機が落ちた。火災等の二次災害はなかったが心胆を寒からしめられた。プロペラのヘナチョコ機ではあったが。
 近隣の繁華街で怪しげな日本人が射殺される。
 ビビッた僕達はガード・マンにショット・ガンを持たせた。  
 
 ここはカトリックの国だからクリスマスが近づくと、どうやって楽しむかが職場の話題の中心になる。普段は福利厚生などにはコストをかけていないので、各スタッフは大はしゃぎで出し物を提案する。カラオケ大会に至ってはそれぞれ代表を選抜し、点数を付けて競う。派手な振りのダンスの練習も始まる。本番は近くのゴルフ場のレストランを借り切って、プロのバンドまで入ったドンチャン騒ぎだった。僕としてはタダでフィリピン・パブで遊んでいるような気がして楽しんだが・・・。
 自作の衣装を派手に着飾ったミスコン、各職場の代表によるプロはだしのカラオケ。バンドが始まる頃には全員立ち上がって踊り狂う。何故か僕は『カーネル(大佐)』と呼ばれていて、会場のアチコチから声が掛かりツーショットに収まったり握手をしたりして・・・・。通常一般のフィリピン人というのは我々程にはガブ飲みすることはない。しかし僕は悪しき日本人の酔っ払い丸出しになり、アッと気が付いたときはステージの上に立っているではないか。このバンド、見たところ若いメンバーなのに70年代の曲ばかりをやっている。特徴のあるギター・イントロにつられてマイクを握っていた(この間打ち合わせもナシ)。僕は普段は人前ではしゃぎまわったりは断じてしていない(と思う)が、この時は酒が十分に廻ってしまった。曲はワイルド・チェリーの『Play that’s Funky Music』だということは直ぐに分かった。
「Once I was a Boogie singer
Playing such a Rock’Roll band」
とやってしまい、社員のフィリピーノ・フィリピーナには大ウケした。
 が、このときの写メが後日さるところで公開されてしまい『あいつは工場を造ったと言っていたが、本当はマニラでクラブでもやってるんじゃないのか。』と少なからず問題になったと聞く。

 その日の帰り、焼けたコンクリートが涼しくなったようで、後から後からバカでかいフィリピンのガマガエルが這い出して来ていた。

フィリピン侵攻作戦 上 

僕の地球放浪記 Ⅰ

僕の地球放浪記 Ⅱ 


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僕の中国事始め

ヴェトナムに行ってきた

フィリピン侵攻作戦 上 

2014 AUG 22 10:10:22 am by 西室 建

 フィリピンには実際良く行った。一般の人のイメージはどんなものだろうか。せいぜいフィリピン・パブのかわいいお姉ちゃん程度か。ベニグノ・アキノ氏の暗殺やコラソン・アキノ大統領の熱狂的選挙もご存じない若い人も大勢いることだろう。
 勃興する東南アジアのスマートな国とも見えなくも無い。実際国民の大部分がカソリック教徒で英語も良く通じる。しかしそれには統計上現れない数千の諸島にいる多くのイスラム教徒は勘定に入っていないのではないだろうか。タガログ語には独自の文字はなく、ローマ字式の表記だ。統計は相当怪しいし、それどころか経済は慢性的に破綻している。まともな組織は陸軍くらいだが、これが又しょっちゅうクーデター騒ぎを起こす。治安レベルは最低に近く、犯罪組織も多い。マニラで一晩に何人が死んでいるか誰も分からない化も知れない。マカティ(中央ビジネス街)でもホールド・アップはある。いささか旧聞に属するが三井物産の若王子支店長の誘拐もあった。一応の銃規制はあるが、アメリカ式でその辺のガード・マンも携行しているのが不気味だ。僕もトレーニング・センターで何回か撃ったが、気軽さが返って怖い。一度セヴ島の空港のマニラ行き荷物検査で赤ちゃんを抱いたかわいらしいお母さんがハンドバックからゴトッという感じでピストルと携帯許可証を出した時は異様な光景にビビッたものだった。 
 日本人もしばしば殺される。殆どがヤバい人で、恐らくフィリピン姉ちゃんを日本に手引きしている自称『芸能ブローカー』が金でモメてやられる。
 アロヨ大統領の時にも首都のマカティーでやはりクーデター騒ぎが起きたが、軽く鎮圧された後に兵士達に与えられた罰が『腕立て伏せ30回』というユルさ。しかもマカオに在住していた日本人が殆ど気付かなかった程度の小競り合いというチンケさだった。
 東南アジアで勢いに乗った国の首都に、未だスラムが形成されているのはここぐらいじゃないだろうか。僕がウロチョロしていた頃は台北やクアラルンプールにもあったのだが今はもう無い
 一度APECの首脳会議をやっているときに滞在していたことがあるが、唯でさえ慢性的渋滞で困るのに、体裁のために(仕方ないが)メインストリートの片側を封鎖して首脳専用にした。するとやはり無理があって、普段30分の移動に3時間かかって都市機能が麻痺していた。余談だがこの時ある所にパスポートを忘れ、往復6時間もかかって死ぬ思いをした。

 ピナツボ火山が大爆発してタルラック地方が大被害を受けた後にその辺りを車で通ったことがある。この地は殆どが前述のアキノ家の私有地で、景色はいかにもコロニアルな農業地帯だった。驚くべきことにルソン島は十数家族によって私有されていて、スペイン時代の荘園制が残ったまま米西戦争勝者のアメリカに取って代わらる。スペイン人がいなくなった後は荘園管理者の華僑系が多くを支配する構造になってしまった。コラソン・アキノはコフアンコ財閥の娘だが、一目で中華系であることが分かる風貌だ。今は息子が大統領。
 街外れのタルラック川の恐ろしい光景は圧巻というか何といか、火山灰がドッと押し流されて橋は全て陥落し、月面のような無機質の砂漠と成り果てていた。ところが運転手はドンドン進んで行く。そして『物乞い』とでも言うべき被災民(かどうか分からないが。中には赤ん坊を抱いた子供までいた)が道案内をしていて、運転手やつられて僕までコインを投げてやる。すると幾筋にも分かれた浅瀬の通れるところに案内され、どの車もジャバジャバと川を渡ってしまった。その時はまるで戦場にいるような恐怖感、車の窓のすぐそこを川が流れているのだ。
 先日の地震・津波やしょっちゅう来る台風で、20世紀には世界で最も天災を受けた国らしい。日本も凄いから心から同情することができる。そういえば阪神大震災の時にマニラにいてリアルタイムで事情を知らなかったが、現地の報道が『センター・オブ・ジャパンが被害を受けた』と言うものだから、てっきり東京がやられたのかと思った。

 以前は懐かしいYS11がまだ飛んでいたこともあった。フィリピン国内線だが。リベットをたくさん打ってモンロー・ウォークのように飛行する名機だ。座席に『灰皿』と漢字で書いてあるままだったが『No Smoking』等とアナウンスをしていた。これでマニラから北に飛ぶこと1時間半(車で6時間)バギオという標高1,500m弱の高原都市があり、真夏にはマニラの政府がまるごと引っ越してくる避暑地だ。ここに大ユーザーの工場があったのでしばしば訪れていた。
 悲しい歴史だが、山下兵団が最期にギブアップとなった所で知られる。松の木がたくさんあって涼しげな街だった。フィリピン国軍の士官学校もここにある。一度行って見たが最期の激戦を物語る米軍兵士が大勢埋葬されて、小さく白い木の十字架がズラっと並んでいた。日本軍のものは、ない。
 巷間言われている山下財宝はこの辺で一部発見されたとも言う。しかし発見者が全部懐に入れてしまったので表沙汰にはならないんだとか。更にはかつての独裁者マルコス大統領がガメたという噂まである。
 米軍が避暑地に使っていたこともありキャンプ・ジョンヘイといった名前がついたリゾートがありゴルフ場も整備されていた。例のピナツボ火山の影響でクラーク空軍基地やスービック海軍基地がコスト高により閉鎖され、民間経営なっていたが、アメリカン・スタイルの快適なホテルで良くそこに泊まった。因みに米軍が縮小するに従って中国との領有権問題が顕著になったことは記憶しておいていいだろう。
 そしてここの言葉はマニラのタガログ語ではなくてイロカノ語。方言と言えばそうなんだろうが、マニラの人が道を尋ねて通じなかったことがある。そいつに言わせると日本語と英語くらい違うと言うのだが。

 一方南フィリピンは恐ろしく数が多い島嶼で構成されていて、ミンダナオあたりからモロ族といったイスラム独立派が蟠踞しておりテロが絶えない。アメリカも基地は縮小しつつ、しかし放っておく訳にも行かないので、軍事顧問団と称した部隊を派遣している。現在は衰退したようだがアブサヤフという過激派がいて、あのビン・ラディンから資金を受け取っていた。例の自爆テロの犯人が実行前にアブサヤフに潜伏していた、という話もあるにはあったが地元の連中は『相手にされるはずがない。』と何故か断言していたが。
 大体あんなに散らばっている島を全部管理して税金をちゃんと取っているとは思えなかった。

 ところで、旅の者は一週間くらいでメチャクチャ日本の味が恋しくなる。当時のインター・ナショナル・エアポートはニノイ・アキノ空港と言って今のよりも小振りだった。帰国のときにそこのレストランで『ラーメン』というメニューを見て(カタカナで書いてあった)思わず食べたのだが、その味は世界一マズかった(今は違う)。多くの旅人がガックリ来ていたものだった。  
 
 マニラ湾に面した繁華街の猥雑さと危険度には腰が引けたが、男も女も明るい気楽な奴等で僕は好きだった。そして熱い風に当たって血が上ったのか、勢いで工場建設を決定してしまった。今から四半世紀近く前の話だ。

この項つづく

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僕の中国事始め

ヴェトナムに行ってきた

僕の地球放浪記 Ⅱ 

2014 AUG 13 11:11:58 am by 西室 建

 ダラス往復2泊4日をやっていて気が付いた。これはC・Aのローテーションと同じなのだ。行ったときと帰るときに同じように挨拶していると、先方も顔なじみのように『おかえりなさい。お忙しいのですね。』等と声を掛けてくれる。これで何かが始まれば面白いのだが、そうはならなかった。まぁオチはあるが。

 地球は広い。地上を舐めるように移動すれば一生も二生もかかるだろうが、エアで飛び回れば営業しながら八泊十日で一周できる。本当だ。
 ヨーロッパの片隅にお客さんがいて、普段はメールでしかやり取りしない。しかしコンペティターが嗅ぎ付けて『最近注文がない、どっかのサプライヤーがウロチョロしてないか。』と気付けば勝負にならない。日系の進出を手掛かりに開拓した小さいお客さんに年に一度は顔を出して、価格交渉くらいはやる訳だ。しかし一回行って帰るだけでは経費倒れになるため、他の大手と一筆書きのようにすると何とかやり繰りできる。
 これを思いついた時は西回りでやった。当時喫煙できたエール・フランスでパリに行き、ダブリンからアメリカに飛んだ。あの頃はE-チケットではなかったから、ハード・ペーパーの分厚い束チケットだった。

 因みに僕は出張先で絶対に観光をしなかった。これは職務に忠実だったからではない。『せっかくここまで来たからチョットアレを。』とやると物凄く疲労するからで、従って客先以外は殆どホテルから外出しない。ダブリンの街がどうだったか、夕飯を食いにパブに行っただけだ。
 出国の手続きを終えると、いきなりアメリカの入国審査があるのに驚いた。本当に米国イミグレーションなのだ。察するにアイルランドは米国との人の往来が多いため、離陸前に手続きして国内便の駐機場に着けさせるのではないだろうか。
 それはともかく、何故か入国審査官は僕だけ『チョッと。』と言う感じで
列から外されオフィサー・クラスが寄ってきた。
「あなたは、何の仕事をしているのか。」
「いつもこんな短期間でこんな距離を移動するのか。」
「なぜ、ケース一つなのか。荷物は何も無いのか。」
と矢継ぎ早に質問の雨に不意を食らって動揺した。前ブログで明らかにしたが、メキシコでかっぱらいに合って以来アタッシュ・ケース一個だけで出張をこなしていた。これには色々とノウハウがあるのだがそれは又別途。
「世界中の友達を訪ねているので手ぶらで移動している。」
「この日までに日本に帰らなければならないのでこんなスケジュールになった。」
等とアタフタと答えたのだが、オフィサーは疑わしい目を向けたままでパスポートをコピーさせた。
 実はズッと後になって、マニラの出国の際に同じような目に合った。このときは首に巻いていた金のチェーンに弾丸のアクセサリーを着けていたのがまずかったようで、ネジを外して使い物にならないオモチャであることを示しても没収された。そして荷物を(といってもアタッシュ・ケース一個)全て開けさせられ、何と大田胃酸の缶(毎日飲むので一缶持って歩いている)まで中身をチェックした。例のクスリは”白い粉”だから見りゃ分かりそうなものだが、少量舐めて本当に胃の薬だとなってから、パスポートをコピーして開放された。ダブリンの時も国際テロリストにでも思われたのだろうか、まさか。

 この西回りというのは大陸間の移動が全部昼間のため、結果として非常に疲れた。それに懲りてもう一度やった時には東回りで行ったものだった。
 その出張の終わりはロンドンから成田で、これで帰れるとホッとしたのを妙に覚えている。そして食事の時に息を飲んだ。メニューを聞きに来た美人のパーサーはよく使っていたダラス便の時の人なのだ。しかしこっちは覚えていてもあちらにとっては所詮ワン・オブ・ゼム。
「ダラス便におられた方ですよね。」
と話すと実に怪訝そうにされた。
 後に教えてもらったが、そう言って寄ってくるストーカーが一杯いてC・Aの人は困っているのだそうだ。おかげで僕はロンドンー成田間ズーッと無視された。この場を借りて訴えたい。あれは偶然だったので断じてストーカーではないのですよ。

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僕の地球放浪記 Ⅰ

2014 AUG 7 12:12:46 pm by 西室 建

 題名を見て『世界自分探しの旅』というような内容と思わないで欲しい。30代の終わり頃、現役サラリーマンとしての経験だ。
 当時の僕には哲学なんか無い(今もだが)。「能率」と「スピード」しか考えていなかったので、ソウル・台北・上海・香港・マニラ程度は日帰りの勢いだった。しかし日帰りはさすがに憚られた。しょっちゅう出張する為にやはり多少の格安チケットを探したのだが、往復手配の場合現地での滞在が24時間ないと割引が効かなかったからだ。それでも、物凄いマイレージの蓄積により常にクラス・アップしており、不思議な体験もした。風吹ジュンさんがズーッと10時間以上も隣に座っていた。こういうタレントさんは無用の会話を仕掛けられるのが嫌なのだろう、サングラスをかけっぱなしていたので、降りる寸前まで気が付かなかった。やけに派手ないでたちにC・Aに「あの人はテレビに出る人ですか?」等とマヌケな事を聞いたら教えてくれたっけ。
 
 メキシコ・アメリカ二泊四日というのを何回かやった。直接メキシコ・シティーに行くのはシアトル経由で12時間、機中で二回も二日酔いになって懲りた。体調も悪かったのだろう、メキシコに着いた途端に血を吐いてギョっとしたことがある。行き先は更にそこから車で4時間、もしくはプロペラ機で45分。安かったが(3千円くらい!)車は避けた。喋れる英語が『ワン・ツー・スリー・イエス・ノウ』だけの運転手と移動するのは極めて怖い、着くかどうか予想できなかったからだ。当時直行便のあったダラスに行き、メキシコにわたる。帰りにアメリカはテキサスかサンフランシスコの客先に寄って帰るのが多かった。
 何回目かは忘れたが、メキシコ・シティーでトランジットするため、チェックイン・カウンターに行った。周りにはほとんど人はおらず、荷物を足元に置いて座席を決めていた時のことだ。それではディパーチャーへと足元を見ると、ない!煙のように消えていた。
 同じようにキョトンとしているクラークを怒鳴りつけ、空港警備を呼び警察を呼べ!と喚き散らした。しかしどうも警備の態度が鈍い。今から考えるとこの程度の事件はしょっちゅう起きているのだろう、或いは一部は窃盗グループとグルになっているのか。挙句の果てに『英語の喋れる警察官は直ぐには来れない。』等と(英語で)抜かしやがった。こっちのフライト時間は迫って僕は焦る。幸いパスポート・カード・チケットは胸のポケットに入れて無事だったが。Recompenseという単語が出てこなかったので「ペイ・バック!」とにじり寄ると、別室につれて行かれた。少し偉そうなのが出てきたので「これは国際的な信用問題だ。今まで何回もメキシコに来ているが、もう二度と来ない!そのためにメキシコが被る損失をいくらだと思う。」といったハッタリをかけまくった。するとクレーム申請書のようなペーパーを出してきて、これに具体的な内容を書け、と言う。時間が無いから日本から出す(この時点でもう頭に血が上っていた)と席を立った。何も持っていない旅人はどうも目立ってしょうがない。こうなったら少しでもメキシコ国から取り返すつもりで、ラウンジでも機中でもサーヴィスのビールとテキーラをガブ飲みし、勿論ベロベロになった。
 結果ダラスで入国する時に、税関が『何で何も持っていないのか。』と不審そうな目で聞いてきた。無理も無い、酔っ払ってフラフラになった東洋人が手ぶらで入国するのだ。
『Good question! Please listen to me!』
から始まって、いかに酷い目に合ったかをまくし立てた。審査官は『こいつアホか。』という目つきで僕を追っ払った後、後ろの奴等に僕の口調を真似てバカにしていた。
 何しろ一銭も持っていないのだ。この恐怖感はなかなか味わえるものじゃない。どこか知っている日本人のいる所にたどり着かねば、と一路シリコンバレーを目指した。全てカード決済の効く交通手段でセミコン・ウェストという半導体関連の展示会場にたどり着いた。するとある商社の顔見知りがいたので、拝み倒して200$借りた。
 難行苦行はまだまだ続く。どうしても一泊しなければならなくなって、最寄のヒルトンに宿を取りチェック・インしようとした。僕の名前を見てフロントマンが不審そうな顔になる。
「ミスター・ニシムロはご夫妻でロイアル・スイートに泊まって既にチェックアウトされた。」
等と言うではないか。僕はニシムラと良く間違えられているので
「それはニシムラの間違いだ。私はニシム『ロ』だ。K・Nishimuro。」
と書いてやった。ところが、である。フロントマンは益々怪しむばかりで、押し問答の挙句にガードマンを呼んだ。ビビった僕は大慌てでパスポートを示し、フロントマンが覗いているディスプレイの画面を見た。そこには何故かT・Nishimuroという名前が表示されていた。要するにある人物の名前を騙ったホテルサギだと思われた様だった。その名前に思い当たる人物が、実はいる。ようやくチェックイン出来て東京に電話したら、その人物はやはりアメリカに出張していた。ふざけやがって。

 手ぶらでサンフランシスコから帰国したが、ラウンジで又知り合いに会ったので今度は円を借りた。ん?クレームはどうしたかって?実際の被害額の10倍位を弁償しろと書いて送ったら丁寧な返事が来て、一言で言えば『あなたのトラブルを参考にして空港のセキュリティ向上に努力します。どうもありがとうございました。』だけであった。

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僕の野球地獄変

2014 JUL 30 20:20:27 pm by 西室 建

 SMCの野球観戦レベルは、やはり元高校球児の東 大兄の一連のブログのおかげで高い。しかし僕自身は野球をセッセとやったことはなく、テレビを熱心に見る方でもなかった。少年の頃に後楽園時代のファイターズを外野スタンドから応援したことがあるくらいだった。
 ところが一時期、試合の結果(結果のみですよ)に一喜一憂したことがある。正統なファンからはお叱りを受けるであろう理由からだ。

 僕は新入社員時代でバクチから卒業したと書いたが、古いメモを見て気が付いた。それは誤りで、もう少しかかった。話せば長い。
 ペイペイから末端管理職になった時は小さい所帯の長で、みんな仲が良くたまに飲みに行ったりしながらテキパキと営業をこなしていた。組織として実際は我々より偉い人の方が数が多いので、自分も「管理者」というよりはプレイヤーだった思いの方が強かったし、仕事はヒラよりもむしろ増えた。
 営業の人間の一人は、元々は技術屋が営業職になった実直な奴で、そしてオリックスの大変なファンだった。当時は某テレビ局が巨人戦をガンガン中継していたので、パ・リーグのほうは見向きもされないと言っては失礼だがマイナーな存在だ。僕は冒頭に紹介した成り行きで日ハムを応援していたので、彼と試合結果を見ては「買った、負けた」と盛り上がった。この頃オリックスVS日ハムの試合に注目する人なんかいないので、何か秘密を共有するような楽しみがあった。
 暫くして盛り上がり過ぎてついに一試合ナンボの賭けが始まった。直接対決は毎日はない。プロ野球ニュースで力を込めて見ては多少の金額をやりとりするくらいでかわいいもんだった。
 すると、その彼が
「大阪支店には熱狂的な近鉄バッファローズのファンの Oというのがいます。」
と言ってきた。電話すると、早速オールスター後の後半戦から参入することになり、三つ巴になったのだ。俄然自分で戦っている気がして力が入り楽しいシーズンとなった。しかし優勝争いはいざ知らず、下位チームでの見入りはどんなもんかというと、一年も戦い続けて勝った方と負けたチームの差何千円にもならなかった(確か勝ったはずだ)。

 次の年は大阪の Oもやる気満々で初めから参加した。野茂がまだ近鉄で活躍していた頃である。日ハム対オリックスに限れば、大化けする前のイチローとダイエーからファイターズに来たアイアン・ホークこと下柳投手の対決(僕はこの下柳投手がその後も好きだったなァ)が話題になるくらい。他に「まいど!」とお立ち台に上がるガンちゃんこと岩本投手なんかもいたっけ。
 ところが面白いことに『それに入れて欲しい。』というバカな奴が出て来てダイエーだロッテだ西武だと6チーム総当りになってしまった。
 たまには西武球場や東京ドームに繰り出し奇怪なルールでも戦った。即ちゴルフの握りのように、三振・死四球・エラー等には罰金が科せられ、ホームラン・盗塁・ダブルプレーにはご祝儀が出る。その他忘れてしまったが様々な決め事が観戦のたびに加えられて、試合は負けても掛け金では稼げる、といったふざけた事も起きた。これは見るだけで疲れた。
 それで肝心の総当りの結果はというと、シーズンを通して総当りでやっても最終的には大きな金額は動かない。それは優勝が決まってしまうと優勝チームは日本シリーズ調整という手抜きを始め、他は年棒の帳尻合わせの個人記録のために有力選手が勝手なことをして、どの球団も勝ち負けを度外視するからだ。これは僕達のようにまだ戦っている者にとっては非常に迷惑だった。更にこういうのは中毒というか、エスカレートというか、最終戦の消化試合頃には連戦の賭け金に異常な高値がついたり、1点いくらのあからさまな賭博にまでなった(もう時効ですが)。

 だがこの戦い、猛烈な抗議を受けて翌年から一切できなくなる。さる女性社員が目を据えて怒った。『あたしはギャンブルが大嫌いなんです。毎日毎日職場で現金のやりとりしているのを見るのは耐えられません。訴えますよ。』
 いささか調子に乗りすぎたと反省した。不真面目な俄かファンなんて底の浅いもので野球への興味も薄くなった。
 しかもその後暫くサッカーでも何でも勝ち負けを賭けていないと全然見る気が涌かなくなって困った。一度だけ箱根駅伝の往路・復路・総合を当てるといった賭けに乗ったが、終わった後、心の底から選手に失礼だと思い二度とやっていない。

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悪戦苦闘物語 (今月のテーマ 振り返り)


 

僕の中国事始め

2014 JUL 28 23:23:51 pm by 西室 建

 Y2Kという言葉をご記憶か。西暦2000年に暦が変わると、それまでコンピューター上に入力されていたデータは西暦の下二桁(’99とか)だったので、年が変わった途端に’00’となった場合認識できなくなってシステムがダウンする、という心配を世界中がしていた。お上から「年が変わるときに飛行機で移動しているような旅行日程はできるだけ避けろ。」というお達しがあったくらいである。
 既に日本のバブルは弾けて久しい時期だったが、90年代に中国進出した連中は結構稼いだ所も実はあった。僕達もこれでは先が無さそうだ、更に国内の需要家がどんどん移転し出していく中で、遅ればせながら大陸進出を検討しなくてはとなる。さて場所はどうするか、東莞や上海の周辺は既に出尽されていた。外資導入のモデルは大都市近郊の農地をザーッと取り上げ、もとい整地して開発する。道路・電気・水にホテルといったインフラを整備して、モデル的なレンタル工場をいくつか並べて呼び込むといったスタイルがスタート。しかし簡単な話であるが、人気が出て進出企業が増えてくるとそこは中国、後発組はふっかけられることが多い。つくづく身に染みたのだがアノ国(人々)は取れる所からは搾り取るのが当たり前なのだ。90年代の先発組にもヒアリングしたのだが、笑うしかない話は山程聞いた。単独独資で進出できなかった頃は行政と合弁させられたりして苦労する、大企業に多かったケースがひどかった。トップが中国熱に浮かされていて強い指示が下ってしまうが、現地のフロントでは日本で考えているより交渉はタフで、板ばさみになることが多いと聞いた。一番手っ取り早いのは、トップが乗り込んで『ここまで言ってもまとまらないなら仕方が無い。もう帰ります。』とやると、相手もそれなりに譲歩するパターンだった。田中・大平の日中国交回復などはそのノリだったことが窺える。しかしごく一般の民間ではそこまでやるトップはまずいない。僕も『これで駄目なら席を蹴って帰ってきていいですか。』とやったが、返事は『そこをうまくやるのがお前の仕事だ。』と凄まれた。何回か訪問し、場所については北京・上海・東莞・大連といったあたりを微妙に避けて長江デルタの外れあたりに目を付けておいた。
 次はパートナー。僕がいまさら中国語をやっても手遅れだ。申し分ない日本語ができ、共産主義者でもなく、なおかつ反日感情が薄く、英語は分かる、と条件を挙げればキリがないが、驚いたことにグループ会社の片隅にそういう人材がいた。しかも女性だったので、ハニー・トラップの恐れも無い。早速条件を吊り上げてスカウトし、僕とコンビを組んだ。実は大変な人だったが。
 その頃長年一緒にやっている台湾勢が大陸進出のために購入てした工業区の視察にも行って椿事を目撃することになる。「ここがこれからの研究拠点になります。」と指差した先には掘立小屋が立てられていて、子供の下着が干してある。更になにか土を耕して変なものを収穫している形跡があって、案内の台湾人は怒りに震えていた。こっちは笑いに震えたのだが。

 文革で下放された世代は、約10年分の受験生が溜まってしまったが(日本に帰化して評論をしている石平さん等の世代)、コンビを組んだ女性はその環境の中で名門清華大学の工学部に合格。卒業後、日中友好の流れで〇〇国立大学の大学院に留学し、日本が気に入って就職までしてしまった。スパイじゃないかと思う程の美人だが独身で、工場の現場技術屋(アナログ系の電気技術者)で働くうちに、海外出張をする際の手続きの面倒さに嫌気がさして帰化してしまったという変わった人。出身は北京の盛り場、かの王府井(ワン・フー・チン)で東京で言えば銀座生まれなのだ。伝統的な北京の読書階級を老北京(ラォ・ベー・ジン)と言うが、まさにそれだ。都市戸籍と農民戸籍が分かれていることは日本でも常識化しているが、この人は田舎者のことをあからさまに『あの農民』という言い方をして徹底的にバカにしていた。共産党員でもなく謎めいた経歴だが、後にその理由が判明する。

 いくつかの候補地を訪ね歩き『いやならこのまま帰る。』のノリを押し通して、ある外資系の貸しビルの二階に決めた。下は金属加工会社でガリガリ騒音がしていた。チャチなクリーン・ルームを設置してまがりなりにも体裁が整った。そして日本から設備を入れる段になってもう一苦労する。現地の行政がスンナリ通してくれないのだ(普通のことらしい)。東京サイドは『何故だ。』『今になっておかしいじゃないか。』と言うばかりで大した対策が来るわけじゃない、頼りにはならなかった。半藤一利氏の『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』に詳しいが、現場に来ようともしない。指示は何とかしろ、これだけ。どうも昔からそうなんですな。若い頃から参謀的な仕事をしている人にありがちな傾向だ。そこでパートナーの彼女が絶大な能力を発揮した。『中国人に任せなさい。』『女が話した方がいいですよ。』『接待しましょう。』と、ありとあらゆる手練手管で通してしまった。終いにはほぼ不可能と思われた使用機械の第三国移転という離れ業までやりとげ、僕達を唖然とさせた。これには僕も一役買っていて、とにかく英語で喋ってくださいと言われ、それなりに丁寧な英語で説明した。彼女は隣りで僕の英語の10倍位の言葉を捲し立てる。どうも僕の説明なんか聞いていないのだ。想像するに、まともにやってもダメに決まっているから適当に英語を訳しているフリをしながら『どうしてダメなのよ。あたしは北京の××とも知り合いだからそれに言いつけてやる。』ということをがなり立てていたのではないか(実際北京にそういった知り合いが多かった)。不思議なことにいろんなことがナントカはなった。僕達は『歩く中華思想』と呼んでいたが、気に入らない従業員のリストラなんかは得意中の得意。実に頼りになった。
 
  トコトコ始めた工場だったが一年も経たずに、妙な値上げを要求されサッサと移転する。向こうがびっくりしていたが、引きずり込まれてなるものか、と気迫の拒否で同じ街の雑居ビルに移転。この時点では、勢いで進出したものの中小企業組を中心に聞くも涙語るも涙的な撤退の話が散見されていた。家賃の理不尽な値上げもその一例であるが、取り込まれてズブズブにむしられ帰るに帰れない、結果乗っ取られるような悲惨な話も無いではない。もっと借り手の方もタチの悪いのになると、本当に夜逃げをしてしまって家賃を踏み倒したケースも近くで起こった。
 そして官民問わず、何かと言えばたかりたがる拝金主義。脱税目的で現金を香港のダミー会社に支払いを要求するやら、ある女実業家は家賃をまける代わりに自分の商社を通じてモノを購買しろ、と迫る。この人のご主人は地元政府の外資誘致局長であった。これからの話は面白すぎて誇張されているのだろうが、その局長は汚職で逮捕されかけたものの、一転政治取引をし全てゲロッてこんどは取り締まる側になったというオチがついている。

 元々少数民族だった『元』でも『清』でもドップリ漬かっているうちに、なんとなくチャイナ化して漢字を使い、宦官にチヤホヤされているうちにおかしなことになって、最後は北に帰っていく。アメリカだって戦前から何かと手を突っ込んでみるが、結局儲けたという話はほとんど無い。グーグルの撤退が典型的だろう。散々アヘンを売りつけてトンズラした英国だけではないか、いい思いをしたのは。
 
 かの女性パートナーは実は、満族(女真)出身だったことが分かった。すると彼女の振る舞いは全て腑に落ちる。共産党は現在政権を握っているがその前は国民党でその又前はあたし達が・・。とはさすがに口に出さなかったが、あの上から目線の謎は案外そのあたりの気質が出たのじゃないかと思ったものだった。
 風光明媚な場所だったので気に入った工場だったが、建屋のオーナーは酔っ払っては運転しているベンツを道端で止めては道にゲロを戻すような人だった。あのオーナー、今どうしているかな。太田胃酸を分けてあげたよなぁ。

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