Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 遠い光景

あれらはどこに行ったのだろう CM編

2016 JUL 24 15:15:36 pm by 西 牟呂雄

 エースがインタヴューを受けている(設定はベテランの元速球派ピッチャー。演ずるは原田芳雄)。セリフがいいぜ。
「客は試合を見に来てるんじゃないんだ。オレを見に来てるんだな。伝説の男、原田を」
 このシリーズは続編も撮られていて、メッタ打ちを喰って交代を告げられた原田が怒りの形相も凄まじくロッカー・ルームに行く。そこへ監督(本物の故稲尾氏)がキツイ一言。
「そろそろ変化球も覚えろよ」
 当時は良くパロって言っていた。
「顧客は会社からモノ買ってるんじゃないんだ。オレから買ってるんだよ。伝説の営業マン、ニシムロから」
 誰もまともに聞いてくれなかったが。
 これはキリンビールが出したシャウトというビールのCMで、近所の酒屋からこればかりケースで買っていたがヒットに至らず無くなってしまった。味?フツーのビールでしたね。

 ♪気儘な姿で ごめんなさい 空から突然 ごめんなさい♪
 この歌を覚えている人は相当なマニアです。グンゼのパンストのコマーシャルだ。美貌のモデル、松尾ジーナがミニ・スカートでブランコに乗り空中散歩をするコンセプトに、いやもう悩殺されましたネ。この〝ごめんなさい″のところは『ゴーッメン・ナ・サ・イ』と舌足らずに歌っていたのが印象的だった。
 その後、当時(星野一義が出て来る前)日本一速いと言われグランド・チャンピォン・レースを連覇していた高原敬武と結婚する。レーサーとモデルのカップルに軽薄な僕達はあこがれたものだった。高原敬武の実家はお金持ちの材木問屋で、友達の家の近くだった。そこに遊びに行った時に偶然赤ちゃんを抱いてあやしている松尾ジーナを見たことがある。モデルの割には意外と小さい人だったのを覚えている、無論とびきりの美人でハッとした。 

シスコーン

シスコーン

 「エンヤカヤカヤカヤ!エンヤカヤカヤカヤ!」
 元気な掛け声でネイティヴ・アメリカンと思しき男の子と女の子が出て来るアニメ。
 このリズムは今でも耳に残っていて懐かしいのだが、一体何のコマーシャルだったのかは全く覚えていなかった。改めて検索してみると『シスコーン』というただのコーン・フレーク。このアニメ・キャラが可愛らしくて好きだった。
 当時は海外の情報も少なく、ネイティヴ・アメリカンは未だにこんな格好をしているのかとも思った。
 そうそう『インド人もびっくり』なんていうのもひどいステレオ・タイプであんな格好はシーク教徒しかしない。

 そう言えば『ハッパフミフミ』の大橋巨泉さんが亡くなった。11PMの頃からお馴染みだった。コマーシャルではないがラジオで楽しんでいた。そう、プレイ・ボーイクラブですね。TBSの深夜放送の前にやってたアレ。
 多才な人だった。でもこの人眼鏡を取ると野村克也さんにそっくりだ。

 しかし一般に大ヒットしすぎたコマーシャルは商品名が一致しないことが多い。大昔はやったエリマキ・トカゲが走る画像が何のCMだったか覚えている人はいるだろうか。筆者は無論思い出せない。
 それ程ヒットしたとも思えないが長ーいこと同じパターンでやり続けて商品名をスリ込ものに成功した事例はこれだ。「カステラ一番電話は二番、三時のおやつは文明堂」御存知、文明堂豆劇場と称して猫だか熊だかの操り人形がラインダンスを踊るアレだ。僕の少年期からいい年になるまでズーッとやっていた。
 
 しかしこの「電話は二番」とは何を言っているのか謎だ。

あれ等はどこに行ったのだろう

あれらはどこに行ったのだろう Ⅲ


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あれらはどこに行ったのだろう Ⅲ

2016 JUL 21 0:00:33 am by 西 牟呂雄

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 コルゲンコーワの販促ノベルテイで指につけて遊ぶカエルのグッズがあった。僕はこれが好きでなぜかたくさん集めていた。商品名は”ケロちゃん”だったそうだが僕は”カエちゃん”と名付けていた。
 お絵かきの時間なんかではいつもこの”カエちゃん”の絵ばかり描いていて緑のクレヨンばかりが減っていた。終いに母親から「いつもバカみたいにカエルの絵ばかり描いて。」という心無い一言にひどく傷ついた覚えがある。
 このカエルに関して、東京オリンピックのあった1964年に等身大のケロちゃんに『あれ、おめえヘソねえでないの。おれヘソ書いてやる。』とやるテレビCMが大流行し、僕達はこぞって真似をした。それも色々なバージョンに進化したあと、ちょっとした社会問題になって中止になった。中にはヒワイな進化を遂げたものが多発したからだ。
 ところでこのケロちゃんの目は貼ってあるだけだったので遊んでいるうちに取れてしまい、そうなるとけっこう不気味な目無しガエルになってしまう。僕はセッセとマジックで目を描いたのだが、一層奇怪な黒目ガエルになってしまって悲しかった。yjimageB1ECUMDK

 これは銀行が配っていた貯金箱人形で、合併により既に行名がなくなってしまった〇〇銀行の桃太郎シリーズだ。一番左の袋に入っているのが桃太郎で猿・犬・鳥・鬼と並んでいる。鬼にはこの赤鬼のほかに青鬼もあって、僕は二組持っていて並べて遊んだ。
 この頃は他の銀行の色々なシリーズがあって、ミッキーマウスやら何やら。何しろ銀行の数が今の何倍もあったから種類も豊富なわけだ。
 実際にコインも入れてみた。昔の穴の開いた大きな50円玉とか当時数が少なかった1円玉だった。
 貯金箱の中には中途で取り出して使わないように陶器で出来ているものがあって、割らないと取り出せない。これは使う気になれなかったなぁ、なんか割る時に悲しくなるような・・・。

あれ等はどこに行ったのだろう

あれらはどこに行ったのだろう CM編


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隼は征く 雲の果て 

2016 MAY 13 22:22:32 pm by 西 牟呂雄

 「エンジンの音 轟々と 隼は征く 雲の果て――」の歌で知られる加藤隼戦闘隊は南方戦線で最後まで活躍した陸軍飛行第64戦隊のことである。そしてその愛機の正式名称は『中島 キ43 一式戦闘機』、隼である。海軍びいきの筆者ではあるが、ゼロ戦について書いておきながら(ゼロ戦と秋水)隼にもコメントしなければ名機・名パイロットに申し訳ない。

隼の雄姿

隼の雄姿

 西はインド(カルカッタ)、南はオーストラリア(ダーウィン)、東はソロモン諸島、北は千島列島まで大活躍した。特にビルマ、中国の戦線では大戦末期まで互角の結果を残したことはあまり人口に膾炙しないのではないだろうか。新鋭スピットファイアやハリケーン、P-38・P-47・P-51に対して、軽快な運動性能で内側に回り込んでは仕留めた。特に戦闘フラップ”使用したときの旋回能力はきわめて高く、中島飛行機の設計陣でこのフラップ開発にロケット工学の権威、糸川英夫が携わっていたことは知る人ぞ知る。ゼロ戦が皇紀二千六百年にデビューして零式とされたのに対し二千六百一年に量産されたので一式という名称になる。後継機も開発されたのだが、量産性・稼働率が際立って高かった。
 米・英空軍はこの隼部隊を「ブラックドラゴン」と呼んで恐れた。

 武装は12.7mm機関砲でゼロ戦の20mmより小型ではあったが、陸軍は防弾装備の重要性を認識しており防弾鋼板を装備した。このため技術交流やラバウルで実際に乗ってみた海軍のパイロットからは『狭い・乗りにくい』といった感想を持たれたようだが、対B-29戦績では良く弾幕をしのぎ防御の弱いゼロ戦と比較しても互角以上であった。

 加藤隊長は無論名パイロットだが、もう一人「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた第59戦隊飛行隊長・南郷茂男中佐を上げておきたい。この人は学習院から陸軍航空士官学校に進んだ。
 大東亜戦争開戦後すぐにジャワに進出していた同戦隊に着任する。
 明朗快活、竹を割ったような性格の快男子で上下問わず同僚に愛された人物だったが、1944年には戦死してしまう。
 実はこの人の実兄、南郷茂章(みちふみ)もエース・パイロットでこちらは海軍。学習院の旧制高等科から兵学校入りをし少尉時代は艦上勤務だった。その後霞ヶ浦海軍航空隊で源田実に鍛えられ飛行機乗りとなる。支那事変が始まっており大陸に派遣され撃墜王の名を欲しいままにするも、惜しい事にこの頃はまだゼロ戦がなく、海軍九六式艦上戦闘機だった。撃墜した敵機と衝突して戦死。
 他にも「白色電光戦闘穴吹」と呼ばれた(どういう意味か不明だが)トップ・エース穴吹智曹長、と数え上げたらキリがない。yjimage[5]

 しかし、戦争は悲惨なものであることも語らねばなるまい。この写真は有名な知覧の特攻隊である。250kg爆弾を抱え離陸する第二十振武隊の穴沢利夫少尉である。そしてこの愛機こそ一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲。特攻はゼロ戦ばかりではない。知覧は陸軍航空隊の基地なのだ。知覧高等女学校生徒が桜の小枝を振っているということは敗戦の四ヶ月前だ。
 穴沢少尉は婚約者がいて、その物語は既に取り上げられている。
 昭和二十年の女学生は三回忌を済ませた亡母の同世代でもある。
 幼年学校、陸士予科、航空士官学校全て恩賜で卒業した若杉是俊大尉が殉義隊としてミンドロ島沖に特攻したのもまた隼であった。

 誠に蛇足ながら筆者は一度かの地を訪れ、平和祈願とともにあのような悲惨な戦争なきことの誓いを新たにして来た。

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あれ等はどこに行ったのだろう Ⅱ

2016 APR 14 7:07:05 am by 西 牟呂雄

 すっかり見かけなくなったが、変造テレカを売り捌いていたイラン人達。どうせ不法滞在だっただのだろうが、四半世紀前には東京上野公園や名古屋の新幹線口あたりにウジャウジャいて多少恐いくらいだった。
 そのイラン人が悪さをするのが記事になったことを覚えているが、ギロッポン(六本木)で知り合ったイラン人からもっと凄い事を聞いた。奴は法務省だか何だかの委託を受けて、拘留された犯罪イラン人の通訳をやっている日本語ペラペラの怪しげな男で、ヤレ新宿の暴力団を怒らせたイラン人が5人埋められた、とかイラン人同士の抗争で両手首を切り落とされたのがいる、といったヤバい話を喋っていた。
 そんなことに手を染めていたが、あの人たちも厳しい戒律のイスラム教シーア派だったのだろうか。奥さんを4人貰っていたのかもしれない。
 イランへの制裁が始まる前に既に姿を消したようだが、今頃どうしているのだろう。
 今のシリア難民を受け入れざるを得ない状況になったら、そういった方面に落ちないような一種のセ-フティー・ガードが必要だと思う。だがイスラームは難しい。
 そういえば先日、喜寿庵の近くのコンビニ(車で行く距離。喜寿庵の周りは何も無い)でブラジル人がいた。ファミレスにフィリピン人一家がいた。アジア系の全く英語が分からない若者に道を尋ねられた(と思う。こっちだよと答えておいた)。

吼える赤尾敏

吼える赤尾敏

 大日本愛国党は今どうしているのか。
 時は40年前に遡る。銀座を歩いて数寄屋橋交差点に差し掛かった僕は異様な光景に足を止めた。当時はそうはなかった街宣車が停まり国旗が掲揚してある。白髪が薄くなり真っ黒に日焼けした痩身のおじいさんがガラガラ声で演説していて、その一節を今でもはっきり思い出す。
「中国共産党はね。悪い奴等なんです。東南アジアまで行って王様だましちゃった。」
 何を言ってんだこのオッサン、と思ったら選挙に出てくる赤尾敏だった。ビラを見ると『連日糾弾中』等とある。毎日やっているのかと感心し、以後時々覗いては楽しんだ。あんまり過激じゃなく、親米の韓国派だった記憶がある(ただ、党員が社会党委員長を刺殺したことは知っていた)。
 ところで年齢を逆算して、当時の筆者がなぜ平日の昼間に銀座をブラブラできたのかは訳がある。しかしまあ、それは別の話で・・。
 それで結論から言うと愛国党自体は赤尾敏没後、分裂してしまった。現在政党としては存続しているが、街頭演説はやっていない。

懐かしい

懐かしい

 子供の頃、スリ傷をつくったり引っ掻き傷が化膿したときはまず『赤チン』を塗った。乾くと黄色がかってキラキラするような色合いになったものだった。メルブロミン (C20H8Br2HgNa2O6) という大層な名前の物質の殺菌作用で広く世界に流通したが、製造過程で水銀が出るため製造中止となった。
 ところが、驚いた事に中国から原料を輸入することで現在でも販売されているらしい。極少量のようなので薬局でお目にかかることはトンとない。いいんですかね。
 あの色をもう一度見たいと思うのだが、見かけた方はご一報いただけないでしょうか。
 改めて『マーキュロクロム液』という名前だった事を思い出した。

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2月26日に考えた事

2016 MAR 4 2:02:19 am by 西 牟呂雄

 これを書き出したのは奇しくも2月26日。ある思いつきで『侍従長』という職業を調べていた。しかし大変な事件の起きた日だったのに気が付いた。2・26事件である。
 クーデター騒ぎの功罪とその影響については既に優れた研究がなされているので、ここでは触れない。無論怪しからんことに決まっている。
 この時、安藤大尉指揮下の部隊に急襲され複数の銃弾を浴びながらも生き延びたのが、終戦時の総理大臣となる鈴木貫太郎侍従長であった。当時の侍従長公邸は三番町で(現在は紀尾井町)安藤隊はそこから皇居に直行していない。半蔵門がすぐだと言うのに霞が関・赤坂・永田町あたりを固めた。
 余談であるが、本来警視庁を制圧した部隊と先に宮城警護の交代に行った中橋中尉の部隊が合同で皇居を占領する計画があったが、中橋大尉が大高少尉とのに拳銃を突き付け合いに挫けてダメだった。
 銃弾を受けた鈴木侍従長のたか夫人が夜明け前に昭和天皇に直接電話したところで勝負あった。たか夫人は皇孫御養育掛として少年時代の昭和天皇を存じ上げていたのだった。
 、

入江侍従長

入江侍従長

 侍従長を撃たれた昭和天皇は26日の夜明け前に既に大激怒され、腰の引ける本庄繁侍従武官長を叱りつけ以後一度もブレなかった。あの緊迫感の中、誠に見事な大局観であろう。クーデターの方はそのお怒りに押されるように、関係ない人間が皇居に出入りしたり陸軍中枢との交渉に失敗する等緻密な計画もクソもなくなり投降する。
 死刑になった北一輝が残した辞世が『若殿に 兜取られて 負け戦』。血気の将校団に毅然と対峙したのは陛下その人だったということである。
 この間のお姿をつぶさに見ていたのが当時はヒラ侍従だった後の侍従長入江相政である。母親は大正天皇の生母柳原二位の局の姪だから昭和天皇と「はとこ」だか「スジいとこ」になる。さらに炭鉱王伊藤伝衛門と金爵結婚して後に離婚する歌人、柳原白蓮の甥。おまけに父親も東宮侍従長というサラブレッドだ。
 そう言えばどことなく影武者のように似ている顔の主従が、絶妙の距離感で寄り添っている光景をテレビでよく見た。
 運が悪いと言うか2・26当日の当直侍従だったため、事件解決まで軍装を脱がなかった昭和天皇と連日籠城する。
 更に終戦時には近衛師団一部のクーデター騒ぎにも遭遇している。電話線が切断され、皇宮警察は武装解除。そして玉音盤の捜索と殺気立った雰囲気の中、金庫にしまったのは入江相政の後に侍従長となる若き徳川義寛侍従だった。名前の通り尾張徳川家の出身。
 こういう修羅場をくぐった主従には特別の絆というか、距離感があったものと思われる。
 佐々淳之氏は昭和天皇御巡幸の警備をした際、天皇陛下が少しよろけたように見え、後ろに付いていた県知事だか誰かがお支えしようと寄るのを入江侍従長にピシリと叩かれた所を見ている。
 また昭和天皇が居眠りをされかけるとお座りになっている椅子を蹴るようなこともあったそうだ。無論やんごとなくコツッとされたのだろうが。
 朝から晩まで陛下に寄り添っていなければならないのは大変な仕事に見えるが、ご本人はいたってユーモリストで教養高い紳士だった。テレビの座談会に出ていたから、それぐらいの時間はあったとみえる。けっこうベランメイな口調で喋っていたと記憶する。
 さすがに砕けた感じではないが上質のエッセイも書いている。上質というのはギリギリのところで政治に関する話や皇室の話題は避けているのが巧みだということだ。
 僕の母親の義母、まぁお婆ちゃんなのだが実家は牛込余丁町だ。近所に学習院に通う若き紅顔の美少年がいて、それがあの侍従長だったという話は直に聞いたことがある。

 入江相政氏がお亡くなりになった報に接した天皇陛下は、椅子に掛けて外をみながら振り向かず「そうか」とのみ漏らされたらしい。一視同仁。
 最側近の訃報にも格別に嘆いたり悲しんだりしない帝王の心得と身だしなみに私は勝手に感動する。今上陛下の戦争犠牲者や被災者への心遣いに通じるものだろう。

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ハマのマイクと呼ばれた男

2016 JAN 16 14:14:11 pm by 西 牟呂雄

 横須賀生まれの日米ハーフ。父親の顔は知らずに育った。なかなか頭の切れる子供だったらしい。中学時代は走り高跳びの神奈川県記録を出したこともあってスポーツは万能で女の子には良くモテた。が、世間一般の人種偏見はまだキツかった。そのせいかどうかは別としても、卒業後は活動の基盤を横浜に移して本格的な不良チンピラになっていった。1960年代後半は本牧でゴールデン・カップスが抜群の人気だった頃である。アメリカがヴェトナムに本格的に介入し、横浜には米兵がウヨウヨしていた。
 今で言うイケメンでアイヴィー・ルックが良く似合った。無類の女好きでもあったから、ナンパしてはヒモになってたかり暮らしたり、また滅法ケンカにも強かったので徒党を組んで暴れたり。横浜は愚連隊発祥の地の一つだ。
 ただ、気持ちに多少『やさしい』ところがあって、ヤクザにはどうしてもならなかった。むしろカモにした。不良米兵と組んだ軍の物資の横流し先がヤクザだった。
 横浜は港湾を抱えているため古くからの博徒組織があった。愚連隊も含め合従連合の結果◎川会が取り仕切るのだが、関東進出を目論む◎口組がヤバいエリアに拠点を構えた。時に友好的に、時に敵対的に火花を散らしていた頃だ。どちらも戦闘力を確保するために武器の調達に余念が無い。
 他にも台湾系、半島系、港町特有の外人船員の組織といったグループが入り乱れていた。
 こういった危険な街を辛子色のビートルで泳ぐように行く彼を、不良米兵は『マイク』と呼んだ。ミッキー・スピレインの小説の主人公マイク・ハマーを『浜(ハマ)のマイク』と洒落てのニックネームらしい。

 デカい話がつるんでいた悪い米兵から持ち込まれた。戦闘に使われてガタがきたピストルやM-16ライフルの一括処分だ。普通こういったブツは完全にスクラップにされなければならないが、そこはそれ。需要はいくらでもある。◎川会のチンピラに話をつけると乗って来た。相場の倍を吹っかけて不良品の武器を売りつけ、前金を受け取った段階で姿を消す。
 ブツを見たヤクザは本気で怒る。なにしろ撃鉄が抜けたピストルやマガジンの入らないライフルの山だ。
「そいつをつかまえてくれー!」
 一見してヤクザが血走った眼で大声を上げながら伊勢佐木町を走って行く。
 その先には長身のマイクが俊足で人込みを逃げていく。
 曲がり角にエンジンを掛けたビートルが待っていた。素早く助手席に飛び込んでドアの締まる前に猛烈にタイヤを軋ませて発進させたあと、運転していたモデルの彼女に言った。
「やばい!オレ消される。暫く日本をフケるよ。」

 ツテも何もないワイキキのレストランで皿洗いのアルバイトを夜中にやっているマイクの姿がみられたのはその半年後。全くドン底の生活から辛くも食いつないだ。ハワイには日系人ソサイエティもあり全く英語を喋らなくても最低の生活はできたのだった。
 その内日本からの観光客も増えだす。家族連れ・パックツアー・若い男女もやってくる。
 たちまち俄かガイドになりすましたマイクが現れて『日本人のあまり行かない所』だの『秘密のホノルル』といった怪しげな悪所を連れ廻す。オッサン達には現地のナイスバディ、女性には米海軍のハンサム士官、若いアンチャンには本土のヒッピー・ガールと(殆どマイクの悪仲間)紹介するやらぼったくるわで危なく稼いでいた。3年程ほとぼりを冷ました。

 もうそろそろ良かろう、と踏ん切りをつけ(借金を踏み倒し)久しぶりに日本に帰ってきた。
 30前になっていが、取り合えず面の割れている横浜や横須賀には帰れない。多摩川を渡れなかった。
 「ワイハ(ハワイのこと)じゃこうだよ。西海岸は違うけどね。」という喋りを駆使し、現地のライフ・スタイルを紹介するようなファッション誌の営業職に就く。時代はバブルの様相を見せ始め、世の中の役に立たないものが脚光を浴びるような時代になってきていた。
 ところがこの業界、流行り廃りは世の常である。ファッションもすぐに飽きられるご時勢に、昔から馴染んでいるアイビー・スタイルを変えるのはどうも性に合わない。音楽もビー・バップ、4ビート趣味が抜けない。
 何だかんだ言いながら結局勤め人はできずに六本木で店を始め、その界隈に住み着く。
 店のパートナーはどこからこんな相棒を見つけ出したのか不思議になるほど、無性に気の合う奴と出会う。すなわちチャランポランで女ったらし。ミッキーといった、郷ひろみ似のワルだった。
 究極のナンパ・ブラザーズが結成されたのだ。マイクの方はいかにも誑し込む感じで女を口説き、ミッキーは明るく声を掛ける。ふたりで営業と称し、代わるがわる銀座を飲み歩いていた。もっともこれは店がハネたあとにアフターで来てもらうのにはかなり効果があったようだ。
 ミッキーは東京出身で育ちのいい男だったが商売歴は長く、その時点でいくつもの店を出しては潰していた。
 
 僕が知り合ったのはこの頃で、コンビはまるでバブル後の六本木の寄生虫のようだった。仲良くなると知り合いの店の『パーティー』に誘われたが、彼らが金を払うのを見たことが無い。そういった集りは当時のディスコなんかが貸切で催されていたが『ナントカちゃん来てる~?』とか言いながら紛れ込み、散々飲み食いナンパして『チョット仕事だから』といつのまにか姿を消す。
 こんな調子だから店は奴等の女調達機関ともなり、数々の危機を乗り越え(踏み倒し)、おまけにミッキーは癌にもなったくせに全快した。
 そういえばゴルフ狂いをしていて、結構うまかった。朝まで営業して店が終わってからコースに行き、酒臭い息を吐きながら2ラウンドやったりしていたが、いつ寝ていたのだろう。

 さすがにこっちも年だし東京にいない時期もあって次第に足が遠のいたのだが、先日久しぶり(10年振り?)に飲んだ帰りに寄ってみると、驚いた事にまだ生き延びていた。新しい店を出すのだとか、全く懲りていなかった。もう60代後半だろうに。彼らを見て、うっかり『人生はやっぱり素晴らしい』等と思ってしまったのは不覚としか言いようがない。

 この人物は僕の作り話ではなく本当に実在する。マイクの本名は純一という。

Yokohama Yankee 邦題『横浜ヤンキー』

贋作 ジェットストリーム (横浜編)

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にっ似ている

2015 DEC 19 13:13:07 pm by 西 牟呂雄

 フトした切っ掛けで気が付いた。yjimageXQ491WLN

 この人は60年代にマイルス・デイビスのバンドに在籍して大活躍したピアニストだと言えばお分かりか。グラミー賞各部門をなんども受賞している『ウォーターメロンマン』。何故か電子工学の博士号も取っている。

 お次はこの人。yjimage[6]

 私と同年でアカデミー賞主演男優賞を受賞(シドニー・ボワチエに続いて黒人男性では二人目)した。彼は苦労人で様々な仕事につきながらニューヨーク州フォーダム大学ジャーナリズム学部を卒業し、俳優の道に進んだ。
 あまりメジャーではないが『タイタンズを忘れない』『ソルジャー・ストーリー』等は大好きな作品で今でも時々DVDを借りる。
 彼の出世作は黒人解放運動の闘士『マルコムX』のマルコム役を演じたのが大きかった。

 そのマルコムX(改名前マルコム・リトル)の珍しいカラー写真はこうだ。yjimage55LOEGNO

 ネブラスカ州のオマハで生まれた。彼の父親はKKKにより撲殺され、母親は精神病院入り。ニューヨークのハーレムでギャングになった挙句に窃盗罪で懲役という凄まじい人生だった。
 獄中でブラック・ムスリム運動に改宗した後、独学で知識と教養を身に付ける。出所後は過激な主張のネーション・オブ・イスラム教団に属した。この人の影響でヘビー級チャンピョンだったカシアス・クレイがモハメド・アリと改名したことは有名。
 しかしその後教団と袂を分かち、教団から狙われる。そして遂に1965年に暗殺されてしまうが、当時からFBIやCIAの関与が噂された。『Black is beautiful』は彼の言葉だ。

 僕はこの3人が良く似ていると昔から思っていたが読者の皆さんはどうであろう。
 見分けがつかない?そうでしょう。実は一人目がデンゼル・ワシントン、次がマルコムX、最後がハービーハンコックなのだ。えっ最初から分かっていた?失礼しました。yjimage[1] (2)

 それではおまけにもう一人。3歳からはピアノを習い始め、ジュリアード音楽院を卒業。その後俳優に転向しレイ・チャールズの伝記映画でアフリカ系アメリカ人俳優としては3人目のアカデミー主演男優賞を受賞したジェイミー・フォックス。似ているでしょう。彼らはその昔は同じルーツだったのかもしれない。さぞ誇り高き部族だったろう。

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日本の仮面は楽し

Yokohama Yankee 邦題『横浜ヤンキー』

2015 DEC 8 3:03:43 am by 西 牟呂雄

 題名を『横浜の不良』と読んではいけない。明治時代に来日し、五代に渡り日本で生きて来たドイツ系のヘルム家の話だ。著者は四代目に当たる在米のジャーナリスト、レスリー・ヘルム氏。
 氏は日本で生まれ、高校までを横浜インターナショナル・スクールで学び、UCバークレーとコロンビアでアジア研究、ジャーナリズムを専攻した。ビジネス・ウィーク、LAタイムズの記者となり、特派員として合計8年を日本で暮らした経験を持つ。現在はアメリカ国籍で、二人の日本人を養子にした。
 仏墺戦争に従軍経験のある曾祖父ユリウスが来日し、廃藩置県以前に最も早くから洋式歩兵システムを取り入れた紀州藩で訓練を施す。しかし廃藩置県後の武装解除により、当時ヨーロッパ人の多かった横浜に移り事業を起こす。以来ヘルム一族は横浜を中心に根を張る。氏は1955年生まれ、何と私と一つ違いである。元町ですれ違ったかも知れないのだ。
 初代ユリウスは日本人を娶り、従って氏にも日本人の血が流れていることになる。この本には外見が白人ながら日本語も操る作者のアイデンティティーをめぐる葛藤が記されている。
 そういえば私も 異邦人のあれこれ などの経験で、この筆者の心境が多少分かった。ここで言うソフト差別のようなことは散々受けた事だろう。

 ところで『ヘルム』という名前には私の最も古い記憶が刻まれている。
 幼い私は母親に連れられてヨコハマに行き、生まれて初めて白人を見て驚く。そこには小さい子が乳母車のようなチェアに座ってオモチャで遊んでいた。私はそのオモチャで遊びたくなりその子から取り上げようとしたが、拒否されて大泣きする。それを見たかわいい少し年上の女の子が何かを日本語で喋ったので驚いた覚えがある。幼いながらも白人が別の言葉で喋ることは分かっていたようだ。ガレージにフォルクスワーゲンがあったこともはっきり記憶している。
 この記憶は長く眠っており、後年にあれは何だったかのと母親に聞いた。返ってきたのは『あれは横浜のヘルム財閥のヘルムさんの家よ。ミセス・ヘルムにはすごく良くして貰ったのよ。良く覚えてたわね。』だった。
 ミセス・ヘルムはエルベ川の東、イースト・プロイセンのユンカー(貴族領主)の出身で、私の母とは互いに外国語である英語・フランス語で会話したそうだ。ご一家はその後ニュージーランドに引っ越していったと聞いた。
 懐かしさと、もしかしたら私がオモチャを取り上げようとしたのが著者ではないのかと気になってしょうがない。しかし著作を読む限りでは著者には姉はいない様だった。それでも横浜のヘルムさんであることは間違いない。どうしても確かめたくなり、誠に滅多にしないことであるがおおよそ以下のようなメールを編集部に送った。

Dear Mr Helm,
I’m Ken Nishimuro, Japanese.
I noticed your book “Yokohama Yankee”,and now reading.
Because I slightly remember Helm House in Yokohama.
I was born in 1954.
I’m not sure why, but my deceased mother was a friend of Mrs.Helm.
Her name was Atsuko Hiraga.
When I was a little boy, Mama took me to Helm House.
There was a baby, looks like same aged.
I tried to play his toy, but he kept it, so I cried!
At That time Mrs. Helm said “Ken cyan, spoiled boy!”
Also I remember a pretty girl who spoke very beautiful Japanese, may be his elder sister.
Oh yes I watched Volkswagen at the garage.It was my first time to see such a beetle.
If possible, I would like to talk with you someday.
Regards,
Ken Nishimuro

 すると信じられない事に、翌日私のアドレスに本人から返事が来た。

Hi Ken,
It was great to hear from you and to learn of your memories. I am copying Marion, who lives in New Zealand. I think the pretty girl you refer to must be Marion or her older sister.

 マリオンさんはきっと著者のハトコ(従兄弟の子供同士)くらいなのだろうか。実はヘルム家と関わりのあった頃の母には、戦後の大混乱期もあって写真一枚残っていない。ミセス・ヘルムとは何の話を何語で会話したのか興味は尽きない。
 チャンスがあったら著者ヘルム氏と会って話がしてみたいものだ。

ハマのマイクと呼ばれた男

贋作 ジェットストリーム (横浜編)


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おじさんが集って話す事

2015 NOV 20 6:06:07 am by 西 牟呂雄

 先般、同期の集まりが偶然二つ続いた。こういうものは吸い寄せられるように集中するのが不思議なのだが、まァ還暦ということだろうか。
 一つは少人数4人の会。本当は5人だったが、最も多忙な大学教授が急な飲み会で欠席。この5人の組み合わせはかれこれ20年近く不定期に行われる。組み合わせの妙は絶対に外から見たら分からないだろう。元教授翻訳者・現教授かつ理事・謎のプー・受験指導者・異形サラリーマンでは何の集まりか。この間は偶然メンバーの一人の同級生が近くに二人いたので参上したところ、あまりの訳の分からなさにポカーンとされてしまった。
 前々回の時の話題は何と2・26事件!無論その後の国の進む道を誤らせた重大な犯罪であり、戦闘部隊を率いての行動は軽率の極みである。それを前提に(結果は鎮圧されただろうが)事変を色々と比較・評価する、という非常にバカバカしい話に夢中になった。と言っても一番の間抜けは誰か、を検証しただけだが。結論は中橋基明中尉となった。緋色の裏地マントを羽織る伊達男。しかし皇居に部隊を率いて入ってから、イザ外部に手旗信号を送ろうとして大高政楽少尉(近衛第三連隊御守衛上番)と拳銃の突き付け合いに挫けてしまった。
 この席では有名な盗聴疑惑についても話題になる。例の北一輝が安藤輝三大尉に電話をかけ「マル(金)はあるか。マル、マル。」と言い「あー、マルはあります。まだ大丈夫です」と返事をしたテープは実在している。この会話自体ヤラセである、或いは北一輝の名を騙った何者かの電話である、との議論だった。
 一方最も根性のあったのは唯一人拳銃自殺した野中四郎大尉ではないかとも。この人の実弟は特攻兵器『桜花』を吊り下げて飛ぶ一式陸攻部隊の陣羽織隊長として戦死した野中五郎少佐だと確認された。
 以上は大のオトナが面白がる話ではないことは言うまでもない。

 もう一つ更にアホな集まりもこなした。こちらは大勢(というか大会場を使った)なのだが、その中でも選りすぐりのバカが吹き溜まって大騒ぎと昔話に明け暮れた。
 一応お医者様センセイの講演もあるにはあったが、ゴキゲンで暮らせば長生きできる、という内容であり、それじゃ毎日俺達みたいに遊んでいればいい、という結論になっただけ。但し飲んだくれて寿命は縮まるのでは、という反論はあった。議員センセイや学長センセイ、社長様、お医者様といった立派な肩書きはあったりするが、話す内容は40年前の足の引っ張り合いに過ぎない。
 そして恐ろしいことに一部は流れて、もっと下らないドンチャン騒ぎになってしまった。
 日本語検定試験問題 「うってかわって」を使って文章を作りなさい。答 「彼は麻薬を 『打って変わって』しまった」 別解 「高い壺を『売って か 割って』どこかにやってしまった」
 これがおじさんの会話だろうか。こういう話をベロンベロンになって大声でわめきちらし、挙句の果てに『フレー!フレー!』の大エールを(他にも関係ないお客さんもいる店で)切ったのはワシだった。
 初めの講演をしたハーバートを出た医者によると、人間は120年まで元気に生きられる、という研究をしているそうだった。すると我々はカンレキだから折り返しだというのだが、帰り際には誰もが『これからもう何十年もこんなことをするのはウンザリだ』という顔をしていた。
 簡単な話だがあと60年生きてもこいつらと付き合わなければもう少しマシな人生になると思うが、忘れた頃に湧いて出て来てはそれまで積み重ねた実績や磨いた腕を一瞬にして無意味なモノにしてくれる。地頭はいいのだろうが根性は腐っている連中だ。
 ほぼ全員が怠け放題怠けていたクセに、驚くべき要領の良さで堅いサラリーマンに化けるという離れ業を見せた。しかもこの代は、管理職になると同時にバブルの崩壊に直面する。一説によるとこの連中の(ワシを含む)バケの皮が剥がれたのがバブル崩壊の一因といわれてもいる。妙な裏ワザや怪しげなネットワークからの情報を持っていて、この集まりの経済予測は物凄く当たる。例えば中国の経済成長は実力3%成長いくかいかないか、とか足元の景気はリーマン・ショック並に落ちてる、とか。
 
 こういう付き合いが濃いので、私の人見知りが酷くなるのではないかとフト思って帰った。

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酷な出題

おじさんだって前向きに生きる 

江戸っ子に伝わる都市伝説

2015 SEP 22 18:18:52 pm by 西 牟呂雄

 僕は江戸っ子四代目になる。子供の頃は下町で育ったので生活圏は東は銀座から西は靖国神社まで、北限は上野で南は大手町といったところだ。そして面白いことに銀座より東側を『下町』と呼んで、ガラが悪いとバカにしていた(失礼)。ガラは同じくらい悪いくせに、自分たちは山の手だと思い込んでいたのだ。当時は新宿があんな繁華街だとは知らなかった。
 四代目クラスの家は地元の言い方で『震災前』となる。現時点ではお江戸の昔からの家は余程の老舗でない限り絶滅していて、そういう家は『御維新前』で別格。次が『震災前』組で『戦争前』と続く。ゴチャゴチャしていた街はバブル期の地上げで様相が変わりビル・マンションだらけになり戦後に住みだした人が大半だろう。
 口裂け女が流行ったように子供の噂は千里を駆ける。思い出すと懐かしいヨタ話があった。

上野戦争は彰義隊が勝ったはずだった
 結構昔から御徒町あたりで言われていたそうだ。正しくは大村益次郎指揮の元、佐賀藩の新型アームストロング砲を撃ちこまれて粉砕されたのだが、意地っ張りの連中が言い触らしたのだろう。
 勝海舟と西郷隆盛の談合で無血開城してしまったのが癪にさわったと見えて、寛永寺に屯する彰義隊はえらくモテたのだそうだ。破れかぶれになって毎晩吉原で遊び倒したのだから『いいお客さん』だったはずだ。
 上野戦争が始まる直前に会津藩の旗を掲げた正体不明の一隊が御徒町あたりに加勢にやって来た。いよいよドンパチが始まってその一隊は黒門から寛永寺の境内に入って行ったのだが、こいつらは実は長州の回し者で直ぐに裏切って彰義隊は大混乱に陥りコテンパンに負けたのだ、とか。
『裏切り者を信用してなきゃ官軍なんざ屁のカッパだったんだ。』
と子供相手に熱弁を奮ったオヤジは実在した。更に良く分からないが
『ノガミの山が燃えるとアオいんだ。』
というのもあった。ノガミは上野をサカサマ言葉にした言い方。浅草はエンコと言ったっけ。 

広瀬中佐の銅像は戦犯にされた
 神田の須田町の交差点に、日露戦争の軍神広瀬中佐と杉野上等兵曹の銅像があった。交差点の横に『広瀬中佐の銅像は所在が不明になっています。御存じの方はお知らせください。』というタテカンがあったのを記憶している。
 おそらく戦争中の金属供出令の時点で溶かされたのだろうが、地元ではまことしやかに解説する奴がいた。
「ありゃ進駐軍が来るまであったんだ。アメ公が本当に来ちゃったんで町内のオッチャン達がビビりあがって『戦犯だ、責任を取らせろ』とか言い出して捨てちゃったんだよ。」
 本当かよ。

番町更屋敷は六番町のあの家のことだ
「本当の話なんだって、あれは。」
お皿が一枚、二枚、お菊さんの声が聞こえて来る怪談『番町皿屋敷』の話。
 イサムちゃんが教えてくれた。場所は六番町で今でもその井戸はあるのだとか。
 早速ガキ探偵団が結成され、僕達は四谷まで遠征した。電車に乗り駅前の双葉学園の横を通り、その頃日本テレビがあった方に行き、二番町の方に曲がる。隊長のイサムちゃんは▽▽小学校の奴から教えてもらったと言ってドンドン進む。確かベルギー大使館があったのじゃなかったかな。そのあたりのお屋敷の前で
「ここのウチだ。」
と厳かに告げた。今では生垣だったかブロック塀だったか記憶が定かでないが、皆でしがみついてその家の庭を覗きこんだのだ。すると、本当に井戸があって簾のような物が被せてあった。
「・・・・ホントに井戸がある。」
「あれか。」
「じゃ、この家の人はお菊さんの声を聴いてるのか。今でも。」
「どうかなー。どうする夜になるまでここにいる?」
「やだよ。」「オレもやだ。」「もう帰ろうよ。」「このウチの人に怒られるんじゃない。」
声がデカくなったのか、家の中からおばさんが顔を出したのが見えた。
「逃げろ!」「ワーー!」
走って逃げた。今でもあの家はあるのだろうか。場所は思い出せない。

六方詞(ろっぽうことば)

狼少年ケン


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