ジャック・ロンドンに降りかかった厄災
2023 MAR 1 8:08:07 am by 西 牟呂雄

ジャック・ロンドンは20世紀初頭のアメリカの作家、サンフランシスコで生まれ貧しい少年時代を過ごした後、流行作家になった。マルクスに共鳴した社会主義者でもある。
彼は日本に2回来ているが、一度目は10代の漁船の乗組員時代に横浜に、二度目は作家になった後サンフランシスコ・エグザミナー紙の記者として日露戦争の従軍記者として取材に訪れた。
二度目の滞在時、朝鮮に渡る船に乗るため訪れた門司で、撮影禁止区域と気づかず写真を撮り逮捕される。このいきさつを記事にしているが、それを翻訳の大家である柴田元幸が自身が責任編集する雑誌に載せていて、これがメチャクチャに面白い。
ところで、乗組員時代と作家デヴューの間にホーボー(Hobo)をやりながら全米をウロついている。このホーボーというのはヒッピーとホームレスが合体したようなアメリカ的な連中で、無理やり日本語にすれば『渡り職人』とでも表現するしかない。御覧のスティックにわずかな着替えと身の回りの物を担いで、汽車には無賃乗車(当時は車はない)、定住はせず家庭も持たずにウロウロする。自由といえば自由で、いかにもロード・ムービーの主人公のような連中である。ジャック・ロンドンにもその当時をベースにした『ザ・ロード』という作品がある。
西部フロンティアの精神を継承したとも言えるが、おそらくは大半がモノなんか考えないならず者ではないだろうか。だが、時代が下ってもそのスピリットを受け継ぐ流れがあって、ウディ・ガスリー、ボブ・ディランといったアーチストやエリック・ホッファーのような異端の哲学者が受け継いでいく。映画『イージー・ライダー』なんかもその系譜に連なる。
だが、21世紀になってしばらくすると(日本で令和になるあたりから)この流れは姿をくらましたかに見えるのはなぜか。これについては別途考えたい。
話はジャック・ロンドンの逮捕にもどるが、門司で逮捕され小倉に送られるのいきさつは抱腹絶倒モノだがそれは読んでいただくしかない。更に朝鮮のチェムルポに渡るが、そのチェムルポというのがどこなのか分からない。原文表記は『Chemulpo』で、どうやら現在のインチョンのことと解説されているがあの辺りはそのころ港湾があったのだろうか。
そして通訳のヤマダ氏を従えて日本軍の高級将校に取材を開始する、これがまたすごいのだ。イエス・ノーで答えられる質問をしたところ、高級将校は『ゴブル、ウォブル、ウォブル、ゴブル』と15分もまくし立てた後、通訳を通じて返事が帰って来る。また、かなり重要かつ微妙な事情について時間をかけ丁寧に説明したところ、ヤマダ氏は一言だけ『ウォブルゴブル』と聞き、すぐに『わかったそうです』と返事をした。
未知の日本語が『ゴブル、ウォブル』と聞こえるのはただおかしいだけだが、内容は身につまされる。僕自身が通訳まがいをして困るのは、この高級将校は単純な返事に至る事情を全て説明しなければ答えが説明できないから。また、複雑な内容を一言でやってしまうのは、単に英語力の問題。うーむ、そうだろうな・・・。
因みにしばしばロンドンはしばしば『力車』に乗るのだが、おそらく人力車のことだろうが、柴田氏は『力車』と訳している。原文も『Rickshaw』となっているようで、このあたり氏の翻訳の技が見られる。インドには今でも人力車が『リキシャー』と呼ばれている。即ち、日本人も通常は短縮してリキシャと呼んでいたのだ。自動車を『クルマ』というように、この時代すでに『ジンリキシャ』という言い方はなくなっていたのがわかる。
さて、一応従軍記者なので、ヤマダ氏はその日のできごとを英文で報告するのだが、この英吾がまた凄いらしく、柴田氏は(おそらく苦労して)面白おかしく日本語にしている。読んでこりゃヒデーなとゲラゲラ笑った。氏は自身がふざけている訳ではない、とばかりに原文も載せていた。
僕はその原文を読んで息を飲んで引きつった。笑えない。僕が日常的にメールしたりZOOM会議で得意になって喋っている英語にそっくりなのだ。前置詞の飛ばし方、アドバイスやインフォメーションという単語の多用、状況下というつもりでアンダーを使う・・・。
先日も多国間の協議をZOOMでやったが、日本人は僕一人だったから『ゴブル、ウォブル』と聞こえるような日本語は使わなかったものの、英語に関しては氏の翻訳のような伝わり方がしなかったとは言い切れない! 今更遅いけど。
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ワン・レスポンス・コント
2022 NOV 26 23:23:23 pm by 西 牟呂雄

西川きよし師匠の私の履歴書は面白かった。その中にやす・きよ漫才の神髄と思われるエキスがちりばめてある。そこから着想した、ワン・レスポンスのコントを思いついたのでやってみたい。
・誘拐編。
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』。
『丁度よかった。アンタのカミさんを誘拐したから6千万用意せい』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』
『ありがとう。持て余して困ってたんだ。3千円あげるからうまく葬ってくれ』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』
『こちら警視庁生活安全課ですよ。電話番号調べ直しておかけください』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返して欲しければ3千万円準備しろ』
『ワ~シ~のめ~す~め~と~いうしょ~こはあ~る~の~か~』
『お宅の娘さんを誘拐した。これから娘さんの左手の小指を落としてそちらに送る』
『バカヤローッ、娘はヤクザで小指は詰めてる』
『お宅の娘さんを誘拐した。無事に返してほしければ3千万円準備しろ』
『アホ!そんなまだるっこしいことせんと早くワシを誘拐してあのクソ嫁から解放せんか』
・親の面接編
『お宅のお子さんには問題行動があります』
『わかりました。あしたから不登校にさせます』
『お宅のお子さんはいじめに合っています』
『それでですか。家では私に暴力をふるいます』
『お宅のお子さんは将来弁護士になって親を助けたい、と作文に書きました』
『私がヤクザで裁判でいつも苦労してますから』
『お宅のお子さんは将来泥棒になって親を助けたい、と言ってます。どういう教育をしてるのですか』
『私が刑事なんでつかまって成績を上げさせようと考えたんでしょう』
『お宅のお子さんは全然授業を聞きません』
『それは私がスパルタで受験勉強を教えるからです。学校が息抜きなんです』
『お宅のお子さんは漢字の書き取りが全然できません』
『えっ!学校は字を教えてくれるんですか。それじゃワシも行きます』
・外国人観光客編
『ウェスト・ケンジントン カラキマシタ』
『何?上杉謙信だと(本当にそう聞こえる)』
『(動物園で)アリゲーターはドコデスカ』
『モハメド・アリのゲタ?何言ってんだ』
『ソレハ アナタノ トラウマ デスカ』
『はぁ? トラウマって黄色いシマウマのことか?』
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小幡篤次郎と語学
2022 SEP 17 20:20:15 pm by 西 牟呂雄

提題の小幡篤次郎に関しては、慶應義塾関係者以外にはあまり知られていないのではないだろうか。福沢と同じ中津藩の出身で年齢は7~8才年下。小幡家は福沢よりも高い家老格の上士であり、幼い頃から四書五経を納め藩校・進脩館(しんしゅうかん) で教頭にまでなった。
その後22才で福沢の強い勧めにより上京し、福沢の英学塾で学ぶと、瞬く間にこれを習熟しここでも塾頭となるなど、とにかく抜群の秀才だった。
同じく俊英だった弟・甚三郎とともに江戸幕府の教育機関である開成所で英学教授も務めたが、この兄弟の語学力と教え方は大変な評判を呼んだらしい。
小幡は福沢の懐刀というか右腕といった存在で、初期の塾長ともなっている。もっともこの当時は現在の大学総長的な塾長ではなく、学生長のような立場ではあった。
そして現代でも名著とされるトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』やジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の翻訳を成し、言論人としての福沢を支えている。福沢は官軍と彰義隊の上野戦争の最中に、フランシス・ウェーランドの『経済学原論』の講義を続けていたことで知られるが、ウェーランドの原書を購入し福沢に渡したのも小幡だった。何よりも、あの『学問ノススメ』の初版本は小幡と福沢の共著である。
しかし、22才という年齢から(それまでも蘭学とは接点はあったであろうが)英語を習熟して2~3年の内に大著を翻訳し、開成所での講義をするレベルに達する語学教育とはいかなるものなのか、筆者は自身の語学力を顧みて唖然とするばかりだ。
実態は良くわかっていないが、当時の慶應での講義も体系立ってなされたものではないようだ。即ち、アルファベットの読み書きなどすっ飛ばしていきなり原書の講読に入るようなスタイルで、現在の英語教育というよりは、各藩校や学塾で行われていたような漢文の素読に近いものらしい。無論外国人の教師がいたわけではなく、発音などは各人各様のようなメチャクチャだったろう。
ここからは筆者の推測であるが、基礎として漢文の素読を叩き込まれた当時のインテリは、レ点をつけて読むように自然体で文法を理解し、単語については漢語あるいは漢字の持つ意味を置き換えるようにして読み下したのではないだろうか。これを繰り返しているうちに自らの血肉にしてしまった。例えば小幡はRoyaltyを『尊王』としている。
さすれば、国際的に通じる人材育成のために、教えることができる人間もロクにいない小学校での英語教育なぞ全くの無意味。やれ『ゆとり』だ『イノベーション』だ『個性』だ、といじくりまわして明治人にはるかに及ばない無教養を量産してどうなるというのだ。
日本にいて日本の文化を育まなければ日本人にもなれはしない。まさか英語の下手なアメリカ人を造ろうとでも言うのか。
ここで話がグッとくだけるが、先日仲間と例によって騒いだのであるが、席上誰が一番語学のセンスがあるかの話になった。帰国子女上がりが3人もいて他も海外に赴任した経験があるため英語は除いて、第二外国語及び赴任地の言葉がどの程度なのかを比べて遊んだ。はじめは『こんにちわ』あたりからのスタートだったが、伝言ゲームを始めたあたりからめちゃくちゃになった。お店のママからお題を出してもらってカウンターを右から左にやったところ、使う方も聞く方も小声でやっていられなくなり、それこそボディ・ランゲージやジェスチャーの様相を呈し、『ニワトリが金のタマゴを生んだ』が『金のブタがフライドチキンを食べた』となる有様。その間に使用された言語はロシア語・フランス語・ドイツ語・北京語・広東語・韓国語に及んだ。酒も入っていたし、さぞ異様な集団に見えたことだろう。
で、結論としては、会話に限って言えばセンスも才能も関係ない。執念と反復の根性があれば何とかなる。だから子供のうちは国語の読解力と文章力を磨けばよい、というどうでもいいオチでした。
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アフガンの谷間の花
2022 JAN 23 0:00:40 am by 西 牟呂雄

ガンダーラ地方(パキスタン)のバザールで物乞いが図々しく手を差し出して言う。
「神は喜ばれます」
あまりの堂々とした態度に腹を立て、
「少し態度がデカい。もっと腰を低くした方が実入りがいいのではないか」
と言ってやる。
「あなたはムスリムではないな。ほどこし、とは貧乏人に余り金をやることではない。貧者に恵みを与えるのは神に対して徳を積むということ。その心を忘れて『ほどこし』はない」
「私は人に見捨てられたライ病患者のためにはるか東方から来て治療している。これも『ほどこし』ではないのか」
「『ほどこし』である」
「ならばあなたも私に『ほどこし』をしなされ。神は喜ぶはずだ」
すると、驚くなかれその物乞いは貰い集めた小銭をくれるではないか。
無論私の体験ではない。ソ連によるアフガン侵攻で荒廃したアフガニスタンでライ病の治療に当たり続け、現地のあまりの貧しさを改善するために灌漑事業まで手掛けながら盗賊まがいのならず者によって命を奪われた医師、中村哲氏の著作にあった。
氏の活動は粘り強く、何かに突き動かされたように橋頭保を作り治療していく。その何かとは、私が宗教心が篤ければ『神』とでも表現できただろう。ちなみに氏はクリスチャンで、現地に尽くすきっかけは日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からペシャワールに派遣されたのが長い物語の始まりである。
混乱に混乱を重ねる政情の元での中村医師の悪戦苦闘ぶりは読む者を戦慄させる。ソ連撤退後に雨後の筍のように次々と立ち上がった欧米型の援助団体の現地でのミス・マッチを批判し、ともすれば『やってるやる感』とともに内向き(本国むけ)になりがちな風潮を戒めていた。
確かに教育も十分でない極貧の住民に援助をしているのだが、先進国的価値観では推し量れない彼らの『譲れない一線』というものはあるのだ。生活に深く根差した文化を無視してまで『ほどこし』てやるのはいかがなものか。冒頭の一節は、氏がその点に深く感じ入ったくだりと思う。
氏はこうも言う。
「最もよく現地を理解できる者は、最も良く日本の心を知る者である」
けだし名言である。これには心を打たれた。私はさすがにペシャワールのようなヤバい所ではないが、フィリピン・インド・ロシア・台湾・中国で工場を立ち上げた経験があるが、この言葉こそ現地との相互理解の神髄だと思う。
作業の来歴・手順を教えるのだが、いきなり『日本ではこうやる』というのはダメで、何のためにやっているのかを丁寧に根気よく伝えた。
そして、思わず苦笑してしまうような風習でも、まず感心してみるようにした。
エラソーに技術を売りまくっていた、ヘラヘラと卑しく振舞うような奴を尊敬する地元の者は皆無だった。余談だがフィリピンでそういった輩が惨殺された事件もあった。
イスラム社会でのジェンダー問題だの石打ちの刑だの、我々から見て野蛮かつ残酷に見える風習ですら長い伝統に沿った『彼等』の文化であることは否めない。なに。こっちだって150年前まで日本刀を自分の腹に突き立てていたし、かの三島由紀夫がやったのはほんの半世紀前だ。伝統文化に優劣などないのだ。現地に溶け込むためにイスラム教徒になれと言うわけじゃない、なれもしない。逆に、我々の近代社会の方が病んでいて、彼等の方が人間的であるとも思わない。
しかしながら、アフガニスタンでは再びタリバンが盛り返して制圧された。アメリカが訓練を施した現地の軍は全く抵抗しないで武装解除されている。英国もソ連もアメリカも制圧できない獰猛な民族なのか。ジャーナリスト高山正之はカイバル峠越えの取材時でのパシュトゥーン人の残虐さと根性の悪さを記述している。
ただし中村氏の観察によれば、この間まで反ソ連のゲリラとしてアメリカ製の銃を持っていた人間がソ連が撤退した途端に銃を鍬に持ち替えてセッセと耕していたという。どちらも本当のことなのだ。そして氏は、丸腰の安全保障はありうるか、との問いに対し、勇気をもって行えば案外可能、とした。これは決死の覚悟といっても過言ではないとも。
氏は車両で移動中を襲撃され命を落とした。では装甲車で移動していれば良かったのか。その際はロケット砲で撃たれただろう。氏の善意を死で踏みにじったアフガン人は鬼畜か。彼らは1979年のソ連侵攻以前から今まで数百万の犠牲を払ってきた民である。国民は人生の殆どを戦乱と共に生き、底辺の病人は見捨てられてきた。
そしてその地獄の喧騒の中、氏が治療した若い女性のライ病患者でさえも、時に笑いながら人生を送っていた。そこには確かな生活と文化はあるのだ。そうでなければそんな厳しい環境に、仮に追いやられた後に住み着いたとしても人が営みをするはずがない。戦乱が通り過ぎれば難民はそこに帰っていく。
近代アフガニスタンは地政学的にグレート・ゲームの対象となり英国とロシアの覇権争いからナチまで絡み、1919年の対英国ジハードの後王国・共和国を経てソ連の侵攻、冷戦下でのタリバンの勃興(アメリカの支援があった)、9・11後のアメリカ介入、と国家の体を成していないままで来ている。
ガチガチに管理され統制される大陸では、別に国民は選挙なんぞやりたくもないに違いない。大雑把に言ってユーラシアは大体そうだろう。
暗黒独裁の国家でも国民はささやかな楽しみを愛しんでいることだろう。
国家とは時に化け物のような邪悪なものに進化しうるものであり。我が国もヤバい時期はあった。こうしている間にも、どこぞの国はミサイルを撃ち、少数民族を弾圧し、報道を規制し、国境に部隊を配置する。
それに対して、歴史的に反国家的な宗教や思想も存在して、時に秘密結社のような姿で国境を跨いで連帯した。極端なテロ集団が国家を名乗ったことすらあった。また、今日ではGAFAが国家をもしのぐ『統制』の可能性を秘めている。
私は国家を肯定する者であるとともに個人の自由も尊重しているが、遠い異国の地での中村医師の奮闘は、その両者に挟まれた弱者への寄り添いだったと思えてならない。灌漑事業から農園開拓まで留まるところを知らなかった情熱は、かの地で決して熱を失うこともない。氏の切り開いた農園には美しい花が咲く。
ただ、ひたすら故人の魂の安寧を祈って止まない。
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タオイズム(道教)は難し Ⅱ
2019 APR 27 5:05:25 am by 西 牟呂雄

『井の中の蛙大海を知らず』『木鶏』『包丁』
これらの著名な言葉の原典があの『荘子』であることはご存知かと思う。
荘子は奇怪とも思われる寓話をひいて、自然の摂理に寄り添うように生きることを教える。『荘子』内篇七篇は、出だしからして北の海の巨大魚『鯤(こん)』が巨大な鳥『鵬(ほう)』になって南の果てに飛ぶ話。
概して自分で思いついた壮大な例えに酔いしれているようなところがある。
どうも正確な伝記はないようで、まぁ隠遁生活をしながらそのメチャクチャな嘘話を考えていても食える階級にいたヒマ人だったのだろう。紀元前三百年あたりで、である。
「木鶏」は、かの双葉山が安芸の海に69連勝の後敗れた日に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電したことで知られる。このころは年に二場所しか興行しないうえに13日で千秋楽だから3年近く負けがなかった大記録だった。
「包丁」は牛肉解体の名人、庖丁という人の名前だった。この人が牛一頭を一本の小刀で見事に解体した故事による。これまた肉の筋目に従って刀を当てて捌いた、という話になって自然体の道を説く。
話は変わるが「解釈」という言葉、「解」は「角」と「刀」と「牛」、即ち牛の角を刀で切る。「釈」は「分ける」こと。それで角を切ったボディの肉を分ける、これで「解釈」になったとか。
様々に「解釈」されてなお、今日読み継がれているのは思想体系として論理的にも確かなものに違いない。ただ中国思想の常として中心概念に「神(一神教のGod)」を置かなかったので、道教なる怪しげな祀られ方をしてしまった感がある。むしろ、時空を超えた絶対無限・絶対自由の中に遊ぶ境地に至るノウハウとして捉えたほうがありがたみが増す。しかしそのためにナニを修業しろ、とか念仏を唱えろ、とは書いていない。
「万物斉同」とは主観を取り払って大いなる自然に合一せよ、と言っているのだが、生半可な人間にそんなことができるわけがない。
仏教が中国に伝わるのは後漢の一世紀頃であるから、荘子の時代にはまだ「解脱」なる考えはなかったのではないか。そう考えると上記の自然への合一とは、後に中国における禅の修行へと形を変えて続いたのかもしれない。ペルシャ系とも言われる達磨大師は中国に於いて禅宗を確立した。
「無用の用」これも好きな言葉だ。一見役に立たないモノがしっかりと世の中の役に立っているのだ、これを拡大解釈すれば幾らでもなまけていられる。
それはともかく、最近あることで大変に腑に落ちた。
リュウグウへのタッチダウン成功の事である。
1999年に発見されたリュウグウは、ロクに引力もないちっぽけな小惑星だが、スペクトル分析で含水鉱物としての水があることがわかっており、JAXAの探査プロジェクトはやぶさ2の対象に選ばれた。
算盤玉のようにブサイクだが40億年、地球から3億キロも離れた所を飛んでいる。但し公転しているために はやぶさ2 は52億キロも移動しなければならない。リュウグウは発見されなければ全く無用であったにもかかわらず、目下のところ地球の誕生のキーにさえなり得る貴重な天体となったのである。
それにしても、NASAや中国の宇宙開発に比べるとはるかに予算規模が少なく、一時は事業仕訳などというタワケた見世物の対象にまで貶められたJAXAは良くやった。
技術とチーム・ワークで人類初の快挙を成し遂げた、日本ならではの功績と思う。
タッチ・ダウンに成功した時には思わず拍手をした。
えーと、何の話だったっけ。
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A sound mind in a sound body 健全なる精神は健全なる肉体に宿る
2018 OCT 26 20:20:10 pm by 西 牟呂雄

週刊誌の藤原正彦氏が執筆する巻頭随筆で『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』の原文は「A sound mind in a sound body」だと知った。どうも訳語とは違う流れの文章が原典のようである。
僕はこの文言を懐かしく思い出した。
今では信じられないであろうが、小児喘息だった僕は体が弱く、チビの頃はしょっちゅう熱を出したり気持ち悪くなって早退していた。
無論勉強は遅れるし体育は見学する。あの体育の見学というのはやった人はわかるだろうが実に手持ち無沙汰で、しょうがないから一人で石を並べたりして退屈だった記憶がある、小学校の頃の話だ。
その後喘息は治まったが、肺炎やら気管支炎、腎盂炎、あげくの果てに結膜炎だのモノモライをやりまくる。どうやら人並みに皆勤通学できるようになったのは中学になってから。ただ、いきなり目の前が暗ーくなってボヤッと意識が飛んで倒れる(本当にバタリ)貧血は成人するくらいまで続いた。あれはなるときは結構気持ちがいいのだが気が付くと息があがり物凄い頭痛がする。
偉い人の話の中には、そうした状況でよく読書をしその後の人格形成に役立ったことが記されたりするが、僕の場合は漫画ばかり読んで全く人格は向上しない。まぁただのヒネたガキになった訳だが口は達者になった。
そしてその頃には今から考えれば奇怪な会話を日常的にしていて、妙なオリジナルの惹句を作っては遊んだ。
「僕はチボー家で言えばジャックなんだな」
これでピンと来る人には敬意を表するが、恥ずかしながらロジェ・マルタン・デュ・ガールの原作を読み通せていない。長すぎる。18年もかけて発表された作品だ。
そしてもう一つ。偉大な哲学者は結構病んでいることを知って冒頭の言葉を捻って編み出したのがこれだ。
「健全なる精神はしばしば不健全な肉体に宿る」
当然仲間からはバカにされた。
おまけにその後、酒を覚えてからは心身共に不健全になってしまい、このセリフの真贋は極めようがなくなった。
更に考えると作家や詩人はしばしば肉体は健全でも不健全な精神になるケースが少なくない。
例えばヘミングウェイ。マッチョのイメージが強いが、鬱病っぽくなってショットガンで自殺。父親・弟・姉妹も自殺という最初からおかしかった家系なのか。
本邦も自殺・心中には事欠かないのはご案内の通り。芥川・太宰・三島・川端とヤバい筋が並ぶ。
僕が日本の良識だと思っていた江藤淳の自殺には本当にびっくりした。体調悪化と愛妻を亡くした絶望感からと言われたが、あんなにバランスのいい(右よりではあるが)人が。
一方作曲家の方は飲酒の逸話が多い。リスト、ブラームス、シューベルト等は酔っ払っては恥ずかしい行いをしたことが記録に残っている。モーツァルトにいたってはそれどころではない。ワーグナーは麻薬だったか。
してみると惹句は正しくはこうではないか。
「不健全な精神は美しい作品を生み出す」
話は変わるが、肉体を鍛え上げているアスリートが健全な精神を保っているかどうかも微妙な問題である。現役の時はそれなりに節制するのだろうが、引退した途端にヤバいことに手を染めた輩は枚挙に暇がない。最近では指導者の道に進んで騒ぎを引き起こした例がアメフト、ボクシング、体操、シャブをキメた野球OB・・・・。これらは肉体だけではなく脳みそまでを鍛えすぎて、モノを考える機能に障害を起こしたかもしれない。
一般論ではないが、”天才”プレイヤーは、やや”天然”の域に達するとバランスが良くなって”健全な精神”を保つように見える。一流と二流の違いだとも言えよう。
そう思えたのは先日の大坂なおみが優勝した際の純情極まりない一筋の涙を見たからである。試合は色々あったのだが彼女の素直なメンタルはそのまま伝わり、あの自然体にはアメリカ中が参ったはずだ。この健全ぶりは、例えば長嶋茂雄がそうだった。我がファイターズで言えば新庄がそうだった。あの人は本当に何も考えていないで好き勝手やって、バリ島に移住して絵描きになったところが凄い(稼いだ金はどこかに行ってしまったらしいが)。
それに対して二流所はどうしても心に奢り高ぶりが感じられる、謙虚さがない。そこで妙に偉そうに振る舞ったりして引退後に墓穴を掘ってしまう。故星野仙一の自称「超二流」というのがあったが、こういう謙虚さが大事なのだろう、引退後もいい仕事をした。
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5.15事件「話せばわかる」「問答無用」
2018 AUG 31 19:19:50 pm by 西 牟呂雄

5・15事件で殺害された犬養毅首相が襲われた時に発した言葉とされる。これに対して海軍の山岸中尉が『問答無用』と応じた。
だが、実際の発言は提題の言葉ではなかったという説を保坂正康の新書で読んだ。
撃った本人山岸は『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と言われたと回想している。
初めに引き金を引いて弾が出なかった三上卓は裁判では『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と制され『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と言われたと証言した。
『問答無用』は正確には『問答いらぬ』であったことは両者の話が一致している。
ところが『話せばわかる』についてはその場にいた妻の話では違う。
『まあ急くな。撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い。・・・・(移動)・・・・まあ靴でもぬげや、話を聞こう』
となっているようだ。
保坂正康は『話せばわかる』は後年に民主主義のキーワードとして喧伝されるに到ったのではないかと考察している。
この事件は計画立案時点から実に幼稚というか杜撰極まりない内容で、総理大臣・内大臣を殺害し立憲政友会本部を襲撃、なぜか三菱銀行を爆破する。その後警視庁を占拠する。日暮れとともに変電所数ヶ所を襲って首都機能を麻痺させる。その混乱によって戒厳令が施行される隙に軍閥内閣を樹立する。このような何とも劇画的なテロ、荒唐無稽な作戦で、まともに考えれば絶対に実現できそうもない。
勢いで犬養首相は殺害したが、結局警視庁に乱入して窓ガラスを割りピストルを乱射しただけ、日銀・三菱銀行・立憲政友会本部に手榴弾を投げただけ、変電所6ヶ所の一部を壊しただけ。その後に憲兵隊本部に自首した。クーデターでも何でもなかったのだ。
周辺にいた橘孝三郎、大川周明、西田税(計画中に仲違いして襲われ重傷を負う)等はただ傍観していただけなのか、或いは煽りに煽っていたのか。
更に不思議なことにこの事件に対する量刑が実に甘いのだ。海軍軍人は海軍刑法、陸軍士官学校生徒は陸軍刑法、民間人は東京地方裁判所で裁かれたが、ただの一人も死罪にならなかった。助命嘆願運動が起こる等、背景には当時の不況、政治腐敗への強い反発があったからと評されるが何かあやしい。
1929年は世界恐慌が起こっており大変な閉塞感に覆われていた。そして事件の前年には満州事変が勃発している。月並みな言い方であるが、ある方向に向かって突き進む時代だった。
煽って糸を引いていた何者かがいたに違いない。それは通り一遍の軍による政治的独裁への舵取りを推進する国内の勢力ではなく、例えば勃興する国をただ混乱に陥れ自国の利益の拡大を図ろうとする国際的なオーガニゼーションかもしれない。
既に明らかなゾルゲ並びに尾崎秀実以外にも、昨今の研究では国際コミンテルンが陸軍統制派、下手をすれば・・・・。
ところで引き金を引いても弾が出なかった三上卓はかなりのクセ者で、事件の二年ほど前に『青年日本の歌』という歌を作詞作曲している。後に『昭和維新の歌』と伝わり一部で流行した後、発禁となった。
汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れとぶ
混濁の世に我立てば
義憤に燃えて血潮沸く
このヤバさは危険で、歌っていると陶酔感が漂う不思議な歌だ。
三上は戦後も盛んに右翼活動を推進し、1961年には同じような武装・国会突入を試みる『三無(さんゆうと読むそうだ)事件』でも逮捕されている。この時に馬場元治衆議院議員の秘書で、襲撃の際に突入のサインを出すはずだった鮫島正純とは後の池口恵観、あの朝鮮総連を落札したり第一次内閣を退陣した安倍総理に護摩行などをしてみせた謎の僧侶である。
また、愚連隊から右翼に進化して数々の事件を起こし、最後に朝日新聞本社でピストル自殺した野村秋介が門下になったのもこの直前だったらしい。
三無(さんゆう)主義とは無税・無失業・無戦争の思想と言うが、理論的にどういうものか分からない。それがどうしてテロと結びつくかは俗人的なことのようで、何かと騒がしい人材が集まって来ては同じような事件を企画していたらしい。
話はグルっと戻って『問答いらぬ』とか『問答無用』もひどいが、あのモリカケ問題に対する野党の態度に近いものを感じるのは私くらいか。
途中にお役所のチョンボがボロボロ出たが、総理の示唆はなかったとしか思えない。そりゃ忖度はしたに決まっているが、見返りを貰った人物は存在していない。世間知らずのオカアちゃんがチヤホヤされたのと、誰もやろうとしなかった獣医学校を知り合いが作った過ぎない。周辺のトリック・スターが人目をひいたのでマスコミが飛びついたが、カゴイケ・マエカワ・・。
確かに文書改竄はよろしくない。自殺者まで出した。
ですがね、官僚の劣化などと囃し立てるなら政治家はもっと劣化しているし、マスコミに至っては何様のつもりか。改ざん前の文書を見てもどうってことない。
総理の関与がないことがはっきりしても『疑惑はますます深まった』を繰り返されてもねぇ。『問答無用』とどこが違う、最も劣化しているのは野党じゃないか。
総裁選が来月あるが、総理の対抗馬はこの話をほじくり返すとかえってドン引きされて惨敗し、今後浮かび上がれなくなりかねないぞ。憲法問題と国際情勢、経済政策だけでやってくれ。
もっとも私の政治予言は外れるが。
あれっ、何の話だったっけ。
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元号が変わるぞ どうする
2018 MAY 23 6:06:20 am by 西 牟呂雄

今から30年前の昭和が終わった時。
世の中は自粛ということで、夜のネオンが消された。何となく早く帰宅して各報道が一斉に昭和のおさらい番組を流しているのを見ていた。『街も悲しみに暮れている』といったレポートをするので、ホンマかいなと不謹慎にも夜の繁華街に車を飛ばした。
するとかの新宿歌舞伎町でさえ街は真っ暗、人通りも少なく普段は車で入れない所まで行けた。すると闇の中のパチンコ屋の店内は大音量・照明ギラギラでジャラジャラと営業し混んでいた。風俗だってやっていたのだろうな、と妙な気分になった。
ついでに渋谷に回るとこれまた不謹慎にも渋滞で、隣の車がユッサユッサとリズムを取っている。どうやらドライヴに入れたままブレーキをポンピングして音楽に合わせているのだ。スーッと窓が開くとその頃大勢いたワンレン娘がクチャクチャとガムを噛みながらR&Bをガンガンかけていた、この不忠者め!
あと1年で元号は変わる。
新元号が『建和』に決まった!という噂がネットに流れて、自分が和やかになれるかと思ったが、現時点では勿論未決定である(私の本名は建。人偏をつけないように)。
私は保守派なので元号には賛成だが、中にはこのグローバル時代に面倒なだけだという人もいるだろう。
どうであろう。明治は45年、大正は15年、昭和は64年、平成30年。私程度では、近代日本の時代を表していたのは元号=天皇陛下のキャラであるという思いがある。これが江戸時代なら将軍だろうか。
昭和の生まれの私は、昭和の半分と平成をまるまる生きた。
平成の天皇は国難とも言うべき災害の現場で、国民をねぎらい、いたわり、祈ったという印象が強い。神戸、3.11、熊本、と言った激甚災害にお姿を現すと被災者は慰められた。それはやはり政(まつりごと)に携わる権力者が来たところでそうはいかないのである。時の総理大臣がお座成りの見舞いを述べて帰ろうとしたのを罵倒されてペコペコした姿を我々は見ている。
そして元号はその国難と共に記憶されている。維新戦争(明治)、関東大震災(大正)、敗戦(昭和)、3.11(平成)。天皇はその際の唯一無二の切り札であって代わりうる者はいない。それぐらいの重きを頂く場合に元号が無いなどとは考えられない。
しかも歴代抜群のバランス感覚で時代に適合していくポジション=人格が継承されている。
今上陛下は常に仰せだ。
『日本国憲法の元、国民と共に』
人を呼ぶときには『さん』付けされる。先代が常に名前だけを呼びすてたのと違い、やはり敗戦後の教育を受けられた証左だ。
大変熱心に祈り神事をこなし公務に励まれる。どんな天皇でも神事をこなせば良いのではなく、勤められることによって高みに上がって行かれるのではないだろうか。
次期天皇陛下は大変真面目で子供の頃からどんな下らない相手の(まぁあんまりひどいのは排除されているだろうが)話でも、必ず最後までキチッと聞かれることで知られる。こういうことはやはり長い訓練の賜物であり、どんな長い公務でも欠伸一つなさらない。この環境にいきなり慣れろと言う方が無理がある。五代や十代程度の続いたイエで育っても身に付くものではない。我々クラスは三代目は唐様に書けるかもしれないが殆んどが潰れていると言うではないか。
ともあれ次の元号の時代はまた違った象徴像が作られていく。
その際のキーマン(キーウーマンか)こそ今上陛下の直孫に当たる3人の内親王であろう。いささか世間知らずで物議を醸すかもしれないが、力を合わせて知恵を出されるに違いない。歴史はそうなっている。
しかし私見であるが何があっても天皇制は無くならない。
実は故三笠宮寬仁親王殿下が娘である女王の結婚相手に旧宮家の男子を考えられた事があったが『何でも言う事は聞きますが、私は好きな人とは一緒になれないのですね』の一言で挫けたそうだ。
ゴリゴリの保守派には『皇族とはそういうものである』との論がありそうだが、こういった必殺の男系女性天皇というウルトラ級の奥の手もあるはずだ。それぐらいの知恵を我々日本人は持っている。
『建和元年』バンザーイ!
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ジェスフィールド76号
2018 APR 1 15:15:23 pm by 西 牟呂雄

日中戦争さなかの上海共同租界に設置された特務機関で、あやしげな名前はジェスフィールド通り76号という住所をさしている。この時代の風を浴びることはできないので、裏側から見てみようと各種テロ集団、秘密結社といった側面に光を当てるつもりで調べて知った名前だ。
辛亥革命後の大陸の複雑怪奇さは到底ブログなどで追い切れるものではない。言ってみれば無法地帯のような戦乱国家だった。各地の軍閥(直隷派・奉天派・山西派・安徽派)と国民党・共産党が群雄割拠し合従連合と分裂を繰り返していた上に日本軍もいた。
試しにこの時期の勢力図を年表にしてみたがさっぱり分からない。そこで年ごとに中国の白地図を色分けをしてみることに挑戦したが、グチャグチャ過ぎて失敗した。1925年から35年までやろうと3年分やったところで無駄なのでやめた。あの満州事変が1931年だがその前も奇怪過ぎる。共産党勢力なんかは消滅寸前に見えた。
子供だった頃に大陸で兵隊をやっていた人の話で強烈に覚えている事がある。その人は語学の才があって多少の中国語を理解していたが、師団ごと移動すると川一つ越えただけで同じ中国語とは思えないくらい通じなかったとか。それは現地の非戦闘員(多くが農民)にとっても同じで、新しい武装集団が来れば言葉が通じないのは当たり前。食料調達等で交渉していると(決してブン取ったりしていない、と言っていた)彼らは『今度は日本という軍閥が来た』というふうに思っていたと。どうやら日本という国があることもわからない連中だったのだろう。
蒋介石と袂を分かった国民党左派の汪兆銘が南京政府を樹立したが、提題のジェスフィールド76は汪兆銘派のダークサイド組織なのだ。
汪兆銘自身は日本と戦わず和平の道をさぐる、と本気で考え真面目にアプローチするのだが足元のメチャクチャぶりは如何ともしがたい。
そもそも蒋介石は当時のドイツの援助を受けていたし、傘下のCC団(セントラル・チャイナの略とか)は共産党の弾圧に反日工作、もちろんヤバい仕事もする。CC団は陳果夫・陳立夫兄弟で組織されたが、他に蒋介石直系の藍衣社という秘密警察もありこちらも露骨に暗殺・処刑する。
蒋介石自身、犯罪秘密結社『青幇(チンパン)』の親分、杜月笙(とげっしょう)の兄弟分で青幇はアヘンも殺しも何でもござれ。政治軍事のトップとマフィアの親玉が義兄弟というシャレにもならない事態だったのだ。
汪兆銘側だってきれいごとばかり言ってられない、ジェスフィールド76で対抗する。中国人組織であるが、頭は晴気少佐という陸軍軍人で影佐大佐が率いる工作機関の手足として怖れられた。
日本は近衛文麿の『国民政府を対手にせず』以後、陸軍の「梅機関」外務省の「岩井公館」を設置して南京政府を樹立すべく動いたのだ。
前者のトップ影佐大佐だったが、軍人の割には和平工作に熱心で、軍中央から「支那に手ぬるい」と評価を下げられ南京政府発足後は飛ばされた。終戦はラバウルで迎えた。因みに怪我で引退した谷垣元自民党総裁のお爺さんである(母方)。
後者は外務官僚の岩井英一が純粋に和平のため情報を収集するため機関が必要と奔走した上海公使館情報部を発展させた。
ところがこちらの組織は瞬く間に共産党系の密偵の巣窟のようになってしまい、しかも蒋介石軍を挟んでの二重三重スパイも多かった。結局岩井公館は蒋介石の情報を共産党スパイに多額の外交機密費を払って得ていたことになると、遠藤誉が発表している(新潮新書・毛沢東)。更に共産党は日本軍と停戦交渉までした、と綿密に考証している。
ジェスフィールド76は中国人トップの李士群が南京政府樹立の翌年に、あろうことか上海憲兵隊の岡村特高課長との会食中に突然倒れて死ぬ。毒殺されたようだ。それもそのはずで上記考証によれば、李士群は対共産党の交渉窓口もやっていたためただでさえ恨みを買っていただけでなく二重スパイも十分有り得る。或いは口封じかもしれず、殺害理由は枚挙にいとまがない。
それにしても汪兆銘は忙しい生涯を送った。日本の法政大学に留学中に孫文に傾倒しハノイ・シンガポールと行動を共にした後、北京で清朝王族の醇親王の暗殺を企てて捕まるが革命が起きて釈放される。蒋介石と対立してなぜかフランスにも亡命する。
その後紆余曲折を経て南京国民政府の首席になるのだが、日本の関与で出来上がった政権でもあり、正規軍百万人を擁していたが蒋介石軍とは戦闘をしない。苦労して立ち上げた政府だが、志とは違って苦しむ。
ところで元総理大臣の福田赳夫が政権の財政顧問で厚く信頼されたらしい。何かと自民党と縁のある人だ。
国民党中央委員会で狙撃されて弾丸を摘出できず、それが元で最後は終戦直前の名古屋で亡くなった。政府樹立前にもハノイで暗殺されかけている。
ところで現代ではソ連崩壊による文書公開もあって当時の研究も進み、コミンテルンのスパイがアメリカ中枢にワンサカいた事実や、はなはだしきは盧溝橋の一発もコミンテルンの仕業だったという仮説があるそうだ。前出の遠藤誉の著作は、日本軍との協力も辞さない毛沢東の大戦略があった、との立場だ。
戦後台湾で存命だったCC団の弟、陳立夫に日本人ジャーナリストがしたインタヴューが活字になっている。その中で『当時の陸軍中枢にコミンテルンのスパイがいたはずだ。こんな簡単なことがわからないのか』と笑ったとある。
また、海軍軍令部で流れた噂に『陸軍の連中は共産主義と我が国の国体は調和すると言っている』というのが阿川弘之のエッセイにあったはずだが、どの文章だったか思い出せない。
僕がこの時代に陰謀渦巻く大陸の伏魔殿にいたら、いったい何を考えただろう。平和な今日だから「環日本海経済構想」等を夢想していられるが、渦中にいたら一体何のために中国にいるのか冷静でいられただろうか。この話、取り合えず万里の長城の内側に限っての事にして欲しい。満州エリアは関東軍がからむのでまた別の機会に。とある東京の名門高校の日本史の先生は関東軍の研究家で、授業は一年中関東軍についてだった(くらい複雑だ、というオハナシ)。
それが、だ。半島においてややこしい会談がこれから行われる。 今頃足元のトウキョウでも何かが蠢いているに違いない!戦争反対!自主防衛!
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『ツクバヤマハレ』
2018 MAR 25 16:16:03 pm by 西 牟呂雄

筆者は最近知ったのだが『ツクバヤマハレ』という符牒を御存知だろうか。
かの真珠湾攻撃命令『ニイタカヤマノボレ』とともに用意されていた暗号らしい。
山本長官は日米交渉が上手く行った場合に機動部隊をUターンさせるつもりでいたが、一部の指揮官がそれに異を唱えると
「百年兵を養うは、ただ平和を護るためである。撤退命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、ただいまから出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」
と切り捨てている。
そのために用意されたのが『ツクバヤマハレ』という訳だ。
異説では真珠湾に向かった空母機動部隊向けは『トネカワクダレ』だったという話もある。その説では同時に行われるマレー半島コタバル作戦にも12月8日に強襲上陸の『ヒノデハヤマガタ』という暗号文が打たれているが、作戦中止の場合に用意されたのが『ツクバヤマハレ』だと言う、どちらが正しいかは分からないが。
ハワイと英領マレーでの同時襲撃は12月8日のハワイでは早朝、マレーでは真夜中である。尚、米国への宣戦布告が遅れたことが問題となるが、マレー作戦は真珠湾攻撃の2時間近く前に開始されており、こちらの方は英国に対してまるっきり宣戦布告などしてはいない。
その後陸軍は驚異的なスピードで進軍しシンガピール陥落まで2ヶ月しかかからず、マレー沖海戦で制海権も握った。おかげで順調にビルマ・ジャワまで進出したのだが、この時点で英連邦軍10万人の捕虜を抱えた。英国は足元のヨーロッパで苦戦しており、支配下のインド兵などの士気はかなり低かったのだろう。後に捕虜の扱いが問題視されるのだが、占領軍の3倍近い捕虜は食わせるだけで大変だったろう。
御承知の通りインパールの悲劇や南方諸島での米海兵隊との死闘で敗戦に至る悲惨な物語が続くのだが、シンガポール・エリアは血みどろのドンパチなどないまま8月15日を迎える。英本国からマウントバッテン卿がやってきて日本軍の降伏を受理した。
やはり英国もくたびれ果てていたのであろう、協定を結び半年ほど治安維持部隊として日本軍兵士を使っていた。米軍はこのあたりや制空権のなくなったラバウル・台湾をほったらかしにし硫黄島・沖縄で戦闘していたから、マレー・エリアでは惨めに退却する日本軍は現地の住民にも英連邦軍にも目撃されなかったようなのだ。こういった事情があって英国は日本を捻じ伏せたという実感がないのだろう。
ところで話は変わるがシンガポール占領後セイロン島に引っ込んだ英東洋艦隊はプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを失ったものの、やや旧式な戦艦5、空母3、巡洋艦6、駆逐艦10隻を擁していた。
これを叩きインド洋までの制海権を確保するために南雲機動部隊を差し向けるのは真珠湾の4か月後、例のミッドウェー直前のセイロン沖海戦である。
急襲空爆は成功したが、攻撃隊指揮官である淵田中佐は即座に「第二次攻撃の要あり」と打電し、機動部隊司令部は湾内艦船攻撃のための雷装を爆装に転換しはじめた。淵田中佐とは真珠湾の時に『トラ・トラ・トラ』を発信した飛行隊長だ。
山口多聞少将は「攻撃隊発進の要ありと認む」と打電してくる。
どうも真珠湾での第二次攻撃を躊躇する南雲司令部の様子が被ってくる。
ところがその後、艦隊行動中の艦船発見の報が入ると再び爆装から雷装へとドタバタを演じ、結局は爆装の急降下爆撃隊を飛ばす。
偵察も不調に終わり敵空母接近を見逃し、雷爆換装中に赤城が空襲を受ける。
こうなると今度はミッドウェーそっくりだ。
結果的にかなりのダメージを与えることには成功した勝利ということになっているが、南雲機動部隊は真珠湾・セイロン沖で散見されたミスを(検証したことはしたかもしれないが)ミッドウェーでは教訓とすることなく惨敗した。
この4月時点ですでに連合艦隊司令部においてミッドウェー作戦は黒島参謀を中心に練られており、そうなるともう止まらない。
戦後の海軍関係者の反省会という体裁の音声が活字化されているが、その中に悲痛な発言がある。12月に真珠湾。4月にセイロン沖。その2か月後のミッドウェーだったので南雲機動部隊の損傷もあった。メンテナンスにせめてあと一月欲しかった、というものだった。
しかも途中に珊瑚海海戦という空母同士が四つに組み、双方一隻づつ失うという躓きがあったにもかかわらず、である。
珊瑚海海戦は史上初の機動部隊会戦という興味深い戦闘である。尚、この時点では海軍の暗号は解読されていた。
米空母ヨークタウンを味方と間違えて日本の九九艦爆が着艦しようとして初めて相手が敵と気づいた、という笑えない話もある。米軍は切り込み隊が強襲したのかと思ったことが記録されている。
それまで連戦連勝だったため、第四艦隊司令長官の井上成美中将は海軍内部で散々な言われようだった。出典が分からないが「コーラルシー(珊瑚海)戦機見る明なし。次官望みなし。徳望なし。航本実績上がらず。兵学校長、鎮長官か。大将ダメ」とまで書かれ、実際に兵学校長になる。
ところが敗色濃くなる中、米内海軍大臣を補佐するために最後の海軍次官となり和平工作の奔走することは阿川弘之の作品に詳しい。
嗚呼 『ツクバヤマハレ』 打電されれば・・・
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