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えらいこっちゃⅡ

2014 APR 10 20:20:50 pm by 西 牟呂雄

骨折し入院を続けていた母が逝った。突然ではなく、4か月の闘病の後である。発端は腕の骨折だったが、実際は大腿骨もやっていたことが後に判明し、そちらの緊急手術をする際に麻酔で一度心臓が止まった。その後にそこら中悪くなり、最後は急性肺炎による呼吸不全で身罷ったのだ。昭和6年生まれなので激動の昭和史をまるまるなぞったことになる。兄が一人と母親の違う弟が二人。実母は早くに亡くしている。

父親は戦前の東京証券取引所の理事長で、財界の大物郷誠之助の右腕だった。どうやらボーナスで家作が一軒買えるような家庭のお嬢様。しかし厳しく躾けられたらしく、極々真面目な人であった。戦前の名門女学校に通っている頃にはフランス文学に凝って、東大の辰野教授の聴講生となり、実際フランス語は話せた。敗戦で環境は激変する。敗戦時は鶴岡に疎開していた。そして父親は公職追放に。帰京して女学校を卒業後、実兄の同級生だったオヤジと結婚し、僕と妹が生まれる。それから高度経済成長が始まる訳だが、僕が生まれた頃には中野区の沼袋に平屋の新婚家庭を営み、家の中に井戸があったことや庭にオヤジが掘った池なんかをうっすらと覚えている。隣の家にいたシゲ子ちゃんという女の子と良く遊んだ。そのころ近所に共産党の不破哲三夫妻が住んでおり、両親ともご夫妻とは学校の関係で顔見知りだった縁で僕はオシメを代えてもらったと聞く。その後は神田のオヤジの実家に引っ越す。

病院では家族が3交代さながらのシフトを組んで見守っていたが、自然と会話は昔のことになって行く。特に敗戦の前後の落差が大きすぎるのでどうしても娘時代のことを語りがちだった。2.26事件当日、父親が帰ってこなかった雪の日の事、友達と前を歩く一高生のマントを脱がせられるか賭けをした事、大勢いた従兄弟達と遊んだ事。最期まで意識はしっかりしていたが、肺が持たなくなった。

病院は治療方針が立たずに打つ手が無くなり、そうなると介護施設への移転を検討せざるを得ず、実際に何箇所か見学に行ったのだが無駄になった。苦しむことの無いように、一家で延命治療は断ったのだが本人がどの程度の苦痛なのかは分からない。忍び寄る死の影を感じられなくなるまで、いっそモルヒネ漬けにでもして欲しいとさえ思ったのだが、現在の医学倫理はそれをさせてくれない。この選択の問題は近く大きな議論を呼ぶのではないか。

亡骸を前にしてつらつら考えたが、人には大変親切に接し、善意と正義感に溢れる人だった。同時に、思い込みが強く激しい気性をなので、時に現実と大きく乖離してしまうケースも思い出す。何事にも一生懸命やる人でもあった。実に不可思議ではあるが、こういった生真面目さにのっとった気質が子供達にも孫達にも全く継承されなかった。これから整理しなければならないこともあるため、その度にどういう気持ちになるか、今はわからない。葬儀は家族葬とし、親族、交友関係に不義理をしたが、故人の強い意向に従った。僕はそういう時にあまり”泣く”という習慣がないので、オヤジからは薄情者と言われてひどくうろたえた。いずれ又、偲んで綴るかもしれない。子供二人、孫二人、曾孫二人。菩提寺の枝垂桜が満開だった。

 
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えらいこっちゃ

えらいこっちゃ Ⅲ

えらいこっちゃ Ⅳ

菩提寺のニワトリ

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