Sonar Members Club No.36

月別: 2014年12月

雑感 話さない会話 突然思い出した事など

2014 DEC 7 15:15:36 pm by 西 牟呂雄

 電車の中で大声で話す日本人の大人は少ない。大声は外国人、中国・韓国・白人・黒人・アジア系・アラブ系つまり全部、と子供(女子高生含む)だ。大人同士は大声は出さないのがマナーとして定着している。一時携帯で喋ることが横行したが今は、ない。無論親子でもだ。先日ツレと電車に乗ることがあり、別々に正面に向かい合うように座った。すると僕の右隣の若い女性がこっくりこっくり始めたのだ。彼女は長い髪をしていて僕の方にサラッサラッとかかってくる。大声を出す訳にもいくまい、大人だから。仕方なく向いのツレにラインで聞いてみた。
『隣のネエチャン寝ちまったか』
するとしばらくIphoneをいじっていたツレが何食わぬ顔で、
『爆睡ですな。』
と返信して来た。そして二人で目も合わせずに
『どんな顔か?』
『下向いててわかんない』
『推定体重はデブか』
『太目ではあります。計測は不能』
といった会話が声も無く交わされた。終いには『いい加減にしてくれ』と相手にされなくなったが。
 最近は電車の座席に座っている人のほとんどが携帯画面に釘付けになっているから、こういった不自然な無言会話が可能だ。スパイ・マニアの僕としてはチームで尾行なんかする時にいかにも便利かと思ったが、データ取得技術の発達により相手がプロだったら簡単に見破られるので役に立たないな。

 これも先日、電車に座っていた時の話。お母さんと学童前の子供さんが乗って来てドアの所に立った。坊やの方が大きな声で話し出した。
『ねぇママ。おとなになってもママと会える?』
突飛な質問にお母さんは、エッ、という感じで応じなかった。すると退屈なのだろう、続けて、
『小学校に行っても毎日ママと会える?』
と聞くではないか。あまりのかわいらしさに思わず吹きそうになって笑ったところ、お母さんと目が合ってしまった。お母さんの目は笑ってなかった。
『ねぇねぇ、ずーっとママと会えるの?』
坊やはますます声が大きくなる。お母さんは今度は僕に聞こえるように(こっちに向かって)
『何言ってんの!会えるに決まってるじゃない!』
わかったぞ。お母さんは僕の笑いを誤解したんだ。何かの事情でお子さんと毎日会えない境遇だと僕が勘違いしていると思ったらしい。坊やはお構いなしに更に聞く。
『毎日おウチで会えるの?』
ますますマズい。もうお母さんの表情は見られなかった。
『いつもおウチに一緒に居るじゃないの!』
『だって今電車じゃない。』
この辺で耐え切れなくなった僕は笑いが止まらず、悪いと思ってハンカチで顔を押さえながら俯いたが小刻みに震えた。そしてやっと次の駅に停まった。
『さあ、おウチに帰るわよ。』
と母子は降りていった。お母さん、別に誤解してないから怒らないであげて。

 さて、話は突然変わるが。昔サラリーマンだった時のことだ。ある人が『おーい、モチダ製薬ってのは持ちに田か。』と突然聞いた。僕は『当たり前でしょう。』と答えたのだが、それを聞いた先輩が『それはおかしい!』と言葉をはさんだ。続けて『「も」に「ちだ」かも知れないじゃないか。』と言い出すのだ。この人はなかなかの理論家で留学経験もある立派な人だったが、「も」に「ちだ」はないだろう。そもそも「ちだ」なんていう読み方をする字そのものがない。優秀な人なんだが僕とは実に下らない論争を続けていた。
 この人の部下だったのは短い期間だったが、僕としては居心地は良かった。なぜならこの人は優秀過ぎてオベンチャラに弱いという致命的なところがあり、僕の口から出まかせで言うお世辞にいい気持になって益々熱心に仕事に打ち込み、僕はいくらでもサボッていられたのだ。最後にはバレて大変なことにはなったが。この頃のことは又改めて書いてみたい。

春夏秋冬不思議譚 (終わらない電話)

ごくろうさま、おつかれさま

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ボブ・ディラン&ザ・バンド

2014 DEC 5 22:22:21 pm by 西 牟呂雄

 CSの番組の長編ドキュメンタリーを見ていたら知らなかったことがたくさんあった。
 1960年代の後半からホークスはディランと契約をしていて給料を貰っていたのだが、ディランにライヴをする気配はなく隠遁状態に近かった。
 ウッド・ストック郊外の通称『ビッグ・ピンク(本当に外側がピンクの家)』に住み着いて曲を作り地下室で練習し、録音した。
 この時期アメリカは戦争をやりっぱなしにやっていた。巷にはヒッピーがウジャウジャいて、映像を見る限りではカラフルを通り越してサイケデリックまで行く。当時はみんな大真面目で、一見ユニフォームに見えなくも無いくらい似たようなファッションだったが、ディランはそれらのムーヴメントとは距離を置くような動きをしていたらしい。無論戦争反対の立場ではあるが。
 頭にきたとかふざけるなとかいった感情は激しいことを言った者勝ちみたいなところがあって、そういった表現を集団で発言するようになると内部は必ず分裂して何も残らない。ディランはそういう風潮を嫌ったのではないかと思う。
 クリスチャンに改宗したのもこの頃だと初めて知った。歌詞に聖書の引用までしていたそうだ。信仰の変化というものは一般日本人のとって容易に理解できない。一言で言えば世間に背を向けているようだった。
 ディランの曲をバーズやPPMが盛んにカヴァーしたのもこの頃だったか。
 ホークスもオリジナルを磨き『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を出して『ザ・バンド』になった。ディランの作品『I shall be released』の美しい旋律や映画イージーライダーのバックに流れた『ザ・ウエイト』が今でも懐かしい。僕も(似合わないと知りつつ)『I shall be released』をレパートリーにしようとしたけれどキーボードがピアノの音を上手くできなくて、最後はメンバーといつも喧嘩別れだった。あれは難しい。
 それから名作『オールド・ディキシー・ダウン』が入ったアルバムを出す。この頃が絶頂期ではないだろうか。

 ボブ・ディランとザ・バンドといったユニットは音楽的完成度が高く、日本でもそういったスタイルは取り入れられ、従来フォークソングがロックになるような取り上げられ方していた。岡林信康とはっぴえんど、のユニットなんかはそれを意識したのじゃなかろうか。私事で恐縮だがこのユニットが演奏したジャックスの『堕天使ロック』が好きで良く演奏していた。僕にとってのバンド版『三丁目の夕日』といったところかな。

 不思議なもので、70年代に入ると活動そのものがサエなくなってしまう。メンバー同士に軋轢があったらしい。しかし番組ではそう言わなかったが、僕の解釈では時代が変わったのだ。1973年には米軍がヴェトナムから撤退し、アメリカはウォーターゲート事件へと政治の時代となる。アメリカはいなくなってもインドシナ・エリアのドンパチはずーっと続き、中越戦争だクメール・ルージュだポル・ポトだ、と混迷は続くのだが。
 ディランは小規模ホールでのコンサートを重ねたり映画を撮るような活動に没頭していたが、映画の方は評価が低かったようだ。そしてワールド・ツアーに出て、武道館でもやっている。これに僕は行っているが、フル・セクションのビッグ・バンドを従えての大ステージで呆気にとられた。まぁ面白くはあったが。
 
 そして80年代からは大方の皆さんのご存知の伝説として輝き続けている訳だ。大雑把に言ってギター一本スタイルとメジャー・バンド・スタイルを代わる代わる試行しているように見える。途中ギターを持たないでキーボードをやっていた時もあったと記憶する。85年には笑わないディランで紹介したライヴ・エイドに参加している。
 その後も一人ぼっちの世界とライク・ア・ローリングストーンに載せたようにローリング・ストーンズのステージに上がったりして新境地を開く。
 思うにディランは伝説になったがザ・バンドは日本で言えば演歌歌手になって『あの人は今』状態になり、ダンコもヘルムも死んでしまった・・・。ちなみに僕は1978年卒業だ。少年時代はアジアでガンガン戦争があったんです。

ノーベル文学賞 ボブ・ディランは喜んでいるか

笑わないボブ・ディラン


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追悼架空対談 高倉健×菅原文太

2014 DEC 3 20:20:25 pm by 西 牟呂雄

幻の高倉健×菅原文太対談  -合掌ー

菅原文太(以下”文”)「ふぅー、健さんが先に逝ったんでワシもあわてたがの。」
高倉健(以下”建”)「オレもお前がすぐに追いかけてくるター思わなかった。」
文「ワシ等もまぁ潮時だったかもしれんですのぅ。」
健「お前どうでもいいけど普段も広島弁抜けないのか。」
文「もう商売道具じゃけ。」
健「だけど一緒にやってた奴等も娑婆にゃあんまり残ってねえな。」
文「梅宮と(小林)旭くらいじゃ。」
健「あれらはオレ達より5~6コ下だろ。あの代では(山城)新伍も先に来てるな。」
文「コンナと一緒にやったのは随分と前ですけぇ。」
健「ホンッと昭和だよな。確か『神戸国際ギャング団』とか三兄弟物だったな。懲役三兄弟とか。」
文「ようアガーなシャシン(映画のこと)が撮れたもんよ。今じゃ到底無理じゃろ。」
健「神戸物なんか田岡のオヤッサンもよく承知してくれたわ。昭和が染み付いてオレなんか『昭和残侠伝』だもんな、あの頃は。」
文「そっちはその後硬派路線に行ったけいいが、ワシの方は深作のトッツアンに引きずり込まれて『仁義無き戦い』じゃけ、ロクなホン(台本)に当たらんかった。」
健「そうでもないだろ。オレはテレビやんなかったけどそっちは大河ドラマにも出てたじゃないか。」
文「仁義とか筋とかホタエとりゃ脚本一本いけたんじゃ。昔は良かったなんぞ言いとうも無いが、もうワシの出る幕はありゃあせん。」
健「オレだってずっと『網走番外地』だった。最後の方は降旗監督の作品ばかり出たが。そっちは農業家になってけっこう硬派な発言もしてただろう。」
文「若い奴等、イケイケで危なっかしくて。特定秘密保護法だ集団的自衛権だ憲法改正とか。そりゃほいでええんじゃが。ワシャ別に左翼でもないが年寄りが少し言うとかにゃ歯止めも何もありゃあせん。ワシは子供じゃったが敗戦は堪えたけん。別に安部さんが悪いとは言わんが。」
健「それはオレも感じるな。又ああでもなったら元も子もない。貧乏するもんな。オレはそっちが農業に打ち込むのはカッコいいな、と思ってたぜ。」
文「やっぱ国の足腰を考えれば食い物くらいはしっかりしたモンをのぅ。」
健「立派なことだよ。言ってくれりゃ手伝いに行ったぜ。」
文「健さんが来たら農業が任侠になってまうが(笑)。ワシは戦争負ける少し前に仙台に移ったがやっぱり敗戦貧乏はキツかった。東京じゃなかったから飢えるまでいかなかったが。」
健「オレなんか筑豊の炭鉱だよ。みんな貧乏だったさ。もっとも炭鉱はその後傾斜生産政策の恩恵を受けてその分復興も一次的に早かったがね。」
文「じゃが秀才だったんじゃろ。東筑高校いうたら名門と聞いとるが。」
健「オレは決して秀才じゃない。そっちこそ仙台一高だろーが。」
文「そこまではお互い堅気だったけん(笑)。その後まさか懲役三兄弟に一緒に出演するとはね。」
健「昔テレビの『傷だらけの天使』でショーケンの奴が息子のケンタのことを『高倉健のケンに菅原文太のタ』と言い触らしてくれてたな。」
文「あの脚本は誰なら。」
健「あれで二人が出てきたらオモシレーなと思ったよ。声は掛からなかったがな。だけどもう一回くらい一緒にやっても良かったな。」
文「ギャラが高すぎて二人では出れんかった。」
健「まあな、だがオレ達が格安で出演したら他に困るやつが一杯出てくるしな。」
文「そりゃワシも寅さんとか出てみたい思うた。それが仁義なきの次はトラック野郎じゃったし。そう言えばタケシが撮るなら彫物背負ってもええ、言うたんじゃなかった?」
健「ああ、言った。あいつのヤクザ物は独特のセンスがあったしな。」
文「あれもそのうち『暴力団肯定だ』とかいって撮れんようになりゃせんかの。」
健「それだったらそっちの実録物を見た田岡の三代目がビックリして『よう若いモンが黙っとるもんじゃ。』とため息ついたそうじゃないか。」
文「あの山守親分は中身はともかく実際似よる、いう話で関係者ずいぶん心配したらしいが田岡のオヤッサンが押さえてくれたと聞いとる。で、二人で出るとしたらどんな役回りなら。」
健「そうだなー。お互いもうチンピラっちゅう訳にゃいかねえから最後に出てきてカタでもつけるか。」
文「そりゃええ。代貸は(小林)旭と(梅宮)辰をつけての。」
健「(千葉)真一もつけようぜ、アレはオレの付け人だったし。あと松方くらいな。」
文「若いモンはどがあじゃ。」
健「SMAPとかジャニーズを並べたらいいんじゃないか。」
文「ほいでコンナは『死んでもらいます。』かの(笑)。」
健「そっちは『弾ぁ(たま)まだ一発残っとるがよぅ。』か(爆笑)。」
ー合掌ー

架空対談 勝海舟VS西郷隆盛

方言の生きの良さ


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喜寿庵の秋 Ⅲ 

2014 DEC 2 19:19:43 pm by 西 牟呂雄

 寒いんですなこれが、川風が上がるから余計寒い。まだまだ落ち葉が凄くて、一度掃いても翌日は同じくらい散っている。大半を畑に捨てて後は焚き火にした。
 この焚火だが、この春先に逝った母の読んだ文庫本が本当に山のようにあり生前から喜寿庵の物置に積み上げられていた。もはやブック・オフでも引き取らない(バーコードもない)ゴミの山になって困っていたのだが、焚き火にくべてだいぶ燃やしてみた。パチパチ燃えながら煙が宙に溶けていくのは、寒いせいもあってなかなか侘しいものだった。
 ところが、だ。落ち葉は燃やせば一握りの灰になって終わりだが、文庫本というのは恐ろしく大量の灰になってしまうことを初めて知った。調子に乗ってドンドンやったもんだから処理に困り、そのうち風で飛んでしまうだろうと庭の片隅に捨てていたら一向に消えず、塊になってしまってあわてた。しょうがないので半分は畑に撒き、半分は庭のモグラ道に埋めた。モグラめ、今度来たらさぞ”掘り心地”が悪いだろう、ザマミロ。ここは渓谷の上に立っていて土壌が抜けやすいから、そのうち土になって家を支えてくれるだろうか。『バアさん頼むぜ。』と声を掛けながら踏み固めた。
 それにしてもあれだけの量を”読んだ”のには感心させられるが、なぜその教養が息子の教育に生かされなかったのかは謎だ。僕がこのような人間(具体的には敢て書かないが)になってしまったのは少なからず親の責任というものがあるだろうに。
 等と悪態をついているが、先日実家をかたずけていた妹からオーディオを捨てようとしたらレコードが載っていたままだったと報告があった。恐らく10年近く前、母が最期に聞いたモノではないだろうか。モーツアルト交響曲40番『ジュピター』で何回も何回も聞いたのだろう。好きだったことがを思い出される。そういう人でした・・・。ワグナーもヴェートーベンもなぁ。

最後まで散り残った鮮やかな紅葉

最後まで散り残った鮮やかな紅葉

  ところで喜寿庵に飛び地があることが分かった。長いことほったらかしになっていて祖母が亡くなった時に忽然とその存在が明らかになり大騒ぎになったらしい。その後誰も欲しがらずに(恐らく税金を払いたくなかった)押し付け合った挙句に伯父が相続したことになっていたが、その後誰も見たこともなかったそうだ。無論僕なんかの知るところではない。ところがその伯父が急に『もういらん。』と言い出した。どういういきさつの地面かはもう誰もわからず、山側にかかる半分の部分には人の家が立っていて残りは畑になっているとのことだった。いらんと言われてもどうにもなるもんじゃなく、町に寄付してしまえという事に一旦はなった。ところが、まがりなりにも農地ということなので、農業継続以外の転売には農業委員会の承認やらが必要だ、と。更にどうにも古い古い話なので町の方としては他所との境界線に杭を打てとのお達しだ。その費用〇十万円!金掛けて農業委員会の承認を得なくちゃ寄付ができないとは何事だ。頭に来て似たような土地問題に苦しむ境遇の従兄弟に話してみたら過疎地の耕作放棄地は引き取り手が無く、山林に至ってはハッキリと行政から断られたそうである。

 疲弊する地方と言っても駅前の商店街ばかりじゃない。そもそも空き家になってしまうウチも多い。『ふるさと』とか『ふれあい』といった呪文のような言葉を並べてみてもダメだ。金をかけて1500mくらいボーリングすれば温泉も出るだろうがそんな物一時しのぎに過ぎない。食料自給率のことを声高に言うムキもいるにはいるが、零細農家を保護したところで絶対にそんな自給率なんか上がらない。買った方が安いに決まっているからだ。このご時勢に食料輸入商談を拒否されるなんて考えにくい、危険なモノが混じっているのは別として。選挙の最中にまさか大っぴらに言う訳にもいかないだろうが、地方の土地なんか絶対に値上がりしない。古くは『新しき村』運動やヒッピーはどこへ行ったんだ。こうなったらワシが手の掛からないジャガイモでも大量に栽培してポテト・キングにでもなってやろうか・・・・。タダで配りますよ。エッ、いらない?そうですか。

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喜寿庵の秋 Ⅱ 地方創生

今はもう秋 港で思ったこと

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