Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 伝奇ショートショート

歩く火薬庫 来島又兵衛のラリアット

2018 NOV 10 0:00:22 am by 西 牟呂雄

 八月十八日の政変で長州と七卿は都を追い払われる。憤懣やるかたない長州勢は例によって藩内の意見が沸騰し、四分五烈の状態に陥った。下関で四カ国艦隊に破れてこのかた四面楚歌。幕府も会津も薩摩も気に入らない、どうしてくれる、と。
 奇才高杉晋作は奇兵隊を組織した。
 すると”歩く火薬庫”来島又兵衛も遊撃隊を組織してこれを率いた。この藩の指揮命令系統は常にそうだが、下がワーワー騒ぎ出して良く分からなくなり、藩主毛利敬親の「そうせい」の一言が出るまでまとまらない。
 来島は激高し藩主の卒兵上京を主張するが、あの過激派である高杉でさえ抑えにかかるという事態に。意見具申が入れられないとなると、今度はいささかお門違いであるが薩摩藩島津久光の暗殺を企てる始末だった。
 いくらなんでも、と一度投獄されるのだがこのあたりが長州藩の変なところで直ぐに釈放してしまう。
 この時点で長州以外の世論は公武合体、諸侯の参預会議は機能していた。
 ところが誠にマズいタイミングで池田屋事件が起こり、吉田稔麿以下長州系の尊皇攘夷派が新撰組に惨殺される。
 こうなると来島も藩論も収まらない。2000の藩兵を上洛させる。
 すると、後の鳥羽伏見では無残な腰砕けになった一橋慶喜が、なぜかこの時は猛烈に踏ん張った。
 一方、来島のまわりにも冷静な久坂玄瑞らがいたことはいたが、”歩く火薬庫”と化した来島は「この期に及んで何をしている。卑怯者は戦いを見物していろ」と自ら組織した遊撃隊600人を率いて蛤御門に突撃し戦死する。
 それにしても御所に向かって発砲し切り込むとはどういう勝算があっての戦いなのか、理解に苦しむ。そういう事を企てておいて、時代が下って長州が官軍になるとはどこか自己矛盾を抱えていないのか。
 そしてこの戦闘で俗に”鉄砲焼け”と言われる大火事になるのだが、なぜか京都における長州の評判が落ちなかったのは不思議だ。

ラリアット決まる

 これは大河ドラマ「西郷どん」での迫力ある戦闘シーンである。禁門の変における来島だが風折烏帽子甲冑姿の出で立ちがピッタリのこの巨漢、誰あろうプロレス界の歩く火薬庫、長州力である。
 長州力、本名吉田光男、山口県は徳山出身で長州出身だからとつけられたリング・ネームだ。
 かつては武藤敬司や大仁田、真壁といったところが出たことがある大河ドラマだが同じプロデューサーなのだろうか、巧みな配役だ。
 演出の人もプロレス・ファンらしく「長州さん。ラリアットをやってください」といわれてこのシーンになったとか。
 それが、ですな。僕としたことがこの回と前後を見ておらず、最近知った、痛恨の極みなのだ。有難い事に動画に残されていたので迫真の演技を堪能できた。

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慶喜の手裏剣

2018 JAN 31 19:19:05 pm by 西 牟呂雄

 知新流手裏剣。先端を研ぎ澄ませた棒手裏剣を右半身の構えからさらに右足を踏み込んで投げる。腕振りがブレずに剣筋が安定する、接近戦専門の手裏剣術である。水戸の英才、七郎麻呂は子供の頃からこの武術が好きで、生涯打ち込むこととなる。10歳で一橋家を継ぎ慶喜を名乗った時は、すでに文武両道の呼び声が高かった。だが要するに変な男だった、協調性がない。
 天真爛漫。興味の赴くままに書画を楽しんだりしているうちに将軍後継者の本命となり、井伊大老とは対立することとなる。時の将軍徳川家定は後世に脳性麻痺の症状を指摘されるような病弱で、井伊は絶大な権力を振るっていた。
 思わず声を上げた。時々激高する癖もある。
「井伊!僭越なり。勅許も待たずに開国とは何事かぁ!」
 井伊が独断で締結したアメリカとの条約が気に入らないのだ。
 御三卿登城の際に将軍と面談するが、その傍らにピッタリとついてはやや心許ない将軍の代わりに訳知り顔で物を申すのが不快なのである。そこには条約締結に至った井伊の人知れない葛藤などを斟酌することはない。
 この際、慶喜にとって攘夷も勅許もただの知的道具に過ぎなかった。単に相性の悪い相手を追い込む理屈は自身の智謀を以ってすればいくらでも成り立つ。悪い癖が出た。
 実父徳川斉昭や越前の松平慶永、御三家尾張徳川慶恕らを前にして懸河の弁舌を奮っているうちに引っ込みがつかなくなり強行登城に至って顰蹙を買う。それどころかお返しのように紀州の徳川家茂が十四代将軍となり、安政の大獄が始まってしまった。勿論慶喜も処分された。
「コンチクショウ。臣下の分際で調子に乗りおって。紀州は大奥に早手回しをしたに違いない。お主ら何をやっていた!」
 御三卿に家臣団はない。小姓相手に怒鳴りつけてもどうにもなるものではない。例の棒手裏剣を巻藁に何本も打ち込んだ。
 しかし怒り狂ったのも2日程で、同時に処分された一橋派と言われる面々を前にケロリと言ってのけた。
「将軍になって失敗するよりは最初からならない方がいいに決まっている」
 周りは気が遠くなりそうだったが口をつぐんだ。とにかく頭が回転しすぎる。

 井伊大老が暗殺され、にわかに政情が不安定となる。世の中が尊皇攘夷に沸きあがってきた。
 しかしこの時点で慶喜に攘夷実行の気は全くなくなっている。英明な彼は国際情勢も理解し、鎖国などは時代遅れだと見抜いた時点で飽きたのだ。
 何しろ横浜開港によって貿易が始まってみると幕府は大儲け。実は薩摩も密貿易の味は知っている。海援隊はこれまた現代の総合商社のように武器を売買する。攘夷・開国は政策課題というよりは権力闘争のネタに等しい。
 無知蒙昧な攘夷主義者は別として、やっかいなのは孝明天皇とその周辺の長州系公家であり、これが先の見えすぎる慶喜を悩ませることとなる。
 攘夷実行を朝廷と協議するために上洛すると、得意の言説でやりたくもない攘夷の件を奇想天外な話にスリ変える。
「そこまで言われるのであればこの慶喜は将軍名代として京にいる能わず。(ここで十分に間を取って)どうであろう。将軍上洛も近い事、いっそ幕府が朝廷に政権返上するように将軍を説得して見せましょうぞ。お上を立てて卿らで国事を奉られればよろしい」
 公家達は顔色を失った。無論そんなことはできるはずもない。すると慶喜は畳み込む。
「さて、まつりごとを朝廷に返上するか。」
「ソッ・・・それは難儀や」
「お上に御聖断を」
「チョット待たらっしゃい。・・・・そないなことお上あらしゃいましても・・・。」
 この選択を迫り、議論などしたこともなかった公家・朝廷を圧倒する。既に後の大政奉還の構想はこの時点で胸中にあったのだ。
 更に公武合体派諸候で造られた参預会議において、ようやくまとまりかけた横浜鎖港を島津久光・松平慶永・伊達宗城らからイチャモンをつけられると反りが合わない中川宮邸に泥酔して乗り込み「この3人は天下の大愚物・大奸物」と罵倒する。挙句の果てに中川宮に「宮は島津公からいかほどなり都合されたか(いくらもらった)」と絡み倒す。薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除するつもりだったのだ。ついでに佩刀をかざし切るの切らないのと物騒な暴言を吐き参与体制をぶち壊した。一説には茶碗酒を五杯ほど一気飲みし、確信犯としてベロンベロンになったらしい。
 酒癖も相当に悪いが実に鋭い。目の前の論敵に対しては無敵なのだ。そして酔えば酔うほど、語れば語るほど頭は冴える。誠に困った人物だった。

 そうこうしている最中に新撰組は池田屋事件を起こしてしまう。
 皮肉なことにそれが引き金となって長州過激派が暴発し、禁門の変にまでなった。
「講和せよ」
 砲声にビビり上がった公家達は叫び声を上げた。
 ここで慶喜は今で言うスイッチが入った。二条城より馬を飛ばし御所に乗り込み、天皇の信頼厚い松平容保に奏上させる。
「この容保の命に代えましても御所をお守り奉りまする」
 容保ひいきの孝明天皇は満足して言った。
「会津中将。宸襟を安んじ奉れ」
 ここで慶喜は自ら御所守備軍を率いて鷹司邸の長州軍を攻める指揮を執った。軍装に身を固め高揚したために抜刀までしてみせる。無論懐には棒手裏剣を忍ばせていた。

 いざ将軍のお鉢が回ってくると高揚感はさらに高まる。
 フランスから巨額の借款をし幕府陸軍伝習隊を組織したが、その際フランス公使ロッシュには西周(にし・あまね)から習っていたフランス語で挨拶して周りを驚かせた。
 しかし先が読めるが故に、策士策に溺れていく。
 あろうことか第二次長州征伐でケチがつき、身内の(御三家・譜代大名・親藩)反発まで招き出す。独善が災いしたのだが本人は全く自分のせいとは思わない。
 持論の大政奉還は突如発表され世間をおどろかせた。ある意味理にかなった起死回生の一手だったが、練り上げ方が充分でなかったのだ。ゴネれば皆が付いて来ると大甘な読み違いをし、公武合体勢力を分断してしまった。
 鳥羽・伏見でコケるともういけない。
 慶應四年。上野の寛永寺大慈院において謹慎する慶喜を勝海舟が訪ねた。大阪から海路戻った一行に激しい言葉を浴びせて以来気まずくなっていた勝だったが、会った途端やつれ果てた慶喜を見るなり声を失った。将軍はまるで幽鬼のように月代も髭も剃らずにいた。
「上様・・」
「安房(海舟は安房守)か。・・・・何故このようになったのか。大政奉還の大回転を決断した余が・・・何故朝敵とされ領地没収になる」
「・・・・」
「寄せ手の参謀・西郷とやら。旧知の間柄であろう。いかなる所存にて余を撃ち滅ぼさんとする」
「・・・・」
「安房。江戸はどうなる」
「・・・・」

 驚くべき事にこの時点で江戸城内に軍事を統括する役職の者はいなくなっていた。慶喜自身、京都で将軍職を拝して以来初めての江戸なのだ。

「余はもはや将軍ではない。ワシの何が悪かったのか」
「・・・・」
 海舟もまた先の見える男。今までは慶喜に対しても『何を偉そうに』と含む所があったものの、ただ今は頭を垂れるのみであった。
「のう。・・・・後を頼む。他には人はいない」
「心得ましてございまする」
 二人の頬を滂沱の涙が伝い、初めて君臣の交わりができた。
 ここまで来れば勝は度胸が座る。西郷との直談判に及ぶ。
 江戸無血開城は四月十一日。この年は旧暦の閏年で四月が二度あったため既に初夏の青空だった。その日のうちに慶喜は水戸へ旅立つ。慶喜32歳。
 
 藩校・弘道館で謹慎・恭順に入るが、ここも癒される場所ではなかった。
 水戸藩主徳川慶篤(慶喜の兄)が直前に病に没し、家臣達は恭順・交戦諸派が入り乱れていた。なにしろ尊王攘夷思想の卸元で、黄門様が始めた大日本史の編纂を二百年以上かけ明治39年に完成させた藩である。桜田門外の変でも天狗党事件でも主役、ちょっとやそっとの議論で決着のつくはずもない。
 一橋家に養子になって水戸を出て江戸へ。将軍名代として江戸から京へ。賊軍として江戸に帰り、そして育った水戸に戻る。
 徳川宗家は田安亀之助に相続し、慶喜は更に駿府に移封される旨が新政府より通達された。
 幕府を開いた神君家康公が隠居した駿府に旅立ったのは三か月後の7月23日、ひどく蒸し暑い日だった。

 慶喜はと言えば、未練も何も無い。水戸からもましてや江戸からも一刻も早く遠ざかりたい思いで一杯だった。
 あの下世話な陰謀や下級武士上がりの泥臭い連中が蠢いているような所はもう沢山だ。言ってわかるほどの頭も持ち合わせない野卑な連中が、日の本の国をどうするのか。
 しかしその時慶喜の心の奥底には、その後の戦乱に巻き込まれる高須松平容保・定敬兄弟や奥羽諸藩、更に函館戦争まで転戦した旧幕臣、なによりも最期の交渉で粘った勝海舟への憐憫の情すら湧かなかった。
 写真・絵画に凝り、弓を毎日引き、無論得意の手裏剣の修練は欠かさない。しばしば「コンチクショー!」と発して投げたとか。
 家臣達も暫くして静岡に移ってきたが、滅多に面会せずにもっぱら地元の者どもと交わり慕われはした。すっかりいいオヤジになり『ケイキさん』などと呼ばれていたという。
 明治30年に東京となった江戸に久しぶりに居を構えている。
 皮肉な事に維新の英傑であった西郷・大久保・木戸等よりも、岩倉よりも長く生き、明治天皇崩御の翌年に死ぬ。尊王の赤心、誰が知るや。

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最後の将軍と尾張藩主 Ⅰ

最後の将軍と尾張藩主 Ⅱ

明治甲州奇談 逃避行編

2017 SEP 1 19:19:02 pm by 西 牟呂雄

 相馬部隊は寄居に進出し早朝『血眼一家』を攻撃した。それは戦闘というより出入りに近いもので、困民党部隊が一気に押し潰した。血眼の周五郎は初め殴りこみかと思ったがそれどころではない。
 雪崩れ込んできた者の中に丈太郎の顔を見つけると『テメエ!一宿一飯の恩義を忘れたか』と叫ぶうちに銃弾を浴びて死んだ。
「相馬さん、これで引き揚げましょうや」
「いや。警官隊は更に増援されるだろうから、ここを最前線として固めよう」
 丈太郎は秘かに脱走を決意した。

 翌朝、目が覚めると周りは既に新たな武装勢力に包囲されていた。業を煮やした政府は正規兵を投入したのだ。
「オイ!皆起きろ。囲まれてるぞ!」
 前日の戦勝気分が抜けていない寝ぼけた連中は、事が良く分からないうちにいきり立った。
「ここまで来たついでだ、やっちまえ」
 物陰から覗いた丈太郎は異変を察知して権蔵と地蔵に『あれは警官隊じゃない。鎮台兵だ』と囁いたが、威勢よく飛び出した先鋒の後に歓声を上げてついて行ってしまった。
 しかし鎮台兵の一斉射撃を受けて壊滅する。そして銃剣突撃を受けるとあっけなく総崩れした。血まみれになって地蔵が必死に逃げてきた。
「地蔵!オイッ大丈夫か。クソッ」
 銃創を負った地蔵に丈太郎が声をかけるが返事はない。
「退け!早くしろ。ズラかるぞ」
 困民党軍は次々と撃たれ、突かれ、切られた。いちいち声など掛けていられない。
 そもそも寄せ集めの農民兵が正規兵にかなう訳もない。丈太郎は引き返すと台所に飛び込み、すぐ裏の納戸から女の着物を引き摺り出して羽織った。そして束ねていた髪をほどき頭頂のあたりで結い直した。得意の女装で化けるのである。
 そこに権蔵が顔を出した。
「兄貴」
 とだけ言うとゴホーッと血を吐いて倒れる、もうこと切れたのだろう。
 ふいに袖を掴まれたので丈太郎は懐から例のピストルを付き出すと小さな体が見据えていた。
「お光坊、早く逃げろ」
 キッと瞳を開いてはいるが体は震えているのが袖から伝わってくる。
「いいか良く聞け。そこで倒れているオッサンの血を顔に塗りたくれ。それで誰かに何かを聞かれたら『おっかさん、大丈夫かい』とだけ言ってオレにしがみついて泣け」
 そう言うなり丈太郎も権蔵が吐いた血を顔と着物にベタベタと塗った。お光は黙って言う通りにした途端、鎮台兵が踏み込んできたのだった。
 さすがに鎮台兵も哀れな母娘と見たらしい。誰も構う兵隊はなく、そのまま隊列を組みなおして秩父に向かって行った。

 結局困民党は決起以来わずか10日も持たずに崩壊し、幹部は次々に捕縛された。
 丈太郎とお光の二人は東京を目指さずに鎮圧された秩父の奥深い雁坂峠を越えて落ち延びていった。困民党の生き残りと疑われるのを避けたのだ。
 途中、暴徒化した困民党の残党に襲われかけたが、お光が絶妙の演技でしのいだ。意外に度胸が座っていて全く怯まない、丈太郎は感心した。そして雁坂峠では山賊まがいの追いはぎにも会ったが、こちらは丈太郎がピストルで撃退し、何とか甲府盆地の石和に辿り着いた。

 日露戦争が終わった頃、北都留郡の谷村では機織のバタンバタンという音が鳴り響いていた。景気がいいのである。この町では生糸の川下産業である機織・染色といった業種が発達し、賑わいをみせていた。

お八朔 宵宮の山車

 江戸初期にここの大名だった秋元家が改易になった際に、参勤交代装束の一式を残していったため、秋の八朔祭では地元の連中が大名行列を模したお祭りが盛んである。
 染物は紺屋(こうや)と呼びならわされ、それぞれ得意な色染めに腕を磨いて、藍染め・紫染め・紅染め・茶染めが盛んだ。その中で一軒だけ黒染めを専業とするところがあった。
 まるで内側から黒光りするような鮮やかな艶は『甲斐黒』と呼ばれ、その染付は秘伝だ。実際には一度藍染めを下地にし、それから紅・黒染めをするらしい。
 そして更に工夫を重ねて紋付の家紋を染め抜きする技法を編み出した。
 主人は細面の眼光の鋭い顔立ちで、普段は物静かな男。そして20才くらい若い『お光』という美人の女房と二人で切り盛りしていた。実はお光の実家はここの出で、その昔秩父の方に奉公に出たことがあったという。
 苗字は『藤(ふじ)』と名乗っていたが、主人、藤逸(いつる)の背中に鮮やかな般若の刺青が入っていることを知る者はいない。屋号は『般若屋』といった。

 その後店は繁盛し、この家系は今日まで続いているが、三条の家訓を固く守っていた。

ひとつ まつりごとにかかわるな。おかみはいつもかってにころぶ。
ふたつ ぜいきんとりたてるがわにけっしてなるべからず。おかみにつかえるはもってのほか。
みっつ ばくちにふけるはみのもちくずし。にょしょくにおぼれるもしかり。さけはいくらのんでもよし。

おしまい

幕末甲州奇談 博徒編

幕末甲州奇談 横浜編

明治甲州奇談 秩父編


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藤の人々 (戦前編)

藤の人々 (昭和編)

藤の人々 (終戦編)

明治甲州奇談 秩父編

2017 AUG 29 18:18:13 pm by 西 牟呂雄

 一行が秩父盆地に入った途端、目に入る物が全てくすんだように風景が変わった。
「おい、こりゃひどいな」
 丈太郎は権蔵に言った。
 初めに足を踏み入れた集落で既に困窮の様子が見て取れたのだ。
 人が表に出ていない。声もしない。子供もいない。だれも農作業をしていない。たまに構えの大きい養蚕農家を見かけるが、いるのはせいぜいくたびれ果てた年寄りだけだ。
 とりあえず大宮郷(現秩父市の中心)に辿り着いたものの、あまりの侘しさに生糸の買い付けどころではなくなった。秋風が吹く頃だが寒々とした光景に三人とも成すすべがなかった。丈太郎は、あの血眼の奴なんかはこんなところから絞り上げてんのか、と気分を悪くした。
 地元には侠客としても名の知られた田代栄助がいる。代々庄屋を勤めた家系で人望が厚いという噂を寄居で仕込んでいたから、訪ねる事にした。その際は仁義を切るつもりはなかったので権蔵・地蔵の二人には賭場がある所を探せ、と置いていった。

 田代家には先客が来ていた。丈太郎とは年恰好も同じくらいの青年で髪の毛を綺麗に撫で付けていた。他に目つきの鋭い連れが一人。因みに丈太郎はご維新成った後も相変わらずの背中まで伸ばした長髪だった。
「失礼いたします。旅の者ですが」
「あなたは寄居に草鞋を脱いでいた丈太郎さんですね」
 田代が切り出したので驚いた。
「あっしを御存知だったんですか」
「私等も生糸で食ってましたからね。横浜の若尾さんのところにピストルを使う女形がいるのは知ってましたよ」
 なんだ、アノ手はもう使えねぇな、と舌打ちした。
「秩父は今年は生糸どころじゃありませんよ。ご覧になったでしょう」
「へぇ」
 相槌を打つしかなかった。
「地租改正このかた税金の納入やら手間も増えたところにその税金は上がる一方です。そこに生糸の暴落が止めを刺したんですな、どこもかしこも借金まみれになっちまって秩父にゃペンペン草も生えません。こちらはその賃借の仲裁をお願いしている代言人さんです」
 相客は菊池貫平と名乗ったがその連れは最後まで口を利かなかった。この時期弁護士のような仕事を生業とする者を代言人と言ったが、その社会的地位はまだ低く、同様にあやしげな振る舞いをする者も後を絶たなかった。無論司法試験など無い時代だ。菊池は丈太郎に向かい直すと語りだした。
「今の政府はなってない。西郷翁の西南の役があったにも関わらず藩閥政治は益々ひどくなりその腐敗は凄まじいものです。」
「お上ってのはそういうもんじゃねぇんですか。将軍様の時代の代官なんざみんなやってましたよ。こっちは今度の代官は酒・女・金のどれがお好みかを調べるのも稼業でしたが」
「いや、特に長州閥はそんな程度じゃありません。揃いも揃って汚職まみれで私腹を肥やすばかり、西郷先生はそれに嫌気がさして立ち上がったのです」
「ありゃまだ戦争し足りなくてやったんじゃねえんですか」
「西郷先生は義憤にかられた。残された板垣先生が同志と共に始めた自由民権運動が新生日本の唯一生きる道でしょう。つまりあなたの言うお上を我々が選ぶのですよ」

 突然外が騒がしくなって罵声が飛んだ。
「菊池先生ー!」
 男が飛び込んできた。
「あやしい輩がワシ等の寄り合いを探っていました。締め上げようとしたんですが、結構な腕で鉄砲で脅して連れて来ました」
 見に行くと権蔵と地蔵が縛り上げられている。
「何だ。お前らなんかしでかしたのか」
「兄貴。冗談じゃねぇズラ。賭場でも開いてないかと神社の境内を覗いたら大勢百姓が集ってて、オレッチの顔見たとたんに喧嘩が始まったラ」
「えっお身内なんですか」
「へぇ、二人ともあっしの舎弟です」
「おい、解いてやれ」
「丈太郎さん。こうなっては是非にも力を貸していただきたい。あなたが困民党に加わってくれればこんなに心強いことはない」
 菊池が言った。
 北関東では自由民権思想を掲げた自由党員が相次いで借金苦に喘ぐ農民を組織し、政府の弾圧を受けていたが、秩父では困民党を名乗り山林集会を何度か催した。
 すると菊池の扇動に強く影響を受けた一部から武装蜂起が提案された。その代表に推されたのが田代であり、菊池が参謀となったのだ。
 田代の肩書きは何と総理である。田代自身は暴力行為に否定的で、組織化はするが主たる目的は借金の帳簿の滅失や租税の軽減を時の政府に請願するつもりだった。
 ところが度重なる弾圧に当の自由党が解散してしまうと困民党は一気に過激化する。甲大隊・乙大隊、その下に各村の小隊長、また兵糧方・軍用金集方・弾薬方・小荷駄方と軍事組織が編成されたのである。凄まじい軍律も定められた。

第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬

 どこか新撰組の局中法度に似ているが、それもそのはず。これを作ったのは菊池の横にピタリと寄り添う男、相馬主計(とのも)、元新撰組の隊士だ。相馬は鳥羽伏見・甲陽鎮撫隊・彰義隊と転戦し、最後は函館新撰組で恭順する際の最後の局長を勤めた。
 維新後は新島に流されていたが、恩赦により放免され豊岡県(現在の埼玉西部)に出仕した。史実ではその後免官されて割腹自殺したことになっているが、秘かに困民党入りしていたのだった。

 蜂起すると瞬く間に秩父全域を制圧したが、高利貸を惨殺し役所に乗り込んで破戒活動をしたのはその相馬が率いるゲリラ小隊で、丈太郎達は行きがかり上そこに加わっていた。何しろ腕は立ったので重宝された。
 意気上がる困民党は新年号を発表する。
『自由自治元年』である。
 行きがかり上ドサクサまぎれに加わっただけの権蔵や地蔵までが調子に乗った。
「兄貴、これからは自由民権ズラ」
「お前等、その『自由民権』が何だか知ってんのか」
「お上をオレッチが入れ札するラ」
「だからお前らはバカだってんだ。入れ札をするにしても誰に入れる」
「兄貴にでも」
 丈太郎は苦笑した。
「あのなぁ。天下のご政道を決めるにゃそれなりの手続きがあるだろ。博打打ちのできることじゃねえ。大体オレ達みたいなのがそんなものに被れたらロクな事になんねえよ。勝蔵親分だって妙に『尊皇攘夷』を旗印にしたもんだから最後はああなった」
「そんなもんですか・・」
「上の方が滑った転んだ言っても所詮は旗印の奪い合いなんだよ。そろそろズラかる算段でもつけとかなきゃ危ねえぞ」

 一方政府の動きも早かった、早々に警官隊を向かわせる。
 だが小銃も持たない鎮圧部隊は盆地まで入れなかった。守りを固めた困民党軍は堅固な防衛戦を持ちこたえ、相馬が指揮するゲリラ小隊が背後を突くとあっけなく退いた。
 焦った政府は憲兵隊も投入するがこれも歯が立たない。
 それより、警官隊に交じって「血眼(ちなまこ)」の半纏を羽織ったヤクザ者が混じっていたので権蔵と地蔵が激高した。
「この野郎!頭に来たズラ。この勢いで寄居に攻め込んでやるラ!」
 相馬がこれに乗ってしまった。相馬は結局死に場所を求めていたのだ。

つづく

幕末甲州奇談 博徒編

幕末甲州奇談 横浜編

明治甲州奇談 逃避行編


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幕末甲州奇談 横浜編

2017 AUG 27 6:06:45 am by 西 牟呂雄

 アメリカ人のバイヤーは5人程の明らかにゴロつきのような日本人を従えてタバコを燻らしている。
「No!」
「ゴードンさんはダメだとおっしゃってる」
「ふざけんな!相場がどうだか知らねえが、オレッチは若尾幾造の使いで来たラ」
 若尾幾造は甲州財閥で知られた若尾逸平の弟で、横浜の生糸商売を任されていた。逸平は横浜で外国人相手に生糸・水晶の商売を行い、生糸輸出の投機で莫大な利益を得た。生糸産業は上州・甲州の冒険的投機商人が凄腕を振るい、明治日本の基幹産業となった。ただ、相場が荒っぽく動くので横浜の商売は命がけだった。
 丈太郎一味はそこに取り入って代金取立てに暗躍していた。
「うるせい!」
 いきなりバイヤーの脇にいた顔に刀傷のある男が畳にドンッとドスを突き立てた。アメリカ人はニタニタ笑っていた。これで決まりとタカを括ったのだ。
 ところが丈太郎側もこれぐらいではビクともしない。大兵肥満の権蔵を中心に、右が僧形の地蔵、左に娘姿に化けた丈太郎という構えだった。
バンッ!
 突然の炸裂音に一同がのけ反った。立ち上がった女形姿の丈太郎の手元から硝煙が上がっている。得意のピストルをブッ放し、弾は正確に突き立てられたドスを弾き飛ばした。
 身を起こした。丈太郎はピストルをアメリカ人の顔前に突き付け、向こうも持っているはずの火器を制したのである。
「ユー・ノウ・ディス・イズ・リボルバー。アイ・ハヴゥ・ファイヴ・モア・ブリッツ。フー・キャン・アライヴ?」
 どこで覚えたか、丈太郎の英語だ。
「どうしても持ち込んだ生糸を引き取ってもらい金は貰ってく。いやとは言わせねえ」
 そして娘装束を解いて諸肌脱ぎになって背中の彫り物を晒した。
「般若の丈太郎だ、文句あるか。地蔵!引導渡してやれ」

猿橋の地蔵

「ソーギョー・ムージョー・ハンニャー・ハラミター」
 元より信仰心のカケラもない偽坊主のデタラメな経文だが、動く者はもういなかった。
 帰り道に巨漢の権蔵がそっと聞いた。
「兄貴、般若の通り名はもう使わない方がいいズラ。堅気の商売のつもりがだいなしだし、有名になったら上がったりラ(甲州弁の語尾)」

 若尾逸平の事業欲は止めがない。兄弟分とも言うべき雨宮敬二郎・根津嘉一郎とともに鉄道事業に乗り出す。その後このグループは電力・ガスといった東京の基幹産業を次々と興し、血縁はないものの甲州地縁をバックにした『甲州財閥』と言われた。

 生糸の商いの方は維新後も新政府の輸出産業として急速に近代化・企業化が進みだした。即ち鉄火場的な半ば暴力的ボッタクリが影を潜めるようになる。
 丈太郎達は次第に疎んじられると同時に、例の風体と通り名が横浜で有名になってしまい、アメリカ人・イギリス人のバイヤーが敬遠しだした。若尾幾造は兄の命を受けて一味を秩父の生糸買い付けに行かせた。
 一方で、秩父エリアは英米系ではなくフランス系商人の牙城だったという裏の事情もある。要するに鉄砲玉として横浜から追っ払ったのである。
 一行は横浜から八王子を抜け飯能を通り武蔵の寄居に宿を取った。三峰参拝の門前町であると共に秩父方面との物産の集積地でもある宿場町だった。
 悪い癖で荷物を解くと近隣の博打場に行くのだが、調子に乗って『面白いから貸元(かしもと)に仁義を切りに行こう』となり、地回りのヤクザを物色した。
「軒下三寸借り受けまして、失礼さんにござんす。おひかえなすって!」
 先方の三下が目を丸くして引っ込んで、代わりにそれなりの貫禄の者が仁義を受けた。
「早速のお控えありがとうござんす。手前、生国と発しますところ花の八百八町はお江戸でござんす。お江戸といってもいささか広うござんす。お大名屋敷並びましたる山王様で産湯を使い、四谷木戸門出まして内藤新宿からはるばる甲斐路へ下り、甲州にて黒駒一家で修行重ねましたるお見かけ通りの若輩者、般若の丈太郎と申しやす。後ろに控えしは」
「生まれは甲州、犬目の権蔵でごいす」「同じく猿橋の地蔵」
「ご案内の通り『犬』『猿』と揃いまして『雉』の『鳥沢の源蔵』はご維新の戦(いくさ)で欠けましたるはご愛嬌。黒駒党の『桃太郎一家』でござんす。以後よろしゅうお見知りおきおたの申します」
 相手は呆気に取られながら『血眼(ちまなこ)の周五郎』と名乗ったが、ここの貸元本人であった。実に下品な顔つきをしている上に額に大きな傷があり、通り名の通り白目に血管が浮き出た凶悪な眼差しは不気味そのもの、丈太郎は一目で嫌悪感を覚えた。
「なぁ、血眼の貸元。ここいらの様子はどうなんだい」
「それがよ、さっぱりだ。今年になってから生糸の相場が下がりっぱなしでな」
 だからその生糸を安く仕入れにきたとは言えない。
「そりゃまた災難だな。賭場もそれで寂しい有様という訳か」
「全くダメだ。だが貧乏百姓から更に搾り取ってる奴らはいる」
「ほう、どういうカラクリだい」
「ここいらを見なよ。水回りの悪い場所はどこもかしこも桑畑だ。お蚕百姓も多い。ところが米だの何だのはみんな買わなきゃ食う事すらできゃしねえ。そいつらが皆翌年の生糸をカタに借金してるのよ。そこへ持って来て相場がこんなに下がっちまえば次の年にゃーもう首は回らねぇ。そこで俺たちの出番ってこった」
「すると渡世人のおめぇさんがたは賭場が立たなくても食えるって寸法かい」
「そうよ。有るもん根こそぎかっさらって来るのさ。あれ見な」
 顎をしゃくったその先には年の頃は干支が一回りした位の真っ黒な小娘がいた。
「あの子供がどうしたい」
「若い娘なんざ根こそぎかさらっちまったんでもうあんなのしか残ってねぇ。いきなり女衒にナシをつけても安めに買い叩かれるから暫く置いといて頃合を見るってこった。3年くらいかかるから生糸よりも割りが合わねぇ」
 丈太郎はウンザリした。博打を打って人も切るが、人買いはしたことがない。
 娘は着たきりのほったらかしにされているようで、真っ黒なのは薄汚れているかららしい。見ていると良く光る視線で見つめ返してきた。折檻されたのか、あちこち痣もあったが、その眼光は強く印象に残るものだった。
「おい、名前はなんてぇんだ」
「お光(ミツ)ズラ」
 甲州訛りがある。思わず笑ってしまうと、お光と名乗った娘も染みるような笑顔を見せたが、はばかるのか直ぐに表情を引き締めた。

 とにかく行ってみなければ話にならない。三人は秩父を目指した。

つづく

幕末甲州奇談 博徒編

明治甲州奇談 秩父編

明治甲州奇談 逃避行編


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幕末甲州奇談 博徒編

2017 AUG 23 8:08:05 am by 西 牟呂雄

「入ります」
 カラカラとサイコロを入れると盆の上に伏せる。
「丁」「半」「丁」「丁」「丁」
「半方(はんかた)ないか、半方ないか」
「半」
「揃いました。勝負!」
 そこに突然踏み込まれた。大勢が提灯を掲げてなだれ込んできたのだ。
「御用だ」「御用だ」「神妙にしろ!」「手向かいするな!」「勝蔵はどこだ」
「手入れだー」「逃げろ!」
 賭場に踏み込んできたのは石和代官配下の者で、狙いは一帯の大親分である黒駒の勝蔵率いる通称黒駒党である。
 所は甲斐の国鳴沢。勝蔵の本拠地である黒駒から御坂(みさか)峠を越えて下ったところの魔王天神社の境内である。この不気味な名前の神社は昭和初期に”徴兵逃れ”に効き目があるといわれて賑わったこともあるが、当時は全くの寒村の鄙びた神社に過ぎなかった。
 捕り手が踏み込んだ途端、天井が破れドサーッと灰神楽が降った。もうもうと立ち込める灰煙にその場の全員が鼻を押さえて咳き込んだ。誰が誰だか分からない喧騒の中に突如火の手が上がる。人が次々飛び出して捕縛の指揮を執る納戸組頭の前に転がった。
「ええい!しっかりせい。勝蔵はどうした」
 すると参道の石段を登りきったあたりから凛とした声が響いた。
「勝蔵親分はもうここにいない」
 目をこらすと、一条の光を浴びたような白い影が見えた。
「おまっちは誰ズラ」
「オレか。黒駒一家、勝蔵四天王のうち”般若の丈太郎”だ。捕らえられるなら捕らえてみやがれ」
 ヒラリと身を交わすと石段を駆け下って闇に消えた。同心が咳き込みつつも後を追うと、脱ぎ捨てられた白い羽織が落ちている。拾い上ると一同息を飲んだ。背中に見事な般若の刺繍が縫い付けてあったのだ。

 甲斐の国は甲府の国中で15万石、甲斐一国で25万石と米の石高こそ大したものではないが養蚕と絹織物が盛んで、その物流の集積やら織物・染色が発達し、金山まであったため、幕府は直轄領として代官を派遣していた。
 甲府には城もありそれなりの統制が効いたがその他地域ではそれぞれの地域のボスとも言うべき庄屋・豪商に牛耳られた一種の自治区である。例えば都留郡の谷村陣屋に武士はたったの六人で、生涯に一度も侍を見たこともない百姓は多かった。
 従って無宿人の博徒と言われる者は比較的密度高く存在し、その抗争も激しい。
 特に富士川の水運に係る利権を巡って駿河のヤクザとは対立が根深く、それが慶応年間の清水の次郎長と黒駒の勝蔵の大出入りになっていく。
 既に富士川で揉み合い、その後勝蔵は次郎長の放った刺客に襲撃もされるなど何かと血なまぐさいことがしょっちゅうなのだ。

 黒駒党はあらかじめ決めてあった集合場所で明け方に落ち合っていた。十里以上離れた甲州谷村の村はずれにあった八幡神社である。清流桂川のほとりにあった。
「丈太郎。まったくおみゃーの逃げ足にゃ驚くズラ。神出鬼没っちゃーおみゃーのこんだ」
「親分。あの与力・同心には普段からたんまり掴ませてますからね。知らぬは代官ばかりなり、でさぁ」
 綺麗な江戸弁を使う般若の丈太郎はあまり生い立ちを語らないが、江戸の食い詰め旗本の三男あたりが出奔して悪事に手を染めたらしい。髷は結わずにゾロりと伸ばして普段は束ねもしていない。背中にはその名の通りおどろおどろしい般若の彫り物を背負っている。
 勝蔵四天王とは他に相撲取りのような肥大漢である”犬目の(犬目は地名で旧甲州街道の宿場町)権蔵”、小兵であるがやたらとすばしっこく喧嘩には滅法強い”鳥沢(同じく甲州の地名)の源蔵”、そして坊主崩れのヤクザ”猿橋の地蔵”の三人。皆、蔵が付くことから『黒駒の三蔵』と呼ばれていた。
「このまんまじゃいかにもマジーら(まずいよ)。おれっちはずらかるから丈太郎後を頼む」
「へぇ」
 実は勝蔵は不思議な教養を身に着けていて熱烈な尊王攘夷主義者で有名。
 又、義侠心に富んだ人物でもあり、百姓達には好かれている。山籠もりをしていると近隣の者どもが食べ物くらいはいくらでも持ってくるのだった。天領であることもあって『どうせお上に搾り上げられるくらいなら』という理屈らしい。

般若の丈太郎

 丈太郎は変装の名人で、特に女装は見事なもの。手筈としては女に化けた丈太郎が甲府に潜入し『勝蔵が浪士を糾合して甲府城を奪取する』という噂をバラ蒔き、勝蔵達はその風聞が流れているうちに行方をくらますという段取りである。
 代官側は見事に引っ掛かかった。

 木曽の兄弟分の所に転がり込んで暫く潜伏しておとなしくしていたが、伊勢の縄張り争いに清水の次郎長が大政・小政を引き連れて乗り込むという話を耳にすると、勝蔵はもうじっとしていられなくなった。後から合流した丈太郎はあきれかえってたしなめた。
「親分。せっかくうまく逃げて来たのに面を晒すのはどうなんですかね」
「馬鹿野郎!あの次郎長を潰す。兄弟分の吉良の仁吉に頼まれたんだろうが、あいつがデカい面するのは我慢できねーズラ。権蔵も源蔵も地蔵もやる気だ」
「オウッ。次郎長を叩っ切るでごいす」「決着つけるズラ。般若の兄貴」
「何も伊勢くんだりまで喧嘩に行くこともねえでしょうが。親分の好きな尊王攘夷もできなくなりますぜ」
「やかましい!丈太郎!」
 結局、後に講談で有名になる”荒神山の大出入”となったのだ。
 ところが結果は倍以上の人数を集めたにもかかわらず統制を欠き、次郎長に名を成さしめてしまった。勝蔵は負けてすっかりしょげかえった。
「丈太郎。おみゃーの言う通りだった。おれっちはもう堅気になる」
「はぁ、今更戻れっこないでしょう。博打打たずにどうやって食ってくんですか」
「岐阜の水野の兄弟が口を利いてくれる。尊王攘夷の諸隊が隊員を募集してるそうだからそこに入れてもらう」
「親分。いくら尊王攘夷の志士を気取っても博打打ちですよ、冗談じゃねえ」
「ケッ、尊王攘夷のおかげでオラッチを追い回してる与力・同心を蹴散らせるんだ。おもしれーズラ」
 そして子分どもを引き連れて、相楽総三の赤報隊に本当に入隊してしまった、一人丈太郎を除いて。

 時代は激しく動いた。
 尊王攘夷の『攘夷』はいつのまにかどこかに行ってしまい、大政奉還によって『討幕』も大義名分を失う。
 水戸天狗党の流れを組む赤報隊は東山道鎮撫の先駆けとして東進したが、結局薩長にいいように使われた挙句、新政府に認められず下諏訪で隊長の相楽総三が捕縛され壊滅する。
 訳が分からなくなった勝蔵一派は京都で新たに組織された公家である四条隆謌の徴兵七番隊に参加し、戊辰戦争を東北地方で転戦することとなった。
 無論本格的な洋式訓練など受けていないため、正面切っての突撃には使い物にならないが、裏へ回っての白兵ゲリラ戦では”出入り”の要領の切り込みで結構重宝されていた。官軍として二本松を抜き、仙台まで進出した。
 ところが、その時の官軍総指揮官は、後年長州のダニと言われた世良修三である。おかげで最悪の結果を招く。
 世良は人面獣心がピッタリ当てはまる下品な酒乱で、行く先々において略奪はする娘を狩り出すの狼藉振りだった。維新の官軍といっても底の方はこんなもので真っ当な革命と言えるような代物ではない。単純な尊皇攘夷主義者の勝蔵は、初めのうちは尻馬に乗って暴れたが次第に嫌になりとうとう脱走する。このことが後に命取りになった。戊辰戦争後の兵制改革で徴兵七番隊は解散になるが、脱走後甲府にいた勝蔵は脱退容疑で捕縛され、あっけなく処刑されてしまったのだった。
 尚、世良修三は仙台でのあまりの非道ぶりに怒った伊達藩士に惨殺されている。

「般若の兄貴!」
「バカッ、その名前で呼ぶんじゃねぇ」
 声を掛けたのは犬目の権蔵。赤報隊から遊撃隊まで付き合ったものの、勝蔵と一緒に脱走したのだが、その勝蔵が捕縛・処刑されてしまったので、彷徨った挙句に甲府城下をウロついていたのだ。
「親分はとっ捕まってやられたそうだな。鳥沢や猿橋はどうしたんだ」
「源蔵は二本松あたりで弾にあたってウッチンダ(死んだ、の意味)。地蔵はオレッチについて来て。兄貴は何してるズラ」
「オレか。ちょっと来い」
 しばらく歩いて川原に降りて行くとあたりを見計らって懐から何かを取り出した。そして川に向けた。
 バン!という音がこだまして権蔵は「うわっ」と大声を上げて尻もちをついた。
「兄貴、何ですか!びっくりしたズラ」
「わはは、たまげたか。これからは切った張ったじゃねぇ。こいつの時代だよ」
「何ズラ。その花火の化け物は」
「”ぴすとる”だ。これからはこれと生糸だぜ。よしヒマならついて来い。若尾の大将に会わせてやる」
 若尾逸平。雨宮敬次郎・根須嘉一郎と共に甲州財閥の一角をなす風雲児である。

つづく

七条油小路


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幕末甲州奇談 横浜編

明治甲州奇談 秩父編

明治甲州奇談 逃避行編

捨てがまり戦法

2017 JUL 24 20:20:05 pm by 西 牟呂雄

 島津四兄弟の末っ子、家久の息子である豊久は墨俣の陣で何故か孤立してしまった。西軍先鋒を務めるべく一隊を率いて突出してしまったのだ。これは薩摩軍の悪いところで、ずば抜けた破壊力で敵を蹴散らし休まない。鉄砲を撃ちかけ槍襖で突進し終いには将卒まで馬を降り、抜刀し切り込むのである。その間総員走りっぱなしなのだ。このような戦法は他家にはない。陣を構えその周りは母衣武者が固め、先ずは弓・鉄砲を放ち、その後騎乗の大将が騎馬隊と共に進む。
 西軍石田隊・宇喜多隊がいかに精強といえども勝手に駆け出してしまった島津隊に追いつく事など初めから無理なのだ。
 豊久が一息入れた時点では、当初の作戦通り石田隊も宇喜多隊も島津隊を見失い大垣方面に退いてしまっていた。
「こいはしたり、おい達ァはぐれとっど!」
「豊久殿、御味方いずこにごわす」
「いかん、もどせー!囲まるっどー」
 一人馬上にて指揮を執っていた豊久は即座に反転を決めたが、数倍の敵の真っ只中だった。退路を断たれた格好になると形勢はたちまち逆転する。
「固め!固め!殿を守るっとじゃ!」
「阿呆!オイの周りに固まるな!動けー」
 ところがつい先刻まで猛烈な切り込みをかけられたため東軍の足軽は容易に攻め懸けられない。一種の膠着状態に陥ったまま、豊久は軍を返した。

「援軍出さんと!ないごて!上方の腑抜け侍どもが」
 西軍にあった島津の次男、義弘は怒鳴った。先鋒隊が帰陣するのを見て素早く甥にあたる豊久の孤立を察知した義弘は救援に向かうと意見具申したところこれを石田三成に退けられて怒り狂ったのだ。
 配下はたったの三百人程度。単独行動は自殺行為であることは誰もが分かっていたが、長老格の長寿院盛淳が低い声で答えるのみだった。
「行きもんそ」

「殿。持ち応えられもはん。逃げてたもんせ、オイ達が捨てがまりごわす」
 第何波目かの攻撃を辛くもしのいだ豊久はやっと馬上に戻り前を見据えて言った。
「早か。おんしにはあん旗が見えんか」
 彼方から敵の包囲網を割って迫ってくるのは丸に十字の島津紋である。双方合わせて鬨の声を挙げた。

 そして天下分け目の関が原となる。
 戦端が開かれた後、紆余曲折を経て昼過ぎには西軍が総崩れとなった。
思うところあって寡兵の島津軍は戦闘を見守るだけであったが、義弘は頃合や良しと戦場の離脱を決める。
 実は切腹して果てようと一度は決意したところ豊久に叱咤激励された。
「義弘公は必ず帰らんな。薩摩の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」
 最初から寝返りなど島津にあり得ない。敵中突破あるのみである。
「豊久。どっちィ飛ぶかのぅ」
 豊久は佐土原藩主であり、元服前から大変な美少年として知られている。戦構えも凛々しく強烈な眼光を放っていた。
「伯父上、薩摩ンゆっさ(いくさのこと)でごあんど。ご覧あれ、敵大将の陣ばそこい見えてもんそ。あいがよか」
 笑みを含んでこう言うと、周りの将卒達はドッと声を挙げて笑った。無論義弘もである。
「そいじゃゆこかい」
「オウッ!」
 敵大将と豊久が言ったのは東軍総大将家康のことである。薩摩軍は押してきた家康軍とはもう指呼の距離になっており、精鋭井伊直政、猛将福島正則の部隊が迫ってきていた。そのドテッ腹を切り取るように突っ込んだのだ。
 先陣を切る副将格の豊久が駆け込んでくる。さすがに面食らった福島隊は数段の構えを抜かれ、家康本陣をかすめられた。
 そうはさせじと福島正則が豊久と死闘を演じているあいだに、井伊直政・本多忠勝・松平忠吉といった幕僚部隊が追って来る。薩摩兵もバタバタ討ち取られた。
「伯父上。必ずかごんま(鹿児島)に行き着いてたもんせ。オイは捨てがまりをやいもす」
「なんとぉ!豊久、早まんな!」
 捨てがまりとは数名の鉄砲足軽を従えた将卒が初めから命を捨てて敵を食い止め、その間に本体が進むことを繰り返す十死零生の消耗戦である。
 薩摩軍は家康本隊からの圧力をかわす様に伊勢街道にひた走った。
 先陣だった豊久は今や殿(しんがり)となって次々に捨てがまりを指名する。捨てがまりは初めから命のない物と覚悟しているので全員下馬し、元より弾込めの時間などないから足軽は一発撃つのみで、たちまち白兵戦に巻き込まれて磨り潰されるように瞬く間に全滅する。
 重臣長寿院盛淳も膾のようにズタズタに切られて戦死。徳川方も井伊直政は深手を負って脱落。
 みるみるやせ細る薩摩軍が残り百人を切った頃、豊久は駆けに駆けてきた手勢を止め、寄せ来る敵に対峙した。
「おはんら。こいが最後の捨てがまりごあんど」
 中村源助・上原貞右衛門以下13人が何故かにっこりと笑った。源助が言う。
「こいだけいっぺんにならば賑やかでごわっそ」
「オオウッ」
「薩摩ん武士の意地、見せもんそ」
 迫ってくる方ももはや火縄に弾を込める暇などない。足軽は槍を抱えて突進して来る。
 薩摩隼人とは誠に不思議な気質で、ここまで来ると悲壮感などは微塵もない。むしろ明るいのであった。
 抜刀した豊久は示現流のトンボの構えを取ると一直線に敵に切り込んで行き、他の者も誰が声を掛けるでもないのに一斉にこれに続いた。槍をかわし一人をぶった切るとしばらくは突っかかってくる者はおらず川の流れが止まったかの如くであった。

 結局薩摩に辿り着いたのは僅かに80人だと伝わっている。
 猛将島津豊久を仕留めたのは二代将軍秀忠の弟(同母)の松平忠吉とされた。後に二代将軍を決める際に結城秀康とともに候補にもあがった剛の者であった。

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島津征伐

国松公異聞 大阪落城

国松公 異聞 宮本武蔵

国松公 異聞 求厭(ぐえん)上人

本能寺の変 以後

七条油小路

2017 JUN 14 20:20:54 pm by 西 牟呂雄

「ふざけやがって!」
局長近藤勇がドスの聞いた声を絞り出した。
 新撰組から分派した御陵衛士が長州藩に対し寛大な処分を、と建白したというのだ。
「歳、どうすんだ」
 傍らにいる土方に向かって聞く。
「どうするもこうするもねえ。あんたはいつもそれだ。決まってんだろ、殺る」
「どうやって」
「いいから何とか理屈をつけて伊東を呼び出してくれ。北辰一刀流は理屈が好きだからな。全く藤堂まで」
 藤堂とは試衛館以来の盟友、藤堂平助である。元々は千葉周作の玄武館で剣を学んだ後、試衛館の師範代になった。隊士募集の際に北辰一刀流門下で面識のあった伊東甲子太郎を紹介したのも藤堂だった。
 しかし伊東が門弟を引き連れて入隊すると、当初の同志である天然理心流一派より伊東の言説に共鳴し、とうとう御陵衛士に合流してしまった。理由はやたらに人を切りたがる近藤一派の野蛮さに辟易したからだ。
 伊勢津藩主藤堂高猷公の落とし胤、とホラを吹いていたが貧乏旗本の三男である。
 剣は、強い。

 近藤は早速妾宅で酒宴を催し、したたかに飲ませた伊東を待ち伏せした大石鍬次郎の槍で突き殺した。土方の下知だ。
 土方は伊東の死体を検分すると目を閉じたまま言った。
「こいつを油小路に捨ててこい。それで山崎、配下の連中を高台寺のあたりにやって伊東がやられたと言い振らせ」
 監察、山崎丞(すすむ)は頷くと姿を消す。土方は幹部を前に更に指示する。
「永倉、原田、隊士を連れて待ち伏せして皆殺しにしてやれ。島田と大石、お前等も行け」
 名前を呼ばれた永倉新八は眉をひそめて土方に言った。
「副長。平助が来たらどうします」
「何だそれは。お前が敗けるとでも言うのか」
「いや。ただ」
「ただ、何だ。切られてくるか。迷うようなら局長にでも聞け」
「副長は行くのですか」
「馬鹿野郎!御陵衛士の5~6匹殺るのにいちいちオレが行けるかよ」
 土方さんらしい、と永倉は原田左之助に目くばせして屯所に向かった。あの人は本音が言えない、山南の時も沖田に行かせた。
 すると物陰から一人の男が前に進み静かに進言した。
「拙者も参ります」
 土方はさすがに驚いた表情になった。
「斎藤か。貴様は平気なのか」
 斎藤一。新撰組屈指の使い手である。秘かに言い含めて御陵衛士に潜り込ませたのは土方だ。建白の秘密情報を持ち込んだのも斉藤なのだ。
「今更どうしました。服部武雄・毛内有之助もかなりの遣い手。まさかの時は・・」
「ケリをつけたいのか。勝手にしやがれ」

 果たして高台寺の伊東一派は激高した。藤堂平助は体が震えた。また例の手を使ったか。だから罠だと言っただろうに。おのれあの百姓上がりども、それでも武士のつもりか。
 紅顔の美少年と言われた平助の眉間から頬のかけて池田屋の時に負った向う傷が凄味を帯びていた。
「きたない奴らめ」「しかも遺骸を路上にさらし者にしているとは許しがたい」「とにかく伊東先生の御遺体を」「おうっ」「おうっ!」「行くぞ!」
 立上がる中、一人服部武雄が声を掛けたが。
「御一同。相手は新撰組ですぞ。必ず切りあいになりましょうぞ」
 服部が鉢金を巻いて支度をする間に他の六人はその声を無視して飛び出して行った後だった。

 息せき切って御陵衛士七人が油小路にやってきて伊東の遺骸を見つけた途端、いきなりジャラジャラと音を立てて抜刀した新撰組に包囲された。こういう時に新撰組は誰も口を利かない。御陵衛士側も直ぐに刀を抜いた。藤堂が一歩進んで低く呟いた。
「やはりな」
 切っ先を上下させながら歩を進めると、囲みの中から一人の隊士が対峙した。その顔を見て藤堂の表情が引きつる。永倉新八である。長い付き合いの永倉を向けるとは、しかも近藤も土方も沖田も、天然理心流は高みの見物か。おのれ。
 永倉もすぐには切り掛かれない。互いに手の内を知り尽くしているのだ。藤堂の眉間の切り傷をみて、永倉はフト思った。
 この怪我以来こやつの心根が変わったのではないか。しかし切らねばやられる。
 永倉はツツッと体を交わす素振りをした。平助、逃げろ、とは思わなかったか否か(近藤がそう意を含んだと後に永倉は維新後証言している)。
 刹那、背後に回った三浦常三郎が切り掛かった。『むぅ!』と藤堂が声を上げると取り囲んだ隊士が一斉に刃を振り下ろし、藤堂は即死した。
 その刀音が合図になったかのように、まず御陵衛士、富山弥兵衛が示現流のトンボの構えから「チェーストー!」と裂ぱくの気合を発して囲みに突っ込む。富山は薩摩の出身で、入隊の時点から間者の疑いを掛けられていたが伊東が斡旋していた。
 必殺の切り込みに新撰組も一呼吸置かざるをえなかった。二人ほど太刀を払いかけるが富山もこれを膝を折るように刀を振り下ろして叩き落す。三人が後に続いて血路を開いた。篠原泰之進・鈴木三樹三郎・加納道之助である。
 しかし二人遅れた。いや居残ったのかも知れない、後に引けずに。
 毛内有之助は武芸十八般何でもござれの達人で、更には和漢の経典を講ずる文学師範や諸士調役兼監察までこなし「毛内の百人芸」と言われた。切りかかってくる新撰組の攻撃をかわしにかわし、遂に大刀が刃こぼれすると小太刀を振るって奮戦するも多勢に無勢。原田左之助の槍の餌食となった。
 服部武雄は毛内と同じく諸士調役兼監察を勤めた。並外れた体格と怪力で二刀流の剛剣を遣う。塀を背にして半円形に取り囲む隊士を全く寄せ付けなかったが、半時ほどの戦闘に力尽き猛烈な切り込みを受けて死ぬ。
 二人とも遺体はズタズタに切られていたのだった。

 土方は幹部の多くが妾宅を構えるなか、相変わらず屯所の離れで過ごしていた。
 この晩は寝付けなかったので居室から障子を開けて屯所に戻ろうとしてギョッとした。体調を崩して臥せっていた沖田が厠に立つところだった。胸を患い顔色は悪い。黒目がちの光る眼がこちらを見ていた。
「土方さん。きょう藤堂さん達をやりましたね」
「なにィ」
「さっき永倉さんが局長の所に来てましたよ」
「それがどうした」
「いや。僕も元気だったら行けたなって思って」
「総司・・・・」
「え、何のことですか」
「いいからさっさともう寝ろ!」
「はいはい」
 屯所への渡り廊下から青白い満月が照らしている。今日一日で一体天下の何が変わったと言えるのか。土方は無言で仰ぎ見た。そして二尺八寸の愛刀・和泉守兼定を抜き、月光にかざして見つめた。
 

幕末の八郎

新撰組外伝 公家装束 Ⅰ

新撰組外伝 公家装束 Ⅱ

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幕末の八郎

わかったぞ弓削道鏡 

2017 JUN 3 17:17:16 pm by 西 牟呂雄

 まァ詮索も何も孝謙天皇と弓削道鏡が強い信頼関係にあったことは事実である。
 そして禁断の天武天皇系は孝謙天皇(後の称徳天皇)を持って終わることは以前書いた。天智系と天武系の睨みあいが先ず縦軸にあって、更に藤原仲麻呂と橘諸兄の対立が横軸で重なる。不幸な事に天然痘の流行で藤原四兄弟がいっぺんに死んでしまってから俄然おかしくなったことに気が付いた。
 権力争いでナントカの乱がしょっちゅう起こって実に複雑だが、勝ち抜きトーナメントのように潰しあっている間に道鏡は天皇の寵愛を受け、重祚して称徳(しょうとく)天皇となられた頃は現在の平城京跡あたりにあった西宮(さいぐう)で一緒に政務を暮らしていた。
 
 弓削氏はご案内の通り河内がフランチャイズの一族で、何やら”弓”を作っていたとか。モノの本によるとかの物部氏の流れとも言われる。
 当時唐から来日した鑑真和上が仏教界にあって道鏡の現役時代と重なっている。また失脚後に流れた下野薬師寺は鑑真和上ゆかりの寺であり、ひょっとすると漢語・サンスクリット語で二人が会話したのではないか等と想像をたくましくしている。少なくとも当時最高のエリートだったはずだ。
 で、話は変わって今まで知らなかったが、道鏡には弓削浄人という弟がいて大納言・従二位にまで出世している、勿論コネだ。
 こいつが大宰帥(だざいのそつ)という九州長官に任じられた。あの菅原道真が飛ばされてなったのが大宰権帥(だざいごんのそつ)という副官だから、それより偉い。因みにこの職名は名前だけ幕末まで残り、最後の大宰帥はあの官軍・東征大総督だった有栖川熾仁親王だ。
 したがって宇佐八幡の神託なんぞ思いのままで、やりたい放題の挙句が兄貴を皇位に就けろというインチキに至ったのだろう。当然のごとく称徳天皇崩御の後は流罪。

 気の毒にそのインチキはさすがに評判が悪く、再度神託を請う勅使に任じられたのは天皇側近の女官だった”広虫”という人なのだが、病弱だと言って弟の和気清麻呂を行かせる。想像するにこの時に密かに『道鏡が弟をそそのかしたのだから反対の神託を持ってこい』と含んだのではなかろうか、と仮説を見立ててみた。
 結果は当然バツ。すると天皇は怒ってしまい広虫は還俗させられ備後国へ、清麻呂に至っては名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられ大隅国に流される。『きたなまろ』!なんという気持ち悪い音だろう。
 僕は小倉にいたことがあるが、足立山という所に御祖神社(妙見社)という神社があった。そこの縁起によれば清麻呂が流される際に足の筋を切られたのだが、小倉の南辺りの温湯で足が直り歩けるようになったという伝説がある。”湯川”という地名が残っていてその辺りの歯医者に通っていたので知った。
 別バージョンもあって、途中もう一度宇佐八幡に参ったところ猪三百頭余が現れ清麻呂を支えたのでゆっくりと歩いて行った、というのもあった。
 僕は小倉時代に宇佐神宮に行ってその伝説を実感した。

小倉記 春風駘蕩編


 清麻呂が”きたなまろ”にされてそんな目にあっていた頃、天皇と道鏡は弓削寺(由義寺)で仲良く暮らしましたとさ。
 そこは場所が分からなかったのだが、八尾市の東弓削遺跡のあたりで遺構と思しき跡が発掘された。平城京の西宮と同格クラスらしい。今年になって七重塔跡と見られる一辺20mの塔基壇が発見されている。

 いずれにせよ天武系がオジャンになり男系が守られたことになるのだが、その遥か後年の今日では皇統の問題は解決されていない。退位の方向で議論が進むが、この問題はまさか投票で決めるわけにはいかない。
 学者だ有識者だで議論すべきことなのかも正直分からない。
 そんなときこそ秘かに陛下の御意向を聞くことはできないものか、忖度などという非礼ではなく。

本当かよ 承久の乱

わかったぞ南北朝 


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わかったぞ南北朝 

2017 MAY 17 18:18:52 pm by 西 牟呂雄

 魔人後醍醐天皇と太平記に登場するダーク・ヒーローが面白くてしばしばブログのネタにしてきた。しかし”南北朝”と称されるようになったのは遥か後年になってかららしい。
 鎌倉時代の大覚寺統と持明院統の両統迭立とは天皇家が二つあるようなもので、皇位継承は鎌倉幕府の仲介により成り立っていた。
 それが建武の中興で堰を切ったように大混乱が始まり、本当に日本中が北朝方を名乗ったり平気で南朝に寝返ったりして戦乱に明け暮れる。後醍醐天皇と尊氏はくっついたりはなれたり、足利尊氏・直義兄弟も反目し、化け物高師直の奇怪な振る舞い、バサラ大名佐々木如道誉の狼藉、と面白い題材がこの時代テンコ盛りなのだ。
 あまり注目されないが、最後の執権・北条高時の一子、時行が信濃潜伏の後に挙兵し、鎌倉になだれ込んで足利直義を追っ払い20日ほど占領して見せた事績なども大そう魅力的だ。
 それにしても、どうしてこうアッケラカンと裏切りが横行するのか。
 おまけにどこから湧いてくるのか、俗に悪党と言われる連中は何なのか。その悪党の親玉の一人、楠正成とその一族は踏まれても死んでも後醍醐天皇に忠誠を誓うのも不自然に思える。
 司馬史観で読み解いた場合は、宋で流行った大義名分大好きの朱子学が宋学として日本に入り、楠木正成等の忠臣を輩出したことになっている。教科書的には鎌倉御家人体制は、後期になると分割相続と元寇による疲弊で没落し社会が不安定になってくる、と教えている。
 それで鎌倉に突撃した新田義貞とかはこのドサクサに乗って一勝負、とばかりにやったわけだ。しかし担いだ後醍醐天皇は一筋縄ではいかない御仁。武士に対する恩賞なんぞ眼中に無く、それどころか犬コロを扱うような態度だったと思われる。勢いがついてしまってもはや無理なのに大昔の『公地公民制度』まで頭がぶっとんでしまう。
 挙句の果てに造反されて三種の神器を取られ、尊氏の後見の下光明天皇が即位するとこれを無視。奈良の吉野で南朝を開くに至った。
 その後の複雑怪奇さはとうていドラマ化するのは不可能で、大河ドラマがチャレンジしたがダメだった。
 北朝・南朝の騒乱が日本中に広がる。そもそも尊氏の弟直義と高師直が内部対立して内紛になり、事もあろうに直義は南朝に帰順。スッタモンダの末に一時は尊氏でさえ南朝につくとかグチャグチャだ。 
 鎌倉幕府そのものが、言ってみれば二重政権で畿内を中心に帝や貴族の荘園・寺社領はゆるく存続していた。それが『オレは今日から南朝につく』と宣言すれば武力に物を言わせてブン取り放題になる。
 わかったぞ!
 分割相続であぶれて山賊・海賊・悪党となって暴れていたクチに『南朝』のお墨付きができてしまったのだ。下剋上どころではない。
 その悪党の代表格がやられてもやられても一族を上げて南朝について戦った楠一族だが、これなど初めから失う物がないから裏切るも何もなかったんじゃなかろうか。
 ただ南朝は言葉をきちんと残した。北畠親房が『神皇正統記』で南朝の正当性を書き物として残し、はるか後年に水戸光圀がこれに被れて大日本史で認め今日に至っている。

 話は変わるが僕の母方の遠縁に、岸和田の和田一族がある。伝承では楠の流れで一族が受け継いだ楠の巨木を守り伝えている。長屋門を構え、堀が残っている大邸宅に今も住んでいて、僕もその巨木を見たことがある。驚いたことに注連縄が巻いてあって毎年宮内庁から送られてくるとか、和田家の人は『宮様から』と言っていた。
 やはり南朝正統論は健在なのだ。
 南朝の系統は結局次々に暗殺されてしまうのだが、名前がおどろおどろしい。直親王家以外の天皇の孫はナニナニ王となる。南朝後亀山の弟・護聖院宮(ごしょういんのみや)家の孫は通蔵主(つうぞうす)・金蔵主(こんぞうす)という異様な名前の兄弟で、その金蔵主の息子達は尊秀王(たかひでおう自天王ともいう)・忠義王(ただよしおう)兄弟となり、このあたりでかなりあやしくなる。
 応仁の乱にはこの系統から小倉宮の末裔としての西陣南帝という南朝の天皇が突如現れた。戦後にあまた出た自称天皇の中でもっとも有名だった「熊沢天皇」こと熊沢寛道はこの系統だと主張した。この西陣南帝はしまいにはおっ放り出されて美作の国あたりまで落ち延びたと言われ、南朝の末裔と噂された大室氏に連なるという都市伝説を生む。
 他に南朝第三代長慶天皇の流れを組む玉川宮家というのがあって、第六代足利将軍義教の時代まで記録に残っている。玉川宮は必死に室町幕府の公家社会に溶け込もうとして京都にいた。かなりいい感じだったが義教の南朝根絶政策で相国寺にいた梵勝・梵仲という兄弟が消息を絶つ.出奔したというのだが暗殺だろう。
 しかしどこかに正真正銘の子孫がいないとも限らない。
 その家系の隠れ皇子様が独身の秋篠宮家・三笠宮家・高円宮家の内親王様方と恋に落ちたら皇統維持の問題が一気に解決しないか。
 
 等と畏れ多いことを夢想していたら秋篠宮眞子様が婚約した。おめでとう御座います。お相手は南朝の気はなさそうだけど。

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

わかったぞ弓削道鏡 

本当かよ 承久の乱


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