Sonar Members Club No.36

月別: 2016年5月

熊谷直実顛末 Ⅲ

2016 MAY 5 19:19:28 pm by 西 牟呂雄

 それからと言うもの御上人様の行くところには必ずワシがお供をし、身の回りから何から全てお世話した。叡山系の悪僧兵あたりが邪魔をすることもあったから、そんな時はワシが一睨みで追い返した。
 ワシには難しいお経を読めとかいうご指導は無駄だと思われたか、ひたすら『南無阿弥陀仏』を唱えよと仰るだけだ。だから御上人に話しかけられたりすると、その一言一句を聞き洩らさずにおくのだ。もっともほとんどが分からないことばかりだがな。
 御上人様は色々な所から是非話を聞かせて欲しいと呼ばれることも多い。ついていくとワシらは上には上がれない、上がり框に正座させられている。襖を閉められてしまうと御上人の講話は聞こえてこない。招いた方は有難がってなるべく色々な事を訊ねたり御上人をもてなそうとしたりするので自然と時間が掛かる。
 そういうことが重なったのである日ワシはつい大声を出した。
「あ~あ、こんな所に座らされては有難い御上人様のお話が耳に入らんわい。『南無阿弥陀仏』は堂上公家が唱えようがワシのような地下人が唱えようが御利益は同じじゃと言うに。」
 周りは青くなっておったし帰り道さすがに御上人様も機嫌が悪かった。
 それから少し考えた。ワシなぞはお側にいても物議を醸すばかりだから、どうしたらもっとお役に立てるかを。それで思いついたのが教えを少しでも広められるように”寺”をいろんなところに建てて、学識深い高弟に座してもらうことだ。
 暫く夢中になって建立三昧に明け暮れたが、考えてみればワシの故郷をすっかり忘れておった。ひとつ真の寺で近在の百姓共にも『南無阿弥陀仏』の唱え方でも教えてやるかという気になった。

行住座臥、西方に背を向けず

行住座臥、西方に背を向けず

 旅立つときはこれからの事に胸が高ぶっていたが、途端にお師匠様との別れがつらくなり、ワシとしたことが何やら悲しかった。その思いは行くに連れて深くなるばかりでどうにもならん。気が付いてみれば御上人のおわす方角は東下りのワシにとっては西、西方浄土に当たるではないか。そこでワシは馬に置いた鞍を後ろ向きに据え直し、後ろ向きに馬に乗りながらひたすら『南無阿弥陀仏』を唱え続けながら帰った。

 さて、熊谷に戻ってからはもはや所領も何もない。庵を結び念仏三昧に暮らした。しかし百姓に念仏を教えても有難がるばかりで一向に上品(じょうほん)になるとも思えん。やはり御上人のように人に諭すなんぞワシの柄でもないのだな。それはまあ致し方あるまい。
 それじゃいっそのこと上品上生し、仏と成った暁にはあたりの者共救い弔いたい、と考え出した途端にまたあの西行坊主を思い出した。詠んだ歌通りに入寂してみせたとのこと、笑止の限り。それならばワシは念仏のお力を借りて、ちゃんと事前に人々に知らしめてから見事に往生してみせよう。
 秋風も吹き出したし、頃合も良し。翌年の二月八日に極楽浄土に生まれると大書して高札を立てた。
 おかげですっかり気も晴れて、日々の念仏にも力がこもったものだ。
 それが、だ。八日を過ぎても十五日を過ぎても全然往生せん。返ってピンピンしてくるのはどういう訳か。ワシの念仏精進がまだ足らんと言うのか。ええい、クソ。
 イヤ、待てよ。ここで破れかぶれになれば元の木阿弥。ここは一つ久しぶりに御上人様にお伺いを立ててみるか。思いのたけを訴える長い手紙を書いてみた。なんでワシは思うように成仏できないのか、と。
 御上人の返事には只六文字『南無阿弥陀仏』と書かれていたのみであったわい。
 そういえばズーッと悩まされていた敦盛公の幻影を見なくなっていた。

 史実では再び高札を立て、翌年の秋に往生したと言われている。その年にはかねてから対立関係にあった延暦寺の僧兵が『専修念仏』の停止を迫って蜂起し、日和見後鳥羽上皇により念仏停止が発せられた。法然は讃岐国に、弟子の親鸞は越後国に流された。法力房 蓮生 健在であれば一暴れもしたであろうか。真に天の差配と言うべきか。それにしても忙しい男であった。

おしまい

熊谷直実顛末

熊谷直実顛末 Ⅱ


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熊谷直実顛末 Ⅱ

2016 MAY 3 10:10:14 am by 西 牟呂雄

 不貞腐れているうちに今度は足元で所領争いが起こってしまった。
 昔から反りの合わない久下直光との間では、久下郷と熊谷郷の境界について長いことモメており、いっそ直光めを一揉みに捻り潰そうかと思った。しかし御家人間の争い事は御法度で、とうとう鎌倉殿の評定を仰ぐ破目になってしまったのだ。
 これにはあの梶原景時の奴が裏で糸を引いていたに違いない。あいつは普段から鎌倉殿にあることないこと吹き込んでいて、御曹司の足を引っ張ったのも景時だという噂もある。
 鎌倉殿の御前に呼び立てられたが、直光はかねてから武勇はからきしのくせにベラベラ捲し立ておった。殿はいちいち頷いたりしてはワシの方に例の陰険な目付きで『直実はどうか。』などと言うではないか。
「熊谷郷はともかく大昔から我が郎党の支配していることは明らかで・・・・。」
 じつは夕べもあの敦盛公の顔が一晩中チラついて眠れなんだ。
 言葉でやり取りするのが苦手なワシは終いにバカバカしくなって、腹がたってきた。おまけに梶原景時がこちらを見てせせら笑っているのがわかって爆発した。
「この上は何を申し上げても無駄なこと」
 立ち上がってその場で髻を切り落として席を蹴ってやった。鎌倉殿が呆気に取られていたが、無礼もクソもあったもんじゃない。
 カーッとなって屋敷には帰らず所領にも行かずに馬を飛ばした。するとまたあの敦盛公の顔が浮かんできてしまい、ワシはもう坊主にでもならねば救われないとまで思いつめた。気が付けば京の都に来ていた。

 仏門に入るからには最も高名な方に弟子入りしなければ気が済まぬ。その気になって聞き回ってみると坊主はどいつもコイツも自分の宗派の自慢話ばかりしているようで嘘くさい。そもそも坊主共が喋り捲る言葉の意味すら分からんのに、南都六宗だの天台がどうの真言がこうのと言われても区別もつかんのだ。
 しかし都をウロウロしているうちに変わり者の坊さんの噂が入った。面倒な修行や学識と関係なく、ただ『南無阿弥陀仏』とだけ唱えよと触れ回っていて、都で下々の輩に評判だと言う。何しろ敦盛公の顔がチラついてうんざりしている上に頭を丸めて武士でもなくなった身だ。藁をもすがる気で会いに行く事にした。ほうねん、という名前だ。
 するとさすがに流行っている様で、門前には待ち人が大勢いる。別に弟子入りに来た訳でもないような老若男女が念仏を唱えながら人だかりしておった。ところがワシの異様な風体に驚いたらしく、その人塊がよける様に割れた。剃髪してはみたものの僧衣なぞ持ち合わせないから首から下は武者風のまま、帯刀までしていたから呆気に取られたようだ。案内を請うとその坊主も腰を抜かしてしまい、次の間に通されたのだが、何時まで立っても目通りかなわん。
 そこでまた例の敦盛公の幻影が出た。ワシはひたすら念仏を唱えては見たものの消えない。
 一体いつまで待たせるのだ。
 このままでは地獄に落ちてしまう、エエィ、クソッ。
 こうなったら腕の一本でも切り落としてやると刀に手をかけたところ、坊主が『ヒーッ』と声を上げて大騒ぎになり、やっと御上人に取り次いでくれた。恐らくワシの目は眉間の縦皺も荒々しく真っ赤な光を放っていただろう。
 ところがその法然上人は息一つ乱れておられず、僅かに笑みさえたたえておられた。
『御上人様ー。それがし、日本一の剛の者などと呼ばわっては戦に明け暮れる事幾十年。』
 言上もクソもワシも何を言っているのか分からなくなるほどに逆上しておったが、その穏やかな尊顔を拝しているうちに静まってきた。そして最後にこう聞いた。
『ワシのような者にも後生はありや。』
 法然上人はポツリとお答えになった。
「罪の軽重をいはず、ただ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」
 すると何と不覚にもポロリと涙がこぼれ、それ収まらず次々に湧き上がってきてしまい、とうとう赤子のように大声でわあわあと泣き喚いていた。
 
つづく

熊谷直実顛末

熊谷直実顛末 Ⅲ

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熊谷直実顛末

2016 MAY 1 0:00:23 am by 西 牟呂雄

 御曹司(源義経)の独断と先走りには困ったもんだ。ワシ等関東で散々鎌倉殿(源頼朝)の優柔不断にはイライラさせられたが弟君はまるで逆だ。戦のことはワシ等に任せておけばいいものを、いつでも先頭に立って突き進んでしまう。そもそも戦の作法を御存知ないからしょうがない。戦というものは名乗りを上げて身元を明らかにした上で一騎打ちとなるのが上等。それが何だ、大将が物も言わずにただ突っ込んで後からズラズラ家来共が付いていき手当たり次第に蹴散らしていく。しばらく陸奥の国にいたと言うから戦のやり方も学ばなかったのだろう。大体一番首を取る武士の名誉を何だと思っているのか。自分は御曹司だから恩賞に興味がないのか。
 あの一の谷の時もまさかのスキをついて勝手に駆け下りてしまったので、いやワシも焦ったの何の。大慌てで転げ落ちそうになりながらとにかく先頭に出たものだ。ところが平家は慌てふためいて逃げだすばかり。とにかく大将首を上げなければと大声を出した。『日本一の剛の者なり!』とな。すると平家にも物をわきまえたと見える公達がいて、向かってきた。無我夢中で討ち取ってしまったが、あの気高さも感じさせる若き武者と戦ったのも、奇襲なんぞという胸糞悪い振る舞いに及んだ御曹司の策略のせいだ。古式に則ってさえいればあの若武者を亡き者にしなくても、いくらでも名の有る武将とやれたものを。と思っていたところ、その首こそあの敦盛公だった。
 聞けば我が息子を同い年とは。眠りかけた時にふとあの化粧首が目に浮かんだりすればとても寝られたものじゃない、誰にも言えないがな。
 おまけにいつも側についている化け物のような大入道の弁慶も生意気でかなわん。奴は薙刀を振り回して暴れるのでじゃま でしょうがない。生臭坊主のくせに偉そうにするのも気に入らん。御曹司の家来衆はどいつもこいつも出自の怪しげなのばかりで、あれでは武士とは到底言えないような輩だ。
 何だかんだで屋島や壇ノ浦では大してやる気も出ず、さっさと帰ってきてしまった。
 御曹司は壇ノ浦では逃げ惑って船を渡り歩いたくせに、いつのまにか八艘飛びの大活躍だったことになっていてワシは益々興醒めしたもんだ。腰越で留め置かれたのはいい様だと少しは溜飲が下がったがな。
 ところが一方で御曹司はその後も都の法皇様(後白河法皇)に入れあげすぎて勘気を被り、平泉まで逃げたところを討ち取られてしまう。兄弟なのに鎌倉殿の陰険さに辟易させられた。
 ところが鎌倉殿は鎌倉殿でワシ等を散々こきつかって平家を滅ぼしたと言うのに、恩賞のケチなことケチなこと。これでは全くの骨折り損だわい。
 そのくせ、最近益々偉くなってしまって立ち居振る舞いをわざわざ都人のように改めておられるから、ワシなぞやりづらいのなんの。公家やら坊主やらが頻繁にやって来るのも気に入らぬ。おまけに和歌なんぞを嗜むなどと言い出して、冗談じゃない。

 先日やけに目つきの鋭い大柄の法師が招かれていたが、ありゃ何物だ。僧行を纏ってはいたがスキのない身のこなし、周囲の気配の読み方、一瞬帝の刺客かと思ったくらいだ。暫く滞在して鎌倉殿の所に呼ばれていくのだが何の話をしているのか。
 ワシもいっそのこと出家でもしてやろうかと思っていたのでちょっとは興味を持った。ところが西行とかいう旅ばかりしているインチキ坊主で元々は武士ではないか。しかも流鏑馬の名人という。
 鎌倉殿がわざわざ弓馬のことについて訪ねたところ、一切忘れたなどと人を食った返事をしてシレッとして見せたそうだ。
 おまけに高名な歌詠みだと聞いて益々癪に障った。人が戦に明け暮れている頃に和歌三昧とはふざけている。伊勢神宮で詠んだとかいうあれは何だ。
『何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる』
 こんなものワシでも詠める。ただかたじけない、が歌になるとは知らなんだ。
 更にムカついたのは鎌倉殿がいたく気に入っていた銀で造った猫の置物を気前良く与えたという。ワシ等にはケチ臭いことばかり言うくせに漂泊の坊主風情にくれてやるとは。
 しかも西行法師はそれを持たずに奥州に旅立って行ったのだ。どうやら通りすがりのガキにやってしまったらしい。その噂を聞いて一層大嫌いになった。

 数年後、その西行法師が死んだ。風の便りに聞いたところ大層その死に方が評判になったそうだ。
『願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃』
 と詠んでいた通り本当に桜の季節にお釈迦様の命日の1日後、二月十六日に入寂したという。どうせ偶然だろうが気障な真似をするわい。

つづく

熊谷直実顛末 Ⅱ

熊谷直実顛末 Ⅲ


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