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シン・本能寺

2023 JUN 17 16:16:37 pm by 西 牟呂雄

 その日信長は御所に参内し正親町天皇に拝謁賜ることになっていたが、前日に寂光院本因坊と鹿塩利賢の囲碁に夢中になり、日の変わる時間まで観戦していた。昂る気持ちを抑えるためである。
 天皇に拝謁する名誉のために興奮したのかと思いきや、むしろその逆。こちらの無理難題にどう答えるのか、無論天皇の権威を軽んずるつもりはないものの、取り繕おうとする公家共の不安と緊張を想像すると暗い笑いがこみ上げてきて、囲碁の観戦ののちも眠れなかった。
 一つは暦の統一、すなわち公に使われている土御門流の京暦ではなく、三島大社が頒布する三島暦に変えろ、と迫っていた。さらに厄介なのは、今日まで無冠であるため何がしかの沙汰が下るはずであるが、事前に内意を打診されても全く答えていない。かつて征夷大将軍を求めたところ、源氏でないがゆえに拒否された。それを逆手にとってのいやがらせで以後いかなる冠位も拒絶し、朝廷は真意を測りかねていた。太政大臣か関白なら受けるのか、いずれも蹴飛ばして朝廷の顔に泥を塗るか、今日の振る舞いにかかっていた。
 夜が明け始めた六月二日。明智光秀率いる1万3千の精鋭が本能寺を包囲した。魔王の名を欲しいままにしていた信長の運命は49歳にして潰えたのである。自身の好む幸若舞の50年の直前であった。

 京の町は本能寺周辺及び長男信忠がいた二条御所の周りは火炎と逃げ惑う人々で騒然とした。ただそこ以外は御所も上京の町もシンと静まりかえるだけだった。この辺りは幾多の覇者が君臨しては滅び去っていくのを見続けている。正親町天皇の心中は計り知れぬものの、堂上公家や街衆の鈍い悪意が京の都全体を覆っているのであった。
『今度のモノノフも案外脆うおしたな』と。
 元亀四年、足利義昭が挙兵した際に信長はこれを鎮圧する際に都を焼き払う、と申しつけた。それはかなわん、と街衆の宿老達は上洛してきた信長に銀を献上して許しを請うた。二条より北の上京は銀1300枚、下の京は800枚を献上した。ところが信長は公家・幕臣・大商人のいた上の京が信長を軽んじていたとして銀没収のうえ上京は焼き払い、下の京は何もせず銀も受け取らなかった。この段階で京の人々は何とも小面憎い田舎者よと信長を毛嫌いし、従ってこの日の変においても、とうとうやられたか、ところで明智様はまだましかいな、の冷笑である。
 何しろ今日に至っても『戦前・戦後』のいくさは応仁の乱を指す土地柄である。権力者の栄枯盛衰などいかほどもない。ただお上と都が続くだけで事足りる人々なのだ。

 ところが討ち入った光秀は焦りに焦っていた。信長の首も遺体も出ないのだ。まさかあの業火を逃れ包囲を潜り抜けたのではあるまいな。それを思うと気が狂いそうな衝動に身が焼かれる。
『まだか、もっとよく探せー!』 
 声を振り絞っていたところに、一人の男が訪ねてきた。吉田兼見、旧知の下級公家だ。というより信長にすりよって覚えめでたく公家にしてもらった吉田神社の宮司である。信長の比叡山焼き討ちの際にこの男に天罰があるのかと尋ねたり、前述の上京焼き払いの際にも将軍足利義昭の評判を尋ねると、いずれも信長の喜びそうなオベンチャラを吹き込んでいた。曾祖父が唱えた本地垂迹(ほんじすいじゃく)を逆にしただけの吉田神道の後継者だが、正親町天皇の嫡男、誠仁(さねひと)親王の側近として仕えていた。細川幽斎の従兄弟でもある。
 実は、信長と同時に襲われた嫡男の信忠は妙覚寺にいたが、守り切れぬと悟ると親王のいた二条新御所に逃れ、そこで腹を切っている。すなわち信忠の最期を見届けたのだ。
 その兼見、様子見にやってきたことはあからさまで『おめでとうございます』と切り出されて光秀は鼻白む。首実検もできていないのにめでたいもあったものではない。銀50枚をくれてやり追い返した。こういう男は何を言いふらすかわからないので銀だけは惜しげもなくくれてやった。ところがこれが悪い癖になった。
 信長の遺体は結局みつからないまま、光秀は信長の居城である安土城にいた。するとそこにまたノコノコと兼見が訪ねてくる。今度はお上へのご用立てと称して朝廷に献上するための銀500枚を貰い受け帰った。
  このことはなぜか世人の知るところとなり、後に兼見は津田越前入道なる怪しげな人物に強請られている。

 時に利あらず、光秀は中国大返しで疾風のごとく舞い戻った秀吉の軍門に下った。信長の息子達は何人もいるがどれも器にあらず。宿老筆頭柴田は主君の仇討ちができなかった。丹羽長秀も遅れをとり、滝川一益は遠く関東に。天下人に最も近いのは秀吉となった。
 某日、秀吉は吉田兼見を呼び出している。
 二人だけで小声で話しているうちに、突然秀吉の表情が変わった。猿面とまで言われた異相が憤怒の表情になるととても正面から見ることはできないほどの恐ろしさ、兼見はひたすら頭を垂れるのみである。すると秀吉はついに大音声を発した。
『この大たわけが!ワシが知らんとでも思っておるのかー!』
『・・・もっ・・申し訳ございません』     
 飛び上がらんばかりに顔色を変えた兼見は額を畳に擦り付けて平身低頭する。すると秀吉は立ち上がって寄って行き、耳元に何かささやくと奥に引っ込んでしまった。
『へへ~~!』
 そしてこの男、自分の分としてもらい受けていた銀50枚を秀吉に献上するのである。

 以上は史実である。このこと、変につき朝廷および秀吉が何らかの情報を握っていたことの傍証にならないか・・・。
 更に、例の『時は今、雨が下知る五月かな』を光秀がら引きずり出した『愛宕(あたご)百韻』の宗匠を務めた里村紹巴も怪しい。
 この人は豊臣秀次の事件にも連座しかけたりと色々危ない人物で、秀吉も疑ったフシがあるそうだ。しかし・・・、実際には呼び出して対座した際の会話は残されていない。例えばこういうのはどうか。
『紹巴よ、よくぞ明智の心胆見抜いてくれた。おかげでお屋形様の仇討ちができたわい』
『恐れ入りまする。さてこの紹巴、一介の連歌師にていささかふところの方が・・・』
『おぬしもワルじゃのう。フッフッフ、いきなり羽振りがよくなってはあからさまじゃ。銀50枚でよしとせい』
『ハッハー。あり難き幸せ』
 

本能寺の変 以後

本能寺の変 以後

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Categories:信長

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