如来(にょらい)考
2024 OCT 6 21:21:15 pm by 西 牟呂雄

ウチは浄土真宗で、菩提寺は現在の場所に来たのは遥か後だが鎌倉時代の創建と伝わる。住職は代々『大江』さんと言って鎌倉幕府高官の大江広元の末裔である。
本堂に鎮座するは阿弥陀如来像で、仏事のお経を聞いている時などにしげしげと見上げているが、なかなかありがたい。阿弥陀様は西方浄土の一尊、如来はサンスクリットのタターガタの漢訳で、この上もなく尊いという意味の呼称である。
この『如来』という文字をジッと見つめていて心に浮かんだことがある。漢訳は当て字なんだろうが、読み下してみると『来るが如し』。
形而上の教えはあくまで概念だから現実には起こりえない。だから信用できない、となってしまえば宗教は成り立たない。理論構造を実証できないがゆえに先に進めない、となると現代人の大半はとてもじゃないけど受け入れられなくなる。
そうはいっても形而上としての心の支えが全くなければ人間には耐えられないことが多すぎる。例えば誰にも必ず訪れる死。いかなる合理的な知性でも簡単に腹落ちする解なぞない。宗教を否定した共産党独裁国家でも宗教が根絶やしになることはなかった。
しかし生き延びるためには各宗派は凄まじいエネルギーを内部の改革に費やしている。
キリスト教は信仰を維持するために、まるで生物が細胞分裂やウィルスから回復するように宗派同士で血を流しあい洗練されてきたかに見える。
イスラムでは今日ですらシーア派VSスンニ派、他宗教への攻撃と激しい対立はなくならない。ISの戦闘は記憶に新しい。
ところが日本では多くの仏教宗派を生み出したが、宗門同士での相手の潰し合いのような対立は少なく、明らかに宗教戦争めいたものは物部VS蘇我の丁未の乱と島原の乱くらいだろうか。日本仏教の武装闘争である一向一揆や石山合戦はむしろ権力者と対峙したもので、それはそれで歴史上の自立作用かとも思われるが宗派対立ではない。つまり貴族の仏教(天台・真言・南都仏教)が武士の仏教(禅宗)になり庶民の仏教(浄土・浄土真宗)になるほど仏教が浸透し、その庶民が権力に対峙するほど豊かになった社会的構造変化だろう。しかも最後まで戦った相手は無神論者の信長であった。
仏教が日本的に変化したところで、宗教戦争に至らなかったのは論争の際にご本尊を『如来 来る如し』としたために、まあそういうことにしておかないと先に進まない、ゴトクということで話を続けると、とやったためではなかろうか。仮説というか思い付きだが。
当て字の『如来』に意味を込めたかどうか知らないが、そういうことにしてしまったとしたら日本人はうまいことやった。ナンチャッテ、博識の方、ご教示願えますか。ぜんぜん関係ないが『極道』も本来『道を極める』という意味だが今日の口語では全く違った使われ方だ。
私の主催する『滋養教』もこれから『滋養如来』としようか。アッ、でも神道系だったよな。
まじめなお坊様、思い付きですので怒らないでください。
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アーサー・ウェイリーおよび井筒俊彦について
2024 JAN 21 8:08:04 am by 西 牟呂雄

アーサー・ウェイリーは明治に生まれ昭和40年代まで存命だったユダヤ系英国人、源氏物語の英訳をした語学の天才である。パブリック・スクールの名門ラグビー校からケンブリッジに学んだエリートで、ケンブリッジは中退し大英博物館に就職する。そして日本語並びに中国語を独学で学び、源氏物語や老子を英訳した。
驚くべきことに、当時の印刷技術からして英国に渡っていた源氏物語はおそらくは現代語訳でないどころか書体も毛筆草体だったであろうし、老子に至っては簡略されていない白文(ピリオドも何もない)かつ難解な旧字体だったろう。それを見事に翻訳できたとは余程の読み込みと並外れた想像力があったに違いない。しかも、日本語も中国語も喋れなかったというから凄い。八木アンテナの発明者として有名な八木秀次と交流して多少の発音は分かったらしいが流暢に喋るレベルにはなっていない。こういう人は語学というより文献解釈の天才とでも言うしかない。
ケンブリッジ時代にギリシャ・ローマの古典からラテン語を学び十数か国語に通じていたそうだから、他言語の意味することを掬い取るコツのようなものを体得していたのではないか。
ただ、謎があってドナルド・キーンはウェイリー訳の源氏物語で日本文学に目覚めたが、ウェイリーに初めて会った時はアイヌ語の講義していたという。本人の言にも『アイヌ語とモンゴル語はある程度知っており、ヘブライ語とシリア語も多少知っている』とあるがアイヌ語に文字はない。ローマ字表記されたものか、一部ロシア語のキリル文字に起こされたものから翻訳したのだろうか。
光源氏はShining Prince に、帝はEmperorと訳し、扉には『王子様、ずいぶんお待ちしました』と眠れる森の美女のセリフをあしらった『The Tale of Genji』は、その優れた心理描写でベスト・セラーとなった。特に900年も前に書かれた長編小説ということに賞賛の声が上がった。ただベスト・セラーといっても初年度に7千部くらい、というのもウェイリーはとても格調高い翻訳を試みているので当時の労働者階級にはピンとこない、いわゆるオックスブリッジ出の読書階級といった教養人がマーケットだったろう。とすれば大変な数字ということだ。
日本のことなどほとんど知らない英国人にフィットするように(本人も日本に行ったことはない)萩のことはライラックとするなど工夫を凝らしているらしい。筆者はその訳文を読んではいないが、他にも『あはれ』などは前後の文脈から sympathy、melancholy、sorrow、beautiful、facination と使い分けるというからもはや日本人より読みこなしているのである。
そしてこういう天才は見ているだけで訳語が湧いてくるようだから、中国語は(しゃべれなくても)もっと簡単に対応できたのではないか。白楽天を訳し西遊記を訳し論語を訳し、その勢いで The Way and Its Power: A Study of the Tao Te Ching and its Place in Chinese Thought として老子を翻訳した。
まったくの余談であるがビートルズのレディ・マドンナのB面であるジ・インナー・ライトの歌詞 『Without going out of your door / You can know all things on earth / Without looking out of your window / You can know the ways of heaven』はウェイりー訳の老子の一節『戸を出でずして、天下を知り、牖まどより闚うかがわずして、天道を見る』から採られた。当時ヒンドウーの行者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの瞑想の教えを受けたジョージ・ハリスンに、サンスクリット研究者のジュリアン・マスカロが薦めジョージがインド音楽風に曲をつけた作品である。
この天才のことを書いていて、我が国にも同じようなウルトラ級の天才がいたことを思い出した。コーランを原典から翻訳した井筒俊彦。西脇順三郎にあこがれて慶應に学んだ、筆者の敬愛する池田弥三郎の親友である。伝説によれば一度に10ケ国語を学び全て数か月でマスターした(一説にはひと月に一ケ国語)。曰く、英独仏といったヨーロッパ語は言語的に簡単過ぎる、したがってそれらを難しいという人の気持ちが分からない、ロシア語がやや歯応えがあった、だそうだ。更にペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ギリシャ語とマスターし、ヘブライ語、ラテン語までこなし、全て自在に喋れたと言うから天才どころか大魔神である。ウェイリーとはまた違った意味での才能かもしれない。
その大魔神は戦前、革命を嫌って来日していたタタール人と知り合ってアラビア語との運命的な邂逅をしイスラム研究にのめり込んだ。本人の言によると、アラビア語は文化語のうちで最も学習困難な言語なのだそうだ(ただ、始めて一月でコーランを読み通すことはできた)。
この下りは大変興味深い。そのタタール人達もまたは大変なイスラム学者で、伝統に従って一人はコーランの全文、もう一人に至っては質問する全ての文献が頭に入っており、井筒の蔵書をみて『こんな本を持ち歩かなけりゃならんとは情けない学者だ』と笑ったとか。
ただし井筒も、サンスクリット語の大家である辻直四郎(この人は一高で川端康成の同級生)に文献を借りに行き、辻はどうせ読めないだろうと思いつつ貸した。すると一月経って返しにきたので『ははあ、読めなかったな』と思い質問してみると全部暗記していた、という逸話がある。
尚、井筒の知名度がイマイチなのは著作のほとんどが英文で書かれているため、日本国内よりも海外での評価の方が高く、研究活動も慶應義塾だけではなくロックフェラー財団フェローとしてイラン、エジプト、シリアおよびヨーロッパでの研究生活が長かったためである。
どうもこういった天才達はどんどん古典の方にのめり込んで精神世界に行ってしまう傾向があるのではないか。ウェイリーは論語や老子道徳経を解釈して『中国古典哲学の解釈書”Three Ways of Thought in Ancient China”』に至り、井筒はイスラーム・東洋思想を通じて神秘主義哲学者となった。筆者はインチキな英語でビジネスをしながらキリル文字やヒンディー文字であるデーヴァナーガリーを眺めてみることはあってもロシア語・ヒンディー語・タミル語はさっぱりだ。つくづく才の無さを悲しむばかりである。
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『言葉』は言葉であって真実ではない Ⅱ
2024 JAN 7 23:23:11 pm by 西 牟呂雄

前回『法律はそれを『文章』として書いた人と、それを執行する人の間でのみ有効で、大きなお世話だと思う連中には効果はない。人間は自由意志もないにも拘らず社会生活をするために決めごとは必要となると文章は作る』と記した。このことを如実に表すのが誰も守らない法律であることは言うまでもない。
例えば制限速度。取り締まる者がいなければ誰も守らず、事故の際或いは運悪くつかまった場合に『ついてない』と言いながら罪に問われる。普段それを常習的に守っていなくても犯罪意識なんかない。職業的な格闘家になる根性はなくともモメ事と喧嘩が好きでしょうがない大バカは絶えることがない。そしてそのバカ同士がタイマンを張っても傷害罪が適用されることはない。もっと言えばヤーさんが殺しあうのもほったらかしてもいいくらいだ。カタギ相手じゃなけりゃ。
そしてこれらのドーでもいい話はさておき、昨今問題のパー券のショロマカシ問題だが、筆者はそれがどうした、という立場なのだ。賄賂性は無し、被害者なし、せいぜい政治資金規正法という交通違反以下の縛りとぎりぎり税金逃れなのだろうが、5年で150万円の某議員にいたっては特捜部は在宅起訴ができるのか。もともとどこでも誰でも何年も当たり前にやっていたことが内部告発されたのだろうから、とにかく何かしなきゃならん、となって盛り上げるために検察がリークした、という構図が透けて見える。それを軽薄マスコミがワイド・ショー・ネタにしたに過ぎない。特捜も困ってるんじゃないのか。ペイペイが逮捕されてそれで終わりかも。
煽られたおかげで支持率は低下したが、その世論調査が次の総理に押しているのが石破・河野・小泉というレベルだ。本気で怒っているとは少しも思えない。次の総理なんか誰でもいい、といった程度の話、その3人に中身が期待できるのか。高市早苗ならばともかく。
そもそも岸田総理は失敗らしい失敗をしていない。気に入らないのはLGBT法ぐらいで、これに頭に来たのは筆者のような右と二丁目の住民だから支持率低下とは関係はない。気の毒な話で不謹慎ではあるが、地震と航空機事故のドサクサで総裁任期まで持つだろう。で、総裁選は茂木あたりが出てきても勝てるんじゃないか。
そこで冒頭の話に戻るが、筆者もいい大人でありなおかつ性善説であるから、法のハードルは低くして多少のことは目をつぶる、だが気に入らなけりゃ引っ掛けることができるレベルにはしておく、というのが緻密な統治ということは十分理解している。
ただそれは、全ては『個』の話ならば分かりやすいが、一体『お目こぼし』が通用する性善説めいた運用はどの程度まで有効なのか、耐えられるシステムか。家族までか、一族までか、ダチならいいのか、同期ならいいのか、同窓ならいいのか・・・・、行きつくところは好むと好まざるとに関わらず国家でしょうな。
で、条約だ同盟だ国際法だ、とくるのだが、ここに至ると性悪説にならざるを得ないのが目下の世界ということになる。異論はなかろう。何たる無力か。そもそも本当に役に立つ同盟とはどこにある。成程EUができて独仏は二度と戦争はしないだろう。だがウィングを広げすぎて英国は離脱しウクライナ戦争は起きた。いかなる合意文章も提題の通りならば人類は何をやってきたのか。せめて一国でも核を使ったら核保有国はその国に飽和攻撃をする、くらいで縛れないのか。その場合我が国は、復活した新日英同盟で核搭載型原潜をレンタルして・・・、なんのこっちゃ。
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『言葉』は言葉であって真実ではない
2023 DEC 25 20:20:56 pm by 西 牟呂雄

これは何も病的な嘘つきやハッタリ屋のことを指しているわけではなく、日本人並びに日本語の特徴についてである。要するに書いたり喋ったりしていることと現実が大きく乖離してしまうことを言いたい。
その話をする前に、最近読んだ本で知ったことを少々。最新の脳科学の研究によると、例えば右手を伸ばしてコップを取る行動をとる場合、脳が指示を出す信号のほんの少し前から行動は始まっているということが計測されたというのだ。AIが文章を作る際にある言葉の次にはどういう言葉が最も整合性があるか、で文章を紡いでいくそうだが、人間の行為もそれに似ている。先にどういうことをするのがフィットするかを脳よりも早く反応している。
一方で、フランスの哲学者ジャック・デリダはそういった科学的検証とは別に、自由に発想した考察は必ず時間的な反芻(私の造語。デリダは英語ではdifference と表記)があるはずだ、とした。即ち完全な自由意志といえどもそれは後付けである、と喝破した。
これは虚言壁というようなよく口が滑る人、ハッタリや自慢話の多いオヤジのことを想像してみると分りやすい。ああいう人は自分の願望を述べているので、自分が嘘つきという自覚はない。
私自身はどちらでも構わないが、それはそうだろうと腑に落ちるところがある。そういった事象に普段から囲まれているという感覚はある。
例えば憲法九条。1項はいいとして、いつももめる2項は完全に現実と乖離しているのは誰が見ても明白。にもかかわらず自衛隊がなければ尖閣などアッという間に取られてしまうのも明らか。フィリピンの島しょ部を見よ!一方で護憲派は議論の土俵にも上がらずに断固反対で現実には目を向けない。
今日明らかになった拉致問題を『北〇〇が拉致などする理由がない』と言い放った公党の女党首が当選し続けた。その国会議員は被害者に謝りもしなかったし罰せられなかった。
マスコミは大騒ぎするパー券のちょろまかしはせいぜい政治資金規正法とかいう微罪か税金申告漏れの類で、大問題のような言い方が蔓延るが税金を使ったわけでもなければ不利益を被った人さえいない(利益を享受した人もいないのだから賄賂にすらならない)。ヒステリックに毎日ニュースになるから自由意志を持たない一般人も洗脳されて憤る。利権という言い方もあるが、実態はない。チンピラがくすねる程度のミミッチイイ話しに過ぎない。まっ、次の選挙はヤバいかも知れないが、年が明ければ違うだろう。
『聞く力』と総理は言うが、本当の声を聴くセンサーの問題だ。街頭インタヴューなんぞいいかげんなもので、マイクを向けられればイチャモンを言い出すのは自由意志を持たないバカばかりだからマスコミの誘導に従ってつまらん文句を言い、そうでないものはカットされる。
大騒ぎの末に不愉快な駐日米大使の外圧まで加わりLGBT法ができた。マトモな人は行ったこともないだろうが新宿二丁目のその道のプロ達は喜んだのか。ゲイもビアンも『バカじゃないの?ほっといてよ』と言っていた。業界人はひっそりとやりたいのだ。筆者はその昔悪い仲間とその界隈で散々飲み散らしたが、実に面白い連中ではあったが『オニーさんはノンケね』と言われて相手にはされなかった。あのバカな法律で恩恵を被るのは売名行為に走るごく一部と弁護士なのだ。LGBT法違反の裁判まで始まったらそれは喜劇だろう。
そこで冒頭の話に戻る。法律はそれを『文章』として書いた人と、それを執行する人の間でのみ有効で、大きなお世話だと思う連中には効果はない。人間は自由意志もないにも拘らず社会生活をするために決めごとは必要となると文章は作る。だが声に出して読んだ奴はいるのか。目で見るだけならばあいまいさが抜けはしないのだ。
僕は日本国の愛国者ではあるが『日本国憲法』はその成立のいかがわしさも含めて、ロクに読みもせず実践もせずに不自由がない。言葉・文章は日本では現実を反映しなくてもいいのであれば、十七条憲法と五か条御誓文で十分。後はコモンロウでいいではないか、どうせ解釈はいくらでもできるのだから。法曹関係者の方には理解不能だろうが(できても、そうだ、とは言えないだろうが)後付け自由意志でいいと思っている僕には通用しない。
せめて日本人としての矜持を持てるだけの憲法改正に反対意見を言うのは自由だが、日本の曖昧力を台無しにしないでくれ。あなたがたこそが『いつか来た道』を助長しているのですよ。
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阿修羅像の内面
2023 NOV 19 21:21:50 pm by 西 牟呂雄

奈良興福寺の国宝阿修羅像について、多くの識者が様々に論評している。僕も実際に見たが、虚空を見つめる少年の目に射すくめられるような思いがしたことを鮮明に覚えている。三面六臂の均整のとれた姿は繊細と力強さを同時に蓄えていて僕などの言語化能力では手に余る。
ところで思うのだが、あれは正面から見る像なのだろうか。もちろんそれが最もポピュラーだろうが、せっかく顔も3つあるのだから、横からも後ろからも鑑賞に耐えられるのではなかろうか、部屋の真ん中に置いていろんな角度から見た方が面白いとも考える。
そう思って画像を探してみるとあるにはあって、微妙に表情が違っているではないか。おそらく多くの解釈が為されているであろうが、読んでしまうと先入観に捕らわれるので一切見ないでじっと眺めまわしてみる。
向かって左は『怒り』正面は『決意』右側は『懊悩』と見た、どうかな。
ついでに言うと、一般的には少年の姿とされているようだが、むしろ美少女か両性具有者にも見えてくる。
もともと古代インドでは生命生気の善神だったが、その後帝釈天と死闘を繰り返す悪鬼にされ、さらに仏教に取り込まれて仏法守護の八部衆に加えられた。
筆者は最近インドが業務のフィールドであるが、南インドの性的放埓と一般のヒンドゥー教徒の性犯罪の多さにはあきれることが多い。形而上の縛りが多すぎるので、返って形而下のグチャグチャが増幅されているのではないかと思えるほどなのだ。LGBT法案などというドーデモいい話など吹っ飛んでしまう。
そのインドの神様が善玉になったり悪玉になったりするのだからもう何でも来いの存在でいいのじゃないか。ついでに言えば大麻などは南東部では合法で、麻薬に関しても個人でやっている限りでは警察も取り締まらない。一応禁止はされているらしいが、宗教行事で大麻を使う習慣まで有るとか。大麻を混ぜ込んだお菓子もバング・ラッシーとして売られている(筆者はやってませんよ!)。
話が飛びすぎたが、探してみたらレプリカだが後ろからの写真を見つけた。やはりシルエットは女性的である。いずれにせよ阿修羅の様々なイメージ・チェンジは別にして、この像の制作者の意図は両性を飛び越えている。
三面六臂の造形とその表情には作者の込めらえた思いがオーラのように放たれていて、見る者はそのオーラに照らされながら自分の内なるサムシングを昇華させる。
今、この前期高齢者である僕を照らしているのは『自由』のオーラか。
あんまりふざけてると阿修羅様に叩き直される!
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ジャック・ロンドンに降りかかった厄災
2023 MAR 1 8:08:07 am by 西 牟呂雄

ジャック・ロンドンは20世紀初頭のアメリカの作家、サンフランシスコで生まれ貧しい少年時代を過ごした後、流行作家になった。マルクスに共鳴した社会主義者でもある。
彼は日本に2回来ているが、一度目は10代の漁船の乗組員時代に横浜に、二度目は作家になった後サンフランシスコ・エグザミナー紙で日露戦争の従軍記者として取材に訪れた。
二度目の滞在時、朝鮮に渡る船に乗るため訪れた門司で、撮影禁止区域と気づかず写真を撮り逮捕される。このいきさつを記事にしているが、それを翻訳の大家である柴田元幸が自身の責任編集する雑誌に載せていて、これがメチャクチャに面白い。
ところで、乗組員時代と作家デヴューの間にホーボー(Hobo)をやりながら全米をウロついている。このホーボーというのはヒッピーとホームレスが合体したようなアメリカ的連中で、無理やり日本語にすれば『渡り職人』とでも表現するしかない。御覧のスティックにわずかな着替えと身の回りの物を担いで、汽車には無賃乗車(当時は車はない)、定住はせず家庭も持たずにウロウロする。自由といえば自由でいかにもロード・ムービーの主人公のような輩である。ジャック・ロンドンにもその当時をベースにした『ザ・ロード』という作品がある。
西部フロンティアの精神を継承したとも言えるが、おそらくは大半がモノなんか考えないならず者ではないだろうか。だが、時代が下ってもそのスピリットを受け継ぐ流れがあって、ウディ・ガスリー、ボブ・ディランといったアーチストやエリック・ホッファーのような異端の哲学者が受け継いでいく。映画『イージー・ライダー』なんかもその系譜に連なる。
だが、21世紀になってしばらくすると(日本で令和になるあたりから)この流れは姿をくらましたかに見えるのはなぜか。これについては別途考えたい。
話はジャック・ロンドンの逮捕にもどるが、門司で逮捕され小倉に送られるいきさつは抱腹絶倒モノだがそれは読んでいただくしかない。更に朝鮮のチェムルポに渡るが、そのチェムルポというのがどこなのか分からない。原文表記は『Chemulpo』で、どうやら現在のインチョンのことと解説されているがあの辺りはそのころ港湾があったのだろうか。
そして通訳のヤマダ氏を従え日本軍の高級将校に取材を開始する、これがまたすごいのだ。イエス・ノーで答えられる質問をしたところ、高級将校は『ゴブル、ウォブル、ウォブル、ゴブル』と15分もまくし立てた後、通訳を通じて返事が帰って来る。また、かなり重要かつ微妙な事情について時間をかけ丁寧に説明したところ、ヤマダ氏は一言だけ『ウォブルゴブル』と聞き、すぐに『わかったそうです』と返事をした。
未知の日本語が『ゴブル、ウォブル』と聞こえるのはただおかしいだけだが、内容は身につまされる。僕自身が通訳まがいをして困るのは、この高級将校のように単純な返事に至る事情を全て説明しなければ答えが説明できないタイプだ。また、複雑な内容を一言でやってしまうのは、単に英語力の問題。うーむ、そうだろうな・・・。
因みにしばしばロンドンはしばしば『力車』に乗るのだが、おそらく人力車のことだろうが、柴田氏は『力車』と訳している。原文も『Rickshaw』となっているようで、このあたり氏の翻訳の技が見られる。インドでは今でも人力車が『リキシャー』と呼ばれている。即ち、日本人も通常は短縮してリキシャと呼んでいたのだ。自動車を『クルマ』というように、この時代すでに『ジンリキシャ』という言い方はなくなっていたのがわかる。
さて、一応従軍記者なので、ヤマダ氏はその日のできごとを英文で報告するのだが、この英吾がまた凄いらしく、柴田氏は(おそらく苦労して)面白おかしく日本語にしている。読んでこりゃヒデーなとゲラゲラ笑った。氏は自身がふざけている訳ではない、とばかりに原文も載せていた。
僕はその原文を読んで息を飲んで引きつった。笑えない。僕が日常的にメールしたりZOOM会議で得意になって喋っている英語にそっくりなのだ。前置詞の飛ばし方、アドバイスやインフォメーションという単語の多用、状況下というつもりでアンダーを使う・・・。
先日も多国間の協議をZOOMでやったが、日本人は僕一人だったから『ゴブル、ウォブル』と聞こえるような日本語は使わなかったものの、英語に関しては氏の翻訳のような伝わり方がしなかったとは言い切れない! 今更遅いけど。
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ワン・レスポンス・コント
2022 NOV 26 23:23:23 pm by 西 牟呂雄

西川きよし師匠の私の履歴書は面白かった。その中にやす・きよ漫才の神髄と思われるエキスがちりばめてある。そこから着想した、ワン・レスポンスのコントを思いついたのでやってみたい。
・誘拐編。
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』。
『丁度よかった。アンタのカミさんを誘拐したから6千万用意せい』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』
『ありがとう。持て余して困ってたんだ。3千円あげるからうまく葬ってくれ』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』
『こちら警視庁生活安全課ですよ。電話番号調べ直しておかけください』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』
『ワ~シ~のめ~す~め~と~いうしょ~こはあ~る~の~か~』
『お宅の娘さんを誘拐した。これから娘さんの左手の小指を落としてそちらに送る』
『バカヤローッ、娘はヤクザで小指は詰めてる』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返してほしければ3千万円準備しろ』
『アホ!そんなまだるっこしいことせんと早くワシを誘拐してあのクソ嫁から解放せんか』
・親の面接編
『お宅のお子さんには問題行動があります』
『わかりました。あしたから不登校にさせます』
『お宅のお子さんはいじめに合っています』
『それでですか。家では私に暴力をふるいます』
『お宅のお子さんは将来弁護士になって親を助けたい、と作文に書きました』
『私がヤクザで裁判でいつも苦労してますから』
『お宅のお子さんは将来泥棒になって親を助けたい、と言ってます。どういう教育をしてるのですか』
『私が刑事なんでつかまって成績を上げさせようと考えたんでしょう』
『お宅のお子さんは全然授業を聞きません』
『それは私がスパルタで受験勉強を教えるからです。学校が息抜きなんです』
『お宅のお子さんは漢字の書き取りが全然できません』
『えっ!学校は字を教えてくれるんですか。それじゃワシも行きます』
・外国人観光客編
『ウェスト・ケンジントン カラキマシタ』
『何?上杉謙信だと(本当にそう聞こえる)』
『(動物園で)アリゲーターはドコデスカ』
『モハメド・アリのゲタ?何言ってんだ』
『ソレハ アナタノ トラウマ デスカ』
『はぁ? トラウマって黄色いシマウマのことか?』
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小幡篤次郎と語学
2022 SEP 17 20:20:15 pm by 西 牟呂雄

提題の小幡篤次郎に関しては、慶應義塾関係者以外にはあまり知られていないのではないだろうか。福沢と同じ中津藩の出身で年齢は7~8才年下。小幡家は福沢よりも高い家老格の上士であり、幼い頃から四書五経を納め藩校・進脩館(しんしゅうかん) で教頭にまでなった。
その後22才で福沢の強い勧めにより上京し、福沢の英学塾で学ぶと、瞬く間にこれを習熟しここでも塾頭となるなど、とにかく抜群の秀才だった。
同じく俊英だった弟・甚三郎とともに江戸幕府の教育機関である開成所で英学教授も務めたが、この兄弟の語学力と教え方は大変な評判を呼んだらしい。
小幡は福沢の懐刀というか右腕といった存在で、初期の塾長ともなっている。もっともこの当時は現在の大学総長的な塾長ではなく、学生長のような立場ではあった。
そして現代でも名著とされるトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』やジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の翻訳を成し、言論人としての福沢を支えている。福沢は官軍と彰義隊の上野戦争の最中に、フランシス・ウェーランドの『経済学原論』の講義を続けていたことで知られるが、ウェーランドの原書を購入し福沢に渡したのも小幡だった。何よりも、あの『学問ノススメ』の初版本は小幡と福沢の共著である。
しかし、22才という年齢から(それまでも蘭学とは接点はあったであろうが)英語を習熟して2~3年の内に大著を翻訳し、開成所での講義をするレベルに達する語学教育とはいかなるものなのか、筆者は自身の語学力を顧みて唖然とするばかりだ。
実態は良くわかっていないが、当時の慶應での講義も体系立ってなされたものではないようだ。即ち、アルファベットの読み書きなどすっ飛ばしていきなり原書の講読に入るようなスタイルで、現在の英語教育というよりは、各藩校や学塾で行われていたような漢文の素読に近いものらしい。無論外国人の教師がいたわけではなく、発音などは各人各様のようなメチャクチャだったろう。
ここからは筆者の推測であるが、基礎として漢文の素読を叩き込まれた当時のインテリは、レ点をつけて読むように自然体で文法を理解し、単語については漢語あるいは漢字の持つ意味を置き換えるようにして読み下したのではないだろうか。これを繰り返しているうちに自らの血肉にしてしまった。例えば小幡はRoyaltyを『尊王』としている。
さすれば、国際的に通じる人材育成のために、教えることができる人間もロクにいない小学校での英語教育なぞ全くの無意味。やれ『ゆとり』だ『イノベーション』だ『個性』だ、といじくりまわして明治人にはるかに及ばない無教養を量産してどうなるというのだ。
日本にいて日本の文化を育まなければ日本人にもなれはしない。まさか英語の下手なアメリカ人を造ろうとでも言うのか。
ここで話がグッとくだけるが、先日仲間と例によって騒いだのであるが、席上誰が一番語学のセンスがあるかの話になった。帰国子女上がりが3人もいて他も海外に赴任した経験があるため英語は除いて、第二外国語及び赴任地の言葉がどの程度なのかを比べて遊んだ。はじめは『こんにちわ』あたりからのスタートだったが、伝言ゲームを始めたあたりからめちゃくちゃになった。お店のママからお題を出してもらってカウンターを右から左にやったところ、使う方も聞く方も小声でやっていられなくなり、それこそボディ・ランゲージやジェスチャーの様相を呈し、『ニワトリが金のタマゴを生んだ』が『金のブタがフライドチキンを食べた』となる有様。その間に使用された言語はロシア語・フランス語・ドイツ語・北京語・広東語・韓国語に及んだ。酒も入っていたし、さぞ異様な集団に見えたことだろう。
で、結論としては、会話に限って言えばセンスも才能も関係ない。執念と反復の根性があれば何とかなる。だから子供のうちは国語の読解力と文章力を磨けばよい、というどうでもいいオチでした。
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アフガンの谷間の花
2022 JAN 23 0:00:40 am by 西 牟呂雄

ガンダーラ地方(パキスタン)のバザールで物乞いが図々しく手を差し出して言う。
「神は喜ばれます」
あまりの堂々とした態度に腹を立て、
「少し態度がデカい。もっと腰を低くした方が実入りがいいのではないか」
と言ってやる。
「あなたはムスリムではないな。ほどこし、とは貧乏人に余り金をやることではない。貧者に恵みを与えるのは神に対して徳を積むということ。その心を忘れて『ほどこし』はない」
「私は人に見捨てられたライ病患者のためにはるか東方から来て治療している。これも『ほどこし』ではないのか」
「『ほどこし』である」
「ならばあなたも私に『ほどこし』をしなされ。神は喜ぶはずだ」
すると、驚くなかれその物乞いは貰い集めた小銭をくれるではないか。
無論私の体験ではない。ソ連によるアフガン侵攻で荒廃したアフガニスタンでライ病の治療に当たり続け、現地のあまりの貧しさを改善するために灌漑事業まで手掛けながら盗賊まがいのならず者によって命を奪われた医師、中村哲氏の著作にあった。
氏の活動は粘り強く、何かに突き動かされたように橋頭保を作り治療していく。その何かとは、私が宗教心が篤ければ『神』とでも表現できただろう。ちなみに氏はクリスチャンで、現地に尽くすきっかけは日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からペシャワールに派遣されたのが長い物語の始まりである。
混乱に混乱を重ねる政情の元での中村医師の悪戦苦闘ぶりは読む者を戦慄させる。ソ連撤退後に雨後の筍のように次々と立ち上がった欧米型の援助団体の現地でのミス・マッチを批判し、ともすれば『やってるやる感』とともに内向き(本国むけ)になりがちな風潮を戒めていた。
確かに教育も十分でない極貧の住民に援助をしているのだが、先進国的価値観では推し量れない彼らの『譲れない一線』というものはあるのだ。生活に深く根差した文化を無視してまで『ほどこし』てやるのはいかがなものか。冒頭の一節は、氏がその点に深く感じ入ったくだりと思う。
氏はこうも言う。
「最もよく現地を理解できる者は、最も良く日本の心を知る者である」
けだし名言である。これには心を打たれた。私はさすがにペシャワールのようなヤバい所ではないが、フィリピン・インド・ロシア・台湾・中国で工場を立ち上げた経験があるが、この言葉こそ現地との相互理解の神髄だと思う。
作業の来歴・手順を教えるのだが、いきなり『日本ではこうやる』というのはダメで、何のためにやっているのかを丁寧に根気よく伝えた。
そして、思わず苦笑してしまうような風習でも、まず感心してみるようにした。
エラソーに技術を売りまくっていた、ヘラヘラと卑しく振舞うような奴を尊敬する地元の者は皆無だった。余談だがフィリピンでそういった輩が惨殺された事件もあった。
イスラム社会でのジェンダー問題だの石打ちの刑だの、我々から見て野蛮かつ残酷に見える風習ですら長い伝統に沿った『彼等』の文化であることは否めない。なに。こっちだって150年前まで日本刀を自分の腹に突き立てていたし、かの三島由紀夫がやったのはほんの半世紀前だ。伝統文化に優劣などないのだ。現地に溶け込むためにイスラム教徒になれと言うわけじゃない、なれもしない。逆に、我々の近代社会の方が病んでいて、彼等の方が人間的であるとも思わない。
しかしながら、アフガニスタンでは再びタリバンが盛り返して制圧された。アメリカが訓練を施した現地の軍は全く抵抗しないで武装解除されている。英国もソ連もアメリカも制圧できない獰猛な民族なのか。ジャーナリスト高山正之はカイバル峠越えの取材時でのパシュトゥーン人の残虐さと根性の悪さを記述している。
ただし中村氏の観察によれば、この間まで反ソ連のゲリラとしてアメリカ製の銃を持っていた人間がソ連が撤退した途端に銃を鍬に持ち替えてセッセと耕していたという。どちらも本当のことなのだ。そして氏は、丸腰の安全保障はありうるか、との問いに対し、勇気をもって行えば案外可能、とした。これは決死の覚悟といっても過言ではないとも。
氏は車両で移動中を襲撃され命を落とした。では装甲車で移動していれば良かったのか。その際はロケット砲で撃たれただろう。氏の善意を死で踏みにじったアフガン人は鬼畜か。彼らは1979年のソ連侵攻以前から今まで数百万の犠牲を払ってきた民である。国民は人生の殆どを戦乱と共に生き、底辺の病人は見捨てられてきた。
そしてその地獄の喧騒の中、氏が治療した若い女性のライ病患者でさえも、時に笑いながら人生を送っていた。そこには確かな生活と文化はあるのだ。そうでなければそんな厳しい環境に、仮に追いやられた後に住み着いたとしても人が営みをするはずがない。戦乱が通り過ぎれば難民はそこに帰っていく。
近代アフガニスタンは地政学的にグレート・ゲームの対象となり英国とロシアの覇権争いからナチまで絡み、1919年の対英国ジハードの後王国・共和国を経てソ連の侵攻、冷戦下でのタリバンの勃興(アメリカの支援があった)、9・11後のアメリカ介入、と国家の体を成していないままで来ている。
ガチガチに管理され統制される大陸では、別に国民は選挙なんぞやりたくもないに違いない。大雑把に言ってユーラシアは大体そうだろう。
暗黒独裁の国家でも国民はささやかな楽しみを愛しんでいることだろう。
国家とは時に化け物のような邪悪なものに進化しうるものであり。我が国もヤバい時期はあった。こうしている間にも、どこぞの国はミサイルを撃ち、少数民族を弾圧し、報道を規制し、国境に部隊を配置する。
それに対して、歴史的に反国家的な宗教や思想も存在して、時に秘密結社のような姿で国境を跨いで連帯した。極端なテロ集団が国家を名乗ったことすらあった。また、今日ではGAFAが国家をもしのぐ『統制』の可能性を秘めている。
私は国家を肯定する者であるとともに個人の自由も尊重しているが、遠い異国の地での中村医師の奮闘は、その両者に挟まれた弱者への寄り添いだったと思えてならない。灌漑事業から農園開拓まで留まるところを知らなかった情熱は、かの地で決して熱を失うこともない。氏の切り開いた農園には美しい花が咲く。
ただ、ひたすら故人の魂の安寧を祈って止まない。
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タオイズム(道教)は難し Ⅱ
2019 APR 27 5:05:25 am by 西 牟呂雄

『井の中の蛙大海を知らず』『木鶏』『包丁』
これらの著名な言葉の原典があの『荘子』であることはご存知かと思う。
荘子は奇怪とも思われる寓話をひいて、自然の摂理に寄り添うように生きることを教える。『荘子』内篇七篇は、出だしからして北の海の巨大魚『鯤(こん)』が巨大な鳥『鵬(ほう)』になって南の果てに飛ぶ話。
概して自分で思いついた壮大な例えに酔いしれているようなところがある。
どうも正確な伝記はないようで、まぁ隠遁生活をしながらそのメチャクチャな嘘話を考えていても食える階級にいたヒマ人だったのだろう。紀元前三百年あたりで、である。
「木鶏」は、かの双葉山が安芸の海に69連勝の後敗れた日に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電したことで知られる。このころは年に二場所しか興行しないうえに13日で千秋楽だから3年近く負けがなかった大記録だった。
「包丁」は牛肉解体の名人、庖丁という人の名前だった。この人が牛一頭を一本の小刀で見事に解体した故事による。これまた肉の筋目に従って刀を当てて捌いた、という話になって自然体の道を説く。
話は変わるが「解釈」という言葉、「解」は「角」と「刀」と「牛」、即ち牛の角を刀で切る。「釈」は「分ける」こと。それで角を切ったボディの肉を分ける、これで「解釈」になったとか。
様々に「解釈」されてなお、今日読み継がれているのは思想体系として論理的にも確かなものに違いない。ただ中国思想の常として中心概念に「神(一神教のGod)」を置かなかったので、道教なる怪しげな祀られ方をしてしまった感がある。むしろ、時空を超えた絶対無限・絶対自由の中に遊ぶ境地に至るノウハウとして捉えたほうがありがたみが増す。しかしそのためにナニを修業しろ、とか念仏を唱えろ、とは書いていない。
「万物斉同」とは主観を取り払って大いなる自然に合一せよ、と言っているのだが、生半可な人間にそんなことができるわけがない。
仏教が中国に伝わるのは後漢の一世紀頃であるから、荘子の時代にはまだ「解脱」なる考えはなかったのではないか。そう考えると上記の自然への合一とは、後に中国における禅の修行へと形を変えて続いたのかもしれない。ペルシャ系とも言われる達磨大師は中国に於いて禅宗を確立した。
「無用の用」これも好きな言葉だ。一見役に立たないモノがしっかりと世の中の役に立っているのだ、これを拡大解釈すれば幾らでもなまけていられる。
それはともかく、最近あることで大変に腑に落ちた。
リュウグウへのタッチダウン成功の事である。
1999年に発見されたリュウグウは、ロクに引力もないちっぽけな小惑星だが、スペクトル分析で含水鉱物としての水があることがわかっており、JAXAの探査プロジェクトはやぶさ2の対象に選ばれた。
算盤玉のようにブサイクだが40億年、地球から3億キロも離れた所を飛んでいる。但し公転しているために はやぶさ2 は52億キロも移動しなければならない。リュウグウは発見されなければ全く無用であったにもかかわらず、目下のところ地球の誕生のキーにさえなり得る貴重な天体となったのである。
それにしても、NASAや中国の宇宙開発に比べるとはるかに予算規模が少なく、一時は事業仕訳などというタワケた見世物の対象にまで貶められたJAXAは良くやった。
技術とチーム・ワークで人類初の快挙を成し遂げた、日本ならではの功績と思う。
タッチ・ダウンに成功した時には思わず拍手をした。
えーと、何の話だったっけ。
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