Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 古典

あやしうこそ物狂ほしけれ 

2016 FEB 8 22:22:19 pm by 西 牟呂雄

 春節。太陰暦の正月一日は今年は二月八日です。新暦正月はいつも通り喜寿庵にいました。毎年当たり前のようにスノボで初滑りをしたのですが、果たして何のために滑るのか一瞬迷った。上達する可能性はもうない、上達したところで”それがどうした”ですね。運動のためと言えなくもないが、疲れるとすぐやめてしまうから体力がつくまで行きませんね。爽快感はあるといえばありますが、スキーの直滑降ほどのスピードは出せません。第一この年でムチャをして骨折でもしたらバカ扱いされます。
 いっそ朝から酒でも飲んでしまおうかとも考えましたが、お腹が空いたのでラーメンを食べるという安直な理由をひねり出しゲレンデに行ってつくづく年齢を感じたことは既にブログに書きました。することがないので余計なことをして、気が付きたくもないことを実感させられて、と。
 2日・3日は箱根駅伝を肴にチビチビと酒を飲みウトウトしていました。それにしても彼らの体力と根性は素晴らしい。無論選手達も名誉に思い達成感を抱いたことでしょう。この20チーム200人は今この時点でスーパースター、優勝した10人はその名を刻まれます。しかし、更にオリンピックの長距離に出るような人は稀であり、殆どの選手を私達は1年後には忘れてしまいます(神野君は別)。実は某大学の駅伝部で(強豪校です)箱根の山下り(6区)を走ったことのある若い人を知っていました。その子は何かのケチがついて退学してしまい、会った時は陸上など見るのもいや状態で、色々あったのでしょう。自由になって最も好きだったものを失ったとも言えます。
 以上のことはどうでもいい話ですが。

 何もすることがなくなるとそれは不幸なのでしょうか。多くの人はそう思うかもしれません。しかし何かをやってさえいればそれで満足するものなのか。
 何もしない暮らしこそ最高だとは思えないですか。喜寿庵ではいつも一人だから自由と言えば自由。即ち何もすることがありません。去年はヒマにまかせて野菜造りに挑戦してほとんど失敗しました。時間も労力も全くの無駄。せいぜい失敗作を造る自由を満喫した、くらいかなぁ。
 ゴルフをやったりスノボに行くのも勝手に一人で行きます。それでいて深刻な孤独感に浸るとか、ひとりぼっちを実感するようなことはない、いや、何かに困ったときはあるな。生活はしていますから。
 毎日毎日一人でやりたいことだけをやって暮らすというのは現実的ではないですね。恐らく時間が限られないと何でもかんでも後回しにして、後で大変な事になり七転八倒することになりそうです。

 『つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ』という書き出しであまりにも有名な徒然草です。兼好法師は何もしないで「日ぐらし硯に向かいて」いたのでしょうか。勿論全部読んだ訳ではありませんが、知る限りではアチコチ出かけてはアレはダメとかコレは面白いとか言っています。また人の噂も大好きで、ネットも電話もない鎌倉時代にドコソコの誰は立派だとか、ナントカは大したことないと聞く、などと実名を書きつけています。比較的偉い人の悪口は書いていない。
 十月を神無月(かみなづき)と言うけれど記したもと文(ふみ)はない、といったヒネた意見も載せています。信濃の元国司行長という人が平家物語の作者だとありますが、これには諸説あるようです。
 それで思うに兼好法師、何もすることが無かったんじゃないですかねぇ、要するにヒマ。
 どうも鎌倉時代は京都周辺には将軍の直接の圧力は感じられず、山城・摂津・河内の国は半独立圏の趣があって気楽そうです。

 しかし時は流れ鎌倉末期から室町時代に移行する大混乱時代を迎えます。
 兼好法師も晩年にかの悪名高い足利尊氏の右腕、高師直に接近したという説もあります。人妻に宛てる恋文を吉田兼好に書かせたことが太平記に出ていて、これが後に江戸歌舞伎の忠臣蔵のネタにされています。二人でどんな会話をしたのでしょう、何しろ希代のワルと隠遁者。噛み合ったのかお互いに利用したのか興味の尽きないところです。

 『あやしうこそ物狂ほしけれ』は今の言葉で言えば『一日中ヒマすぎて、マジ頭にくるぜィ』くらいかもしれませんな。

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萌え出づる春になりにけるかも

雨ニモマケズ

あかあかや 華厳

平成二十七年 吉例顔見世大歌舞伎

2015 NOV 30 19:19:42 pm by 西 牟呂雄

 見ましたよ、見て来ました。東 兄は昼の部に行ったそうですが、あたしゃ夜の部です。
 これだけ盛り沢山だといちいち感想を述べるまでも無い。演目は海老蔵さんのところのチビちゃん堀越勧玄ちゃんのお披露目、忠臣蔵の仙石屋敷、歌舞伎十八番の勧進帳に海老蔵さんの河内山宗俊といやもう大変なモンでした。普通の2日分とでもいいましょうか。

初御目見え

初御目見え

 お披露目はですな、さすがに市川宗家だけあって華やかでいいですね。鳶の親方の染吉は高麗屋の染五郎さん、松吉は音羽屋の松緑さん、仕切りが松島屋仁左衛門さんで町年寄は音羽屋菊五郎さん。芸者のお藤は藤十郎さん、いやもう一同がズラリと並ぶと目眩がしそうな迫力ですな。勧玄ちゃんは三歳前かな、訳も分からずトコトコ花道から出て来て『ほーりーこーしーかーんーげーんーとーもーおーしーまーすー』と挨拶しました。
 花道をゾロッと出てくる一門を従えて出て来るところ、あんな子供なのにキョロキョロしません。ああやって舞台度胸と腰の据え方を身に付けていくんでしょう。これ、いい年になってからでは玉三郎並の才能がないとこうは行きませんよ。

 勧進帳は富樫が幸四郎さんで弁慶は染五郎さんの高麗屋親子競演。問い詰められて弁慶が何も書いていない巻物を”勧進帳”として読み上げるのですが、途中富樫が覗き込むのを慌てる表情が見物です。しかしここだけの話、染五郎さん語尾の滑舌が悪かったですよ、念のため。
 それでも、酒を勧められそれに応じながらしまいにもっとよこせと徳利を取り上げる仕草、表情は歌舞伎の醍醐味で見ごたえがあります。この間セリフは無し。その後舞を舞いながら花道を飛び六方で下がっていくところはさすがですね。飛び六法はスキップの踏み方ですね。yjimage[1]

 そしていよいよ海老蔵さんの河内山。
「悪に強きは善にもと、世のたとえにもいうとおり、親の嘆きが不憫さに、娘の命を助けるため、腹に企みの魂胆を、練塀小路に隠れのねえ、御数寄屋坊主の宗俊が、頭の丸いを幸いに・・・(中略)、二つに一つの返答を、聞かねえうちは宗俊も、ただ此の侭じゃ帰られねえ」強請りのお数寄屋坊主です。
 見所は『山吹のお茶を所望』と露骨にたかりをかけ、出て来た包みを一瞥すると人目を見計らってニンマリする、是非ご覧あれ。
 脇を固めるのはご贔屓の芸達者、高島屋左團次さん。相変わらずセリフがうまい。
 最後は散々悪態をついた挙句に花道で『ばーーかーーめーー』成田屋!。ここの”成田屋”は、ンナリタヤ、と聞こえるように声掛けするとキマりますよ。
 しかしこの人、荒事の芸風なのに必ず観客を湧かせる”笑い”を取るんですねぇ。音羽屋も大御所になっちゃって、近い将来看板だけでお客さんを呼べるのはこの人くらいじゃないですか。
 又そろそろ大暴れ一丁どうですか?

九月花形歌舞伎

猿之助四十八撰


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荒事 歌舞伎十八番『矢の根』

2015 OCT 28 2:02:22 am by 西 牟呂雄

 東 兄のブログを読んでいても立ってもいられなくなり歌舞伎座に行ってきました。と言っても一幕だけの幕見と言う奴で、まさにチョイと芝居を見てくらァってところです。演目はというと、やってましたね。歌舞伎十八番の『矢の根』です。yjimage[1]

 歌舞伎十八番というのは成田屋市川家の芸ですが、今日は分家筋の音羽屋。『二世尾上松緑二十七回忌追善狂言』と打たれていてお孫さんの四世(当代)の松緑さんがやりました。海老蔵さんの”はとこ”に当たりますな。梨園は親戚中役者ですからちょっと経つと何代目かいなと混乱します。
 曽我兄弟の五郎がドレッド・ヘアーみたいな出立でバケモノみたいな鏑矢を研いでいます。そして大好きな荒事の掛け声『やっとこと、ちゃっ。うんとこなっ』とやりながら大の字になって倒れて寝てしまいます。
 両腕を上げたまま足をハの字にして高く上げる、切られた時の歌舞伎のポーズですが、やってみるとキツいですよ。
 藤十郎さんの曽我十郎が夢に出て来ることになっていて、後は省略。yjimageHZWWLXA3

 ここで馬が出ます、馬が。見た人もおられるでしょう、人が馬の被り物みたいなものにモノに入って二人一組になり前足と後ろ足をやるんですな。チャンと足を跳ね上げ、首を振り嘶く真似をします。今回の馬は上手だった。あれをやってみたいのですがその後、松緑さんが乗るんです。やはりそれなりの修練が必要なのは明らかでとてもとても・・。
 歌舞伎に出てくる動物は一説によると十二支は全部あるというのですが、僕が見たことがあるのは狐かな。天竺徳兵衛韓国(いこく)話ではガマが出るとも聞きました。
 次は動物を中心に演目を探してみましょうか。『象引』というやはり歌舞伎十八番の演目があって平成21年に團十郎が演っていますが見ていません。

象引き

 これはハリボテで造ったのでしょうが、何かかわいいですね。

 キリンとか虎があるかな。

九月花形歌舞伎

九月大歌舞伎 千穐楽

猿之助四十八撰


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狂言 附子 並びに 能 大般若

2015 OCT 13 21:21:19 pm by 西 牟呂雄

野村万作 萬斎 父子

野村万作 萬斎 父子

 附子、ぶす、と読みます。他愛も無い筋立てですが、太郎冠者=野村万作 次郎冠者=野村萬斎の親子コンビがやるので見に行きました。
 主人が『これは毒だから近づくな』といった桶の中の砂糖をこっそり食べてしまいバレて大騒ぎになる、というコミカルな話です。
 挙句の果てに、誤って掛け軸を破き天目茶碗を割って、お詫びのために毒を飲んで死のうとしたが一向に死なない、と言い訳するオチ、これ教科書かなんかにありませんでしたっけ。
 遠目には海老一染太郎に似ている万作さんとオーラ出まくりの萬斎さん。二人で大げさに『アーン、アーン』と泣いてみせるところ、さすがに華があります。表情が豊かなんですな。

 

このエグさ

このエグさ

 大般若は三蔵法師のお話。西域の大砂漠に流沙河(りゅうさが)という大河があり(実在ではない)そこで深沙大王と出会うくだりです。この流沙河は西遊記にも記述があって三蔵一行はここで沙悟浄と出会うのですが、能には孫悟空や猪八戒はもちろん沙悟浄も出てきません。
 その代わり飛天と龍神が二人(二匹?)づつ出てくる後半は風流(ふりゅう)能と言って、いわばスペクタクルですが、能の舞台ですから円を描きつつ静かに舞います。深沙大王と龍神の面はさすがにエグい。

 ところでこの大般若、原曲はもうなくなっていて、山形県鶴岡の黒川能に伝えられていたものを500年ぶりに復曲させたもの、東京では滅多に上演されません。現地では伝承する氏子160人、能面230点、能装束400点、演目数は能540番、狂言50番と堂々たる伝統芸能です。鶴岡と言えば 方言のいきのよさ  に書いたのですが、戦時中に亡き母が疎開していたところ。古典が大好きだった母も少なかった楽しみにこの舞台を見たに違いない、と思いながら観賞しました。

世阿弥  秘するが花 Confidentiality should be The Flower

世阿弥 初心忘るべからず Don’t forget your failure

月窓寺 薪能


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世阿弥 初心忘るべからず Don’t forget your failure

2015 SEP 20 21:21:08 pm by 西 牟呂雄

 古典を現代語で読んでは誤る、と当たり前のことを書いたら急に思い当たることが出てきた。
 初心忘るべからず、この有名な言葉も世阿弥であり今日尚頻繁に使われている。
 これは『風姿花伝』では無くその晩年に書かれた『花鏡』の中の言葉。一つだけではなく
 ぜひ初心忘るべからず
 時々の初心忘るべからず
 老後の初心忘るべからず

 と三つ続いている。
 
 通常は、始めた頃の純粋な気持ちを忘れずに最後まで道に外れることなく精進に励め、と解釈してしまうが、そうすると二行目・三行目の意味が薄まる。独断解釈を施すと、
 「調子に乗って、その都度チョンボをしただろう。」
 くらいに集約できるのではなかろうか。なかなかいいではないか。さすがに古典だ。

 そう言えば『Look back in anger』は普通『怒りを持って振り返る』と訳されるが、これも『思えば腹が立つ。』とやった方が余程こなれている。実はコレ、我がオリジナルではない。誰か。
 漢学者で『王陽明研究』を世に出した故安岡正篤の著書にあった。
 そのノリで良ければ、クラーク博士の『Boys, be ambitious like this old man』も『お前等、好きにやってみろ。オレみたいにな。』がふさわしいと思う。この台詞は送別の演壇で述べられたのではなく、馬上から見送りの生徒達に向かって投げられた言葉で、クルリと振り向くと一鞭を当てて去っていった時に発せられた。西部劇のフィナーレのノリなのだ。

 「日出処天子至書日没処天子無恙云々。」聖徳太子が遣隋使の小野妹子に持たせ皇帝煬帝に送った書だ。天子の称号を使ったことに皇帝は怒り狂った。
 倭国を臣下扱いする書を持たされて妹子は返されるが、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言い訳する。そのまま見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったとやら。このあたり今日の外交問題にも参考になる様々なエピソードで、元大蔵官僚のミスター円榊原英資氏は、日米どちらも自分のいい分が通ったと思わせるようにわざと翻訳する事をテレビで語っていた。
 実際に第二回遣隋使の10年後に『隋』は滅びてしまうのだから時節柄的を得ていなくもないと考えると・・・。
 『落ち目のおっさん、元気かよ。』
 が本当のニュアンスで、それで怒ったりして。

 許されるならば人類の師『孔子』の言葉も現代語独断解釈をやってみると、
「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」は 
『二日酔いで帰り道を聞くようなら、夕べのうちに死んだ方がましだ。』
でしっくりくるし、
「七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰えず(こえず)」も
『もう年で体も効かねぇ!何やったって人の迷惑にゃならねーよ。』
くらいかね。 
 その70まであと9年と100日ない!

 せっかく世阿弥から始めたのにとんでもないオチになっちゃった!

世阿弥  秘するが花 Confidentiality should be The Flower

狂言 附子 並びに 能 大般若

船弁慶

月窓寺 薪能


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世阿弥  秘すれば花 Confidentiality should be The Flower

2015 SEP 18 12:12:39 pm by 西 牟呂雄

yjimage[7] 世阿弥の能楽理論書として名高い『風姿花伝』にある有名な一節ですが、『秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。』となっています。私は長い間この言葉をどうやら間違えて理解していたようです。
 そもそも室町時代に書かれたのですが人口に膾炙したのは明治になってからで、本当に『秘』されていました。
 私は勝手に、表現者(アーティスト)としての天才世阿弥が観客に向かった際、ズバリそのものの感情を出してしまうのではなく、なるべく隠すことによって深みを出すのが芸だ、ということだと。例えば『悲しい』を表すのに打ちひしがれる仕草ではなく『佇む』、『喜び』を表すのに小刻みに『手振り』をする、というようなことを指していると考えたのです。
 ところが、最近気になって文献をめくったところ、少し違うようです。
 能は面をつけて、老人・女性を表現します。自分の表情や性別を隠します。yjimageCAT8ZKII
 世阿弥はそういったものを演じる際の心構えを『風姿花伝』に書き付けていますが、長い歴史に埋もれた間も流派別に口伝として受け継がれて、色々な解釈が伝わっているのです。
 ある解釈によると、「花」というのは人が発見する気付く「珍しさ」「面白さ」を指していて下世話な言葉でいえば、それに至るネタはなるべく隠しておきなさい、と教えていると。
 これはいかがなものか。演目も同じ物を等何度も見れば見巧者は粗筋も結末も分かっていて今更「珍しさ」「面白さ」もない。観阿弥・世阿弥の天才親子により幽玄美を追求する「夢幻能」にまで磨き上げられた芸は、奇を衒うでもないでしょう。鑑賞者は『さすがはあの間の取り方だ。』とか『今日のは多少大げさだな。』等と思いながら見るものと思います。

 世阿弥は将軍足利義満の庇護をうけて極めて寵愛されます。大変な美少年でもありました。しかし義持・義教と代がかわるに連れて、弾圧が加えられるようになるのです。その背景には足を引っ張られたり、はたまた世阿弥の器量も落ちてきたり(仮説ですが)挙句の果てに1434年に佐渡国に流刑されてしまいます。
 『風姿花伝』はその絶頂期の少し後、義満没後に書かれたものですね。image[1]
 ここまで完成させた我が芸を、余興紛いの猿楽・田楽などと一緒にされてたまるものか、と思ったかどうか。その失意と執念が『秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。』と書かせたと考えれば。
 いや、古典を現代語で読んでは誤ります。
 今日の口語で言えば『分かるやつにはいつかは分かる。花になるまで隠しておけ。それまで決して漏らすな。』ではないか。うーん、どうかな。
 
 事実『風姿花伝』は能の各流派に秘蔵され、極一部の大大名家にあるだけで、明治42年に吉田東伍が『世阿弥十六部集』を出版するまでは一般の目には触れなかったわけです。

世阿弥 初心忘るべからず Don’t forget your failure

狂言 附子 並びに 能 大般若

船弁慶

月窓寺 薪能


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話芸の間 圓楽と小遊三

2015 JUL 16 23:23:44 pm by 西 牟呂雄

 チョイと一席聞いて来たんですがね。
 いや時節柄、体調を崩した歌丸師匠が本日(7月11日)退院なさったそうで、よろしゅうございました。
 何しろガリガリなところに持ってきて腰なんざ何度も手術なさってチタンが入ってたそうで、しかも長年座っての商売なんでそのチタンが曲がっちまったってんですからご苦労さんですよ。
 高座で皆さん散々ネタにしてました。笑点は人気番組ですが、最初のレギュラーの唯一最後の生き残りだそうで、思えば長いお勤めですよ、これ。お酒は召し上がらないとか。
 そして知りませんでしたが、歴代の大喜利の司会者ってのはみなさん下戸なんですって。初代はガキの頃みてました談志師匠。『何を飲みますか。』とか聞くと『テキーラくれ。』とか大声を出しますが口をつけるだけ。次の三波伸介さんも全然とか。先代圓楽師匠もダメで歌丸師匠です。
 この番組は当初は談志師匠の毒が強すぎて、又メンバーも同世代のせいか火花が散るようなスレスレのネタが刺激的だったですな。歌丸師匠なんざどっちかって言いますと一服の清涼剤的な軽い扱いで、本人もヘラヘラ・キャラを積極的にやってました。image[3]

 本日は三遊亭圓楽師匠が中を取りました。下町深川出身の若手ももう65歳!あちこちガタがきている話をネタにした後に古典『疝気(せんき)の虫』をやりました。
 コレ、気の毒なので名前は控えますが寄席場では自然に前座と聞き比べることになります。前座も十分稽古して言いよどみもなく見事に話すのですが、圓楽師匠とは受けが全然違う。前座の方は受ないとやや焦り客をいじる。一生懸命やっているんですよ、でもその差は歴然。
 『間』が取れないんですな。情けない表情を作るにも、最初からやるのではなくて間を取ってから次第に顔をつくる、とか。これはこれでキャリアが必要なんでしょう。度胸が据わる、とも言います。

 さて、大トリは小遊三師匠。この人、よく出身地の山梨県大月をネタにしますね。実は喜寿庵は大月と富士山の途中にあって、その地縁でウチのオヤジとは顔見知りでして。『あ、こりゃ会長。』『ヨッ、噺家。』とかやってました。なぜ会長なのかは誰も知りませんでしたがね。
 芸風は『荒物』。人情話をしみじみ語る方じゃなくてガサッと語る、昔で言えば林家三平とか月ノ家円鏡師匠の流れですね。yjimage[10]

 小遊三師匠も酒は相当なものらしく、ビールで始まり焼酎のお湯割りを飲みウィスキィをロックでやるらしい。何だかどこかで聞いたような。
 この方トランペットもやっていて、オイランズ(花魁)という落語家ばかりのディキシー・ランド・ジャズ・バンドをやったりもします。
 若い頃の噺はただワァワァやっていましたが、上手くなりましたね。
 お題はマズいことに古典の『替り目』。酔っ払いの噺で泥酔したオヤジとカミサンの掛け合いが面白くてゲラゲラ笑っていたが・・・・、その・・・、我が身を振り返るとナンでして・・。
 良く聞いているとこの噺、酔っ払いは喋りすぎるからドツボに嵌っていくんですな。
 
 わかったぞ!泥酔したら余計なことを言わなければいいのだ!

あやしうこそ物狂ほしけれ 

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元二の安西に使いするを送る

2015 JUL 12 22:22:04 pm by 西 牟呂雄

渭城の朝雨軽塵を浥す
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人無からん

 王維の詩情あふれる名作である。玄宗皇帝の時代、抜群の秀才であり尚且つ容姿端麗、琵琶の名手、天才詩人にして南画の走り、と想像もつかないスーパースターなのだ。漢文の教科書に必ずあるでしょう。

あおい柳 

あおい柳  

 『客舎青青柳色新たなり』この原語読みを知らないのだが、色彩の鮮やかさはどうだ(もっとも私は色覚異常だが)。友を送るに柳の枝を輪にして送る習慣があったと言うが、この朝の柳は青々としていたことだろう。
 渭城は秦の始皇帝が阿房宮(あぼうきゅう)をこしらえた咸陽のこと。陽関は玉門関とともにシルクロードの関所。安西は現在の新疆ウイグル自治区庫車(クチャ)だ。これらを地図で眺めると当時の距離感では気が遠くなる程の所まで”使い”に行かされるのである。

 ところで王維が仕えた玄宗皇帝は楊貴妃に狂ってからおかしくなるが、それまでは恐ろしくスケールの大きい皇帝の中の皇帝だった。余談だが『望めば眼前に大海を掘らせ鯨を泳がせるも可』という小説を書いて失敗したことがある。海で泳ぐ鯨が見たくなってある官僚に命じたところ、8年かけて水平線が見えるほどの池を掘り、延々と海水を運ばせる為に運河までつくったが、出来上がったときには楊貴妃に夢中でそんな命令を忘れていた、という内容だった。とても僕の手に負えるテーマではないことが分かってやめた(50枚程書いて気が付いた)。
 初めのころ真面目にやっていて「開元の治」は唐帝国の絶頂、文化の華が開く。
 個人的には『さぞ物凄い賄賂を色んな奴が懐に入れただろう。』と思ってしまう。
 因みに皇帝一族の李氏は鮮卑系と言われている。そういう意味で全国制覇した純粋に漢族の王朝と特定できるのは、漢・宋・明だけだという記述があった。
 詩聖杜甫や、その杜甫をして「李白一斗 詩百篇」と言わせしめた泥酔詩仙、李白と絢爛豪華な詩人がおり、阿倍仲麻呂も長安にいた。

こんな 顔

こんな 顔

 王維は弟の王縉とともに長安で行われる科挙の予備試験をトップでパスし、皇帝の一族とも親しく交わる。デキは杜甫・李白より遥かに上だ。しかし例によって讒言されたり嫉妬を浴びたりで左遷も経験することとなる。きっと頑固な所もあったに違いない。
 そうこうする内に安史の乱に巻き込まれる。
 安禄山、父親はイラン系で母親は突厥人というシルクロードの申し子。体重200kgでもクルクル独楽のように踊れたといい、この人はこれで魅力的な人物ではある。
 王維は都から逃げ出した玄宗の後を追ったが追いつけず、隠れていたところを囚われ、安禄山にコキ使われる。恐ろしくいやな思いをしたに違いない。この辺は秀才官僚の習いで仕方なかろう。

 その後はあまりの安禄山のメチャクチャぶりに唐が盛り返した後復活する。この時安禄山にペコペコしたことを咎められ危なかったが、弟の王縉が必死に執り成してセーフ。

 臨終にあたっては、弟・友達に別離の手紙を書いている最中に絶命したのだとか。カッコ良くはあるが詩人の最後にしては、まっ普通の死に方ですね。秀才で真面目な人だったのだろう。詩も素直な感じだ。

南朝四百八十寺

六十而耳順

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南朝四百八十寺

2015 JUL 4 0:00:06 am by 西 牟呂雄

千里 鶯 啼いて 緑 紅に 映ず
水村 山郭 酒旗の風
南朝  四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
多少の樓臺 烟雨の中

 杜牧という詩人の有名な『江南春』である。昔からどういうわけかこの詩が好きで、蘇州や杭州に行った時に現地でしみじみと声に出してみたことがある。
 杭州(現地読みはハンゾウ)は南宋時代の首都。北京まで通じている大運河の起点でもある。切れ込みのような杭州湾の奥にある都市でこの辺ではもう川は流れない。流れないどころか銭塘江という大河ではポロロッカまで起こる。yjimageCA35WX6I

 多くの運河が巡らせてあり、喫水一杯まで貨物を積んだ平べったい船が行き交っていた。
 こんなに水が近くて大雨ですぐ洪水になるかというと、全くならない。さすがに千年以上治水を怠らなかったせいだろう。夏はメチャクチャに暑く冬に大雪に見舞われたこともあった。
 古(いにしえ)の時代、新緑の中に鶯が鳴く、春風に煙るような霧雨が降る、さぞ鮮やかだっただろう。『酒旗』は文献では”酒屋の旗”とされているが、あの紹興酒のような甘い香りの風を詩人が感じたのじゃなかろうか。それとも、どの家も『こんな日は安らかに一杯やって旅を急ぎなさんな。』とばかりに運河沿いに屋台のように酒屋を出したのだろうか。あのテの酒はチビチビやると、日本酒やウイスキィをガッと飲んだような泥酔に襲われるのではなく、いつまでもフワフワするように酔える(最後は同じだが)。
 
 ご他聞に漏れず、公害規制も何もなしで開発が進んでしまい、場所によってはひどい臭いがすることもある。とにかく流れていないのだから。
 ポンコツ工場の二階を間借りしていて、電力事情が不安定だったため突然昼間にエアコンが止まった(もちろん電気も消え機械も止まる)ことがあったが、すぐ後ろの運河の異臭が充満して耐え難かった。
 

こんな感じかな

こんな感じかな

 
 ところでこの七言絶句という形式は読み下しでは抑揚たっぷりなのだが、現地の人間に音読してもらうと、三三七拍子の七節みたいに読まれてちょっと違和感があった。
 特に『四百八十寺』のところは『スーパイパーシーシー』に聞こえてしまいちょっとマヌケ。
 そうか!『しひゃくはっしんじ』と読ませるのは原語からパクっているのか。

 杭州と言えば、宋代の政治家・詩人として名高い蘇東坡の考案した豚肉と紹興酒を煮込んだ東坡肉(トーロンポウ)という料理が名物とされる。この人は天才詩人なのだが、どうやら恐ろしく頑固な人だったらしく中央政界からは何回も左遷される。何度目かの左遷で杭州にいた時、名勝西湖の水利工事を行い、その際に振る舞ったものと言われている。220px-Su_shi[1]

西林の壁に題す

橫に看れば嶺と成り 側(かたはら)よりは峰と成る
遠近高低 各(おのおの)同じから不(ず)
不 廬山(ろざん)の真面目を 識らざるは
只 身の此この山中に在あるに縁(よ)る

 名文で有名な『赤壁賦』はちょっと長いので好きな七言絶句を載せた。前から気になっていたがこの「真面目」は「まじめ」と読んでいいのだろうか。現地の発音だと「ジェン・ミェン・ムゥ」から類推して「しんめんもく」とやった方がいいと思う。どんなもんだろう。

元二の安西に使いするを送る


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沖の小島に波のよる見ゆ 

2015 MAY 11 23:23:34 pm by 西 牟呂雄

 言わずと知れた鎌倉3代将軍 源実朝の名作です。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

初島 こんな感じでポツン

初島 ポツン


 

 この歌を解釈した文献を読んだが、色々考えなくてもこのリズム感が素晴らしい。「わが」「みゆ」のノリの良さはどうでしょう。
 箱根権現に詣でたときのものとされていて、ここに出てくる小島は一般的には熱海沖の初島を指すものと考えられているようです。
 しかし、海岸付近から初島を見ると島は海に浮いているように見えてとても『波の寄るみゆ』にはなりません。又、箱根から鎌倉に抜けるのは小田原に出ますが小田原からは初島は見えないのです。  

おほ海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

こんな感じ

こんな感じ

  
 
 ダイナミックですね。こちらは「おほ」と「とどろに」がすごい。僕はこの歌も大好きです。このノリはロックンロール。現に阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲ダウンタウン・ブギウギ・バンド『アイム・ジャスト・ア・フーチークーチー・マン』の歌詞なんかに「裂けて砕けて、散っていくのが、バカなオイラにゃお似合いさ」などとパクられています。Hoochie Coochieって猥雑な意味なんですけどね。ちなみに宇崎竜童はこの手をよく使っていて、キャロルの「ファンキィ・モンキィ・ベイビー」が流行った後こっそり「ヤンキィ・モンキィ・ベイビー」なんて曲をアルバムに滑り込ませたり。
 話を戻して、鎌倉・葉山・逗子のあたりでこんな光景が見える磯はありませんね。あの辺は余程の荒天でなければこの歌のような波は立ちません。稲村ケ崎も結構遠浅ですから、多少波が高くても『われてくだけて』にはならないのです。
 実朝は藤原定家から万葉集の写しをもらい狂喜したとされます。確か12歳で征夷大将軍になったのですが、鎌倉幕府の体制が定まっておらず生涯ナントカ合戦やカントカの乱に苦しめられ、最後は暗殺されてしまう悲劇の人です。詩心があった青年は万葉集を熟読して心を慰め、また楽しんだことでしょう。
 で、ここから私の仮説ですが。実朝は実際には『波のよるみゆ』や『われてくだけて』の光景を見たのではなく、想像で詠ったのではないでしょうか。
 本歌取りはいくらでもありますし、別にこれらの歌の芸術性が損なわれるわけではありません。それどころか想像によってこれだけのダイナミックな歌を紡げるところが天才たる所以ではないか、そしてきっと海が大好きだったでしょう。

 私は見たまま

江ノ島越しに富士

江ノ島越しに富士

南風 相模の海の 色あわし
  未だ ま白き 富士はさびしき

 連休の時は靄ってしまうことが多いのですが、たまにうっすらと富士が見えます。この時期富士山はまだ頂上部分が冠雪してきれいです。

海原の 波の飛沫を 跳ね上げて
  若き イルカ等  十ノットで行く

 我が愛艇はいい風を拾っても7~8ノットが精一杯。実際には年寄りのイルカも混じっていたかも知れませんが、しばらく面白がって船と伴走していたのが飽きたのでしょう、群れが一斉に抜き去っていきました。

源実朝の嘆き

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萌え出づる春になりにけるかも

あかあかや 華厳

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