Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 旅に出る

South Bound Train (サウス・バウンド・トレイン) クロスビー&ナッシュ

2015 MAR 6 22:22:58 pm by 西 牟呂雄

 微笑ましい映画『小さな恋のメロディー』で流れた『Teach your children』や『青い目のジュディ』で知られるクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング。僕らの世代にはおなじみのアコースティック・グループだった。しかしあれだけの個性ではまとまってやってはいられないだろう、パッと解散してしまった。その中でデビット・クロスビーとグラハム・ナッシュは気が合っていたらしく二人ユニットでアルバムを出している。yjimageCALS3SG1 
 デビッド・クロスビーはバーズのオリジナル・メンバーで、曲中のサビのテナー・ハーモニーをやっている人。風貌は元ヒッピーの明るいオヤジという感じで、今ではハゲてデブになってるだろう。
 グラハム・ナッシュは英国人でこちらはまた懐かしいホリーズ。英国は後にハード、パンク、ヘヴィに進化するが、ヒッピー・ムーヴメントの頃はこういう輩もいたのだ。
 
 僕はどういう訳か、この二人で出した『サウス・バウンド・トレイン』が好きでいまも口ずさむ。メロディーと相俟ってが歌詞が泣けるんですな。
 この歌のサウスはディキシー、アメリカ南部(南北戦争で負けた方)と解釈している。この語感がピッタリくる日本語はふるさと。東京に上京して酷い目に会うモチーフは、南部のアンチャンがニューヨークで挫折する『真夜中のカウボーイ』的世界とシンクロする。それでかわいらしいお嬢さんとイイ感じになって振られればそれなりの小説一丁上がり。ちまたにそういう私小説が多いのは、最初から根性据えて女を食いもんにしようとしてその通りやった奴は、その経験を小説になど書きゃしないからだ、いや恥ずかしくて書けない。ついでに言えば同じように小説にしにくいのはバンカラもの。
 このディキシーに対する北部のことをヤンキーと言うのだが日本では別の意味になった(チンピラに)。
 余計な寄り道だったが、この歌を八代亜紀が日本語で歌ったらどういう歌詞になるか。いつものオチョクリじゃなくて真面目にやってみた。クリックして聞きながら読んでみてください。

Liberty, laughing and shaking your head
自由!   笑って  首を  振れ
Can you carry the torch that’ll bring home the dead?
亡き人 を  故郷(クニ)へ  連れてけよ
To the land of their fathers whose lives you have led
かつて   たどった  父祖の地 へ
To the station at the edge of the town
街はずれの駅 へ  送る
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車に

Equality, quietly facing the fist
平等!   最初に 気が付いて
Are you angry and tired that your point has been missed?
怒った   ことを    忘れてないか
Will you go in the backroom and study the list
昔の   リスト   見てみろよ
Of the gamblers using the phone
博打ウチ  が   綴ったアレ
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車よ

Fraternity, failing to fight back the tears
仲間!     泣くのを   こらえろよ
Does it take an eternity breaking all the fears?
永遠に    怯えて  暮らすのかい
And what will the passenger do when he hears
過ぎ去る者が  聞いて   どう思う    
That he’s already paid for the crown
亡きひと  は 割りに  合ったんだと       
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車で

 お聞きになって分かるかもしれないが、これにモロに吉田拓郎&ムッシュかまやつ が歌った『シンシア(南さおりに捧げる歌)』が被る。やったに違いない。拓郎は『春だったね』はボブ・デイランのパクリだったのを認めている、散々言い訳した後で「まっ真似しましたね。」と言っていた。まっ気付いてましたけどね。

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台湾旅情 Ⅲ

2014 SEP 16 11:11:52 am by 西 牟呂雄

 思い出深い台湾だが、もう少し書きたいことがある。国民党が上陸してしまったから、リパブリック・チャイナとなってしまったが、果たして概念的にチャイナに入るのだろうか。
 極めて大雑把な歴史的背景から考えれば、中原にある中華は農耕を良くし年貢を納めてこそチャイナ文化の華が咲く。
 すると、古来万里の長城の外側は関係ないと言って差し支えない。「西の方、陽関を出づれば故人無からん」唐の時代の詩だ。そして中華は海の向こうには除福の伝説や鄭和艦隊の派遣を例外として興味を持たない。オランダが台湾を統治した際にも文句一つ言った形跡はない。
 僕はこのエリアで上海・台北・香港と渡り歩いたが、それぞれ性格が違う。言葉も本当はマンダリン以外通じない。悪口はSMCの趣旨にのっとって書かないが、台北が一番お人好しだった。
 例の『素食』でご飯を食べたときに、量り売りの料金を払ったあとにお婆さんがチョコチョコっと寄ってきて「おいしいおかゆだよ。」とサービスしてくれた。こんなことは上海や香港では絶対に起こらない。しかも上手な日本語だった。

 言葉に関しては、前編でミンナン語、北京語、現地語(アミ語やタイヤル語)を紹介したが、客家も多い。僕は客家語の1・2・3・4がイチ・ニィ・サン・シィという読み方だということを台湾で知った。
 更に北の日本人妻ではないが、台湾人と結婚していたり(男も女も)何らかの事情で引き上げなかった旧日本人が(国籍はまだあるが)暮らしているとも聞いた。
 
 AOさん(怖くて本名は書けない)という不思議な日本人に会った。日台の交流促進のNPOの名詞を持っていたが、謎の多い人だった。一度台北で酒を飲んだときに、例によって僕がベロンベロンになって地元の酔っ払いに絡まれた(絡んだ?)。すると早口の中国語で何かまくし立てると周りが怯んだそのスキにサッと僕をタクシーに押し込んでくれた。当時の僕より20歳以上年長のおじいさんで大した貫禄だった。確かその時だったと思うのだが「自分は陸幕の別班だった」と言った記憶がある。
 この人、大陸の事情に通じていて実際に香港にも活動拠点があったらしい、いやマカオだったか。2000年頃。李登輝の後任の総統選挙では大陸からの猛烈な工作が仕掛けられていた。その際突如として独立派として知られる大物財界人の許文龍(シィ・モン・ロン)氏が独立反対の意見を発表して少なからず驚いた。このときにAO氏と会ったのだが『あれは許(キョと言っていた)の奴が大陸に入れ込み過ぎて共産党にカタを取られたんだ。』とギョッとすることを言ってみたり、又なんの用があったのか知らないが、(もちろん戦後)海南島に住んでいたような話もしていた。段々ヤバいと感じて、上記『陸幕』の話はとうとう確認せずに僕が台湾から足を洗ってしまった。
 
 あれからもう長いこと行っていない。色々変わっているだろうが、あの人たちの人懐こい笑顔が懐かしい。

台湾旅情 

台湾旅情 Ⅱ


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台湾旅情 Ⅱ

2014 SEP 7 21:21:29 pm by 西 牟呂雄

 台北で定宿にしていたフォルモサ・リージェントホテルの直ぐ向かいに、中がどうなっているかも分からないスラム地区があった。表通りに面した部分は色々な店が並んでいたが、中の方は居住区のようで怖くてとてもじゃないが足が踏み入れられなかった。
 それが都市計画により取り壊され整地されていく過程を、出張のたびに窓から見ていた。ある程度取り壊しが進んだ段階で、忽然と鳥居が見えるようになって仰天した。日本式の鳥居だ。後日分かったが、台湾総督明石元次郎のお墓で、この地に神道式に祭られたのだ。日露戦争でヨーロッパにおいてロシア工作を仕掛けた明石大佐のことである。
 ここからは伝聞だが、大陸からやってきた国民党の兵士は住むところも何も無いから、引き上げた日本人街を勝手に占拠してバラックを建てたという。神道もへったくれも無く、明石総督の鳥居を住居の柱に使ったというのだが。
 この辺の感覚が本省人(台湾人)と外省人(国民党)で大きく違っていて、政治的な話には慎重にならざるを得ない。僕の相手は本省人が多かったが、日本語の上手い奴が国旗の青天白日旗を指して言った。
「あれは国旗ではありません。国民党の旗です。私達は台湾国旗を未だに持っていないのです」
彼こそ兵役時代は金門島で大陸に対峙していた砲兵だった。この人、前回書いた大陸のミサイル発射の時も落ち着き払って
「アレ、2~3発ダフッて大陸(ダールー)に落ちる。(ゴルフのダフリの事らしい)。」
と嘯いていたツワモノである。

 烏来(ウライ)という温泉地がある。渓谷沿いの美しい景観が見られる露天風呂に浸かった。パートナーが招待してくれたのだ。タイヤルという山地系の人々が暮らす町だ。
 翌日は一人でバスで帰ることにして(僕は一人でトボトボ旅をしたい)景色のいい所で一服していたら『高砂義勇隊慰霊碑』という小さな案内に気が付いた。細い路がついていたので登ってみるとここでまた突如鳥居が出た!神社なのである。
ー高砂義勇隊慰霊碑ー
先の大戦の際に帝国陸軍が軍属を募集したところ千人の募集に40万人が応募したとされる、あの高砂義勇隊を顕彰しているのだ。一瞬、まずいものを見たような気がしたが、暫く見て廻ると日本が造ったのではないことが分かった。他に人っ子一人いない静かな静寂の中で日本語の説明文を見つけ、読んでみると驚いたことにお兄さんが戦死された地元の篤志家(女性らしい)が自力で立てた旨記されてあった。神社だから拍手を打って、何とも厳かな気分になって小道を降り、少し先にあったレストランでうどんを食べた(ニューローメンという)。キツネにつままれた、という気分で食べていると、
「日本から来ましたか」
と聞かれた。ウワァ、ややこしい話をされたら参るな、と身構えた。すると向こうから、
「高砂義勇隊記念碑に行ったか」
と言うではないか。万事休すだ。ところが、その店の従業員らしい老人は、喋りなれた日本語でおおよそ以下の事を語った。
 あの慰霊碑は地元のタイヤルの酋長(制度としては無いが伝統的な長老、英語でチーフ)が立てたが、折からのSARSで経営しているホテルが倒産しメンテができなくなった。以前は日本人観光客が大勢来ていたので日の丸をたくさん立てて軍歌を流していた(本当だろうか)。残念なことだ。
 大体そういう内容を語った。指をさした先には確かに『酋長のお店』という看板があり、タイヤルの伝統舞踊を見せていたとの事。
 その行為は別におもねる訳でもなく、頼まれた訳でもなく、必死に戦った親族を誇りを持って讃える気概を感じたのだが。これを今日の日本で考えると・・・・。そういえばテニヤン島でスニヨン(中村という日本名だったか)という旧日本兵が発見されて、台湾に帰国した際の日本政府の対応があまりにも冷淡だったことを思い出した。彼は山地のアミ族でアミ語と日本語しかしゃべれなかったため、中華民国となった故郷ですることもなく、一日夕方まで一人でぼんやりとしていたという。

 その後帰国して調べてみると、周麗梅さんという方だとわかった。僕のような人間が『有難う御座います』とか『申し訳ありませんでした』と言うわけにも行かず、せめて民進党と李登輝さんを応援しようと思った。
 人間は歳をとると『昔はよかった』と必ず言う。台湾のオールド・ジェネレーションには国民党の圧制がこたえたので日本時代が良かったと言うのかも知れない。
 一方でしかし半島ではクーデター後の戒厳令以前を懐かしむ人も日本時代を語る人も(本当はいるのだが)いない。
 これも本当の話だが、酔っ払った台湾人が目を据えて『天皇陛下はお元気か』と聞いてきたこともあった。『大和魂』とも口走ったが意味を知っていたのだろうか。

 ところでもう5年も前になるが、某放送局の『JAPANデビュー』という台湾のルポ番組を見てしまったが、あれは酷かった。何か番組の作り手の方が怖い。
 最近A新聞も何かの問題で訂正を出したというが・・。

台湾旅情 

台湾旅情 Ⅲ

台湾旅情 Ⅳ


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台湾旅情 

2014 SEP 2 19:19:50 pm by 西 牟呂雄

 これもまた昔の話だ。台湾の総統選挙を牽制するために大陸がミサイルを台湾近海に撃ち込んだことがあった。僕はその直後に台北に向かった。今から考えると不思議だが渡航禁止も注意喚起も何も無かったのだ。1996年だった。
 これは前年のミサイル発射の際に、アメリカが空母インディペンデンスを派遣して強烈なメッセージを出し、今回も直ちに第七艦隊が配備されたので、大事には至らないだろうと思われていたからだろう。ペルシャ湾からミニッツが来る、とも言われていた。更にその後広がった噂では、中国のミサイルが空砲だったことを(本当かどうか知らないが)李登輝が諜報によって”知っていた”からだと囁かれた。
 台北訪問の目的は現地の企業との提携交渉で、ほとんど合意に達しており現地の弁護士と打ち合わせをした後はサインを交わすだけだったので、気楽とは言わないがいつもよりは足取り(飛行機だから飛び取り?)は軽かった。それが乗客は物凄く少なく、座席が1列に3人くらいしかいない。皆ビビったかとせせら笑ったものだったが、今ではそうも言ってられないだろう、ウクライナの事もあるし。
 着いた日に提携相手とメシを食いに行ってただ事ではないと思い知らされた。普段はネオンギラギラの台北の街が暗い。英語の上手い洗練された台湾人が、乾杯の時にグラスを挙げて言った言葉。
「こんな時に約束通りに来た日本人の勇気に感謝する。」
「!」
最早『そんなつもりでは・・・』等と言えなくなってしまい、僕自身は絶対に役に立たないくせに、
「心配ない。第七艦隊(アメリカン・セヴンス・フリート)とウィ・ジャパニーズ・アー・ナウ・イン・タイワン。」
と口走った。これが効いたとも思えないが、大変スムースに合意に達することは出来た。
 台湾は人口2千万しかいないのに国是として大陸に対峙しているから国民皆兵で、彼らは全員兵役をこなしている。そして本当にドンパチが始まると予備役招集されると言うのだ。何と先方の責任者はかの金門島の砲兵で時報代わりに空砲をブッ放していたそうな。
 帰りの便は、来る時とは逆に台北から帰国するアメリカ人やアジア人・日本人で空港はゴッタ返し、帰国便も満員だった。

 その後も何度も行き、南国らしいトロピカルな雰囲気と人懐こい人達にすっかり台湾贔屓になり、台湾内は一人でも電車・バスで十分移動できるようになる。新竹(チンチュウ)という街は台湾のシリコン・バレー等と言われ、米国と直結したファウンドリーと言われる受託産業が独自に発達していた。そして次々に新しい会社ができたり売却されたり、と活発だった。
 台湾式経営という訳ではないが、バランス・シートを安定させてキャッシュを確保する堅い経営と旺盛な独立心が特徴的で、人口2000万人に当時70万人の社長がいると言われていた。韓国と違うのは、分厚い中小企業が中核を支えているところだろうか。このスタイルはアジア通貨危機の時に圧倒的に強みを発して、NT(台湾ドル、しかし圓と表示されている)はむしろ円にリンクして暴落しなかった。
 一般に親日的と言われているが、産業構造も日本と競争するより上手く棲み分けているように感じられた。即ち材料は日本から、加工・組立は台湾で、といった具合だ。

 台北や高雄の屋台風外食もおいしいが、『素食』という看板の食堂のようなものがある。入るといろんなおかずが大皿にいくつも盛ってあり、一人一人好きなものを少しづつ取っていく。ビュッフェ形式のようだが会計のところには量があり、それに乗せた時の重さで料金を決めるシステムで、これがうまい。繁華街に『四川料理』『潮州料理』『北京料理』『広東料理』といった立派なレストランも充実しているけれど、僕は一人の時は素食を好んだ。もっとも中には材料を見せている棚にカエルがぶらさがっていることもあったが・・・・。
 台北の林森北路(リン・シン・ペェ・ルー)という一角は日本人が多くカタカナのネオンだらけだったので、僕はあまり近寄らなかった。
 
 台湾オリジナル言語はミンナン語と言ってどうやら福建系のチャイニーズらしいが、国民党が来てマンダリン(北京語)が入った。一党独裁時代はミンナン語は禁止され、僕と同世代くらいの人間は教室に憲兵がチェックするため入ってくる経験をしている。この戒厳令時代の歴史的葛藤は今でもある程度続いているものの、ここでは政治的評論は避けたい。現在は民主化もされて選挙は行われる一方、大陸との関係は緊張感が続く。
 それとは別に山地のオリジナル言語、漢語とは別で南方系の言葉もある。しかし文字がないために記録が残らないようだ。他に客家語その他。台湾人パートナーがレストランの隣の客が喋っている(中国語っぽい)言葉が分からない、と言うのでビックリしたことを覚えている。
 従って彼等の他国語に対する感性は敏感で、ビジネスマンは英語が上手いし、アメリカへの留学者も多いと聞く。ただ、留学生は徴兵免除になるから、と当時は噂された。
 
 総じて中国の台頭により国際的に孤立しがちな彼等は、ビジネスの上ではいじらしい程誠実だった。

 つづく

台湾旅情 Ⅱ

台湾旅情 Ⅲ


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フィリピン侵攻作戦 下 

2014 AUG 27 12:12:55 pm by 西 牟呂雄

 マニラから南に下った所のバタンガス州、美しい湖のある所にご他聞に漏れずゴチャゴチャした町があり、ここの工業団地に工場を建てることにした。検討に費やした物凄い密度の会議で、最期に僕はキレた。
「採算についてはもうこれ以上は分析できません。しかしたとえ嵐に遭遇してもどこまでも海原を行ける航海の可能性を選びます。」
言った時には加山雄三の『海・その愛』が頭の中でガンガン鳴っていて自分の言葉に酔った(バカだったなあ)。
 エリアの契約、現地法人手続き、派遣人員人選、顧客説明、現地オペレーターのトレーニングと事務処理が続く。フィリピンから第一陣の研修生が日本にやってきた。全員初めての海外である。見るもの聞くもの珍しく、学習意欲の高い子達だ。日本のコンビニが楽しいらしく、仕出しのお弁当はすぐに飽きて自分達でオニギリ、から揚げ、、サンドイッチを買って喜んでいた。僕達がレクリエーションでやっていたバーベキューやキャンプには大はしゃぎで参加し『フィリピンに帰って工場でやってみたい』。そして休日には『ディズニーランド』と『アキハバラ』に行って見たいと言う。現地でも有名なブランドらしい。これは操業してから来た第3次研修グループまで皆同じだった。
 一方でフィリピンの方でも、工場建設を進める。レンタル工場の中に設備を搬入する。ガード・マンを手配する。現地の有力者とコネをつける。
 この際注意しなければならないのは、日本人の現地コンサルには相当ヤバいのがいるのでご用心。ある人間に相談したら、それから『傭兵を紹介する』とか『レストランに出資しないか』とか、更にはあからさまに『女を調達してやろう』などと言い出す。その辺りで切ったが。

 さて、準備が遅れつつも何とかスタートしてからは、この工場は驚異的に伸びた。数名の女の子のオペレーターと少数のスタッフに日本人二人。思えばかわいらしい南の前線基地のスタートだったので、僕達はここを『ラバウル』とコードネームで呼んだ。1年もすると品種も増やし、オペレータも倍々のペースで集まり、すっかり定着した。
 ところがやっぱりこの国、気を抜くわけにはいかないのだ。ある日同じ工業団地の敷地内にフィリピン空軍の練習機が落ちた。火災等の二次災害はなかったが心胆を寒からしめられた。プロペラのヘナチョコ機ではあったが。
 近隣の繁華街で怪しげな日本人が射殺される。
 ビビッた僕達はガード・マンにショット・ガンを持たせた。  
 
 ここはカトリックの国だからクリスマスが近づくと、どうやって楽しむかが職場の話題の中心になる。普段は福利厚生などにはコストをかけていないので、各スタッフは大はしゃぎで出し物を提案する。カラオケ大会に至ってはそれぞれ代表を選抜し、点数を付けて競う。派手な振りのダンスの練習も始まる。本番は近くのゴルフ場のレストランを借り切って、プロのバンドまで入ったドンチャン騒ぎだった。僕としてはタダでフィリピン・パブで遊んでいるような気がして楽しんだが・・・。
 自作の衣装を派手に着飾ったミスコン、各職場の代表によるプロはだしのカラオケ。バンドが始まる頃には全員立ち上がって踊り狂う。何故か僕は『カーネル(大佐)』と呼ばれていて、会場のアチコチから声が掛かりツーショットに収まったり握手をしたりして・・・・。通常一般のフィリピン人というのは我々程にはガブ飲みすることはない。しかし僕は悪しき日本人の酔っ払い丸出しになり、アッと気が付いたときはステージの上に立っているではないか。このバンド、見たところ若いメンバーなのに70年代の曲ばかりをやっている。特徴のあるギター・イントロにつられてマイクを握っていた(この間打ち合わせもナシ)。僕は普段は人前ではしゃぎまわったりは断じてしていない(と思う)が、この時は酒が十分に廻ってしまった。曲はワイルド・チェリーの『Play that’s Funky Music』だということは直ぐに分かった。
「Once I was a Boogie singer
Playing such a Rock’Roll band」
とやってしまい、社員のフィリピーノ・フィリピーナには大ウケした。
 が、このときの写メが後日さるところで公開されてしまい『あいつは工場を造ったと言っていたが、本当はマニラでクラブでもやってるんじゃないのか。』と少なからず問題になったと聞く。

 その日の帰り、焼けたコンクリートが涼しくなったようで、後から後からバカでかいフィリピンのガマガエルが這い出して来ていた。

フィリピン侵攻作戦 上 

僕の地球放浪記 Ⅰ

僕の地球放浪記 Ⅱ 


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僕の中国事始め

ヴェトナムに行ってきた

フィリピン侵攻作戦 上 

2014 AUG 22 10:10:22 am by 西 牟呂雄

 フィリピンには実際良く行った。一般の人のイメージはどんなものだろうか。せいぜいフィリピン・パブのかわいいお姉ちゃん程度か。ベニグノ・アキノ氏の暗殺やコラソン・アキノ大統領の熱狂的選挙もご存じない若い人も大勢いることだろう。
 勃興する東南アジアのスマートな国とも見えなくも無い。実際国民の大部分がカソリック教徒で英語も良く通じる。しかしそれには統計上現れない数千の諸島にいる多くのイスラム教徒は勘定に入っていないのではないだろうか。タガログ語には独自の文字はなく、ローマ字式の表記だ。統計は相当怪しいし、それどころか経済は慢性的に破綻している。まともな組織は陸軍くらいだが、これが又しょっちゅうクーデター騒ぎを起こす。治安レベルは最低に近く、犯罪組織も多い。マニラで一晩に何人が死んでいるか誰も分からないかも知れない。マカティ(中央ビジネス街)でもホールド・アップはある。いささか旧聞に属するが三井物産の若王子支店長の誘拐もあった。一応の銃規制はあるが、アメリカ式でその辺のガード・マンも携行しているのが不気味だ。僕もトレーニング・センターで何回か撃ったが、気軽さが返って怖い。一度セヴ島の空港のマニラ行き荷物検査で赤ちゃんを抱いたかわいらしいお母さんがハンドバックからゴトッという感じでピストルと携帯許可証を出した時は異様な光景にビビッたものだった。 
 日本人もしばしば殺される。殆どがヤバい人で、恐らくフィリピン姉ちゃんを日本に手引きしている自称『芸能ブローカー』が金でモメてやられる。
 アロヨ大統領の時にも首都のマカティーでやはりクーデター騒ぎが起きたが、軽く鎮圧された後に兵士達に与えられた罰が『腕立て伏せ30回』というユルさ。しかもマカオに在住していた日本人が殆ど気付かなかった程度の小競り合いというチンケさだった。
 東南アジアで勢いに乗った国の首都に、未だスラムが形成されているのはここぐらいじゃないだろうか。僕がウロチョロしていた頃は台北やクアラルンプールにもあったのだが今はもう無い
 一度APECの首脳会議をやっているときに滞在していたことがあるが、唯でさえ慢性的渋滞で困るのに、体裁のために(仕方ないが)メインストリートの片側を封鎖して首脳専用にした。するとやはり無理があって、普段30分の移動に3時間かかって都市機能が麻痺していた。余談だがこの時ある所にパスポートを忘れ、往復6時間もかかって死ぬ思いをした。

 ピナツボ火山が大爆発してタルラック地方が大被害を受けた後にその辺りを車で通ったことがある。この地は殆どが前述のアキノ家の私有地で、景色はいかにもコロニアルな農業地帯だった。驚くべきことにルソン島は十数家族によって私有されていて、スペイン時代の荘園制が残ったまま米西戦争勝者のアメリカに取って代わらる。スペイン人がいなくなった後は荘園管理者の華僑系が多くを支配する構造になってしまった。コラソン・アキノはコフアンコ財閥の娘だが、一目で中華系であることが分かる風貌だ。今は息子が大統領。
 街外れのタルラック川の恐ろしい光景は圧巻というか何といか、火山灰がドッと押し流されて橋は全て陥落し、月面のような無機質の砂漠と成り果てていた。ところが運転手はドンドン進んで行く。そして『物乞い』とでも言うべき被災民(かどうか分からないが。中には赤ん坊を抱いた子供までいた)が道案内をしていて、運転手やつられて僕までコインを投げてやる。すると幾筋にも分かれた浅瀬の通れるところに案内され、どの車もジャバジャバと川を渡ってしまった。その時はまるで戦場にいるような恐怖感、車の窓のすぐそこを川が流れているのだ。
 先日の地震・津波やしょっちゅう来る台風で、20世紀には世界で最も天災を受けた国らしい。日本も凄いから心から同情することができる。そういえば阪神大震災の時にマニラにいてリアルタイムで事情を知らなかったが、現地の報道が『センター・オブ・ジャパンが被害を受けた』と言うものだから、てっきり東京がやられたのかと思った。

 以前は懐かしいYS11がまだ飛んでいたこともあった。フィリピン国内線だが。リベットをたくさん打ってモンロー・ウォークのように飛行する名機だ。座席に『灰皿』と漢字で書いてあるままだったが『No Smoking』等とアナウンスをしていた。これでマニラから北に飛ぶこと1時間半(車で6時間)バギオという標高1,500m弱の高原都市があり、真夏にはマニラの政府がまるごと引っ越してくる避暑地だ。ここに大ユーザーの工場があったのでしばしば訪れていた。
 悲しい歴史だが、山下兵団が最期にギブアップとなった所で知られる。松の木がたくさんあって涼しげな街だった。フィリピン国軍の士官学校もここにある。一度行って見たが最期の激戦を物語る米軍兵士が大勢埋葬されて、小さく白い木の十字架がズラっと並んでいた。日本軍のものは、ない。
 巷間言われている山下財宝はこの辺で一部発見されたとも言う。しかし発見者が全部懐に入れてしまったので表沙汰にはならないんだとか。更にはかつての独裁者マルコス大統領がガメたという噂まである。
 米軍が避暑地に使っていたこともありキャンプ・ジョンヘイといった名前がついたリゾートがありゴルフ場も整備されていた。例のピナツボ火山の影響でクラーク空軍基地やスービック海軍基地がコスト高により閉鎖され、民間経営なっていたが、アメリカン・スタイルの快適なホテルで良くそこに泊まった。因みに米軍が縮小するに従って中国との領有権問題が顕著になったことは記憶しておいていいだろう。
 そしてここの言葉はマニラのタガログ語ではなくてイロカノ語。方言と言えばそうなんだろうが、マニラの人が道を尋ねて通じなかったことがある。そいつに言わせると日本語と英語くらい違うと言うのだが。

 一方南フィリピンは恐ろしく数が多い島嶼で構成されていて、ミンダナオあたりからモロ族といったイスラム独立派が蟠踞しておりテロが絶えない。アメリカも基地は縮小しつつ、しかし放っておく訳にも行かないので、軍事顧問団と称した部隊を派遣している。現在は衰退したようだがアブサヤフという過激派がいて、あのビン・ラディンから資金を受け取っていた。例の自爆テロの犯人が実行前にアブサヤフに潜伏していた、という話もあるにはあったが地元の連中は『相手にされるはずがない。』と何故か断言していたが。
 大体あんなに散らばっている島を全部管理して税金をちゃんと取っているとは思えなかった。

 ところで、旅の者は一週間くらいでメチャクチャ日本の味が恋しくなる。当時のインター・ナショナル・エアポートはニノイ・アキノ空港と言って今のよりも小振りだった。帰国のときにそこのレストランで『ラーメン』というメニューを見て(カタカナで書いてあった)思わず食べたのだが、その味は世界一マズかった(今は違う)。多くの旅人がガックリ来ていたものだった。  
 
 マニラ湾に面した繁華街の猥雑さと危険度には腰が引けたが、男も女も明るい気楽な奴等で僕は好きだった。そして熱い風に当たって血が上ったのか、勢いで工場建設を決定してしまった。今から四半世紀近く前の話だ。

この項つづく

僕の地球放浪記 Ⅰ

僕の地球放浪記 Ⅱ 

フィリピン侵攻作戦 下 


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僕の中国事始め

ヴェトナムに行ってきた

ヴェトナムに行ってきた

2013 DEC 28 22:22:28 pm by 西 牟呂雄

年末の最中、ヴェトナムを訪問して来ました。とある外資が投資しているプラントに一口乗ろうという魂胆でかなり辺鄙な所にまで足を伸したのですが。どれくらい辺鄙かというとハノイに飛んで国内便で1時間のりつぎ、そこから車で2~3時間の海に近いところです。年末ではありますが台湾より南、フイリピンの横の熱帯かと思いきや、冬場は雨季だそうで寒かった。雨は着いた日から3日間ずっと降っていて、気温は18度くらいでした。新興国と言われだしていますが車で2~3時間の陸路は凄いものでした。私は昭和30年代の日本の道路事情を記憶していますが、あのデコボコぶりによく似ている。所々穴のあいた舗装、雨の為にビチャビチャになった道路わき、マナー無視の運転とかすかに既視感が。それがまた荒っぽいの何の、行きは私の乗った車が危うくバイクの二人乗りを引っ掛けかけたし、帰りはトラックがこれまたバイクをペシャンコにした直後の現場を見ました。どいつもこいつもクラクションを鳴らしながらチキン・レースのようにアクセルを踏み合う。風景は右も左も水田で、今年はもう刈り取られていましたが、時々鍬を担いで例の三角麦藁帽を被った農夫が歩いていたりします。そして群れを成して闊歩する牛。バカなのか堂々と道を横切ったりして車を止める。のどかと言えばのどかだがあれは家畜なのでしょうが、どうやって管理しているのか。そして極めつけは日本では全く見なくなった牛に引かせての農作業もあります。盛んに撮られたヴェトナムものの映画で見た農民の姿そのものでした。

ときおり集落があって、正にアジアの町並みなのですが、特徴的なのは他の国のこういう街には必ず派手な漢字看板の華僑の店があるのが、全く見なかった。フランス統治時代にその手先となっていた華僑(これはスペイン時代のフイリピンも同じ)はヴェトナム戦争後の混乱でかなり駆逐されてしまったようです。怒った中国が戦争をしかけたものの、実戦経験に勝るヴェトナム軍に一蹴されています。

そうしてやっとたどり着いたハ・ティンの街はこれがまた何も無い。夜は真っ暗に近い。ホテルはそれなりの体裁だが、メシはまずかった。プラントを建設しているのは台湾資本ですが、どうやらそこで建設に携わっていそうなフイリピン系の人がヘルメットを被ったまま食事をしている。部屋は寒く暖房が必要でした。この緯度で暖房!そういえばフロントでも実に英語は通じなかった。戦争映画の刷り込みで英語が通じるかと思いきや、この地は当時は北ヴェトナムだったのでアメリカ兵なんか居なかったのだから全然だめでした。

ヴェトナムという国は長らく公文書は漢文でした。それに加えて独自の漢字というかヴェトナム語に対応した象形文字「チェノム」(これは恐ろしく画数が多い)が併用されていましたが、現在ではアルフアベットになっています。フランス時代があったため、フランス語の綴りによく似たクオック・グーが使われています。クオック・グーとは驚いた事に『國語』即ちコクゴと表記されていました。

さて、肝心のプラントの方はと言うと、本件一時はマスコミでヴェトナムの経済躍進の象徴的に報道されたこともあるものですが、実は遅れに遅れています。台湾資本側の若干のリセッションで投入できる資源が限られ、当初計画は大幅に縮小しそうなのです。行ってみると広大な敷地にポツリポツリと建屋が建設されていましたが、他は雨期のせいもあり例の赤土に水溜まりが広がるばかりです。この某業界は中国の膨大な供給過剰によって短期的にはギャップが埋まらないとされているので、正直竣工後の採算は苦しいのでは、と心配にはなりました。台湾スタッフも一部は縮小されるようですし、日本勢も進出を検討した形跡がありましたが、実は結ばなかった。

事務棟のすみっこでタバコを吸っていると(こんなところでも室内禁煙!)「コンニチハ。」と日本語で話しかけられました。振り返ると若いヴェトナム青年がニコニコしていて「ニホンジンデスカ。」と聞くではないですか。こんなところにはまだ日本人など来たことはないと思っていたので面食らいました。何故日本語を喋れるのか聞くとの大学時代に勉強したとのこと。そして目を輝かせて言いました。

「ワタシノユメハ、ニホンデハタラクコトデス。」

このエリアの出身かどうかは知らないが、一生懸命勉強したのでしょう。私も彼の夢がかなうことを祈らずにはいられませんでしたが、同時にずいぶん先の話にはなるだろうと思いましたね。この事業が発展し彼も十分な給料をもらい、キャリアアップしてから次のチャンスを探す。少なくとも10年はかかるでしょう。

「それではいつか日本で会いましょう。」

と言って握手をし、別れ際にお互いのタバコを取り替えっこしたのですが、物凄くきつい味でした。

出資元の台湾勢は数百人が滞在していて、寮を建設してそこに居住しています。全員単身赴任のオッサンばかりで、日常は全て中国語(ときどきマンダリンではなくミンナン語が混じる)で過ごしているようで、その光景はさながら東インド会社の英国人を思わせました。ただヴェトナム社会主義共和国ですから外資の土地所有は認められていません。佐藤優氏のいう新帝国主義の時代がどのような形を取るのか、金融業界のようなグローバル化が基幹産業でも起こるのか、そのあたりは嘗てアジアで工場建設を手掛けてきた者としては、第二ラウンドを迎えたような気がします。

帰りのフライトに乗り遅れては一大事とばかりに、早めに空港に行ったのですが、3時間前に着いてみると、何と誰もいない。人っ子一人いないのです。客待ちタクシーの運転手が昼寝をしているだけ。売店も航空会社スタッフも、警備員さえ影も形もないのです。これは・・・っと思っていると1時間後くらいからワラワラと集まり出して結局は満席の飛行機で帰りました。この国での仕事、当面の事業者の経営はキツイでしょうが悪くはない。あのヴェトナム青年と日本で会えるのはいつになるでしょうか。

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フィリピン侵攻作戦 上 

フィリピン侵攻作戦 下 

通り過ぎた国 

Malta Island

2013 NOV 21 16:16:00 pm by 西 牟呂雄

Mr. Azuma wrote his blog  based on NHK TV Program “Malta as a  Cat’s Island”.

バレッタの要塞

Almost ten years ago, once I visited Malta. There I didn’t notice any cat.

But I enjoyed old castle in Valletta which was constructed Malta Knights.

Malta Knights were established as the Defenses VS Ottoman Turks.

 

But do you know it is still remaining, located in Roma ? Especially Malta Knights are recognized Observer of United Nations even now.  They are usually engage ambulance in Italy, known by White Cross on Red. I never see them, if somebody watches them, please let me know.

It was my surprising, I found The Memorial Monument of Japanese Naval Destroyer!During WWⅠ, Japanese Destroyer “SAKAKI” has been to The Mediterranean Sea under The Anglo-Japanese Alliance, and was hit by torpedo from German submarine.

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