Sonar Members Club No.36

カテゴリー: ヨット

潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 

2015 MAY 14 19:19:00 pm by 西 牟呂雄

 古代史のヒロイン額田王(ぬかだのおおきみ)の力強い歌である。
 
 
熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

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 一条の光に導かれ
 友よ力込めたまえ
 まだ波静けくあるうちに
 
 我が目指すところ
 遥かなる 海原の
 風まだ猛くならぬうち

 友よ さあ 力込め
 櫂しならせて漕げ 
 外海で 帆をはらむまで
 

 夜間帆走というのは荒天で灯台も見えないような外洋の場合、大変に難しい。風とコンパスだけで心細い航海が続く。しかし月も星も見えないで何時間も舵を取っていると必ず恐怖感が麻痺してしまい、返って緊張感がなくなる方がヤバいそうである。4人で太平洋を横断した人が言っていた。外洋の懐の深さ、大きさ、そしてその恐さを語って余りある。その人達は33日でサンフランシスコに入港したが、日本を出た途端に低気圧を喰らって帰港しようかと随分悩んだそうである。
 もっとも近海でも注意しないと内航貨物船は夜中航海しているから危険だ。
 影のできるほどの月夜で天の川が目測できるような満天の星に気を取られ、千トンクラスの貨物船が接近しているのに気付かずヒヤリとしたことはある。航海灯に気が付いた貨物船の航海士が汽笛を鳴らしてくれたのだった。
 そして未明の薄明かりの時は、実はもっとあぶない。障害物(船舶等)が海の色に溶け込んでしまって良く見えなくなってしまう。
 結局航海は常に危険に囲まれているのだ。

 ところで冒頭の歌の熟田津は愛媛県のあたりらしく、百済からの援軍要請を受けた倭の軍が出港する時の歌だ。あの時代の航海術では風の悪い時期の玄界灘なぞ、行くのも命がけだっただろう。

 かの人は天皇兄弟の三角関係から壬申の乱の遠因になったという説もある。
yjimage[1]

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る
 これは天智天皇行幸の際に歌ったのだが、それに対し大海皇子が
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
 と返歌したので、前述の三角関係説の傍証とされている。確かにはじめは大海皇子のツレだった。
 このやり取りの故池田弥三郎氏の解釈がメチャクチャ面白い。僕は40年以上前に聞いた語り口を未だに覚えている。池田先生は江戸っ子なので話し言葉のニュアンスを思い出してちょっと再現して見よう。
「あれは宴が始まって酔っ払った大海皇子が下手な踊りでも踊ってるんじゃないんですか、ラジオ体操みたいな。額田王は前のオトコだった皇子に向かって『コレコレ』ってな具合で注意を促してるんですよ。周りみんな、今は天智天皇の彼女ってこと分かってんだから、何にも言えない。それを大海皇子の方も『いまだに惚れてますよ。』ってな按配で返してる。この歌の時点でどう考えても40台後半ですからあの時代では大年増どころじゃない、『恋ひめやも』も何もないですよ。それぐらい大らかだ、と思ってないと古代のウタゲってもんはわからないでしょう。」
 いやはや、さばけてますな。

 またテーマと関係ない話になってしまった。

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沖の小島に波のよる見ゆ 

2015 MAY 11 23:23:34 pm by 西 牟呂雄

 言わずと知れた鎌倉3代将軍 源実朝の名作です。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

初島 こんな感じでポツン

初島 ポツン


 

 この歌を解釈した文献を読んだが、色々考えなくてもこのリズム感が素晴らしい。「わが」「みゆ」のノリの良さはどうでしょう。
 箱根権現に詣でたときのものとされていて、ここに出てくる小島は一般的には熱海沖の初島を指すものと考えられているようです。
 しかし、海岸付近から初島を見ると島は海に浮いているように見えてとても『波の寄るみゆ』にはなりません。又、箱根から鎌倉に抜けるのは小田原に出ますが小田原からは初島は見えないのです。  

おほ海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

こんな感じ

こんな感じ

  
 
 ダイナミックですね。こちらは「おほ」と「とどろに」がすごい。僕はこの歌も大好きです。このノリはロックンロール。現に阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲ダウンタウン・ブギウギ・バンド『アイム・ジャスト・ア・フーチークーチー・マン』の歌詞なんかに「裂けて砕けて、散っていくのが、バカなオイラにゃお似合いさ」などとパクられています。Hoochie Coochieって猥雑な意味なんですけどね。ちなみに宇崎竜童はこの手をよく使っていて、キャロルの「ファンキィ・モンキィ・ベイビー」が流行った後こっそり「ヤンキィ・モンキィ・ベイビー」なんて曲をアルバムに滑り込ませたり。
 話を戻して、鎌倉・葉山・逗子のあたりでこんな光景が見える磯はありませんね。あの辺は余程の荒天でなければこの歌のような波は立ちません。稲村ケ崎も結構遠浅ですから、多少波が高くても『われてくだけて』にはならないのです。
 実朝は藤原定家から万葉集の写しをもらい狂喜したとされます。確か12歳で征夷大将軍になったのですが、鎌倉幕府の体制が定まっておらず生涯ナントカ合戦やカントカの乱に苦しめられ、最後は暗殺されてしまう悲劇の人です。詩心があった青年は万葉集を熟読して心を慰め、また楽しんだことでしょう。
 で、ここから私の仮説ですが。実朝は実際には『波のよるみゆ』や『われてくだけて』の光景を見たのではなく、想像で詠ったのではないでしょうか。
 本歌取りはいくらでもありますし、別にこれらの歌の芸術性が損なわれるわけではありません。それどころか想像によってこれだけのダイナミックな歌を紡げるところが天才たる所以ではないか、そしてきっと海が大好きだったでしょう。

 私は見たまま

江ノ島越しに富士

江ノ島越しに富士

南風 相模の海の 色あわし
  未だ ま白き 富士はさびしき

 連休の時は靄ってしまうことが多いのですが、たまにうっすらと富士が見えます。この時期富士山はまだ頂上部分が冠雪してきれいです。

海原の 波の飛沫を 跳ね上げて
  若き イルカ等  十ノットで行く

 我が愛艇はいい風を拾っても7~8ノットが精一杯。実際には年寄りのイルカも混じっていたかも知れませんが、しばらく面白がって船と伴走していたのが飽きたのでしょう、群れが一斉に抜き去っていきました。

源実朝の嘆き

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萌え出づる春になりにけるかも

あかあかや 華厳

真鶴港にいます 

2015 MAY 4 17:17:23 pm by 西 牟呂雄

unnamed[8] 久しぶりのセーリングで本日真鶴に入港しました(5月3日)。小さな港町で観光コースからも外れてますし、海岸も温泉もない(少し離れたところに小さな浜はありますが)。1軒旅館があってそこの小さいお風呂にお金を払って入れてもらうのです。その昔、従業員用のお風呂にタダで入ったツワモノもいましたが。今回はクルーが多かったので僕たちはそこに強引に泊まり、堂々と入りましたよ。
 それでもお刺身定食や焼き魚定食はどのお店で食べてもメチャクチャおいしい。
 しかも今回は後ろに流していたトローリングにかかった鯖を〆めておいてお寿司屋さんでおろしてもらって食べました(あんまりおいしくはなかったけど)。
 風は東南の微風。ビールをしこたま飲んでガンガン焼けました。この時期の紫外線は夏より強くて1時間で真っ赤になります。
 そうそう、航海中にイルカの大群がしばらく面白がってヨットの横を伴走して泳いでいました。ああやって遊ぶのを見るとやはりそれなりに知能がある動物なんでしょうね。写真に撮るのを忘れたのが残念でした。
 入港すると同じポートの仲間の船がいて、大島から回航してきたそうです。トランスパック・レースにも出た筋金入りのクルーです。一緒に大宴会になったのは言うまでもありません。
 あすは天気が変わって大風が吹くようなので、朝5時には出港です。速く寝なくちゃ。

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真夏の油壺

2014 AUG 4 10:10:33 am by 西 牟呂雄

 『油壺』というのは正確には湾の名前。ここにもう30年以上通っている。古くからのヨット愛好家が多い油壺ヨット・クラブのホーム・ポートで、どの季節でも美しい入り江だが、やはり真夏は格別だ。先日ここの納涼大会が行われて、オヤジ・バンドが出たりハワイアン・ダンスのお姉さんが踊った。
 こういうときに舞台の方から『さあ、ご一緒にどうですか~。』等と声がかかっても、恥ずかしがってなかなか直ぐに上がる人はいないのだが、ここは違う。真っ黒に日焼けしたオヤジ共が我先にワーッと来てしまい、勝手なフリで踊り出して、フラのお姉さん達が引きつってしまった。一応笑顔を見せようとしていたが、恐怖感からかどうしても強張ってしまうのだ。念の為遠くからも見たが、やはり集団発狂した盆踊りにしか見えなかった。
2014080214510000出港を待つ 愛艇 『アル・カン・シェル』の雄姿

 湾の入り口までいってアンカーを打ち、ゆらりゆらり波に漂いながら日光浴や海水浴をしていると、何故か強い酒が飲みたくなる。しかし、海をなめると大変なことになることは皆知っているからがまんがまん。油壺湾の出口は地形も潮のながれも複雑で、一杯やってウトウトしながら浮き輪につかまって漂うと、どこへ流されるか分からない。

 確か麻生元総理の弟さんがヨット回航中に難破して亡くなったのもこの辺りじゃなかったか。

 石原慎太郎先生の『コンテッサ』も長いこと係留されていた。初期のヨットものエッセイに油壺の描写があり、あまり昔と変わっていないのが分かる。

 この湾の手前でよく勝手にテントを張ってキャンプしていたが、殆ど野生に近い放し飼いのニワトリと縄張り争いをしたことを思い出す。最近見ないがどうしたのだろう。
2014080214500000出撃準備の完了した油壺水軍の無敵艦隊

 さて我慢に我慢を重ねて上がってくれば、ご覧の酒池肉林バーベキューが待っている。海の幸、山の幸、生ビール、ウィスキィ、バーボン、焼酎。この内の高級焼酎の原酒をヘベレケに酔っ払ってラッパ飲みしてしまい、大顰蹙を買って怒られてしまった。その後意識を失っていたのだが、誰も探そうともしなかったことが翌日分かり、わが身の不徳の致すところ大である、とむしろ自慢した。すなわち『あいつはどうせ死なない』と思われているからだ。

2014080215100000見よ この肉塊を!

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風任せゴールデンウイーク航海記

2014 MAY 7 9:09:11 am by 西 牟呂雄

 桜も終わる季節に、身内の不幸がありドタバタしていて5月の初めまで身動きが取れなかった。連休前半に諸事片付いたので、もう半年以上足を向けなかったヨットに乗りに行った。しかしこの時期はまだ風は冷たく、またすぐに向きが変わるので航海計画を立てるのが難しいタイミングでもある。
 3日朝に集合して伊豆の大島を目指そうかとなったのだが、災害の起こった元町には入れない。波浮の港もいいのだが、北側の岡田港を目指すことにして、ハーバーの僚船にそのことを告げると、オレも行くというのがいてランデブーで午前9時に出港。
 大島は天気の良い日に全貌が見えると他の島より遥かに大きく、飛行場もあるし、源為朝の伝説も残り中々面白い。9ホールのゴルフ場まである。尤もセルフだしグリーンも芝をうんと短く刈っただけ、フェアウェイが普通のラフぐらいのコースなのだが。何年も前にワン・セット持っていくのは大変なので、一人クラブ3本縛りで回ったことがある。各人バラバラの選択だったが、パターは皆持っていた。結果はドライバーを選択した者はダメでアイアンのみを揃え、サンドウェッジをもってきたものが勝った。これは我々レベルがいかにドライバーでOBを出し、バンカーに打ち込んでいるかを表しているのではないだろうか。
 航海は大島岡田まで大体6時間くらいだが、この日は午後から南風が強くなるとの予報が出ていた。航路から言って南風は上りできつい。その風の吹く前に後1時間の所まで行ければと思っていたがアラ不思議、2時間も経たない内にその風に変わってしまった。しかも21~23ノットの強風で、波の頭が吹きしぶく白波が立ち船はバンバン叩かれ出した。僕達はズブ濡れになってすぐにやる気を失くした。
 問題は僚船で、見捨てて反転するのも気が引ける。それが今日では携帯がかなりの沖まで通じるので掛けてみると話せた。案の定(有難いことに)向こうも挫けていて、それじゃあと反転した。
 ヤレヤレとホッとはしたが、このままホームに帰港するのはいかがなものか。風にビビッて帰ってくるのはヨット乗りとして恥ずかしいのではないか、という意見が出てまたもや携帯会談。苦肉の策ではあるが、油壷の目と鼻の先にある三浦港に入って大島に行っているフリをすることになった。
 三浦港は鮪料理で有名で、近場の観光地として以前より人出が多い。観光案内を手にして食べ物屋を訪ね歩くカップルがたくさんいた。その中で一際みすぼらしいオジサンが僕達だ。何しろ寝泊りは船だから人目を気にすることも無く、髭も剃らなきゃカッコも汚い。おまけに散々波に叩かれた後である。仲睦まじそうなカップルや親子連れに交じってビールをガバガバ飲んで騒いでいるオッサンは顰蹙を買っていたに違いない。その勢いで三浦の街を飲み歩き早く寝た。
 翌日も、まさか一日中停泊している訳にもいかず、近場でいいや、と千葉の保田に向けて出港する。城ケ島の大橋をくぐり、東京湾に出てみれば、今度は昨日とは打って変わった東風。保田は三浦からは90度の真東にあるのだ。僚船はこの時点でまたも反転、僕たちは破れかぶれになって進むこと2時間半。タックすることもなく直進して保田に入港した。空は良く晴れていたのだ。
 保田はヨットやパワー・ボートのようなプレジャー組が漁船とトラブルにならないように、浮桟橋を整備していて入りやすいから、東京湾の船や三浦の船がよく集まってくる。入港の時に、『熱海か伊東に行く。』と言って別れたホーム・ポートの船とすれ違い、お互い昨日の風にやられて方向転換したことがバレてしまった。笑ってごまかした。
 昼過ぎに着いてしまってやることもなく、まずお風呂に入る。人工炭酸泉の銭湯にじゃぶじゃぶ漬かってその後は昼寝だ。あしたは帰るだけだし『こういうのが休日ってもんだ。』等と言い合い、昼夜積んでいたワイン・ビール・焼酎・日本酒をズーッと飲んだ。贅沢な無駄と言うかどうかは諸説ある。維持費は別にすると数人で航海するのは割に低コストなのだが、一方丘で飲んでも出来上がる酔っ払いは同じ、という説もあるからだ。
 5日の早朝の大島沖の地震には警報も出なかったので誰も気付かず、全員二日酔いで目覚めると天気は悪い。それも目の前の三浦半島の上空から太平洋に掛けて、前線が展開しているのがはっきり分かる雲の配置にあせった。
 朝の7時には舫を解いて一目散に逃げ帰った。が天は不義を見逃さず、城ヶ島沖で土砂降りに見舞われる。セールを降ろしほうほうの体で帰港すると、何故か大島には挫けて行かなかったことをみんなが知っていて『二日もどこに浮かんでいたんだ。』とバカにされた。
 連休は後二日もある。

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相模湾航海

2013 NOV 4 16:16:57 pm by 西 牟呂雄

ホーム・ポートの油壺から真鶴までは、江ノ島を右に見ながら北西の290度あたりを狙って一直線で行ける。風にも因るのだが4時間というところか。この日はひどい西風が吹いていてセーリングには難儀した。おまけに台風によるうねりが残っていてずいぶん船が叩かれた。こんな荒れた時に出なくともよかったのだが、やらなきゃならない時もある。真鶴から乗り込んで、明日回航するクルーがいるのだ。相模湾は伊豆や離島とは違って返しの三角波は立たないのだが今日は風波の相性が悪い。うねりに乗り上げてドーンと落ちると甲板をザーッと海水が走り、キャビンにドドッと海水が流れ込む。気味は悪いがセーリングはこうでなくちゃ(たまには、だが)。揺れがひどいのでグラスなんか持てない。恒例の出港祝いの乾杯も焼酎のラッパ飲みだ(バーボンの人もいたが)。波・風と戦うこと3時間くらいで真鶴半島がうっすらと見えてくる。これを良く熱海沖の初島と間違えることがあって近づいて慌てることがある。実はヨット乗りとしてはそういう間違いは物凄く恥ずかしいことなのだが、僕たちは以前何回も似たようなチョンボをしでかした。伊豆の大島から帰ってくる時に、スキッパーが『ああ、見えた見えた。あそこが三浦半島だ。』と言い張って、着いてみたら房総半島の館山だったことがある。都内に帰れなくて困ったし、関係無い漁港に係留していると、漁師は遊びのヨットが大嫌いだから何をされるか分らない。もう1レグ航海するか、じゃんけんで負けたやつを残して帰るかで大モメにもめた。結局翌日に帰港することにして全員仕事をサボったのだが。

真鶴は港の入り口にヨット・クラブがあってそこに入るのだが、そのハーバーの港湾管理者は若干知的障害があるSさんで、僕たちはしょっちゅう怒られていた。何しろ職務に忠実で『ちゃんとアンカーを打たなきゃだめじゃないですか。』とか叱られる。それが面倒なので、湾の反対側に仮停泊し、夜中に夜陰にまぎれてこっそり横付けしようと考えた。まだ日が高いので夜まで時間を潰すために麻雀の場が立った。わざわざヨットでやってきて麻雀に興じている僕たちを、釣り人や観光客が「バカじゃないの?」という顔で見ている。

そう言えば昔、まだ三浦岬に遊覧船があった頃、遊覧船が油壺の先から城ヶ島を一周して三浦まで回航していた。あまり大きな船でもなく、人も大して乗っていなかったが、時々すれ違うとやっぱり手を振ったりしてくれたりしてくれる。ある時雨が降っていて、三崎港の中を通る時には波もないから全員ビニ傘をさしていた。その時遊覧船とすれ違ったのだが、乗客には僕たちが余程みすぼらしく見えたようだ。いつものように手を振っても誰も応えてくれない。あれは僕達がボート・ピープルかなんかに見えていたのだろう。中にはお子さんもいたので「ちゃんと勉強しないとああなっちゃうんだからね。」と説教していたのかも知れない。

それで真鶴では同じような嘲笑の視線を浴びつつ麻雀に興じていたら、突如「こんな所にいたらダメでしょっ!」と声がかかった。何と職務に忠実なSさんが反対側から目敏く僕たちを見つけて、わざわざ歩いて怒りに来たのだ。ごめんなさい、ごめんなさい、と謝ってハーバーに寄せたが、結局岸壁に横付けしてアンカーは打たなかった。

真鶴の港の近くに本当かどうか知らないが源頼朝が隠れ潜んだという洞窟がある。この人は弟と違って実戦は大したことなくて、挙兵した後にしょっちゅう負けている。挙句の果てに僕たちのやるように三浦から房総半島に逃げ延びてしまった。どうも幕府を開くような政治には手腕を発揮するのだが、個別戦闘では無能だったため、イマイチ国民的人気が出ない。伊豆にはアチコチにこじつけとしか思えないような頼朝関連の史跡があるが大して流行らない。

ところで、その後僕たちは上陸して近くの旅館でお風呂に入った後、結局勝負がつかなかった麻雀をズーっと打ち続けたのだった。一体何しに行ったのか。結果?聞いてくれるな。

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山崎豊子さんの取材力

2013 OCT 4 10:10:06 am by 西 牟呂雄

 訃報に接して哀悼の意を捧げます。報道にある通り、大変綿密な取材をこなされる方だったそうです。例えば「大地の子」。物語のサイド・ストーリーになっているのは某製鉄会社の中国国策製鉄への協力です。その某製鉄会社の登場人物はことごとくモデルがおり、当時現役だった人は大体誰の事か解ったと聞いたことがあります。もちろん主人公の陸一心は架空の人物です。又、「沈まぬ太陽」。主人公にはこれまたモデルがいて、アフリカの主、と言われていた実在の人物です。飛行機事故とは関係ありませんが、ハンティングのところは本物で、これまた私の知る人でありました。古いところでは『華麗なる一族』。これは一度倒産した某特殊鋼電炉が舞台になっていますが、鉄鋼関係者にはどの会社かまる解りでした。帝國製鉄なんてネーミングも露骨でしたな。関係ありませんが物語のクライマックスに高炉の事故が描かれています。テレビのロケは某社〇津製鉄所で撮影され、主演のキムタクが来たそうです。この人は大変真面目な人のようで、現場の雰囲気を実感したい、とお風呂(製鉄現場は上がりの時に汗を流す風呂が付いている)に入ってみたらしい。勿論タイミングをずらして一人ででしょうが。そのキムタク人気おかげか次の年の入社志望者が激増して人事があわてた、というオチがついています。本当かどうか知りませんが。

 ところで、現在週刊新潮に連載されている「約束の海」。本筋は特殊潜航艇で捕虜になった海軍士官とその息子の海上自衛官、という例によって重層な筋立てらしいですが、今週の連載をお読み下さい。潜水艦「くにしお」が遊漁船と事故を起こす場面が描かれています。これ、「なだしお」の事故がネタと思われます。

 拙文「東京湾横断航海」に当時事故後に囁かれた噂を書きました。全くその通り、側に寄ってきたヨットのことがそのまま載っているのです。私としては、やはり本当だったのか、と思うと同時に一体どこから取材したのか、舌を巻きました。当時は世論を考慮して、海上自衛隊はひたすら申し訳ない、の姿勢を続けていて、この話は全く報道されていなかったのです。ヨット乗りの噂話などどこにも記録はないはずですから、密かに海上幕僚あたりが文書にしていたのでしょうか。まさか事故に居合わせた当時者に取材できたのでしょうか。

 私としては嘘ばかり書いているわけではないことが証明されたわけですが、これは諸刃の刃かも知れません。もし、熱心な取材者が現れたら(しかしその場合は私が何かの事件をおこしたりしてヤバい)巷で私がしてしまった恥ずかしい、蛮行・泥酔・無知・奇行・幼稚・アホ・バカ・カス・ボケナス振りが人に知られる可能性がゼロでは無い、ということになります。これからは、地道に目立たずやっていきますので、どうか皆様そっとしておいて下さい。ひたすらお願い申上げます。

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東京湾横断航海

2013 SEP 23 17:17:52 pm by 西 牟呂雄

秋は海の険しい季節。台風も多いのだが、夏とは風が変わってヨット屋には腕が鳴るシーズン到来だ。しかしまぁロング・レグの航海も面倒だ、とホーム・ポートの油壺から城ヶ島をかわして東京湾を一跨ぎ、千葉の保田まで行ってきた。三浦岬を越えたあたりからフタコブラクダのような鋸山を狙うとほぼ東に一直線で2~3時間の距離。いい感じのナラエの風(北西の風)に乗ってセールを目いっぱいあげると、船がグーッとかしいで6~7ノットに安定した。波は思ったより高いが飛沫を被るほどじゃない。快適なセーリング日よりとなった。

但しこの浦賀水道は日本有数の船舶航行過密地域で、注意していないと巨大な貨物船、タンカーが行き来する。基本的にはそういう船舶は避けながら行くのだがあっちは早い。大型船は海面にへばりついているようなこっちから見ると,ブリッジなどは10階建てのビルくらいに見えるし、巨大な船体とバケモノスクリューがかきあげるウェーキ(航跡波)にも翻弄される。まさに木の葉のように、だ。ポツっと見えた船は見る見るでかくなって小山のようになるから要注意。ずいぶん前に自衛隊の潜水艦『なだしお』が遊覧船に衝突した事故があったが、実は『なだしお』は衝突直前に前を横切ったヨットを避けてあの事故につながった、とヨット乗りの間で噂になった。帆走船舶をかわさねばならないからだ。ヨットの名前も伝わってきたが。

東京湾は徳利を逆さまにしたような閉鎖水系で、僕達はその口のところを航海している。こういう潮目には結構珍しい光景が見られ、目を楽しませてくれる。以前はイルカの大群が延々と30分位続くのを眺めたこともある。今回は特にハイライトは無く無事保田に入港した。ここには番屋という観光コースにも入っているお土産食堂(お風呂付き)があり、東京方面から来るクルーザーも多いのでヨットバースが充実しているのだ。浦安ハーバーからは6時間くらいかかる。たくさん係留している中に特徴のあるなじみの船を見つけた。横須賀のミスター・ネイビーの愛艇だ。ミスター・ネイビーは元米海軍の士官で、横須賀勤務が長く奥さんも日本人(ちょっと見にはサモア人に見えるが)。退官後も横須賀に住み、しょっちゅう保田に来ていた。バース(浮き桟橋)のすぐ側に海の家に毛が生えた程度のスナックがあって、そこで一緒に飲んだりして仲良くなった。テキサス生まれで海などロクに見たこともなかったらしいが、それで海軍を志望したと言っていたが本当か。年の頃は少し上だからどうやら実際のドンパチはやっていないらしいが、その手の話には恐ろしく口が堅い。正にサイレント・ネイビーを地で行っていて、何に乗り組んだのかも言わない。第七艦隊の守備範囲は極東から中近東までなので、クウェートやイラクの時には現地まで行ったのでは。

ところで、海軍は一般的に海軍同士になるとやたらと親愛の情を示すと言われているが、これは本当だった。小倉記で一度書いたが、僕の親父は旧海軍をかすっていて、それで一気に打ち解けてくれた。今回はお風呂の後、食堂でビールに焼酎をジャンジャンやってキャビンで潰れたので、スナックで盛り上がるまでには至らなかったが、翌日油壺に帰港するためにモヤイを解くと、ミスター・ネイビー夫妻がデッキに座っていた。

「グッバイ、ミスター・ネイビー。」

と敬礼すると、笑いながらピッと立ち上がり「グッドラック!」と実に様になる敬礼を返してくれた。夕べから一気に涼しくなっていた。

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西伊豆航海

2013 AUG 16 15:15:32 pm by 西 牟呂雄

西伊豆は温泉で賑わう東伊豆とは全く違って鉄道もなく、嘗ては陸の孤島とまで言われるほどひなびた集落が点在する。その代わりと言ってはナンだが素晴らしい夕日のヴュー・ポイントがあり、海も美しい。

全長34フィートのクルーザーで三浦半島の油壺からはるばる航海して、田子湾に碇を入れた。田子は田子だが、かの『田子の浦うち出でて見ればま白にぞ』ではない。あくまで西伊豆のマイナーな田子である。しかし10メートル以上の深さの海底にアンカー(碇)が届くまではっきりと見える程に高い透明度があり、この海に飛び込めば身も心洗われるのではないかと思えるほどだった。

しかもこの海は豊かだ。シュノーケリングしてみると、湾内を泳ぐ魚群がワラワラと群れを成していて、浅瀬には熱帯魚のような鮮やかなブルーの小魚もいる。そしてそれらの食物連鎖を支えるプランクトンなのか虫なのか、一見埃が舞っているような濃密な世界が覗ける。

クルーザーは丸みを帯びた船体が優雅で、女性のボディーラインを思わせる。乗っているクルーは今回は6人。私以外はベテランのヨット乗りで、中には33日で太平洋を横断したつわものもいる。出港4日目で本日は途中の下田までの回航だ。ところが、今年の記録的暑さの元の太平洋高気圧がドカーンと居座っているので、海上はうねりも無いような無風。こうなるとエンジンを駆けての汽漕でまことにのんびりと行く。この『のんびり』がくせものなのだ。なにしろ物凄い日差しで日焼け止めをいくら塗りたくっても汗で流れてしまうから、本当にのんびりと日光浴などすれば火傷のように真っ赤に腫れ上がる。暑い暑いとクーラーで冷やしたビールの奪い合いが始まり、舵はオート・パイロットに任せ、時々蝉が飛ぶように海面に飛び出すトビウオを眺めながら南下した。

下田と言えばペリー艦隊が停泊した良港なのだが、このあたりは実はかなりの難所で表から見えない『根』という岩礁がいくつもあり、貨物船の座礁事故も時々ある。おまけに伊豆半島をかわす黒潮が早く、さすがにのんびりはできない。ついでに多くの人は大島は半島の先にあるようなつもりでいるが下田よりも北に位置し、そのおかげで反射の大波が複雑な潮をつくって、たまに巨大な三角波が立ったりするのだが、奇跡のような凪のおかげで難なく入港。下田の夏祭りを見に上陸した。

下田の祭りは三味線と笛が入るのが特徴、女性が三味線で太鼓と横笛が男衆。ツントンヒャラヒャラと聞こえるお囃子が鳴り終わると花火があがった。ところが私は昼から飲み続けた挙句に酔っ払い、上陸して入った天然温泉の銭湯のあまりの熱さに飛び上がり、その後の焼酎のガブ呑みで正気を失って、花火を最後までみることはできなかった。

翌朝5時の日の出に全クルーが叩き起こされ水を積み、メシを食べ、急ぎ出港した。下田ー油壺53マイル、約8時間の航海で帰港する予定だ。同じ計画なのか、近くに係留していたヨットも3艘ほど出て行く。この日も奇跡の凪が続いて海面は鏡のようだった。田子でお土産にもらった干物を焼いて昼メシにし、水平線を眺める。モヤがかかり陸地は見えない。何ともこのまま残りの人生の時間が全部流れてもいい、帰りたくない、と思った。クルーザーはアル・カン・シェル。どなたか乗船して見たい方、遠慮なく言ってください。油壺でお待ちします。

油壺では湾の入り口で赤トンボが迷い込んできた。

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