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黄金の分銅(燎原の果て)

2014 MAY 21 22:22:36 pm by 西 牟呂雄

 決戦に臨むに、いまだ不安は拭えなかった。野戦になれば百戦錬磨の家康といえども、燃え上がる闘志と共にいくつもの心配事が頭をかすめる。特に野戦本隊となるべき秀忠直轄の部隊の遅れはいかにもまずい。このタワケめ、と叫びたいくらいだ。指揮する東軍も、元はと言えば三成憎しで固まっているだけで、豊臣打倒などと本気で考えているのは一人家康のみ。徳川方も又、烏合の衆とも言えるのだ。
大阪城の毛利輝元が五万の軍勢を率いてやって来ればひとたまりもない。三成は大垣城に四万人の軍勢と共に居る。無論大阪方には諜者を送り込み、噂を流させ、懐柔の手紙をバラ撒く。秀吉が存命ならば、やったに違いない謀略である。当然敵方のそういう動きには側近を通じて目を光らせる。
 ところが、大阪側からのそういう動きが全くない.考えてみれば何年も戦乱に明け暮れて、共に智謀の限りを尽くして戦った武将は少なくなっている。諸将はみんな息子のような世代になっていた。情報によれば、小早川・吉川の毛利の両川ともいわれた連中が調略によって動揺してきている。
「そろそろ三成を大垣城から引きずり出してしまえば、短期の決戦に持ち込めるわ。」
家康は腹を括った。

 天下分け目の大いくさはたったの半日で片がつく。
 それまで行政の実権は五奉行筆頭石田三成が握っていた。その手腕は鮮やかだったが、どうにもこうにも小面憎いのが我慢できなかった。家康だけではない、豊臣恩顧といっても武断派の荒くれ武者は例外なく三成が気に入らない。特に朝鮮に遠征させられた連中は三成には憎しみを覚える程嫌っていた。それにしても、あの大軍勢が半日で壊滅してしまうとは。ここまでは筋書き通りとなった。
 さてどう料理してやろうか。大阪城には未だに途方もない金銀が唸っていて、十万の兵を養える。秀頼は幼いが、憑き物がついたような言動の淀君がいつでも激を飛ばせる、現に飛ばしている。まずは分断工作の手始めに西軍加担の毛利を弄りにいじった。 同時に秀吉糟糠の妻、京都隠棲の高台院にも届け物を欠かさない。家康は京都にあって朝廷・公家に影響力のある北政所の使い道を心得ていた。示唆を受けて東軍に立った者も多い。淀君を孤立させるには貴重な重石となる。
 
 二年後、征夷大将軍の座についても直ぐに秀忠に譲る。幕府体制を固める腹だ。その際のドサクサまぎれに伏見城の莫大な金銀を運び出すが、その物凄さに肝を潰した。大阪城にはこの数倍の金銀があるはずで、イザという時に天下の名城大阪城に立て篭もられては攻め手の損傷も尋常なものではない。家康の取った戦略は、未だに天下人の母親として傍若無人にふるまう淀の君に「亡き太閤殿下の御威徳を偲ぶため。」と吹き込み、全国の社寺仏閣に多額の改修・寄進をさせ尽くしてしまおう、というものだった。しかし使わせても使わせても大阪は悲鳴一つ上げない。時間が経つに連れて焦れてくるのは家康の方だった。

 佐渡の金山から未だにいくらでも採掘される金を鋳潰し、て大法馬金の分銅にして眺めて見ても、何も感慨が無い。眩しく美しくはあるが、こんなものが身の周りにあっては気が休まるものじゃない。一つ四十四貫(165kg)もあって容易に持ち上げることすらできない。陰鬱な輝きが軽快になるものでもない。家康には、茶室を金張りにして喜んだ秀吉の心情が少しも理解できないのだった。何故『金賦り』などしたのか。お追従を言い立てる青公家の化粧面なぞ見たくもない。大法馬金10個20個積んだところで、もしもの時以外必要なし、と江戸城奥深くに秘蔵させ人目に触れないように封印した。
 将軍職を譲って数年経ち、ついに秀頼と会う運びとなった。未だに朝廷からは摂関家として遇されており、家康に仕えているつもりは毛頭無い。秀頼はこの時まで大阪城からほとんど出たことがなく、京都二条城まで生まれて初めての移動をして来た。見るもの全て珍しく、特に路上を歩いていた牛を見て腰を抜かした。

 謁見ともなんとも言えない会談となったが、家康は実際に会ってギョッとする。見上げるような大男なのだ。六尺五寸(2m近い)の肥大漢で言語明瞭。立ちあがれば圧倒されそうな気配に腹を固めざるを得なかった、抹殺のである。

 淀君と秀頼の側近に人材はいない。大阪冬の陣の包囲と同時に、家康得意の諜報・謀略が始まる。大阪城はビクともしないが、家康は舌なめずりをするように、砲撃をしかける。家康の脳裏には黄金の分銅の山の鈍い光が浮かび、すぐに消えた。謀略は直ぐに効き、淀君は講和を結ぶ。さすがに秀頼は渋るが逆上した淀君には逆らえなかった。
 続く夏の陣では、真田の一隊が家康の寸前までせまるも、辛くも退けた。家康自身動転してしまい、腹を切る覚悟までしたものだった。真田、天晴れなり。
 焼け落ちた大阪城から、煤けた金銀が回収される。黄金は全て分銅金となり、以後人目に触れることはなくなる。

 家康はつぶやいた。
「あのようなもの、側におくのは目の毒じゃ。」

 筆者注 江戸中期には21個の分銅金があった記録があるが、幕末にはわずか1個しか残っておらず、それもどこかに行ってしまって新政府の物にはならなかった。これが徳川埋蔵金伝説のネタ元で、幕臣小栗上野介が持ち去ったのではないかと、糸井重里がテレビで山を掘っていたアレである。

黄金の首 (紅蓮の炎)  

黄金の茶室(見果てぬ夢) 

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Categories:伝奇ショートショート

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