狼少年ケン
2015 SEP 10 19:19:21 pm by 西 牟呂雄
物凄いドラミング。ボバンババンボンボンババンバババボバンババンボンバンボバン。舌を噛みそうなこの出だし。そう、還暦に近い世代はあのボーイ・ソプラノを思い出すはずだ。
『いつーもオイラは泣かない』
私にはこれがまた人一倍郷愁を誘うのだ。それにはわけがある。
お江戸は下町、神田〇〇町に映画館がまだあって『夏休み子供ナントカ大会』という企画物をやる。小学校低学年の私は見に行った。それはテレビで既に放映された『狼少年ケン』だったが、当時はビデオも何も無い。性懲りも無く見に行った。走れよ「ケーン!」他にも子供が一杯いて合唱するように「ケーン!」に声が上がる。何しろ私の本名が建だから、自分の名前が歌われているのが嬉しくてしょうがない。
注)当然ながら映画は白黒だ。
後ろの方に一際高い声で叫んでいる一団がいた。そしてそいつ等は行儀が悪く、ストーリーが始まってからも大声を出したりバリバリお煎餅をたべたりしてうるさかった。あんまりなので見てみると、その一人と目が合った。キューピーだ!画面が明るかったので向こうもこっちが分かったようだ。
〇〇小学校の奴で、大きな目がクリッとして巻き毛の可愛い顔をしている。ついたあだ名がキューピーなのだが根性は悪い。少し前に仲間のイサムちゃんがからかったところケンカになり、コテンパンにやられて泣いた。私も調子に乗ってキューピーの顔を踏んづけてやった。奴はそのことを根に持っているに違いない。しかしきょうは私一人でイサムちゃんはいない。あっちは集団だ、マズいぞ、マズい。逃げようかと思ったが、そんなところを見られたら『あいつはビビッて逃げ出した。』という悪意ある噂を流すに違いない。
一話が済んだ。奴等はまだいる。
とうとう終わってしまった。そうっと見ると、いない。しめた、と鉢合わせしないようゆっくり席を立った。
しかし甘かった。出口で待ち伏せしていたのだ。キューピーの奴、真ん中でエラソーに腕組みをして薄ら笑いをうかべていやがった。
「おい、ケン。この間はよくも可愛がってくれたな。」
「走れよ、ケーン!」
口々にからかってくる。5人もいて中の二人は知らない顔だった。他はヒロシとカズヤだ。ヒロシは界隈で最強と言われている兄貴が二人いて、凶悪な兄弟として知らぬ者のないクソガキだった。
「ちょっと公園まで来てもらうぞ。」
「お前一人で行け、このキューピー。」
「何だと。イサムがいなきゃ何もできないくせに。」
注)しかし今から考えるといくらマセたガキとは言えなぜあんなに大人っぽいチンピラ口調をきけたのか。想像するに当時年上の兄貴達がカブれていた日活映画のマネが伝染したものだろう。ピストルのことをハジキと言う隠語は知っていた。
「ふざけんな。行ってやろうじゃないか。」
「逃げるなよ。ついて来い。」
私は本気でイサムちゃんとばったり会える奇跡を神に祈った。当然会うはずもない。〇〇公園に着いてしまった。砂場のところで取り囲まれた。私の恐怖感は頂点に達した。
「やいっ!この〇〇町でデカイ面すんなよな。」
「近所に住んでんだ。何が悪い。」
「近所って△△町だろうが、そっちで遊べ。〇〇まで来るな。」
「あいにく映画館がないんだ。だから来てやったんだ。」
「映画館もないようなイナカか、おまえんとこは。」
「そんな薄汚いもんはいらねーんだよ。」
「ウルセー!」
ついにヒロシが、今でいうキレた。強い力で私の胸倉を掴んで砂場に引き倒したのだ。
注)そういえばチビガキのケンカはボクシング・スタイルのパンチの応酬にはならず、相撲スタイルで蹴りも頭突きもない。これは今でもそうなのだろうか。チビガキのケンカなんか何年も見ていない。
砂まみれにされて顔を庇おうとしているとヒロシの巨体が乗っかってきた。くっ苦しい、鳩尾にドスンと入った。チキショーっともがいていたら大声が聞こえた。
「こらァー、何やってんだお前等!」
通りがかりのおじさんらしいが、砂が目に入ってしまって良く見えない。ポロポロと涙がこぼれるのを見てキューピー一派は『アッ泣いた泣いた。』等と囃し立てた。
「何だお前たち。大勢で寄ってたかって。どっちが悪いんだ。」
「こいつだよ。こいつこそこないだ二人掛かりでオレの顔を蹴ったんだ。」
「何言ってんだ。お前こそ横断歩道で石投げたじゃないか。」
「ちがわい!石じゃない。」
「いーや、石だったね。この卑怯者。」
「あー、わかった。わかったからやめい!うるさい!」
薄目を開けられるようになって気が付くと、別に遊んでいた子供達が遠巻きに見ているじゃないか、恥ずかしい。おじさんは跨っていた自転車から降りてこう言った。
「どうでもいいが、やっちまったケンカは両成敗だ。並べ。」
そして一列に並んだ私たちの頭に軽く拳骨を一発づつポカリとやった。助かった。おじさんは私を水飲み場に連れて行ってくれたので目を洗えた。見えるようになると、職人風の体の大きな人だった。口の中にも砂が入ってがジャリジャリするのでうがいもする。
キューピー一派は『もうウチの町内には来るなよ。』等と言いながら走って行った。
お礼でも言わなくちゃと振り返ると、もう自転車に乗って行くところ。ケンカをして帰ると母親に怒られるので、良く砂を払って帰った。
『いつーもオイラは泣かない。』と元気に歌いながら。
注)昔はこういったオジサンやオバサンがいたもんだったが。
ところで家に帰った途端にバレて怒鳴り飛ばされた。背中にベッタリ砂がついていたからだ。
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せせら笑うポルシェ
2015 AUG 26 18:18:53 pm by 西 牟呂雄
すいている中央高速の上りを好い調子で飛ばしていた、無論十分な車間距離を取って。
バック・ミラーの遠くに一台の速い車が追いついてくる。白いスポーツ・タイプに見えた。『何をムキになってんだ、あの野郎』と思う間もなくアッと言う間に近づいてピタリと後ろにつけられた。空冷水平対向6気筒のバケ物ポルシェ911だ。
前を空けてやってもいいが、ガラガラとは言え私の前にも車は続いていてしょうがないだろう。と、ちょっと考えたが、まあいいやと車線を譲る。するとスーッと隣に並んできた時にドライバーと目が合った。年恰好は同じくらいのオヤジがサングラスをしていて、白い歯を見せてニヤリとしたような。『ご苦労さん』とでも言われた気がして思わずムッとした。
実は1964年にデヴューした時点では「ポルシェ901」という名称だったのだが、プジョーが真ん中に0の入った3桁数字をすべて商標登録していたので「911」と変えさせられたという因縁がある。そして現在の我が愛車はプジョー407。
とにかくやり過ごして後ろに捻じ込んだ。むこうも気配を感じたか、バック・ミラーでチラリと見た。
しかし、先行している車が私の時とは違って次々と道を譲るのだ。あのケロヨンみたいな面に臆するのか。何しろアウト・バーンを我が物顔に走るBMWやベンツも250km/hのリミッターは義務付けられているが只一社例外とされている悪魔である。そう言えば昭和亜空間戦争で平将門に憑依されたと表現したかの白洲次郎が80歳まで乗り回したポルシェ911だ。悪魔的なのも頷ける。
前がズーッと空いた頃合いを見たのか、ポルシェはグングンスピードを上げた。
私はフランスの著名な人口学者エマニュエル・トッド氏の言説に大いに影響を受けている。氏はEUをドイツによる一極支配体制と喝破し、EUのユーロ体制の崩壊を予言している。特に現仏政権の独スリ寄りを批判する自称親米左派。
その気になって愛車をアウディからプジョーに変えた私としては、このまま置いていかれるのは我慢ができすに敵わぬまでも意地になってアクセルを踏んづけた。
ちなみに以前のアウディに関してはワーゲン・BMW・アウディ・ベンツすべてハッチ・バック車の『ドイツ機甲師団』を編成する、と言い出したバカに譲った。
私が精一杯アクセルを踏み込んで、多少車間が近づく。再度バックミラーでこちらを伺ったような気がした刹那、空冷エンジンのバリバリ音が上がりバック・ファイアを吐きながら物凄い勢いで加速した。コッチのメーターも〇〇〇kmを越えてコーナーはもうヤバい。向こうはまるでせせら笑っているようにいきなり400mくらい離されて追いかける気力を失った。悪魔め。
こうなったらこっちはゾンビになって10年後にポルシェに乗ってやる(現在還暦)。
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あれ等はどこに行ったのだろう
2015 AUG 17 19:19:50 pm by 西 牟呂雄
見る事もなくなって、古い写真で『あー、あんなものもあったな。』と感じるもの。それも今の視線で見るととても正視に耐えないようなものがその昔流行した。それらを幾つか上げると社会学的考察にはならないか、ならない。
いや、本人達はお互いに止めるに止められなかったのではないだろうか。しかもここまでやってしまうと元の顔は想像もつかないから、似合うも似合わないもない。
更にオジサンはいらんことも心配になる。このノリでその場の恋に墜ちてしまい、コトに及んだときにはこの化粧は落すのだろうか。
昔、音楽プロデューサーの松任谷正隆氏は化粧の厚かったユーミンを口説き落とした時のことを『男たるもの180度も違ったスッピンに怯んではならない。』と雑誌のインタヴューに語っていた。ナンパしたアンチャン達もその根性はあったのか。
ちなみにガングロとは『顔が黒い』の意味ではなく『ガンガン黒い』なのだと言われていたが本当?

ルーズ・ソックス
制服に揃いのレッグ・ウォーマーのようなダブダブの靴下を、ことさらユルく下げて履く。これは最初に履いた子と最初に紺のソックスに変えた子が一番偉い。
実は当時来日した外国人に『なぜあのようなソックスが制服なのか。暑いだろう(その時は夏)。』と聞かれた。あのソックスは制服じゃないから『彼女達は膝から上を細かく決められているので、ソックスは数少ないおしゃれ(のつもりでpersonal fashionと言った)なんだ。』と説明したが全く通じなかった。何故全員同じにあんなヘンな格好をしたがるのか、と聞かれて答えられなかった。
これは今でも着こなす人はいるが、大昔メチャクチャ流行した。写真ではこざっぱりした感じだが、大昔は困ったアイテムが必需品だった。男も女も高いのになると15cm位の靴を履き、引きずるように着ることになっていた。短足歌手で有名だった野口五郎や布施明がやる分には構わないが我々がやると歩きづらいの何の。
大体そのために、それにしか役に立たない例えばロンドンブーツ(結構高い)を買うという行為は実に無駄であった。当時の格好を今の僕が見れば髪型といい気違いが歩いてるとしか思えなかっただろう。
しかもこのバギーという代物、雨が降ったら大変なことになった。ただでさえ引きずっているのだからビチャビチャに濡れて汚れる。
結局、ブーツとともにいつのまにか消えた。
![yjimage[1]](https://sonarmc.com/wordpress/site36/files/2015/08/yjimage1.jpg)
スケバン
スケバン刑事とかあったが、現在こういうファッションを見かけることはなくなった。ヤンキー・ガールは減ってはいないだろうが、制服をこういう風に(上を詰めて長いスカート、ロンタイを引き摺る)極端なスタイルは絶滅したのか。目撃情報があったら教えて欲しい。
そういえば、その格好が売りのナントカ言う芸人がいたようだったが。
まさか竹刀や木刀は持ち歩いてはいなかったが、薄っぺらく潰したチョンバッグを持っていた。貫禄のある子は顔色も悪く見るからに家庭に問題があったように思えた。
こういうのが学校帰りに固まっているのを見ると皆おんなじ格好なので、きっと学校で先生はスケバン・ルックだと知らなかったのじゃないだろうか。露出の多いミニ・スカートよりはマシだと勘違いしてたりして。
みんなどこへ行った
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プジョーを手に入れた
2015 JUL 30 19:19:13 pm by 西 牟呂雄
これぞスタンディング・ブルー・ライオンだ。プジョーのエンブレムである。
本当はあのハイドロ・サスペンションのシトロエンC-5を探していたのだが、ヒョンなことから中古のプジョーに一目惚れして手に入れた。乗り心地は悪くない。
いや、滑るような足回り、深々とした内装、アクセルの甘い踏み込み、申し分なし。
これでエグザンチアの時みたいに故障が多くなければいいのだが、アレはとにかく金はかかった。シトロエンは夏に弱い。寒冷地仕様だから、と言うムキもあるがドイツなどもっと寒いのにアウディはそんなにガタはこない。中古外車専業のディーラーのにいちゃんに『夏場に故障したら喜ぶくらいじゃないと一流のシトロエン乗りとは言えませんよ。』等と言われてその気になっていたのだ。
今のアウディは車重が約1.5トンもあってドアも重く、いかにも当たり負けしそうもないガッチリした硬い印象だった。おまけに速いことは速かったから気に入ってはいた。しかし年から考えて最後の愛車を10年乗るとすると代え時なのでシトロエンを探した。が、プジョー407のハンドルを握った段階でもう後に引けなくなった。F1だってプジョー・シトロエンで出てることだし(あんまり理屈になっていないが)。![yjimage[6]](https://sonarmc.com/wordpress/site36/files/2015/07/yjimage6.jpg)
フロントを開けてみると、エンジンのデカさを見て息を飲んだ。これが出足こそそう強烈なパワーではないが、高速安定性はいい。その上シート全体が深々としており目の高さが低い。これはひょっとしたらひょっとして新たな伝説の始まりかも知れない。かつては中央高速で「赤い流れ星(セリカ・ダブルX)」「紫紺の翼(シトロエン・エグザンチア)」「孤高の青騎士(アウディ)」等と呼ばれた私だ。
中央道のダンディ・ライオン になってみようか
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【昔のテレビ】プロレスやアニメ・コント
2015 JUL 11 5:05:58 am by 西 牟呂雄
「がんばれ。がんばれ。ジャイアントー。〇〇〇〇印のソーセージ!」
画面では若手のレスラーをバッタバッタとなぎ倒し、晩年は滅多にやらなかったヤシの実割りまで繰り出したジャイアント馬場の雄姿が映る。これ、テレビ・コマーシャルだ。もう少しで脳から消えていってしまうような記憶の片隅に残っている。プロレスがいかにメジャーだったかを物語るひとコマでもある。
故梶原一騎原作の『チャンピォン太』という漫画が少年マガジンに連載され、テレビでも放映した。何とこの番組に力道山本人が出てきて『太!がんばれよ!』などとやっていた。デカくてカッコ良かったですね。
プロレスは大人気であったが、梶原一騎は既に極真会の幹部だったので当時からムエタイ(作中ではタイ式ボクシング)に注目し、この作品にも登場させている。しかし、魔法使いの様な格好のお付きが捧げ持つ香炉から変な煙幕が出て目眩ましをする、という筋立てで、テレビでは後ろから女がシートを掛けるようなインチキだったような。
必殺技に『ノックアウトQ』とか『大空中固め』、最後は『東京五輪ナントカ』という荒唐無稽さだった。さすがにこれはテレビにはならなかったと思う、記憶にない。
そして、実際のプロレス中継は金曜日の8時にあのデイズニーランドとの隔週交代の放映。ディズニーはティンカー・ベルが出てきて「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」の四つの国のどれかを選び、時々動物ドキュメンタリーもあったりして質の高い番組と思った。特にアニメの鮮やかさ(カラーテレビではなかったが)に目を見張った。いまでは日本の方がクールだとなっているらしいが当時はアメリカ・アニメは断然上だった。
そう、〇〇(某電機メーカー、財閥系)ゴールデン・アワーと言った。プロレスのリングで掃除機をなぜかかけて『〇〇電機株式会社より、両チーム選手、レフリーに花束の贈呈でございます。』というアナウンスをする。
シャボン玉るるるるるるる。シャボン玉るるるるるるる。コントは青島幸男を中心に初期テレビ業界の手練れが書いた基本オトナ向けのしゃれたものだった。初めに『牛』の被り物がでてきて「モ~。」とやってずっこける(スポンサーが牛乳〇鹸)、谷啓が「ガチョ~ン。」を決める、そして植木等の「お呼びでない?これまた失礼いたしました。」と落とす。これらは子供達もよく真似て遊んだ。
妙に覚えているのが一つある。
列車の中の風景。そのころ参議院議員になった青島幸男(タレント議員の走りで横山ノックと同期当選)がふんぞり返って座っていると車掌役の谷啓が切符の改札にやって来る。青島幸男は咳払いをしたり議員バッジを見せびらかせて威張ってみせる(確か議員は国鉄はタダだったのでは)。谷啓が胸のバッジに気が付いて青島幸男とお互い『わはははは。』『うおははは。』と笑う。谷啓いつの間にか網棚に何故か置いてある洗面器を手に『いいオトナがグリコのオマケ付けて遊んでんじゃない。いい加減んに。しろ!』で青島幸男の頭を叩くと、ボコッという音がする。画面はハラホロヒレハレ!
この番組は渡辺プロダクションのお抱えで、今で言うSMAPや嵐のジャニーズ事務所番組だ。こういうの僕は見たことないが、オッサン達は見ているのだろうか。
見もしないで批判はできないが、オッサンが楽しめるお笑い番組は最近全くない。
いや、待てよ。当時でもコント番組は低俗扱いされていたか。
それどころかむしろオトナが退化してたりして。
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【昔のテレビ】今でも言える一節
2015 JUL 8 20:20:04 pm by 西 牟呂雄
「獅子が烏帽子をかぶる時、烏の頭の兎は三十、鼠は六十、岩戸の奥をさぐるべし」
ご記憶の方はおられるか。江戸川乱歩原作の少年探偵団シリーズ大金塊で、金塊の在り処を伝える謎の暗号である。原作は読んでいないが、例の『ぼっぼっぼくらは少年探偵団。勇気凛々瑠璃の色』の歌で知られるテレビ・ドラマ化された時に流れたこの謎解きは物凄く魅力的だった。
ドラマ自体は当時の製作技術が稚拙そのもので、例えば透明人間を演出する際にベニヤ板を吊っているワイヤが見えてしまうような代物。大体この頃のこの手のストーリー展開にしろ演出にしろ今では鑑賞に耐えないが、僕たちは『少年ジェット』『月光仮面』『七色仮面』『紅孔雀』に熱中した。
で、冒頭の暗号だが。原作を読んだ奴がこれ見よがしにスラスラ喋ってみせたので、僕も負けずに暗記した。今では考えられない情熱と集中力である、小学校低学年の時の話だ。しかしそれが記憶力を鍛えたということにもならなかったし、何かの役にも立ったことも無い。
「タイム・トンネルは、アリゾナ砂漠の地下数千メートルにある、人間を現在から過去へ、過去から未来へと送り込める装置である。若き科学者ダグとトニーは、この開発途上のタイム・トンネルに送り込まれたまま永遠に時をさまよう放浪者となってしまった」
時代が少し下って流れたタイム・トンネルの冒頭のナレーションだ。記憶に頼って書いているので違うところもあるかも知れない。あの衝撃的な音楽とともに強烈な印象で僕達は熱狂した。当然先を争うように暗誦した。
その少し後だった、今度は毎回違うので覚えるも何もない。
トム・クルーズが映画にもしたミッション・インポッシブル、テレビは『スパイ大作戦』だった。
しょうがないからテキトーな指令を自分達で作る。
「おはよう、フェルプス君。 写真の男はさる組織のボスである。最近彼の周辺から東側(今はない冷戦語)に多くの防衛機密が流れていることが分かった。彼は同時にその情報漏えいをネタにわが国の大物政治家を恐喝さえしている。そのようなことが明るみに出ては国際信用にも関わる問題である。そこで君の使命だが彼の組織を壊滅させそのルートそのものに終止符を打つことにある。例によって君もしくは君のメンバーが捕らえられ、あるいは殺されても当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、この録音は自動的に消滅する。成功を祈る。」
こんな具合で『この男』のところに固有名詞を『東側』に職員室だのを入れるとそれなりのストーリーができあがる。罪も無い子の足を引っ張るのに多用した。
思えばこのあたりまで上質の海外ドラマがゴールデンタイムに放映されていたことがわかる。『ベン・ケイシー』『外科医ギャノン』『宇宙家族ロビンソン』『0011ナポレオン・ソロ』そして『スター・トレック』あたり。今ではC・Sでたくさんやっている。
時代は下ってこういうのはどうか。
「夜更けの音楽ファン、こんばんわ。夜明け前の音楽ファン、お早うございます。ボク、GoGoGo Goes On の イ・ト・イ ゴロー。」
独特のイントネーションと実はホンモノっぽくない英語でしゃべりまくったDJ、糸井五郎さん。
こういった単発モノは、他に民社党の春日委員長や丹波哲郎なんかのモノマネ・バージョンとして(一部で)流行した。
ここから先は大いに恥ずかしいが、ちょっと聞いて欲しい。
「あのよー!去年の日比谷の時も前の日雨が多くてエライ心配したけど、武道館雨漏りしないんで、よろしくゥ! スリー・フォー!」
これはキャロル解散のあとエーチャンが初の単独武道館ライヴの冒頭のMCなのだ。バックにチューニングしているようなガシャガシャした音が流れているうちに突然始まる。『あのヨー』は『ヨー』のところのキーを更に上げるのがコツとされた。
こういったMCでやはり良く使ったのはダウンタウン・ブギウギのライヴで、宇崎竜童も昔は結構なヤンキー語を駆使していたっけ。
そしてショーケン語・アキラ語を生んだ『傷だらけの天使』あたり。『ヤマトの諸君。久しぶりだね。又会えてうれしいよ。』のデスラー総統。僕の現役の最後はかの『スネーク・マン・ショー』くらいだろう。これは様々なバージョンが流行りとても書ききれない。
と言うのも、さすがに大人になってから意味もない一節や台詞を暗誦したりモノマネすることがバカバカしくなり、ついでに言えばそういったモンに素直に感動する気力も記憶力も衰えてきたというところかね。
それがですな。先日放送されたNHKの『坂の上の雲』のあまりの出来栄えの良さに感動して、その台詞を覚えた。『オイ達みんな死んだら、あん山取れっかのう(大迫尚敏 第七師団長 on 203高地)』とか『以下は命令である(児玉少将 in 旅順)』。するとですな、さる腐れ縁がそれを録画していて僕の倍の台詞を暗誦してみせたのだ。僕は録画していない、この勝負負けてしまうじゃないか。
この男、実は冒頭の暗号をスラスラ且つエラソーに暗唱して見せた奴だ。
アホらしかったですね
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同級生が・・
2015 JUN 18 21:21:04 pm by 西 牟呂雄
突然のメール。同級生が亡くなった、と。小学校の机は当時二人一組で、隣同士だったこともある彼。真ん中に線を引いては「あっ、こっちにはみ出してる。」「そっちこそ肘がぶつかる。」というやり取りをしていました。
とても太っていて座っているだけで少しこちらにはみ出しがちではあったのですが、駆けっこがビリだったり遠足でへたばったりとそれなりに大変だったようです。
しかしガキというものは残酷で、そういうことをからかうのは日常茶万事でした。
彼を苛めた記憶はありませんが囃し立てたことはあります。不愉快だったでしょうがニコニコとやりすごしていましたね。怒ったりしなかったのは、気の小さい彼の処世術だったのでしょう。
中学からエスカレーター式の大学まで続いている学校に進学して、一度だけ同窓会で会いました。『太り過ぎを直すんで(ダイエットなんて言い方はありませんでした)中学でラグビー部に入ったら医者に辞めさせられたよ。』と笑っていたものです。
それっきり彼の噂も聞かずに今日に至ります。
詳しくは知りません。ご家族の問題があったのか事業で失敗したのか。最後は体を壊し病院で、独身で半身不随、天涯孤独となって息を引き取った、と。こういう場合、最小行政単位が火葬と略式の葬儀をしてくれるそうですが(ご家族の入っている墓所への)納骨はタダというわけには行かないらしく、カンパをすることになりました、さっそく一口振り込んできます。
内臓疾患とのことで最後は緩和ケアで痛みと闘っていた、等と聞くと何とも言えません。次々と降りかかってくる様々な困難に、さぞ心細かっただろうに。そしてそれに耐えてきた。
しかし同時にその時に彼の話を聞いていたとしても、一体私は彼のために何ができたでしょうか。
長年消息を知らなかった彼の死を聞いてそれなりに驚きガックリするものの、この年になればこういうことはこれから毎年どころかもっと頻度を上げて起こります。いや、私の知らないところで今現在も起こっています。
宗教家や厚い信仰でもあれば別です。が、いかなる主義・主張・思想をもってしても、一度でも隣同士で会話した知り合いの訃報に対して納得感を醸成できません。どうやら苦労を重ねたことを悼む以外なすことはなく、癒されることも無い。
彼は亡くなり私は生き残りました。
誤解を恐れずに言えばその亡骸に声をかけるとしても、人に迷惑をかけずにやります、慎ましくやります、面白おかしく暮らします、少しでも真面目にやります、程度の言葉しか口に出せないものじゃないでしょうか。
同時代に同じ空間を共有した、大窪よ。
お疲れ様、安らかに眠れ
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あの頃の海
2015 MAY 30 11:11:10 am by 西 牟呂雄
かねてから白状しているが、子供のころのテリトリーが下町だったので神田川も隅田川も悪臭ただようドブ川で、その先に注ぎ込んでいる海はこげ茶色のイメージを持っていた。
学童前に今の幕張あたりに潮干狩りに行ったことを覚えているが、なんとなく汚らしい海岸で熊手でニチャニチャ砂を掘ってみたら貝が取れた。恥ずかしい話だが、翌日のおみおつけに貝が入っていて「きのう自分で採ったんだよ。」と言われびっくりした。お魚屋さんで真水で洗われたようなモノが砂から掘り出したのだとは思いもよらず、一瞬怯んだ。幕張の記憶は、帰りの電車がやたらと混んでいて、車窓に夕日が差し込んでいたのが鮮やかだったことの方が印象的だった。
これも学童前だが、伊東の温泉に行って海岸を歩いた。写真が残っていて僕が祖母と映っている。ここの印象は『寒い』。子供だから温泉なんかタダの銭湯と同じで、毎日入っていたから珍しくもなんともなかった。海の印象はすこぶる悪く、暗い感じの記憶になっている。
葉山の海岸にも行ったはずだが、当時の海水浴場の混雑振りは満員電車並みで『楽しかった』というような思い出になっていない。プールで十分といったところだろうか。
小学校高学年に観音崎海岸に行ったことがあった。この時強烈に印象に残ったのは、ほぼ視界一杯の巨大さに圧倒された米原子力空母『エンタープライズ』の威容だった。とにかくデカい。迂闊にも『日本にもあんなのがあればなぁ。』と思ったものだった。子供の感想なんでお許しを。海岸に降りるのにゴジラのモニュメントがあって尾のところが滑り台になっていた。
長じて海水浴場はおぞましいことに巨大なナンパ場となっていた。もっと昔もそうだっただろうが、子供は水遊びや砂遊びが忙しくて気が付かなかったのだ。高校時代の自分の行状を思い出すとゾッとする。所は三浦海岸が多かったが、後先考えない出たとこ勝負はほとんど迷惑行為だっただろう。聞いた限りでは新島なんかもっとひどいことになっていたらしい、おそろしや。その後あまりの後味の悪さと恥ずかしさでしばらく海とは無縁になる。
古をたどると僕の爺様は夏中沼津に長逗留してヨットに乗ったそうだ。オヤジは大学ヨット部のエースだったから、後年海にのめり込むのもこれは遺伝的体質だったのだろうか。
学生時代はやっていないが社会人5年目くらいからクルーザーのクルーになった。一世を風靡した岡崎造船のパイオニア10、これは早い船だった。楽しい船で、クルージングと酒・麻雀がセットになっていた。従って残念ながら女の子がビキニで遊びに来るなどは皆無だった。
だから3日も乗っていると(港伝いだが)酒と博打漬けになりつくづく『遊び暮らすのも命懸けだな。』という実感があった。
子供がうんと小さかったときに船に乗せる際、腕に小さな浮き袋を付けて即席のライフジャケットを作ってやったら、面白がって甲板や桟橋からわざと落ちて見せていた。後年、海水浴というのは海岸でやるもんだということを知らなかったと言っていたが、あれが癖になっていたら危なかっただろう。湾内でも潮の流れは速いのだ。
さて、これから僕の海の楽しみ方はどうなっていくのだろう。水上バイクはチョット怖いし、サーフィンは年齢的に無理だ。以前熱過ぎる夏に干からびる恐怖に書いたようにだけはなりたくないのだが。
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欲しかったオモチャ
2015 APR 5 9:09:35 am by 西 牟呂雄
オモチャ全般に言えることだが、空想空間的広がりを楽しむ物ではないだろうか。子供は無条件にいじりまわしてしまいに壊してしまうのだが、この年になって昔夢想したオモチャの夢が広がって来た。ロボット技術の発達した現在ではもっと面白い物が出てくるのは時間の問題かと。
懐かしい漫画に一世を風靡した『鉄人28号』や『ジャイアント・ロボ』といった巨大なロボットが戦うストーリーは、その後『マジンガーZ』や『バイオレンスジャック・ハイパーグラップル編』と進化し『ガンダム』に結実する。現在では『進撃の巨人』だが、それに近い物で遊べる日が来るだろうか。現還暦クラスはゴジラ・ガメラに鍛えられてウルトラ・マンを見ているから巨大な怪獣・ロボットを見る目は肥えている(別に大きくなくてもピグモンやカネゴンもいた)。
逆に小さくして空間の方から俯瞰的に楽しむ方法もある。盆栽やジオラマ、オママゴト、着せ替え人形、ミニカーだな。これはオヤジになってからも物凄く金を掛けてドロ沼にはまる人もいる。幸いにして僕はそういう趣味を持たないが、凝りだせばキリがない。正確に精巧に極めれば今だって高いオモチャだ。
3Dプリンターの技術の発達により外形が自分そっくりのアンドロイドもできるかもしれない。ミッション・インポッシブルの変装マスクみたいにだ。自分の幼児期・少年期・青年期のアンドロイドも作れるかも。だがこれのオリジナルは天馬博士が愛児トビオを失った悲しみのあまり、そっくりのロボット『アトム』を作り出すというマンガで予言されている。僕は昔の自分がその頃欲しかったオモチャをこれらの偽装『自分』に存分に与えて遊んでいるところを見たい衝動に駆られる。
幼児期は自分で操作することはできない。大人の縮尺での生活できるミニ・ハウス(1/2縮尺)に住んでみたかった。これ実際に建てたら恐らくオモチャで済む金額ではできない。子供は大人になったつもりが楽しいからそのミニ・ハウスの中で住んでいるつもりになって遊ぶのだ。新聞を読む真似をして仕事に行く素振りをする。『忙しいな。景気が悪い。』等と言ってみる。そうしている自分を倍の大きさになった大人の僕が見ているのはきっと面白いだろう。
少年期の僕にやらせてやりたいのは、模型の連合艦隊とバルチック艦隊で仮想日本海海戦をやらせてやりたい。無論少年の自分に三笠をラジコン操作する東郷長官をやらせて、僕はロシアのロジェストウインスキィ中将になって戦ってみたい。いずれにせよ50mプールくらいで戦うことになるからそれぞれの艦船のラジコン操縦者を集めて一大海戦を再現する。
味をしめたらミッドウエーをもう一度検証しなければ。あれは負けるはずがなかったのだ。
青年期の僕には美女型アンドロイドを5人侍らせてみるのはどうだろう。アフリカ系・インド系・ロシア系・ラテン系・東洋系と取り揃えて朝から晩までチヤホヤしてもらえるように・・・・。ここまで書いてきて、そんなモノを見ている今の僕が何が楽しいのかアホらしくなってやめた。
今欲しいのは連獅子の被り物か。あの赤毛を被って毛振りの真似事をしてみたい、ちょっと難しいか。それならば『誠』を染め抜いたダンダラ染めの羽織を纏って新撰組の武装をし、御用改めゴッコをしてみたい、ガンダムを操縦してみたい、・・・・結局元に戻ってしまった。
最高のおもちゃは芸事と武器かも。時節柄断っておきますが、テロ反対・侵略反対の平和主義者です。オモチャの話です。
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古い記憶
2015 FEB 19 19:19:15 pm by 西 牟呂雄
最近分かりましたが、人間はどうしてもストーリーが必要なため、あまり理不尽な記憶はリセットしてしまい別のことを自分の『記憶』だと思い込んでいることがしばしばあるのだそうです。私なんかは気楽な人生を送っていますが、当然『マズイ!』となったことはあるので(あったはずで)どれぐらい正確に覚えているか心配になりました。
喜寿庵の麓にある桂川で遊んでいた時に深みにハマったことがありました。周りに人がいたのか覚えていません。当時は水着で川遊びをするのが普通だったのですね、そういう子供を見なくなって幾星霜です。暫くバシャバシャともがいて流され咳き込んだ時の強い恐怖感、ひょっとしてこれで誰からも見られることなく消えてしまうのか、と怯えました。しかしあの学齢前に自分が死んでしまうかもしれないと思ったのかどうか。それこそ死の恐怖等と考えるのは後付けの刷り込みリセットではなのかとも思います。実はその直後にはそういう状態になったことを親から叱られるだろう、と反射的に感じて何も言わなかったことは良く覚えています。
この頃までは人見知りでもありました。現在の友人達は、腐れ縁も含めて誰も信じないでしょうがそういう子供でした。
そして小学生になってからは今日に至るキャラが確立された訳です。僕の通った小学校では当時既にイジメの様なものは日常の光景としてあったようです。イジメのきっかけはそれこそ毎日毎日無数に転がっていて、ほんのチョットのバランスが崩れるといつ自分が仲間外れにされるか分からないような一種異常な緊張感を感じたことは確かです。たかが小学生と言うなかれ。圧倒的な暴力によってクラスに君臨しているつもりの子も、影で『アイツは頭が悪い』と言われてしまうとその権威が地に落ちるような可愛げのカケラもない雰囲気で鍛えられ(堕落させられ)ました。SMCの中村兄とはその歪みまくった時代を辛くも潜り抜けた、しかし油断のならない同志でありました。共通の友人にS氏という天才的な適応能力を持ったツワモノがいて今でも時々飲みます。腕力があるわけでもない、勉強は大嫌いのS氏は、ああいえば上祐並みの弁舌と相手の弱みを一瞬にして見抜く抜群の慧眼で、常にメジャーにつくという王道を行っていたものです。そう言えばS氏は進学する際も、就職する時も、更に社会人生活を送るにおいてもその天才ぶりを遺憾なく発揮し我々を驚かせましたね。
都会のマセた小学生達の奇怪な気質は更に驚くべき進化を遂げます。高学年にもなれば女の子のことが気になりだす年です。恋愛感情も芽生えようというカワイラシい心情を、唾棄すべき堕落だ、と主張する一部の過激派が台頭しました。日常に会話をする微笑ましい行為を『談笑する』と定義し、『談笑禁止法』を勝手に成立させた挙句、クラス横断的に『談笑禁止法励行委員会』を設置したのでした。もっとも任命も選挙もなく、面白がったガキ共が自主的に支部長を名乗っただけなのですが。この校内イスラム国のような運動はさすがにバカバカしくて下火にはなりましたが、一部ははるか後年まで残ったようです。
そんな毎日を送っていたある下校時に、何故か放課後の屋上で沈んでいく夕日をジーッと見ていた記憶があります。一人でした。この時の心境を『孤独感』とか言ってしまうと恐らくそれは後付けの記憶のすり替えになるのでしょう。私はただ夕日がビルの角をかすめていくのが可視化できることに『地球が自転している』と気が付き感動したのです。
後年、何回か夕日を見ると、何故か友達も誰もいない屋上に一人きりになり夕日を眺めたその日を強く自覚したものです。それが悲しかったのか寂しかったのかは既に様々にリセットされてしまっているのでしょう。ただ、いつも『アッこの光景!子供の頃にも見ていたな。』と思うのです。何か美しく飾っているのでしょう、思い出せない。
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