Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 国境

国境を考える Ⅲ

2015 MAR 15 15:15:24 pm by 西牟呂 憲

 国境とは税金を取っていい範囲。すると国の中にあっても税金を払わない所は国家に守ってもらえない。最低限のナントカ税を払ってまるで独立した国家の様な組織を樹立するのは、オウムが思い出されてはなはだよろしくないが、ISもそんなもんだろう。国境も何も従わない者は排除する原理だ。あのN田という人は研究者なんだろうが、一度は兵士を送り込みかけたこともあるヤバい人でしょう。ISとの窓口になんかなるようなことを言っていたが、そんなペースに乗ったら明らかに国益を損なうんじゃないのか。公共の電波に載せたり出版物を出すのは理解に苦しむ。マッ報道・表現の自由なんですがね。

 もうちょっと穏健な例を挙げればアメリカで自給自足で暮らすアーミッシュがそれだ。ルター派のクリスチャンなのだがチューリッヒで発生した後ドイツに移住、その後アメリカに移民してペンシルバニアやカナダのオンタリオに約20万人いる。言葉も英語ではなく、ドイツの方言を話していて一般のアメリカ人とは交流しない。兵役も拒否しているのじゃなかったか。固く信仰を守り(一部観光化しているところもあるらしいが)基本は『何事も変えない』こと。電気もガスも車もない。多少の経済活動はあるものの、消費もしないで自活しているから税金の取りようもない。こちらは徹底した平和・非暴力主義なのでオウムのようなことにはならないが、国に頼らず何でも自分でやるからサービスを受ける必要もない。今頃でもインターネットなんかを拒否して暮らしていることだろう。
 それはそれでいいのだが、今日のように下手にテロリストが侵入したりすると。その時は警察権によって守ってもらうことになるのか、火縄銃で戦うのか、心配の種は尽きない。これ大いなる矛盾を孕んでいる。

 

 人口学者のエマニュエル・トッドの言説によれば、隣接する国家同士は必ず比較優位差が発生し一方から収奪されることになるらしい。トッドはTPPによる経済の囲い込みに異を唱えている学者で、その文脈からEUの将来の分裂を予想している。僕もEUはどうも危ない気がするのだ。某国のように借金だらけになって、あとは知らん、とやったら50年前なら戦争だったろう。
 少し北に登ってウクライナでは、ガス代払うの払わないのからモメはじめ、キエフ中心部で百人単位で狙撃したのはウクライナ右派。そこから本当に戦争になった。

 どこでもそういった過去の経緯に加えて歴史じゃ宗教じゃ資源じゃマーケットじゃと縺れまくって国境線が引かれる。

 中村兄の直線国境の考察を読んで、カナダーアメリカ国境というのはまぁまぁスマートな引き方だと思った、ネィティヴ・アメリカンの都合は誰も考えなかったが。それでいて昨今の二国間協定の結果カナダはボロボロにされっぱなしだと考えれば先述の比較優位差理論も頷ける。反対側のメキシコは同じようなことになってもっと酷い。
 それでは国境線のない我が国の隣国とは・・・。僕は半島・大陸に深入りするのに慎重派故、ハワイあたりでアメリカさんと馴れ合っているくらいが一番良さげかとも思う。もう一つ意外と近いロシアという手もある。実は中国は日本海には面していないのですぞ。

 いくら何でも今更まさかの鎖国はできっこないし・・・(移民も反対なもんで)。
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国境を考える Ⅱ

2015 MAR 8 11:11:04 am by 西牟呂 憲

 国境に思いを巡らせていると、死ぬまでに行って見たいなぁと思う所がある。国境線は様々な歴史的背景があり、時に大国の思惑でメチャクチャなことにもなるのは、先般の特集『第一次世界大戦を考える』で中村兄が詳述していた。そう遠くもないところに38度線もある。  
 

カリーニングラード

 カリーニングラード(旧ケーニヒスベルグ)をご存知か。現在ではポーランドとリトアニアに鋏まれた200平方キロ程度の地域だが、ロシアの飛び地なのである。元々はドイツ騎士団が入植した港湾都市だった。ハンザ同盟所属の貿易都市としてスタートし、様々な紆余曲折を経た後プロイセン王国発祥の地となり、ドイツ帝国の一角としてケーニヒスベルク大学を中心に文化都市として発展した。『純粋理性批判』のイマヌエル・カントや数学者オイラーはここの出身なのだ。
 それが例の第一次世界大戦でドイツがコケてしまい、ドイツの飛び地になっていた。その後はご案内の通りの二次大戦でソ連のフロントとなり、更にソ連がパァになった時点でバルト3国が独立すると今度はロシアのまま取り残される。ドイツ系住民はスターリン得意の強制移動によりとっくにいない。おかげで引き取り手の無いお荷物になり、本国への移動もままならぬまま一時は無法地帯のような犯罪の温床だったそうだ。そんなことってあるのか。
 今は多少は良くなったと言われる。それはプーチンの前妻がここの出身だったからだ。そのおかげか、それなりの金を投入したそうだが、このかつての文化の都がゴミ扱いとは情けない。
 一度行って、そこの無粋な国境線を見てみたいものだ。都市部は戦争で破壊されつくして昔の面影は無いのだそうだ。

 飛び地といえば、英国は島国ではあるが大陸のジブラルタルがそうだ。残念ながらここも行ったことがない。ヨーロッパ側が英領ジブラルタルでアフリカ側はモロッコなのだが面白いことにスペイン領セウタの軍港が未だにある。この辺はハンニバルの昔からイスラムの侵攻やら大航海時代の経緯やらの長い歴史で複雑になっている。効率は恐ろしく悪いだろう。

だからといって、取替えっこしよう、とはならないのが国際関係の厳しいところなのだ。しかしつい最近クリミアやウクライナでいとも簡単に国境が変わるのを見れば緊張を解くことはできない。
 このこと、平和の国日本でありつづけるためにも十分認識しておかねばなるまい。
 ところでヨーロッパ経験の豊富なSMCの諸兄はカリーニングラードやジブラルタル、セウタに行かれた方はおられるか。是非その印象をお知らせいただきたい。

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国境を考える 

2015 MAR 3 4:04:07 am by 西牟呂 憲

 地続きの隣国がない日本では国境はすべて海のため、イザ国境と言われても実感は薄い。厳密に言えば戦前の南樺太にあったり、往年の満鮮国境もしいていえばそうなんだが、いささか差障る上に遠い昔でもあるため、今の我々に緊張感が刷り込まれるに至っていない。
 突然こんなことを言い出したのは、やはりⅠSであり、ウクライナ問題だ。
 ISは砂漠地帯の街を武力で制圧し『点』を支配して国家を名乗っているに過ぎない。ウクライナの方もロシアとの元々の国境を易々と越えてきた武装部隊が要の地点に攻撃を仕掛ける。元々の国境は今頃どうなっているのやら、シリア・イラク・東ウクライナの人々が逃げ出せばそれは政治難民にされてしまうのだ。こういう現実を見てしまうと、一つは国民を外からガードするための機能、もう一つは国民を囲い込む機能の両面を持っていることが分かる。具体的にはかのベルリンの壁とか古くは万里の長城が象徴的だ。

Imagine there is no Country とジョン・レノンが歌ってから随分経つが、それどころじゃない。

 硬い話はさておき、日本から他国を見ることはできる。見たことは2回、国後島と朝鮮半島だ。国後島はあまりの近さにややロシアの悪意を感じ、半島は稜線がボウッと見えたくらいの遠さに返って溝の深さを実感した。もう一つ与那国島から年数回台湾の高地がうっすら見えるらしいが、行ったことはない。台湾の山は高いので思ったより大きく見えるらしい。
 対馬で驚いたのは海上自衛隊の基地(小振りだが)に行った時のことだ。その直ぐ隣に韓国資本のホテルがあって焼肉ガーデンが有り、基地のフェンスがまるで『あっちの方が日本です』といった錯覚を起こさせた。事実物凄い韓国人観光客で、飲み屋のオヤジはウォン札を受け取ってもいた(ナイショ)。
 多少世界をうろついたのだがヨーロッパ経験はあまりないので、自分の足で国境を越えるという経験は少ない。一番呆気に取られたのはカリフォルニアでメキシコの町ティワナに行った時か。車で料金所を通る感じでホイッと入国できた。帰りもトランクを開けただけ。これじゃ麻薬密輸も不法移民もなくならない訳だなと感慨深かった。北米ではカナダも似たようなものだった。アラスカとカナダの国境あたりもまず人なんかいないだろうからどうやって管理しているのか。
 そう言えばマレーシアとシンガポールの橋上の国境もどうってことなく、シンガポールで販売が禁止されているチューイン・ガムとかタバコを皆買っては持ち込んでいた。

フラッグ・セレモニー

 不仲で有名なインドとパキスタンの国境の町では、国旗を降ろす際フラッグ・セレモニーとして大観衆の中、儀仗兵が対峙してゲートを閉じる。あれは夜ずっと閉鎖するのだろうか。互いに相手を威嚇するパフォーマンスが見ものらしい。写真で見る限り、あれぞクニザカイという雰囲気がする。平野の真ん中に国境線が出来たために(パキスタン分離までは同じ国)あのようなセレモニーが発達したかとも思う。行ってみたい国境だ。

 国境とはつまるところ税金の分水嶺ともいえる。そしてそれを線引きする国防の最前線に当たる。
 他に言語・民族・宗教と色々あるが、広い意味でそれらは今日では入り組みすぎてはっきりと線引きできない。エイヤッと線引きできるのはイスラエルとパレスチナくらいか。
 

アソール公爵居城 ブレア城 

 先般住民投票で危うく独立しかけたスコットランドなど、まかり間違って決まった場合の国境線は暗黙の内に決まっていたのか。土地所有者や幹線を外れたエリアの関税管理などはどうするつもりだったのだろう。
 もっともスコットランドとイングランドは戦争までやったのだから、勝ったり負けたりではっきりしているのかもしれないが。通貨も発行している。
余談だが、皇太子時代の昭和天皇の訪英の際に滞在したスコットランドのアソール公の広大な領地等は今でも健在で、王室から300人の私兵を許されている(アソール・ハイランダース)など独立の気概も十分なのか。その時のお別れ舞踏会には野良着のまま参加した地元のオッサンが公爵夫人の手を取り、アソール公はオバサンと踊ったのを見て、日本側は腰を抜かしたという話が伝わっている。

 クニねぇ。国境について考えてみるとしよう(バトル・フィールドは止めておきます)。

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第一次世界大戦を考える オマケⅣ 

2015 FEB 18 20:20:26 pm by 西牟呂 憲

 第一次世界大戦について、日本が青島のドイツ軍を攻撃・占領してドイツ軍捕虜が松山に収容され、国内で初めて第九の合唱が歌われたりパンを焼いたりしていたことは一度書いた。バームクーヘンの『ユーハイム』やハムの『ローマイヤ』等のルーツはこの時のドイツ人捕虜が解放後始めたものとして知られる。
 ところでその時戦場となった大陸は既に中華民国であった。中華民国は正式には中立を表明してはいたが日英独が交戦状態になってしまったため(いい迷惑ではあったろうが)交戦地域の設定やら青島関税権の帰属やらの面で散々モメることになる。
 この中華民国という国は初めから最後まで(台湾を占拠するまで)実にまとまりのない奇怪な国家で、国父孫文は健在でありながらも大統領は袁世凱で、既に軍閥も跋扈していた。誰と交渉していいやら、合意できても実施されないやらで、ついに1915年1月の二十一箇条要求になる。あまり頂けないが当時の国内の報道では『堪忍袋の緒が切れた』となっている。しかしこれがドサクサまぎれに作った感が拭えない言いたい放題の代物ではあるが、一方で世界戦争の帰結も分からない為ますます複雑な交渉になった。日中ともドイツが勝ったら誰が負担するか等の保険をかけたというわけだ。
 袁世凱は伝統的な『夷転がし』のあの手この手を使い、秘密条項をリークするなどして民意を煽り抵抗運動が起こる(起こす?)。終いには手に負えなくなって逆に最後通牒を突きつけて欲しいと言ったとか言わなかったとか。まがりなりにも戦時にも拘らず延々四ヶ月かけて十六箇条を締結する。この話が不思議なのはその時点で門戸開放を声高に主張していた米国すら「中国側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた。」(反日で有名な駐北京公使ポール・ラインシュの国務省への報告)と言っていることである。
 ともあれ1916年に袁世凱が死亡し、段祺瑞の政権ができると1917年にはアメリカにそそのかされるようにドイツに宣戦布告し、ヴェルサイユ条約を批准こそしなかったが和平会議には出ている。
 その後シベリア出兵とか満州界隈のよろしくない方向に向かってしまったのはご承知の通り。悪名高い関東軍がわずか6個大隊と1個師団で旅順に設置されたのが、大戦後の1919年のことだった。

 さーて100年前のこの状況を見るにつけ、大陸がグチャグチャになることが分かっていながら深入りするのは愚の骨頂と言えるのではないだろうか。『太平洋を分けて管理しないか』とは冗談にしても言う方も言う方だが聞き捨てならない話ではある。万が一そうにでもなったら邪魔なのは世界にただ1国。官民挙げての反日プロパガンダが大きくなってきたら、脇を締めて裏で手を結ばれる前に後ろを固めるとか、一枚上手の外交力を持つべきと思われる。又、集団的自衛権の話もその中でしっかり詰める。
 少し前の日系企業打ち壊しデモなんか明らかな官製であり、マイク・ホンダのイアンフ・キャンペーンも同様の(コリア側面サポートの)威嚇ではないか。領海侵犯なんかいつの間にか日常茶飯事にされてきている。こういうときこそ身を引き締め同盟を強化する。
 アラブの春はどっかに行き目に余るISの傍若無人振り。ヨーロッパはテロだらけ。大国の首脳が四人で合意してもウクライナの銃声は止むかどうか。一人だけ『私達は平和で後知らない』では済まされないと気を揉んでいる。
 
 友好は目的ではなく結果だ

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第一次世界大戦を考える オマケⅢ 

2015 FEB 9 21:21:07 pm by 西牟呂 憲

 実は日本は第一次世界大戦中は大戦景気に沸いたものの、その後は不況と共に孤立していく。経済のリセッションは循環的に起こり得るのだが、国際社会の荒波に飲み込まれてしまった感がある。一言で言えばアメリカの巨大化と中国の大混乱に挟まれて身動き取れなくなった。これは実に示唆に富んでいるのではないだろうか。100年後の今日も似たようなことになっている。
 この間何が変わったのかを見ようとすると失敗する、何が変わらなかったを見るべきだ、という仮説を立ててみた。そう考えて今後の日本の方向をゲーム理論でよくやる利得表を作って計算してみると➀江戸システムとでも言うのか武装・鎖国 ➁核武装後グローバル展開 の二つが均衡した。どちらも現実味はないがこの結果は、今後大陸・半島には絶対深入りせずにアメリカの顔を立てつつ利用する、と解釈できないか。
 それにしても『今』から歴史を見るのは限りなく空しい。この百年でそんなに人間がバカになったり利口になったりするはずがないではないか。先ほどの仮説はただの例え話として、日本の常識ってものが有ると考えるのだが。
 昨今日本の右傾かをどうこう心配する旧革新がいるが、よそのクニに戦争しに行くなんてことは絶対に無い。半島・大陸はそういい立てるのが国是だから放っておけばいいが、日本の国会議員が声を上げて心配して見せるのはいかがな見識か。
 
 往時茫々・閑話休題。100年前の戦争が終わった1918年には立憲政友会の原内閣ができた。政党内閣がその頃に始まったのだ。夏には米騒動があって鈴木商店が焼き討ちに合っている。大正7年である。
 又、この年の10月に武者小路実篤が宮崎県の外界から遮断されているような場所に新しき村を造っている。この思想的背景は複雑でとても書ききれないが『階級闘争の無い社会』で自活することを考えたとされている。375px-Atarashiki-Mura_in_1919[1]
 今の若い人は武者小路実篤を読むのだろうか。中学の時に読書感想文を書けという、確か夏休みの宿題で『友情』を読まされた。同級生の女の子が大変立派な文章を書き驚いたことを覚えている。僕ときたら、あまりの退屈さに『金持ちのインテリというものは恋愛くらいしかすることが無いんだろう』と思っただけだったが、まさかそう書く訳にいかず。石膏のマスクを叩きつけるシーンについてマヌケな考察をしただけだった。だが短編は好きでよく読んだ。
 あの新しき村は金持ちがヒッピーごっこをやるみたいなものと思ったら失礼か。
 ところが、その活動は今日まで続いているようである。埼玉県の山奥で十数人が農業をやっているそうなのだが、一度訪ねてみたい。百年経った新しき村が古い村とどう違うのだろう。

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第一次世界大戦を考える オマケⅡ

2015 FEB 5 19:19:15 pm by 西牟呂 憲

 アンザックをご存知か。激戦地から遠く離れたオーストラリア・ニュージーランドの両国が当時の宗主国の英国軍を応援する為に編成された合同軍である。この部隊はオスマントルコとのガリポリの激戦に投入されるが結果はコテンコテンに負ける。
 しかし独立戦争等を経験していない南半球の英語圏はこのアンザックに特別な思いを馳せている。つまり誇りを持っているのだ。歴史的には1901年に事実上の独立はしたものの、スタートは流罪植民地だったので(当初の英国移民の7割程度)なかなか『国民』という概念が醸成されなかった。今でもオーストラリア英語はロンドンのコクニィ言葉(マイ・フェア・レディのヘップバーンが喋るやつ)に近い。
 そこへ大戦争が始まったので英国から応援要請が来た。張り切ったか嫌々だったかは知らないが急遽部隊を編成して遠くまで行ったのである。今日でもガリポリの激戦は語り継がれていて、アンザック・ディは国民の数少ない祝日となっている。
 ところが、大戦時点の海上防衛及びこの兵員の中東への輸送に日本海軍が関わりがあることはあまり知られていない。当時はオーストラリアの海軍力は弱く、一方ドイツ東洋艦隊が青島にあり、仏領パペーテの砲撃等で南太平洋をおびやかしていた。それを追っ払ったのが日本海軍である。東洋艦隊はその後チリ沖で英国艦隊を破るなどチョロチョロして全滅するが、開戦時点ではオーストラリアの潜在的脅威にはなっていたのだ。
 当時まだ日英同盟があり、こういうのが同盟の誼とでも言うのだろうか、オーストラリアでは次の大戦までの間は対日感情が非常に良かったのだ。ただ白豪主義は続けていたが。
 吉田俊雄という人がおられた。この方は明治生まれの海軍兵学校59期卒業。兵学校卒業の遠洋航海で1930年頃(還暦の我々の父母が生まれた頃か)シドニーに入港して大歓迎を受けている。折りしもアンザック・ディに当たった日の新聞報道を和訳されているので引用しておく。
「日本人は義侠心に富んでいる。友情のためには、尊い命までも賭けて戦う。われわれアンザックを、海路はるばるガリポリまで安全に護送してくれたのは日本である。敵国であるドイツ軍艦の出現に、遠くこの地にまで駆けつけてきて、われわれに安眠をとらせてくれたのも、日本の軍艦であった。その日本の練習艦隊=平和の使節が、いま、わが豪州を訪れている。かれらを歓迎するのは、われらの義務というより、むしろ権利である。」
ひっくり返るような賛辞である。また、町を歩いていて老紳士から
「Oh my old fellow! I’m ANZAC(アンザアクと発音する)。」
と肩を叩かれた思い出も記している。

 この話は麗しいのだが、ついでに昨今議論される集団的自衛権もじっくり噛み締めたい。となりの部隊が攻撃されて知らん顔をしたらば大変なことに。自国防御の集団的自衛権はあるに決まってるが、さてヨソの領土まで行ってしまうと・・・。

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第一次世界大戦を考える オマケ 

2015 FEB 1 13:13:33 pm by 西牟呂 憲

 オスマン帝国が参戦しなかったらどうだったのだろう。中東の強国だったトルコも大戦に負けてすっかりいけない。ここである仮説を考えたのだが、例えばスペインのフランコ将軍のように大戦が始まっても宣戦布告せずに知らん顔を決め込むことをしたらどうだったのだろうか。無論歴史にIFはないのだが、本テーマである100年前の教訓をどう今日の日本に生かすか、という意味である。

 オスマン帝国はクリミア戦争に巻き込まれたあたりからケチがついた。なにしろ首都の直ぐ近くでドンパチやられたので堪らない。この戦争は最後どっちが勝ったのか良く分からないのだが、産業革命を経験した英・仏にトルコが『舐められた』形跡がある。続いて露土戦争で大負けして益々ヤバくなる。その後必死に改革をするのだが、どうも国家というものはある分岐点を越えると激しい内戦でもやって生まれ変われないとダメになる『タイミング』があるようだ。それは周りの国との比較優位の差が限界を超えるポイントがあると考えられる。青年トルコ革命による立憲化までやり大戦前年にクーデターまでやったのだが、いかんせん少し遅かったか。もう少し早ければ国力を蓄えられたかもしれない。又、地理的にヨーロッパに近く大国ロシアも控えている。『スラヴ民族の救済』これ、プーチン大統領が言ったのではなく1800年代末のスローガンだ。今のウクライナで親露派が言っていることと同じだ。そしてクリミア半島。100年前まで居住していたタタール系はその後の強制移住で今や少数だ。

 さてあっという間に世界中を巻き込んだ戦争の当初、トルコは親獨的中立だった。しかしドイツにそそのかされたのか露土戦争のお返しなのか、10月末にクリミアを砲撃する。将に火蓋を切った感じだ。それから1915年内まで押しつ押されつで膠着しながら、ダーダネル海峡・ガリポリの戦いと良く踏み止まる。
 筆者の考えではせめてこのあたりで単独講和するべきだった。しかしこの後、映画にもなったアラビアのロレンスの大活躍が始まる。狡猾な英国の侵略なのだが。
 オックスフォード大学を出たロレンスは中東で考古学調査をしていたところを、かの地の軍用地図の作成のため英陸軍にスカウトされる。それが現ヨルダン王家に繋がるハーシム家の知遇を得て、いつのまにか反オスマン帝国の現地アラブ人の親玉になり、鉄道爆破や奇襲攻撃で中東の秩序をズタズタにしていく。いや、連合国から言えば帝国の足をすくうのだ。
 これがヨーロッパ史観になると、オスマン帝国の圧制から解放するためにゲリラ活動をしたことになり、今ではその役割をアメリカがやっていることになる。アメリカっぽく専ら空爆だが、イラクの時もスタート時に猛烈に爆撃した後地上軍による制圧だった。
 ロレンス本人の意思は、もしかすれば本当にアラブ人の解放を願っての命がけの活動だったやもしれないが、戦後の英国の悪意すら感じる分割・統治を見れば、国家としての手前勝手を感じざるを得ない。
 かくしてオスマン帝国数百年の平和(そりゃ色々あったでしょうが)は雲散霧消してしまう。

 歴史は繰り返しちゃいかん、より洗練されなければ。それにしてもISISだけは頂けないが。

 それで初めから宣戦布告もしないでオーストリアも見捨て知らん振りを決め込んでいたらどうなったかと言えば、結果はあまり変わらなかったのではないかと考えざるを得ない。
 1918年段階で休戦協定を結んでいたが、2年後のセーヴル条約によって分割され広大な支配地は失われた。やはりヨーロッパ列強の世界分割の風に抗し切れなかった。それでもギリシャに組み込まれた領土を巡って戦争を仕掛ける根性を見せ、革命政権による1923年のローザンヌ条約で現在の国境が決まる。
 そしてトルコ以南の政治的不安定要素は100年後の今日に至るのである。大戦時の同盟を仮に袖にしていた場合でも後の激動の100年に耐えるだけの体力はなかったろう。インペリアリズムとは支配エリアの警備に莫大な金がかかりそのコストに耐えられなくなるとガタが来る。ローマ・オスマン・大英帝国・ソヴィエトが今日時点で往時の姿を留めていない所以である。
 するとそろそろ大国間関係等と言い出だしたアノ国も・・・・。

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100年前の同時多発戦争 

2015 JAN 20 20:20:54 pm by 西牟呂 憲

 第一次世界大戦の経緯を中村兄が詳述してくれた。
 このあたり、ヨーロッパの離合集散とそれに対峙するロシア、また目下の複雑な中東情勢も絡み今日的な意味でも分析は重要と考える。

 1912年から1913年にかけて既にバルカン戦争が二度にわたって起こり、直前イタリアーオスマン・トルコも領土問題で衝突する、もう手の付けられない状況に近かった。いくら合意をとりつけても止まないウクライナ。正統な領土すら存在しないイスラム国。どこか今の様相に被って恐ろしい。
 獨仏国境は普仏戦争でナポレオン三世が負けてしまい、かの『最後の授業』で知られるアルザス・ロレーヌはドイツ領だった。
 銃弾二発のテロから一ヶ月。7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告すると、8月には露・獨・仏・英と一斉に戦争に参加する。ロシアの総動員令が下るや直ちにシュリーフェン・プランが発動されてしまい、ドイツは8月2日には対露・3日には対仏の宣戦布告をする。そして獨軍のベルギー侵入により、イギリスは4日に対獨宣戦布告に踏み切る。5日からベルギー軍と獨軍が戦闘に入ると、直後14日には英国から派遣された陸上部隊とフランス軍がドイツとガチンコの戦いを10日間やる。
 一方のロシアは以外と早く東プロイセンに侵攻して17日には小競り合いが始まるが、驚いたことに80万人以上のロシア軍がたったの15万人のドイツ第8軍にコテンパンにやられる。

 この時期、ヨーロッパは植民地のブン取り合いをしていたからすぐにアフリカに飛び火。8月8日時点にトーゴで、10日には南アで戦闘が行われている。
 はじめの宣戦布告(それもバルカンの小国にハプスブルグ大帝国が、だ)以後たったの2週間以内で世界中でドンパチが始まった訳である。同時多発戦争だ。悪いのは一人だけでも一国だけでもなかろう。

 更に当時は日英同盟が機能しっかりしており、すぐさま英国より日本への参戦要請が来た。ドイツ東洋艦隊が膠州湾租借地にいたからである。何の恨みもござんせんがこれも浮世の義理。手続き上に問題無しとしないが、15日に最後通牒、23日には宣戦布告している。ところがこのドイツ東洋艦隊は巡洋艦中心の大したことない部隊だったため、日本海軍とはやらずに逃げ散っていった。青島の要塞を攻撃して、この時の捕虜が松山に収容され日本で初めて第九の合唱をやったのだ。
 日本では宝塚少女歌劇団の第一期生が卒業した頃なのです。
 その後同盟の誼で陸軍を派遣しろ(ロシアからも英・仏を通じあった)艦隊を寄越せとなり地中海に派遣された巡洋艦『榊』が被弾する。僕はマルタ島にあるその慰霊碑まで訪ね英霊を慰めたことがある。これ、集団的自衛権のキモですよ。近隣エリアでの『我が国土・国民に重大な被害』は発生しないものの、同盟・条約によって行かざるを得なかった訳である。
 結果として戦争景気に沸いてしまい、その後色々あって大日本帝国は潰れてしまうのだ。

 ヨーロッパがドロドロの膠着状態になってロシアに革命が起きるのだが、今後の中村兄の研究結果に譲る。

 と、ここまで書いてイスラム国に日本人を誘拐・拘束し身代金を要求しているニュースが飛び込んできた。先方は去年の内から拘束していた日本人を、安倍総理の中東歴訪と人道支援発表のタイミングでぶつけて来たのだろう。冗談じゃない。ご家族の心中察するにあまりあるが助けに行くといっても・・・。交渉も何も相手は『国』ですらない。

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