Sonar Members Club No.36

カテゴリー: プロレス

心優しい主夫 スタン・ハンセン

2015 JUL 14 17:17:42 pm by 西 牟呂雄

 ブル・ロープを振り回しながらテーマ曲に乗ってリングに突進。高々と腕をさし上げた先には人差し指と小指を立てたテキサス・ロングホーン。「ウィー!」の声で吼えれば観客は大喜びだ。yjimage[9]

 プロレスの名門の感があるウエスト・テキサス大学卒業で、フットボールのボルティモア・コルツやサンディエゴ・チャージャーズに入団する。フットボールでは芽が出なかったが、その後は中学の先生となっていたところテリー・ファンクに誘われてプロレス入りする。
 僕が彼の名を知ったのは、ニューヨークで『マジソン・スクェア・ガーデンの帝王』と言われたブルーノ・サンマルチノの首をウェスタンラリアットで折ったというニュースだった。当時はラリアットのことを『投げ縄式首折固め』等と東京スポーツは書いていたが、どんな技かは分からなかった。
 その年アメリカをウロついていたのだが、ニューヨークでは日本のスポーツ新聞のようなものに首を固定されたサンマルチノの写真が出ていたので思わず買った。入院して2ケ月の長期欠場となっていた。
 事の真相は急角度のボディスラムで首をおかしくさせその後にラリアットを連発するというプロレス界の掟破りだったようだ。あんまり器用じゃないグリーン・ボーイのチョンボだったらしく、直ぐにニューヨークからは離れることになった。
 その後、新日本に現れて日本でブレイクした後はご存じの大活躍、『不沈艦』と呼ばれた。このニックネームもイマイチなので、僕は密かに『モビィ・デイック』と言っていた、これいいでしょ。
 ヒールだが凶器など使わないハンセンはブレイクし人気者になる。アンドレ・ザ・ジャイアントとの試合も組まれた。そして当時盛んに行われていた引き抜き合戦で、全日本の最強タッグ選手権に姿を現す。ブルーザー・ブロディ(キング・コング)ジミー・スヌーカ(褐色のアポロ)組のセコンドとして出てきた試合をテレビで見ているが、解説の故山田隆氏が『あれはハンセンですね。スタン・ハンセンですよ。』と言ったのでビックリした。相手はファンクス。
 極度の遠視で、あのムチャな暴れぶりは目の前が良く見えないからだ、という説がある。
 それにしても全盛時代のウエスタン・ラリアットは長州力や阿修羅・原がリング上で一回転してしまう破壊力があった。僕はビデオで何回も分析して、ロープから返ってくる相手の選手が何歩足を運ぶ時にヒットするかを数えたが、平均2歩未満だ。あれではやられる方はハンセンの腕がほとんど見えなかったと思う。
 ジャイアント馬場とも非常にいい試合をしている。

 そのハンセン、実は二度目の奥さんは日本人のユミ夫人だ。きっかけは友達に誘われたハンセンのサイン会へ行った時にハンセンが見初めたのだとか。まだ10代と子持ちバツイチの悪役。毎日の移動やアメリカとの往復の最中にどうやって口説いたか知らないが結婚にこぎつけ、お子さんも生まれた。前妻との間に長男長女、お二人にも次男次女。次男のシェーバー・ハンセンが野球選手でシアトル・マリナーズにドラフト6位指名されたが今でも活躍しているのだろうか。

 そのハンセン家は現在ユミ夫人が心臓外科専門の看護師として働きスタンは主夫をやっているのだとか。あまりの激しいファイトで体はボロボロ、両肩、両膝は人工関節で満足に働けないのだ。そこで40歳を過ぎてから看護学校に通い資格を取ったユミ夫人は偉い。
 ハンセンは炊事・洗濯に掃除までをこなし、料理の腕前はかなりのモノらしい(ただ、アメリカ人だから味はどうだか)。元来不器用だったハンセンがセッセと包丁を使っている所なんか微笑ましい。
 夫人の影響もあるだろうが、大変な親日家。故ジャンボ鶴田とはデヴュー前のファンク道場でトレーニングした仲で、親友だった。
 ジャイアント馬場の3回忌に来日しリングに上がって引退のテンカウントを聞いた。

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訃報 ダスティー・ローデス アメリカン・ドリーム

2015 JUN 20 11:11:58 am by 西 牟呂雄

yjimage[4] 脳天にパンチを浴びると逆にグッと立ち上がってくる。
 相手をコーナーに追い詰めてヒップ・ダンス。130kgの巨体で暴れ廻りクネクネ踊る。
 入場のコスチュームは派手というよりもグロ、ピンクの水玉ガウンと同じデザインの帽子だ。
 アメリカ人はこういうのが大好きで大人気のスーパースターだった。決め台詞は『オレは配管工の息子から成り上がったんだ。』別に配管工が悪いと思えないが、なぜか観客は沸きに沸く。このキンキラ・クネクネぶりが当時の日本では今一つ人気が出なかった理由かもしれない。
 かの天才レスラー、故ディック・マードックと組んだタッグチーム、その名も『テキサス・アウトローズ(後のジ・アウトローズ)』で大暴れして頭角を現すと、メキメキ実力・人気が出てスーパースターとなった。ディック・マードックはキレのいい天才的なレスラーで無骨な感じなのだが、どうも日本ではこういう人の方が好まれる。ブレーン・バスターの効き目なんか他のレスラーと全く違うのがよくわかった。

 ローデスはウェスト・テキサス大学出身だがこの大学、名門なのに不思議なほどプロレスラーが出ている。それもドリー・テリーのファンクス、同期にブルーザー・ブロディ、ボビー・ダンカン、3年下がスタン・ハンセン、更に(ミリオン・ダラー・マン)テッド・デビアスと続く。プロレス学科でもあったのかと思う程だ。場所がテキサスのアマリロというファンク一家のフランチャイズにあるからだろうか。若き日の鶴田もアマリロで修行していた。
  
 そのダスティ・ローデスが69才で死んでしまった。葬儀にはドリー・ファンクJr、ジェリー・ブリスコ、パット・パターソンといったビッグ・スターが駆けつけた。

yjimage[9]

 右の写真はそのローデスと二人の息子で、二人ともやはりプロレスラーのゴールダストとスターダスト。どうです、このオヤジも凌ぐエグさは。よほどオイシイ商売なのか閉鎖的業界なのか。親子兄弟のレスラーというのは日本の世襲議員並の比率で、メキシコなんかは何人もいる兄弟に従兄弟まで全部というケースもある。

 ところでアメリカのプロレスはゲテモノ化を進めれば進めるほどウケる。アメリカ人の中にはより単純な方を好むゾーンがあって、それならそれと徹底してやるのがいいようだ。
 WWEはWCWやECWといったメジャー団体を買収して急成長し、全米のマット界をビッグ・ビジネスに育て上げたビンス・マクマホンの経営手腕はMBA課程の会社分析のテキストにもなっているそうだ。たかがプロレスなんだけど本当かな・・・。
 どうでもいいが、スティーブ・オースチンはガラガラ蛇といわれたヒールだったくせに何とアクション・スターになりスティーヴン・セザールと共演した。ザ・ロックも主役で映画に出ている。やはりプロレスは奥が深い。

 先日はビル・ロビンソンの訃報を聞いた。
 是非リック・フレアーやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンといった連中に長生きしてもらい、伝説を甦らせてもらいたいものだ。

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リングネーム・中継の傑作

2014 MAY 30 21:21:41 pm by 西 牟呂雄

 僕は、ご存知の通り大のプロレス・ファンであるが、昔からある疑問を抱いている。昔のレスラーのネーミングはどうしてあんなにマヌケ感が漂うのだろう。ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ストロング小林、グレート東郷、ジャンボ鶴田・・・・。そのもの、と言うのか捻りも何も無いではないか。特にひどいと思ったのは外人選手の日本で付けられたニック・ネーム。「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノ、なんだかドテッとしているだけ。せめて英語にして「ヒューマン・パワー・プラント」の方がニューヨークの帝王にふさわしい。「千の顔を持つ仮面貴族」ミルマスカラス、実際は多くて3種類のマスクしか使ってない。「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤー、マスクが白いだけ。「美獣」これはひどい、ハンサム・ハリー・レイスの直訳過ぎる。
 いいなーと思ったのは「褐色のアポロ、スーパー・フライ」ジミー・スヌーカ。フライって蝿のことなんだが、本人の実力も含めて申し分なかった。やっぱりこれくらいゴロがあってないと。
 
 しかし、時代と共にプロレスが洗練されてくると、これは、というネームが出てきた。感心したのは「邪道・外道」コンビ。現在は一緒にやらないが非道も入れてトリオ・ユニットでもあった。このネーミングの切れ味!昔全日本に極道コンビというのがいたが数段上である。又、ハゲかけた頭といい顔つきといい、バンダナの巻き方まで小憎らしくて合格。
  たまたま見た蛍光灯マッチの大日本プロレスに黒天使・沼澤邪鬼というレスラーが出ていたが、この名前にもマイッた。邪鬼ねぇ。
 大阪プロレスには、とても洗練されているとは言い難いがその名も「えべっさん」という覆面レスラーがいて、さぞ戦いにくいと思うマンガみたいなギミックの覆面を被っている。タンク・トップというよりランニング・シャツを着ているの・・。

 ダイナマイト・キッドもいいネーミングだと思う。この選手はたいへん切れ味のいいファイトを見せてくれて僕の好みだった。従兄弟のデビー・ボーイ・スミスと組んだブリティッシュ・ブルドックスはキッドのダイビング・ヘッドバットと怪力デビーのリフトの組み合わせが良く、どの試合も取りこぼしがなかった。特に初代タイガーマスクとの一連の抗争は目を見張るスピード感で、ルチャとも違う重量感に溢れていた。物凄い筋肉だったがドーピングしていたのだろう、廃人になった。
 余談であるが、タイガーマスクが初めて登場したときの試合をテレビで見ていたが、飛び後ろ回し蹴りを見た瞬間に佐山サトルが正体だと分かった。異種格闘技戦でムエ・タイの選手とやった彼のファイトを見ていたからだ。その後極真会の黒崎道場に行ったことも知っていた。この話は研究者の間では大きな論争になり、結果として僕の慧眼は高く評価されることになった。それはいいとして、試合後に中継のマイクを突きつけられて「あなたは日本人ですか?」と聞かれて「言えません。」と日本語で答えてしまったときは噴いたが。

 新日では古館一郎のプロレス中継が一世を風靡していて、思わず感心したのがアンドレ・ザ・ジャイアント。
「一人というには余りにも巨大だが、二人と言ってしまうと人口の辻褄が合わない!」
これは原稿を書いて言ったのだろうか。
 確かにTVは古館氏の中継で数字を取ったのだろうが、僕としては隣で必死について行きながらボソッと解説する山本小鉄の解説に味があったと思っている。例えばラッシャー木村について、
「木村選手は打たれ強い、蹴られ強い。だからあんなに打撃をしてもだめです。もっとワザでいかないとダメですね、ワザで。」
理論的にどうだか知らないが、何となく分かるではないか。
 解説については、日本テレビで長年解説をしていた東京スポーツの記者、山田隆さんが思い出深い。ミョーな解説が腑に落ちた。
「プロレス固有のジャンルであるタッグ・マッチは、1プラス1が単に2になるのではなく、3にも4にもなるところが面白いんです。」
みたいな事を言う。年末にやっていた「世界最強タッグ・リーグ戦」のたびに使ったフレーズだった。どうも聞いている限りでは個人的にはファンクスのファンで、特に兄貴のドリーが大好きだったようだ。
「ドリーは老獪ですねー。相手の技を一瞬にして切り替える。こういうことは普通の人にはできないですね。」
老獪ってまだ40代だろうそのころ。ついでに言えばドリーはグレート・テキサンと言われていて、僕はテキサス贔屓だからこれは合格のネーミング。弟のテキサス・ブロンコはイマイチかな。
 テキサスでも州都ダラスはフリッツ・フォン・エリックの地元で、この人の5人の息子も皆レスラー(長男は早世だから六人兄弟)。やっぱりアイアン・クローをやるのだ。しかし悲劇の一家と言われ病死・事故・自殺で次男しか残らなかった。ところがその次男の息子がまたプロレスラーで、日本にも来てノアに出ている。

 突然テキサスの話だが、仕事でよく行っていた。あそこは自分達が本物のアメリカンだと思い込んでいる人ばかりで、他所はアメリカという名前が付いている”モドキ”くらいの言い方をする(リアル・アメリカと自称)。綿花畑なんかになるような土地が無いせいか黒人は少なく、代わりにメキシコ系が多くて「テックス・メックス」と呼ばれている。野球はレンジャースでフット・ボールはカウボーイズ。共和党がメチャクチャ強い(ブッシュ一家)。あまり口を大きく開けないサザン・ナントカという方言で、ハウディーという挨拶も覚えている。反中央、反リベラルの気風に満ちていて、僕は何故かしばしば中央に逆らった鹿児島みたいな所だと理解した。
 商売相手だった奴は全米ブル・ライディングという牛に乗るロデオのような競技のチャンピォンで、カラテのブラック・ベルトだったが、僕に向かって「レッツ、ケイコ。」とか言って組手をやりたがって困った。男も女もデカくて、初めに行った頃は怖かった。

 また話がズレてアホブログになってしまった。

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心に残るプロレスの名言 全日本編

2014 MAR 13 11:11:34 am by 西 牟呂雄

    地上デジタルのゴールデン・タイムの放送がなくなったって、プロレスはプロレスで独自に進化する。そして振り返るとそこには忘れられない、心に残るプロレスならではの名言が残されていく。活字媒体で拾ったものも含めて、僕が大事にしているプロレスの名言集を綴ってみよう。

「馬場の耳に念仏であります。」福澤アナウンサー  プロレス中継の傑作として名高い。新崎人生(しんざきじんせい)というレスラーがいる。僧形に頭を剃り経文を全身に書き付けたりするコスチュームで、みちのくプロレスから米国WWFで頭角を現した。基本的な技を『極楽固め』『曼荼羅捻り』と名付けたり、パワー・ボムの際『念仏ドライバー』といって合掌して見せるパフォーマンスが実に良かったが、その一つに『拝み渡り』というのがある。腕を捻り上げ、その手首を持ったままコーナー最上段にあがり、片手拝みをしながら隣のポストまで歩きそこからチョップを振り下ろすという、バランスの難しいプロレスっぽい技だった。それをこともあろうに交流マッチのシングルでG馬場にやったのだ。この技は腕を捻り上げて引っ張っていく所に味があるのに相手がデカすぎる。馬場は薄ら笑いを浮かべながら引かれていったが、チョップの際にはこれを払って逆に唐竹割で返した。そこで、当時の福澤アナが思わず叫んだのが冒頭の台詞。あまりのツボの入りように僕は感動した。一緒に見ていた小学生だった息子に『馬の耳に念仏』という諺は本当は馬場の耳に念仏が正しいのだと教え込み、学校で言いふらすように指示したぐらいだ。もっともバカらしくてしなかったらしいが。

「皆さん、こんばんわ」ラッシャー木村  マイクを使ってパフォーマンスすることがご愛嬌になった木村の、そもそものスタートがこのハズしだった。猪木に挑戦するためにリングに上がった時、マイクを渡され一瞬なにを言っていいか分からない様子で、猪木を睨みつけながら観客に挨拶してしまったのだ。そのときの観客のどよめきと言うか失笑と言うか、どう反応していいかとまどった雰囲気を覚えている。もう少し打ち合わせりゃいいものを。最低限握手するふりをして殴りかかるとか、「何がストロング・スタイルだ!本当のプロレスを教えてやる!」くらいのことを言わなきゃ。そう言えば、国際プロレスの先輩でもあったストロング小林が猪木に挑戦した時は調印式でいきなり殴りつけて猪木が吹っ飛んでいった。木村は普段は恐ろしく無口で何も喋らない人だったので、いきなり振られてとまどったのだろう。後年、愛嬌のある「喋り」でブレイクしたのだが、しばらくはオチョクリのネタにされていて笑えた。

「あんなもんだろうよ。」ジャイアント馬場  長州力のジャパン・プロレスが全日本で暴れて活況を呈していた頃、頂上対決として実力日本1と言われたジャンボ鶴田と長州がシングルで戦った後、御大が漏らした一言。この試合は結局のところ60分フルタイム見ごたえのある戦いを続け、互いに技は全て出すことができた好バウトだったが、その後があった。実は長州は息も絶え絶えになって控え室ではしばらく動けなかった。一方の鶴田は余裕綽々で鼻歌交じり会場を後にした。馬場が言いたかったのは要するにスタミナだ、ということのようだ。鶴田という選手はとにかく天才としか言いようの無い無限の耐久力があったようで、それは練習量とかいった後天的なものとは違っていたのではないか。それは師匠の馬場も同じで、あの巨体でドロップ・キックができたくらいの運動神経を持ち(坂口もスタン・ハンセンもできない)、なおかつロクなトレーニングもしないでもあれだけの動きができたのだ。こういうバケモノがトップなので、必然的に新日本との住み分けができたのだと思う。

「何だ、まだやれるじゃないか。」ジャイアント馬場  還暦となり、その前に三千試合連続出場の偉業を達成した頃のセレモニーで、リングに上がってインタヴューを受けた時の一言。アナウンサーの還暦になった感想を問われて「いやー、昔は還暦の人を見るとずいぶん爺さんだと思いましたけれどねえ。イザ自分がなってみれば、」から冒頭の言葉にと続いた。会場からは「さすが、ジャイアント馬場!」といった歓声が上がり、興奮したアナウンサーが「日本一強い還暦です!」とフォローを入れた。この頃はメインのリングには上がらず、前座で若手を相手にした試合ばかりだったが、それは汗もかかないような展開にも関わらず、間の取り方が絶妙でツウを飽きさせなかった。一つには実力と運動神経が違いすぎていて、近くで見ていても若手は馬場に全くダメージを与えることができない。僕はそろそろアラカンなのだが凄いとしか表現できない。そんなことできますか?

「アントニオ猪木がやるほど面白くはならないだろうが。」梶原一騎  ご存知タイガー・マスクの生みの親。この人、本当のところストーリー・テラーとしては大変に面白い。『空手バカ一代』なんかは筆が滑りすぎて一部の極真会関係者からも、あれはちょっと、と言う具合らしい。実はジャンボのことを高く評価していて、猪木がやっていた異種格闘技シリーズをもし鶴田がやったら、との問いに答えて言った一言とされる。結果はレスリング・パワーで圧倒する、とのオチだ。
 ところで鶴田の叔父さんが都内でタクシーの運転手をしていて、僕も一度乗ったことがある。『応援お願いしますよ。』などと言われ『もちろんです。』と張り切って答えた。この叔父さん、僕の知り合いだけでも複数の人に確認されているが今どうしているだろう。
 しかし肝腎の鶴田に見るべき台詞が残されていないのが残念だ。リング上の掛け声「オー!」だけでは物足りない。
 話をもどして僕はこの梶原一騎が全日本のリング・サイドで観戦していたのを見たことがある。試合は猪木とあのネール・マッチをやったりタイガー・ジェット・シンと組み、ヒールで鳴らした上田馬之助、後楽園ホールだった。試合そのものはおっしゃる通り「アントニオ猪木がやるほど面白く」なく、馬場のアーム・ブリーカで上田の腕がブラブラになってしまって勝負あった。上田が観客席に雪崩れ込み観客が逃げ惑う中、上田を制するようにサッと立ち上がった姿に気がついたのだが、貫禄十分だったなぁ。

 このブログを書いているときに往年の名レスラー、ビル・ロビンソンの訃報が届いた。最初から思っていたがダブル・アーム・スープレックスを『人間風車』とは、あまりにもマヌケなネーミングではないか。せめてブリティッシュ・バスターとか・・・だめか。 お疲れ様でした、合掌。

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スポーツを科学の目で見る (プロレスその2)

2014 JAN 31 9:09:06 am by 西 牟呂雄

スポーツを科学の目で見る、とは少し違うが、ビジネスの切り口で考えたい。全く賛同を得られたことは無いが、アメリカの3大スポーツ・エンタテイメントは①フット・ボール②メジャー・リーグ③プロレスと僕は考えている。人によって③にはアイス・ホッケーやバスケット・ボールを入れたいかも知れないが、そうは行かない。試合の規模・回数とかスーパースターの年棒からいけば議論の分かれるところであるが、多くのインテリ人種はJ-SPORTSで中継されるWWEのウィークリー・マッチの盛り上がりやペイ・パー・ヴューの視聴の実態を知らない。これ、見れば物凄い盛り上がりである。

プロレスのややこしさは必然的に食わず嫌いを生み出すので、ましてや我が国で行われているマイナー団体の試合を見た人は僕の回りにはまずいない。これはビジネスとしては小さいが、コアなファンで一杯なのだ。大(全や新ではない)日本プロレスや大仁田が率いていたFMWの、蛍光灯で頭を叩き画鋲を撒いたところへのボディースラム、或いは電流爆破などはマイナー過ぎて、痛みに耐える訓練は感動モノだが一般の視聴には耐えられないだろう。

それはさておき、WWEスタイルは、誰と誰がどういう確執で今日に至っているかのシナリオがあり、それに沿った試合スタイルをいかに造り上げていくのか、を楽しむ代物として完成されていて、エンタテイメント性は他を圧倒している。善玉・悪玉が決まっていて必ずトークが入る。中にはトークだけがクローズアップされるレスラーまでいて、趣向を凝らしまくる。そして会場にまで足を運ぶのは、階層で言えばB級の観客ばかりだからそれなりの『受け』を狙って、ツカミから盛り上げまで反応を確かめつつジョークも交えてやらねばトップは張れない。従ってスーパー・スターにはアクション映画に出演するようなクレバーな演技者の才能が求められる。ロックとかジョン・シナ達がそうだ。事実彼らの主演映画が撮られてヒットした物もあるのだ。なかなか日本のレスラーには真似できるものではない。ラッシャー木村の『馬場、このやろう!オレは焼き肉10人前食ってきて負けちゃったんだよ!今度は20人前食ってやるから、待ってろよ!』だったり『兄貴!今年もよろしくやってくれよな。』式のマイク・パフォーマンスはあったのだが、洗練度が違う。日本でも高田延彦や小川がやっていたハッスルがその路線を踏襲した。しかし、シナリオがプア過ぎてダメだった。曙が卵から生まれた赤ちゃんというシナリオなんて・・・。

WWEのビジネスとしての貪欲さはエゲツないの域に達していて、イラク戦争が始まれば英語の喋れないイラク人(実はペラペラ)をリングに上げる、アフガニスタンには米軍の慰問に行く、ひどかったのは日系レスラーのプロモーション・ヴィデオにはキノコ雲をバックにする始末。ヴィンス・マクマホーンは娘の結婚・出産・離婚までリング上のセレモニーにして客を呼んだ。この辺がプロレス愛好家の知性が疑われるところなのだが。しかしながら子供の頃にチラリと見たことぐらいはあるのだろう、僕の相手になったそれなりのインテリ・アメリカ人に、テリー&ドリー・ファンクとかハート・ブレイク・キッドといった名前を出して知らなかった奴はいない。ただ、ひとしきり盛り上がった後で『イッツ・フェイク』と呟いてニヤッとするが・・・。おまけにドーピング程度は当たり前で規制も何もないから体格の素晴らしいの何の。ただやりすぎで皆同じ禿げ方をする。ビリーー・グラハム、ハルク・ホーガン。エディ・ゲレロなぞはホテルで歯ブラシを咥えたまま死んだ。そのくせ日本の政治家並みに世襲が多い。オートンとかローデスとかフォン・エリックいったファミリー・ネームに記憶のある方もいるだろう(いないか)。ミル・マスカラスの所なんか親戚中プロレスラーだ。これは一つには遺伝的な身体能力もあるだろうが、一方相当おいしい商売なんだろう。どこの世界でも一流と底辺はものすごく差がつくものだが、中堅クラスの稼ぎは冒頭の①②より遥かに上のはずだ。これは日本でもそうで、野球の二軍選手やボクサーよりも年収はいい。但しレスラーになりたがる人数が比べ物にならない程少ないのだが。

それではアマチュアはアマレスしかできないかと言うとそんなことは、ない。あちこちにアマチュア・プロレス団体というのも存在しているのだ。現在ではマットもやわらかく、ロープもキチンと張り、レフリーもトレーニングを積んだちゃんとしたプロレスになっており、選手達も良く練習している。飛び技、投げ技、打撃技、スピード、そしてエンターテイネント性も申し分ない試合が行われている。中継(無論していないが)の為の解説も、倉持、古館、福澤といった名アナウンサーばりの調子で見事なもんだ。しかし40年前は凄かった。僕は偶然見たのだが関東アマチュア・プロレス・ヘビー級選手権は大田区立体育館で体操用のマットを敷いて行われていた。ロープなんかを張る機材も何も無い。ところがバレーボール・ネットに使う鉄柱が二本ポツンと立てられていて不思議な感じで始まった。暫くは投げ、締め、張り手と繰り出して四の字固めとか片エビ固め、といった基礎トレのような試合があった。ロープがないから跳ね返ることもできない。ところがリングアナウンサーが、メイン・イベントを伝えると雰囲気は一変した。ヘビー級の選手権はチャンピオン、ビッグ赤平 対 挑戦者ハンニバル清水の試合だった。ビッグ赤平はかなりの巨漢、ハンニバル清水は空手家のコスチューム。ハンニバルの反則パンチ・キックにビッグが耐える試合構成だったのだが、場外乱闘になった。リングを組み立てていないので、場外転落ではなく、単にマットからはみ出しただけだが、今まで意味なく立っていたバレーボールの鉄柱の意味がそこで分かった。そう、鉄柱攻撃なのだ。ハンニバル清水がビッグ赤平の頭を掴んでガシャーン、ガシャーンとやると赤平の額からホンモノの血がドバァーと吹き出して、床に座って見ている(アマチュアだから席なんかない)僕達の前でポタポヤ落ちる。ところが使用後に後が残ると叱られるらしく、スタッフがセッセと雑巾で拭くのがお笑いだが。最後は打点の高いドロップ・キックから見事なジャーマン・スープレックスでビッグ赤平の勝ち(体操のマットが床に敷いてあるだけですぞ)!ちゃんと試合後のインタヴューもあって額をタオルで縛った赤平選手がマイクに向かって吠える。回りは少年ファンが囲んでいる(僕以外)。

中継役「赤平選手、おめでとうございます。試合を振り返ってどうですか。」

赤平「いやー、ハンニバルがしぶとくて。危なかったです。」

中「ものすごい出血ですが、明日から仕事大丈夫ですか。」

赤「こんなケガ、一晩寝れば何ともありませんよ。はっはっはっは。」

後日分かったことだが、彼は一週間休んだらしい。いかん、このブログ趣旨と関係ないところに行ってしまった。

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スポーツを科学の目で見る (プロレスその1)

2014 JAN 22 14:14:58 pm by 西 牟呂雄

前のブログで”開発の蹉跌”と称して材料開発の難しさをおちょくったが、あれは当時研究開発者達の前で本当に口に出した台詞が入っている。さぞ不愉快だったろうが真面目な人達に申し訳無いことをした。更に失礼ついでに、色々と実験することとプロレスの観戦は同じだ、という仮説をさんざん喋っていた。何を脈絡も無くとお思いだろうがこういう訳だ。

実際僕は研究者と言ってもいいほどプロレスには造詣が深い。村松友視の『私プロレスの味方です』という本が売れたが、あの本は当時のアントニオ猪木が唱えたストロング・スタイルの解説本で、無論読んだが正直言って、今更何言ってんの、ってな感想だった。比較されたジャイアント馬場のスタイルをショーマン・プロレルと貶めアントニオ猪木スタイルを過激なプロレスと論評した。これを聴いた馬場のコメントが残っている。「過激なプロレスって何だ。やってることは同じだろ。」・・・・さすが。もう一つ、猪木が進めた異種格闘技戦のハイライト、アリ戦に関しても「僕はアリなんか強いとは思わない。」と語ったとされている。ただ、ツウの間では猪木ーアリ戦はよくやったという評価はある。あれだけ直前にルールに文句をつけられて、何もできなくなった猪木がとっさに寝転んでアリの膝のみを狙わざるを得なかったのに、一応(一般的にはダレたが)15ラウンド戦ったのだ。

話がなかなか進まないが、僕レベルのツウになると大きな試合を見る際はその流れを事前に予測する。どこでどういう技を出すか、キメ技をいつ出すか、結果はどうなるのか。実際にはプロモーター(日本であれば所属会社)の意向が働きシナリオは出来ているのだが、そのシナリオを読みに行く訳だ。そしてそれがどの程度当たっているか、又は選手によってはどこまで忠実に耐えられるのかを見極めるのが醍醐味である。即ち『仮説を持って観戦し、結果を持って議論する。』と言った具合である。翻って実証実験をするに当たっては『仮説を持って実験し、結果を持って議論する。』のが王道であろう。何が何でも混ぜてしまえでは、何が開発要素なのかが分らなくなり、偶然の産物しか結果は出なくなる。これが本論の意味するところだ。

例えて言えば、新規プロセスの開発において製造機械のスケールアップを目指す場合には、開発側としてはいくつかの新規要素を盛り込んだ設備にしてコストを下げたいだろうが、良好な結果が出ても、どの要素技術が効き目があったのか、一概には言えなくなることがしばしばある。できればいくつもの設備を段階的に投入したいところなのだが、予算がかかり過ぎる、と誰でも悩む。こここそ『仮説を持って』であり、初めはその通りの結果など出ることは稀であるから徹底的に議論をするのである。

ところで、これほど研究している僕にして、プロレスの試合結果が全く思い描いたものとならないことも、たまにある。いくら専門家の間で議論しても『あれはないだろう。』となる展開に驚くような試合のことだ。古い話だが『ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田VS大木金太郎、キム・ドク』のPWFタッグ選手権がそうだった。馬場と大木はこのシリーズ初めから意地の張り合いが続き、キム・ドクは鶴田を挑発し続けた。セメント・マッチ(本気のケンカ試合)ならば大木の方が強くはないか、と研究者の間で囁かれていたのだが、この試合で見る限り拮抗していたと考えられている(後にシングルマッチで馬場に軍配は上がるのだが)。タイトル・マッチの結果は、滅多にないことであるがあのジャンボ鶴田が頭に血が上り、キム・ドクにパウンド(馬乗りになること)しての左右パンチのラッシュが止まらず反則負けとなった。鶴田という選手はプロモーターからは実に頼もしいレスラーで、自由自在に試合を組み立てられる逸材なのだが、この時の鬼気迫る止まらない連打は、長年プロレスを見てきた僕が怖かったくらいだった。一方のキム・ドクはアーノルド・シュワルツネッガーのレッド・ブルで、冒頭サウナでのケンカに登場した東洋人と言えばおわかりの人もいるだろう。アメリカで売れたヒールなのだがこれも実力は一流だ。恐らく鶴田がヒート・アップしている内に歯止めがかからなくなったものと言われている。同じような展開に、タイガー・ジェット・シンが猪木からタイトルを奪ってしまったNWF選手権が上げられる。やったこともないアルゼンチン・バック・ブリーカーが偶然決まってしまい、シンも引っ込みがつかなくなって、猪木がギブ・アップしてしまった。もっと昔にはデヴュー試合でルー・テーズ(とっくに全盛時代は過ぎている)相手にいいところを見せるはずだったのに、試合途中にくらったバック・ドロップで失神したグレート・草津。

この草津という人はナイス・ガイで引退後は日本バスコンというコンドームの会社で営業部長をやっていた。元々はラグビーの名選手で所属は当時のY製鉄だった。高炉の炉前において、超人的なスタミナとその怪力で数々の伝説を残している。酒なんか超人を越えた魔人と言われたそうだ。ついでに言えばグレート東郷の最後の教え子で、同期は星野勘太郎。

この話、少し長くなりすぎるので次回に譲る。

10.21横浜文化体育館

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