Sonar Members Club No.36

月別: 2014年9月

藤の人々 (戦前編)

2014 SEP 9 12:12:24 pm by 西 牟呂雄

 
 大正の中頃である。
 京都駅頭に小柄な男が降り、長旅のトランク数個を赤帽に持たせて歩き出した。やや小柄な体躯を前のめりにするように早足で歩き改札を抜けると、当時は改札からやや離れた所にあった人力車を用立てて深々と乗り込み行き先を告げた。
「千本通り高辻下る、じゃ」
東京にはタクシーがあったが、ここ京都は路面電車こそ通っていたものの荷馬車も往来していた。
間口四間の店の前で停まると小僧達が一斉にそちらを見て客かどうか、そうならば『おいでや~す』と頭を下げなければ、と目をこらした。
 短躯の男、名は藤(ふじ)逸(いつる)という。帽子の下の両眼が良く光るが普段はわりと愛嬌のある表情だった。しかしその姿を認めた古手の小僧があわてて店の奥に駆け込むと、入れ替わりに番頭の田原は飛び出してきた。
「これは大旦那様、電報を頂ければお迎えに上がりましたのに。又突然どうなさいましたですか。」
「気が向いたので紅葉を見に来た。」
「そうでしたか。」
二人は京都では目立つ関東弁で喋った。元より逸は口数は少ない。
「貴(たかし)は。」
「あぁッ、それはー今出て居られます。」
「いつ帰る。」
「遅くとも夕方には。」
「遊びに行ってんじゃねぇだろうな。」
「そりゃ・・・。まあお茶を入れますから奥の方へ。」
 この時代はフラリと紅葉を見に京都に来るのは普通ではない。が、それ以上の説明もなく田原も聞かなかった。そういう男なのは承知しているのだが少し慌てた。理由はある。
 逸はお茶を飲みながら田原をじろりと見ると思わず立ち上がった。例によって前屈みでツカツカと店先にまで歩き、その年にでも奉公に来たと見える箒でせっせと掃除中の小僧に声を掛けた。田原はあわてて逸の後ろに立った。
「名前はなんてぇんだ、おめーは。」
「しょうきちだすぅ。おおだんはん。」
 逸は直ぐにここの主人であることを察知した小僧の賢さに好意を持った
「そうか。それで正吉、若旦那はどこだい、えっ。」
「わかだんはんは、でんしゃ(しゃの所が上がる)に乗らはってテエダイいうところに行ってはりますぅ。」
京都言葉でゆっくり喋った。この時代方言はすり減っておらず、逸には意味が分りかねた。
「正吉よ。テエダイっちゅうのは何でぇ。」
「わかりまへん。」
後ろの田原が青ざめて姿を消した。

 藤(ふじ)と言う変わった名前は、今では東京近郊の車で直ぐ行ける清流の里となっているが、その昔は山間の一角に開けた盆地の古い宿場町にのみあり、いくつかに分家してそう広くも無いあちこちに点在している。氏は藤原を称していたが歴史上に登場した人物なぞおらず、この地域にへばりついて細々と営みを続けてきたと思われる。この地域は江戸期を通じて養蚕が盛んであり、その関係で染物も行われた。
 幕末の動乱もこの地では伝承もなく、官軍が通り過ぎて新時代を迎えたが、しばらくして一族の一人、逸が黒紋付の染め抜きで新技法を編み出した。逸は進取の精神を持っており、本来秘伝とすべきその技法を新たに定められた法律の下『専売特許』を取得した。以降逸の一統の家業として順調に発展していくことになる。逸は一族の連枝からひろと言う娘を娶り一家を成し、その時代では少ない方であるが三人の子供を得た。貴(たかし)と玄(くろし)が息子で、この家系は代々一文字の名前を付けた。その下の妹は節(せつ)という。
 日露戦争が終わってみると世の中は忙しく体裁を整えた。都市部は今日の面影がほぼ想像できる程度にインフラが整備され、社会制度といった類いは一通り揃った。地方は大都市ほどにはならないものの、今日のような一極集中ではなくそれなりの文化が息づいている。藤家の家業も大きくなり、黒染めの現場は工場(こうば)と呼ばれるようになった。大正になり、染物の本場京都に店舗を構えてこれも当たり、関東から京阪に出た珍しいケースとして知られた。
 長男、貴と次男、玄(くろし)は対照的な兄弟で、貴は六尺豊かな大男。一方の玄は小柄。貴は理系で勉強家ならば玄は詩人。それでいて性格は兄貴はおっとり、弟は几帳面と言った具合だ。が二人は仲良く、特に貴は弟思いのやさしい兄貴だった。
 父としての逸は概して子煩悩というわけでも無い。むしろ殆どの発明を独学で行い、研究に集中するあまり他の関心を吸い取られているような風情だった。当時のことであるから食事は膳で取ったが、何か閃いた時にいきなり下げさせて分厚い本を取り出したりして家人を唖然とさせたりしていた。

 さて、夜も更けた頃、夕食も食べずに待っていた逸の耳に軒先の騒がしさが聞こえた。京の町屋は奥に細長い。喧噪が近づくのがわかり、段々と声が近くなってくる。貴の帰宅であろうが、逸の突然の来訪を告げているに違いない。
「やあやあやあ、オヤジ殿。」
「ばかものー!」
 大音声であった。あわてた誰かが物を落とした。
 順調に商売をしているはずの貴は、知らぬうちに京都帝大の学生となってしまっていたのだった。その噂を耳にした逸は怒り狂って京都まで突進してきたのだ。
 元来真面目で勤勉でもあった貴は、家業を継ぐべく逸の強い勧めもあって旧制工業高等学校に進んだ。その間も知的好奇心は旺盛で夜間には外国語学校でドイツ語に励んだ。
 卒業後には京都に出した店を任されはるばるやってきたのだが、京都では先に来ていた田原が一切を卒なくこなしており取り急ぎすることもない。田原は幼い頃から見知っている上、若旦那若旦那と呼ばれているうちに勉学の虫が騒ぎ出し、京都帝大の選科生として工学部化学科に通い出した。そうなれば元々商売なぞやる気もなく、流行の有機化学に熱中し瞬く間にマントを羽織った学生になりおおせた。又、酒は強く、軽く二升酒飲んでも酔っ払って我を忘れることは無かった。
 逸は滞在中怒り続け十日程の滞在で帰って行ったが、二つの事を約束させた。帰ってくることと結婚である。逸にすれば跡取りと頼む長男が居心地の良い学生風情でいることに我慢がならず、折しも神田にも出店したのだが怒りのあまり伝え忘れた。
 渋々約束はしたものの自由気儘なこの境遇をすぐさま捨て去ることにいかにも未練が残り、舞子遊びなどをしているうちに一月が過ぎた。年末には帰って見せなければと思っていたところに電報が届いた。
『クロシケッカク』
第八高等学校在学中の玄が何と言うことだ。この時代では一刻を争う事態である。
 
 玄はもはや呼吸も苦しそうだった。医者も気休め以外に効果的な治療方法も見出せず、ただ安静にして栄養をつけるよう言うばかりで離れに寝かされていた。
「兄さん、わざわざ申し訳ありません。」
「何を言う。もう大丈夫だ。」
「ははは、兄さんらしい。嘘が下手だ。」
「んなこたーない(そんなことはない)。嘘などついたことはない。」
「まあ、僕はホッしたところもあるんです。東京にお店を出したでしょう。オヤジさんはそれを僕にやらせようと思っているみたいなんで。いや、口には出しませんよ。でもわかります。僕は商売は苦手なんで困っていたんですよ。」
「バカなこと言ってないで来年どこの帝大にするか早く決めろ。おい、京都はいいぞ。東大よりずっといい。」
 貴は言いながら席を立った。
 オヤジの馬鹿野郎。オレに帝大を辞めさせておいて。こんな思いを玄にまでさせてたまるか。玄は今流行の『白樺』等を読んでしきりに関心を寄せているような高校生だ。玄には好きなことをやらせてやりたいとオレが跡を取ると言ってるんじゃないか。
 一瞬カッとなったが、考えて見ればそういう自分も商売はそっちのけで学生風情になっていることを思い出し、逸の前では何も言うことが出来なかった。
 玄は暫くして逝った。死後日記が見つかり貴は目を通したが、最後までは読めなかった。筆で割と大きな字の綴りだった。
『山紫水明ノ地ニ生ヲ受ク。四季折々、時ニ花ヲ愛デ、雨ヲ楽シミ、川ニ遊ビ、紅葉ヲ喜ビ、銀雪を仰グ。兎モ角モ我々人類ハ、カフイフ感情ヲ持ツニ至ッタノダ。』
 玄の笑顔が浮かんできた。かわいい将来楽しみな弟を失いこれから自分がどうなっていくのか。只、この家系は不思議と人の生死に恬淡としている気質を共有していて、それは逸もその妻のひろも同じである。ハラリと泣いた後は凜として葬儀を仕切った。
 納骨を済ませて、貴はブラブラして過ごしていた。周りが打ちひしがれているふうでもないのに、一人メソメソするわけにもいかない。この地は当時土葬である。一~二ヶ月程たつと盛っていた土がガサッと崩れる。それを見て人は『ああ、土に返ったな。』と囁くのだが、貴はそれを聞いてゾッとしただけだった。
 半年も過ぎたころ二つ目の約束の縁談を持ち込まれた。逸が八方手を尽くし近隣の名士の娘の話を探し出してきた。貴は全然乗り気でなく、日本山岳会に入り登山に夢中になっているところだった。特にアルピニストという呼称が気に入り、自己紹介の時にそう言っては悦に入っていた。
 ところがこの話は一端立ち消えになる。世に言う関東大震災である。震源地から離れているもののガーッと来た。人は歩けず、地鳴りがした。東京下町は一発目で火事を出し大惨事となったが、この地は揺れこそひどかったが家屋の倒壊や火災にまでは至らなかった。ところが三日後の余震が震源が近く死人が出た。通信・交通が遮断され、誰もがどこで何が起こっているのか分らないまま数日を過ごした。
 暫くして逸が出店した神田の店は無事とわかり、年を越した。下町一帯と言っても最も火事の被害でやられたのは、隅田川の東側で、銀座あたりはその頃川も多く流れていて、猛火はそこで止まっていた。無論長屋造りの安普請は倒壊を免れなかったが。

 寒い正月だったが、工場の出初めと初荷を終えた後に貴は逸に呼ばれ目の前に座らされて、おもむろに写真を見せられた。何だこんなもん、と目をやると大変な美人である、いや可愛らしいまだ少女のような娘だった。かたわらで母親のヒロがニコニコしていた。在来の資産家で大変な山林を持つ造り酒屋の六女だそうだ。名前を静といった。
『おめーはこの娘を貰って神田に行け。』
『・・・・まあいいでしょう。』
『「まあ」とは何だ、「まあ」をとれ。』
『・・・・いいでしょう。』
『いいです。と言え。』
『・・いいです。・・』
 神田の店は当時の流行の看板建築というやつで、二軒続きで百坪のうちの表家の一階に店舗と水回り、二階が居住スペースになっていた。新婚生活は裏屋の方で始まった。貴二六才、静十九の新婚夫婦であった。ただ、貴の家系は禿頭であり既に薄くはなっていた。
 静はミッション・スクールを出たいわゆるモダンガールでもあり、しゃれた物を身につけたりお菓子を焼いたりと楽しそうにしており、貴も満足した。神田は当時は往来も多く下町の外食文化と相まって、堅苦しい嫁仕えはやらずにすんだ。
 そして年号が昭和に変わる。時代がゆっくりと変わっていった。

つづく 

藤の人々 (昭和編)

藤の人々 (終戦編)


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台湾旅情 Ⅱ

2014 SEP 7 21:21:29 pm by 西 牟呂雄

 台北で定宿にしていたフォルモサ・リージェントホテルの直ぐ向かいに、中がどうなっているかも分からないスラム地区があった。表通りに面した部分は色々な店が並んでいたが、中の方は居住区のようで怖くてとてもじゃないが足が踏み入れられなかった。
 それが都市計画により取り壊され整地されていく過程を、出張のたびに窓から見ていた。ある程度取り壊しが進んだ段階で、忽然と鳥居が見えるようになって仰天した。日本式の鳥居だ。後日分かったが、台湾総督明石元次郎のお墓で、この地に神道式に祭られたのだ。日露戦争でヨーロッパにおいてロシア工作を仕掛けた明石大佐のことである。
 ここからは伝聞だが、大陸からやってきた国民党の兵士は住むところも何も無いから、引き上げた日本人街を勝手に占拠してバラックを建てたという。神道もへったくれも無く、明石総督の鳥居を住居の柱に使ったというのだが。
 この辺の感覚が本省人(台湾人)と外省人(国民党)で大きく違っていて、政治的な話には慎重にならざるを得ない。僕の相手は本省人が多かったが、日本語の上手い奴が国旗の青天白日旗を指して言った。
「あれは国旗ではありません。国民党の旗です。私達は台湾国旗を未だに持っていないのです」
彼こそ兵役時代は金門島で大陸に対峙していた砲兵だった。この人、前回書いた大陸のミサイル発射の時も落ち着き払って
「アレ、2~3発ダフッて大陸(ダールー)に落ちる。(ゴルフのダフリの事らしい)。」
と嘯いていたツワモノである。

 烏来(ウライ)という温泉地がある。渓谷沿いの美しい景観が見られる露天風呂に浸かった。パートナーが招待してくれたのだ。タイヤルという山地系の人々が暮らす町だ。
 翌日は一人でバスで帰ることにして(僕は一人でトボトボ旅をしたい)景色のいい所で一服していたら『高砂義勇隊慰霊碑』という小さな案内に気が付いた。細い路がついていたので登ってみるとここでまた突如鳥居が出た!神社なのである。
ー高砂義勇隊慰霊碑ー
先の大戦の際に帝国陸軍が軍属を募集したところ千人の募集に40万人が応募したとされる、あの高砂義勇隊を顕彰しているのだ。一瞬、まずいものを見たような気がしたが、暫く見て廻ると日本が造ったのではないことが分かった。他に人っ子一人いない静かな静寂の中で日本語の説明文を見つけ、読んでみると驚いたことにお兄さんが戦死された地元の篤志家(女性らしい)が自力で立てた旨記されてあった。神社だから拍手を打って、何とも厳かな気分になって小道を降り、少し先にあったレストランでうどんを食べた(ニューローメンという)。キツネにつままれた、という気分で食べていると、
「日本から来ましたか」
と聞かれた。ウワァ、ややこしい話をされたら参るな、と身構えた。すると向こうから、
「高砂義勇隊記念碑に行ったか」
と言うではないか。万事休すだ。ところが、その店の従業員らしい老人は、喋りなれた日本語でおおよそ以下の事を語った。
 あの慰霊碑は地元のタイヤルの酋長(制度としては無いが伝統的な長老、英語でチーフ)が立てたが、折からのSARSで経営しているホテルが倒産しメンテができなくなった。以前は日本人観光客が大勢来ていたので日の丸をたくさん立てて軍歌を流していた(本当だろうか)。残念なことだ。
 大体そういう内容を語った。指をさした先には確かに『酋長のお店』という看板があり、タイヤルの伝統舞踊を見せていたとの事。
 その行為は別におもねる訳でもなく、頼まれた訳でもなく、必死に戦った親族を誇りを持って讃える気概を感じたのだが。これを今日の日本で考えると・・・・。そういえばテニヤン島でスニヨン(中村という日本名だったか)という旧日本兵が発見されて、台湾に帰国した際の日本政府の対応があまりにも冷淡だったことを思い出した。彼は山地のアミ族でアミ語と日本語しかしゃべれなかったため、中華民国となった故郷ですることもなく、一日夕方まで一人でぼんやりとしていたという。

 その後帰国して調べてみると、周麗梅さんという方だとわかった。僕のような人間が『有難う御座います』とか『申し訳ありませんでした』と言うわけにも行かず、せめて民進党と李登輝さんを応援しようと思った。
 人間は歳をとると『昔はよかった』と必ず言う。台湾のオールド・ジェネレーションには国民党の圧制がこたえたので日本時代が良かったと言うのかも知れない。
 一方でしかし半島ではクーデター後の戒厳令以前を懐かしむ人も日本時代を語る人も(本当はいるのだが)いない。
 これも本当の話だが、酔っ払った台湾人が目を据えて『天皇陛下はお元気か』と聞いてきたこともあった。『大和魂』とも口走ったが意味を知っていたのだろうか。

 ところでもう5年も前になるが、某放送局の『JAPANデビュー』という台湾のルポ番組を見てしまったが、あれは酷かった。何か番組の作り手の方が怖い。
 最近A新聞も何かの問題で訂正を出したというが・・。

台湾旅情 

台湾旅情 Ⅲ

台湾旅情 Ⅳ


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極秘会談 プーチンVSポロシェンコ

2014 SEP 4 12:12:36 pm by 西 牟呂雄

この対談は2014.9.4に行われた

プーチン(以下プ)「ドゥーヴロイ・ウートロ、又会えてうれしいよ。」
ポロシェンコ(以下ポ)「ハラショー、スパスィーバ。先日はどうも。そろそろ本音で話そう。」
プ「いいだろう。」
ポ「武装勢力が国境を越えて入ってくるのを止めて頂きたい。」
プ「あれは義勇兵だ。私の指揮下にない。むしろロシア民族の良心と言える。そちらこそ大っぴらな作戦行動を控えて頂きたい。」
ポ「予想通りの建前はもう結構だ。本音と言ったではないか。マレーシア機をやった時はさすがのあなたも焦ったはずだ。」
プ「そちらがやって親露派になすりつけている、という話はどうした。」
ポ「いくら何でも苦しい。全情報を開示しないで”寸止め”にしている国際社会のギリギリの努力を理解しないはずがない。あなたは日本の武道が解っているのだろう。」
プ「それでは、ロシア大統領が『ごめんなさい』等と言うことなど不可能なことも、理解しているだろう。フフ。」
ポ「EUもかなり尖がって来ている。経済制裁は本当にやるぞ。オバマも言い方がきつくなった。」
プ「フハハハ。オバマに何ができる。吼えているだけだ。EUが本当に一枚岩だとでも思っているなら甘いぞ。」
ポ「在外資産の凍結は効いているだろう。側近のオルガリヒの悲鳴が聞こえてくる。おまけにEU・アメリカの大手銀行への制裁はこたえていると聞く。物価はインフレとか。」
プ「私には一向に聞こえて来ないが。ところで今年は寒いらしいぞ。異常気象だそうだ。冬場のガスが心配なのではないのか。」
ポ「シェール・ガスが安いんだそうだ。それにどこかのタンカーがアメリカ第六艦隊と共に黒海に来たら困るでしょうな。」
プ「どこに接岸するか知らんが、いまから港湾施設を建設しようにも間に合わない。セベストボリはすでに我が領土だ。」
ポ「東部でゴチャゴチャさせて、クリミアを既成事実化した手腕には敬意を評するが、国際社会は忘れない。我々はあんな所を『くれ』等と言ったことも無い。フルシチョフが勝手にウクライナにしただけで、タタール人の国だった。開発予算を付けているそうだがペイするはずも無い。」
プ「国際社会とはEUとオバマのことか。シリアのアサド大統領は熱心に支持してくれている。ベラルーシもカザフスタンもだ。」
ポ「ほう、我が領土をシリアに例えているように聞こえるが、賢明な大統領がそんなことを言うはずはないだろうな。」
プ「まさか。ドネツクの製鉄所はロシア民間資本(エヴラズのこと)が買収しているのをお忘れか。」
ポ「せいぜい上手く経営して頂きたい。赤字続きで税金も払えない会社だったと記憶している。」
プ「さて、本音の話はどこに行ったのか。」
ポ「そろそろ痛み分けでいかないか。クリミアはくれてやる。」
プ「アメリカやEUが本当に助けに来ると思ってんのか。もう少し頭を下げろ。」
ポ「民間機まで撃ち落すマヌケを使ってるとそのうち引っ込みがつかねえ。飼い犬に手を噛まれても知らねーぞ。」
プ「だったら最初にキエフでメチャクチャをやった奴等の落とし前をどうしてくれる。あれだってロクなもんじゃないだろう。民族主義者だぁ、ナチストだろうが。よく70年も飼ってたな、発砲までしくさって。」
ポ「車両に乗せて国境越えさせているのはチェチェン人だってな。捕虜がペラペラ喋っとるわ。傭兵でも雇ってんのか。」
プ「あの美人元大統領、不正蓄財ハンパじゃねーって話だ。上前ハネたんじゃねーのか。このチョコレート野郎(ポロシェンコは大チョコレート工場のオーナー)。」
ポ「上等だ。スパイ上がりめ。干上がって泣き入れてもおせーぞ。」
プ「クククッ。干上がるだぁ。オレにゃー大好きな日本がついてんだ。」
ポ「おもしれー。中間選挙で負けたらオバマだって黙ってねーからな。」
プ「よーし、タイマン張ったろうじゃねーか。裸襟締め(柔道技)で秒殺するぞ!。」
ポ「ふざけんな。必殺のアイアン・コブラ・ヘッド(正体不明のプロレス技、ポロシェンコは巨漢)で半殺しだ。ガチンコ来るか、オラァ!」

ーこの極秘会談は全て米国NSAに盗聴されていましたが、あまりに品位に欠けるので消去されたそうですー

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台湾旅情 

2014 SEP 2 19:19:50 pm by 西 牟呂雄

 これもまた昔の話だ。台湾の総統選挙を牽制するために大陸がミサイルを台湾近海に撃ち込んだことがあった。僕はその直後に台北に向かった。今から考えると不思議だが渡航禁止も注意喚起も何も無かったのだ。1996年だった。
 これは前年のミサイル発射の際に、アメリカが空母インディペンデンスを派遣して強烈なメッセージを出し、今回も直ちに第七艦隊が配備されたので、大事には至らないだろうと思われていたからだろう。ペルシャ湾からミニッツが来る、とも言われていた。更にその後広がった噂では、中国のミサイルが空砲だったことを(本当かどうか知らないが)李登輝が諜報によって”知っていた”からだと囁かれた。
 台北訪問の目的は現地の企業との提携交渉で、ほとんど合意に達しており現地の弁護士と打ち合わせをした後はサインを交わすだけだったので、気楽とは言わないがいつもよりは足取り(飛行機だから飛び取り?)は軽かった。それが乗客は物凄く少なく、座席が1列に3人くらいしかいない。皆ビビったかとせせら笑ったものだったが、今ではそうも言ってられないだろう、ウクライナの事もあるし。
 着いた日に提携相手とメシを食いに行ってただ事ではないと思い知らされた。普段はネオンギラギラの台北の街が暗い。英語の上手い洗練された台湾人が、乾杯の時にグラスを挙げて言った言葉。
「こんな時に約束通りに来た日本人の勇気に感謝する。」
「!」
最早『そんなつもりでは・・・』等と言えなくなってしまい、僕自身は絶対に役に立たないくせに、
「心配ない。第七艦隊(アメリカン・セヴンス・フリート)とウィ・ジャパニーズ・アー・ナウ・イン・タイワン。」
と口走った。これが効いたとも思えないが、大変スムースに合意に達することは出来た。
 台湾は人口2千万しかいないのに国是として大陸に対峙しているから国民皆兵で、彼らは全員兵役をこなしている。そして本当にドンパチが始まると予備役招集されると言うのだ。何と先方の責任者はかの金門島の砲兵で時報代わりに空砲をブッ放していたそうな。
 帰りの便は、来る時とは逆に台北から帰国するアメリカ人やアジア人・日本人で空港はゴッタ返し、帰国便も満員だった。

 その後も何度も行き、南国らしいトロピカルな雰囲気と人懐こい人達にすっかり台湾贔屓になり、台湾内は一人でも電車・バスで十分移動できるようになる。新竹(チンチュウ)という街は台湾のシリコン・バレー等と言われ、米国と直結したファウンドリーと言われる受託産業が独自に発達していた。そして次々に新しい会社ができたり売却されたり、と活発だった。
 台湾式経営という訳ではないが、バランス・シートを安定させてキャッシュを確保する堅い経営と旺盛な独立心が特徴的で、人口2000万人に当時70万人の社長がいると言われていた。韓国と違うのは、分厚い中小企業が中核を支えているところだろうか。このスタイルはアジア通貨危機の時に圧倒的に強みを発して、NT(台湾ドル、しかし圓と表示されている)はむしろ円にリンクして暴落しなかった。
 一般に親日的と言われているが、産業構造も日本と競争するより上手く棲み分けているように感じられた。即ち材料は日本から、加工・組立は台湾で、といった具合だ。

 台北や高雄の屋台風外食もおいしいが、『素食』という看板の食堂のようなものがある。入るといろんなおかずが大皿にいくつも盛ってあり、一人一人好きなものを少しづつ取っていく。ビュッフェ形式のようだが会計のところには量があり、それに乗せた時の重さで料金を決めるシステムで、これがうまい。繁華街に『四川料理』『潮州料理』『北京料理』『広東料理』といった立派なレストランも充実しているけれど、僕は一人の時は素食を好んだ。もっとも中には材料を見せている棚にカエルがぶらさがっていることもあったが・・・・。
 台北の林森北路(リン・シン・ペェ・ルー)という一角は日本人が多くカタカナのネオンだらけだったので、僕はあまり近寄らなかった。
 
 台湾オリジナル言語はミンナン語と言ってどうやら福建系のチャイニーズらしいが、国民党が来てマンダリン(北京語)が入った。一党独裁時代はミンナン語は禁止され、僕と同世代くらいの人間は教室に憲兵がチェックするため入ってくる経験をしている。この戒厳令時代の歴史的葛藤は今でもある程度続いているものの、ここでは政治的評論は避けたい。現在は民主化もされて選挙は行われる一方、大陸との関係は緊張感が続く。
 それとは別に山地のオリジナル言語、漢語とは別で南方系の言葉もある。しかし文字がないために記録が残らないようだ。他に客家語その他。台湾人パートナーがレストランの隣の客が喋っている(中国語っぽい)言葉が分からない、と言うのでビックリしたことを覚えている。
 従って彼等の他国語に対する感性は敏感で、ビジネスマンは英語が上手いし、アメリカへの留学者も多いと聞く。ただ、留学生は徴兵免除になるから、と当時は噂された。
 
 総じて中国の台頭により国際的に孤立しがちな彼等は、ビジネスの上ではいじらしい程誠実だった。

 つづく

台湾旅情 Ⅱ

台湾旅情 Ⅲ


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