Sonar Members Club No.36

月別: 2015年3月

South Bound Train (サウス・バウンド・トレイン) クロスビー&ナッシュ

2015 MAR 6 22:22:58 pm by 西 牟呂雄

 微笑ましい映画『小さな恋のメロディー』で流れた『Teach your children』や『青い目のジュディ』で知られるクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング。僕らの世代にはおなじみのアコースティック・グループだった。しかしあれだけの個性ではまとまってやってはいられないだろう、パッと解散してしまった。その中でデビット・クロスビーとグラハム・ナッシュは気が合っていたらしく二人ユニットでアルバムを出している。yjimageCALS3SG1 
 デビッド・クロスビーはバーズのオリジナル・メンバーで、曲中のサビのテナー・ハーモニーをやっている人。風貌は元ヒッピーの明るいオヤジという感じで、今ではハゲてデブになってるだろう。
 グラハム・ナッシュは英国人でこちらはまた懐かしいホリーズ。英国は後にハード、パンク、ヘヴィに進化するが、ヒッピー・ムーヴメントの頃はこういう輩もいたのだ。
 
 僕はどういう訳か、この二人で出した『サウス・バウンド・トレイン』が好きでいまも口ずさむ。メロディーと相俟ってが歌詞が泣けるんですな。
 この歌のサウスはディキシー、アメリカ南部(南北戦争で負けた方)と解釈している。この語感がピッタリくる日本語はふるさと。東京に上京して酷い目に会うモチーフは、南部のアンチャンがニューヨークで挫折する『真夜中のカウボーイ』的世界とシンクロする。それでかわいらしいお嬢さんとイイ感じになって振られればそれなりの小説一丁上がり。ちまたにそういう私小説が多いのは、最初から根性据えて女を食いもんにしようとしてその通りやった奴は、その経験を小説になど書きゃしないからだ、いや恥ずかしくて書けない。ついでに言えば同じように小説にしにくいのはバンカラもの。
 このディキシーに対する北部のことをヤンキーと言うのだが日本では別の意味になった(チンピラに)。
 余計な寄り道だったが、この歌を八代亜紀が日本語で歌ったらどういう歌詞になるか。いつものオチョクリじゃなくて真面目にやってみた。クリックして聞きながら読んでみてください。

Liberty, laughing and shaking your head
自由!   笑って  首を  振れ
Can you carry the torch that’ll bring home the dead?
亡き人 を  故郷(クニ)へ  連れてけよ
To the land of their fathers whose lives you have led
かつて   たどった  父祖の地 へ
To the station at the edge of the town
街はずれの駅 へ  送る
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車に

Equality, quietly facing the fist
平等!   最初に 気が付いて
Are you angry and tired that your point has been missed?
怒った   ことを    忘れてないか
Will you go in the backroom and study the list
昔の   リスト   見てみろよ
Of the gamblers using the phone
博打ウチ  が   綴ったアレ
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車よ

Fraternity, failing to fight back the tears
仲間!     泣くのを   こらえろよ
Does it take an eternity breaking all the fears?
永遠に    怯えて  暮らすのかい
And what will the passenger do when he hears
過ぎ去る者が  聞いて   どう思う    
That he’s already paid for the crown
亡きひと  は 割りに  合ったんだと       
On the southbound train going down
ふるさと   への     汽車で

 お聞きになって分かるかもしれないが、これにモロに吉田拓郎&ムッシュかまやつ が歌った『シンシア(南さおりに捧げる歌)』が被る。やったに違いない。拓郎は『春だったね』はボブ・デイランのパクリだったのを認めている、散々言い訳した後で「まっ真似しましたね。」と言っていた。まっ気付いてましたけどね。

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酒 考(反省)

2015 MAR 4 22:22:00 pm by 西 牟呂雄

 小倉のバカ飲みの言訳ではないが、今では生活の一部と言っていいだろう。『酒』である。
 そもそもウチの家系は父方も母方もまるで優性遺伝でもするように血の繋がっている者は例外なく酒が強く、且つ好きである(男女問わず)。僕の酒癖の悪さは何度かブログでも紹介した(小倉分含めて)。そして色々なことに巻き込まれているが、僕以前に親族が若い頃にやらかした恐ろしい話はいくらでもある。幾つか証拠を挙げてみよう。
・ 泥酔して本郷の交番にストームをかけて保護されたがお巡りさんが名前を誤記して無罪放免になった。
・ 酔っ払ったその日に国電の大事故があり、家族が死体安置所にまで行った頃朝帰りした。
・ 京浜東北線で寝込み2往復した。
・ 常磐炭坑節をがなりながら某ターミナル駅前の交番で保護されていた。
・ アメリカ出張の際にお土産に買ったはずのウィスキーを飛行機で全部飲んでしまった(3本?)。
・ 朝起きたら会社の前に停まっていたトラックの荷台で目が覚めた。
これらは1960年代に目撃された事例だ。
 尚、当時の戦後社会もそういう風潮ではなかったか。小林秀雄の伝説に『酔っ払って水道橋のホームから落下したが(高架で結構高い)無傷だった』『鎌倉で待合だと思って上がりこんで酒を飲んでいたら人の家だった』といった類の話が英雄譚的に伝えられている時代だ。

しかし時代を越えて
・ 新宿西口交番でゲロまみれになって保護されたが、あまりの悪臭に交番の外に座らされた。
・ マンションのエントランスで発見されたが完全に意識がなく、どこの誰だか分からず放置された。
・ 本人から『いくら歩いてもウチに着かない。どうなってるんだ。』と携帯から電話が入った。
といった報告が現役から来ている。僕の話じゃないですよ、念のため。

 概して一族は明るい酒で、何かの折に一族が集まって飲み始めると何が楽しいのか『ウワハハハハ』『ガハハハハ』といった荒々しい笑い声が響き渡る。冠婚のときの親族の席は一際目立つ。半世紀も前の事、家で宴会が始まると当時は日本酒をいちいちお燗していたから母親が席の暖まる間もなく、お銚子を並べたお盆を持って台所と何十往復もしていた。座敷の壁際に空いた一升瓶がズラーッと並んで行く。僕はそのたくさんの一升瓶を並べたり転がしたりして遊んだ。
 既に小学校には上がっていたかと思うが、子供心に『オトナは宿題やれ、とか早く寝ろ、とか言われないであんなに楽しそうに酒という物を飲んでいる。早くオトナになってああやってみたい。』と思い、その酒というものはああやってガバガバ飲むもんだ、と刷り込まれた。どちらも大間違いだったのだが。
 こっちは実際に見たことないが、母方の祖父が義弟達を集めてやる酒宴も物凄いモノだったらしい。手元が狂って女学生になりたての僕の母親が床の間まで吹っ飛んだ話は一度書いた。それどころじゃない、床の間に活けていた花を酔っ払って食べてしまったり、みんなが被って来た帽子を重ねてパンチで底を抜いたり。こういう人々が高級官僚だったり海軍軍人だったり、果ては裁判官までいたのだから恐ろしい。

  長じて最も反省させられるのは、キリがないことだ。僕は酔ってくると物凄く早口になるらしい。後から考えるとその時点で意識は飛んでいるから何を喋ったか忘れるのだが、周りには泥酔していると気づかれない時間があってやっかいだ。物を忘れることも多すぎる。先日も携帯を失くした。
 しかしあの痺れるような味がする飲物があったとしても全く酔わなければあんな量を飲み干すことはできないだろう。目下の心配は『自分』まで失くしてしまい、そのまま頭でも打ってアルツハルマゲドン状態になってしまうことか。
 先日都内某所で今から35年から40年前のバカバカしい行状を白状して笑われた。まぁ実際当時ですら『オレはもしかしたらヘッポコ探偵小説の主人公なのではないか』とため息をつくような暮らしをしていたっけ。翌日さすがに『昨日の話は全て消去、デリート、あれはウソです。』と言ってみたけれど。ドルフィンの皆さん信じて下さい、あれはウソです。

 気が付けば今夜も酔いの中・・・・。いやだな。

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国境を考える 

2015 MAR 3 4:04:07 am by 西 牟呂雄

 地続きの隣国がない日本では国境はすべて海のため、イザ国境と言われても実感は薄い。厳密に言えば戦前の南樺太にあったり、往年の満鮮国境もしいていえばそうなんだが、いささか差障る上に遠い昔でもあるため、今の我々に緊張感が刷り込まれるに至っていない。
 突然こんなことを言い出したのは、やはりⅠSであり、ウクライナ問題だ。
 ISは砂漠地帯の街を武力で制圧し『点』を支配して国家を名乗っているに過ぎない。ウクライナの方もロシアとの元々の国境を易々と越えてきた武装部隊が要の地点に攻撃を仕掛ける。元々の国境は今頃どうなっているのやら、シリア・イラク・東ウクライナの人々が逃げ出せばそれは政治難民にされてしまうのだ。こういう現実を見てしまうと、一つは国民を外からガードするための機能、もう一つは国民を囲い込む機能の両面を持っていることが分かる。具体的にはかのベルリンの壁とか古くは万里の長城が象徴的だ。

Imagine there is no Country とジョン・レノンが歌ってから随分経つが、それどころじゃない。

 硬い話はさておき、日本から他国を見ることはできる。見たことは2回、国後島と朝鮮半島だ。国後島はあまりの近さにややロシアの悪意を感じ、半島は稜線がボウッと見えたくらいの遠さに返って溝の深さを実感した。もう一つ与那国島から年数回台湾の高地がうっすら見えるらしいが、行ったことはない。台湾の山は高いので思ったより大きく見えるらしい。
 対馬で驚いたのは海上自衛隊の基地(小振りだが)に行った時のことだ。その直ぐ隣に韓国資本のホテルがあって焼肉ガーデンが有り、基地のフェンスがまるで『あっちの方が日本です』といった錯覚を起こさせた。事実物凄い韓国人観光客で、飲み屋のオヤジはウォン札を受け取ってもいた(ナイショ)。
 多少世界をうろついたのだがヨーロッパ経験はあまりないので、自分の足で国境を越えるという経験は少ない。一番呆気に取られたのはカリフォルニアでメキシコの町ティワナに行った時か。車で料金所を通る感じでホイッと入国できた。帰りもトランクを開けただけ。これじゃ麻薬密輸も不法移民もなくならない訳だなと感慨深かった。北米ではカナダも似たようなものだった。アラスカとカナダの国境あたりもまず人なんかいないだろうからどうやって管理しているのか。
 そう言えばマレーシアとシンガポールの橋上の国境もどうってことなく、シンガポールで販売が禁止されているチューイン・ガムとかタバコを皆買っては持ち込んでいた。

フラッグ・セレモニー

 不仲で有名なインドとパキスタンの国境の町では、国旗を降ろす際フラッグ・セレモニーとして大観衆の中、儀仗兵が対峙してゲートを閉じる。あれは夜ずっと閉鎖するのだろうか。互いに相手を威嚇するパフォーマンスが見ものらしい。写真で見る限り、あれぞクニザカイという雰囲気がする。平野の真ん中に国境線が出来たために(パキスタン分離までは同じ国)あのようなセレモニーが発達したかとも思う。行ってみたい国境だ。

 国境とはつまるところ税金の分水嶺ともいえる。そしてそれを線引きする国防の最前線に当たる。
 他に言語・民族・宗教と色々あるが、広い意味でそれらは今日では入り組みすぎてはっきりと線引きできない。エイヤッと線引きできるのはイスラエルとパレスチナくらいか。
 

アソール公爵居城 ブレア城 

 先般住民投票で危うく独立しかけたスコットランドなど、まかり間違って決まった場合の国境線は暗黙の内に決まっていたのか。土地所有者や幹線を外れたエリアの関税管理などはどうするつもりだったのだろう。
 もっともスコットランドとイングランドは戦争までやったのだから、勝ったり負けたりではっきりしているのかもしれないが。通貨も発行している。
余談だが、皇太子時代の昭和天皇の訪英の際に滞在したスコットランドのアソール公の広大な領地等は今でも健在で、王室から300人の私兵を許されている(アソール・ハイランダース)など独立の気概も十分なのか。その時のお別れ舞踏会には野良着のまま参加した地元のオッサンが公爵夫人の手を取り、アソール公はオバサンと踊ったのを見て、日本側は腰を抜かしたという話が伝わっている。

 クニねぇ。国境について考えてみるとしよう(バトル・フィールドは止めておきます)。

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